2025年03月21日

東野&岡村の旅猿26 フィリピン満喫の旅

東野&岡村の旅猿26 ~プライベートでごめんなさい~ 『フィリピン満喫の旅』 ゲスト 出川哲朗さん TVer(ティーバー)とかhulu(フールー)とかBS日テレ火曜23時とか。

 冒頭でショッキングな話が出ます。
 旅の始まりについて打ち合わせをする、いつもの東京銀座にある喫茶店で、岡村さんと東野さんが、マスターにバイトで雇ってもらえないかと声をかけます。
 東野さんが、(自分が担当する番組が)指の間からこぼれおちるように仕事がなくなっていくと嘆きます。(なげきます)。そして、なんと、この番組、『旅猿』も3月で終わるそうです。びっくりしました。そして、がっかりしました。
 今回のフィリピンへの旅が、最後だそうです。(なんで?)
 なんだか、有名タレントの男女間トラブル不祥事が発端(ほったん)となって、テレビ局地上波の世界で、これまであった秩序が総崩れ状態です。(もう地上波の時代は終わりなのか)

 まあ、終わりならしかたがありません。
 始まりがあれば、終わりがくるのは世の常(よのつね。宿命。あたりまえのこと)です。
 番組、『旅猿』では、もう17年ぐらい前、出演者も若かったころのインドへの旅が、強烈におもしろかった。
 インドに初めて行って、夜の地元の路線バスに乗って、車内はインド人乗客が満員で、おおぜいのインド人に車内で囲まれて、まるで宇宙人を見るような、強くて、驚異をもっているようなたくさんの瞳で凝視されて、岡村さんたちが、もしかしたら襲われて、丸裸にされるんじゃないかという緊張感がありました。
 泊まる宿泊場所も、夜の治安が悪そうな、汚くて狭い部屋で、一晩中外はどんちゃん騒ぎで、眠れるはずもなく、だいじょうぶだろうかと心配するような映像でした。
 ところが、インド人の人たちは、心優しかった。明るく元気で陽気でした。多少のずるさはあるものの、それはおおざっぱさで、根っから親切でした。
 そのころから、出川哲朗さんもゲストで旅猿の番組に参加していて、たしか、出川哲朗さんは、路上で、牛のうんこを踏んでしまい、一日中、うんこつきの靴をはいて、ガラガラと引っ張る旅行ケースを引きながら歩いてがんばっていました。くさいくさいと言われながらもがんばっていました。
 いい旅でした。(このあと、この番組の2回目の放送で、ここに書いた、『うんこ』にまつわる話がいっぱい出ました(犬のうんこを踏んだとか、牛のうんこを踏んだとか、ゾウのうんこまみれになったとか(覚えています。観ながら爆笑しました))

 出川哲朗さんが、旅猿が終わりなら、東野さんと岡村さんに、自分の番組、『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』に出てくれないかみたいな話になって、おふたりとも快諾されました。そのうちおふたりが電動バイクに乗っている姿を見ることができるでしょう。

 東野さんが、どこかでこの内容で引き続き放送してほしいと要望を言われました。テレビ東京さんぐらいが受けるといいのになと思いました。あるいは、動画配信サービスのところというのもありでしょう。

 さて、最終回となる今回のフィリピンへの旅です。
 穴場のダイビングスポットへ行くそうです。『スービック』というところです。
 グーグルマップで見ると、首都マニラから150kmぐらいに見えます。マニラから、アンヘルスという街までバスで2時間乗って、そこからスービックまでが、車で1時間半ぐらいだそうです。
 
 こんな形で番組が終了するなんて、そんな気持ちをいだきながら映像を見続けました。

 番組が始まって17年ぐらいがたって、3人とも歳をとりました。
 3人ともおしっこが近いのです。加齢による老化現象です。わたしもそうです。自分の旅先ではトイレの確保がだいじな要件になりました。
 バスの中で、だれかが、『おしっこしたい』と言いました。『(バスの終点到着まで)あと5分』という答えが返ってきました。なにせ、バスの乗車時間が2時間でした。

(つづく)

 盛り上がらない、戦闘機が置かれた公園ロケでした。とくに書くこともありませんが、昔外国で、『ヒガシノコール』で、こどもたちを中心に盛り上がった回があって、その回の再現をしようとしましたが、失敗でした。まわりにいた人たちのノリがよくなかった。なんだかつまらなかった。

 現地ガイドが、ジョイさんという若い女性です。
 スキューバダイビングをするためにビーチに到着しましたが、鉛色の海です。不信感がわきました。海にもぐりましたが、濁っていて、3人とも、何も見えなかったという感想でした。『わからへん』の連発です。
 移動して、別のビーチに行きました。透明度が高く、とてもいいコンディションだったそうです。よかった。
 ジャックフィッシュという魚群が現れました。きれいなエンゼルフィッシュの映像も出ました。別世界です。海底には、静寂(せいじゃく)があったそうです。
 次回は、バナナボートに乗るそうです。

(つづく)

 なんだか、こんな形で、この番組の最終回を迎えることになったのかと、少々残念な気持ちになりました。
 まるで、打ち切りのような終わり方です。2008年(平成20年)インドへの旅から始まって、17年、本来ならもっと祝福されてもいいのに……

 さて、番組映像は、フィリピンのビーチです。三人さんが盛り上がっています。
 バナナボートにも女の子たち3人と乗ります。
 なんというか、三人とも少年です。
 ふつうの五十代以上の日本人労働者はできない遊びです。
 これでいいのだろうかとも思えるようすですが、されど、かれらにとってはお仕事です。タイトルどおり、プライベートでごめんなさい。三人ともお金持ちです。すごいなあ。

 人生で大切なもののひとつ。
 『意味のない時間を過ごす(人生においては、そういうときもある)』

 生活雑貨のお店でおみやげを買う。ナレーターの奥貫薫さんにピンクの透けたアウター(上着)を買いました。民族衣装で、『バロン』というそうです。(調べたら、男性用の正装だそうです)

 ステーキを食べに行く。食べるのは、大きなステーキです。食べ出があります。(食べごたえ。満腹になる)。メキシコ料理だそうです。
 乱暴な言葉が飛び交います。
 出川さんは、岡村さんを何度も、『おまえ』と呼びます。相当くだけた関係です。
 ワクワクしながら食べる。おいしいそうです。

(つづく)

 なんというか、今回の映像を見ていて、まあ、この番組は終わってもしかたがないかなあという感想をもってしまいました。

 今回は、スパへ行って、マッサージを受けて、そのあと、ホテルへ向かうという内容でした。

 こんな50代・60代の男性はいないなあという感想をもちました。一般人にこんな50代・60代の男性はいません。なんだか3人とも、芸能人なのだなあ。
 パンツを下げておしりをたたいて、小学生の行為みたいでした。
 ジャンケンによるベッド争奪戦もいい歳をしてばかみたいです。
 フィリピンの民族衣装(バロンという正装)を着用してのドタバタ騒ぎを地元の人が見たら怒るでしょう。はだかのおしりペンペンシーンです。

 ロケの途中、以前の旅猿のときに、アメリカ合衆国へ行って、ラスベガスでカジノをした話が出ましたが、近ごろ、芸能界ではオンラインカジノによる不祥事が問題になっている時期であり、先日の京都天橋立に向かう車中での不祥事タレントをもちあげる会話もあり、番組として、ヤバい雰囲気がただよっていました。
 まあ、この番組は終わってもいいか……
 海外まで行って、こんなふざけた映像か……
 (もういいか)

 次回は、マニラへ向かう途中、ホワイトタイガーと写真を撮れる動物園に寄るそうです。

(つづく)

 動物園に行きましたが、ホワイトタイガーは体調不良だそうで、ふつうのタイガーと三人さんの記念撮影となりました。
 動物がいっぱいです。ヒクイドリ、カンムリワシ、ジャガー、ベアキャット、リクガメと続きます。
 出川さんがリアクション芸で、昔、狂暴な動物たちといっしょにふれあい映像を撮った思い出話をします。たいしたものです。危険なことをよくやられました。苦労話が続きます。おかげで、今の芸人としてのポジションがあります。たいしたものです。

 移動中の車の中で、仕事の内輪話が続きます。Tシャツの柄とか、ディレクターの趣向とかです。

 フィリピンマニラ市に戻って、サンチャゴ要塞というところを見学しました。お城のようなところでした。

(つづく)

 第6話の今回は、なつかしい雰囲気の映像でした。
 旅猿初期のころの、スラム街を歩くみたいな内容でした。
 出川さんがアピールします。『これぞ、「旅猿」の真骨頂(しんこっちょう。真実の姿、本当のありかた)でしょ!』(たしかに。次回の放送では、車の下で、死体のようになって寝ている人が出てきました)
 以前は、そこらあたりは、コワイ地域だったそうですが、今はだいぶ良くなったと現地ガイドの若い女性が案内役です。親戚の家や店を回る内容で、自信満々の彼女にひっぱられて、最初はイヤイヤそうにしていた三人も、カラオケで、テレサテンさんや、長渕剛さんのとんぼを合唱するように歌って、いい感じで盛り上がりました。

 自宅にカラオケ機材があったり、屋外で歌う人たちがいたり、なんだか、昭和時代の日本の宴会を思い出しました。

 最後は、キリスト教会のようなところが黒山の人だかりでした。
 宗教が民衆をコントロールしていると見える光景でした。
 人民は、カリスマ型のヒーローを熱望している。
 政治でも文化でもスポーツでも、民衆はヒーローを望んでいて、ヒーローである彼あるいは、彼女についていく。
 ヒーローにやらせて、仕事の出来栄えが悪い時はヒーローを叩く。
 人間って何だろうと思う。
 人間ってコワイなあと思う。
 映像を見ていてそんなことを考えました。

(最終話です)
 これで、番組、『旅猿』は終わりです。17年間ぐらい、長く続いた番組でした。

 バーバー通り(理髪店が並んでいる)で、理髪店に入って、東野さんが髪をカットしてもらいます。
 ルパン三世みたいな髪型です。
 ヘルメットみたいですが、きれいです。すっきりした57歳です。
 
 マニラのビーチ(世界三大夕景だそうです)へ行きます。
 夕日を楽しむのですが、すんなりいきません。
 太陽がでかい。
 偶然、日本人の旅猿ファンと出会います。
 東野さんがファンに声をかけます。『(番組旅猿は)3月でおわんのよ(終わるのよ)』
 驚くファンです。ファンの男性は、旅猿に影響されて、バックパッカーとして、東南アジアを巡り始めたところで、フィリピンからこのあとベトナムへ行くそうです。旅猿Tシャツも持参されています。
 (このあと、無駄話が続いて、肝心の夕日が沈むシーンを見逃がしました。残念。なんか、『オアシス』というイギリスのロックバンドのコンサートの話でした)。車でレストランへ移動中に太陽が海の向こうへ沈んでしまいました。

 港が見えるレストランでエンディングの撮影です。
 夕日の話が続きますが、わたしは、まあ、夕日のことはいいですよという気分です。毎日、日は沈むのですから見飽きます。夕日や朝日にこだわる気持ちはありません。

 出川さんは気持ちが熱い。
 いっぽう、東野、岡村のおふたりは、わりとそっけない。情に流される人たちではありません。
 岡村さんは陰気なところがあって、つまらないことでぐちぐちとしつこくこだわります。場が冷えるようなことを平気で口にされます。

 番組がなくなるとさみしくなります。
 あっけなく、番組が終わってしまいました。
 次回は、これまでの振り返りの番組があるそうです。

 そういえば、日曜日朝6時半からやっている番組、『はやく起きた朝は…(磯野貴理子、森尾由美、松居直美)』も終了して、別の枠に移ると聞きました。なにかと、長寿番組が終わってしまう今どきの地上波テレビ局放送の実情です。  

2025年03月21日

東京駒場公園(旧前田家本邸、日本近代文学館)と日本民藝館

東京駒場公園(旧前田家本邸、日本近代文学館)と日本民藝館の見学

 東京大学駒場キャンパスのそばにある公園です。
 昨秋テレ東の番組、『出没!アド街ック天国』で紹介されていました。
 建物は、加賀百万石16代当主だった前田家の前田利為(まえだ・としなり。1942年(昭和17年)57歳ボルネオで戦死)侯爵の居宅跡で、洋館と和館(わかん)が立っていました。
 あいにく、洋館は休館日でしたが、和館は見学可能でした。
 『出没!アド街ック天国』では、出演者の山田五郎さんが、昔よくこちらの洋館に来ていたが、たいてい見学者は自分ひとりだけで、自分の家みたいな感覚があったとお話をされていました。
 パンフレットの写真を見ていると、内部は、わたしが昨年秋に訪れた福岡市にある、『旧福岡県公会堂貴賓館』みたいな感じだと思いました。
 
 ちょっとびっくりしたのは、以前鎌倉市にある、『鎌倉文学館』を見学したことがありますが、そちらは、前田家の別荘だったそうです。パンフレットにそう書いてありました。











 次の写真は、洋館のお隣の敷地に建っている和館(わかん)です。
 館内は静かでした。数人の見学者がおられました。年配の方たちでした。



 部屋に入ると、なんとなく、武家屋敷の中にいるような雰囲気でした。



 『欄間(らんま。部屋と部屋の間にある。天井の下。彫刻板になっている。採光と通風のためのもの)』がきれいでした。直線的な模様が珍しい。



 和館のお庭には、石川県金沢兼六園にあるような、『雪づり』があり、いい雰囲気でした。
 また、お庭には、青森の奥入瀬渓流を思わせるような、渓流部分がありました。福岡市にある東公園にも似たようなつくりの清流部分があります。



 次の写真は、『日本近代文学館』です。
 こちらの施設については、次の本で知りました。
 『昔日の客(せきじつのきゃく) 関口良雄 夏葉社(なつはしゃ)』
 210ページに、『「日本近代文学館」の地下室にて』という項目があります。
 64ページあたり、146ページ、170ページにも日本近代文学館の記事があります。
 1966年(昭和41年)開館です。
 わたしが訪れたときには、2階にある展示室で、東日本大震災にちなんだ、『海、山、人、黙す(もだす。沈黙という意味)-震災と言葉』展という展示をしてありました。
 1階にある閲覧室は、図書館みたいに事前登録が必要と聞いたので、観光客であるわたしたちは時間もそれほどなかったので見学はやめておきました。



 駒場公園の南にある出口を出てしばらく東方向へ歩くと、『日本民藝館』がありました。
 こちらの施設は次の本を読んで知りました。
 『板上に咲く 原田マハ 幻冬舎』159ページに、日本民藝館の最初の収蔵品として、棟方志功氏の作品<大和し美し>を購入したいという話が出てきます。
 木版画家棟方志功さんの作品を見たくて訪問しました。
 棟方志功さんの妻チヤコさんの絵とか、ゴッホが描いたような棟方志功さん自身の自画像の絵、鯉・狐・カワウソの絵がありました。あと、眼鏡があったような気がするのですが、ちょっと記憶に自信がありません。
棟方志功さんの自画像の絵を観ていて、『ワぁ、ゴッホになる!』という棟方志功さんが17歳のときの言葉を思い出しました。ゴッホみたいなお顔をされた絵でした。
 民藝館は、思想家の柳宗悦(やなぎ・むねよし)氏(1961年(昭和36年)72歳没)の企画で1936年(昭和11年)に開設されたとパンフレットにあります。
 本では、民藝とは:日本全国に存在する無名の職人たちの手による日常の生活道具全般の総称と書いてあります。
 鑑賞者には、外国人の方も多かった。日本文化に興味がある人たちなのでしょう。


  

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2025年03月20日

出川哲朗の充電させてもらえませんか? 糸島半島→壱岐島

出川哲朗の充電させてもらえませんか? 絶景の玄界灘! 福岡糸島半島→長崎壱岐島(いきのしま) テレビ東京 動画配信サービス

絶景の玄界灘をズズっと100キロ!福岡“糸島半島”からゴールは長崎“壱岐島”なんですが!初登場のイノッチは大興奮!でも三四郎の小宮はビビリすぎ!ヤバいよヤバいよSP


 前回の放送では、三重県志摩半島の名物カキ料理を食べましたが、同じくカキ料理つながりで、今回は、福岡県糸島半島からスタートです。どちらも、海の景色がきれいでした。
 前半ゲストのイノッチは、いつもテレビ番組、『出没!アド街ック天国』で見ています。V6のメンバーで、今回の放送でも、イノッチは、ロケ地では大変な人気でした。

 スタート地点を過ぎてのお店、糸島海鮮堂あたりにいたお姉ちゃんたちがおもしろかった。

 続いて、砂浜に降りて、海の荒い波に耐えきれなくなったのか、砂浜に打ち上げられて死んでいる魚が多いというやりとりもふつうの放送だと流さないのでしょうが、この番組はリアルです。
 砂浜に、魚の死体があるのですが、イノッチの、『死んでいるから食べない』という説明に、出川さんが、『だって、死んでる魚を食べるじゃない』と言い返していておもしろかった。(傷んでいる(いたんでいる。魚の内臓などが腐っている(くさっている)かもしれないから、食べるとおなかが痛くなる心配があります。そのへんを出川さんは理解できていないのです)

トルティーヤ:ともうろしこの粉、小麦粉などでつくる。ギョーザの皮みたいなもの
タコス:トルティーヤの中に、肉や野菜をはさんで揚げた(あげた)もの
ハバネロ:唐辛子の種類。辛い(からい)

 いなかです。田んぼの中の一本道を電動バイクで進んでいきます。
 
 柔らかそうな砂浜では、絵に描いたような水色の空に白い雲が浮かんでいます。絶景です。海も雲も、すばらしい色調です。

 充電バイクのバッテリーが切れたのですが、充電先がなかなか見つかりません。
 ドライブインのご夫婦がいい人で良かった。
 とても苦しいときに助けてもらうと、心から感謝します。
 充電依頼で苦労したイノッチのあとから来た出川さんへの声かけです。
 『出川さん、ここサイコーーですよ!』

 この日に食べた佐賀牛(さがぎゅう)のステーキも、翌日食べた壱岐牛のステーキもおいしそうでした。

 後半のゲスト、三四郎の小宮さんは、壱岐島でのロケです。
 海岸で、とったばかりの生ガキを、勧められて口に含まれましたが、食あたりがちょっとコワイシーンでした。(だいじょうぶでした)
 
 充電先で、年齢当てゲームが好きなおじいさんがいました。(正解は83歳)。海上自衛隊で32年間働かれたそうです。正解した時の、『ピンポーン』というおじいさんの声が、元気があって楽しかった。
 
 三四郎の小宮さんのロケシーンは、なんだか、ぱっとしませんでした。

でべそのお母さん:でべそという意味の言葉を久しぶりに聞きました。でべそ:人前に出たがる人、外出が好きな人のことです。

 ラスト付近は、船で帰る時刻があるので、バタバタしました。
 ゴール地点も、当初の目的地だった、『猿岩』まで行けない時刻になり、ゴールが、山口温泉という公衆浴場になりました。
 地元の人のお話では、猿岩は一見の価値があるそうです。(いっけんの価値:見ていおいたほうがいい)

(その後のこと)
 きょう偶然甲子園の高校野球で、壱岐高校が出場しました。離島からの選抜出場で立派です。
 春の甲子園は自分がまだ若かったころに小学生だった息子を連れて何度か観に行きましたが、夏と比較して、観客席はまばらなことが多く、出ているのも、4月から3年生・2年生になる生徒さんたちで、ああ、これは、学校教育の延長なんだなあという感想をもったことを覚えています。(今日は祝日であったことも理由なのか、スタンドはたくさんの観客だったそうです)
 あの当時、ダルビッシュ有選手が高校生でマウンドの上に立っていました。なんというか、電信柱のように、背が高い選手でした。バッターにとっては、マンションの2階にある部屋から、バッターボックスにボールが投げ込まれてくるような感覚なのでしょう。  

2025年03月20日

東京大学駒場キャンパスでランチを食べる

東京大学駒場キャンパスでランチを食べる

 なにかテーマをもってめざしたわけではないのですが、結果的に、東京見物に行ったときは、官公庁がらみの施設の食堂で、職員さんたちといっしょに並んでお昼ご飯を食べるようになりました。
 これまでに、JICA(ジャイカ。国際協力機構。市ヶ谷。お隣が防衛省で、制服姿の自衛隊員の姿があります)、国立国会図書館(永田町。お弁当持参の職員のために、広いテーブルだけの席が用意されていました)、気象庁(虎の門。カツカレーがお勧めですという案内がありました)、農林水産省(霞ヶ関。クジラ料理の定食を注文して食べました)でランチをとりました。

 昨年秋にテレビ東京の番組、『出没!アド街ック天国』で、東京大学駒場キャンパスの学食で食事ができることを知り今回チャレンジしてみました。
 スマホカメラで写真撮影をするような雰囲気のところではなかったので、食事に関する写真はありません。
 東大の学生さんに混じって、夫婦で、醤油ラーメンとカレーライスを食べました。おいしかったです。
 男子学生のみなさんは、みな同じような雰囲気で、おとなしい感じがする、なんというか、あまり個性がない感じの男子学生諸君でした。東大パターンというものがあるのでしょう。女子学生さんも似たような感じでした。おとなしくて静かな感じです。
 欧米の人たちであろう若い外国人女性たちは、留学生なのでしょう。
 高齢者あるいは年配者の人たちは、教授とか准教授とか講師とか、先生なのでしょう。
 食事をしたあと、お隣にあったカフェで、コーヒーとシュークリーム、ケーキのデザートなどを食べました。おいしかったです。
 とてもきれいなカフェで、映画やドラマのロケ地としてつかえる場所だと思いました。おおぜいの学生さんや年配の人やら、外国の人やらがいますが、静かで穏やかな(おだやかな)雰囲気が流れていました。

 もう半世紀ぐらい前、自分がとても若かったころに独身寮で生活していたのですが、4月に東大を出た人が入寮してきました。彼は、寮生が共用で利用していた二層式洗濯機の前で腕組みをしてじっと立ったまま考え込んでおられました。わたしよりも年上の男の人だったので、どうされましたか?と声をかけたら、『洗濯のやりかたがわからない』と返答があったので、ていねいに教えてあげました。東大生でも洗濯機の使い方がわからないんだと、不思議な気持ちでした。
 同じ時期に、もうひとり、東大の人が入寮していて、翌年の冬、寮の有志数人で長野県にあるスキー場へスキーをしに行きました。その人は、スキーがへたくそなわたしに親切にしてくださったのでありがたかったです。
 その後、その人は、国家公務員試験に合格して転職されました。勤務先が、博多になったので、近くに来たら寄ってちょうだいと言われましたが、それっきりになりました。
 おふたりともまだ生きておられたら今はもう前期高齢者なかばの年齢になっておられます。
 遠い昔に、そんなことがあったことを思い出しながら、あのおふたりも1・2年生の教養学部のときは、こちらのキャンパスで学ばれたのだろうと想像しながら、コーヒーを飲んで、シュークリームを食べて、カフェでしばしの時間を過ごしました。

 キャンパス内にある建物の大半は古く感じました。
 キャンパス内に生えている(はえている)樹木も老木が多い。
 食事とコーヒータイムのあと、次の訪問目的地である、『日本近代文学館』の方向へ歩いていたら、とてもきれいな並木道がありました。太くて大きくて背の高い樹木は、地面に落ちている葉っぱで、イチョウの木だということがわかりましたが、今の季節はまだ春先で、すべての木は、葉っぱが一枚もなく、まるぼうずでした。
 帰宅してからわかったのですが、秋になると黄金色(おうごんいろ)に美しく輝くという有名なイチョウ並木でした。
 そこでの写真は遠慮なくとれたのでここに載せておきます。いい感じのイチョウ並木です。
 右方向にはテニスコートと、ホッケーのコートがありました。
 数人の学生さんたちがテニスをされていました。
 キャンパス内には、運動クラブをPRする大きなポスターがけっこうたくさん掲示されていて、運動部がいろいろあることが意外でした。今春入学される1年生たちに入部の勧誘をされるのでしょう。


  

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2025年03月19日

ホットスポット #10 最終話 この町を救う 

ホットスポット #10 最終話 この町を救う  日曜ドラマ10時30分 日本テレビ 動画配信サービス

脚本:バカリズム
俳優:角田晃広(お笑いトリオ東京03 この人が宇宙人です)、市川実日子(いちかわ・みかこ)、平岩紙(ひらいわ・かみ)、鈴木杏(すずき・あん)、夏帆(かほ)、坂井真紀、田中直樹、小日向文世(こひなた・ふみよ)、志田未来、山本耕史

 最後の回でした。
 なかなか良かった。
 とくにラストシーン近くで、これまでのことがらについて次々と話を回収してまとめていったあたりが、すがすがしかった。
 謎の未来人古田(演者:山本耕史さん)の起用がとてもおもしろい。物語の中では、いなくてもいいとも思える登場人物の起用ですが、『娯楽(人の心を楽しませる)』という意味が十分あります。愉快でした。しつこさがいい。こういう笑いのつくり方があるのかと驚かされました。未来人という同じ設定と動向で重なる演者が、小日向文世さん(こひなた・ふみよさん)と山本耕史さんでした。
 
 ドラマは、宇宙人高橋が、女性市長と女性ホテルオーナー(不動産業者)との贈収賄(ぞうしゅうわい)を証明するために相手にとっては、ヤバイ書類(贈収賄の合意書)を盗み出すというスリリング(ヒヤヒヤする)なシーンから始まります。(盗難品が、証拠品として採用されるのかという疑問はあるのですが……)
 宇宙人高橋のすばやい動きが気持ちいい。すばらしい! かっこいい! その後の展開も含めて、以降、幾度も同様のステキな体の動きが見られます。
 ストーリーの進行のしかたが、練りに練ってあるのがいい。話は素直にまっすぐには進みません。(視聴者の予想はなかなか当たりません)
 女性陣の、のんびりした感じがいい。癒されます(いやされます)。

 大きな白い満月の輝きと、黒い影の宇宙人高橋の対比が美しい。洋画、『E.T.(イーティー)』を思い出しました。宇宙人と少年少女たちとの気持ちの交流を扱った、心あたたまるいい映画でした。

 宇宙人高橋がときおりまわりの人たちにかける心優しい言葉がいい=『特別ね』

 以前食事場所で宇宙人高橋の幼なじみの男性たちの口から出た、自分では、伏線だと思っていた、『エロスケ』の続きの話はありませんでした。
 あとは、富士山がシンボルのドラマでした。

 若葉(女子中学生。市川実日子さんの長女)が、宇宙人だったという話にはびっくりしました。
 祖父が、4分の1、父(市川実日子さんの離婚した元夫)が、8分の1、若葉が16分の1で、宇宙人の血が混じっているらしい。おもしろい。(運動神経がいい。バスケット部で、ゴールに入らず戻ってくるボールをとる(リバウンド)ときの跳躍力が人並み以上にある)

 小学校での卒業式で、『卒業生答辞(とうじ)』がとても良かった。自分も小学生だった時に同じ体験があります。久しぶりに思い出しました。みんなで合唱するように、在校生(小学5年生)の送辞(そうじ)に対して返しました。なつかしい。まだわたしは12歳でしたが、気持ちはいっぱしの一人前の(いちにんまえの)大人(おとな)の気分でした。
 小学校の卒業シーンである今の時期に番組内容が合わせてあります。ガソリンスタンドでの犯人逮捕騒ぎは、番組放送日と同じく3月16日の設定でした。

 新ホテルオーナーの小野寺充(おのでら・みつる)君の話も良かった。
 
 ドラマのメッセージとして、自然を大切にしよう。お金もうけより、人として、あたりまえのことをあたりまえにやろうがあったと思います。

 タイムリーパー:未来から過去へ来た人
 ディストピア:ユートピア(理想社会)の反対。暗黒社会、不幸せな(ふしあわせな)社会

 宇宙人高橋に渡したガンプラのプレゼントも良かった。(アニメ作品、『機動戦士ガンダム』のプラモデル)

 全体をとおして:おもしろかったなあ。

(話は脱線してしまうのですが)
 たまに用事があって、福岡県内にある、『新飯塚駅(しんいいづかえき)』を利用します。
 駅のそばに、幹線道路が走っていて、その道路の北側に、バカリズムさんが通っていた高校があります。
 幹線道路の南側には、元総理大臣のご実家があります。(現在は、会社が管理しています)
 市内には、フォークシンガーの井上陽水さんが生まれた地域があります。フォークグループ、『かぐや姫』の山田パンダさんや、俳優の瀬戸康史さんが通った高校もあります。
 駅前から路線バスで20分ぐらい乗ると、将棋棋士の加藤一二三さんが少年時代を過ごした地域があります。さらに路線バスに乗って山のふもとのほうへ20分ぐらい向かって行くと、劇作家、演出家、小説家だったつかこうへいさんが住んでいた地域があります。
 ほかにもお隣の田川市あたりに行くと、小峠英二さんとか、仁支川峰子(旧芸名西川峰子さん)さんとか、IKKO(イッコーさん)とか、有名になられた人たちが東京進出前に生活していた地域があります。思うに、芸能界以外の世界でも有能な人たちが、そのあたりの地域から東京方面へ転出されていったのでしょう。
 今は、春の別れと出会いという節目の時期であり、山に囲まれたあの地域から、若い人たちが胸に夢をいっぱいかかえて、昔で言えば、国鉄(今はJR)の筑豊線に乗って、博多駅や小倉駅から東にある東京や大阪、名古屋を目指したのでしょう。国鉄以外にも、西鉄バスを利用された人もおられるかもしれません。春を迎える時期にあって、そんなことを思索しました。しさく:思いをめぐらせる。地方から都会へ出て行く若い人たちの今後の健闘を祈ります。  

2025年03月19日

東京日本橋三越本店にある屋上庭園

東京日本橋三越本店にある屋上庭園

 前日掲載しましたが、日本銀行本店見学の集合時刻までにまだ時間があったので、日本銀行本店の近くにある日本橋三越本店の屋上庭園でしばし過ごしました。
 きれいなところでした。すがすがしい。
 いろいろな樹木がありました。
 木の肌がつるつるな、『百日紅』(さるすべり)』の樹(き)が目立ちました。サルスベリの木は、ほんとうに、サルがつかまったらすべりそうな樹でした。写真は撮り忘れました。











 神社があったので、お参りをしておきました。
 宮城県仙台市に行ったときも、百貨店の屋上に神社がありました。
 どうして、百貨店の屋上に神社を設置するのかはわかりません。
 (その後、調べたら、店内事故防止の祈願(きがん。神仏に祈る)が目的だそうです。加えて、『商売繁盛』だそうです。なるほど)



  

Posted by 熊太郎 at 07:15Comments(0)TrackBack(0)東京

2025年03月18日

日本銀行本店を見学に行く。

日本銀行本店を見学に行く。

(次の記述は、2024年12月中旬に書きました)
 定期預金の利息が低いことに嫌気がさして、3年半ぐらい前から株式投資を始めました。当時の日経平均株価(日本経済新聞社が算出・公表している日本の株式市場の代表的な株価指数のひとつ)は、2万6000円~2万8000円ぐらいでした。その後、4万円を超えたときはびっくりしました。
 株取引を始めた時期が良かったのでしょう。幸いに(さいわいに)、今のところ損失はありません。
 株式投資の参考にしようと思って、これまでに、東京証券取引所と日本銀行貨幣博物館を見学しました。
 去年の今頃、日本銀行本店を見学できることを知り、見学に行ってみようと思い立ちましたが、都合がつかなくて先延ばしにしていました。
 自分の感覚だと、1月~3月は見学予約がとりやすそうだけれど、4月以降になるとなかなか予約が取れないような雰囲気を感じました。
 今回ネットで、日銀本店見学予約のページを開いたら、3月に予約できる日が数日あったので、夫婦で見学ということで、2名で予約を入れて予約がとれました。来年の楽しみのひとつになりました。
 見学時間は1時間ぐらいで、20名のかたまりです。職員の引率による説明とビデオでの説明があります。

(その後:2025年3月のとある日に日銀本店を見学してきました)
 20人ぐらい、申し込みをされた一般の方たちといっしょに、職員の付き添い案内で回りました。参加者は、わたしたちのような年配の夫婦、お年寄り夫婦と息子さんとか娘さんとか、おだやかそうな人たちでした。
 次の建物写真は、見学場所である日銀本店内で展示してあった掲示物を撮影したものです。この建物の中を案内してもらいました。
 じっさいの日銀業務は、古い建物の向こう側に立っている白いビルディングの中でやられているそうです。
 見学は、古い建物内の周遊で、2階を見て、1階を見て、地下フロアーを見ました。(説明はありませんでしたが、3階部分があるようです)



 門を入って、中庭になっている空間で撮った写真です。屋根の上は、ドーム型になっていました。



 2階は、会議室などになっていました。2階は、撮影はだめよの区域でした。
 役付きの人たちが、円形にまあるくなって座って会議をするテーブルと椅子がセットしてありました。
 ドーム型の天井が東京駅の天井(てんじょう)みたいできれいでした。
 2階通路となっている廊下の壁には、歴代総裁の肖像画が飾られていました。時代が新しくなってきて、肖像画は途中から上半身を写した写真に変わりました。
 2階の廊下や部屋などの照明が暗いなあと感じましたが、明治時代とか大正時代ぐらい、昔の照明はあれぐらいだったのでしょう。まあ、今の日本の照明が明るすぎるということも感覚が違う理由としてあるのでしょう。(2階の照明は電球を使用してあるような電灯色でした。1階の照明はたぶんLED(発光ダイオード)の白い色でした)

 以下の写真は1階部分です。まんなかの広い空間が、銀行でお客さんたちが動いたり、椅子に座る待合場所にしていたりしたスペースだそうです。
 突き当りにある茶色のしきりの部分が、接客用のカウンターで、カウンターの向こう側に銀行員がいたそうです。



















 地下フロアーに大きくてがっちりした金庫のパネル写真とか、現金を積んだ小型トロッコが部屋をぐるりととりまく廊下部分を周回するように走っていた線路跡などがありました。
 立派な建物の基礎部分(地面の下)が、透けて(すけて)見えるようにしてありました。建物を支える基礎部分はかなり深くて、地震の揺れる動きに合わせて建物全体が揺れるという耐震化もなされていました。
 なんというか、明治時代、大正時代、昭和初期の時代の人たちの知恵とか職人技(しょくにんわざ)の能力の高さが伝わってくる建物でした。たいしたものです。関東大震災とか、第二次世界大戦のときの空襲などの災害・戦災を乗り越えてきています。

 わたしのブログの契約上のことですが、ブログに掲載できる記事や写真の容量があまりないので、地下部分の写真の掲載はやめておきます。  

Posted by 熊太郎 at 07:30Comments(0)TrackBack(0)株式投資