2024年09月20日
ラヂオの時間 邦画 1997年
ラヂオの時間 邦画 1997年(平成9年) 1時間43分 動画配信サービス
三谷幸喜監督 鈴木京香、唐沢寿明、西村雅彦、細川俊之、藤村俊二、井上順、布施明
ラジオスタジオの中で、朗読劇の生放送をしているようすから映画は始まりました。
余計な声を出してはいけないので、スタッフは、身振り手振りで合図を送り、意思表示をします。まるで、手話をしているように見えました。手話の世界です。スタジオでは、『(俳優さん(声優さん))の声』と、『音』だけで、作品を創造します。ラジオドラマは、音で創造する作品です。音で、感動を生むのです。(このタイトルで文章をつくった翌週に、たまたま東京虎の門ヒルズ近くにあるNHK放送博物館を訪れたのですが、展示内容として、『ハンドシグナル』とか、『人による音づくり』があって、音づくりの道具も展示してあって、この映画の内容を理解するのに役に立ちました)
テレビドラマと比較して、ラジオドラマのいいところ:お金がかからない。声で、『ここは宇宙である』と言うと、そこは『宇宙』になる。
ラジオドラマ放送番組の舞台裏を紹介する映画でした。
最初は、う~むでしたが、30分を経過するあたりからおもしろくなり、その後もなかなか良かった。
シナリオコンクールに応募して選ばれた素人(しろうと)女性の脚本作品です。男女の恋愛もので、あとで明らかになりますが、ご自身の体験が下地になっています。作品の主題に、『愛』があるのです。男女の『愛』であり、『夫婦愛』でもあります。やはり、作品には、『人間愛』は欠かせません。
脚本化にあたって、原作がボロボロになっていくのです。
出演者やラジオ局の都合で、原作の内容がどんどん変えられていきます。ときに、反発する原作者女性です。(これは…… 昨年末から今年にかけて、テレビ局のドラマ放送において、なにかしら事件のようなものがあったような……)
原作の改変は、作者の人格否定につながります。作者が狂暴な人なら暴れるでしょう。(あばれるでしょう)。作者にとっての作品は、自分のこどものようなものなのです。
(これもまた、縁があって、MHK放送博物館を見学した前日に、渋谷にあるPARCO劇場で、江口のりこさんたちが出演する『ワタシタチはモノガタリ』という演劇を鑑賞したのですが、江口のりこさん作の原作小説が映画化されるにあたって、原作どおりに物語が進行しないということでの争いが素材でした)
話ははずれますが、う~む。これもまたタバコ映画か。喫煙シーンがたくさんです。
わたしが好きなコウメ太夫みたいな人が、壁のポスターに出ています。『弁天ガール』だそうです。『極楽浄土のおもしろさーー』とキャッチコピーが見えます。
観ていると、かなりメチャクチャで、もう原作はいらない。勝手にやってくれーーーというような状況が起きます。
これは、三谷幸喜監督による何かの皮肉だろうか。シナリオライターからの放送局に対する皮肉です。ひにく:いじわる。しかえし。
原作の崩し方があまりにも大きくて、話が別物になりそうです。舞台が、日本→外国。人物名が、日本名→外国人名ほか。
ヒロイン女優のワガママがあります。
製作者側の責任者たちが振り回されます。
だけど、サラリーマンスタッフたちは、お金のためにがんばるのです。給料をもらって生活していかねばなりません。
なんというか、『(自分にとって一番大事なことは、いい仕事をすることではなく)毎月決まった日に決まった額の給料をもらうことだ』だけの気持ちになると、いい仕事(作品)はつくれなくなります。この仕事を好きだからやっている。いい仕事を仕上げたいという強い意思がないと、仕事が続かないということはあります。
『混乱』から、『調和』が始まります。演技の見せ所です。
効果音に関するシーンが抜群に良かった。
藤村俊二さんの老いた元音響職人の存在がとても良かった。
藤村俊二さんの今の世の中に対する批判的な語りが胸にしみます。同感です。
『(効果音づくりについて、自分たちが若い頃は)だれも教えてくれなかった。自分で考えた。』
原作者である主婦女性の強い意思表示があります。強固な意思です。原作を変えないでほしい。
どんどん内容を変えられていくことについて、『あたしの本ですから……(男と女は必ず最後には結ばれなければならない(スタッフたちは、男を宇宙の果てに消えて行ったことにしたい)』
『(コンクールで選ばれたということから)ワタシに次はないんです! みなさんの都合で、ワタシの本をメチャクチャにしておいて、よくそんなことが言えますねぇ』(観ていて、スタッフは、原作者に対してひどいことをするなあと思うのです)
井上順さんの演技が光っていました。
まあ、芸能界慣れされています。
パワハラシーンがたくさんです。
思い起こせば、そういう時代でした。みんな耐えていた。
(最近のニュースでは、今もひきずっている人がいますが……(某県知事))
話づくりですから、何でもできる。
想像力です。
まあ、メチャクチャですが、楽しい。
ち密な稽古(けいこ)から生まれた名演技の連続です。
『おかえりなさい』
奇跡が起きました。
花火の音づくりシーンがおもしろい。
まあ、仕事人間のみなさんのお話ですな。
『あんまり、機械に頼らないほうがいいよ』(人間は、AIロボットじゃないのです)
(今夜のラジオドラマは)良かったよと喜んでくれる人がいるからがんばれるということはあります。
にぎやかで楽しい映画でした。
(別の話として、わたしがファンの東野・岡村の『旅猿』ナレーションをしいている女性のこと)
いつも見ている番組、『旅猿』のナレーションをされている奥貫薫さんのお姿を始めて観ました。ずいぶん昔の映画なのであれですが、かわいらしい方でした。
先日NHK放送博物館で観た昔、音づくりで使用していた道具などの展示の写真をここに落としておきます。
三谷幸喜監督 鈴木京香、唐沢寿明、西村雅彦、細川俊之、藤村俊二、井上順、布施明
ラジオスタジオの中で、朗読劇の生放送をしているようすから映画は始まりました。
余計な声を出してはいけないので、スタッフは、身振り手振りで合図を送り、意思表示をします。まるで、手話をしているように見えました。手話の世界です。スタジオでは、『(俳優さん(声優さん))の声』と、『音』だけで、作品を創造します。ラジオドラマは、音で創造する作品です。音で、感動を生むのです。(このタイトルで文章をつくった翌週に、たまたま東京虎の門ヒルズ近くにあるNHK放送博物館を訪れたのですが、展示内容として、『ハンドシグナル』とか、『人による音づくり』があって、音づくりの道具も展示してあって、この映画の内容を理解するのに役に立ちました)
テレビドラマと比較して、ラジオドラマのいいところ:お金がかからない。声で、『ここは宇宙である』と言うと、そこは『宇宙』になる。
ラジオドラマ放送番組の舞台裏を紹介する映画でした。
最初は、う~むでしたが、30分を経過するあたりからおもしろくなり、その後もなかなか良かった。
シナリオコンクールに応募して選ばれた素人(しろうと)女性の脚本作品です。男女の恋愛もので、あとで明らかになりますが、ご自身の体験が下地になっています。作品の主題に、『愛』があるのです。男女の『愛』であり、『夫婦愛』でもあります。やはり、作品には、『人間愛』は欠かせません。
脚本化にあたって、原作がボロボロになっていくのです。
出演者やラジオ局の都合で、原作の内容がどんどん変えられていきます。ときに、反発する原作者女性です。(これは…… 昨年末から今年にかけて、テレビ局のドラマ放送において、なにかしら事件のようなものがあったような……)
原作の改変は、作者の人格否定につながります。作者が狂暴な人なら暴れるでしょう。(あばれるでしょう)。作者にとっての作品は、自分のこどものようなものなのです。
(これもまた、縁があって、MHK放送博物館を見学した前日に、渋谷にあるPARCO劇場で、江口のりこさんたちが出演する『ワタシタチはモノガタリ』という演劇を鑑賞したのですが、江口のりこさん作の原作小説が映画化されるにあたって、原作どおりに物語が進行しないということでの争いが素材でした)
話ははずれますが、う~む。これもまたタバコ映画か。喫煙シーンがたくさんです。
わたしが好きなコウメ太夫みたいな人が、壁のポスターに出ています。『弁天ガール』だそうです。『極楽浄土のおもしろさーー』とキャッチコピーが見えます。
観ていると、かなりメチャクチャで、もう原作はいらない。勝手にやってくれーーーというような状況が起きます。
これは、三谷幸喜監督による何かの皮肉だろうか。シナリオライターからの放送局に対する皮肉です。ひにく:いじわる。しかえし。
原作の崩し方があまりにも大きくて、話が別物になりそうです。舞台が、日本→外国。人物名が、日本名→外国人名ほか。
ヒロイン女優のワガママがあります。
製作者側の責任者たちが振り回されます。
だけど、サラリーマンスタッフたちは、お金のためにがんばるのです。給料をもらって生活していかねばなりません。
なんというか、『(自分にとって一番大事なことは、いい仕事をすることではなく)毎月決まった日に決まった額の給料をもらうことだ』だけの気持ちになると、いい仕事(作品)はつくれなくなります。この仕事を好きだからやっている。いい仕事を仕上げたいという強い意思がないと、仕事が続かないということはあります。
『混乱』から、『調和』が始まります。演技の見せ所です。
効果音に関するシーンが抜群に良かった。
藤村俊二さんの老いた元音響職人の存在がとても良かった。
藤村俊二さんの今の世の中に対する批判的な語りが胸にしみます。同感です。
『(効果音づくりについて、自分たちが若い頃は)だれも教えてくれなかった。自分で考えた。』
原作者である主婦女性の強い意思表示があります。強固な意思です。原作を変えないでほしい。
どんどん内容を変えられていくことについて、『あたしの本ですから……(男と女は必ず最後には結ばれなければならない(スタッフたちは、男を宇宙の果てに消えて行ったことにしたい)』
『(コンクールで選ばれたということから)ワタシに次はないんです! みなさんの都合で、ワタシの本をメチャクチャにしておいて、よくそんなことが言えますねぇ』(観ていて、スタッフは、原作者に対してひどいことをするなあと思うのです)
井上順さんの演技が光っていました。
まあ、芸能界慣れされています。
パワハラシーンがたくさんです。
思い起こせば、そういう時代でした。みんな耐えていた。
(最近のニュースでは、今もひきずっている人がいますが……(某県知事))
話づくりですから、何でもできる。
想像力です。
まあ、メチャクチャですが、楽しい。
ち密な稽古(けいこ)から生まれた名演技の連続です。
『おかえりなさい』
奇跡が起きました。
花火の音づくりシーンがおもしろい。
まあ、仕事人間のみなさんのお話ですな。
『あんまり、機械に頼らないほうがいいよ』(人間は、AIロボットじゃないのです)
(今夜のラジオドラマは)良かったよと喜んでくれる人がいるからがんばれるということはあります。
にぎやかで楽しい映画でした。
(別の話として、わたしがファンの東野・岡村の『旅猿』ナレーションをしいている女性のこと)
いつも見ている番組、『旅猿』のナレーションをされている奥貫薫さんのお姿を始めて観ました。ずいぶん昔の映画なのであれですが、かわいらしい方でした。
先日NHK放送博物館で観た昔、音づくりで使用していた道具などの展示の写真をここに落としておきます。
2024年09月19日
見学 NHK放送博物館 東京都港区愛宕(あたご)
見学 NHK放送博物館 東京都港区愛宕(あたご)
東京虎ノ門にある気象庁の見学を終えたあと、徒歩で10分ぐらい行ったところにNHK放送博物館がありました。
途中、とても高い位置まで上がるエレベーターに乗りました。1階で乗って、2階で降りたと思うのですが、2階がかなり高い位置にありました。エレベーターの壁は透明で外が見えて、見晴らしがいいのですがちょっと怖かった(こわかった)。
エレベーターの外を眺めると、建物を壊したあとの更地に(さらちに)、新しい建築物を建てているようで、東京では、老朽化の進んだ建物が建て替えられていく時期を迎えているのだということがわかりました。
東京は、限られた土地を、地下深く、そして、空高く、高度利用することで、複数の空間と世界をつくっている高密度の都市型タウンであることがわかります。
NHK放送博物館の展示は、なかなか力のこもったいい展示でした。
とくに、昭和20年代から30年代に生まれた人たちにとっては、自分たちがこどものころのことが、くっきりと思い出されて、深いなつかしさにひたれる空間と世界でしょう。
展示物を観ていると、なにもかもがなつかしくなります。
黒柳徹子さんのお若い頃とか、路線バスの旅でがんばっている太川陽介さんが番組『レッツゴーヤング!』で、アイドルで司会者だったころの写真などがたくさん出てきました。さらに思い出したのですが、NHKで、『ステージ101』という歌番組もありました。
以下の写真は、写真撮影が可だったところの写真です。館内展示では、撮影はだめよ、のところもままありました。
次の写真は、昔の暮らしの再現場所です。わたしたちがこどものときの暮らしは、こんな感じでした。
次の写真は、連続人形劇、『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターです。
今思うと、毎日この番組を楽しみに観ていて、なんというか、わたしにとっては、日々の心の支えのような物語でした。
左から、『(ギャングの)マシンガン・ダンディ』、『サンデー先生』、『博士(はかせ)』、『(海賊の)トラヒゲ(船長)』、『(政治家)ドン・ガバチョ』ですな。
次の写真にある子ぶたのお話、『ブーフーウー』もよく見ていました。
着ぐるみによる人形劇です。
次の写真にある、『にこにこぷん』は、わたしたち夫婦のこどもたち世代のキャラクターで、息子や娘たちが小さいころ、とてもお世話になりました。今やこどもたちも40歳近い年齢になってきました。
キャラクターは左から、『じゃじゃまる(山猫)』、『ぴっころ(ペンギン)』、『ぽろり(ネズミ)』です。右端のキャラクターは、ちょっとわたしにはわかりません。
次の写真のキャラクターも、わたしにはわかりません。
同行の妻は、わかる。知っていると言っていました。
紅白歌合戦の優勝旗が展示してありました。
ほかの展示としては、第二次世界大戦の戦争のこと、毎週日曜日お昼の番組『のど自慢』のこと、手づくりで『効果音』をつくっていたことや、朝ドラのことなどが紹介されていました。
それから、東日本大震災のときの放送局の活動を中心にしたふりかえりの解説もありました。
まあ、もりだくさんです。ラジオから始まって、テレビへと、使用された機械や機器の展示も充実していました。
あとさきになってしまいましたが、こちらのNHK放送博物館に来る前に、宿泊したホテルが渋谷にあったので、渋谷のNHK放送センターもここに来る前に立ち寄ってきました。
渋谷のNHK放送センターにある『NHKハートプラザ』というところは、現在は館内案内などはやっておらず、事務受付窓口だけですと入口に表示があったので、外からながめて写真だけ撮りました。
NHK朝ドラの『虎と翼』ももうすぐ終わってしまいます。いいドラマでした。伊藤沙莉さんはいい女優さんです。
やはり、ドラマは、最初の頃の破天荒な主人公を中心とした若い女優さんたちの活発さが観ていて楽しかった。活気がありました。
これからは、女性の時代です! もしかしたら今年、女性の総理大臣が誕生するかもしれません。アメリカ合衆国は、女性の大統領かもしれません。さてどうなりますか。楽しみですな。男社会はすぐに戦争を始めるから、女性の力で平和な地球にしてほしい。
次の写真は、渋谷のNHKホールです。門を入って右側にNHKホールがありました。写真は、帰りに撮影したので、位置が反対の 左側になっています。写真でいうと建物の右側をまっすぐ進むと門があります。
毎週火曜日に谷原章介さんが司会をしている歌謡ショーとか、年末おおみそかの紅白歌合戦は、このホールで開催されているのだとわかり、これから番組を見るときは、NHKホールを身近に感じることができそうです。
道路の向こうには、国立代々木競技場の第一体育館と第二体育館がきれいに見えました。
小学校6年生の修学旅行のときに、バスの中から見たような覚えがあります。こちらの体育館は、1964年(昭和39年)開業です。
東京虎ノ門にある気象庁の見学を終えたあと、徒歩で10分ぐらい行ったところにNHK放送博物館がありました。
途中、とても高い位置まで上がるエレベーターに乗りました。1階で乗って、2階で降りたと思うのですが、2階がかなり高い位置にありました。エレベーターの壁は透明で外が見えて、見晴らしがいいのですがちょっと怖かった(こわかった)。
エレベーターの外を眺めると、建物を壊したあとの更地に(さらちに)、新しい建築物を建てているようで、東京では、老朽化の進んだ建物が建て替えられていく時期を迎えているのだということがわかりました。
東京は、限られた土地を、地下深く、そして、空高く、高度利用することで、複数の空間と世界をつくっている高密度の都市型タウンであることがわかります。
NHK放送博物館の展示は、なかなか力のこもったいい展示でした。
とくに、昭和20年代から30年代に生まれた人たちにとっては、自分たちがこどものころのことが、くっきりと思い出されて、深いなつかしさにひたれる空間と世界でしょう。
展示物を観ていると、なにもかもがなつかしくなります。
黒柳徹子さんのお若い頃とか、路線バスの旅でがんばっている太川陽介さんが番組『レッツゴーヤング!』で、アイドルで司会者だったころの写真などがたくさん出てきました。さらに思い出したのですが、NHKで、『ステージ101』という歌番組もありました。
以下の写真は、写真撮影が可だったところの写真です。館内展示では、撮影はだめよ、のところもままありました。
次の写真は、昔の暮らしの再現場所です。わたしたちがこどものときの暮らしは、こんな感じでした。
次の写真は、連続人形劇、『ひょっこりひょうたん島』のキャラクターです。
今思うと、毎日この番組を楽しみに観ていて、なんというか、わたしにとっては、日々の心の支えのような物語でした。
左から、『(ギャングの)マシンガン・ダンディ』、『サンデー先生』、『博士(はかせ)』、『(海賊の)トラヒゲ(船長)』、『(政治家)ドン・ガバチョ』ですな。
次の写真にある子ぶたのお話、『ブーフーウー』もよく見ていました。
着ぐるみによる人形劇です。
次の写真にある、『にこにこぷん』は、わたしたち夫婦のこどもたち世代のキャラクターで、息子や娘たちが小さいころ、とてもお世話になりました。今やこどもたちも40歳近い年齢になってきました。
キャラクターは左から、『じゃじゃまる(山猫)』、『ぴっころ(ペンギン)』、『ぽろり(ネズミ)』です。右端のキャラクターは、ちょっとわたしにはわかりません。
次の写真のキャラクターも、わたしにはわかりません。
同行の妻は、わかる。知っていると言っていました。
紅白歌合戦の優勝旗が展示してありました。
ほかの展示としては、第二次世界大戦の戦争のこと、毎週日曜日お昼の番組『のど自慢』のこと、手づくりで『効果音』をつくっていたことや、朝ドラのことなどが紹介されていました。
それから、東日本大震災のときの放送局の活動を中心にしたふりかえりの解説もありました。
まあ、もりだくさんです。ラジオから始まって、テレビへと、使用された機械や機器の展示も充実していました。
あとさきになってしまいましたが、こちらのNHK放送博物館に来る前に、宿泊したホテルが渋谷にあったので、渋谷のNHK放送センターもここに来る前に立ち寄ってきました。
渋谷のNHK放送センターにある『NHKハートプラザ』というところは、現在は館内案内などはやっておらず、事務受付窓口だけですと入口に表示があったので、外からながめて写真だけ撮りました。
NHK朝ドラの『虎と翼』ももうすぐ終わってしまいます。いいドラマでした。伊藤沙莉さんはいい女優さんです。
やはり、ドラマは、最初の頃の破天荒な主人公を中心とした若い女優さんたちの活発さが観ていて楽しかった。活気がありました。
これからは、女性の時代です! もしかしたら今年、女性の総理大臣が誕生するかもしれません。アメリカ合衆国は、女性の大統領かもしれません。さてどうなりますか。楽しみですな。男社会はすぐに戦争を始めるから、女性の力で平和な地球にしてほしい。
次の写真は、渋谷のNHKホールです。門を入って右側にNHKホールがありました。写真は、帰りに撮影したので、位置が反対の 左側になっています。写真でいうと建物の右側をまっすぐ進むと門があります。
毎週火曜日に谷原章介さんが司会をしている歌謡ショーとか、年末おおみそかの紅白歌合戦は、このホールで開催されているのだとわかり、これから番組を見るときは、NHKホールを身近に感じることができそうです。
道路の向こうには、国立代々木競技場の第一体育館と第二体育館がきれいに見えました。
小学校6年生の修学旅行のときに、バスの中から見たような覚えがあります。こちらの体育館は、1964年(昭和39年)開業です。
2024年09月18日
見学 気象庁 東京都港区虎ノ門
見学 気象庁 東京都港区虎ノ門
事前に電話予約をして、オペレーションルームの現場見学をしようかと思ったのですが、南海トラフ地震の臨時情報の発表とか、台風10号の来襲などがあって、まあ、見学担当の人は、広報担当の人だろうからだいじょうぶなのでしょうが、なんとなく気が引けて、一般人に解放されている『気象科学館』だけを見学することにしました。
現場見学のかわりに、職員食堂みたいなところで、気象庁の職員さんたちといっしょにお昼ご飯を食べてみることにしました。
ほかに小さな書店があるという事前情報を得ました。(結局、次のNHK放送博物館見学があったので、書店には立ち寄りませんでしたが、地下の食堂ではゆっくりカツカレーを食べました)
(以下は、実際に行ってみての感想です)
入口でお出迎えがあります。
気象庁のマスコットキャラクターで、『はれるん』というお名前だそうです。
展示室に、ウェザーミッション『キミは新人予報官』というクイズ形式の遊びがあったのでチャレンジしてみました。
成績は、1問だけ間違えました。
まあ、こどもさん向けのゲームみたいなものです。
展示室のまんなかに、津波のシミュレーター(模擬装置)がありました。
やってみました。
う~む。津波は怖い(こわい)。
建物の2階が、『気象庁の気象科学館』です。
1階は、『港区立みなと科学館』です。ロボットの展示がしてありました。
食堂が地下1階にありました。
この日は、朝ホテルでカレーライスを食べて、そのあと、カレーパンを食べて、お昼は、こちらの食堂で、カツカレーを食べました。カレーの一日でした。べつにかまいません。
めざしたわけではないのですが、東京見物に来ると、官公庁等の職員食堂で、職員さんたちに混じりながらお昼ご飯を食べています。
去年11月は、市ヶ谷にあるJICA(ジャイカ。国際協力機構)で南米の国のランチを食べました。お隣が防衛省で、自衛隊の制服を着た人たちがお昼ご飯を食べに来ていました。
今年7月は、国立国会図書館の6階の食堂でお昼ご飯を食べました。広々としたところで、お弁当を持参された人用(ひとよう。職員さんでしょう)に、テーブルとイスの席がたくさん用意されていました。
今回の気象庁の食堂は、食堂で働いている人たちに活気がありました。しきりにカツカレーの宣伝をされていました。食べに来ている職員さんたちには、技術屋さんの雰囲気がありました。優秀な人たちで、また、個性的な人たちなのだろうと勝手な想像をしました。
『気象科学館』には、気象庁で働く職員募集の要項やカタログみたいなものがおいてあったのでざっと目を通しました。
国家公務員です。募集人員は少ない。全国転勤がありそうです。好きでないとできない仕事だと思いました。身分保障は手厚いと感じました。いちど就職したら定年まで働く仕事です。
国民を自然災害から守るための仕事ですから、やりがいがあると思います。
事前に電話予約をして、オペレーションルームの現場見学をしようかと思ったのですが、南海トラフ地震の臨時情報の発表とか、台風10号の来襲などがあって、まあ、見学担当の人は、広報担当の人だろうからだいじょうぶなのでしょうが、なんとなく気が引けて、一般人に解放されている『気象科学館』だけを見学することにしました。
現場見学のかわりに、職員食堂みたいなところで、気象庁の職員さんたちといっしょにお昼ご飯を食べてみることにしました。
ほかに小さな書店があるという事前情報を得ました。(結局、次のNHK放送博物館見学があったので、書店には立ち寄りませんでしたが、地下の食堂ではゆっくりカツカレーを食べました)
(以下は、実際に行ってみての感想です)
入口でお出迎えがあります。
気象庁のマスコットキャラクターで、『はれるん』というお名前だそうです。
展示室に、ウェザーミッション『キミは新人予報官』というクイズ形式の遊びがあったのでチャレンジしてみました。
成績は、1問だけ間違えました。
まあ、こどもさん向けのゲームみたいなものです。
展示室のまんなかに、津波のシミュレーター(模擬装置)がありました。
やってみました。
う~む。津波は怖い(こわい)。
建物の2階が、『気象庁の気象科学館』です。
1階は、『港区立みなと科学館』です。ロボットの展示がしてありました。
食堂が地下1階にありました。
この日は、朝ホテルでカレーライスを食べて、そのあと、カレーパンを食べて、お昼は、こちらの食堂で、カツカレーを食べました。カレーの一日でした。べつにかまいません。
めざしたわけではないのですが、東京見物に来ると、官公庁等の職員食堂で、職員さんたちに混じりながらお昼ご飯を食べています。
去年11月は、市ヶ谷にあるJICA(ジャイカ。国際協力機構)で南米の国のランチを食べました。お隣が防衛省で、自衛隊の制服を着た人たちがお昼ご飯を食べに来ていました。
今年7月は、国立国会図書館の6階の食堂でお昼ご飯を食べました。広々としたところで、お弁当を持参された人用(ひとよう。職員さんでしょう)に、テーブルとイスの席がたくさん用意されていました。
今回の気象庁の食堂は、食堂で働いている人たちに活気がありました。しきりにカツカレーの宣伝をされていました。食べに来ている職員さんたちには、技術屋さんの雰囲気がありました。優秀な人たちで、また、個性的な人たちなのだろうと勝手な想像をしました。
『気象科学館』には、気象庁で働く職員募集の要項やカタログみたいなものがおいてあったのでざっと目を通しました。
国家公務員です。募集人員は少ない。全国転勤がありそうです。好きでないとできない仕事だと思いました。身分保障は手厚いと感じました。いちど就職したら定年まで働く仕事です。
国民を自然災害から守るための仕事ですから、やりがいがあると思います。
2024年09月17日
観劇 『ワタシタチはモノガタリ』 東京都PARCO劇場
観劇 『ワタシタチはモノガタリ』 東京都PARCO劇場(渋谷パルコ)にて
ずいぶん前のことですが、笑福亭鶴瓶さんのトーク番組、『巷の噺(ちまたのはなし)』に登場した女優の江口のりこさんが、『わたしは敵が多い』みたいな発言をされて、それを見ていたわたしは、魅力的な女優さんだなと感じました。
今回書く文章のタイトルにある劇に、江口のりこさんが出演されるのを見つけたので、さっそくチケットを申し込んで、東京渋谷にあるPARCO劇場へ観に行ってきました。
前のほうのまんなかあたりの席だったのでよく見えました。江口のりこさんは、テレビで観たとおりの人でした。話し方も体の動きも、ふだんのしゃべりと変わりはありません。
ちょっとむずかしい筋立てではありました。
江口のりこさんが、15歳中学生のころから小説家をめざしているけれど文学賞への挑戦は落選続きで、なかなか芽が出ないまま30歳を迎えたところで、江口のりこさんが投稿しているネット小説の人気が出てきて、ようやく人々に作品を読まれ始めたというようなところから始まりました。
中学の同級生だった松尾諭さん(まつおさとるさん)との文通交流15年間という経過も含めて、自分自身の十代のころの似たような体験を思い出して共感する部分がありました。
作品の題材としては、出版とか演劇とか、映画づくりとか、芸能関係の内輪話ですが、小説作品の商業化はいろいろむずかしいと感じました。
しばらく前に原作とテレビドラマの脚本の内容が異なるということでもめた事件のような出来事がありましたが、劇中では、江口のりこさんが書く原作どおりに映画ができあがらないというもどかしい流れがあるのです。
以下は、わたしが観劇に行く前に知ったなんとなくの、さらりとした話の流れです。
15歳、まだ中学生のカップルが(将来、編集者希望らしき松尾諭さんと小説家希望の江口のりこさん)、どちらもずっと未婚だったら、30歳になったら結婚しようと話をして、30歳になったのですが、ふたりは、結婚に至らないわけです。
15年間という長い間、お互いに文通のやりとりは続くけれど、直接会うことはなかった。(松尾諭さんのほうには、恋愛感情はなかった。江口のりこさんには恋愛感情があった)
松尾諭さんは、30歳になって、別の女性と結婚式を挙げるわけですが、その結婚式に江口のりこさんが招待されたのです。
招待された江口のりこさんは、なんとなくプンプンなのです。(怒っている(おこっている))。
事実として、出版社で編集者をしている松尾諭さんは、江口のりこさんが書く文章は好きですが、江口のりこさん自身を女性として好きということではないのです。(江口のりこさんは誤解していたのです)
松尾諭さん夫婦の結婚式に招待された江口のりこさんは、松尾諭さんに、今まで文通で自分が松尾さんに書いて送った手紙を全部返してちょうだいと要求するのです。松尾諭さんは江口さんの要求に応じます。
江口のりこさんが現在進行形で創作中の小説作品、『これは愛である』の中で、自分と松尾諭さんを模した(もした。似せた)架空のカップルが、松岡茉優さんと千葉雄大さんです。
現実のふたりとはずいぶん違って、松岡茉優さんたちふたりは、かなりのラブラブです。
それぐらいの前知識で、舞台劇を観に行きました。
(以下が、観劇の感想です)
なにせ、お祝いで贈られたお花がきれいでした。
劇場ロビーにいっぱい飾ってありました。わたしは、女優の吉田羊さんが贈られたお花の前で記念写真を妻に撮ってもらいました。
わたしは長いこと生きてきましたが、あんなにきれいで高価そうなお花をたくさん見たのは生まれて初めてです。おそらく貴重であろう珍しいようなお花もありました。わたしは、花尽くしの光景を長いことながめて、来て良かったと満足しました。
思い出すままに、観劇の感想をここに書き落としてみます。
冥土(めいど)のみやげ(安心して死ねるために)といいますか、昨年の夏ごろから、テレビや映画に出ている人をじかに観たいという欲望が湧きだし、舞台やミュージカル、歌謡ショー、漫談などを観るために劇場やホールへ行くようになりました。
これまでに、KinKi Kids(キンキキッズ)の堂本光一さん、森公美子さん、太川陽介さん、さんまさん、温水洋一さん、山崎育三郎さん、綾小路きみまろさん、松平健さん、山﨑玲奈さん(やまさきれなさん。ピーターパン)、そのほかスターを固める脇役のみなさんを拝見しました。なかなか楽しい時間でした。
今までは、派手な音楽やダンス、おおぜいの出演者で明るく楽しくダンスダンスダンスみたいな感じでにぎやかだったので、今回の、少人数、一人二役以上、じっくり会話を繰り返すというパターンの演劇が新鮮でした。
舞台装置はシンプルでしたがとても美しかった。出演者は8人だったと思います。
ラブコメディなので、言葉のやりとりで笑わせてくれます。歌やダンスはありません。
観客は、わたしたち夫婦のような年配の方、それから逆に若い人たちで、午後6時半からの開演で、2時間35分(途中休憩20分間)でした。人口ピラミッドで言うと、年齢層のまんなかぐらいの人たちは(40代ぐらいの人たち)はあまり見かけませんでした。
始まっていきなり右手から江口のりこさんが出てきて驚きました。
ひとり芝居の始まりです。
話し方や動作は、テレビで見る江口のりこさんとまったく同じです。演技をしているというよりも、ふだんのままの言葉づかいで話が進んでいきます。だれかを演じるわけではなく、江口のりこさんという人間の地(じ)のままの演技です。
コメディーです。言葉のやりとりがうまい。関西弁です。
舞台に自分が中学生だったころのなつかしい、教室内にある机とイスが出てきました。
そうそう、掃除の時間には、イスを机の上にのせて、動かして、床掃除をしていました。
『文章の読み書きが好き』(ここがこの舞台の大事なポイントです。恋愛相手としてのあなたが好きなのではなく、出版社で編集者をしている松尾諭さん(まつおさとるさん)は、江口のりこさんが書く文章が好きなのです)
昭和時代の昔は手紙をよく書きました。文通の習慣がありました。手紙とかハガキとか、今はもう、慶弔儀礼(けいちょうぎれい)でしか書かなくなりました。現代は、電子メールとかラインとか、+メッセージなどでやりとりします。スタンプを使ったりもします。
時代が変わりました。いいとも悪いともいえません。
会話のキャッチボールで笑わせてくれます。
会話をしながら、紙ヒコーキの飛ばしあいをするのですが、なかなかよく考え抜かれた演出で効果的でした。
現実のふたり(江口のりこさんと松尾諭さん)と、江口のりこさんが書いている小説作品『これは愛である』に出てくる登場人物の松岡茉優さんと千葉雄大さんが交錯、交流します。現実に存在する人物と想像上の人物の交流があります。
ところどころ難解でややこしい。
どうも笑いのツボが違うのか、若い女性を中心とした観客の人たちが爆笑することが複数回あったのですが、わたしたち年配夫婦はどうして笑えるのかわかりませんでした。若い人たちは、内容を熟知されているのでしょう。
原作どおりに映画をつくれないという原作者と映像製作者とのうまくいかない争いがあります。
先日わたしが、動画配信サービスで観た、三谷幸喜監督映画『ラジオの時間』と共通する題材です。
中学生の娘さんをもつ松尾諭さんが、思春期の娘に振り回されます。
娘のごきげんをとろうとして、娘の好きな人(ウンピョウという書道家 千葉雄大さん ひとり二役)をキャスティング(映画での役を割り振る)する方向へ話が進んで、雰囲気が明るくなるシーンがあって、いいなあと思いました。
人間の欲とか、損得勘定をうまく操ってある(あやつってある)会話表現で感心しました。
ウンピョウという書道家青年(千葉雄大さん)は、『愛』という字を同じ紙に何回も書いて、最後は、紙が真っ黒になる。(そういう発想が珍しい)。
松尾諭さんご夫婦がたくましい。好感をもちました。
けして、ひ弱ではない。だんなに愛情をもっているらしき江口のりこさんが登場しても、松尾諭さんの奥さんはどんと構えているのです。
奥さんは、今ある親子3人の家庭を崩壊させる気持ちなどさらさらないのです。むしろ、逆利用をして、なにかしら利益を得ようとするのです。ママの演技は迫力がありました。OKです。
なんというか、物語やドラマ、映画だと、繊細な気持ちをもつひ弱な男や女という設定で人間が描かれやすいのですが、現実社会を生きている人間は、むしろ野性的で、なにがあろうと負けるもんか!という暮らし方をしている人が多いと感じます。
ささいなことで弱気になっていたら、世間の荒波を乗り越えてはいけないのです。したたかに、強く前進です。
松岡茉優さんは演技上手です。感心しました。どんな性格・人格の人間でも演じられる女優さんだと感心しました。うまい!
ダスティン・ホフマン出演の洋画、『卒業 1967年(昭和42年)作品』が下地にあります。久しぶりにサイモンとガーファンクルの歌、『サウンド・オブ・サイレンス』を聴きました。なつかしい。
江口のりこさんがつくる物語、『これは愛である』の結末を、ハッピーエンドにするかしないかで、もめにもめます。
何のために書くのかという基本的な動機の話になります。
『書きたいから書く』(わたしはそう思います。具体的な理由なんてありません。人は、それぞれ個々の脳みそにその人だけがもつ『欲』が埋め込まれています。やりたいからやる。それだけです)。
最後は、みなさん何度もステージに出てこられて、拍手の中で頭を下げられていましたが、なにかひとことでもコメントをされたほうが、さらに良かったと思います。
マツケンサンバ歌謡ショーを観たときには、松平健さんが、『今夜のお客さんは、これまでで一番ノリが良かった』とコメントされて、会場が割れんばかりの拍手に包まれていました。
森公美子さん(もりくみこさん)の、『天使にラブソングを』を観たときには、森公美子さんが最後に観客席に向かって、『お客さん、サイコーー!!』と叫んでおられました。
(さらに思い出したことの付け足し(つけたし)として)
天井からブランコみたいに大きくて長い木の板のイスが下りてきました。木の幹のようでもありました。
ブラブラと揺れるそのイスを使って、じょうずにコントみたいなやりとりがなされていました。おもしろい。笑いました。
ブランコみたいなイスを揺らせて、松尾諭さんにぶつけて笑いを誘うのです。
(帰宅後、NHK大河ドラマ『光る君へ』を観ていて)
『ワタシタチはモノガタリ』の松尾諭さんと江口のりこさんの関係が、藤原道長(柄本佑さん(えもとたすくさん))と紫式部(吉高由里子さん)さんと重なりました。
松尾諭さんと柄本佑さんは編集者の立場で、江口のりこさんと吉高由里子さんが小説家の立場なのです。
ふたりの男子は、それぞれの女子の創作活動を支援していくのです。
ずいぶん前のことですが、笑福亭鶴瓶さんのトーク番組、『巷の噺(ちまたのはなし)』に登場した女優の江口のりこさんが、『わたしは敵が多い』みたいな発言をされて、それを見ていたわたしは、魅力的な女優さんだなと感じました。
今回書く文章のタイトルにある劇に、江口のりこさんが出演されるのを見つけたので、さっそくチケットを申し込んで、東京渋谷にあるPARCO劇場へ観に行ってきました。
前のほうのまんなかあたりの席だったのでよく見えました。江口のりこさんは、テレビで観たとおりの人でした。話し方も体の動きも、ふだんのしゃべりと変わりはありません。
ちょっとむずかしい筋立てではありました。
江口のりこさんが、15歳中学生のころから小説家をめざしているけれど文学賞への挑戦は落選続きで、なかなか芽が出ないまま30歳を迎えたところで、江口のりこさんが投稿しているネット小説の人気が出てきて、ようやく人々に作品を読まれ始めたというようなところから始まりました。
中学の同級生だった松尾諭さん(まつおさとるさん)との文通交流15年間という経過も含めて、自分自身の十代のころの似たような体験を思い出して共感する部分がありました。
作品の題材としては、出版とか演劇とか、映画づくりとか、芸能関係の内輪話ですが、小説作品の商業化はいろいろむずかしいと感じました。
しばらく前に原作とテレビドラマの脚本の内容が異なるということでもめた事件のような出来事がありましたが、劇中では、江口のりこさんが書く原作どおりに映画ができあがらないというもどかしい流れがあるのです。
以下は、わたしが観劇に行く前に知ったなんとなくの、さらりとした話の流れです。
15歳、まだ中学生のカップルが(将来、編集者希望らしき松尾諭さんと小説家希望の江口のりこさん)、どちらもずっと未婚だったら、30歳になったら結婚しようと話をして、30歳になったのですが、ふたりは、結婚に至らないわけです。
15年間という長い間、お互いに文通のやりとりは続くけれど、直接会うことはなかった。(松尾諭さんのほうには、恋愛感情はなかった。江口のりこさんには恋愛感情があった)
松尾諭さんは、30歳になって、別の女性と結婚式を挙げるわけですが、その結婚式に江口のりこさんが招待されたのです。
招待された江口のりこさんは、なんとなくプンプンなのです。(怒っている(おこっている))。
事実として、出版社で編集者をしている松尾諭さんは、江口のりこさんが書く文章は好きですが、江口のりこさん自身を女性として好きということではないのです。(江口のりこさんは誤解していたのです)
松尾諭さん夫婦の結婚式に招待された江口のりこさんは、松尾諭さんに、今まで文通で自分が松尾さんに書いて送った手紙を全部返してちょうだいと要求するのです。松尾諭さんは江口さんの要求に応じます。
江口のりこさんが現在進行形で創作中の小説作品、『これは愛である』の中で、自分と松尾諭さんを模した(もした。似せた)架空のカップルが、松岡茉優さんと千葉雄大さんです。
現実のふたりとはずいぶん違って、松岡茉優さんたちふたりは、かなりのラブラブです。
それぐらいの前知識で、舞台劇を観に行きました。
(以下が、観劇の感想です)
なにせ、お祝いで贈られたお花がきれいでした。
劇場ロビーにいっぱい飾ってありました。わたしは、女優の吉田羊さんが贈られたお花の前で記念写真を妻に撮ってもらいました。
わたしは長いこと生きてきましたが、あんなにきれいで高価そうなお花をたくさん見たのは生まれて初めてです。おそらく貴重であろう珍しいようなお花もありました。わたしは、花尽くしの光景を長いことながめて、来て良かったと満足しました。
思い出すままに、観劇の感想をここに書き落としてみます。
冥土(めいど)のみやげ(安心して死ねるために)といいますか、昨年の夏ごろから、テレビや映画に出ている人をじかに観たいという欲望が湧きだし、舞台やミュージカル、歌謡ショー、漫談などを観るために劇場やホールへ行くようになりました。
これまでに、KinKi Kids(キンキキッズ)の堂本光一さん、森公美子さん、太川陽介さん、さんまさん、温水洋一さん、山崎育三郎さん、綾小路きみまろさん、松平健さん、山﨑玲奈さん(やまさきれなさん。ピーターパン)、そのほかスターを固める脇役のみなさんを拝見しました。なかなか楽しい時間でした。
今までは、派手な音楽やダンス、おおぜいの出演者で明るく楽しくダンスダンスダンスみたいな感じでにぎやかだったので、今回の、少人数、一人二役以上、じっくり会話を繰り返すというパターンの演劇が新鮮でした。
舞台装置はシンプルでしたがとても美しかった。出演者は8人だったと思います。
ラブコメディなので、言葉のやりとりで笑わせてくれます。歌やダンスはありません。
観客は、わたしたち夫婦のような年配の方、それから逆に若い人たちで、午後6時半からの開演で、2時間35分(途中休憩20分間)でした。人口ピラミッドで言うと、年齢層のまんなかぐらいの人たちは(40代ぐらいの人たち)はあまり見かけませんでした。
始まっていきなり右手から江口のりこさんが出てきて驚きました。
ひとり芝居の始まりです。
話し方や動作は、テレビで見る江口のりこさんとまったく同じです。演技をしているというよりも、ふだんのままの言葉づかいで話が進んでいきます。だれかを演じるわけではなく、江口のりこさんという人間の地(じ)のままの演技です。
コメディーです。言葉のやりとりがうまい。関西弁です。
舞台に自分が中学生だったころのなつかしい、教室内にある机とイスが出てきました。
そうそう、掃除の時間には、イスを机の上にのせて、動かして、床掃除をしていました。
『文章の読み書きが好き』(ここがこの舞台の大事なポイントです。恋愛相手としてのあなたが好きなのではなく、出版社で編集者をしている松尾諭さん(まつおさとるさん)は、江口のりこさんが書く文章が好きなのです)
昭和時代の昔は手紙をよく書きました。文通の習慣がありました。手紙とかハガキとか、今はもう、慶弔儀礼(けいちょうぎれい)でしか書かなくなりました。現代は、電子メールとかラインとか、+メッセージなどでやりとりします。スタンプを使ったりもします。
時代が変わりました。いいとも悪いともいえません。
会話のキャッチボールで笑わせてくれます。
会話をしながら、紙ヒコーキの飛ばしあいをするのですが、なかなかよく考え抜かれた演出で効果的でした。
現実のふたり(江口のりこさんと松尾諭さん)と、江口のりこさんが書いている小説作品『これは愛である』に出てくる登場人物の松岡茉優さんと千葉雄大さんが交錯、交流します。現実に存在する人物と想像上の人物の交流があります。
ところどころ難解でややこしい。
どうも笑いのツボが違うのか、若い女性を中心とした観客の人たちが爆笑することが複数回あったのですが、わたしたち年配夫婦はどうして笑えるのかわかりませんでした。若い人たちは、内容を熟知されているのでしょう。
原作どおりに映画をつくれないという原作者と映像製作者とのうまくいかない争いがあります。
先日わたしが、動画配信サービスで観た、三谷幸喜監督映画『ラジオの時間』と共通する題材です。
中学生の娘さんをもつ松尾諭さんが、思春期の娘に振り回されます。
娘のごきげんをとろうとして、娘の好きな人(ウンピョウという書道家 千葉雄大さん ひとり二役)をキャスティング(映画での役を割り振る)する方向へ話が進んで、雰囲気が明るくなるシーンがあって、いいなあと思いました。
人間の欲とか、損得勘定をうまく操ってある(あやつってある)会話表現で感心しました。
ウンピョウという書道家青年(千葉雄大さん)は、『愛』という字を同じ紙に何回も書いて、最後は、紙が真っ黒になる。(そういう発想が珍しい)。
松尾諭さんご夫婦がたくましい。好感をもちました。
けして、ひ弱ではない。だんなに愛情をもっているらしき江口のりこさんが登場しても、松尾諭さんの奥さんはどんと構えているのです。
奥さんは、今ある親子3人の家庭を崩壊させる気持ちなどさらさらないのです。むしろ、逆利用をして、なにかしら利益を得ようとするのです。ママの演技は迫力がありました。OKです。
なんというか、物語やドラマ、映画だと、繊細な気持ちをもつひ弱な男や女という設定で人間が描かれやすいのですが、現実社会を生きている人間は、むしろ野性的で、なにがあろうと負けるもんか!という暮らし方をしている人が多いと感じます。
ささいなことで弱気になっていたら、世間の荒波を乗り越えてはいけないのです。したたかに、強く前進です。
松岡茉優さんは演技上手です。感心しました。どんな性格・人格の人間でも演じられる女優さんだと感心しました。うまい!
ダスティン・ホフマン出演の洋画、『卒業 1967年(昭和42年)作品』が下地にあります。久しぶりにサイモンとガーファンクルの歌、『サウンド・オブ・サイレンス』を聴きました。なつかしい。
江口のりこさんがつくる物語、『これは愛である』の結末を、ハッピーエンドにするかしないかで、もめにもめます。
何のために書くのかという基本的な動機の話になります。
『書きたいから書く』(わたしはそう思います。具体的な理由なんてありません。人は、それぞれ個々の脳みそにその人だけがもつ『欲』が埋め込まれています。やりたいからやる。それだけです)。
最後は、みなさん何度もステージに出てこられて、拍手の中で頭を下げられていましたが、なにかひとことでもコメントをされたほうが、さらに良かったと思います。
マツケンサンバ歌謡ショーを観たときには、松平健さんが、『今夜のお客さんは、これまでで一番ノリが良かった』とコメントされて、会場が割れんばかりの拍手に包まれていました。
森公美子さん(もりくみこさん)の、『天使にラブソングを』を観たときには、森公美子さんが最後に観客席に向かって、『お客さん、サイコーー!!』と叫んでおられました。
(さらに思い出したことの付け足し(つけたし)として)
天井からブランコみたいに大きくて長い木の板のイスが下りてきました。木の幹のようでもありました。
ブラブラと揺れるそのイスを使って、じょうずにコントみたいなやりとりがなされていました。おもしろい。笑いました。
ブランコみたいなイスを揺らせて、松尾諭さんにぶつけて笑いを誘うのです。
(帰宅後、NHK大河ドラマ『光る君へ』を観ていて)
『ワタシタチはモノガタリ』の松尾諭さんと江口のりこさんの関係が、藤原道長(柄本佑さん(えもとたすくさん))と紫式部(吉高由里子さん)さんと重なりました。
松尾諭さんと柄本佑さんは編集者の立場で、江口のりこさんと吉高由里子さんが小説家の立場なのです。
ふたりの男子は、それぞれの女子の創作活動を支援していくのです。
2024年09月16日
アーティゾン美術館見学『空間と作品』 東京駅の東
アーティゾン美術館見学『空間と作品』 東京駅の東、駅から歩いて5分ぐらいのところでした。
クロード・モネ作品の『黄昏(たそがれ)』を観たかった。
天才画家・芸術家と呼ばれるピカソ本人が描いた絵を観たかった。
もう半世紀ぐらい前の話ですが、福岡県に住んでいたころ、高校の社会科見学で福岡県久留米市を訪れたおりに、バスで石橋美術館という美術館のそばを通った覚えがあります。
タイヤメーカーブリジストン(創業者は久留米市出身の石橋さんという方で、石と橋をひっくりかえして、ブリッジ+ストーン=ブリジストンと社名の由来を教えてもらった記憶があります)
アーティゾン美術館(アート(芸術)とホライズン(水平線)を合わせた造語だそうです)は、もとはブリジストン美術館からつながっているようです。ブリジストン美術館からアーティゾン美術館へと改名されています。
(以下が、見学後の感想です)
写真撮影可だったので、何枚も撮影しましたが、次の写真は、ピカソ(1881年-1973年 91歳没)の作品で、『腕を組んですわるサルタンバンク 製作年が、1923年(日本だと大正12年。ちなみに日本ではその年(とし)は、関東大震災があった年(とし)です』で、自分が一番気に入った角度で撮った写真が次のものです。
とても100年前に書かれたとは思えないようなくっきりとした美しい線でした。つい2・3日前に描いたのではないかと思えるようなきれいな絵でした。とくに、人物の目元の線は、彫りが深くくっきりとしていました。ピカソの作品は、彫刻も含めて、ほかにも数点の展示がありました。
わたしが一番美しいと感じた絵が、次の写真のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年 78歳没)の作品、『すわるジェルジェット・シャルパンティエ嬢 製作1876年(日本だと、明治9年』でした。キラキラとひときわ明るく輝いて見えました。さすが、ルノワール、印象派の画家だと感心しました。
ところが、同行の妻は、『そうかなあ』と言っていたので、やはり、見る人によって感想は変わるものだと理解しました。
次の写真は、こちらの美術館を訪れる動機になった絵です。
クロード・モネ(1840年-1926年 86歳没)の作品で、『黄昏(たそがれ) ヴェネツィア 製作1908年ごろ 日本だと明治41年ごろ』。
なんというか、見る前の自分の予想イメージだと、『たそがれ』なので、暗くて、うらぶれた雰囲気を期待していたのですが、実際に見ると、やはり印象派の画家らしく、絵は明るく輝いていました。自分としてはちょっと拍子抜け(ひょうしぬけ。あれ?! どうしたの?という感じです)しました。
あとは、わたしが中高生のときに、美術の教科書や、美術雑誌でよく見かけた絵がたくさん展示してあったので、『そうか、ここに(所蔵して)あったのか!』と、宝物を発見したような気持ちになりました。そして、展示してあるたくさんの絵は、ものすごい金額の財産だと、気が遠くなったのです。
次の写真は、岸田劉生(きしだ・りゅうせい 1891年-1929年 38歳没)の作品、『麗子像 製作1922年(大正11年)』です。美術関係の本でよく見かけました。
『麗子像』の絵は何枚もあります。モデルの麗子さんは、画家ご自身の娘さんです。
わたしが東京から愛知県の家に帰宅してから読んだ電子書籍の週刊誌で(サンデー毎日の「えびすごろく」です)、太川陽介さんとバス旅をしていたえびすよしかずさんが、最近、漫画家の長谷川町子美術館(東京世田谷区)を訪れて、『麗子像』の絵を観て感動したようなことが書かれていて、太川陽介さんとえびすさんのバス旅ファンのわたしは縁を感じました。
次の写真は、青木繁(1882年-1911年 28歳没)作品です。
初めてなにかの本でこの作品を観たときは、力強さに圧倒されるものがありました。今回こちらの美術館を訪れて、ここにあったのかと、これまた驚きました。
作品は、『海の幸 製作は1904年(明治37年)』です。
さて、今回の企画展のテーマは、『空間と作品』です。
空間の広がりを味わうことができた一番の作品は、わたしの場合は、次の写真の作品でした。
カミーユ・ピサロ(1830年-1903年 73歳没)の作品、『四季 夏』です。
絵をながめていると、すがすがしい気持ちになれます。
アーティゾン美術館には、2時間半ぐらい滞在しました。
また、訪れてみたいと思いました。
クロード・モネ作品の『黄昏(たそがれ)』を観たかった。
天才画家・芸術家と呼ばれるピカソ本人が描いた絵を観たかった。
もう半世紀ぐらい前の話ですが、福岡県に住んでいたころ、高校の社会科見学で福岡県久留米市を訪れたおりに、バスで石橋美術館という美術館のそばを通った覚えがあります。
タイヤメーカーブリジストン(創業者は久留米市出身の石橋さんという方で、石と橋をひっくりかえして、ブリッジ+ストーン=ブリジストンと社名の由来を教えてもらった記憶があります)
アーティゾン美術館(アート(芸術)とホライズン(水平線)を合わせた造語だそうです)は、もとはブリジストン美術館からつながっているようです。ブリジストン美術館からアーティゾン美術館へと改名されています。
(以下が、見学後の感想です)
写真撮影可だったので、何枚も撮影しましたが、次の写真は、ピカソ(1881年-1973年 91歳没)の作品で、『腕を組んですわるサルタンバンク 製作年が、1923年(日本だと大正12年。ちなみに日本ではその年(とし)は、関東大震災があった年(とし)です』で、自分が一番気に入った角度で撮った写真が次のものです。
とても100年前に書かれたとは思えないようなくっきりとした美しい線でした。つい2・3日前に描いたのではないかと思えるようなきれいな絵でした。とくに、人物の目元の線は、彫りが深くくっきりとしていました。ピカソの作品は、彫刻も含めて、ほかにも数点の展示がありました。
わたしが一番美しいと感じた絵が、次の写真のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年 78歳没)の作品、『すわるジェルジェット・シャルパンティエ嬢 製作1876年(日本だと、明治9年』でした。キラキラとひときわ明るく輝いて見えました。さすが、ルノワール、印象派の画家だと感心しました。
ところが、同行の妻は、『そうかなあ』と言っていたので、やはり、見る人によって感想は変わるものだと理解しました。
次の写真は、こちらの美術館を訪れる動機になった絵です。
クロード・モネ(1840年-1926年 86歳没)の作品で、『黄昏(たそがれ) ヴェネツィア 製作1908年ごろ 日本だと明治41年ごろ』。
なんというか、見る前の自分の予想イメージだと、『たそがれ』なので、暗くて、うらぶれた雰囲気を期待していたのですが、実際に見ると、やはり印象派の画家らしく、絵は明るく輝いていました。自分としてはちょっと拍子抜け(ひょうしぬけ。あれ?! どうしたの?という感じです)しました。
あとは、わたしが中高生のときに、美術の教科書や、美術雑誌でよく見かけた絵がたくさん展示してあったので、『そうか、ここに(所蔵して)あったのか!』と、宝物を発見したような気持ちになりました。そして、展示してあるたくさんの絵は、ものすごい金額の財産だと、気が遠くなったのです。
次の写真は、岸田劉生(きしだ・りゅうせい 1891年-1929年 38歳没)の作品、『麗子像 製作1922年(大正11年)』です。美術関係の本でよく見かけました。
『麗子像』の絵は何枚もあります。モデルの麗子さんは、画家ご自身の娘さんです。
わたしが東京から愛知県の家に帰宅してから読んだ電子書籍の週刊誌で(サンデー毎日の「えびすごろく」です)、太川陽介さんとバス旅をしていたえびすよしかずさんが、最近、漫画家の長谷川町子美術館(東京世田谷区)を訪れて、『麗子像』の絵を観て感動したようなことが書かれていて、太川陽介さんとえびすさんのバス旅ファンのわたしは縁を感じました。
次の写真は、青木繁(1882年-1911年 28歳没)作品です。
初めてなにかの本でこの作品を観たときは、力強さに圧倒されるものがありました。今回こちらの美術館を訪れて、ここにあったのかと、これまた驚きました。
作品は、『海の幸 製作は1904年(明治37年)』です。
さて、今回の企画展のテーマは、『空間と作品』です。
空間の広がりを味わうことができた一番の作品は、わたしの場合は、次の写真の作品でした。
カミーユ・ピサロ(1830年-1903年 73歳没)の作品、『四季 夏』です。
絵をながめていると、すがすがしい気持ちになれます。
アーティゾン美術館には、2時間半ぐらい滞在しました。
また、訪れてみたいと思いました。
2024年07月15日
東京 憲政記念館見学
東京 憲政記念館見学
国立国会図書館のお隣にありました。
近くに国会議事堂があります。
今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。
伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。
大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)
板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。
時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。
今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。
ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
中学生だったわたしは、とても不思議でした。
公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。
田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。
もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。
山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。
同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。
山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。
憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
そのこともここに書き添えておきます。
国立国会図書館のお隣にありました。
近くに国会議事堂があります。
今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。
伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。
大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)
板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。
時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。
今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。
ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
中学生だったわたしは、とても不思議でした。
公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。
田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。
もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。
山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。
同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。
自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。
山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。
憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
そのこともここに書き添えておきます。