2020年09月06日

最初の質問 詩・長田弘(おさだ・ひろし) 絵・いせひでこ

最初の質問 詩・長田弘(おさだ・ひろし) 絵・いせひでこ 講談社

 絵本ですが、「詩」の絵本です。本のカバーには、「講談社の創作絵本」と小さく表示があります。
 とにかく、絵がきれいです。
 透きとおる美しさがあります。
 孤高(ひとりぼっちだけれどさびしくない)の鋭さがあります。
 三歳ぐらいに見えるちいさな女の子は、未知の世界をこれから知ろうとしています。
 「本当のこと」を知ろう。この世は、嘘ばかりだから。
 まずは、「生きていること」が大切です。
 死んじゃいけない。じぶんは、長生きするんだって、自分に言い聞かせることが大切です。
 グリーン、ブルー、ホワイト、どのページも光り輝いています。
 生命の悦び(よろこび。じぶんの中からわきあがってくるよろこび)に満ちています。生きているという悦びです。
 大きな木の下にいるぼくちゃんへ。どうか、「泣かないで」
 きっといいこともある。
 おとなになるにつれて、忘れていく自然とのかかわり合いがあります。川や、鳥や、水のこと。
 作者は読者に問います。「あなたと、あなたのまわりにあるものは、何ですか」と。
 人間が成長するにつれて忘れがちになっていくものにストップをかけて、人間性を回復させていく絵本です。
 哲学書を読むようです。
 個々の人生をはかるモノサシは存在しない。
 作者からは、「あなたが、あなた自身で決着をつけるのです」と言われました。
 言葉を信じなさいというメッセージがありました。言葉は、「愛」だったり、「夢」だったり、「希望」だったり、「平和であること」であったりするのでしょう。それとも、言葉以上のものがなにかあるから気づきなさいという教えでしょうか。もしかしたらそうかもしれません。最後のページのことは、いくら時間があっても答えを出せそうにありません。これを書いてくださった詩人は、2015年に永眠されています。75歳でした。もうおたずねすることもできません。  

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2020年09月05日

悲しみよこんにちは フランソワーズ・サガン

悲しみよこんにちは フランソワーズ・サガン 新潮文庫

 先日読んだ田辺聖子作「ジョゼと虎と魚」で、主人公の日本人車いす障害者女性が、サガンの作品の登場人物の名前からとって、自分のことを「ジョゼ」と言い始めるというところを読みました。自宅の本箱を整理していたら、この文庫本が出てきたので、サガンに縁を感じて読み始めました。
 ジョゼは出てきませんが、セシルというもうすぐ18歳になるフランス人少女が出てきます。1954年に発表された作品です。当時フランソワーズ・サガンは18歳です。
 いつものように読みながら感想を継ぎ足していきます。

 舞台となる場所として、
 フランス南部地中海に面した高級リゾート地。コートダジュールとか、ニース、モナコ、カンヌとかの街があるところです。フランス人であるセシルの関係者三人が別荘へ保養に来ている。2か月間滞在する。ファミリーはふだんはパリで暮らしいるようです。リッチなファミリーに見えます。

 登場人物として、
セシル:主人公の少女。もうすぐ18歳。若い男は苦手。年上の男性が好き。やせっぽち。
レイモン:セシルの父親。40歳。妻を病気で亡くして15年が経過した。プレイボーイ。遊び人。友人と会社を共同経営している。
エルザ・マッケンブール:レイモンの恋人。背が高くて赤い髪の毛。かわいい人。29歳
アンヌ・ラルセン:セシルの亡母の旧友。セシルが信頼している人。レイモンのもうひとりのガールフレンド。42歳。理知的でプライドが高い。
シリル:これからセシルの恋人になるのであろう法律を専攻している男子大学生。背が高い。美しい。情熱的。ラテン系の顔立ちで濃い褐色の肌をしている。セシルの別荘の隣の別荘で、母親と過ごしてる。25歳~26歳ぐらいの年齢
ロンバール:父親の仕事の共同出資者。
シャルル・ウエップ夫妻:夫婦そろって異性に関して遊び人。父の友人

 父親の再婚話で、もうすぐ18歳になる少女セシルの心を表現するのだろうというあたりをつけて読み続けます。父親をほかの異性にとられる娘の悲しみなのでしょう。だから、「悲しみよこんにちは」なのかも。
 人生には、悲しみがある。悲しみがあるから、喜びがある。悲しみを拒否するのはやめよう。そういうテーマかと、読む前から結論付けて読み始めました。

 「あの夏わたしは17歳だった」という回顧ふうで始まります。以降、セシルのひとり語りが延々とつづく筆記手法です。
 
(つづく)

 アンヌ・ラルセン(病死したセシルの母の友人)が、再婚してセシルの母親のあとがまに入るような方向性のある展開になりました。
 どういうわけか、アンヌ・ラルセンが、17歳のセシルに対してしつけとか教育めいた言動をし始めます。もっと食べていい体をつくりなさいとか、勉強しなさいとか。当然、セシルは反発します。
 セシルは、アンヌから平手打ちまでくらいました。母親ではないあなたにたたかれる理由はありません。
 父親と継母になりそうな人との暮らしにあって、セシル自身は自分の存在をペットのネコのようなものとします。

 父親と継母になるであろう女性との楽しみは、「官能」です。肉体的なつながりのラブです。長続きしないパターンです。精神的に、お互いに尊敬できる部分が一部分でもないと、心は相手から離れていきます。

 ついに、セシルは、アンヌから、恋人のシリルに会ってはいけないと指示されます。たぶん、セシルのアンヌに対する仕返しが始まるでしょう。セシルは、アンヌがイメージするセシル像にあてはめられることを拒否します。

 セシルには、思春期の葛藤(かっとう。悩んで気持ちがもつれる)がおとずれます。父、父の恋人たち、彼氏、それぞれが、独立して、距離をもって付き合っていたときは幸せな気分だったとあります。

 これから継母になりそうな女性と娘の闘いが始まります。どちらも引きません。
 嫌なものは嫌で、歩み寄りがありません。父親というひとりの男を年齢の違う女子二人がとりあうようなかっこうです。
 
(つづく)
 
 いっぽう、26歳の男子であるシリルは、ふたまたをかけます。主人公18歳のセシルとセシルの父親の恋人である29歳のエルザです。狭い範囲の人間関係でややこしい関係になってしまいました。
 エルザは、セシルの父親を42歳のアンヌから奪う闘いに敗れて、セシルの家を出ました。

 ふつうの人間関係の秩序が壊れて、主人公女子のセシルは、傷つきながら、気持ちは深い穴に落ちていきます。

 父親の友人として出てくるシャルル・ウエップ夫妻は、乱れた男女関係です。おばさんと呼ばれるような年齢の妻が、お金で若い男を買ったりします。夫はそれを承知しています。夫は、妻が男遊びをするためのお金を必死で稼ぎます。それも愛というのだろうか。シャルル・ウエップ夫妻はクレイジーです。ご主人はご主人で女遊びをしているようです。
 アンヌは、女遊びを続ける男たちを冷ややかな目で観ています。彼らの人生の最後はみじめに終わる。いずれは性的に不能になって、酒は飲めなくなって、それでもまだ女のことを考える。
 
 主人公のセシルですが、こんなに父親が好きなもうすぐ18歳になる女子がこの世にいるとは思えないのです。それとも、亡き母のうらみを父親の後妻になろうとする42歳の女性アンヌにぶつけているのだろうか。

 アンヌの心が壊れます。アンヌは自分が仲間外れの位置にいると感じて、自分はいなくてもいいと、自分が存在する意味を否定して、自殺行為のような交通事故を起こして亡くなりました。

 最後は怖い終わり方でした。相手を変えてまた同じようなことを繰り返すことを計画している父と娘です。オカルト映画(目に見えない恐怖)を観るようです。「悲しみよこんにちは」で結ばれています。精神世界の奥底を追求する純文学のようでした。

 調べた言葉などとして、
敬う:うやまう。尊敬して大切にする。
エピナル版画:フランスの伝統的な彩色版画。童話やしつけなど教訓的なものが題材になっている。エピナルは都市名
ベルクソン:フランスの哲学者
プルシアンブルー:濃い青色
ブレーズ・パスカル:フランスの哲学者 1623年-1662年 39歳没 「人間は考える葦(あし)である」人間はちっぽけな存在だが、考えることによって、無限の世界を創造できるという哲学者としての宣言

 印象的だった文節などとして、
「父に女性が必要なことは、わかっていた」
「だれとも結婚したくはなかった。わたしは疲れていた」
「ゆずりあいは相互のものではなく、一方的なものになる」
「否定することはないけれど、あきらめる」
「もう愛してないもの」
「あなたはときどき、わたしの人生をややこしくさせようとする」
「父は、ただ、女性が好きだった。父は深く考えない。あらゆることを生理的理由で片付けて、それを合理的と呼ぶ」  

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2020年09月04日

小説と映画 人間失格 太宰治

小説と映画 人間失格 太宰治 新潮文庫

 先日は同作者の「グッドバイ」を小説で読んで映画を観ました。こんどは、「人間失格」を小説で読んで、映画で観てみます。ただし、小説は再読です。

(再読)「人間失格」 太宰治 新潮社文庫
 本箱の中から引っ張り出してきました。
 最初に三枚の写真の説明があります。
 一枚目:主人公の葉蔵が10歳ぐらいで、大きな屋敷で、姉妹やいとこの女子たちに囲まれて、作り笑いをしています。
 二枚目:高校生。ひとりで写っています。つくり笑いをしています。
 三枚目:白髪です。笑っていません。自然に死んでいるように見えるそうです。嫌な感じ、ぞっとする感じがある写真だそうです。

 第一の手記から始まって、第二の手記へとつながっていきます。まだ、全体で155ページのうちの61ページまでを読んだところです。最初のうちは、読みやすい文章でしたが、だんだん文字数が多くなってきて難解です。手記は、かなり、暗く、苦しい。
 文章には、狂気を感じます。死ぬ覚悟をした人が書いた文章です。自殺をしようと考えていた時期に書かれた小説です。1948年(昭和23年。終戦が昭和20年)3月から5月にかけて書かれた小説です。作者は、同年6月19日に玉川上水に女性と入水自殺を遂げています。本作品は、自伝的な内容で、まるで、「遺書」です。
 三人の女性が出てきますので、映画は、この三人の女性を巡る内容になっているのでしょう。葉蔵は、三人の女性に好かれます。
一人目:下宿先「仙遊館」の娘
二人目:女子高等師範学校の文科生。共産主義運動の同志。年上の女性
三人目:東京銀座の大きなカフェに勤める女給ツネ子

 こどものころの生活によっぽどのこだわりがあります。とくに、こどものころ、まわりにいた女中や下男たちから、性的にもて遊ばれた体験が、人生に暗い影を落としています。そして、お金のある家に生まれてハンサムだったこともあり、女性からもてたのですが、本人は、そのことがひどく苦痛だったのです。あわせて、彼は、本当の自分とは異なるお調子者としての自分を周囲にいる人間に演じていたことが最大の精神的な苦痛だったのです。二重人格な面があります。

 幼少時のお屋敷暮らしで、大人の言動にある表と裏の態度を見て、主人公の人格は、ねじれてしまいました。

 こどもがおとなの女性を観察している文章が続きます。なかなかおもしろい。
 「女が急に泣き出した場合は、なにか甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直す」
 「女は、(イケメンの男に)用事を頼まれると喜ぶ」

 青森の中学で、「竹一」という人物が出てきます。彼は唯一、葉蔵の「なになにしているふり」を見破ります。
 葉蔵はさきざき画家になりたいのですが、竹一と話をしていて描いた幽霊の絵が秀逸な出来上がりだったと葉蔵が成人してからも思い出すのです。幽霊、お化け、地獄の馬の絵です。

 東京に出て画塾で知り合った男に、「堀木正雄」がいます。葉蔵よりも六歳年上です。作者本人の年譜を合わせると、青森から東京に出て東大に入学したのが、1930年(昭和5年)21歳ですから、堀木正雄なる人物はこのとき27歳です。この年、作者は鎌倉の海で最初の入水心中事件を起こし、相手の女性が亡くなっています。本作品のなかにもそのような情景が書かれています。
 この部分で、昔の公務員というのは(この場合、警察職員)自分に与えられた権限をもてあそんでいたということがわかります。
 
 読んでいると、アドルフ・ヒトラーと葉蔵が重なります。どちらも青年期に画家になりたかった。どちらも最後は自殺をした。

 文章の口癖として、「所謂(いわゆる)」があります。何度も出てきます。

(つづく)
 「第一の手記」、「第二の手記」を経て、「第三の手記」まできました。
 心中未遂事件の生き残ったかたわれである葉蔵です。実家は暗にどこかの学校へ通うことを望んでいたという記述に少し驚きました。学校というのは、失業者の調整機関の役割もあると気づきました。

 読みやすい文章に戻ってきました。

 あいかわらず女性にはもてるので、葉蔵は自身を、「男めかけ」と呼びます。たしかに、女性の家にころがりこんで、ヒモ暮らしです。高円寺に住む夫を亡くした5歳の女児がいる母子家庭に入りこみました。女性の名はシヅ子で、雑誌社で働いています。そして、葉蔵は、雑誌に自分が描いた漫画を掲載してもらいます。
 話ははずれますが、先日読んだ「高円寺純情商店街」ねじめ正一著を思い出しました。あれは、昭和30年代ぐらいの風景ですから、こちらの物語の十年後ぐらいの高円寺付近の姿です。

 葉蔵が考えるいろいろなことを数値化する部分があります。読んでいると、「人間ってなんなんだろうなあ」という気持ちになりました。
 
 葉蔵は、今度は、タバコ屋のヨシちゃんという女性と知り合いました。17歳ぐらい。色白で八重歯がある。葉蔵が結婚を申し込むと即諾してくれましたが、お互いに冗談だと思っている気配もあります。
 
 (読んでいて、前回の読書では、見落としがだいぶあったことに気づきました)

 暗い中身です。好みが分かれる作家さんです。

 主人公の葉蔵は、脳病院に入院します。閉鎖病棟です。
 主人公は27歳を迎えます。でも、見た目は40歳以上に見られます。

 話の視点は最初にもどり、葉蔵と言う男を見たことがあるという男の「あとがき」で終わります。不思議な二重視点の感覚です。見ているのは同一人物だと思うのです。

 調べた言葉などとして、
所謂:いわゆる
対蹠的(たいせきてき):正反対の位置関係にあるさま。
六親眷属(ろくしんけんぞく):父、母、兄、弟、妻、子などの親族。眷属は、血族
お道化:人を笑わせる役の人
所詮:しょせん
マイスター:巨匠、名人
プロステチュウト:売春婦
アブサン:ヨーロッパのお酒。フランス、スイス、チェコ、スペインなど。
怜悧狡猾(れいりこうかつ):悪賢い。
蟾蜍(せんじょ):ヒキガエル
ルパイヤット:11世紀ペルシャの詩人ウマル・ハイヤームの四行詩集の題名
しょっている:うぬぼれている。
幽か:かすか
テーベ:結核

 心に響いた文章表現として、
「鴎(かもめ)が、「女」という字みたいな形で飛んでいました」
「世間の所謂(いわゆる)「正直者」たち」の部分に、人間の標準化に対する反抗があります。
「奴凧(やっこだこ)が一つからまっていて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつっこく電線にからみついて離れず、何やらうなずいていたりなんかしているので……」
「(葉蔵がころがりこんだ母子家庭の女児5歳シゲ子の言葉として)シゲ子は、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」
「色摩!(しきま) いるかい?」
「僕は、女のいないところへ行くんだ」

(2012年8月12日記事)
人間失格 太宰治 新潮文庫
 読み始めたのは「人間失格」太宰治、新潮文庫です。古本屋さんで手に入れました。39才、女性と入水自殺する前に書かれているので、遺書のように自分の人生を振り返るような記述で始まっています。こどもが書いたような文章に思える部分もあります。天才であるが故の悩み、自虐的な自己分析が続きます。
 読んでいるとむかし聴いた森田童子(もりた・どうじ 追記として、2018年死去 65歳没)という女性の歌声を思い出します。以前リバイバルされたようですが、そうではなくもっと前、昭和40年代のオリジナルです。人が死んでしまう歌ばかりなのですが、思春期の私には共感できました。今になって思えば、通過点として人には誰しもそんな時代がある。太宰という人はずっとその世界に居続けた人なのだろうかと感じます。生まれてきてすいませんという本人の言葉が浮かびました。

 読み終えました。思うままに記してみます。どこまでが虚構で、どこまでが事実なのか。作者自身を責め続ける記述が続く。読むことがつらくなってくる。世界が狭い。世の中にはもっと広い世界があることを記述は語らない。思いつめている。他者のありように義憤をぶつけつつ、自分を甘やかしている。いつもなら本を閉じて読むことを絶つのだけれど、なぜかしらゆっくりだけれど読み進んでいく。事実だと仮定して、何枚かの写真が脳裏に浮かんでくる。本の中の登場人物たちはすでにこの世にいない。消えてしまった人たちの姿が見えてくる。後半、文章が乱れてくる。脆弱(ぜいじゃく)でこの部分の記述は不要でなかったかと感じていると、「人間として失格」という頭を強打する文に出会う。人間として失格とか合格とか、そんな規準も標準もない。人間をどのように捉(とら)えるのか。深い命題に突き当たる。

(その後)
 以上の感想文を書いたのはもう何年も前です。
 その後、生誕地の青森県を訪れて「斜陽館」の見学もしました。
 人間に失格はないけれど、最近感じるのは、どんな人間にも欠陥があるというものです。なにかしら足りないものがある。あるいは、余計なものがくっついている。完璧な人間はいない。だから、互いに助け合っていく。孤独にならないように気をつける。


「人間失格 邦画DVD 2019年公開」
 小説の「人間失格」とはべつものの内容の映画に仕上がっています。
 2時間あるうちの1時間47分のところでようやく、小説の冒頭付近にある「第一の手記」の筆記が始まります。
 ちょっと映画の選択を失敗した気分です。
 1946年東京から始まります。第二次世界大戦の終戦が1945年8月です。1946年だと太宰治氏は37歳です。1948年に亡くなっています。
 太宰治氏は、こんな人だったのだろうか。エロの病気です。行為は、愛の営みというよりも色キチガイになってしまっています。
 小説のネタにするために複数の女性と関係をもち、女性のほうも、主人公に複数の女性関係があることを承知しながらそれを否定しない。一夫多妻制です。
 本が売れて会社が儲かって、給料が上がればなんでもありだという勢いの出版関係者が劇中に多い。
 女性は、太宰治から捨てられないようにするために、太宰治の子を妊娠して産みたい。
 愛情といっても、愛する理由が、見た目と体だけです。
 映像は、写真集の連続を観るようでした。途中で、もういいかという気分になりました。いちおう最後までは観ましたが、気持ちは入りませんでした。
 多用されるフレーズとして、不倫相手の女性がつくった文章、「人間は恋と革命のために生まれてきた」がありましたが、ピンときませんでした。
 三島由紀夫氏、志賀直哉氏などの名前が出てきました。なつかしい。中高生の頃に読みました。
 同時に何人の女性でも愛せるのが、太宰治氏だと思い込みました。でも普通じゃない。

 記憶に残ったセリフなどとして、
「どこか壊れていないと小説は書けない」
「(女性の)みんながオレを求めている。(だから)応えるんだ(こたえるんだ)」
「(奥さんのセリフ)もう家庭には戻らなくていい。そうしたら、書きたいものが書けるんでしょ!」  

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2020年09月03日

グッドバイ 太宰治 小説と映画DVD

グッドバイ 太宰治 小説と映画DVD

「小説」 新潮文庫
 レンタルビデオショップで、大泉洋さん主演映画のDVDがあるのを見かけて、自宅にある本棚を探したところ文庫本が出てきたので、まずは、小説を読んで、それから映画を観ることにしました。
 文庫には、16編の短編がおさめられていますが、この「グッドバイ」だけを読んでみます。グッドバイの意味合いとしては、「サヨナラだけが人生よ」ということを暗に教えてくださる昭和47年3月記事の文芸評論家奥野健男さんの巻末解説でした。
 解説にあったのは、太宰治氏は、1948年(昭和23年)6月13日に山崎富栄(やまざき・とみえ)さんと玉川上水に入水自殺をされ、同月19日に遺体が発見されていますが、作品「グッドバイ」は、彼の死後、昭和23年7月号の「朝日評論」に掲載された。5月中旬から書き始めていて、死の前日までに13回分まで書かれていた。本作品は、本人にとっての未完の絶筆とあります。
 終戦が昭和20年8月ですから、戦後まもなくのことです。作品の中でも時代が昭和23年であることが記述されています。
 
 作品創作の背景は暗いのですが、作品の内容を読み終えてみると、本作品の位置づけとしては、解説にもあるとおり、「ユーモア風刺小説」です。文章にリズム感があります。読者の笑いを誘うための文脈です。
 ロイド眼鏡(セルロイドでできている丸いメガネ)をかけて、縞ズボン(しまずぼん)をはいた若くてハンサムな34歳の雑誌編集長田島周二が主人公です。
 彼は関西なまりで、お金持ちであり、愛人が十人ぐらいいるそうです。先妻は肺炎で亡くなり、先妻との間にできたこどもと後妻を田舎の家に住まわせて、自分は都会でバリバリ働いています。
 このたび、後妻とこどもを引き取って同居生活をするために、愛人たちひとりひとりと別れることを決心しました。
 別れ話の手法が変わっています。25歳ぐらいの永井キヌ子という女性とふたりで、愛人のところへ行って、愛人に別れを懇願するのです。
 永井キヌ子は美人で腕力が強い。田島周二のボディガード役です。報酬は、彼の財布を彼女に渡して、お金をある程度なら使っていいよです。
 美人の永井キヌ子のアパートの部屋がごみ屋敷なのには笑いました。
 人は、見た目と中身は違います。
 おもしろい筋書です。登場人物のモデルになった実際の人も当時はいたのでしょう。
 目には見えませんが、作品には、「孤独」という観念がただよっています。以前、青森県にある太宰の生家を見学した時のことを思い出しました。大きな建物でしたが、家の大きさと幸福感は比例していないと感じました。

 調べた言葉などとして、
洋行(ようこう):海外旅行。こどものころはよく聞いた言葉ですが、いまでは死語でしょう。
十貫:重さの単位。一貫が3.75キログラムぐらいだから、十貫だと、37.5キログラム
鋭鋒(えいほう):鋭い攻撃
海容の美徳(かいようのびとく):海のような広い心で相手を許す。
ファウスト:ドイツゲーテの戯曲「ファウスト」での登場人物。1832年出版

「映画 グッドバイ 邦画DVD 2020年公開」
 大泉洋さんが田島周二さん役で、小池栄子さんが永井キヌ子さん役でした。
 おおむね、小説の筋書きどおりでしたが、小説は未完の尻切れトンボなので、以降のシーンは、想像の追加です。
 観ていて、「グッドバイ」の意味合いが違うようなと戸惑いました。映画では、愛人たちひとりひとりと別れるときに「グッドバイ」を強調されていました。そうではなくて、サヨナラだけが人生よのグッドバイだと思っていたのです。つまり、自殺して、この世に、「グッドバイ」をするのです。
 映画を観終わって、なんだかよくわからなかったというのが正直な感想です。

 以下は鑑賞の経過です。
 映像が暗い。終戦後の白黒ニュース映像画面からスタートしました。
 カラー映像になったあとも茶色がかっていてかすんだ画面です。
 小池栄子さんは可愛い。
 小説にもありましたが、小池さんの言い間違いとして、「腹水の陣(ふくすいのじん)」は、「背水(はいすい)の陣」が正しいという部分がおもしろかった。
 小池栄子さんは、だみ声を出す必要はありませんでした。普通の声のほうが良かった。
 水原ケイ子さん役の橋本愛さんが美しい。じぇじぇじぇのあまちゃんだなと思って観ていたら、じぇじぇじぇの朝ドラで水産高校の先生役をしていた皆川猿時さんが、橋本愛さんのお兄さん役で出てきたのでびっくりしました。
 小説にはない後半の話のもっていきかたが、これでいいのかなあと……
 なんだか、イメージが違いました。  

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2020年09月02日

君のためなら千回でも アメリカ映画DVD

君のためなら千回でも アメリカ映画DVD 2007年公開

 映画を観終わって、小説の映像化がうまくいかなかったという印象をもちました。
 ラストの主人公のセリフにも、(あなたは、召使いのこどもだったハッサンにひどいことをしておいて、それはないでしょ)という気持ちになる映画でした。会話の重みが伝わってきませんでした。
 アフガニスタンのソ連侵攻とか、タリバンとか、共産主義を嫌悪する政治的な色合いのある映画でもありました。
 最初から最後まで貫く伏線は、空を飛ぶ「凧(たこ)」でした。凧合戦です。
 人の凧の糸を切って、凧が飛んでいっちゃって、それを勝利だと喜んで、それはないでしょという気持ちになりました。

 幼なじみの友情を訴えたいメッセージがあります。しかし、おとなになって反省してくれているようすはあるのですが、手遅れです。

 ここにも人種差別があります。アフガニスタンでは、パシュトゥーン人が偉くて、ハザーラ人は身分が低いそうです。以前読んだ本に出ていたロマ人(ジプシー)と同じで、差別される側の民族は、文字の読み書きができない人が多いようです。
 主人公は子どもの頃からお金持ちで教育を受けられます。彼は小説家志望なので、読み書きが得意ですが、同じ敷地に住むハザーラ人の召使いのこどもであるハッサンは独学で読み書きを勉強するしかありません。

 アフガニスタン国の役人はピンハネをします。権力のある立場を利用して、ひどい。
 なつかしき洋画が次々と出てきます。「荒野の七人」スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、黒澤明監督の「七人の侍」がベースですから、この映画の雰囲気も武士が登場して自己の意志表示をする日本映画を観るような雰囲気があります。
 1978年、アフガニスタンのカブールです。映画はあるけれど、テレビは出てこない世界です。

 きれいな顔立ちの子役さんたちばかりでした。役どころと合っていなくて違和感がありました。
 主人公のアミールとその友とされるハッサンは、お金持ちのこどもとその召使いのこどもという地位関係であり、とても親友とは思えません。アミールが、ハッサンに凧合戦で落とした凧をとってこいと指示します。支配者と服従者の関係を、「親友」とはいいません。
 それから、いろいろ仮定のお話をつくってあるのですが、これはないなというシーンがいくつかありましたが、ここには書きません。
 意外な種明かしもありますが、感動するようなエピソードでもありません。

 主人公のアミールは、しもべのハッサンに対して、威張っている。嘘をつく。暴力を振るう。金持ちのDV男です。アミールは、父親に、「おまえは私の恥だ」と言われます。そのとおりです。アミールは、屈折しています。その理由はよくわかりません。

 見せ場がいくつかあって連続していきますが、つくり話だろうと、いささか信用できません。また、カメラの目線があざとい。(下心がある)
 
 アフガニスタンの結婚式では新郎新婦が少し大きな手鏡を観て、自分たちの顔を鏡にうつして見ながら愛の誓いをする慣例があるのかと、そのシーンは、新鮮でした。
 
 今は荒廃しているようですが、昔、アフガニスタンにも平和な時期があった。劇中の登場人物のセリフでは、アフガニスタンでは現在、優しさが消えた。あちこちで(タリバンに)人が殺されている。ロシア人が、「木」を全部切った。

 他の伏線として、文字が刻まれた樹木の表皮、それから、敵を攻撃するときの道具として、ゴムで玉を飛ばす「パチンコ」
 最後付近のドタバタは、昭和30年代の日本活劇コメディ映画を観るようでした。
 
 「平和の希求(強く願って求めること)」というメッセージは受け取りました。  

2020年09月01日

ルーム カナダ・アイルランド・イギリス・米国合作洋画DVD

ルーム カナダ・アイルランド・イギリス・米国合作洋画DVD 2016年日本公開

 シリアス(深刻でまじめ)そうな映画です。心して見てみます。(十分な心構えで)

 かわいらしい男子の声で始まりましたが、とまどいます。
 映像に出てきたこどもは、長い髪をもつ女の子に見えます。
 でも、その女の子に見えるこどもは、自分のことを、「ぼく」と呼びます。性別がわかりません。
 なんだかわからなくて、頭の中が混乱しますが、ようやく、5歳の誕生日を迎えたばかりの男児であることが判明します。彼の名前がジャックで、若い母親の名前がジェイ・ニューサムです。
 男児と24歳の母親のふたり芝居が続きます。ていねいにつくられた物語です。

 以下、鑑賞の経過です。
 精神病の母親だろうか。ひきこもり生活を送る母子家庭に見えます。
 日曜日だけ、男が、生活必需品を持って来ます。異常な雰囲気がただよっています。
 こどものベッドルームは、衣装ダンス(クローゼット)の中です。
 母親の虫歯が抜けました。「虫歯」は、このあと物語をつらぬく伏線になるのだろうか。
 髪の毛へのこだわりもあります。髪にはパワーが宿っているそうです。

 ジャックのともだちは、ネズミ。この子は、外の世界を知らずに5歳の誕生日を迎えている。母とテレビの声と、日曜日に来る男とネズミしかいない世界です。地下室みたいな部屋ですが、天窓があって、そこから青空と雲は見えます。男児は、部屋の外は宇宙だと言います。

 よく観察しましたが、母親は精神病患者には見えません。
 なにかしら、暗黒の世界です。重苦しい。状況がよくわからない。男は何者? 犯罪者だろうか。
 徐々に事実が明らかになっていきます。母子は7年間監禁されている。
 だれもここを知らない。

 疑問点として、ジャックの母親に対する反抗的な態度が不自然でした。それから、日曜日の男は、犯罪者には見えない風貌でした。
 なにか、仕掛けがあるんじゃないか。男は、犯罪者ではなくて、母親は嘘をついているのではないか。なにかしら、この女性は言動がおかしい。映画鑑賞者には、見えていない世界があるのではないか。
 母親は子どもを離しません。だから、筋立てのつじつまが合わない。ふつうなら、ふたりして逃げるか、子どもを逃がそうとします。

 映画鑑賞後1時間が経過して、全容解明となりました。あと残り1時間はどうするのだろう。過去へさかのぼって、現在の時点にもってくるのだろうか。(そうはなりませんでした)
 ひと山越えてしまいました。
 このまま話を続けるとなると、ここからが苦しい。

 冒頭でおしゃべりしていたのは5歳男児のジャックでした。映画の最初と最後あたりにある彼のひとり語りは美しい。とくに、最後のほうの語りがすばらしい。

 母親は、自殺をしようとしたり、身近な人を傷つけたりするような行為があるようには見えないから、強制的に精神病院に入れるような状態ではないと判断して観ていましたが、話は悪い方向へと進んでしまいました。

 親の役割を最初から果たせる能力と経験をもったおとなはなかなかいません。失敗を繰り返しながら試行錯誤をして、体得していくものです。
 救出された母親の実家の家は大きいのに、幸せは大きくありません。
 母子ふたりが閉じ込められていた狭いルーム、そして、寝室代わりのクローゼットにいたときのほうが、母子は幸せだった。
 ママが壊れちゃった。
「ごめんねジャック」
「だいじょうぶだよ。もうしないでね(自殺企図)」
「いいママじゃないよね」
「でもママだよ」

 雪のラストシーンが良かった。