2024年01月28日

泉岳寺見学 忠臣蔵

泉岳寺見学(せんがくじ) 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)

 東京からの帰路、予定が変わって、品川駅で予約してあった新幹線の発車時刻まで2時間ぐらい時間ができたので、前々から行きたかった品川駅の近くにある泉岳寺を訪問しました。
 泉岳寺に近い品川駅からの最寄り駅は、『高輪ゲートウェイ駅(たかなわゲートウェイ駅)』でした。駅周辺は複数の高層ビルディングが建築中で、お寺さんまで、工事現場の中を歩いて行くような感じでした。
 次の写真では、お客さんを写さないように、上のほう、駅名表示だけを撮影しました。

 駅を出て歩いて、付近を住民であろう街歩きをする人たちは、女性もこどももおしゃれな感じのファッションをされていました。住む世界がわたしとは違うようです。こどもさんがしょってるランドセルは見たこともない高級感がありました。ママのお洋服の生地が高級そうに見えました。

 忠臣蔵は、先月12月にテレビのBS放送連続ドラマで観ました。松平健さんが、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を演じておられました。(いつか、マツケンサンバをじかに観てみたい。楽しいだろうなあ)







 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんの立派な銅像が迎えてくれました。



 赤穂事件(あこうじけん):1701年4月21日、江戸城松之大廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、高家(こうけ:儀式典礼を指導する役職)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に短刀を抜いて切りつけた。刃傷(にんじょう):刃物で人を傷つけること。浅野内匠頭長矩は即日切腹の処分を受けたが、吉良上野介義央はおとがめなし。喧嘩両成敗とはならず。(自分なりに考えると、浅野内匠頭長矩の人格を否定するような言動が吉良上野介義央にあったのだろうと推測するのですが真相はわかりません)。当時は、紛争を平穏におさめるために、『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』が事態収拾の定石(じょうせき。きまりきったかたち。最善策)であったようです。でも、そうではない一方的な処分になったことから赤穂藩側の怒りが高まったととれます。
 赤穂藩は改易(かいえき:侍に対する罰。平民とする。赤穂城は明け渡し)となり、その後、再興の道も閉ざされた。
 赤穂藩で筆頭家老だった大石内蔵助始め47人のメンバーは、1703年1月30日(元禄15年12月14日)吉良邸に討ち入り、主君の仇討ちを果たし、吉良上野介の首を浅野内匠頭の墓前に供えた。討ち入りをしたメンバーは、幕府の指示に従い切腹し、主君と同じく、泉岳寺に葬られた。

 仇討ちのメンバーは、大石内蔵助からの強制ではなく、真に仇討ちをしたい人間だけが選抜されたとなにかで読んだ記憶があります。

 境内(けいだい)に墨で文字が書かれた太い木の柱が立っていました。
 以前、長野県にある善光寺でも、訪れたときに、似たパターンで柱が立っていました。











 以下が、四十七士の(しじゅうしちし)の方たちのお墓です。



 景色の背景に、高輪ゲートウェイ駅あたりで建築中の近代的なビルが写っており、江戸元禄(げんろく)時代の風景と令和6年の高層ビルが同じ写真の中にあり、これはこれで、東京らしい光景です。



 父と子、義父と子の組み合わせで亡くなっているパターンが多い。年長者と若者という組み合わせです。子どもたちの年齢は若い。



 次の墓が、大石内蔵助のお墓です。



 木造建物の中、左にある墓石に大石主税(おおいしちから)と書いてありました。大石内蔵助の息子さんです。16歳でした。まだ若い。



 次が、浅野内匠頭のお墓です。
 たまたまお線香が、ぼうぼうと炎をあげて燃えていました。
 この場所に吉良上野介の首を供養で置いたのだろうか。(わたしなんぞは、人は死んだら終わりと考える人間なので、理不尽さがあったとしてもがまんして、農民として、畑仕事をやりながら生き続けたいと考えるのです)



 仇討ち(あだうち)に関していろいろ考えがあるのでしょうが、自分は自分なりに自分の読書歴から考えてみました。主君の無念をはらすことに加えて、自分のプライドを維持するために報復するということがあるのでしょう。

 以前、各種職業を体験された人たちの体験本をシリーズで何冊か読んだことがあります。
 共通するのは、『恨み(うらみ)』でした。上司や顧客、同僚や後輩からパワハラやカスタマーハラスメントで、人格を否定するような激しい叱責を受けて、相当な憎悪心(ぞうおしん)を各自がもたれて、がまんされて、最後は定年や中途で退職されていました。
 そのとき思ったのは、加害者側として身に覚えのある人は気をつけたほうがいい。お互いに権利義務関係がない状態で偶然出会ったときは、被害者はカッとなって、加害者に罵声を(ばせい)を浴びせたり、ビンタの一発も飛ばしてきたりするかもしれません。
 ハラスメント行為(困らせる。悩ませる。いやがらせをする。人格否定をする。仲間はずれにする)をされたほうは、一生相手に対する恨み(うらみ)を忘れないのです。  

Posted by 熊太郎 at 08:41Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月27日

国会議事堂衆議院の見学

国会議事堂衆議院の見学

 建物の裏側にある入口から入って、窓口で、午前11時30分からの見学を申し込みました。ほかの見学希望の方たちと並んで記載台で申し込み用紙に住所氏名等を書いて、手荷物検査をして、20人ぐらいの集団で案内の若い男性職員の方についていき説明を聞きました。小学生と幼稚園年長さんぐらいのこどもさんも数人いました。

 みなさんけっこう遠方の県から見学に来られているようすでした。ゴロゴロと引っ張る旅行鞄を持ちながら移動されていました。建物の裏の方から建物の中を歩いて見て、最後は正面中央玄関を見渡す位置で解散しました。
 帰りは、正面方向にある出口から外に出ました。時間は1時間ぐらいでした。もしかしたら自分は、小学校の修学旅行で見学したことがあるのかもしれませんが、半世紀以上昔のことであり、記憶がまったくありません。

 議事堂では高い位置にある木造の傍聴席に座って説明を聞きました。みおろす風景には、茶色の色調と電灯色に味わいがあります。
 木造部分が多い。長い時代を経ているので、座る椅子の部分が狭くもあり、古くもありでした。
 議員席もそれほど広いとは思えませんでした。
 建物内のレイアウトは(配置は)、議場があって、その周囲に関係者の部屋があってと、シンプルでした。

 国会議員は男性ばかりなので、女性用トイレが極端に少ないというようなことを思い出しました。
 なにかの記事で、議場に一番近いトイレは男性用で、女性議員のために男女共用に区分けをしたというような文章を読んだことがあります。思い起こせば、半世紀ぐらい前は、男女共用のトイレが多かった。いまどきの若い女性には抵抗感があるでしょう。あわせて和式でした。そういえば、この見学が始まる前に待合場所(椅子があります)のそばの女子トイレの一部は和式だったと同行の妻が言っていました。だれも使う人はいなかったそうです。

 古い建物なので段差がありバリアフリーにはしにくい部分もあるようです。
 障害者の方が議員になって、バリアフリーにリフォームした部分があるようです。
 もうかなり年数が経過している建物ですから、本当は、一(いち)から近代的な新しい建物として国会議事堂を建てるのがいいのでしょうが、費用面でそうはいかないのでしょう。



















 見学して最初に思ったのは、かなり古いなあということでした。
 国会議事堂は、1920年(大正9年)~1936年(昭和11年)で建築されています。もう100年ぐらい前です。
 つくりは、愛知県でいうと、愛知県庁の本庁舎(1938年 昭和13年完成)とか、名古屋市の本庁舎(1933年 昭和8年完成)に似ています。
 廊下を歩きながら思うのは、(雰囲気が)役所だなあということでした。

 特徴的なことは、皇室が関係してくることです。
 皇室関係者専用の部屋とか、階段がありました。
 なにかしら特殊な世界です。自分は皇室関係者として生まれてこなくてよかったとほっとしました。気楽が一番、自由が一番です。移動の自由、職業選択の自由、居住地選択の自由、言論の自由は、気楽に人生を過ごすうえで大切です。

 建物の細工(さいく。つくりもの)は美術館のようにきれいです。建築様式も味わいがあります。















 上の写真にある階段は、天皇だけが歩く赤じゅうたんが敷いてある階段だそうですが、老齢になられた天皇は利用されなかったそうです。エレベーターで上階へ上がられたそうです。だれでも、歳をとると、ころんでおおごとになりますからね。

 外に出て、『都道府県の木』という小道をぞろぞろと歩いて、建物が正面からきれいに見えるところへ移動しました。都道府県の木の道では、手入れされた立派な樹木が並んでいました。



 中央広間には、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像と銅像はない台座だけがありました。三氏と同様の偉業を成し遂げた人がいないからとか、これから先の夢として、空座があるというような説明でした。
 小学生のこどもさんが、『知ってるよ』と話していました。こういった社会科のことに興味が強いマニアのお子さんのようでした。たのもしい。

 国会の大理石の柱には化石があるそうで、みんなで柱の化石探しを少ししました。



 出口を出て地下鉄の駅に向かうところで、首相官邸が見えるので1枚写真を撮りました。国会議事堂の斜め向かいに道をへだてて建っていました。警察職員による厳重な警備体制で、緊張した雰囲気がただよっていました。
 首相官邸は、テレビでよく映像に出る建物です。これから報道番組やニュースを観たときに、ああ、近くまで行ったなあと親しみを感じることでしょう。





(国会議事堂追加記載2024年1月28日日曜日:あとから思い出したこと)
 中庭の池で錦鯉が泳いでいました。新潟県からプレゼントされたものと聞きました。
 今年に入って、都内にあるお屋敷が火災で燃えてしまった新潟県選出の元総理大臣の方を思い出しました。

 建物内の封書類のやりとりに使用している、上の階から下の階に落とす形式の郵便投函筒(メールシューター)を見ました。
 1階が最終的な収集ポストになっていました。
 収集時刻が決まっていて、きちんと収集されて、郵送ルートにのせるそうです。役所ですから文書担当の係があるのでしょう。
 メールシューターを見て、自分が新卒で就職して入居した独身寮を思い出しました。4階建ての独身寮には、郵便物ではなく、ごみを上階から地上階のごみ集積場に落とす投函筒(シューター)が設置されていました。  

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2024年01月26日

観劇 斑鳩の王子 戯史聖徳太子伝

『斑鳩の王子(いかるがのおうじ) -戯史(ぎし。おもしろおかしい話) 聖徳太子伝(しょうとくだいしでん。聖徳太子の話)』 IMM THEATER(シアター)のこけら落としに行く。(新しい劇場のお披露目公演 東京ドームそば「水道橋駅」東京ドームホテル南)

(2023年11月初めのこと)
 ステージの出演者で自分がわかるのは、明石家さんまさん、山西惇さん(やまにしあつしさん)、温水洋一さん(ぬくみずよういちさん)、松尾貴史さん(まつおたかしさん)ぐらいです。
 脚本が、刑事ドラマ『相棒』を書いている輿水泰弘さん(こしみずやすひろさん)なので、舞台を観たくなりました。
 入場券の抽選申し込みにチャレンジしましたが、「アクセス集中」でつながらず、ようやく夕方になってつながり申し込みができました。
 抽選にはどうせ当たらないだろうと思っていたら当たりました。うれしい。
 さっそく劇場からひと駅の距離にあるホテルを予約しました。

 想像するに奈良の聖徳太子を明石家さんまさんが演じて、おもしろおかしい、楽しい舞台でしょう。
 奈良には、四十代のころに惹かれて(ひかれて)、何度も訪れました。奈良時代の歴史が深い地域です。そのころは、歳をとったら、奈良の老人ホームに入って、毎日のように散歩で、お寺さん参りを楽しもうという夢のようなものがありましたが、今はそう思いません。介護保険制度を活用して、自宅でできるだけ長く在宅介護、できれば、自宅でお昼寝中にそのままあの世へ旅立ちたい。

(2024年1月のとある日の夜に、夫婦で演劇鑑賞をしてきました)
 思い出すままに感想を記してみます。

 温水洋一さん(ぬくみずよういちさん)の演技が素晴らしかった。ひとりで何役も上手に演じられていました。芸達者です。この劇は、さんまさんを立てる形で、温水さんや山西惇さん(やまにしあつしさん。ドラマ『相棒』で警視庁の課長役)はじめ、ベテランと若手、女優陣が、しっかりと演技と劇の進行を支えておられました。あとでわかりましたが、複数の方が複数の役柄を演じておられました。

 ときおり、きれいな女の人を、『年増(としま)』だと言ってからかうのですが、言わなければ若く見える方でした。また、みなさん、きれいなお顔の女優さんばかりでした。

 歴史を知らないとわかりにくい内容です。ただ、歴史に忠実なようにも思えませんでした。
 ちょっと自分でつくった自分用の歴史年表ノートから項目を拾ってここに落としてみます。

 239年 卑弥呼が魏に使いを送る。魏志倭人伝。
 4世紀ころから 古墳時代。大和朝廷が国土統一を始める。
 538年(あるいは552年) 仏教伝来。
 574年 聖徳太子誕生。622年48歳没。厩戸皇子(うまやどのおうじ)。用明天皇の第二皇子。母親は、欽明天皇の皇女(おうじょ。娘)穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
 587年 蘇我馬子(そがのうまこ)が仏教反対派の物部氏(もののべし)を倒す。(今回の劇ではこの部分が強調されます)
 592年-710年ころ。飛鳥時代
 593年 聖徳太子が、推古天皇の摂政になる。(すいこてんのう554年-628年女帝。摂政(せっしょう):幼帝、女帝に代わって政務を担当した職)
 603年 冠位十二階
 604年 十七条の憲法
 607年 法隆寺建立。小野妹子(おののいもこ。男性です)が遣隋使で派遣された。国書「日出処天子(ひいずるところのてんしうんぬんかんぬん)」を隋に持参した。
 645年 大化の改新。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇)+中臣鎌足(なかとみのかまたり。飛鳥時代の貴族・政治家。『藤原氏』の始祖(しそ。始めの人) VS 蘇我蝦夷(そがのえみし。蘇我馬子の長男)+蘇我入鹿(そがのいるか。蘇我馬子の孫)

 劇では、天智天皇のこども大友皇子と天智天皇の異母弟天武天皇の争いである『672年 壬申の乱(じんしんのらん)』ぐらいまで表現してあるような雰囲気でした。

 ぼんやりしていたので、確かではありませんが。なにせ、まじめな歴史の話なのに、ほとんどの時間帯は、お笑いの尺(時間帯)なので、筋立てを気にする必要もないようです。下ネタとか、時事ネタ(某お笑い芸人さんの文春砲さく裂ネタ)とか、俳優さんの奥さんのネタ、しのぶちゃんネタ(大竹しのぶさん)など、話がいくらでも飛んで行って、混乱しながらの爆笑が続きます。

 さんまさんは、奥さんやこどもがいる家族持ちの若い男優さんがねたましいらしく、自分は家に帰るとひとりぼっちで、冷蔵庫から冷凍食品をチンして食べているんだと不満のような嘆きのようなことを言って観客を笑わせてくれました。だから、お笑いの舞台に全力をそそいでいるんだと聞き取れました。仕事人間なのです。
 さんまさんは、実母を3歳のときに病気で亡くし、自分がまだこどものとき、実父が連れ子のいる女性と再婚して継母を迎えたものの、継母の発言で、自分のこどもは自分の連れ子だけだという話を聞いて、お兄さんとふたりで二段ベッドで泣いたというような文章を、どこかで読んだことがあります。さんまさんは、仕事は充実しているけれど、家族や家庭には恵まれていない面があります。

 関西弁の聖徳太子で演技が続きます。まあ、舞台は奈良ですから関西弁でしょう。
 鹿のかっこうをした人たちがたくさん出てきます。おもしろい。奈良公園の鹿たちを思い出しました。鹿せんべいの話も出ました。
 さんまさんは、お笑い話をしすぎたのか、声が枯れています。劇の途中で、声枯れのことも笑いにつなげる発言をされていました。
 仏と神、宗教の対立と争いがあります。蘇我馬子(仏教。そがのうまこ)、物部守屋(神道。もののべのもりや)で、仏教の蘇我馬子が勝利します。誤解があるといけないので、補足すると、その後の時代の流れで、お寺と神社は仲良しの関係となっています。信仰の内容が異なりますから対立はしません。仏教は釈迦(しゃか)の教え。神道は、万物が神です。開祖はいません。

 穴穂部皇子(あなほべのみこ):聖徳太子の叔父。欽明天皇の皇子(おうじ)。
 
 さんまさんがらみで、笑いが続く長時間シーンは3か所あったと思います。3時間の公演時間中、以下のシーンで各30分ぐらい。あわせて90分ぐらいあった記憶です。

①3人で、コントを続けます。さんまさん、温水さん(ぬくみずさん)、若手の男性俳優さん(ごめんなさい。わたしにはお名前がわかりません中尾明慶さん(なかおあきよしさん)か一色洋平(いっしきようへいさん)といわれる方ではないかと思います)。たしか、温水さんがザリガニをやって、若い男優さんが、トンビとか、コイとか、カメとかを演じて…… 『昭和の笑い』だと感じました。いじめやいたぶりがあります。それでも、客席は、かなり笑っていました。(客席は年配男女が多い。夜7時から10時までの公演でした。休憩なし。3時間ぶっ続けの演劇です。トイレが心配でしたがだいじょうぶでした。何回かお尻が痛くなりましたが、終わってみればあっという間でした。女性客の大きな笑い声があちらこちらから聞こえていました。不快ではありません。独特なじょうずな笑い方です。演劇関係者の人たちだろうか。声の出し方が俳優さんみたいでした)

②5匹の虫が出てくるお笑いシーン。便所コオロギとか。ダンゴムシとか。ハエとか。かなりおもしろい。笑わせてもらいました。

③ちょっと記憶がさだかではないのですが、さんまさんと若い男性俳優さんのシーンで、若い男性俳優さんが、『死んでやる!』とか、『殺してくれーー』とか、わめいて、さんまさんが、男性の首に長い縄を巻いて引っ張って、『首をしめてころしてやるーー』みたいになるのですが、なんだか、そのあと、犬の散歩みたいになって、そのやりとりが延々とパターンを変えながら25分間ぐらい続くのです。すごいなーー。自分の記憶に間違いがあるのかもしれませんが、『ミーアキャット』のシーンがここか、ほかのコント部分のどこかであったような気がします。
 もう、本題の聖徳太子の劇から遠ざかって、若い俳優さんが、『さんまさん(もうやめてください)』みたいに発言するのです。ちゃんと演劇をやりましょうよ!です。さんまさんは、(きみの事務所から頼まれて)今回の舞台に(きみを)採用したのだから、(オレの言うことを聞け!)みたいな態度をとるのです。そうしないと次は仕事で使わないぞ!みたいに若手をおどすのです。まあ、下品な部分も全開な、昭和時代の笑いのつくりかたです。

 宝塚出身の女優さんがおられるようで、ところどころ宝塚の演劇シーンを見ているようでした。
 馬女を演じておられた方が宝塚がらみの方かもしれません。(音月桂おとづきかつらさんでしょう)
 
 『富士山』の話が出ました。ちょうど、その日、東京へ来るときに新幹線の車窓からきれいな富士山が見えたので、気持ちがぴったりきました。

 わたしは、アドリブが多いのではないかと思っています。何回も演じる演劇ですが、観客も演者みたいなところがあって、そのたびごとに雰囲気や、やりかたが違うような気がします。正確には、同じ劇を複数回観ないとわかりませんが。そういう観劇のしかたをされる方(かた)もおられるのでしょう。
 
 最後はどうオチをつけるのだろうと(結末はどうなるのか)観ていました。
 さんまさんは、舞台から階段を下りてきて、観客席の間を歩いて回られました。『もうすぐ終わりますんで。』と、観客に声をかけられて笑いにつながりました。そうか、あれがオチだったのか。間近でさんまさんの顔を観ることができました。テレビで見るのとおんなじでした。ありがとう。

 最後、ステージ上に演者の皆さんが集まって、終わりのあいさつをされました。
 どなたのお顔にも、やりとげたという達成感が満ちていて、こちらも見ていてすがすがしい気持ちになれました。楽しいお笑いをありがとう。

 演劇の主題にあったものとして、『昭和時代のガッツ(闘志)』がありました。
 不合理、不条理、理不尽な職場・社会でも、根性と努力、忍耐と柔軟性で乗り切ってきた年配世代の人生を讃える演劇でした。
 
 次の写真では、右奥の聖徳太子のポスターが、今回見学した劇でした。斑鳩の王子(いかるがのおうじ)と書いてあります。



 都営三田線水道橋の駅を出て、出口をちょっと間違えて道に迷ってしまいました。開演時間が近かったのであせりました。地図があっても道に迷う方向音痴な熊太郎じいさんです。
 次の写真は劇場前で、写真の下のほうは入場者で黒山の人だかりです。写さないようにカットしてあります。
 『IMM THEATER』のロゴ(ブランドイメージを図案化したもの)は、お笑い芸人ジミー大西さんの作です。



 劇場うしろの背が高い建物が、『東京ドームホテル』です。むかし、若いころ二度ほど泊まったことがあります。東京ドームでプロ野球観戦後に泊まりました。

 熊太郎じいさんは、小学6年生のときの修学旅行が東京で、後楽園遊園地のジェットコースターに同級生たちと乗って遊んだことを覚えています。とても楽しかった。あれからもう半世紀以上がたちました。12歳のときにいた場所あたりに今もまた立つことができて感無量な気持ちもあります。(胸がいっぱいになり、深く感じるところがあります。いつだってがんばってきました。長かった自分の人生もだんだん終わりに近づいてきました)



 IMMシアターのIMMは、『生きてるだけでまるもうけ』です。限りある残りの人生の時間を楽しみたいものです。
 明石家さんまさんは、1985年(昭和60年)夏、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機に搭乗する予定だったそうです。仕事が早く終わったので、別の飛行機で大阪へ帰って命拾いしたそうです。その出来事から、『生きてるだけでまるもうけ』の発想が生まれたそうです。

(2024年(令和6年)2月3日土曜日に追加記載)
 最近金曜日午後10時にTBSで始まったテレビドラマ『不適切にもほどがある!』を観ていて気付いたことがあります。
 今回見た聖徳太子の劇のはじまり付近で、なんだったか具体的に思い出せないのですが、生き物に名前をたしか、『リイサ』だったか、『リーサ』という名前を付けるのです。そのとき、客席から笑いがさざなみのように湧きおこったのですが、自分には笑える理由がわかりませんでした。さらに、たしか、さんまさんが、気が強いからリイサだというように言って、やっぱりまた笑いが起こったのです。
 『不適切にもほどがある!』に出演されている仲里依紗(なか・りいさ)さんという女優さんが、あのとき舞台上にいた中尾明慶(なかお・あきよし)さんの奥さんだったのかと、ようやく今頃気づいた次第です。
 きのうドラマの第二話を観たのですが、自分なりに最終話は、主人公役を務める阿部サダヲさんが、タイムトラベルをして、病気で亡くなった奥さんと再会できるのではないかと予想し、予想が当たるといいなーーと期待しています。  

Posted by 熊太郎 at 08:21Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月25日

ゴッホの『ひまわり』を東京新宿SOMPO美術館で観る。

ゴッホの『ひまわり』を東京新宿SOMPO美術館で観る。

 先日映画『永遠の門 ゴッホの見た未来 洋画 2018年』を観たことが美術館訪問のきっかけです。
 東京で用事があったので、用事をすませたあとSOMPO美術館へ行き、ゴッホが描いた『ひまわり』の絵を観てきました。

 フィンセント・ファン・ゴッホ:オランダ印象派の画家。1853年(日本は江戸時代末期。明治維新が1868年)-1890年(日本は明治23年)。37歳没。

 ゴッホ生存当時、地球上に何十億人の人間がいたのかは知りませんが、何十億人の中のひとりという天才画家です。(あとで調べました。1900年で、16億5000万人ぐらいだったそうです)
 展示してあるどの絵も保存状態が良く、『美』を堪能しました。(たんのう:満ち足りて十分なこと)

 美術館の建物の入口玄関から、たいへん混雑していてびっくりしました。
 写真撮影可だったので、列に並んで長いこと順番を待って写真を撮りました。



 次の絵は、『アイリス』の絵です。(アヤメ、カキツバタ、花しょうぶなど)







 ゴッホが描いたほかの絵も、色がとてもきれいでした。



 次の絵は、3冊の本が重ねてあります。



 次の絵はゴッホの作品ではありませんが、とても美しかったので写真をとりました。ここにも載せておきます。あいにく作者である画家のお名前は、メモし忘れました。写真のようですが、写真よりもさらにきれいに見えました。(追加記載:その後、「ジョージ・ダンロップ・レスリー」というイギリスの画家であることがわかりました)



 自分がまだ中学生だったころ、美術部員だったのですが、当時住んでいた福岡県で、美術部顧問の女性の先生に引率されて、福岡市美術館へルノワールほかの印象派の画家の絵などを見に行きました。そんなことを思い出しました。今回同行してくれた妻が、こういうところに来たのは初めてで、自分にはこういう世界はなかったと、たいそう感激してくれました。来て良かった。

 次の写真で、手前の低い白い建物がSOMPO美術館です。
 複雑なつくりの歩道橋を渡って行きました。
 方向音痴なわたしは、帰りに歩道橋のどこからのぼってきたのかわからなくなって、道に迷い、道を戻って、また歩道橋をのぼって逆方向へ行き、ようやく地下鉄駅へ行くルートがわかりました。
 旅が好きでも地図は読めないということはあります。(鉄道旅番組に出る芸能人の村井美樹さんがそうです)わたしにとっては、スマホの地図は、自分がどの方向を向いているのかわからず、いつもチンプンカンプンです。


  

Posted by 熊太郎 at 11:33Comments(0)TrackBack(0)東京

2024年01月24日

見学 国立競技場

見学 国立競技場

 ほかの方(かた)のブログを見て、東京にある国立競技場を見学できることを知りました。
 見たいと思いました。
 新幹線で、びゅーんと東京まで行って、見てきました。



 グラウンドのまんなかあたり、じっさいにゲームをする部分は本物の芝だそうです。
 そのまわりは人工芝です。やわらかい人工芝で驚きました。
 変な感想になってしまうのですが、その場に立った感じとしては、思っていたほど広くはない。
 翌日と翌々日はアメリカンフットボールの試合があるそうで、コートの左右を見て、それほど長いとは感じませんでした。調べたら、約91mだそうです。サッカーコートだと、長さは105メートルだそうです。ふ~む。テレビで見るともっと広そうな感じです。今の自分は歳をとったので無理ですが、十代のころの自分だったら、これぐらいの範囲なら、びゅんびゅん走れそうな気がしました。走り心地が良さそうな地面です。走るだけで解放感に包まれてストレス解消ができそうです。



 次からの写真は、4階の位置から見下ろした風景です。
 いっぱいの観客がシートに座って、老眼のこの目でコートの選手を見たら、たぶん、選手がどんなプレイをしているのかを自分はわからないだろうと悟りました。スタジアムの雰囲気を味わうだけになりそうです。今の自分の場合は、プレイをテレビ画面で見るほうが見やすそうです。
 4階まであがるスタンドの階段をのぼる前に、サッカー選手たちがちびっこと手をつないで出てくる出入口を自分も通ってみました。
 これからテレビを見るたびに、その場所を思い出すことができそうです。











 屋内の見学もできました。
 ロッカールームなどです。
 歴代の有名選手のユニフォームやサッカーボールが展示してありました。
 ここでもまた変な感想をもってしまいました。
 サッカーボールが小さく感じるのです。ピンポン玉(そんなことはないのですが)ぐらいの大きさ・軽さに感じました。ボールがきれいにデザインされていて、装飾品のように見えたからかもしれません。







 森保一監督(もりやすはじめかんとく)のサインが展示されていました。今年元旦の日付です。
 ここを見学した後に行われたアジアカップ19日イラクとの試合は、思いがけない敗戦だったようです。
 勝つこともあれば、負けることもあるのが、『勝負』です。
 もうかるときもあれば、損をするときもあるのが、『商売』です。
 わたしは、人生は6勝4敗で十分やっていけると判断している人間です。
 されど、常勝を求められるチームの指揮官の立場はたいへんです。
 次のインドネシア戦は、勝てるといいですね。




(追加記載 2024年1月25日木曜日)
 森保監督さん、サッカーアジアカップでのインドネシア戦勝利おめでとうございました。

 国立競技場見学コメントで書き忘れたことを思い出したので追加で記載します。
 競技場を設計された隈研吾さん(くまけんごさん)がデザインされた照明ホールの部分を見ました。プレイヤーがマスコミからインタビューを受ける空間です。行燈(あんどん)型の照明器具が天井から床を照らしています。



 それから、以前読んだ隈研吾さんの本を紹介しておきます。
 『建築家になりたい君へ 隈研吾(くま・けんご) 河出書房新社(かわでしょぼうしんしゃ)』(そういえば、国立競技場の1階外の部分から(国立競技場は、高い位置に建っています)「河出書房新社」のビルが見えました)
 以下は、本を読んだ時の感想メモの一部です。

 建築家は、一風変わった人に見られがちですが違いますというものでした。建築家は「神様」でも「変人」でもない。いい建築家であるためには、普通の人の普通の生活を広く知っていなければならない。普通人イコール建築家です。過去には奇抜な人が建築家でいたこともありますが、現在はチームで動いて構造物という作品を仕上げるから、普通の人格をもっていることが求められますというように受け止めました。普通の人が普通に使って、快適な建物を作品としてつくるのです。共感しました。

 昔(むかし)、日本人は、狭い畳部屋で、家族全員が、食事をして、ふとんを敷いて寝たり、起きてふとんをたたんで押し入れにしまったり、折り畳み式のちゃぶ台(小さな食事用座卓)を利用して食事をしたり、やぐらこたつの上で勉強をしたり、ゲームをして余暇を過ごしたりするという狭い場所を最大限に活用するというコンパクトな生活をしていた。みんなで同時に同じことをする共同生活をしていた。
 時代が流れて、生活様式に変化が生まれて、家屋の間取りにおいては、日本では、なんとか(部屋数)LDK(リビング、ダイニング・キッチン)パターンという間取りの構造になってから、家族でいっしょにという共同行動がくずれて、個別化の生活になった。
 夫婦の家庭内別居とか、こどもの引きこもりが可能になった。個食(こしょく)あるいは、孤食(こしょく)という言葉も生まれた。(個食:家族そろって食事をしない)
 <本を読んでいて、思考の方法に、教えがあります。自分なりに深く考えてみました>
 こどもは、個室で鶏舎のニワトリのように、問題集を与えられて、テストの点取り虫になった。
 こどもは、自然とのふれあいがなくなった。祖父母との交流も減った。親戚づきあいも薄くなった。こどもは、資本主義の組織で働くためのアンドロイドロボット的なものになった。こどもは、いざ、社会に出ると、人づきあいができない人間になった。脳みその中は、いつまでもこどものままで、おとなになれない人間ができあがった。というところまで、部屋の間取りから始まった考察が至ります。

(追加記載 2月8日木曜日)
 日本のサッカーは、アジアカップで負けてしまいましたが、敗戦ゲームを観たあと、自分なりに思ったことがあるので、ここに書き落としておきます。

 勝負に勝つために必要なものは、『ひらめき』と、『勢い(思いっきりやる)』と、『真剣チャンバラ勝負(お互いに刀を(かたなを)ぶつけあいながら闘う(たたかう。しのぎを削る。こうと決めたらあとに引かない))』です。敗戦の原因は、気迫不足でした。なにがなんでも勝ちたいと思わないと、勝負事では勝てません。
 ひらめき:教科書どおりのおとなしいやり方では勝負には勝てません。『おとなしいこと』は、勝利にはつながりにくい。某選手のように、『ブラボー』と叫び続けるぐらいでちょうどいい。
 頭(あたま・監督)を代えたからといって勝てるものでもありません。ほかに適任者(人材)があればいいですが、なければ、首をすげかえても戦力は低下します。  

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2023年11月24日

東京駅丸の内駅前広場

東京駅丸の内駅前広場

 帰りの新幹線の発車時刻まで時間があったので、駅前広場で座れるところに腰かけてぼーっとしながらしばらく過ごしました。
 まわりにもちらほらと、時間つぶしのような人たちが座っていました。お年寄りもいるし、女性のグループもいるし、アジア系と思われる海外の人たちもいました。
 ときおりスズメが、なにかくれ~というように、コンクリートでできた地べたから、こちらの顔を見上げてきます。







 次の写真は、駅構内、天井の部分です。とてもきれいです。



 まわりは背の高いビルディングばかりが林立しています。
 思うに、東京の高層ビルだらけの風景は、普通ではない、異常な風景です。
 コンクリートとアスファルト、ガラスと金属と石でできあがった効率最優先の世界です。
 自然に満ちた山も川も畑も田んぼもないという世界です。自然との共生というよりも自然との戦いに勝った世界です。
 地方に暮らす者にとっては、東京駅丸の内駅前広場というこの場所は、一生に一度も来ない。あるいは、数回しか来ない場所です。
 毎朝ここを通勤で通る人たちは、いつもなにかに追いたてられ、たいてい、なにものかと競争する毎日を送っているように思えます。
 競争ができるだけの精神力と体力があるうちはいいけれど、歳をとると体力が落ちて、思考力も弱くなってきます。
 ここは、長い人生のうちの一時期を過ごすだけの場所だと思うのです。















 このあと新幹線に乗って家に帰りました。
 いつも品川駅で新幹線に乗降することが多いです。
 始発の東京駅だと、ホームへの入線時刻が案外早いのだと気づきました。発車時刻の15分前から20分前ぐらいに指定席券を買った乗車する新幹線が入ってきます。
 ありがたい。車内が待合室みたいなものです。  

Posted by 熊太郎 at 07:52Comments(0)TrackBack(0)東京