家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。K.Kajunsky PHP研究所
ずいぶん変わった漫画です。シュール(非日常的、奇怪)です。読み始めは背筋が寒くなります。お嫁さんの出身地岐阜県での出会いあたりから笑えるようになりますが、その後も不気味さはただよいます。自分の妻を「うちの嫁が」と称する男性を思い出しました。通常、<うちの嫁が>というのは、夫の母親(姑、しゅうとめ)さんが話すときの接頭語です。奥さんは心の病気ではないかとかんぐる部分もあります。冷めた夫婦というわけでもない。旦那さんは奥さんをこよなく愛しているし奥さんも同様です。でもフツーじゃありません。似たもの夫婦なのか。
「スルーする」という言葉は嫌いです。無視する。存在を否定する、しかも力づくでという悪い印象があります。最近の若い世代はよく使用するようです。
絵の雰囲気は暗い。なぜ奥さんは死んだふりをするのか。暇だから。旦那を驚かせたい。サディスティック(相手を恐怖におとしいれることを好む)なのか。夫婦モノの漫画ですが、変わった夫婦です。最近はこのようなものが世間に受け入れられる時代なのか。
文章部分があります。一行羅列(られつ)方式です。文章が縦に流れています。詩の形式ですが、詩ではありません。「不完全人間の妻」というキーワードが思い浮かびました。物書きになりたいという意思は伝わってきます。
奥さんは芝居をして楽しんでいるのか。それとも、コスプレ(架空人物に変装する)が好きなのか。
奇人たちの身辺話です。CDの項目はなんのことかわからない。122ページのトカゲはヤモリ(家守)だと思う。
生活費に困っているようです。奥さんはなぜ働かないのか。ふーむ。ともかく、わからない。異星人の物語でした。
◎さまよう刃 東野圭吾 角川文庫
非常に暗い物語です。長編ですが、早く読み終えたくて、夜を徹して明け方まで休み休み読んで、2日間で読み終えました。
犯罪被害者家族の叫び声が響いています。16歳のひとり娘を強姦され、覚せい剤を打たれたのちに、ごみのように遺体を川に捨てられた父親の復讐劇です。彼は妻も病死で亡くしています。加害者である少年3人は未成年で、逮捕されても短期間の刑で済む立場にいます。
主人公父親は長峰重樹さん、40歳ぐらいでしょうか。娘さんの名前が絵摩さん、高校1年生です。少年たちは18歳ぐらいらしく、菅野快児(スガノカイジ)はケダモノです。伴崎(トモザキ)アツヤも同類です。中井誠も人間のくずです。彼らにも親がいます。産むだけ産んで、こどもの言いなりになって、最後はこどもを捨てたり、卑劣なかばいだてをしたりしています。長峰さんはだから、怒りと憎しみでいっぱいになったのです。
何人もの刑事たちが登場しますが、彼らは物語の進行係を務めるだけです。いまどきらしく、携帯電話が犯罪の鍵を握っていきます。ただ、被害者側にしても加害者側にしても、あまりにも極端なお話ではあります。この素材で、もうひとつ別の作品をつくれないだろうかと考えていたら、偶然並行して読んでいた「三匹のおっさん」有川浩(ひろ)著に女子高生娘を強姦されそうになった父親有村則夫さんが登場するのです。こちらは、明るい物語展開となっています。60過ぎのおっさんたちが強姦魔を捕まえてみれば、現職警察官だったのです。ただ、その展開ではなくてもっと別の展開になる物語ができると思うのです。
この物語の場合は、長峰さんは犯人の少年たちを殺害したあとに自殺する気配があります。読み続けていると長峰さんに声をかけたくなりました。お疲れでしょう。もうやめましょう。自首しましょう。天国の娘さんも、もうこれ以上の復讐は望んでいません。
長峰さんの行動に協力する通りすがりともいえるペンション経営者の娘さん丹沢和佳子さんがいます。彼女は正面から長峰さんに説得を試みます。それは、作者自身の姿だと感じました。終わりはハッピーエンドになってほしい。そう思いながら読み続けました。だけど、読み終えてみて、むなしくなりました。
47都道府県女ひとりで行ってみよう 益田ミリ 幻冬舎
「女ひとり」を表に出す手法は、本やブログでときおりみかけますが、これは、読者を獲得するための誘い文句なのでしょう。もう一歩踏み込んでみると、ひとり旅と銘打つ作者たちは、30代未婚女性に絞られてきます。働いていて、お金と自由な時間がある。その反面、夫とこどもたちがいない。現在の自分そして将来の自分に迷いと不安を抱えているのでしょう。先日読んだ「かもめ食堂」群ようこ著では、そんな女性たちがフィンランドのヘルシンキでかもめ食堂をきりもりするという楽しいお話でした。
さて、この本はとてもいい。行こうとすれば行ける距離にある日本各地巡りの案内書です。作者の場合、費用もそれほどかかっていません。日本各地に住む日本人の優しさが伝わってきます。
この本を読みながら、わたしが行きたいと思った場所は次のとおりで、ただし、読み終えて3日後にまた考え直したこともあり、それも付記してみます。
「三重県松坂市」松坂牛のすき焼きを食べてみたい。(3日後、わざわざ松坂まで行かなくても名古屋市内の松坂牛を出してくれるお店で食べればいい。さらにそうしなくても、お店で松坂牛を買ってきて、自宅で食べればいい。最後には、松坂牛でなくてもいいまで、レベルが下がりました。)-この数年後。縁あって何度か訪れましたが、いまだお肉は食べていません。
「大分県別府温泉」わたしは九州出身ですが、別府は通過点でした。さびれたとは聞きますが、本格的な温泉街であることには変わりがないでしょう。(3日後、これは実現できそう。帰省したおりに立ち寄りたい。)-この数年後、何度か訪問を計画しましたがおもに仕事優先の都合であきらめてまだ行けていません。
「岩手県中尊寺金色堂」かなり行きたい欲望がでました。(3日後、たぶん金閣寺のように金ぴかでしばらくながめたら見飽きるのだろう。やめておこう。)-この数年後、訪問しました。仏像というよりも美術品でした。
「東京大学の学食、国会議事堂、帝国ホテル」東大の赤門前には行ったことがありますが、警備員が立っていて、関係者以外立ち入り禁止の雰囲気でした。簡単に入ることができるのなら入ってみたい。国会議事堂前も同じく警備の警官が立っていました。見学予約ができるようなので、入ってみたい。帝国ホテルも泊まってみたい。本には記事がありませんでしたが、皇居の見学もできるようなので、いつか、以上の場所をひとかたまりにして全部見てみたい。(3日後。これは今もそうしたいということで読後も変更がありません。)-東京へはもう5年ぐらい行っていません。
「京都駅に併設されているホテル」泊まってみたい。ホテルの窓からゆきかう夜の新幹線を眺めたい。(3日後。いつか泊まろう。)-この数年後、2回泊まりました。よかった。
作者の旅行の特長を並べてわたしの感想を付記してみます。
旅立ちの季節にはこだわらない。春とか秋の行楽シーズンではなく、行きたいときが行き時なのです。それから、現地のすべての観光地を巡るのではなく、場所を絞って見学する。わたしも同感です。見学したくても、体調や仕事・家族の都合で簡単に旅行へ出ることがむずかしいことに加えて、現地での滞在時間も限られてきます。すべての場所を見学することは無理です。気に入った場所があれば、そこが観光地ではなくとも長時間滞在するようにしています。
作者は旅先での地元の人たちや他の観光客との関わりを拒んでいます。そのため文章はひとりのつぶやきが多い。ただし、それは短文なので気になりません。文章のかたまりは短く、4コママンガの付記と消費した金銭の記録もいい。作者はマッサージが好きなのだなあということがよくわかります。ひとりで旅行をしている作者のさみしさは伝わってきます。ただ、後半部分は愚痴が多くなってきて困りました。
大阪、道頓堀に飛び込む若者たちの記述はGoodです。全体を通して、作者があまりにも地理や歴史を知らないところがおもしろい。よく考えてみれば、都道府県とか市町村の境界線にこだわりながら生活している人は日本人のなかの少数派です。大部分の人は、自宅と職場か学校、買い物先ぐらいの範囲で行ったり来たりを繰り返しながら生活をして年齢を重ねていきます。わたしも若い頃は、歴史にまったく興味がなく、過去のことを今さら振りかえって何になると強がっていました。今はそうは思いません。歴史を知ることは楽しい。
ホテルとか旅館はあまり安い部屋は避けたい。仕事で寝るだけならかまいませんが、旅で心を癒したいときには少し高くてもいい部屋に泊まりたい。本書中に安部屋から少し高い部屋に方針転換した作者の同様の記述があります。
231ページ、「嫌いな人がいてもいい」は名言です。無理をするのはやめましょう。作者は線が細い人と感じるのですが、やっていることはけっこう太い。そのギャップ(差)が芸術家の素因になるのでしょう。
最後に作者は一期一会に(いちごいちえ)について記しています。わたしはそこに、縁がある人とは、会いたいと思わなくても、こんな場所でという思いがけない場所や、何年ぶりにというタイミングで再会するものだということを付け加えておきます。
<この読書感想文は、4年前に書いたものに追記をしています。>
この世でいちばん大事な「カネ」の話 西原理恵子(さいばら) 理論社
作者の幼年時代の様子は、わたしの幼き頃と重なります。父親がお酒飲みで暴れん坊、かつ死んでしまった。お金がない、海岸そばでの生活、荒っぽい人間関係、それらの出だしは、「東京タワー」リリー・フランキー著とか、「ゆっくり歩け、空を見ろ」そのまんま東著と同様、同世代に共通するせつない体験と思い出でもあります。
作者の四国高知県での生活を「八日目の蝉(せみ)」角田光代著に登場する誘拐された乳児で、誘拐犯人の女性に育てられる女児「薫さん」に重ねて読んでみました。しっくりきます。
30ページまできて、この本は、小学生・中学生に向けて書いてあると気づきました。お金がないとかお金を失うという記述は、気持ちが沈みこんでいく内容です。作者は生活歴をさらけだしています。わたしも子どもの頃は、ひどい貧困生活をおくっていましたが、作者はもっとひどい暮らしを体験しています。話し言葉による記述は読みにくいので、頭の中で書き言葉に変換しながら読み続けました。
人を死なせないために必要なことは、「ほめる」「励ます」という行為であることがわかります。
作者は10年間で5000万円をむだに失うダイナミックなお金の使い方をしています。それを聞いてほっとした気持ちになって救われました。わたしは30年間ぐらいで1000万円ぐらいをむだに失いました。たいしたことはないようです。
177ページにある九州の炭坑の記事とか、土方(どかた)仕事で使う三輪車を「ネコ」と呼称するお話はなつかしい。わたしも高校生の頃、アルバイトで、日給2800円の土方をしていて、三輪車であるネコにコンクリートミキサー車から生コンクリートを流し込んで建築現場で運んでいました。
後半まできて、お説教ぽいかな、と思いました。
読み終えてみて、こどもさんにお金の話をするにあたって、なにかしら物足りません。恐れ多くも、そのひとつとして、付け加えさせていただきます。「貧困から脱出するてっとりばやい方法は、勉強することです。」本を読みましょう。
いつも旅のなか 角田光代 アクセス・パブリッシング
わたしはこの作家さんの作品は苦手です。以前「空中庭園」を読み始めましたが、30ページほどで読むことを中断したことがあります。しかし、この本は旅行記なので読んでみることにしました。
海外旅行記です。登場する国々は、モロッコ、ロシア、ギリシャ、オーストラリア、スリランカ、ハワイ、バリ、ラオス、イタリア、マレーシア、ベトナム、モンゴル、ミャンマー、ネパール、タイ、台湾、アイルランド、中国、韓国、スペイン、キューバと多彩です。読み終えて、わたしが行きたいと感じたところはモロッコ(砂漠、峡谷)、ギリシャのカランバカ村(岩山の上に修道院が建設されている。)、ベトナム(北ベトナムの首都だったハノイ)、モンゴル(大地と大空が広がる風景)、タイ(プーケット(リゾート地))でした。
読み始めて驚かされたことは、短文なのです。1か所の記述があっという間に終わってしまいます。また、その土地の暗い部分が記述されています。直接的な観光勧誘案内にはなっていません。読み始めは物足りない感じがしていましたが、読み進むにつれて、やはり作家さんの文章です、中身が濃厚になり力強さが湧き出してきます。
作者は大変かわいらしい容貌なのですが、していることはおじさんです。タバコを吸い多量のアルコールをたしなみ、前へ前へとイノシシのごとく突進していきます。うまく表現できませんが、著者は幸福(しあわせ)を追及しているのではなくて、シアワセ(カタカナ表記になります)を追い求めています。
ロシアにしてもキューバにしても社会主義の国では、人が働かないという印象をもちました。競争主義ではないので、働かなくても配分されるものがある、お金持ちから配分されることを当然のこととして受け止める、汚職が蔓延(まんえん)する、権力者が派閥や親族の利益を優先する、そんなところです。
ギリシャの旅は楽しく読みましたが、作者はひとりぼっちでなんだかさみしい。全体をとおしてですが、やはりひとりごとのような記述が多くなり、作者の孤独が浮き彫りになってくるので、わたしは作者のような旅はしたくありません。以前読んだ同作者の作品「だれかのいとしい人」を思い出しました。
オーストラリアの記述で登場する匿名の島は「ハミルトン島」ではないかと思うのです。わたしが訪れたとき島の北端にコアラがいる小さな動物園がありました。作者の記述に付け加えると、セキセイインコがすずめのように飛び、カンガルーが野良犬のように道端に寝そべっていました。
77ページ、スリランカ編で登場するヒンズー教の神さまの名前「ガネーシャ」は、「夢をかなえるゾウ」水野敬也著飛鳥新社に登場する神さまの名前であることが判明しました。
本に明記してあるわけではないのですが、この本を読んでいると、アメリカ合衆国という国は、いつの時代でも地球上のどこかの場所で戦争をしていないと気がすまない気質をもった国であると感じました。わたしはだんだんアメリカという国が嫌いになってきています。日本人であるわたしはアジアの一員でありたい。
ミャンマーでは観光客でさえ「ス・チー」という言葉を発してはいけないようです。言論の自由は大切です。
タイを例にして、日本人は70年代を境にして日本人の体験が変化したという作者の意見には同感です。わたしが6才の頃に住んでいた熊本県の離島では、大きな穴に2枚の板を渡して大小便をしていましたし、お風呂は板を踏んで入る五右衛門風呂で、母親たちはそろって、川で洗濯をしていました。物々交換として、卵と氷を交換するとかいう習慣も残っていました。幼かったわたしは、人糞を桶に入れて天秤棒でかつぐ祖母のうしろを歩いて畑へ行き、肥(こえ)を畑に撒(ま)く祖母の姿を見ていました。
中国上海の記述で述べられている、一度来てみて、もういい、再び来たいとは思わないという感想は、高校の修学旅行で上海に行ったことがあるうちのこどもの感想と同じで微笑みました。
全体をとおして、毎日大量の文字を書いている作家さんの文章だと感じました。内容には意味深いものがあります。キューバ編、300ページ付近にある作者の記述「何を成していようがいまいが、日常を生きるごくありきたりのひとりである」は名言です。
最後に、本のどこかに記述があったのですが、「人は2番目に好きな人と結婚する」について、わたしはやっぱり1番好きな人と結婚してほしいです。
100万回生きたねこ 佐野洋子 講談社
絵本です。いつものように絵だけを最後まで見て、自分なりにストーリーを考える。生意気(なまいき)そうなドラねこくん登場です。最初のほうにある2枚の風景画は、小学校低学年のこどもが描いたようにへたくそです。意図的にそうしてあるのかもしれません。以降は、こどもとおとなが混じったような絵、そして、プロの絵と、絵が変化していきます。15ページにあるねこの絵はGoodです。続けて絵を追いかけてみます。主役のねこに配偶者ができて、こどもたちができて、配偶者は亡くなります。ねこは大泣きしています。主役はオスねこです。
最初に戻って、読みながらページをめくりはじめます。100万年も生きたねこです。人間が地球上に登場してから5500年くらいだと思います。ねこは、生きかえってもねこです。ねこの記憶は復活後も継続します。ねこに形容詞はあるけれど、名前はありません。
権力者が嫌い、海が嫌い、サーカスが嫌い。彼は、束縛されることが嫌いな様子です。対して、ねこを飼う人は孤独です。ひとりぼっちで淋しい立場の人たちです。死んだねこはいつも土の下に埋められる。
最後まで読みました。つらい最後なのか、幸福な最後なのか、これでいいのか。これでいい。
本のカバーのねこの緑色の目がわたしになにかを語りかけてきます。100万回生きたねこは、たった1回だけ生きたねこでした。
こっちを向いてくれない異性を追いかけることを「恋」という。じわじわと空間を濃縮させていく手法が用いられている作品です。胸にジーンとしみる読後感があります。
人はいつ泣くのか。どんなときに泣くのか。絵本のなかで死んだねこは、読者の心の中で永遠に生き続けます。謙虚であること、自慢しないこと。つれあいはひとりしかいないこと。
外国人が見た古き良き日本 内藤誠編著 講談社
幕末・明治維新の頃に日本に居た外国人17人による当時の日本の記録です。わたしは、子どもの頃から見てきたテレビや映画の時代劇の影響で、その頃の日本人は、貧しくて暗い生活を送っていたという後ろ向きの思い込みをもっていました。ところが日米修好友好条約を結んだタウンゼント・ハリスの「日本滞在記」を読んで、その思い込みが間違っていることを知りました。その頃の日本人は、やさしくて平和で幸福だったのです。海岸線を始めとした自然の美しさや、山の幸、海の幸に恵まれてまるまると太っていたそうです。士農工商という身分制度はあるけれど、人々は身分に分け隔てなく仲がよかったそうです。ハリス氏が見てきた世界のほかの国と比較して、日本は世界中で一番暮らしやすい天国のようなところと記述がしてありました。先日読んだ「破線のマリス」野沢尚著にあるように、画像を加工することによってマリス(悪意)で人々の意識を操作できる技術によって錯覚していました。この本でも、徳川将軍に面会した外国人が、将軍といえども質素な生活をしている。他の外国の支配者は豪華絢爛でぜいたくな生活をしており、これは考えられないことだと記述があります。
意外だったのは、日本人は復讐心が強いというものでした。しかも、加害者だけに復讐心を抱くのではなく、加害者の家族や組織に対しても復讐をするというものでした。あだ討ちの習慣です。加害者でもないのに殺されたり攻撃を受けたりするのはかなわないと感じました。わたしが子どもの頃、殺人事件というものはたいへん珍しいものでした。人を殺すと殺され返すという恐怖がまだ残っていたのかもしれません。いまは毎日人殺しのニュースばかりが流れます。親がこどもを殺したり、こどもが親を殺したり、めちゃくちゃです。
日本の馬たちはなかなか人間になつかないという記述は興味深いものでした。それから、江戸の道幅がものすごく広いとか、商店街の様子、2階建ての建物が並ぶなど、今と変わらずおどろきました。いっぽう、幕末の頃の日本は、外国人にとってたいへん危険な場所・時代だったようで、単に外国人だからという理由で切り殺されることもあったようです。
切腹シーンはリアルです。おなかにさらしを巻いて血が飛び散らないようにしているとか、首が落ちると動脈から血が吹き出して水溜りのようになるとか、体が後ろに倒れないように着物のすそを足の下にはさんだ姿勢で前かがみになって腹を切るとか、刀を打ち下ろす人はあとで切腹した人の着物を上手にぬがせて自分のものにするとか、刀を振り落とすと首だけではなく相手の膝まで切れるとか、残虐な記述ですが、武士をはじめとした当時の日本人には瞬間的に相手を叩き切ることができるという性質があったことがうかがえます。加害者が、被害者の目の前で切腹するのは、合理的で、復讐心を充足するものだと感じました。後々(あとあと)、切腹をしなければならないと明白でもあるのにもかかわらず、部下に外国人を切るようにと指示する上司の気持をわたしは理解できません。切腹制度がない今は、いい時代です。組織で不祥事が起こったときには、「辞任」とか「辞職」という手段で責任をとることができます。命まで奪われることはありません。
記述者である外国人のみなさんは、たいへん几帳面な記録を残されています。どうやって収入を得て生活していたのだろうかと読みながら心配もありました。けして裕福だったとは思えないのです。わたしが以前訪ねた栃木県日光市の130年前の風景や京都市嵐山の美しい風景も出てきます。本にある白黒写真を見るとわたしがこどもだった40年前の日本の風景とそれほど変わりがありません。何千年も変わらず続いてきた日本の国土の風景は、わずか50年程度で一変してしまいました。都市化、それが良かったのか、良くなかったのかを論じるのはむずかしいことです。この本から、昔、日本人は、自然や季節の変化とともに生きてきたことがわかります。今は人工的に夏でも涼しく、冬でも暖かい環境をつくれるようになりました。
ラフカディオ・ハーン氏は、西欧文明を強く否定し、日本を世界一の文明国と讃(たた)えています。日本人は自制心が強いという記述からは、以前読んだ「A型自分の説明書」Jamais Jamais(じゃめじゃめ)著文芸社から、当時の日本人は血液型A型の人が多かったのだろうと推察しました。
◎影法師 百田尚樹 講談社
侍(さむらい)のお話です。いくつかの読めないあるいは意味がとれない単語が出てきます。「捨て扶持(ぶち)」江戸時代の言葉。役に立たないものに与える給料・生活費「儂」わしと読む。自分のこと。「奸物(かんぶつ)」悪知恵のはたらく心のひねくれた人間。この物語では、私利私欲のために家臣や民の幸せや夢となる政策実行を妨害した滝本主税(ちから)筆頭国家老を指します。「上意討ち、じょういうち」主君の命を受けて、罪人を討つ。討ちそこねると死とお家断絶(○○家がなくなる)が待っている。「逐電ちくでん」すばやく逃げて行方をくらます。この物語では、ストーリーの柱となる磯貝彦四郎が逐電します。「御徒組」おかちぐみ。江戸時代にあった城を守るための組織。ある意味、公務員的な侍組織が描かれています。以前読んだ朝日文左衛門(実在)サムライダイアリーで紹介されていた侍の実生活が参考になりました。
主役の茅島藩(かやしまはん)筆頭国家老名倉彰蔵50才の回想から始まります。彼の影法師になるのが磯貝彦四郎です。すでに他界しています。この作家さんの物語作りの手法により、ラストのラストで目頭が熱くなります。文章に記事はありませんが、わたしは、本の記述にあるような解釈はしません。なぜ、彦四郎は彰蔵を守ったのか。記事では、彰蔵が藩にとって必要な人間だったからとあります。違います。彦四郎は彰蔵の妻みねを愛していたからなのです。みねを不幸な境遇にしないために彦四郎は夫である彰蔵を守り通したのです。
身分制度である上士、中士、下士のうち下士である彰蔵の父は7才の彰士の目の前で上士の侍に槍で突き殺されます。父親のこどもを守るという強い意志が、父親の死後も彰蔵を守り続けます。物語の出だしは衝撃的です。彰蔵が上士に放った「それでも武士か!」という言葉は、日本映画「さや侍」での野見勘十郎の娘たえの叫びと重なるのです。侍は強い意志と優しい心をもちながら命を絶っていくものなのです。
だれかのために自分を犠牲にする。そういう人がいないと社会は成り立っていかない。無名で生涯を終えた人たちこそが賞賛されるべきです。世のため人のためといいつつ、結局は自分のために生きている人のほうが多い。書中では、肝心な分岐点で、登場人物たちは無言になります。心ある人たちは、自分の気持ちを声に出さない。沈黙します。
落ちぶれた彦四郎と暮らした下女は保津(ほつ)だろうと予想しましたがはずれました。侍の貧しい暮らしぶりは日本映画「壬生義士伝(みぶぎしでん)」の吉村寛一郎を思い浮かべました。南部藩所属だった彼は貧しさから逃れるため新撰組に参加しました。彼は死に息子も死にました。この物語では舞台が明記されていない、あるいはわたしが地名を知らないためか、おそらく東北地方の日本海側と推察するのです。実話があるのかもしれません。農民を始めとした下層武士の貧困を救うため「米」に着目して干潟を干拓して田に変えていくことが目標となっています。「米」がすべての尺度です。米のために幾度も殺し合いが発生します。殺戮シーン(さつりく)の表現はすごい。刀技は瞬間的ですが迫力があります。
幹部職にある武士が不正を働くことをいさめるのですが、藩主そのものが不正をする場合は救いようがない。最後に、文章は適度な固まりでつないであり読みやすかった。



侍(さむらい)のお話です。いくつかの読めないあるいは意味がとれない単語が出てきます。「捨て扶持(ぶち)」江戸時代の言葉。役に立たないものに与える給料・生活費「儂」わしと読む。自分のこと。「奸物(かんぶつ)」悪知恵のはたらく心のひねくれた人間。この物語では、私利私欲のために家臣や民の幸せや夢となる政策実行を妨害した滝本主税(ちから)筆頭国家老を指します。「上意討ち、じょういうち」主君の命を受けて、罪人を討つ。討ちそこねると死とお家断絶(○○家がなくなる)が待っている。「逐電ちくでん」すばやく逃げて行方をくらます。この物語では、ストーリーの柱となる磯貝彦四郎が逐電します。「御徒組」おかちぐみ。江戸時代にあった城を守るための組織。ある意味、公務員的な侍組織が描かれています。以前読んだ朝日文左衛門(実在)サムライダイアリーで紹介されていた侍の実生活が参考になりました。
主役の茅島藩(かやしまはん)筆頭国家老名倉彰蔵50才の回想から始まります。彼の影法師になるのが磯貝彦四郎です。すでに他界しています。この作家さんの物語作りの手法により、ラストのラストで目頭が熱くなります。文章に記事はありませんが、わたしは、本の記述にあるような解釈はしません。なぜ、彦四郎は彰蔵を守ったのか。記事では、彰蔵が藩にとって必要な人間だったからとあります。違います。彦四郎は彰蔵の妻みねを愛していたからなのです。みねを不幸な境遇にしないために彦四郎は夫である彰蔵を守り通したのです。
身分制度である上士、中士、下士のうち下士である彰蔵の父は7才の彰士の目の前で上士の侍に槍で突き殺されます。父親のこどもを守るという強い意志が、父親の死後も彰蔵を守り続けます。物語の出だしは衝撃的です。彰蔵が上士に放った「それでも武士か!」という言葉は、日本映画「さや侍」での野見勘十郎の娘たえの叫びと重なるのです。侍は強い意志と優しい心をもちながら命を絶っていくものなのです。
だれかのために自分を犠牲にする。そういう人がいないと社会は成り立っていかない。無名で生涯を終えた人たちこそが賞賛されるべきです。世のため人のためといいつつ、結局は自分のために生きている人のほうが多い。書中では、肝心な分岐点で、登場人物たちは無言になります。心ある人たちは、自分の気持ちを声に出さない。沈黙します。
落ちぶれた彦四郎と暮らした下女は保津(ほつ)だろうと予想しましたがはずれました。侍の貧しい暮らしぶりは日本映画「壬生義士伝(みぶぎしでん)」の吉村寛一郎を思い浮かべました。南部藩所属だった彼は貧しさから逃れるため新撰組に参加しました。彼は死に息子も死にました。この物語では舞台が明記されていない、あるいはわたしが地名を知らないためか、おそらく東北地方の日本海側と推察するのです。実話があるのかもしれません。農民を始めとした下層武士の貧困を救うため「米」に着目して干潟を干拓して田に変えていくことが目標となっています。「米」がすべての尺度です。米のために幾度も殺し合いが発生します。殺戮シーン(さつりく)の表現はすごい。刀技は瞬間的ですが迫力があります。
幹部職にある武士が不正を働くことをいさめるのですが、藩主そのものが不正をする場合は救いようがない。最後に、文章は適度な固まりでつないであり読みやすかった。
ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない 映画 ケーブルTV録画
出だしから数十分間は不快感に包まれ怒りまで生まれます。原因はリーダー役の言葉づかいにあります。「バカ!」の連発です。なんとかならなかったものか。その表現をしなくても物語は成立します。
最後はどうおとすのかが予測の焦点になります。やっぱりがんばろうという人類共通のゴールが見えてきてほっとしました。
邦画「電車男」の第二段を目指したがうまくいかなかったという印象が残りました。プログラマーの新人が職場で虐待同然の扱いを受けるという設定です。SE(システムエンジニア)という職で、わかる人にはわかるのでしょうが、職場の雰囲気の暗さにその世界からの離別を鑑賞者はもってしまいます。
学歴差別に対抗して、「気持ち」、「実力」、「意欲」を試されます。一緒に見ていた家族が、サラリーマンNEO(ネオ)に出ている人だと盛り上がっていましたが、わたしにはなんのことかわかりません。セリフによる説明が多い。ラスト付近は冒頭のリーダー役の存在が薄くなって好感をもちました。「救い」を求める映画でした。
あとさきになってしまいましたが、ブラック会社というのは「詐欺商法」を行う会社だと思っていました。たとえばオレオレ詐欺です。違っていました。劇中に登場する会社は、ブラックな会社ではありません。タイトルに誤解を生じる部分があります。
サンダカン八番娼館 映画 ケーブルTV録画
舞台となる熊本県天草島はこどもの頃に暮らしたことがある土地です。山崎朋子著のルポルタージュ(現地からの報告)を読んだのは高校生のときでした。同島に住む女性が東南アジアに売られてゆく女性哀史でした。映画を観たのは初めてです。時代背景は明治から昭和5年頃までとなります。
映画の映像や内容は一方的かなと感じました。ひたすら女性は可哀相で、女性の人権は踏みにじられています。「ああ野麦峠」同様、出演者は叩かれるばかりです。楽しかったこともあったと思う。
栗原小巻さんは美しい。対しておさきさんの家は極端にぼろぼろです。虫が湧いていたりして、島の暮らしはそこまでひどくはなかった。映画の中と共通する体験は、トイレは穴が掘ってあるだけで、農作業時はその片で済まし、大のときは葉っぱでふいていた。麦飯を食べていた。映像にはなかったけれど川で洗濯していた。
おさきさん役の田中絹代さんの演技が光っています。おさきさんが息子に言うことは、自分の母親がしゃべっているようで胸にぐっときました。前半は田中さんと栗原さんとのふたり芝居が続きます。栗原さんはまるではきだめに鶴ですが、その場で浮いているようで浮いていない。魅力に満ちています。
幾度かキリスト教の教会が映し出されます。隠れキリシタン天草四郎の地でもあります。東シナ海がブルーだった。夕日はオレンジ、早朝に見ることができる白いトビウオたちのジャンプシーンがすがすがしかった。自然に包まれながら自然とともに共生して自然の恵みを食していけたらなにもボルネオまで出稼ぎしなくても済んだのにと心が痛む。お金儲けを目標にすると心は滅ぶ。
ラストシーンでは日本に背を向けた位置で娼婦たちの墓が建てられていることが判明します。彼女たちは死してもなお日本に帰りたいけれど帰れない境遇に置かれたのです。



