2012年05月31日

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 辻村深月

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 辻村深月(つじむらみづき) 講談社

 この物語には、ふたつの「秘密」があります。ひとつは読者のためのもので小さな核となっています。もうひとつは、登場人物が登場人物をかばうためのもので、最初の秘密である秘密の核を包み込む円となっています。
 31歳の娘、望月チエミさん(作中ではチエちゃんでとおされます。未婚)は、母親を殺害して行方不明になります。チエちゃんの追跡活動をするのが、同級生の神宮寺みずほさんです。彼女は「悼(いた)む人」天童荒太著の主人公坂築静人君のようです。女子向きの物語です。
 変則的な構成となっています。第一章と第二章のふたつしかありません。かつ、第一章が298ページまでという大量のページ数で、第二章が387ページまでの少ないページ数というアンバランスです。起承転結の構成からいうと違和感があります。もうひとつの特徴は、主人公の姿が第一章でほとんど登場しません。だからといって、よくないという意味ではありません。書き方は自由です。読みはじめて途中で感じたのは、小説という形式を借りたエッセイではなかろうかというものでした。作者はこの作品で何を目指しているのか。その部分を読んでいるときはそう感じていました。人間は年齢を重ねるほど、心に暗い部分が蓄積されていく。登場人物たちの小学生から31歳までが語られていきます。横並び年齢女子の物の考え方は同類項で、浅さがあります。読み手にはそれがじれったさになります。いつまでも若い人でいたい時期です。残念なこととして文字数において状況描写が不足しています。
 結婚における学歴比較。カップルの学歴で、つり合いがとれなければ、それは後日、紛争の種になります。結婚は気楽が一番です。「赤ちゃんポスト」の記述は、読みながらも、ながらく意味をとれませんでした。358ページにある山田翠(みどり、教育大学3年生)との別れは、翠の怒りのシーンにしてほしかった。そのほうが感動しました。
 第二章はだれかにあてた手紙のようです。陽の当たる場所にいる女性に嫉妬する影の場所に居る女性がわたしという位置づけです。
 親にとってみれば、大切に育ててきた娘に、一瞬にして長年積み上げてきた実績を壊されたわけで、母親の動揺する気持ちはよく伝わってきます。されど、過保護に暴力はないけれど、過保護は虐待に通じるものがあるのでしょう。娘は大人になりきれていませんでした。娘は親に気を使って、親を喜ばせるためのロボットになっていました。
 母親と娘の衝突には、柔らかさで、はぐらかす、あるいは時間を稼ぐ、クルマのハンドルの遊びのような空間がなく、緊張感をともなった尖(とが)ったもの同士がぶつかりあうことになってしまいました。母親は娘を愛していました。母親は娘を産み、娘を残して死んでいきました。その起源となったのが、0、8、0、7なのです。

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この記事へのコメント
随分昔の作品にコメントさせて頂きます。

母と娘の確執をテーマに取り扱ったという意味で、同じテーマを取り扱った作品なら、アガサ・クリスティの「春にして君に別れ」という作品があります。こちらは母親視点で話が進みますが。同作家の娘視点でしたら「娘は娘」。クリスティはミステリー作家ですが、初出版当時はメアリ・ウェストマコット名義で出版された普通小説です。お時間があれば是非
Posted by K at 2016年01月01日 11:24
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