2024年07月15日

東京 憲政記念館見学

東京 憲政記念館見学

 国立国会図書館のお隣にありました。
 近くに国会議事堂があります。
 今は、一時的な建物のようで、小規模な展示でした。
 近くに大きな記念館を建てる予定があるようです。



伊藤博文:1841年(天保12年)-1909年(明治42年)68歳暗殺により没。初代内閣総理大臣。

大隈重信:1838年(天保9年)-1922年(大正11年)83歳没。内閣総理大臣。早稲田大学創設者。(慶応大学の創設者が、福澤諭吉)

板垣退助:1837年(天保8年)-1919年(大正8年)83歳没。内務大臣。自由民権運動の創始者。国会を創った(つくった)男と称される。

 時代背景として、わたしから見ると、わたしのひいおじいさんとか、ひいおばあさんの時代です。わたしの母方祖父が生まれたのが、1907年(明治40年)です。ひいおばあさんは、わたしが中学生のときに94歳で亡くなったので、明治時代を身近に感じることができます。



 今年一月に国会の衆議院を見学したのですが、こちらの記念館に似たような形式の展示部屋がありました。次の写真です。
 椅子は木製で、背もたれは垂直で、座りやすいとはいえず、長時間になるとたいへんだろうとお察しします。背もたれの部分はこすれて、布の表面が色落ちしていました。



 ちょっとびっくりしたのは、次の写真の展示でした。
 わたしは、小学生のときに数年間、栃木県の山奥にある足尾町(あしおまち。現在は日光市)というところで過ごしました。昔は銅山でした。
 日本最初の公害発生地(1890年から1891年(明治23年から明治24年)だということは、足尾町を離れてからの中学校での学習で知りました。
 中学生だったわたしは、とても不思議でした。
 公害関連資料では、鉱毒事件とか、大気汚染で山がはげ山になったとか書いてあるのですが、わたしが知る足尾町は、自然が豊かで、山は緑多く、渓流はきれいでカジカという小魚が泳いでいました。ことに、夏の渓流遊びは楽しかった。紅葉もきれいでした。
 おとなにとっては、暮らしにくいところだったかもしれませんが、冬は雪国のように雪が積もり、こどもたちは、雪遊びをしてずいぶんと楽しい思いをしました。土そり(どそり。手づくりのそり遊び)とか、スキーとか、屋外では、雪が積もって凍った生活道路でのスケート遊びとか、かまくらづくり、雪だるまづくり、雪合戦、小学校の教室は石炭ストーブで暖かく、トランプ、手芸、馬飛び、クリスマス会なんかをして遊びました。
 成人してからも10年に1回ぐらいのペースで現地を訪れていましたが、すっかりさびれてしまい、今では思い出の地という記憶の中だけの町になりました。
 ときおりテレビの旅番組やドラマで、わたらせ渓谷鉄道の映像を見ます。なつかしい。乗ったこともあります。わたしが住んでいたころは、蒸気機関車が走っていました。昔は、足尾線(あしおせん)と呼んでいました。

田中正造(たなかしょうぞう):1841年(天保12年)-1913年(大正2年)71歳没。衆議院議員。1901年(明治34年)明治天皇に足尾銅山鉱毒事件に関して直訴(じきそ。正式な手続きを経ずに(へずに)直接訴える)した。

 もうひとつの出来事として、昨年7月に、東京三鷹市にある小説家の山本有三記念館を訪れたときに、山本有三氏が、足尾銅山で働いていたという展示を見ました。

山本有三(やまもとゆうぞう):小説家、劇作家、政治家。1887年(明治20年)-1974年(昭和49年)86歳没。

 同氏の作品、『路傍の石(ろぼうのいし)』は、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)が、恵まれない環境にあってもめげずにがんばるお話です。わたしは、中学生のときにその本を読みましたが、自分と吾一少年を重ね合わせながら、自分もがんばらなければと、ずいぶん励みになりました。
 『路傍の石』は、昭和12年ころ(1937年ころ)執筆された作品で、時代背景は明治時代、主人公の吾一少年(ごいちしょうねん)は、丁稚奉公(でっちぼうこう。当時の小学校を出て、商家に住み込みをしながら、読み書き計算、商売のしかたについて学ぶ)に出されていろいろな苦労を重ねるという内容だったと思います。
 さきほど少し書きましたが、自分の母方の祖父が明治40年(1907年)生まれで、吾一少年と同じような体験をした人でした。自分が中学生の時に、祖父からは、奉公先での苦労話などを聴きました。祖父はまじめな人でした。

 自分の人生において、何年かに一回、ポイント(点)みたいに、『足尾銅山』という地名が自分の目の前に出てくるので縁を感じています。

 山本有三氏は、1910年(明治43年)ご本人23歳の時に、栃木県の山奥にあった足尾銅山で労働体験をされて、その後、体験をもとにして、戯曲作品『穴』を書いておられます。


 
 憲政記念館の窓口でいただいたパンフレットには、尾崎行雄氏のお名前が書いてありました。
尾崎行雄(おざきゆきお):1858年(安政5年)-1954年(昭和29年)95歳没。司法大臣、文部大臣、衆議院議員。尾崎記念会館が、衆議院に寄贈されて憲政記念会館になったと書いてあります。
 そのこともここに書き添えておきます。  

Posted by 熊太郎 at 07:00Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年07月14日

国立国会図書館を見学する。

国立国会図書館を見学する。

 今年の一月は、国会の衆議院を見学しました。
 そのとき、国会の横にある国立国会図書館が見学できることを知りました。
 事前に電話で国立国会図書館の担当者の方とやりとりなどをして、見学の予約がとれました。
 以前、なにかのテレビ番組で、図書館内を紹介していました。NHKだったと思います。地下深くにある書庫の映像が出ていた記憶です。

 次の写真で、右側の建物が、『新館』です。まずそこで利用者登録をしました。午前11時半ごろに入館しました。(4時間ぐらい滞在しました)
 新規登録希望者は、自分たち夫婦しかいないだろうと思って行ったら、待合場所にたくさんあるベンチに若い人たちがたくさん座っていて、登録利用者カードの交付待ちをしていたのでびっくりしました。
 運転免許試験場で、更新後の運転免許証を受け取るシーンに似ていました。ただし、ひとりずつ呼ばれて、名前の確認等がなされます。
 登録利用者カードをもらって、駅の改札口みたいな入口を通って中へ入りました。新館と本館はつながっています。
 お昼時だったので、本館6階にある食堂でランチを食べました。職員食堂みたいな雰囲気のところでした。お弁当持参の人が利用できるテーブルやイスの区域もありました。
 
 今回訪問した目的は、もう二十年ぐらい前に自費出版した自分の本が国立国会図書館に所蔵されているので、見てみたかったのと、おそらく本のどこかに『国立国会図書館所蔵』みたいな表示があるに違いないと思い、記念に本の表紙と所蔵図書館名部分のコピーをもらおうというものでした。されど、目的の本を申し込んで受け取るまでに20分ぐらいかかりそうで、そのあと複写をお願いしてもまた順番待ちの時間がかかりそうでした。
 国立国会図書館内の参観開始時刻が午後2時からだったので、自費出版した自分の本を確認するのはまた今度来た時でもいいかと思い、本館6階の食堂を出たあと、コーヒーでも飲もうと、本館3階の喫茶室へいきました。
 行ってみて、そこで食事もできることを知りました。観光客の場合は、職員食堂の雰囲気がある本館6階の食堂よりも、こちらの本館3階の喫茶室のほうが、居心地がいいと感じました。観光中とみられる若い女性たちや少人数連れの外国人客の姿がありました。(その後、帰宅してから、新館の1階にも喫茶室があることに気づきました)

 次の写真の左側にある建物が、『本館』です。
 午後2時から予約してあった図書館内参観集合場所は、本館の南入口でした。写真にあるのは、本館東側にある一般利用者入口ですから、その前を通り過ぎて、右に曲がり、南側入口から中に入って、すぐ右にあるカウンターで警備員さんに話をして紙に名前を書きました。国会議員が図書館を利用するときはこの出入口から入るようです。



 本館東側一般利用者入口のそばにあったオブジェです。(オブジェ:美術作品)



 オブジェの反対側には、人間の像がありました。
 やせたヨーロッパ人に見えました。男か女かの性別は判然としません。
 妖精みたいなものだろうか。



 参観では、ほかに申し込みをされた方もいっしょになって回り、職員さんに案内してもらいました。たくさんの質問などのやりとりもさせてもらいました。ご丁寧な説明をありがとうございました。

 次の写真2枚は、地下30mの位置にある書庫の吹き抜け最下部から上方向を撮影したものです。
 一番上の明るい窓が、地上の地面の位置にあります。外から見ると最上部は温室のようなつくりでした。
 ここは、灯り(あかり)とりのための吹き抜けです。地下の書庫空間を照らす役目を果たしているそうです。地下書庫で仕事に従事される職員さんも、労働時間のほとんどを地下ですごすようですので、たまに、書庫から吹き抜け部分に出て、外の空気に触れると心身にいいでしょう。



 次の写真で、正面、斜めになっている部分は階段です。
 書庫の空間が、何層にも重なって、地下ビルの階層のようになっています。



 いくつか、感想を並べてみます。
 図書館ですが、利用者が利用する部分で、利用者が本を手に取れるような書庫とか書架、本棚がないことに驚きました。
 たくさんパソコンが並べてあるスペースがあります。
 パソコンで借りたい本を選んで申し込むそうです。
 申し込んだあと、目的の本が受け取りカウンターに届いているのかをパソコンで確認してカウンターまで受け取りに行くそうです。
 複写の依頼も同じようなやりかただと感じました。自分で、コピー機にコインを入れてコピーするのではなく、職員が事務室内でコピーしてくれたものを受け取るのです。
 コピー代に1円未満の端数があるのが不思議でした。カラーA4だと1枚消費税込104.50円。白黒A4だと1枚税込27.50円、白黒A3だと1枚税込47.3円。支払う時、円未満が出ないような枚数を複写するのかなあと思いました。単位『銭(せん)』の支払いはできませんものね。
 
 館内には、旅行バッグなどは持ち込めません。
 ロッカーに預けて、ロッカー室にたくさんぶらさげてある透明のバッグに貴重品だけを入れて持ち歩きました。本の盗難防止のためなのでしょう。透明バッグには、ペットボトルを入れることができる部分がありました。
 ロッカーを使用するときに100円玉がいります。100円玉は、使用後戻ってきます。

 なんというか、地下書庫には、ものすごい量の本が保管されていました。
 歴史があります。
 明治10年(1877年)西南戦争のときの新聞を見せてもらいました。熊本県での激戦地田原坂の戦い(たばるざかのたたかい)の記事でした。去年12月に鹿児島市内観光に行ったのですが、西郷隆盛終焉(しゅうえん。命の終わり)の地あたりを見学したことを思い出しました。

 地下書庫の通路から書架を見ただけですが、自分が二十代だったころに読んだマンガ本、『少年サンデー』が、本棚にずらりと並んでいて、背表紙を見て、西暦の数字が書いてあって、なつかしかった。心が不安定な若い時期に、マンガに支えられたということはあります。

 国立国会図書館の仲間として、関西館(京都府精華町せいかちょう)と国際子ども図書館(東京上野公園内)があることを知りました。  

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2024年07月13日

靖国神社見学

靖国神社見学

 訪問は二回目です。
 前回の見学は、記録を見ると、2014年(平成26年)3月ですから、10年ぐらい前です。
 前回は小雨が降っていました。今回は炎天下の夏です。
 前回は、沿道では、バザーをやっており、外国人の売り手もいて、なんだか外国のストリートに来ているようでした。同行したわたしの妻の記憶では、バザーで、わたしの靴下を買ったそうです。わたしはもうそのことは覚えていません。そのとき、わたしの靴下がなにかしらで濡れたか汚れたかしていたので買ったらしいです。
 今回の沿道では、7月13日土曜日から数日間開催される行事の準備をされていまいた。掲示物には、『みたままつり』と書いてあった記憶です。
 沿道では、作業員の方々が、人や組織の名前が書いてある小型のちょうちんをたくさん吊り下げる作業をされていました。







 次の写真にある屋根の下につりさげてある紙でつくられた球体をした装飾(そうしょく)工芸品のようなものがきれいでした。手毬(てまり)を意味しているのかもしれません。



 次の写真で、左右にずらりと並んでいるのが小型の黄色いちょうちんです。中は電球です。夜に来ると風情(ふぜい)が湧くでしょう。
 ちょうちんには、わたしが知っている全国各地の地名が書いてあり、身近に感じました。戦没者の遺族会とかが関係しているのかもしれません。



 帰宅してから気づいたのですが、次の写真の右にある石の柱に先日落書きがされて問題になっています。
 記事を読むと、落書きをするためにわざわざお金を払ってスプレー缶を購入しています。お金を使って、時間を使って、労力を使って落書きという行為をしたことにあきれました。
 人の物を傷つけたり壊したりすることは犯罪です。そんなこともわからない人の脳みそは、まだこどもの脳みそです。
 なにか主張があるようですが、口実でしょう。こうじつ:つくった理屈(りくつ)。真相は、ただやってみたかった。おもしろそうだった。やんちゃな幼児か、人に迷惑をかけて目立ちたい年頃の中学生みたいです。

 靖国神社には、戦争で亡くなった人たちの霊(れい。魂たましい)が祀られています。(まつられています:尊敬し心をなぐさめ感謝する)。政治的にはいろいろ考えの対立もあるようですが、関係者遺族にとっては、心休まる場所でしょう。さかのぼれば、太平洋戦争の時に、うちの親族にも若くして兵隊に行って亡くなった人はいました。夏の暑い時期、お墓参りに行ったときに、父方の祖父母が、戦争で亡くなった自分たちのこどもの名前をしきりにつぶやいていました。


  

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2024年07月12日

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

マツケンサンバを見に行く。東京明治座

 昨年12月に松平健さんが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じた忠臣蔵(ちゅうしんぐら)のドラマを毎日夜BS放送で観ていました。
 翌月1月に、東京品川駅の近く、高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)から歩いて、四十七士(しじゅうしちし)のお墓がある泉岳寺(せんがくじ)に行き、志士の皆さんのお墓参りをしました。
 そのとき、松平健さんのマツケンサンバをじかに観てみたいという欲求が湧いてきました。楽しいだろうなあーーー
 ということで、今月7月に東京駅近く、明治座で松平健さんデビュー50周年記念公演があることを知り、チケットぴあの抽選に申し込みました。当たりました。前から6列目の席でした。夫婦で観てきました。よかったーーー サンバ棒(ペンライト)を振り回しながら、盛り上がりました。マツケンサンバーーー オレーー オレーー マツケンサンバーーーです。

 次の写真は、記念写真を撮るところで、開演前には長い列ができていました。
 終演後は入れなくなっていて、観客のみなさんはもうほとんど外へ出て行かれたあとです。そばにあるトイレを利用されるお客さんがウロウロされているだけでした。







 次のポスター写真、『明治座 暴れん坊将軍』は、建物の玄関入口横にありました。
 終演後、夜9時を過ぎて人は少なかったのですが、観劇を終えた人たちが、順番にポスターの前で記念写真を撮っておられました。
 わたしたち夫婦がスマホで慣れない自撮りをしていると、『撮りましょうか?』と、声をかけてくださる親切な方がいて、本当に助かりました。
 この日は、東京駅構内にある『一番街』というところで、ポケモンの絵が描いてある壁の前で自撮りの記念写真をとっていたら、そばにいた日本語を話す小学生高学年ぐらいの外国人の男の子や女の子たちが5~6人近づいてきて、非常にていねいな日本語で、写真をとってあげましょうかと声をかけられました。フランス人かスペイン人みたいな顔立ちをしたこどもたちで、彼らから見れば、私たち夫婦は、おじいさん・おばあさんなのですが、ゆっくり何枚も写真を撮ってくれました。ありがとう。
 東京では、どこへ行っても、写真撮りましょうか?と声をかけてくださるので助かります。ご親切に感謝します。



 自分自身は、写真撮影がにがてで、次のポスターも、天井の照明灯がまんなか付近に反射して写ってしまいました。



 次の写真が公演のタイムテーブルです。(時間割り)
 途中30分ずつ、計1時間の休憩をはさんで、演劇『暴れん坊将軍』の第1部・第2部、そのあと歌のショーという構成です。
 わたしたち夫婦は夜の部で、午後4時前に入場して、終わったのは午後9時ぐらいでした。
 夕ご飯は、劇場内でお弁当を売っていて、幕間休憩のときに席で食べておられる方がそこそこおられました。
 わたしたちは、劇場内で売っていた、きびだんごとか、お菓子のたぐいを食べました。
 晩ごはんは、終演後人形町駅のそばにある居酒屋で食べましたが、仕事を終えた若い男女の人たちがたくさんで、店内は話し声がざわざわと満ち足りていて活気がありました。
 日本橋人形町という場所柄、優秀な能力をもった有名な会社の社員さんたちが集まっているのだろうと勝手な思いをもちながら若い男女のサラリーマンの皆さんたちをながめていました。雰囲気に勢いがあります。もうずいぶん前のことになりますが、自分もああして働いていたのだなとなつかしかった。
 たくさんいる若い店員さんたちは外国人がほとんどのようすで、カウンター席の角にふたりで座ったのですが、厨房(ちゅうぼう)にあるホワイトボードには、アラビア語で業務に関する連絡事項が書かれていました。中東系の人やアジア系の人たちが働いておられましたが、みなさん業務処理能力が高そうな人たちで、てきぱきと働いておられたので感心しました。あんがい本国では、国立大学ぐらいで学ぶような人たちかもしれないと、これまた勝手な推測をしました。



 東京駅から明治座へは、路線バスで行きました。
 これまで知らなかったのですが、東京駅周辺を巡る無料の巡回バスがあります。ふたつのルートがあります。
 次の写真がバス停の位置にあって、メトロリンク日本橋eラインというバスに乗りました。バスは、前から乗って後ろからおります。
 バスの乗客は外国人観光客が多いのかなと予想しましたが、おもに地元の人たちが利用されているように感じました。
 バスの時刻表はなく、わたしたち夫婦が利用したルートは、一周40分ぐらいで2台がまわっているように見えました。ですので、20分ごとにバスがくるような感じです。専用のアプリをスマホに入れると、今バスがどこにいて、何分後に自分がいるバス停にバスが来るのかが、わかるようになっています。便利です。



 宿泊は、明治座のそばにあるホテルに泊まりました。道を隔てて(へだてて)建っていました。
 次の写真では、ちょっと手前のビルが重なっているのですが、部屋から東京タワーが見えました。
 
 ときどき、都内のホテルに泊まるのですが、朝食会場は外国人のかたばかりで、食事をしていると、なんだか外国にいるような気分になれます。欧米の人もアジアの人もいろんな国籍の人たちで、ちびっこ連れのファミリーから年配の人まで、老若男女がたくさんです。

 明治座の前の道路が、広い道路で、なおかつ一方通行だったのでびっくりしました。
 5車線ぐらいありました。一方通行だから歩行者にとっては安全です。



 さて、かんじんの暴れん坊将軍とマツケンサンバ歌謡ショーの感想を、思い出すままに書き落としてみます。

 『暴れん坊将軍』の演劇が始まる前に注意喚起のアナウンスが流れるのですが、その内容が笑えます。
 『上様から(うえさまから)お知らせがあります。守れない人は、成敗(せいばい)します……(せいばい:やっつける。こらしめる)』

 客層ですが、5月に愛知県半田市内のホールで見た綾小路きみまろさんの毒舌漫談のときには、ほぼみなさん高齢者とその付き添いの方たちでしたが、今回の松平健さんのショーは、老若男女がいて、ファンの年齢層が幅広い。若い男女の人たちもけっこう見かけました。

 まあ、すごい数の人です。自分たちの開演前に、昼の部を観た人たちの退出があったのですが、帰られる人たちが乗った観光バスが何台も出発していきました。
 たとえば、なにかの企業の顧客の人が招待されてきているような感じでした。
 けっこう長時間の公演なので、一日二回公演があるときは、運営する側の人たちはてんてこまいでしょう。

 演劇についてです。
 舞台装置がとてもきれいです。大道具さんとか、小道具さんの技術力が高い。
 途中、川のそばで演じるという設定があったのですが、川の水が本当に流れているように見えて不思議でした。
 全体をとおして、舞台芸術を見ているようでした。

 わたしは、自分が中学生だったお正月のときに母方の祖父に連れられて、福岡県の地元の劇場(嘉穂劇場かほげきじょうといいます)へチャンバラ演劇を観に行ったときのことを思い出しました。
 祖父ももうとうの昔に亡くなりましたが、いい思い出です。『暴れん坊将軍』のステージを観ながらそんなことを思い出しました。

 『照明の操作』がとてもおじょうずです。
 照明が、演者と会話をしているような感覚をもちました。
 たいしたものです。

 音楽もぴったり内容と一致しています。
 観ている人の感情を誘導したり、揺り動かしたりする力が音楽にはあります。
 長年の技術や知識の蓄積が重厚にあるのでしょう。

 松平健さんの色とりどりに変化する衣装がステキです。
 仮装大会のようでもありますが、派手で、観ていて気持ちがいい。
 松平健さんが、赤い色の着物姿になったときは、お笑い芸人のコウメ太夫(こうめだゆう)さんみたいになりました。わたしは、小梅太夫さんのファンなので嬉しかった。ギャグ、『チックショー』がセリフで出てもおかしくないようなお衣装でした。

 物語の柱は、暴れん坊将軍徳川吉宗の正義の味方とか、勧善懲悪(悪をこらしめる)、人情重視を下地にしてのカリスマ化(英雄扱い)があります。現実社会ではなかなか実現しない、こうだったらいいのになという理想です。

 登場する人物設定で、徳川吉宗に政策面で対立する相手は、尾張藩の徳川宗春のイメージなのでしょう。
 まじめに考えると、お金は節約して貯めるだけでは経済は回らないのです。お金は使って、経済を回転させて、景気を良くしていかねばならないのが基本です。

 ときおり、盆踊りとかパラパラダンスとかが入ります。いろんな踊り・ダンスが入ります。マツケンさんの衣装も、アラビア風(マハラジャ)、インド風に見えるときもあります。長崎県島原の乱のときの隠れキリシタン天草四郎時貞のような雰囲気の時もありました。多国籍であり、多数の時代にいたであろう人物像です。
 女性の演者の方たちは、ヘアースタイルが日本髪なので和風の踊りや洋風のダンスをするときはたいへんでしょう。ふつうのヘアースタイルでもかまいませんよ。

 舞台で目安箱が出てきます。入館時、劇場内に置いてあった目安箱です。
 開演前に観に来た人が、その目安箱へ投書することが可能でした。
 マツケンさんが、ステージ上で、目安箱から紙を取り出して投書を読み上げられました。リアルに観劇されている人の文章でした。なかなかいい。

 あとさきになりましたが、マツケンさんの冒頭の登場シーンは、白馬にまたがっている姿でした。かっこいい。うちの小学校低学年の男児の孫が観たら、そういう凛々しい(りりしい)姿が好きなので、きっと真似をしたがるでしょう。

 火消しチームのチームワークがいい演技でした。まとまっています。

 マツケンさんの刀さばき(かたなさばき)は、こどものときに映画館で観た『大魔神』のイメージで力強く豪快でした。見ごたえがありました。

 マツケンさんの歌唱は、声に伸びがあります。70歳という年齢を感じません。
 きちんとした正確な歌い方をされるので好感をもちました。力まず、リラックスして、なめらかに歌っておられます。
 
 とにもかくにも明るいのがいい。キラキラ輝いています。
 
 劇中の流れとか、歌の趣旨として、『きょうは、仕事にいきたくないなあとか、(雰囲気として)きょうは学校に行きたくないなあとか思ったとしても、いかなければならいこと、やらなければならないことは、気持ちに折り合いをつけて、ちゃんとやろう。うん。そうしよう……』というような意思が感じられる応援歌に聞こえました。(わたしなりの感じ方、受け止め方です)。それが良かった。劇中で流れた言葉として、『それでも明日(あした)はくるのです』があった記憶です。

 これだけの舞台を仕上げるのには、相当な時間と労力を費やして企画されたのであろうとお察しします。演劇・歌謡ショー企画チームと、表舞台には出てはこない裏方スタッフのみなさんのご苦労をお察しします。

 毎日のように何回も同じ内容で公演されるわけで、どうもそのときの客層で、反応が異なる時があるようです。
 松平健さんの最後のあいさつの内容として、今まで演じてきた中で、今回のお客さんは、一番ノリが良かったというようなお話があって、確かに、会場全体がまるで、若い人たちの音楽フェスティバルのような熱気と興奮で盛り上がっていました。まあ、それだけふだんたまっているものがあるのかもしれません。
 最後に舞台上でずらりと横に並んで、演者のみなさんがたからサヨナラのあいさつがあるのですが、涙ぐんでおられる演者のかたも複数おられて、やはり演者のみなさんは感受性が強い方が多いなと納得して安心しました。
 観ているこちらも、(これまでイヤなことがたくさんあったけれど)生きててヨカッターという気持ちになれました。

 自分は十代後半のころは、こういう舞台や脚本をつくるような仕事をしたいと思ったこともありますが、それでは食べていけないわけで(生活が成り立たない)、あきらめて地道に働いて歳をとりました。
 あと何年ぐらいこの世にいられるかわかりませんが、若かったころの夢を思い出しながら、これからもステージなどを観る側の立場で楽しませていただきます。  

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2024年05月18日

東京証券取引所 日本橋 貨幣博物館 日本銀行

東京証券取引所 日本橋 貨幣博物館 日本銀行

 昨年秋に訪れて、『株式投資』のカテゴリー(項目)に入れていた記事の一部分について、観光案内を目的として、カテゴリー『東京』にも再掲しておきます。

 最初に見学したのは、東京証券取引所です。東証アローズです。
 無料で見学ができました。写真撮影もできました。そこそこの人数の見学者がありました。外国の人も見学されていました。
 なんというか、いい職場だなーーと勝手な解釈をしました。静かです。見学者の人たちはどなたも上品そうです。
 医療とか福祉の仕事だと、生きるか死ぬかで悩んだり、すったもんだしたりするのですが、お金扱いのことだけなら生きるか死ぬかまではいかないので安心な仕事だと、熊太郎夫婦は見学を終えて話をしたのでした。こちらは、『損か得か』の世界です。



 次の写真は、儀式の時に鳴らす鐘です。



 次のパネル写真は、大河ドラマの素材になった渋沢栄一さんです。
 以前本を読んだことがあります。『現代語訳 論語と算盤 渋沢栄一 守屋淳・訳 ちくま新書』渋沢栄一:1840年(天保11年)-1931年(昭和6年)91歳没 1968年が明治元年 農家、武士、官僚、実業家、慈善家。この本は、渋沢栄一さんが書いたものではなく、渋沢栄一さんの講演の口述をまとめたものだという説明が冒頭にあります。
 渋沢栄一さんは、「近代日本の設計者の一人」と「はじめに」の記述にあります。設立に関わった会社が481社、500以上の慈善事業に関わった。
 資本主義は、金もうけが推進力だから、ときに、大きな惨事を引き起こす。バブル経済の崩壊、金融危機があったとあります。それにブレーキをかけるのが孔子の「論語」とあります。「人はどう生きるべきか」を前提にして経済活動を行う。









 先日三重テレビで放送されている株式の番組『東京マーケットワイド』を観ていたときに、次の写真のまんなかにある空間で上場の儀式が行われていました。エスカレーターをおりて、わたしたち夫婦もその場所に立ってみました。とても静かでした。



 見学を終えて川沿いに歩き始めたら、『兜神社(かぶとじんじゃ)』がありました。
 世界が平和で、みんながお金持ちになりますようにと、おさいせんを100円入れてお参りしておきました。



 日本橋のモニュメントです。橋の欄干(らんかん)にある青銅の麒麟像(きりんぞう)です。モニュメント:記念碑(きねんひ)



 日本銀行と道をへだてて建っている『貨幣博物館』を見学しました。無料です。手荷物検査があります。館内の写真撮影はできません。
 孫たちが好きな『人生ゲーム』が、ガラス張りの中にある棚に展示してあったので、ひっくりかえるほどびっくりしました。ただし、孫の人生ゲームは、ドラえもん版の人生ゲームです。細長い紙の箱に、おもちゃのお札が種類別に差し込んであるつくりはいっしょです。
 館内では、貨幣の歴史が詳しく、実物を展示しながら説明がなされていました。小判とか紙幣とか、外国のものも含めて展示があります。けっこうたくさんの人が見学されていました。



 貨幣博物館の出入口付近から日本銀行の建物を撮影しました。木の枝がいっぱいでうまく撮影できませんでした。
 事前予約で日銀の見学ができるそうなので、いつか中を見学したいものです。



 東京は、狭い区域の中にぎっしりとたくさんのものが凝縮されています。
 便利ではありますが、少し疲れます。  

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2024年01月28日

泉岳寺見学 忠臣蔵

泉岳寺見学(せんがくじ) 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)

 東京からの帰路、予定が変わって、品川駅で予約してあった新幹線の発車時刻まで2時間ぐらい時間ができたので、前々から行きたかった品川駅の近くにある泉岳寺を訪問しました。
 泉岳寺に近い品川駅からの最寄り駅は、『高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)』でした。駅周辺は複数の高層ビルディングが建築中で、お寺さんまで、工事現場の中を歩いて行くような感じでした。
 次の写真では、お客さんを写さないように、上のほう、駅名表示だけを撮影しました。

 駅を出て歩いて、付近を住民であろう街歩きをする人たちは、女性もこどももおしゃれな感じのファッションをされていました。住む世界がわたしとは違うようです。こどもさんがしょってるランドセルは見たこともない高級感がありました。ママのお洋服の生地が高級そうに見えました。

 忠臣蔵は、先月12月にテレビのBS放送連続ドラマで観ました。松平健さんが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じておられました。(いつか、マツケンサンバをじかに観てみたい。楽しいだろうなあ)







 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんの立派な銅像が迎えてくれました。



 赤穂事件(あこうじけん):1701年4月21日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家(こうけ:儀式典礼を指導する役職)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に短刀を抜いて切りつけた。刃傷(にんじょう):刃物で人を傷つけること。浅野内匠頭長矩は即日切腹の処分を受けたが、吉良上野介義央はおとがめなし。喧嘩両成敗とはならず。(自分なりに考えると、浅野内匠頭長矩の人格を否定するような言動が吉良上野介義央にあったのだろうと推測するのですが真相はわかりません)。当時は、紛争を平穏におさめるために、『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』が事態収拾の定石(じょうせき。きまりきったかたち。最善策)であったようです。でも、そうではない一方的な処分になったことから赤穂藩側の怒りが高まったととれます。
 赤穂藩は改易(かいえき:侍に対する罰。平民とする。赤穂城は明け渡し)となり、その後、再興の道も閉ざされた。
 赤穂藩で筆頭家老だった大石内蔵助始め47人のメンバーは、1703年1月30日(元禄15年12月14日)吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちを果たし、吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。討ち入りをしたメンバーは、幕府の指示に従い切腹し、主君と同じく、泉岳寺に葬られた。

 仇討ちのメンバーは、大石内蔵助からの強制ではなく、真に仇討ちをしたい人間だけが選抜されたとなにかで読んだ記憶があります。

 境内(けいだい)に墨で文字が書かれた太い木の柱が立っていました。
 以前、長野県にある善光寺でも、訪れたときに、似たパターンで柱が立っていました。











 以下が、四十七士の(しじゅうしちし)の方たちのお墓です。



 景色の背景に、高輪ゲートウェイ駅あたりで建築中の近代的なビルが写っており、江戸元禄(げんろく)時代の風景と令和6年の高層ビルが同じ写真の中にあり、これはこれで、東京らしい光景です。



 父と子、義父と子の組み合わせで亡くなっているパターンが多い。年長者と若者という組み合わせです。子どもたちの年齢は若い。



 次の墓が、大石内蔵助のお墓です。



 木造建物の中、左にある墓石に大石主税(おおいしちから)と書いてありました。大石内蔵助の息子さんです。16歳でした。まだ若い。



 次が、浅野内匠頭のお墓です。
 たまたまお線香が、ぼうぼうと炎をあげて燃えていました。
 この場所に吉良上野介の首を供養で置いたのだろうか。(わたしなんぞは、人は死んだら終わりと考える人間なので、理不尽さがあったとしてもがまんして、農民として、畑仕事をやりながら生き続けたいと考えるのです)



 仇討ち(あだうち)に関していろいろ考えがあるのでしょうが、自分は自分なりに自分の読書歴から考えてみました。主君の無念をはらすことに加えて、自分のプライドを維持するために報復するということがあるのでしょう。

 以前、各種職業を体験された人たちの体験本をシリーズで何冊か読んだことがあります。
 共通するのは、『恨み(うらみ)』でした。上司や顧客、同僚や後輩からパワハラやカスタマーハラスメントで、人格を否定するような激しい叱責を受けて、相当な憎悪心(ぞうおしん)を各自がもたれて、がまんされて、最後は定年や中途で退職されていました。
 そのとき思ったのは、加害者側として身に覚えのある人は気をつけたほうがいい。お互いに権利義務関係がない状態で偶然出会ったときは、被害者はカッとなって、加害者に罵声を(ばせい)を浴びせたり、ビンタの一発も飛ばしてきたりするかもしれません。
 ハラスメント行為(困らせる。悩ませる。いやがらせをする。人格否定をする。仲間はずれにする)をされたほうは、一生相手に対する恨み(うらみ)を忘れないのです。  

Posted by 熊太郎 at 08:41Comments(0)TrackBack(0)東京