2025年05月17日
もうすぐ死に逝く私から いまを生きる君たちへ 水谷修
もうすぐ死に逝く私から いまを生きる君たちへ(もうすぐ死にゆく私からいまを生きる君たちへ) 夜回り先生命の講演 水谷修 鳳書院(おおとり書院)
以前同著者の本を読んだことがあります。
『夜回り先生と夜眠れない子供たち』、もう20年ぐらい前のことです。暗い内容だった覚えはあります。古い記憶媒体を探せば当時本を読んだ時の感想メモがあるかもしれませんが、見つけるのに時間がかかりそうなのでやめておきます。
それだけ著者も年齢を重ねられたということで、本のタイトルが、『もうすぐ死に逝く(ゆく)……』なのでしょう。たしかに、ご長寿が多いと言われる日本ですが、命の限りは個体ごとに異なります。
目次のあとにある著者近影の白黒写真を見ると、歳をとられたことがよくわかります。
作家さんのお名前を忘れてしまいましたが、どなたかが本に書かれた言葉です。『人生でとりかえしがつかないのが、「自殺」と「殺人」です』
こちらの本では、冒頭のカラーページに、写真と言葉があって、自殺をしてはだめだよというメッセージがあります。
なんというか、十代の数年間というのは、長い人生のうちのまだまだスタート地点でしかありません。
人生は、成人してからが長い。
はるかに長い。
十代の今は苦しくても、努力をコツコツ重ねていけば、今よりも良くなるということは十分あります。
文章を読むと、著者は、独特な世界をもっている人です。
理想と現実がある世界で、理想をめざすことは苦しい。
がんばれば、がんばるほど敵が増えたりもします。
今は、味方が、1万3000人を超えるそうです。
自分の居場所はここしかないという決意があります。
不正や嘘を許せない。自分が正しいと信じる道を生き抜きたい。
今いる場所が、唯一の幸せに生きることができる場所だそうです。
書いてある内容は、講演会の原稿のようでもあります。
著者が、66歳のときにこの本の原稿を書き始めたというような文章の内容です。現在は、68歳か69歳ぐらいのご年齢でしょう。
30年前の公立夜間定時制高校で勤務していたことが書いてあります。
生徒が荒れていたそうです。
わたしは、今から50年ぐらい前に、定時制高校の授業を参観したことがあります。
親族が、定時制高校に通っていて、授業参観があったので、ほかの親族に同行してわたしも見学させてもらいました。
生徒たちは、体育の授業で、体育館でバレーボールの試合をしていました。
時代の時差があるためなのでしょうが、当時の定時制高校が荒れていたという印象はありません。
学力があっても、授業料を払うお金がなくて、昼間の高校へは行けないという事情をかかえているこどもたちがいました。
昼間は製造業大手の企業内訓練校に入って、会社の独身寮で生活しながら働いて、夜は定時制高校で4年間学ぶというやりかたで、高校卒業の学歴を取得するパターンでした。
著者が書いた記事を読むと、30年前の大規模夜間定時制高校の生徒は、相当に荒れています。とても勉強ができるような環境ではありません。
定時制高校で思い出すもうひとつの作品があります。去年NHKのドラマにもなりました。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
それぞれ悩みをかかえた年齢に幅がある生徒たちが、物理学を専門とする教師とともに、火星に関する研究をして、学会で発表をして賞をもらいます。実話が元になった物語でした。なかなか良かった。
捕る(とる):夜回り中に中学生・高校生にかける言葉です。補導するときの警告の言葉です。ずっとここにいると、捕るよ(とるよ)。
著者が、定時制高校の教師になったきっかけが書いてあります。
同僚がからんでいます。
本の内容は、事例集のようです。
第一話の部分を読み終えて不思議に思ったことがありました。
生徒たちは、勉強もしたくないのに、どうして、定時制高校へ登校してくるのだろう?
仲間(友だちらしき者たち)がいるから、居場所だから、メチャクチャやっても縛られない(しばられない)。 登校しても、敷地内であばれるだけで、授業は受けなかったのだろうか。いろいろ考えました。あるいは、椅子に座っているだけで、机に顔をつけて、寝ていたのだろうか。学校は、休憩目的の場所だったのだろうか。
『マサフミ』
薬物と定時制高校の生徒をつないだ話です。
16歳の少年が薬物中毒をきっかけに命を落とします。
文章を読んでいると違和感があります。劇場型です。(ドラマチックな脚色がなされている。演劇の台本のよう)。
こんなに、なめらかに、言葉がすらすらとは、実際の会話では出てきません。
文章は、話し言葉を加工してあります。
文章にリズムがあります。
落語のような語り口です。
ダルク:薬物依存症から回復するための民間の施設
ドラッグ乱用者の未来だそうです。
土の中(死んでしまう)、少年院・刑務所、病院(鍵がかかるところ。出られない。精神病院の閉鎖病棟ですな)
ふ~む。ふつう、するべきなにかをしないと不幸せになります。
薬物使用は、しなくてもいいことをすると頭の中がおかしくなります。
しなくていいことは、しないでおいたほうがいい。
『勇也』
勇也という少年は、暴走族グループのメンバーで、メンバーが走行中に車にはねられて即死しています。
家庭環境のことが書いてあります。
火葬場の話が出ます。7年後に母親も亡くなっています。また、火葬場の話が出ます。
子どものウソを許容(きょよう。許して受け入れる)する著者がいます。なかなかできることではありません。
『夜眠れない子どもたち』
九州福岡のことが書いてあります。
去年、博多見物に行ったときに、繁華街の天神で、警固公園(けごこうえん)というところを通りました。昼間でした。なにせ、タバコの煙がすごかった。臭かった。喫煙所があるのです。
愛知県に帰宅してから、NHKの番組で、警固公園(けごこうえん)が出ました。行き場のない少年少女たちが、公園で寝泊まりしているそうです。
この部分を読みながら、そんなことを思い出しました。
『人を笑顔にするために生きる』
東日本大震災の日のことが書いてあります。2011年(平成23年)3月11日午後2時46分です。
いろんな混乱があります。
著者が運営する関係の施設にいた少年14人とスタッフ4人が被災されて亡くなっています。
なんというか、こどもの心が弱い。
そして、依存心が強い。受け手が恐怖を感じるほどの依存心です。脅迫にも近い。話を聞いてくれないと、自分の腕を切るぞ(リストカット)です。
そういったこどもたちの対応を根気よくやられています。
信念がおありなのでしょう。信念:それが正しいと信じる心
『優しさで満ちあふれたら』
1991年(平成3年)景気が良かったバブル経済が崩壊したところからのお話です。日本経済では、『失われた10年』という言われた不況の時代です。卒業しても就職口が見つかりません。
その後も正職員になれません。派遣社員、非正規雇用社員ばかりです。結婚して家族をもつ夢もかなわない。
(わたしは、バブル景気のころは、これからは、生活保護を受給する人は、数が減っていくだろうと思いました。でも、世の中は、思ったとおりにはなりません。逆に、生活保護をもらう人の数は増えていきました。現在もそうなのでしょう。日本経済は、衰退化しているのです。いっぽう、貧富の格差が広がりました。人口における、中流意識という層の幅が狭くなった気がします)
本では、家庭があっても、家庭がうまくいっていない。だから、こどもの心が壊れていくというようなお話です。
さらに、新型コロナウィルスの広がりで、経済活動がしぼみました。
ちゃんとした暮らし方をする。
親が、ヨロヨロしていても、こどもどうしで助けあう気持ちをもって、ちゃんと暮らしていく努力は継続していく。そのうち、こどもは、成人する年齢に達します。稼ぐ(かせぐ)おとなになります。
『本当のコミュニケーション』
1 直接会って話す。
2 スマホ・携帯電話で話す。
3 手紙でやりとりする。
4 ネット・SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でつながる。
あたりまえのことですが、1番にある、面談で話すが最優先です。
4番は最低限のやりとりしかできないと自覚する。4番を最優先にしてはいけない。
人間の体の性質について書いてあります。
人間は、夜は、眠るのです。眠って、心身を休めるのです。
でも、昼夜逆転の生活をしている若い人たちがいる。心身は休まりません。心身の疲労はたまっていって、死にたいなんて思うようになるのです。しっかり眠って、おなかいっぱい栄養がある食事をとって、自分の心身をいたわるのです。
めんどうくさくても、直接会って話す。それが、自分の身を守ることにつながります。
『体と心は一体』
健康維持に関するお話です。
心の病(やまい)にならないためには、どうしたらいいか。どういう運動をしたらいいかです。
96ページにある著者の講演をする白黒写真には威圧感があります。だけど、ずーっと見ていると、『老い』が感じられます。30年間、青少年の健全育成に人生の時間を使われた結果なのでしょう。
『幸せになる権利』
文章には、指導・指示という権力的な面があります。
極端な心の動きもあるかと思います。
決めつけを感じる部分もあります。
2016年(平成28年)6月に起きた、『(神奈川県)相模が原障害者施設殺傷事件 津久井やまゆり園』の事件について書いてあります。犯人は、26歳の元施設職員。19人が刺殺され、26人が重軽傷です。著者の教え子が3人殺されたそうです。壮絶です。
犯人の思想です。障害者の生命維持のために、ばく大な費用がかかっている。自分は、その負担を軽減させた。成功体験を語る人のようです。犯人は、気が狂っています。
体を思うように動かせないだけで、心とか意識は、健常者と同じように活動していると思います。わたしは、若い頃、自分が内臓の深刻な病気で長期間入院した時に、そんな状態になったことがあります。まわりにいる人の声は聞こえるのですが、目を開けることも口を開くこともできず、体を動かせないのです。
犯人には、真実が見えていない。うわべだけを見て、さらに、お金だけが大事なのです。
犯人には、心にゆとりもうるおいもありません。優しさなんて、ほんの少しもありません。どうやったら、こういう犯人のような人格をもった人間ができあがるのだろうか。犯人についてですが、見た目は人間の姿をしていても、中身は人間ではない人間のような生きものです。
『亜衣(あい) 少女の名前です』
年寄り相手の援助交際をしていた少女です。亡くなっています。
中学2年生のときに、人生が急変化しています。
性病になって、深刻な病気になって、薬物中毒になって、壮絶な死を迎えられています。
読んでいて、ああ、この人(著者)は、教師なんだなあと思いました。
『いのちの糸』
1945年(昭和20年)の沖縄です。第二次世界大戦の終わりの年です。米軍が、沖縄に上陸して、島民がたくさん亡くなります。そのときのことが書いてあります。
ガマ(洞窟)の中で、12人のあかちゃんが見つかります。集団自決のあとに残されたあかちゃんの話です。おとなたちが、かばったのです。後世に命をつないだのです。
以上、そんな話が書いてありました。
こどもだけではなくて、親も、ちゃんとした親であるように、心もちが必要です。
心もち:心のありかた。
とりあえず、こどもはちゃんとごはんを食べていればいい。ちゃんとごはんを食べさせることが、親の義務です。ちゃんとごはんを食べる場所と、安心して眠れる場所を提供することが、親の役目です。
以前同著者の本を読んだことがあります。
『夜回り先生と夜眠れない子供たち』、もう20年ぐらい前のことです。暗い内容だった覚えはあります。古い記憶媒体を探せば当時本を読んだ時の感想メモがあるかもしれませんが、見つけるのに時間がかかりそうなのでやめておきます。
それだけ著者も年齢を重ねられたということで、本のタイトルが、『もうすぐ死に逝く(ゆく)……』なのでしょう。たしかに、ご長寿が多いと言われる日本ですが、命の限りは個体ごとに異なります。
目次のあとにある著者近影の白黒写真を見ると、歳をとられたことがよくわかります。
作家さんのお名前を忘れてしまいましたが、どなたかが本に書かれた言葉です。『人生でとりかえしがつかないのが、「自殺」と「殺人」です』
こちらの本では、冒頭のカラーページに、写真と言葉があって、自殺をしてはだめだよというメッセージがあります。
なんというか、十代の数年間というのは、長い人生のうちのまだまだスタート地点でしかありません。
人生は、成人してからが長い。
はるかに長い。
十代の今は苦しくても、努力をコツコツ重ねていけば、今よりも良くなるということは十分あります。
文章を読むと、著者は、独特な世界をもっている人です。
理想と現実がある世界で、理想をめざすことは苦しい。
がんばれば、がんばるほど敵が増えたりもします。
今は、味方が、1万3000人を超えるそうです。
自分の居場所はここしかないという決意があります。
不正や嘘を許せない。自分が正しいと信じる道を生き抜きたい。
今いる場所が、唯一の幸せに生きることができる場所だそうです。
書いてある内容は、講演会の原稿のようでもあります。
著者が、66歳のときにこの本の原稿を書き始めたというような文章の内容です。現在は、68歳か69歳ぐらいのご年齢でしょう。
30年前の公立夜間定時制高校で勤務していたことが書いてあります。
生徒が荒れていたそうです。
わたしは、今から50年ぐらい前に、定時制高校の授業を参観したことがあります。
親族が、定時制高校に通っていて、授業参観があったので、ほかの親族に同行してわたしも見学させてもらいました。
生徒たちは、体育の授業で、体育館でバレーボールの試合をしていました。
時代の時差があるためなのでしょうが、当時の定時制高校が荒れていたという印象はありません。
学力があっても、授業料を払うお金がなくて、昼間の高校へは行けないという事情をかかえているこどもたちがいました。
昼間は製造業大手の企業内訓練校に入って、会社の独身寮で生活しながら働いて、夜は定時制高校で4年間学ぶというやりかたで、高校卒業の学歴を取得するパターンでした。
著者が書いた記事を読むと、30年前の大規模夜間定時制高校の生徒は、相当に荒れています。とても勉強ができるような環境ではありません。
定時制高校で思い出すもうひとつの作品があります。去年NHKのドラマにもなりました。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
それぞれ悩みをかかえた年齢に幅がある生徒たちが、物理学を専門とする教師とともに、火星に関する研究をして、学会で発表をして賞をもらいます。実話が元になった物語でした。なかなか良かった。
捕る(とる):夜回り中に中学生・高校生にかける言葉です。補導するときの警告の言葉です。ずっとここにいると、捕るよ(とるよ)。
著者が、定時制高校の教師になったきっかけが書いてあります。
同僚がからんでいます。
本の内容は、事例集のようです。
第一話の部分を読み終えて不思議に思ったことがありました。
生徒たちは、勉強もしたくないのに、どうして、定時制高校へ登校してくるのだろう?
仲間(友だちらしき者たち)がいるから、居場所だから、メチャクチャやっても縛られない(しばられない)。 登校しても、敷地内であばれるだけで、授業は受けなかったのだろうか。いろいろ考えました。あるいは、椅子に座っているだけで、机に顔をつけて、寝ていたのだろうか。学校は、休憩目的の場所だったのだろうか。
『マサフミ』
薬物と定時制高校の生徒をつないだ話です。
16歳の少年が薬物中毒をきっかけに命を落とします。
文章を読んでいると違和感があります。劇場型です。(ドラマチックな脚色がなされている。演劇の台本のよう)。
こんなに、なめらかに、言葉がすらすらとは、実際の会話では出てきません。
文章は、話し言葉を加工してあります。
文章にリズムがあります。
落語のような語り口です。
ダルク:薬物依存症から回復するための民間の施設
ドラッグ乱用者の未来だそうです。
土の中(死んでしまう)、少年院・刑務所、病院(鍵がかかるところ。出られない。精神病院の閉鎖病棟ですな)
ふ~む。ふつう、するべきなにかをしないと不幸せになります。
薬物使用は、しなくてもいいことをすると頭の中がおかしくなります。
しなくていいことは、しないでおいたほうがいい。
『勇也』
勇也という少年は、暴走族グループのメンバーで、メンバーが走行中に車にはねられて即死しています。
家庭環境のことが書いてあります。
火葬場の話が出ます。7年後に母親も亡くなっています。また、火葬場の話が出ます。
子どものウソを許容(きょよう。許して受け入れる)する著者がいます。なかなかできることではありません。
『夜眠れない子どもたち』
九州福岡のことが書いてあります。
去年、博多見物に行ったときに、繁華街の天神で、警固公園(けごこうえん)というところを通りました。昼間でした。なにせ、タバコの煙がすごかった。臭かった。喫煙所があるのです。
愛知県に帰宅してから、NHKの番組で、警固公園(けごこうえん)が出ました。行き場のない少年少女たちが、公園で寝泊まりしているそうです。
この部分を読みながら、そんなことを思い出しました。
『人を笑顔にするために生きる』
東日本大震災の日のことが書いてあります。2011年(平成23年)3月11日午後2時46分です。
いろんな混乱があります。
著者が運営する関係の施設にいた少年14人とスタッフ4人が被災されて亡くなっています。
なんというか、こどもの心が弱い。
そして、依存心が強い。受け手が恐怖を感じるほどの依存心です。脅迫にも近い。話を聞いてくれないと、自分の腕を切るぞ(リストカット)です。
そういったこどもたちの対応を根気よくやられています。
信念がおありなのでしょう。信念:それが正しいと信じる心
『優しさで満ちあふれたら』
1991年(平成3年)景気が良かったバブル経済が崩壊したところからのお話です。日本経済では、『失われた10年』という言われた不況の時代です。卒業しても就職口が見つかりません。
その後も正職員になれません。派遣社員、非正規雇用社員ばかりです。結婚して家族をもつ夢もかなわない。
(わたしは、バブル景気のころは、これからは、生活保護を受給する人は、数が減っていくだろうと思いました。でも、世の中は、思ったとおりにはなりません。逆に、生活保護をもらう人の数は増えていきました。現在もそうなのでしょう。日本経済は、衰退化しているのです。いっぽう、貧富の格差が広がりました。人口における、中流意識という層の幅が狭くなった気がします)
本では、家庭があっても、家庭がうまくいっていない。だから、こどもの心が壊れていくというようなお話です。
さらに、新型コロナウィルスの広がりで、経済活動がしぼみました。
ちゃんとした暮らし方をする。
親が、ヨロヨロしていても、こどもどうしで助けあう気持ちをもって、ちゃんと暮らしていく努力は継続していく。そのうち、こどもは、成人する年齢に達します。稼ぐ(かせぐ)おとなになります。
『本当のコミュニケーション』
1 直接会って話す。
2 スマホ・携帯電話で話す。
3 手紙でやりとりする。
4 ネット・SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でつながる。
あたりまえのことですが、1番にある、面談で話すが最優先です。
4番は最低限のやりとりしかできないと自覚する。4番を最優先にしてはいけない。
人間の体の性質について書いてあります。
人間は、夜は、眠るのです。眠って、心身を休めるのです。
でも、昼夜逆転の生活をしている若い人たちがいる。心身は休まりません。心身の疲労はたまっていって、死にたいなんて思うようになるのです。しっかり眠って、おなかいっぱい栄養がある食事をとって、自分の心身をいたわるのです。
めんどうくさくても、直接会って話す。それが、自分の身を守ることにつながります。
『体と心は一体』
健康維持に関するお話です。
心の病(やまい)にならないためには、どうしたらいいか。どういう運動をしたらいいかです。
96ページにある著者の講演をする白黒写真には威圧感があります。だけど、ずーっと見ていると、『老い』が感じられます。30年間、青少年の健全育成に人生の時間を使われた結果なのでしょう。
『幸せになる権利』
文章には、指導・指示という権力的な面があります。
極端な心の動きもあるかと思います。
決めつけを感じる部分もあります。
2016年(平成28年)6月に起きた、『(神奈川県)相模が原障害者施設殺傷事件 津久井やまゆり園』の事件について書いてあります。犯人は、26歳の元施設職員。19人が刺殺され、26人が重軽傷です。著者の教え子が3人殺されたそうです。壮絶です。
犯人の思想です。障害者の生命維持のために、ばく大な費用がかかっている。自分は、その負担を軽減させた。成功体験を語る人のようです。犯人は、気が狂っています。
体を思うように動かせないだけで、心とか意識は、健常者と同じように活動していると思います。わたしは、若い頃、自分が内臓の深刻な病気で長期間入院した時に、そんな状態になったことがあります。まわりにいる人の声は聞こえるのですが、目を開けることも口を開くこともできず、体を動かせないのです。
犯人には、真実が見えていない。うわべだけを見て、さらに、お金だけが大事なのです。
犯人には、心にゆとりもうるおいもありません。優しさなんて、ほんの少しもありません。どうやったら、こういう犯人のような人格をもった人間ができあがるのだろうか。犯人についてですが、見た目は人間の姿をしていても、中身は人間ではない人間のような生きものです。
『亜衣(あい) 少女の名前です』
年寄り相手の援助交際をしていた少女です。亡くなっています。
中学2年生のときに、人生が急変化しています。
性病になって、深刻な病気になって、薬物中毒になって、壮絶な死を迎えられています。
読んでいて、ああ、この人(著者)は、教師なんだなあと思いました。
『いのちの糸』
1945年(昭和20年)の沖縄です。第二次世界大戦の終わりの年です。米軍が、沖縄に上陸して、島民がたくさん亡くなります。そのときのことが書いてあります。
ガマ(洞窟)の中で、12人のあかちゃんが見つかります。集団自決のあとに残されたあかちゃんの話です。おとなたちが、かばったのです。後世に命をつないだのです。
以上、そんな話が書いてありました。
こどもだけではなくて、親も、ちゃんとした親であるように、心もちが必要です。
心もち:心のありかた。
とりあえず、こどもはちゃんとごはんを食べていればいい。ちゃんとごはんを食べさせることが、親の義務です。ちゃんとごはんを食べる場所と、安心して眠れる場所を提供することが、親の役目です。
2025年05月13日
わたしは食べるのが下手 天川栄人
わたしは食べるのが下手 天川栄人(てんかわ・えいと) 小峰書店
タイトルを見て思うのは、拒食症の学生さんのお話だろうかということでした。中学生向けの児童文学です。
本の帯やカバーに書いてある文章を読んで、まだ読み始めていないのですが、ふと思うのは、働いていた頃、大卒新人に悩まされていたことでした。
どうやったら、こういう人ができあがるのだろうかというような新人を複数見ました。
自分のなかでは、「長男さん」「長女さん」と名づけていました。
いつでも、どこでも、だれかが、自分のことを、ただで助けてくれると思い込んでいるのです。
親や先生たちが、本来自分でやるべきことをやってあげていたのでしょう。
お客さま気分なのです。
自分の頭で考えないのです。質問ばかりです。他者に判断させます。もうつきあいきれないと思ったことが何度もあります。プライドは高く、気に入らないことがあると、仕事を辞めると言うのです。
そんなふうになるこどもさんのことが書いてあるのだろうか。(読み続けていたら、180ページに、『カホゴ(過保護)』という言葉が出てきました。(やっぱり)
これから読みますが、食べたら吐いてしまう人のことが書いてあるのだろうと察しがつきます。
なんというか、食べる前に、自分で料理をつくることを発想してほしい。サービスの受け手ではなく、提供側の気持ちになれば、食べたものを吐くなんてことはなくなると思うのです。(このあと、読み続けていたら、115ページにごはんをつくる話になりました。それでいい)
それも、植物なら種を植えるところから、家畜なら育ててさばくところから考える。その次に、料理の方法です。
食べ物に感謝するとか、料理の手法に凝る(こる)とか、そういう基本的なことからやれば、食べたものを吐くなんていう行為はできないと思うのです。
別の本になりますが、『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』では、言葉を失った(精神的なもので口がきけなくなった)シェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと自分で名付けたブタを愛情込めて育てて、最後に自分で捌(さば)いて食べます(殺して包丁で切り分ける)。吐いたりしません。自分がつくる料理になってくれた、ブタのエルメスに感謝するのです。
もし吐くのなら、吐かないために、自分で料理をつくってほしい。今ちょうど、NHKドラマで、『しあせは食べて寝て待て』というドラマを毎週火曜日の夜10時にやっています。薬膳を素材にしたドラマです。薬膳(やくぜん):健康のための食事
まあ、読み始めてみます。
中学生女子である葵という人物と咲子という人物が、かわるがわるに語る形式になっています。
小林葵:鳴橋中学校1年1組。1組の隣に保健室が位置している。葵は、保健室の利用者となる。保健室の先には、給食室がある。葵の身長は低い。手足は細い。小鳥みたい。髪は、猫っ毛(猫の毛のよう。細くて柔らかくて少ない)。弱そうな子に見える。存在感が薄い。
葵の母親がおかしい。SNSの投稿をしているらしく、スマホで料理を撮影して投稿することに熱中していて、家庭や子育てのことがおろそかになっている。家族のようすより、フォロワーの数が気になる人です。母親は、料理教室の先生をしている。
なお、保健室には、食料が常備してあるそうです。
遠藤咲子:中学1年生。ストレートヘア。背は高い。足が太い。骨太の体格。のっぺりしている。(立体感がなく平板(へいばん)に見える)。お尻がまるっこい。やせたい。学校は午後から登校する。給食がイヤ。半分登校拒否気味。親は放任主義(やりたいことをやらせてくれるが、ほったらかし)。小学生の頃、バレエ教室でバレエを習っていた。バレエでは、太ってはいけない。
遠藤咲子のママ:若くてきれいな女性。細い体。足も細い。やせている。パパにとってのアクセサリー(付属物。パパが自慢するときの付属物のような存在)。ママは、高度な知識はもちあわせていない。パパのお飾り。ママは、ここ数年、包丁を持ったことはない。料理はしない。
遠藤咲子のパパ:浮気をしている。娘の咲子はパパが浮気をしていることを知っている。パパは、仕事を理由にして、月に数回しか自宅に帰ってこない。愛人宅にいるのでしょう。
紗衣:クラスメート。小林葵の髪を編む
ゆかり:クラスメート
キッカワ先生:橘川拓真。栄養教諭(給食の栄養管理担当)。30歳ぐらい。すらりとした細身。暑いのに(9月上旬)、スタンドカラー(襟(えり)が立っている)の黒シャツの上に、長袖の白衣(はくい)を着用している。塩顔(しおがお。あっさりとした顔立ちで、スッキリとした目元(めもと)、鼻は高い、色白、全般的に顔のパーツ(部分)が控えめ(ひかえめ))。能面(のうめん)みたいで無表情。韓国アイドルみたいな顔。(葵が付けたあだなが、「陰陽師(おんみょうじ。平安時代の占い師)」
給食調理員のおばさん(うちの小学生男の孫が、今年度は、クラスの給食委員になったことをふと思い出しました)
朝野先生:担任
久野浩平:中学校1年1組の生徒。ニックネームは、コッペ。コッペパンが由来。給食をたくさん食べる。料理上手(じょうず)、包丁さばきがうまい。父親は心の病気をかかえて、夜勤をしている。母親はパートだが、妊娠している。浩平が料理をつくっている。近くに住んでいる祖母の年金収入に頼っている。
黒岩先生:中学校の養護教諭。めがねをかけたおばあちゃん先生。優しい。されど、生徒との適度な距離感は保っている。
保健室:田んぼの、「田」の字のように区分けされて利用されている。入口の左:診察室 入口の右:生徒が自由にすごせるスペース 入口の左奥:黒岩先生の事務スペース 入口の右奥:カーテン付きのベッドがふたつ。遠藤咲子は保健室を、『避難所』と呼んでいる。
保健室の表現について、類似する設定の小説がありました。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
名取佳純(なとり・かすみ):定時制高校1年生。3人家族。母と姉。父親は、佳純が7歳のときに家を出て行った。母親がおかしい。姉と妹を比較して、妹を差別する。佳純は中学時代不登校になった。中学3年生からリストカット(カミソリで手首を切る。自殺企図だが死ねない)を始める。定時制高校では、名取佳純は、5月23日から保健室登校になり、3週間が経過している。教室は1A。
定時制高校を火星とし、ハブ(火星基地。人間が呼吸補助用具なしでいられるエリア)を保健室とする。名取佳純は、ハブでしか、呼吸ができない。名取佳純は、EVA(エバ。宇宙服)を着て、教室に行く。決死の覚悟がいる。
佐久間:定時制高校保健室の先生。養護教諭。読んでいて最初保健師かと思いましたが、元看護師でした。いろいろわけありです。髪を真っ赤に染めている。30歳より上ぐらい。
さて、話を戻します。給食のシステムです。30分間(配膳(はいぜん)、食事、後片付け)
まず全員分、同じ量を盛り付ける
受け取った生徒は、食べられない量のときは、食べる前に、食缶(しょっかん)に戻す。
食べ始めてから、担任の朝野先生が、食缶に残っているおかずを、食べるスピードが早い生徒の器に入れて回る。おかずを完食することが目的です。
『めざせ完食月間(9月15日~10月15日)』、各学年で、一番残食量が少なったクラスへの商品が、「好きな給食のおかずリクエスト権」です。(市原隼人さんの給食の映画を思い出しました)『劇場版 おいしい給食 Final Battle 邦画 2020年公開』
わたしはふと、小学6年生のときに自分が、クラスで給食委員をしていたことを思い出しました。
おかずの食べ残しが多かったときに、給食室に呼ばれて、給食のおばさんに叱られたことがあります。食べ物はのこさない。『もったいない(ムダにしてはいけない)』の時代でした。食欲がなくても食べなければならない時代でした。遠因は、第二次世界大戦の敗戦による貧困生活でしょう。
油淋鶏(ゆーりんちー):揚げた(あげた)鶏肉(とりにく)に、醤油(しょうゆ)を下地(したじ)につくった甘酸っぱいソースをかけた料理
シンク:台所の流しの水槽(すいそう)
会食恐怖症:かいしょくきょうふしょう。精神疾患。他者との食事がストレスになる。学校給食の完食指導が原因ともいわれている。
禁止されているスマホを中学校の保健室に持ち込んでいる遠藤咲子です。
スマホは中学校には持ち込まないほうがいい。スマホを持ち込むと、不幸せが近づいてきそうです。
豪胆(ごうたん):度胸がある。ピンチに動じない。
社交不安症:以前は、対人恐怖症とか赤面症(せきめんしょう)と表現されていた。人の視線がにがて。
登場人物のセリフが、一本調子な感じがします。(いっぽんちょうし。発声者が複数いても、おなじ感じ。単調)
読んでいて気になるのが、『咲子ちゃん』の、『ちゃん』の部分です。いらないのではないか。『咲子』だけのほうが、読みやすく、文章が締まります。『葵(あおい)』のほうは、ちゃん付けがありません。読みやすい。
イヤなことはイヤ、できないことはできませんと言いましょうというアドバイスがあります。『私は食べたくないんです』。なんというか、基本的なことに戻って、彼女たちは、おなかはすいていないのだろうか。食欲はないのだろうか。おなかがすくほど、体を動かしていない。勉強に精神が集中していないともとれます。人間、腹が減ったら、食事をします。
エキセントリック:風変り。普通とは違う。
食べたくなければ食べなくてよいとか、(学校に)来たくなければ来なくて(こなくて)いいとか、その言葉に従うと、置いてきぼりにされます。存在なしの扱いになります。
学校とつながりがあるうちはいいですが、学校とつながりがなくなると、はるか長い人生をひとりで生きることになります。ひきこもりです。日本には、1億人以上の人がいるわけですから、そういう人もいるのでしょう。なにせ、本人がその気にならないと、ひきこもりの解消はむずかしい。
ラマワティ:中学のクラスメート。インドネシア人。ムスリム(イスラム教徒)。口に入れてはいけないものとして、豚肉、アルコール。給食に食べてはいけないものが出るときは、自宅からお弁当を持参している。
ハラール:イスラム教徒でも食べることができる料理。ハラール:許されたもの。ハラーム:禁じられたもの。
チキる:臆病(おくびょう)になる。弱腰になる。
なんというか、給食ごときで、こんなにごたごたしなければならないとは思えない。
栄養教諭の橘川先生VS遠藤咲子と小林葵(女子ふたりは給食の時に、いったん自分の器(うつわ)に盛られたおかずを、全部、食缶に戻して、給食を食べなかった)です。
橘川先生が言うには、彼に対する宣戦布告だそうです。
ビビンバ:韓国の混ぜご飯
教育委員会からの指示:食品ロス(食べ残し)の削減を目標にする。
SDGs(エスディージーズ):持続可能な開発目標。バランスのとれた社会をつくる。
80ページにある項目の意味がとれません。「物言わぬは腹(はら)ふくるるわざなり―葵」。
(黙っていれば、おなかはすかないということだろうか。給食に文句を付けているということだろうか。よくわかりません)
親に対して、不満を吐き出す(はきだす)。
給食に不満がある。給食の内容に不満がある。(そうかな。まわりに人の目があるから食べるときに緊張するわけだから、給食のおかずを攻撃対象にするのはおかしい)
給食に不満があるから、『要望書』を出す。発起人は、小林葵と、遠藤咲子と、ラマワティ・ハサナ・ アプリヤニ(インドネシア人。イスラム教徒)です。
要望書の趣旨として、完食を強制しないで(この項目だけでいいんじゃないかな)、給食をなくて弁当にしてほしい(それでは困る人もいます。コッペくんは困るそうです。久野浩平くんです)、ハラールのメニューにしてほしい(してほしくありません。豚肉を食べたいです)、カロリーの低いメニューにしてほしい(イヤです)、食べやすいメニューにしてほしい(多数の児童に提供するものです。お金をその場でいただく食堂ではありません)
なんというか、中学生ですから、考え方にかたよりがあります。
働いて給料をもらっていないためか、世の中の仕組みをまだ知りません。まあ、税金も納めていません(消費税は払っているでしょう)。
『給食』という制度で、大きなお金が動いています。『給食』という制度で、給料をもらって、生活をしている人たちがいます。農業、運送業、サービス業、たくさんの人たちが、『給食』に集まっているのです。簡単に廃止はできません。『給食』を廃止するなら、職を失う人たちのあとの仕事のことも考えなければ、世の中は混乱します。
さらに、『給食』には、税金の投資もあります。学校が保護者から集める給食費だけでは、給食の提供はできないでしょう。公費負担です。税金には、経済を循環させる役割があります。お金は使うことで人間の生活が豊かになるのです。お金をため込むだけでは、経済活動は回っていきません。
なんだかんだありますが、それも、在学中だけのことです。
卒業式は、あっという間にやってきます。
メンバーが入れ替われば、また、同じことの繰り返しです。
学校だから、先生なりが相手をしてくれます。
社会に出たら、仕事場は冷たいものです。
イヤならさよならです。会社、辞めて(やめて)ちょうだいです。
ふつうは、給料がなくなって、生活していくことができなくなります。
簡単に仕事を辞める人は、親の援助があるのでしょう。自立も自活もできていません。
さて、要望書を書いた3人はどうなりますやら。
クレポン:インドネシアのお菓子。だんごのようなもの。緑色をしている。噛むと黒砂糖が口の中でとける。
遠藤咲子は、クレポンを、がばがば食べました。
『東京サラダボウル』というNHKのドラマ(警察ものでした。新宿あたり、東南アジア諸国の料理が出てきます)を思い出しました。前回の冬ドラマでした。
それから、『しあわせは食べて寝て待て』という、薬膳(やくぜん)を素材にしたドラマが、今、NHKで、火曜日の夜10時に放送されています。なかなかいい感じのドラマです。膠原病(こうげんびょう。免疫(めんえき)が自分で自分の体を攻撃して内臓が壊れる)になって、大きな会社にいられなくなった主人公の女性が、競争しない世界で、食事を楽しみながら、静かに暮らしていくのです。
レジスタンス:権力者に対する抵抗運動
給食のつくられかたを知る。あるいは、学ぶそうです。
日曜日、午前10時、県営グランド集合だそうです。
ハミる:仲間はずれにする。仲間はずれにされる。(はみ出すということだろうか)
ダウンタイム:サービスを利用することができない時間帯
ヒアル:ヒアルロン酸。美容注射
モスク:イスラム教の教会
クルアーン:イスラム教の経典。コーランのこと。神の啓示(けいじ。神の教え)
スタジアム(陸上競技場)の調理室で、大学陸上部員が食べる昼食をつくる。
アスリート:運動能力が優れた(すぐれた)スポーツ選手
たくさん食べるのではなくて、正しく食べる。
栄養食事学:人間が、健康で豊かな食生活を送るために学ぶ学問
(最後まで読み終えました)
コッペ(久野浩平)の弟::久野修平。5歳くらい。
コッペの母
コッペの妹:久野奈美。最初は、母親のおなかの中、最後に誕生します。
ところどころ、単語の意味がわからない難点がありました。書き手はわかっていても、読み手には理解できません。
カショオ:過食症ということでしょう。いっぱい食べて、いっぱい吐けば、体重は同じという感じ方だそうです。心の病気ですな。
マルタバ:インドネシア版お好み焼き
摂食障害(せっしょくしょうがい):適度な量の食事を自分でコントロールしながら食べることができない病気。精神的なストレスが原因。物語に出てくる小林葵と遠藤咲子には、どのような精神的ストレスがあるのだろう。過食をする遠藤咲子は、両親の夫婦関係がおかしいとか、お手伝いさん付きの豪邸に生まれて、生活の送り方がふつうと違うとか、やせなきゃいけないという自分への脅迫があります。小林葵の精神的ストレスの原因は明記されていません。生まれつき食が細い。精神的に人がにがてというのはありそうです。
イスラム教信者のラマワティは、豚肉を食べられないのではなく、豚肉を食べたくないだけ。豚肉を食べたいという気持ちがない。犬を食べたいという気持ちがないのと同じ(なるほど)。
遠藤咲子が過食する食べ物です。菓子パン、スナック菓子、カップ麺、ポテトチップス、バームクーヘン、どら焼き、シュークリーム。お金持ちにしては、栄養面でむちゃくちゃです。食事をちゃんと自分でつくればいい。目玉焼き、卵焼きから始まって、カレーライス、サンドイッチ、ホットケーキ、お好み焼き、やきそば、パスタ、焼き肉、焼き魚、野菜炒め、いろいろ簡単につくることでできる料理はあります。自分好みに味付けの工夫をすると楽しい。おいしいと嬉しくなります。
遠藤咲子の自宅は豪邸です。シャンデリアがあります。パパはお金持ちで、ママは、パパの装飾品扱いの人物です。以前は、お手伝いさんを雇っていたそうです。そして、パパには愛人がいます。まあ、お金があっても幸せとはいえません。
『給食改革』の話になっていきます。
小林綾子は、脂っぽい(あぶらっぽい)もの、食べごたえのある食べ物がにがてだそうです。
クラムチャウダー:スープ。二枚貝(クラム)を使ったもの。
タンドリーチキン:鶏肉(とりにく)を土釜(つちがま)で焼いたもの。
シュガーグレーズ:薄い砂糖衣(さとうころも)。ドーナツの表面につけたりする。
給食への反発がありますが、やがて、給食の価値、給食が栄養面で、きちんとしてものであることを理解し始める中学生たちです。
家が貧困家庭である久野浩平の話を聞いていると本を一冊思い出します。写真集です。
『土門拳(どもん・けん) 筑豊のこどもたち(ちくほうのこどもたち) 築地書館(つきじしょかん)』
小学校の給食のときに、お弁当をもってくることができないこどもたちの白黒写真が載っています。むかーしあった、福岡県の炭鉱町での話です。貧困があります。同書の72ページ~74ページに、お弁当を持参できないこどもたちは、机に座って本を読んでいるふりをしています。そのまわりに、お弁当を食べているこどもたちがいます。(わたしの机で、左のほうにある本箱にその本があります)
小林葵は母親と自宅で、ジャガイモコロッケをつくり始めました。
なんというか、包丁で指を切ると危ないからとかいって、こどもに包丁を握らせないのはだめです。
人間、指を切ると痛いけれど、指のかすり傷ぐらいで、人間は死にません。
過保護はだめです。失敗してもいいのです。自活できるようにこどもを育てなければなりません。
栄養教諭(給食の栄養管理担当)橘川先生(きっかわ先生)のいい言葉がありました。
『…… みんな、喉(のど)に何かつかえたままで、生きているのかもしれませんよ』(そのとおりです)
もうひとつ。
『たかが食事です』
回鍋肉(ホイコーロー):中国の豚肉料理。ゆでて、いためる。
ナシクニン:インドネシアのお祝い用のごはん。黄色いごはん。
最後は、暴風雨の中のエピソードでした。
炊き出し体験があります。
『人は、生きるために食べる』
給食改革プロジェクトです。(正直、なんでこうなるのか、よくわかりません)
ナシゴレン:インドネシアのチャーハン
いろんな騒動があって、いろんな変化があります。
遠藤咲子の両親は、離婚へ向かっているそうです。
ガトーショコラ:チョコレートケーキ
まあ、いろいろあります。
うわべだけ美しくしようとしても、中身はボロボロということはあります。
ありのままに生きることができたら、苦労は小さいに違いない。
タイトルを見て思うのは、拒食症の学生さんのお話だろうかということでした。中学生向けの児童文学です。
本の帯やカバーに書いてある文章を読んで、まだ読み始めていないのですが、ふと思うのは、働いていた頃、大卒新人に悩まされていたことでした。
どうやったら、こういう人ができあがるのだろうかというような新人を複数見ました。
自分のなかでは、「長男さん」「長女さん」と名づけていました。
いつでも、どこでも、だれかが、自分のことを、ただで助けてくれると思い込んでいるのです。
親や先生たちが、本来自分でやるべきことをやってあげていたのでしょう。
お客さま気分なのです。
自分の頭で考えないのです。質問ばかりです。他者に判断させます。もうつきあいきれないと思ったことが何度もあります。プライドは高く、気に入らないことがあると、仕事を辞めると言うのです。
そんなふうになるこどもさんのことが書いてあるのだろうか。(読み続けていたら、180ページに、『カホゴ(過保護)』という言葉が出てきました。(やっぱり)
これから読みますが、食べたら吐いてしまう人のことが書いてあるのだろうと察しがつきます。
なんというか、食べる前に、自分で料理をつくることを発想してほしい。サービスの受け手ではなく、提供側の気持ちになれば、食べたものを吐くなんてことはなくなると思うのです。(このあと、読み続けていたら、115ページにごはんをつくる話になりました。それでいい)
それも、植物なら種を植えるところから、家畜なら育ててさばくところから考える。その次に、料理の方法です。
食べ物に感謝するとか、料理の手法に凝る(こる)とか、そういう基本的なことからやれば、食べたものを吐くなんていう行為はできないと思うのです。
別の本になりますが、『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』では、言葉を失った(精神的なもので口がきけなくなった)シェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと自分で名付けたブタを愛情込めて育てて、最後に自分で捌(さば)いて食べます(殺して包丁で切り分ける)。吐いたりしません。自分がつくる料理になってくれた、ブタのエルメスに感謝するのです。
もし吐くのなら、吐かないために、自分で料理をつくってほしい。今ちょうど、NHKドラマで、『しあせは食べて寝て待て』というドラマを毎週火曜日の夜10時にやっています。薬膳を素材にしたドラマです。薬膳(やくぜん):健康のための食事
まあ、読み始めてみます。
中学生女子である葵という人物と咲子という人物が、かわるがわるに語る形式になっています。
小林葵:鳴橋中学校1年1組。1組の隣に保健室が位置している。葵は、保健室の利用者となる。保健室の先には、給食室がある。葵の身長は低い。手足は細い。小鳥みたい。髪は、猫っ毛(猫の毛のよう。細くて柔らかくて少ない)。弱そうな子に見える。存在感が薄い。
葵の母親がおかしい。SNSの投稿をしているらしく、スマホで料理を撮影して投稿することに熱中していて、家庭や子育てのことがおろそかになっている。家族のようすより、フォロワーの数が気になる人です。母親は、料理教室の先生をしている。
なお、保健室には、食料が常備してあるそうです。
遠藤咲子:中学1年生。ストレートヘア。背は高い。足が太い。骨太の体格。のっぺりしている。(立体感がなく平板(へいばん)に見える)。お尻がまるっこい。やせたい。学校は午後から登校する。給食がイヤ。半分登校拒否気味。親は放任主義(やりたいことをやらせてくれるが、ほったらかし)。小学生の頃、バレエ教室でバレエを習っていた。バレエでは、太ってはいけない。
遠藤咲子のママ:若くてきれいな女性。細い体。足も細い。やせている。パパにとってのアクセサリー(付属物。パパが自慢するときの付属物のような存在)。ママは、高度な知識はもちあわせていない。パパのお飾り。ママは、ここ数年、包丁を持ったことはない。料理はしない。
遠藤咲子のパパ:浮気をしている。娘の咲子はパパが浮気をしていることを知っている。パパは、仕事を理由にして、月に数回しか自宅に帰ってこない。愛人宅にいるのでしょう。
紗衣:クラスメート。小林葵の髪を編む
ゆかり:クラスメート
キッカワ先生:橘川拓真。栄養教諭(給食の栄養管理担当)。30歳ぐらい。すらりとした細身。暑いのに(9月上旬)、スタンドカラー(襟(えり)が立っている)の黒シャツの上に、長袖の白衣(はくい)を着用している。塩顔(しおがお。あっさりとした顔立ちで、スッキリとした目元(めもと)、鼻は高い、色白、全般的に顔のパーツ(部分)が控えめ(ひかえめ))。能面(のうめん)みたいで無表情。韓国アイドルみたいな顔。(葵が付けたあだなが、「陰陽師(おんみょうじ。平安時代の占い師)」
給食調理員のおばさん(うちの小学生男の孫が、今年度は、クラスの給食委員になったことをふと思い出しました)
朝野先生:担任
久野浩平:中学校1年1組の生徒。ニックネームは、コッペ。コッペパンが由来。給食をたくさん食べる。料理上手(じょうず)、包丁さばきがうまい。父親は心の病気をかかえて、夜勤をしている。母親はパートだが、妊娠している。浩平が料理をつくっている。近くに住んでいる祖母の年金収入に頼っている。
黒岩先生:中学校の養護教諭。めがねをかけたおばあちゃん先生。優しい。されど、生徒との適度な距離感は保っている。
保健室:田んぼの、「田」の字のように区分けされて利用されている。入口の左:診察室 入口の右:生徒が自由にすごせるスペース 入口の左奥:黒岩先生の事務スペース 入口の右奥:カーテン付きのベッドがふたつ。遠藤咲子は保健室を、『避難所』と呼んでいる。
保健室の表現について、類似する設定の小説がありました。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
名取佳純(なとり・かすみ):定時制高校1年生。3人家族。母と姉。父親は、佳純が7歳のときに家を出て行った。母親がおかしい。姉と妹を比較して、妹を差別する。佳純は中学時代不登校になった。中学3年生からリストカット(カミソリで手首を切る。自殺企図だが死ねない)を始める。定時制高校では、名取佳純は、5月23日から保健室登校になり、3週間が経過している。教室は1A。
定時制高校を火星とし、ハブ(火星基地。人間が呼吸補助用具なしでいられるエリア)を保健室とする。名取佳純は、ハブでしか、呼吸ができない。名取佳純は、EVA(エバ。宇宙服)を着て、教室に行く。決死の覚悟がいる。
佐久間:定時制高校保健室の先生。養護教諭。読んでいて最初保健師かと思いましたが、元看護師でした。いろいろわけありです。髪を真っ赤に染めている。30歳より上ぐらい。
さて、話を戻します。給食のシステムです。30分間(配膳(はいぜん)、食事、後片付け)
まず全員分、同じ量を盛り付ける
受け取った生徒は、食べられない量のときは、食べる前に、食缶(しょっかん)に戻す。
食べ始めてから、担任の朝野先生が、食缶に残っているおかずを、食べるスピードが早い生徒の器に入れて回る。おかずを完食することが目的です。
『めざせ完食月間(9月15日~10月15日)』、各学年で、一番残食量が少なったクラスへの商品が、「好きな給食のおかずリクエスト権」です。(市原隼人さんの給食の映画を思い出しました)『劇場版 おいしい給食 Final Battle 邦画 2020年公開』
わたしはふと、小学6年生のときに自分が、クラスで給食委員をしていたことを思い出しました。
おかずの食べ残しが多かったときに、給食室に呼ばれて、給食のおばさんに叱られたことがあります。食べ物はのこさない。『もったいない(ムダにしてはいけない)』の時代でした。食欲がなくても食べなければならない時代でした。遠因は、第二次世界大戦の敗戦による貧困生活でしょう。
油淋鶏(ゆーりんちー):揚げた(あげた)鶏肉(とりにく)に、醤油(しょうゆ)を下地(したじ)につくった甘酸っぱいソースをかけた料理
シンク:台所の流しの水槽(すいそう)
会食恐怖症:かいしょくきょうふしょう。精神疾患。他者との食事がストレスになる。学校給食の完食指導が原因ともいわれている。
禁止されているスマホを中学校の保健室に持ち込んでいる遠藤咲子です。
スマホは中学校には持ち込まないほうがいい。スマホを持ち込むと、不幸せが近づいてきそうです。
豪胆(ごうたん):度胸がある。ピンチに動じない。
社交不安症:以前は、対人恐怖症とか赤面症(せきめんしょう)と表現されていた。人の視線がにがて。
登場人物のセリフが、一本調子な感じがします。(いっぽんちょうし。発声者が複数いても、おなじ感じ。単調)
読んでいて気になるのが、『咲子ちゃん』の、『ちゃん』の部分です。いらないのではないか。『咲子』だけのほうが、読みやすく、文章が締まります。『葵(あおい)』のほうは、ちゃん付けがありません。読みやすい。
イヤなことはイヤ、できないことはできませんと言いましょうというアドバイスがあります。『私は食べたくないんです』。なんというか、基本的なことに戻って、彼女たちは、おなかはすいていないのだろうか。食欲はないのだろうか。おなかがすくほど、体を動かしていない。勉強に精神が集中していないともとれます。人間、腹が減ったら、食事をします。
エキセントリック:風変り。普通とは違う。
食べたくなければ食べなくてよいとか、(学校に)来たくなければ来なくて(こなくて)いいとか、その言葉に従うと、置いてきぼりにされます。存在なしの扱いになります。
学校とつながりがあるうちはいいですが、学校とつながりがなくなると、はるか長い人生をひとりで生きることになります。ひきこもりです。日本には、1億人以上の人がいるわけですから、そういう人もいるのでしょう。なにせ、本人がその気にならないと、ひきこもりの解消はむずかしい。
ラマワティ:中学のクラスメート。インドネシア人。ムスリム(イスラム教徒)。口に入れてはいけないものとして、豚肉、アルコール。給食に食べてはいけないものが出るときは、自宅からお弁当を持参している。
ハラール:イスラム教徒でも食べることができる料理。ハラール:許されたもの。ハラーム:禁じられたもの。
チキる:臆病(おくびょう)になる。弱腰になる。
なんというか、給食ごときで、こんなにごたごたしなければならないとは思えない。
栄養教諭の橘川先生VS遠藤咲子と小林葵(女子ふたりは給食の時に、いったん自分の器(うつわ)に盛られたおかずを、全部、食缶に戻して、給食を食べなかった)です。
橘川先生が言うには、彼に対する宣戦布告だそうです。
ビビンバ:韓国の混ぜご飯
教育委員会からの指示:食品ロス(食べ残し)の削減を目標にする。
SDGs(エスディージーズ):持続可能な開発目標。バランスのとれた社会をつくる。
80ページにある項目の意味がとれません。「物言わぬは腹(はら)ふくるるわざなり―葵」。
(黙っていれば、おなかはすかないということだろうか。給食に文句を付けているということだろうか。よくわかりません)
親に対して、不満を吐き出す(はきだす)。
給食に不満がある。給食の内容に不満がある。(そうかな。まわりに人の目があるから食べるときに緊張するわけだから、給食のおかずを攻撃対象にするのはおかしい)
給食に不満があるから、『要望書』を出す。発起人は、小林葵と、遠藤咲子と、ラマワティ・ハサナ・ アプリヤニ(インドネシア人。イスラム教徒)です。
要望書の趣旨として、完食を強制しないで(この項目だけでいいんじゃないかな)、給食をなくて弁当にしてほしい(それでは困る人もいます。コッペくんは困るそうです。久野浩平くんです)、ハラールのメニューにしてほしい(してほしくありません。豚肉を食べたいです)、カロリーの低いメニューにしてほしい(イヤです)、食べやすいメニューにしてほしい(多数の児童に提供するものです。お金をその場でいただく食堂ではありません)
なんというか、中学生ですから、考え方にかたよりがあります。
働いて給料をもらっていないためか、世の中の仕組みをまだ知りません。まあ、税金も納めていません(消費税は払っているでしょう)。
『給食』という制度で、大きなお金が動いています。『給食』という制度で、給料をもらって、生活をしている人たちがいます。農業、運送業、サービス業、たくさんの人たちが、『給食』に集まっているのです。簡単に廃止はできません。『給食』を廃止するなら、職を失う人たちのあとの仕事のことも考えなければ、世の中は混乱します。
さらに、『給食』には、税金の投資もあります。学校が保護者から集める給食費だけでは、給食の提供はできないでしょう。公費負担です。税金には、経済を循環させる役割があります。お金は使うことで人間の生活が豊かになるのです。お金をため込むだけでは、経済活動は回っていきません。
なんだかんだありますが、それも、在学中だけのことです。
卒業式は、あっという間にやってきます。
メンバーが入れ替われば、また、同じことの繰り返しです。
学校だから、先生なりが相手をしてくれます。
社会に出たら、仕事場は冷たいものです。
イヤならさよならです。会社、辞めて(やめて)ちょうだいです。
ふつうは、給料がなくなって、生活していくことができなくなります。
簡単に仕事を辞める人は、親の援助があるのでしょう。自立も自活もできていません。
さて、要望書を書いた3人はどうなりますやら。
クレポン:インドネシアのお菓子。だんごのようなもの。緑色をしている。噛むと黒砂糖が口の中でとける。
遠藤咲子は、クレポンを、がばがば食べました。
『東京サラダボウル』というNHKのドラマ(警察ものでした。新宿あたり、東南アジア諸国の料理が出てきます)を思い出しました。前回の冬ドラマでした。
それから、『しあわせは食べて寝て待て』という、薬膳(やくぜん)を素材にしたドラマが、今、NHKで、火曜日の夜10時に放送されています。なかなかいい感じのドラマです。膠原病(こうげんびょう。免疫(めんえき)が自分で自分の体を攻撃して内臓が壊れる)になって、大きな会社にいられなくなった主人公の女性が、競争しない世界で、食事を楽しみながら、静かに暮らしていくのです。
レジスタンス:権力者に対する抵抗運動
給食のつくられかたを知る。あるいは、学ぶそうです。
日曜日、午前10時、県営グランド集合だそうです。
ハミる:仲間はずれにする。仲間はずれにされる。(はみ出すということだろうか)
ダウンタイム:サービスを利用することができない時間帯
ヒアル:ヒアルロン酸。美容注射
モスク:イスラム教の教会
クルアーン:イスラム教の経典。コーランのこと。神の啓示(けいじ。神の教え)
スタジアム(陸上競技場)の調理室で、大学陸上部員が食べる昼食をつくる。
アスリート:運動能力が優れた(すぐれた)スポーツ選手
たくさん食べるのではなくて、正しく食べる。
栄養食事学:人間が、健康で豊かな食生活を送るために学ぶ学問
(最後まで読み終えました)
コッペ(久野浩平)の弟::久野修平。5歳くらい。
コッペの母
コッペの妹:久野奈美。最初は、母親のおなかの中、最後に誕生します。
ところどころ、単語の意味がわからない難点がありました。書き手はわかっていても、読み手には理解できません。
カショオ:過食症ということでしょう。いっぱい食べて、いっぱい吐けば、体重は同じという感じ方だそうです。心の病気ですな。
マルタバ:インドネシア版お好み焼き
摂食障害(せっしょくしょうがい):適度な量の食事を自分でコントロールしながら食べることができない病気。精神的なストレスが原因。物語に出てくる小林葵と遠藤咲子には、どのような精神的ストレスがあるのだろう。過食をする遠藤咲子は、両親の夫婦関係がおかしいとか、お手伝いさん付きの豪邸に生まれて、生活の送り方がふつうと違うとか、やせなきゃいけないという自分への脅迫があります。小林葵の精神的ストレスの原因は明記されていません。生まれつき食が細い。精神的に人がにがてというのはありそうです。
イスラム教信者のラマワティは、豚肉を食べられないのではなく、豚肉を食べたくないだけ。豚肉を食べたいという気持ちがない。犬を食べたいという気持ちがないのと同じ(なるほど)。
遠藤咲子が過食する食べ物です。菓子パン、スナック菓子、カップ麺、ポテトチップス、バームクーヘン、どら焼き、シュークリーム。お金持ちにしては、栄養面でむちゃくちゃです。食事をちゃんと自分でつくればいい。目玉焼き、卵焼きから始まって、カレーライス、サンドイッチ、ホットケーキ、お好み焼き、やきそば、パスタ、焼き肉、焼き魚、野菜炒め、いろいろ簡単につくることでできる料理はあります。自分好みに味付けの工夫をすると楽しい。おいしいと嬉しくなります。
遠藤咲子の自宅は豪邸です。シャンデリアがあります。パパはお金持ちで、ママは、パパの装飾品扱いの人物です。以前は、お手伝いさんを雇っていたそうです。そして、パパには愛人がいます。まあ、お金があっても幸せとはいえません。
『給食改革』の話になっていきます。
小林綾子は、脂っぽい(あぶらっぽい)もの、食べごたえのある食べ物がにがてだそうです。
クラムチャウダー:スープ。二枚貝(クラム)を使ったもの。
タンドリーチキン:鶏肉(とりにく)を土釜(つちがま)で焼いたもの。
シュガーグレーズ:薄い砂糖衣(さとうころも)。ドーナツの表面につけたりする。
給食への反発がありますが、やがて、給食の価値、給食が栄養面で、きちんとしてものであることを理解し始める中学生たちです。
家が貧困家庭である久野浩平の話を聞いていると本を一冊思い出します。写真集です。
『土門拳(どもん・けん) 筑豊のこどもたち(ちくほうのこどもたち) 築地書館(つきじしょかん)』
小学校の給食のときに、お弁当をもってくることができないこどもたちの白黒写真が載っています。むかーしあった、福岡県の炭鉱町での話です。貧困があります。同書の72ページ~74ページに、お弁当を持参できないこどもたちは、机に座って本を読んでいるふりをしています。そのまわりに、お弁当を食べているこどもたちがいます。(わたしの机で、左のほうにある本箱にその本があります)
小林葵は母親と自宅で、ジャガイモコロッケをつくり始めました。
なんというか、包丁で指を切ると危ないからとかいって、こどもに包丁を握らせないのはだめです。
人間、指を切ると痛いけれど、指のかすり傷ぐらいで、人間は死にません。
過保護はだめです。失敗してもいいのです。自活できるようにこどもを育てなければなりません。
栄養教諭(給食の栄養管理担当)橘川先生(きっかわ先生)のいい言葉がありました。
『…… みんな、喉(のど)に何かつかえたままで、生きているのかもしれませんよ』(そのとおりです)
もうひとつ。
『たかが食事です』
回鍋肉(ホイコーロー):中国の豚肉料理。ゆでて、いためる。
ナシクニン:インドネシアのお祝い用のごはん。黄色いごはん。
最後は、暴風雨の中のエピソードでした。
炊き出し体験があります。
『人は、生きるために食べる』
給食改革プロジェクトです。(正直、なんでこうなるのか、よくわかりません)
ナシゴレン:インドネシアのチャーハン
いろんな騒動があって、いろんな変化があります。
遠藤咲子の両親は、離婚へ向かっているそうです。
ガトーショコラ:チョコレートケーキ
まあ、いろいろあります。
うわべだけ美しくしようとしても、中身はボロボロということはあります。
ありのままに生きることができたら、苦労は小さいに違いない。
2025年05月07日
「コーダ」のぼくが見る世界 聴こえない親のもとに生まれて
「コーダ」のぼくが見る世界 聴こえない親のもとに生まれて 五十嵐大(いがらし・だい) 紀伊国屋書店
同著者の本を以前読んだことがあります。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎』
2023年に読んだ時の感想メモが残っています。本の内容は暗かった。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。第一章から第五章まで、第一話から第三十話まであります。お母さんのことで情けない思いをされたようなことが書いてあります。親には学校に来ないでほしい。自分の親が恥ずかしい(はずかしい)とあります。けっこうつらい言葉です。親が聞いたら泣きます。
著者は障害者差別に直面しています。47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。
著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。仙台駅発の新幹線でしょう。母親とのせつない別れがあります。
本の中では、著者と他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じたりします。ステキなことです。
158ページあたりは、涙なくしては読めないような内容です。
同じ時期に、立場を変えた明るい内容の本を読みました。書き手のご夫婦がろうあの人で、ちいさなお子さんがふたりおられます。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』
ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いたこちらの本です。本の帯にあるメッセージは『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。2018年生まれの長男とあります。そして二男です。
昔風の大学ノートの写真です。たくさんの冊数があります。まんが日記が書いてあります。文章創作の基本は日記を書くことです。『回転と宇宙』『時間』『ぼくたちは手で話す』。会話は手話です。(こういう世界があるのか。手話による子育てです)。
『こどもを「通訳者」にさせない』。力作の本です。こどもさんは、しゃべることができます。『おかあさん 33さいおめでとう』
旅行好きです。熊本県へ行って、高知県へ行って。沖縄県へ行って、石垣島にも行って。飛行機に乗って。こどもにはいろんな体験をさせておくと、将来こどもの役にたちます。まだちびっこですが、なんども飛行機に乗っています。
『ことば』にこだわる本です。耳が聴こえない両親です。会話は手話でします。意思を伝えあうために『ことば』にこだわります。
指文字を使って、我が子をあやすそうです。こどもさんは、手話と指文字と日本語を同時に覚えていくそうです。(すばらしい)。こどもさんの耳が聴こえて、こどもさんが、言葉を話すことがうれしいそうです。(胸にじんときます)
家族同士が「手」で話すのです。(すごいなーー)。3歳の長男が、0歳の二男を指文字であやします。指文字は、スキンシップです。ろう者である祖母が、指文字で「あいうえお」を教えます。不思議です。言葉を話すことができるこどもさんが、あえて、言葉を使わずに、指文字でコミュニケーションを図ります。数字も指文字で覚えます。『教育のしかた』について、深く考えさせられる本です。
なお、二冊の本の著者は、つながりをもたれています。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
そちらの本の表紙カバーの写真を撮影されたのが、こちらの本の著者斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんです。
では、こちらの本を読み始めます。
わたしは、さいしょにページをゆっくりめくりながらどんなことが書いてあるのかを把握します。
(1回目の本読み)
人間はどこの家庭、あるいは家族に生まれてきても、だれしもが満たされない何かを抱えて(かかえて)暮らしながら成長していきます。
貧困であったり、親族からの暴力であったり、両親の不仲であったり、病気であったり、世襲(せしゅう。世継ぎ)の義務など、たくさんの困難があります。
こちらのご家庭では、両親が、耳が聞こえないという障害があるのです。生まれてきた息子さんは耳が聞こえる人です。そして、息子さんがいろいろと悩むのです。
人間界では一般的に、不自由さをかかえている人間同士で集まって、励まし合って、助け合っていきます。
それが、宗教だったり、福祉活動だったりもします。
ときに、音楽や舞台演劇のような文化活動であったりもします。
聴覚障害者に対するいじめ行為が書いてあります。(いじめっこに補聴器を捨てられてしまう)
人間は、残酷で、でも、温かい心もあるという、人間の二面性があります。
アニメ作品の話です。『聲の形(こえのかたち)』、それから、ドラマ作品、『しずかちゃんとパパ』、そして、映画作品として、洋画、『コーダ あいのうた』と、邦画、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が提示されています。
『さまざまなテクノロジーが聴こえない人を支えている』
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』に書いてあったことです。
SNS(ソーシャルネットワークサービス)のアプリケーションソフトが、聴覚障害者の生活をより良い方向へ導いてくれているというようなお話があります。耳が聴こえないといろいろと不便なことが多い。病院での受診者への呼び出しが聴こえないそうです。福祉機器に呼び出しの振動ベルがあるそうです。(本では、このあとのページで、東日本大震災のときに聴覚障害者として困ったことがあったと書いてあります。非常事態発生時に、障害者はおいてきぼりにされてしまいます)
『音声文字変換&音検知通知』というAndroidスマホのアプリケーションソフトがあるそうです。 救急車や消防、警察を呼ぶためのものとして『NET119 緊急通報システム』というものもあるそうです
(2回目の本読み)
コーダ:Children of Deaf Adults チルドレン(こども) オブ デフ(聴覚障害者) アダルト(おとな) 『聴覚障害者を親にもつこどもさん』という意味にとらえました。当事者ではないわたしには、たいへんだなあと思えるのですが、本を読むと、本人たちにとってはたいへんでもなさそうなのです。なのに、なんで悩むかというと、『障害とか障害をもつ人に理解がない一般人の心もち』なのです。人の目が気になる。標準でない物を差別する意識が人間にはある。同情は迷惑、そんなことが出だしに書いてあります。
生まれてきて、自分の親の耳が聞こえないという状態が、苦痛ではない。(それなりに順応して、ほぼスムーズに日常生活を送れるという人間のすばらしい能力があるのです)。自分では、あたりまえだと思っていた生活が、小学校に入ると、あたりまえではないということに気づいてショックを受けた。そんな苦労が書いてあります。
そして、自分はひとりぼっちという孤独の中で、心が屈折していく少年期、思春期があります。親のせいではないのに(むしろ一般的な親よりもこどもさんに心優しいご両親です。両親ともに聴覚障害者です)、親をうらむようになる。
されど、長いトンネルを抜けるときがきます。孤独だと思っていた自分は、実はひとりではなかった。ほかにも同様の立場のコーダがいて、なおかつ、そんな彼女は明るく生きていた。相当なショックと感激を味わっておられます。
本の構成です。
CONTENS(コンテンツ。中身、内容)
3つのかたまり(章)に分かれています。1から12のエッセイ(短い随筆)が書かれています。
『コンテンツ その1 1~3のエッセイ』
小学校就学前、良好な親子関係があった。
完ぺきではないが、生まれてから自然に身に付いた、『手話』と、『口話(こうわ。くちびるや口の動きで言葉を知る』、さらに、『筆談』、小ミューにケーションの方法はいろいろあって、不自由はしていなかった。
親子で外にも行った。虫捕り、山菜取り、釣り、海水浴、潮干狩り、ドライブなど、よそのご家庭よりもアクティブな感じがします。
小学校に入学して、他者からの、『眼差し(まなざし)』がきっかけになって、心がゆがんでいきます。不幸の始まりです。
『標準』でない人間は、他者から攻撃されたり、いじめられたり、さらしものにされて、ばかにされたりするのが、日本社会の通例です。
日本社会では、『みんな同じ』が、大事なのです。
だけど、人間には、『個性』があります。
わたしは長いこと生きてきて、たくさんの人を見てきて感じるものがあります。
いろんな人がいるのです。見た目の印象は、その人の中身とは違ったりもします。また、二重人格と言う言葉がありますが、人はみな、俳優のような役者なのです。時と場所に応じて、複数の人格を演じるのです。家庭、学校、職場などで、ようすが変わったりもします。だから、学歴とか、職業とか、地位は、本当のその人を知るうえで参考になりません。
いい人そうに見えて、実はそうじゃない人もいます。また、その反対もあります。人間は複雑なのです。
両親に怒り(親が障害者であるという怒り)をぶつけて、両親の心を傷つけた時代がある著者です。とても反省されています。
でも、いい出会いがあって、屈折した心理の世界から、自分と同じような体験をもつ仲間のいる心素直な世界にかかわることができて、著者は救われています。
社会人向けの手話サークルで、ひとりの難聴者と知り合っています。人生を変えるいい出会いでした。
ラベル:人間の個性を定義づけるもの
苦労というか、同じような生活内容を、『共有』する。
J-CODA:1990年代創立。関係先として、東京大学多様性包摂共創センター(ほうせつきょうそうセンター)
コーダは、相手の目を見て話す人が多い(なるほど)
ヤングケアラーは、けして、かわいそうな人ではない。
自分は、家族を支えているという自信がある。
その経験は、人間として、貴重なものである。
コーダは、『通訳』の役割は果たすが、親の介護をしているわけではない。親とはちゃんと意思疎通ができる。親もちゃんと生活している。
読んでいて、まじめな人です。立派です。
わたしは年寄りですから、人生を長い目で見て考えます。
どんな状態であろうが、祖父母も父母もいつかは命をまっとうする。自分の命もいつかは尽きる。それまで、どう、人生を生きようかと考える。
『コンテンツ その2 4~8のエッセイ』
ちいさなころの耳が聞こえない両親との体験がおもしろい。ちゃんと意思疎通ができるのです。
手話、音声日本語(聴覚障害者の話し方。肺から空気を口や鼻に通して発声する)、筆談、口話(こうわ)、身振りなど、こどもである著者はそのことを楽しんでいます。親子のコミュニケーションが密なのです。かえって、一般家庭の親子のほうが、親子の関係が薄い。とくに父と子とか。
親から、どうして耳が聞こえない者同士で結婚したかの話があります。
『ちゃんとわかりあえる仲間と家庭をもちたい』(結婚の基本でしょう)
著者の言葉があります。『耳が聴こえない両親は罪人ではない』
コーダの仲間ができてきます。
遠藤しおみさん:コーダのコミュニティ「J-CODA」というグループがあるそうです。
彼女の不思議な思考があります。『両親が聴こえないのに、どうして自分は聴こえるんだろう。自分も聴こえないほうが良かった。聾(ろう)学校に通いたかった』
(なかなか人間の気持ちは複雑です)
手話通訳士:日本に4200人ぐらいいる。1億人以上いる日本の人口のうちの4200人です。少ないと感じます。
ふと思い出したことがあります。昔読んだことがある本を思い出しました。
『累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ) 山本譲司 新潮文庫』
なんというか、障害者の世界の中にも犯罪はあるのです。一般人と変わりありません。
累犯:るいはん。何度も罪を犯すこと。
その本に書かれていたことです。日本式の手話の教科書での手話は、生まれながらの聴覚障害者には通じないというのは新鮮な情報でした。手話は、日本語ではないそうです。『手話語』という外国語のようなものだそうです。
テレビやステージ横でやっている手話は、生来のろうあ者には通じていないようです。彼らには彼ら仲間同士で通じる手話語があるという記事内容です。
耳が聞こえる人の手話と生まれながらに聞こえない人の手話は異なるそうです。よって、裁判の時の手話通訳者の手話も通じていない。世の中は、聞こえる人たちの自己満足で成立しています。人と人とがわかりあうということは、むずかしいと感じる内容でした。
今読んでいるこちらの本にも、似たような話が書いてあります。
手話にはふたつあって、生まれながらに耳が聴こえない人たちが使う手話と、耳が聴こえる人たちが学んで覚える手話とは異なるそうです。そして、その手話は、英語とかフランス語みたいに、ひとつひとつの異なる言語なのです。
母語(ぼご):幼児のときから自然に身につけた言語。著者の母語は、手話だそうです。
コロナ禍当時の話があります。
話は飛びますが、先日の夜NHKニュースで、デフリンピックというスポーツ大会に20歳のろう者の若者がチャレンジすると放送されていました。デフ=聴覚障害者です。
『音楽』との関りについて書いてあります。ろう者の世界に、『音楽』はないのです。
耳が聴こえない両親に音楽を楽しむ習慣がなかったので、ふたりのこどもである著者は、音楽のことを知りません。カラオケはできません。曲を知りません。(ただ、先日、テレビ報道で、音楽やダンスを楽しむろう者のみなさんの映像を観ました。振動で音楽を感じることができるようです)
それでも、おかあさんは、著者が幼児のころ、子守唄を歌っていた。
『ね~ね~ね~』の連続という内容です。
(わたしが思うに、子守唄というものは、「ねむたい、ねむたいよ~」の連続でいいのです。幼いこどもを寝かしつけることが目標なのですから)
日本手話:聴覚障害者が使う、独特な文法体形をもつ手話
日本語対応手話:日本語の文法と語順に従う手話
渋谷智子さんが記した:『コーダの世界』
著者は、ろう者の代弁者です。
ろう者のまわりには、耳が聴こえる援助者のような人がいるが、援助が目的ではない。
自分をいい人に見せようとする偽善者がいる。それが目的ということです。
自分が多くの人から注目されたいという承認欲求をもつ人がいる。
ろう者を自分の利益のために利用している人がいる。
(なかなか厳しい話です)
ろう者を扱ったドラマ、『星の金貨』:1995年放送。同じ年に、『愛していると言ってくれ』
ろう者を、「哀しみ(かなしみ)」の対象として感情誘導する作品はイヤだったそうです。耳が聴こえないから、かわいそうという見方はしてほしくない。同情されるとプライドが傷つくのです。
聲の形(こえのかたち):マンガ。映画作品。こどもたちの世界です。聴こえないということで主人公がいじめられるそうです。
コーダあいのうた:2022年公開の洋画
しずかちゃんとパパ:NHKBSプレミアムドラマ
デフ・ヴォイス法廷の手話通訳士:2023年のドラマ
市川沙央(いちかわ・さおう):2023年第169回芥川賞受賞者。作品、『ハンチバック』
『コンテンツ その3 9~12のエッセイと、おわりに』
聴覚障害者向けのデジタル機器について書いてあります。
『ビデオ通話機能』:リモート電話で、手話を映像に出して活用する。
当初の、ガラ系携帯電話では、両親と電話での意思疎通ができなかった。
『ブギーボード』
電子メモパッド。付属のペンで画面に文字を書く。
ボタンを押すと瞬時に文字は消える。
筆談用ですな。
お年寄りになって、耳が遠くなってしまった人にも使えそうです。
富士通の、『Ontenna(オンテナ)』
映画鑑賞に活用できる。
クリップ式の小型機器
振動や光で、音楽を体感できる。
『電話リレーサービスの開始』
手話ができる通訳オペレーター(機器操作者)が介在して、ろう者(聴覚障害者)が聴者(ちょうしゃ。聴覚に障害がない人)と話せる。
『AIで動くロボット犬 aibo』
著者の愛犬は、「ししまる」というお名前だそうです。
機械ではありますが、自分の家族だそうです。なんだか、わかる気がします。人は、話し相手が欲しい。
『ノートパソコン』
ろう者である著者の父親が血液のがんで入院します。
担当医師が、パソコンを使って、ディスプレイ(画面)に文字を打ち込んで、父親を含めたご家族に病状説明をします。『死』という文字が、画面に出たそうです。
不備のある規則について書いてあります。
『聴覚障害者だけでは、ロープウェイにはのれない』
『テーマパークで、聴覚障害者はアトラクションに乗れない』
理由は安全のため。いざというときに、音が聞こえないと危険だそうです。
事前に、聴こえない人の意見を聞いてくれない。
当事者不在でものごとを決めないで欲しいという希望があります。希望を聞けば、代案が出てくるそうです。
聴こえない人に聞くことが、ハードルが高いのだろうかとあります。(困難度が大きい。まあ、そんなことはないとは思いますが、どこにたずねればいいのかがわからないのかもしれません)
耳が聴こえないからといって、同情されると、心が傷つくそうです。
著者の家族のなかがけっこうたいへんです。
祖父:元ヤクザ。短気、お酒のみの暴れん坊
祖母:穏やかだが、宗教に没頭。人生のすべてを神にささげる暮らし
父:4歳の時、結核治療のための注射の副作用で、聴力を失った。
母:生まれつきの聴覚障害者
なんだか、以前読んだ本にあった、にしおかすみこさんのご家庭を思い出します。
『ポンコツ一家 にしおかすみこ 講談社』
2023年(令和5年)に読みました。そのときの感想メモの一部です。
しっかりものの看護師をしていた母親が『(自分の)頭をかちわって死んでやるーー』と大きな声を出していたそうです。驚きました。認知症で人格が変わってしまったようです。
ぱっと本に目をとおして、おかあさんが認知症、お姉さんがダウン症、お父さんはお酒飲み、にしおかさんは芸人さんです。なかなかハードなものがあります。
ダウン症:ダウン症候群。染色体が1本多い。遺伝子疾患。身体的発達の遅延。軽度の知的障害。特徴的な顔つき。
中学のときに病気で亡くなりましたが、うちの親父もお酒飲みで苦労しました。お酒飲みの親をもつと、こどもは、ふつうなら体験しなくてもいい苦労を体験させられます。そうでない家がうらやましかった。
にしおかファミリーです。
お母さん:80歳。認知症で無表情。いろいろなことの管理能力なし。機械が壊れるように人間が壊れています。糖尿病があります。
お姉さん:47歳。ダウン症
お父さん:81歳。酔っ払い。耳が遠い。
著者:45歳。元SM女王さまキャラクターの芸人。独身とあります。なかなか厳しい生活環境です。
こちらの本に戻ります。
それぞれが、それぞれの境遇の家庭に生まれてきた。
どうしようもない。しかたがない。
いつも、心の中で、気持ちに折り合いをつけて、今ある環境に自分を適合・適応させていく努力を続けていた。
正直な気持ちとして、耳が聴こえない人を、憐れんでもらいたくない(あわれんで。かわいそうだと思う)。腫物(はれもの)に触るように接してもらいたくない(相手を傷つけないように慎重に接する)。
S0DA(ソーダ):Siblings Of Deaf Adults/Children):聴こえないきょうだいを持つ聴こえるきょうだいのこと。たとえば、聴こえない弟がいる兄
聴こえないというだけで、期待されていない弟の姿を見ることがつらかった。自分は弟をかわいそうだとは思っていなかった。ふつうの兄弟だった。
聴こえないきょうだいがいることで、結婚が破談になった。理由は遺伝だった。
聴こえない人間=不幸ではない。
人はいつも、『知らないもの』を排除しようとする。
141ページにある11番目のエッセイは秀逸です。
わたしは本を読んで、この部分が一番良かった。
タイトルは、『父について』です。
母親のことばかりを気にして、父親のことは気にしていなかった。
父親は立派な人で、自分でなんでもできる人だと思っていた。父は大丈夫な人だと思っていた。
だから、父親のことは頭から離れて、母親のことばかりを考えていたそうです。
ところが、父親はそんなに強い人ではなかったのではないかということです。
父親は、血液のがんで入院してしまいます。
父は耳が聴こえなかったが、著者である息子をかわいがり、小さいころからいろいろなところへ連れて行ってくれた。アウトドア派の父で、虫捕り、釣り、山登り、潮干狩り、海水浴、映画(ドラえもんほか)。父親は耳が聴こえないので、字幕がある映画を観たがったそうです。こどもである著者は、それはイヤだったそうです。(わたしもおやじがよく映画に連れて行ってくれました。怪獣映画とか、クレージーキャッツの映画とか。字幕の有無は、自分は気にしませんでした。映像を観ることで、自分が見たことがない世界があることを楽しめました)
2023年にお父さんは血液のがんで入院されます。
そのあたりの記述は、以前読んだ別の本を思い出しました。
『がん「ステージ4」から生まれ変わって いのちの歳時記 小倉一郎(おぐら・いちろう) 双葉社』
俳優さんですが、いろいろたいへんな経験をされて、余命宣告から生還されています。
こちらの著者のお父さんも生還されています。
父親は天体に興味があり、大学に進学して、天文学者になりたかった。
夢はかなわなかった。大学への進学は無理だった。父親は、塗装職人になった。
その部分を読んで、ふたつ思い出しました。
ひとつは、小説作品、『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』、それからドラマになった、『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) NHKドラマ10 毎週火曜日午後10時放送 全10話』です。登場人物のひとりが、宇宙にかかわる仕事をしたいのですが、思いどおりの進路をたどれないのです。定時制高校に通う生徒たちが、火星に関する研究発表に挑みます。
もうひとつが、映画、『ぼくが生きてる、ふたつの世界 邦画 2024年(令和6年)』です。
こちらの本の著者の家族が主人公の映画です。
映画のスタートは、無音です。ろう者の世界ですから、音のない世界で、主人公のお父さんが、漁船の船体にブルーの塗料を塗る作業をしています。それが、お父さんの仕事です。
親の耳が聴こえないということは、ほかの人から見れば、いろいろ不都合があると思うのだろうが、当事者にとっては、不都合はありませんということを説明されています。
今度生まれ変わることができるなら、今回と同様に、耳が聴こえない同じ両親のもとに生まれてきたいそうです。
著者は、耳が聴こえる両親のもとで育つことの、なかみのイメージが想像できないようすです。
自分たちは、かわいそうな人間ではありませんと表現されています。ぜんぜん、かわいそうじゃありませんと強調されています。
158ページまで文章を読んできて感じたことです。
きれいな言葉を使うと、「幸せ」が近づいてきます。
乱暴な言葉を使うと、「不幸せ(ふしあわせ)」が近づいてきます。
障害者が生活しにくい環境構造はだれがつくりあげたものなのか。
この社会は、『健常であること』を前提につくられている。
標準からこぼれ落ちてしまう人たちのことを踏まえずに設計されてきた。(今のアメリカ大統領に聞かせたい言葉です)
合理的配慮:障害者差別解消法。2013年制定(平成25年)。2021年(令和3年)改正。2024年(令和6年)施行。①物理的環境への合理的配慮 ②意思疎通への合理的配慮 ③ルールや慣行の柔軟な変更
してはいけないこと。①前例がないので、対応できません ②障害のある人だけを特別扱いできません ③もしなにかあったらいけないので、対応できません ④なになにの障害がある人には対応できません
わたしが長いこと生きてきて思うに、人は歳をとれば、最終的にはだれもが障害者になります。歩くことができなくなって車いす生活です。寝たきりの介護状態になります。だんだん、体の耐用年数が近づいてくるのです。足腰も目も歯もぼろぼろになっていきます。そういうことも含めて、障害者の人たちが楽に利用できる施設などは、年寄りや、当然健常者にとっても利用しやすい施設なのです。
損か得か、お金もうけのことばかり考えていたら、人間界は、くちゃくちゃになってしまうのです。
同著者の本を以前読んだことがあります。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐大(いがらし・だい) 幻冬舎』
2023年に読んだ時の感想メモが残っています。本の内容は暗かった。
本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。著者の両親は、ふたりとも耳が聴こえないと本の帯に書いてあります。
著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。第一章から第五章まで、第一話から第三十話まであります。お母さんのことで情けない思いをされたようなことが書いてあります。親には学校に来ないでほしい。自分の親が恥ずかしい(はずかしい)とあります。けっこうつらい言葉です。親が聞いたら泣きます。
著者は障害者差別に直面しています。47ページあたりは、人間の強さと弱さ、もろさが表現されています。自分を差別した人間を許すことで、笑顔が生れています。
著者は、高校をなんとか卒業されて、母親を捨てる気持ちをもちながら東京へと旅立ちます。仙台駅発の新幹線でしょう。母親とのせつない別れがあります。
本の中では、著者と他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じたりします。ステキなことです。
158ページあたりは、涙なくしては読めないような内容です。
同じ時期に、立場を変えた明るい内容の本を読みました。書き手のご夫婦がろうあの人で、ちいさなお子さんがふたりおられます。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』
ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いたこちらの本です。本の帯にあるメッセージは『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。2018年生まれの長男とあります。そして二男です。
昔風の大学ノートの写真です。たくさんの冊数があります。まんが日記が書いてあります。文章創作の基本は日記を書くことです。『回転と宇宙』『時間』『ぼくたちは手で話す』。会話は手話です。(こういう世界があるのか。手話による子育てです)。
『こどもを「通訳者」にさせない』。力作の本です。こどもさんは、しゃべることができます。『おかあさん 33さいおめでとう』
旅行好きです。熊本県へ行って、高知県へ行って。沖縄県へ行って、石垣島にも行って。飛行機に乗って。こどもにはいろんな体験をさせておくと、将来こどもの役にたちます。まだちびっこですが、なんども飛行機に乗っています。
『ことば』にこだわる本です。耳が聴こえない両親です。会話は手話でします。意思を伝えあうために『ことば』にこだわります。
指文字を使って、我が子をあやすそうです。こどもさんは、手話と指文字と日本語を同時に覚えていくそうです。(すばらしい)。こどもさんの耳が聴こえて、こどもさんが、言葉を話すことがうれしいそうです。(胸にじんときます)
家族同士が「手」で話すのです。(すごいなーー)。3歳の長男が、0歳の二男を指文字であやします。指文字は、スキンシップです。ろう者である祖母が、指文字で「あいうえお」を教えます。不思議です。言葉を話すことができるこどもさんが、あえて、言葉を使わずに、指文字でコミュニケーションを図ります。数字も指文字で覚えます。『教育のしかた』について、深く考えさせられる本です。
なお、二冊の本の著者は、つながりをもたれています。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
そちらの本の表紙カバーの写真を撮影されたのが、こちらの本の著者斎藤陽道(さいとう・はるみち)さんです。
では、こちらの本を読み始めます。
わたしは、さいしょにページをゆっくりめくりながらどんなことが書いてあるのかを把握します。
(1回目の本読み)
人間はどこの家庭、あるいは家族に生まれてきても、だれしもが満たされない何かを抱えて(かかえて)暮らしながら成長していきます。
貧困であったり、親族からの暴力であったり、両親の不仲であったり、病気であったり、世襲(せしゅう。世継ぎ)の義務など、たくさんの困難があります。
こちらのご家庭では、両親が、耳が聞こえないという障害があるのです。生まれてきた息子さんは耳が聞こえる人です。そして、息子さんがいろいろと悩むのです。
人間界では一般的に、不自由さをかかえている人間同士で集まって、励まし合って、助け合っていきます。
それが、宗教だったり、福祉活動だったりもします。
ときに、音楽や舞台演劇のような文化活動であったりもします。
聴覚障害者に対するいじめ行為が書いてあります。(いじめっこに補聴器を捨てられてしまう)
人間は、残酷で、でも、温かい心もあるという、人間の二面性があります。
アニメ作品の話です。『聲の形(こえのかたち)』、それから、ドラマ作品、『しずかちゃんとパパ』、そして、映画作品として、洋画、『コーダ あいのうた』と、邦画、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が提示されています。
『さまざまなテクノロジーが聴こえない人を支えている』
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』に書いてあったことです。
SNS(ソーシャルネットワークサービス)のアプリケーションソフトが、聴覚障害者の生活をより良い方向へ導いてくれているというようなお話があります。耳が聴こえないといろいろと不便なことが多い。病院での受診者への呼び出しが聴こえないそうです。福祉機器に呼び出しの振動ベルがあるそうです。(本では、このあとのページで、東日本大震災のときに聴覚障害者として困ったことがあったと書いてあります。非常事態発生時に、障害者はおいてきぼりにされてしまいます)
『音声文字変換&音検知通知』というAndroidスマホのアプリケーションソフトがあるそうです。 救急車や消防、警察を呼ぶためのものとして『NET119 緊急通報システム』というものもあるそうです
(2回目の本読み)
コーダ:Children of Deaf Adults チルドレン(こども) オブ デフ(聴覚障害者) アダルト(おとな) 『聴覚障害者を親にもつこどもさん』という意味にとらえました。当事者ではないわたしには、たいへんだなあと思えるのですが、本を読むと、本人たちにとってはたいへんでもなさそうなのです。なのに、なんで悩むかというと、『障害とか障害をもつ人に理解がない一般人の心もち』なのです。人の目が気になる。標準でない物を差別する意識が人間にはある。同情は迷惑、そんなことが出だしに書いてあります。
生まれてきて、自分の親の耳が聞こえないという状態が、苦痛ではない。(それなりに順応して、ほぼスムーズに日常生活を送れるという人間のすばらしい能力があるのです)。自分では、あたりまえだと思っていた生活が、小学校に入ると、あたりまえではないということに気づいてショックを受けた。そんな苦労が書いてあります。
そして、自分はひとりぼっちという孤独の中で、心が屈折していく少年期、思春期があります。親のせいではないのに(むしろ一般的な親よりもこどもさんに心優しいご両親です。両親ともに聴覚障害者です)、親をうらむようになる。
されど、長いトンネルを抜けるときがきます。孤独だと思っていた自分は、実はひとりではなかった。ほかにも同様の立場のコーダがいて、なおかつ、そんな彼女は明るく生きていた。相当なショックと感激を味わっておられます。
本の構成です。
CONTENS(コンテンツ。中身、内容)
3つのかたまり(章)に分かれています。1から12のエッセイ(短い随筆)が書かれています。
『コンテンツ その1 1~3のエッセイ』
小学校就学前、良好な親子関係があった。
完ぺきではないが、生まれてから自然に身に付いた、『手話』と、『口話(こうわ。くちびるや口の動きで言葉を知る』、さらに、『筆談』、小ミューにケーションの方法はいろいろあって、不自由はしていなかった。
親子で外にも行った。虫捕り、山菜取り、釣り、海水浴、潮干狩り、ドライブなど、よそのご家庭よりもアクティブな感じがします。
小学校に入学して、他者からの、『眼差し(まなざし)』がきっかけになって、心がゆがんでいきます。不幸の始まりです。
『標準』でない人間は、他者から攻撃されたり、いじめられたり、さらしものにされて、ばかにされたりするのが、日本社会の通例です。
日本社会では、『みんな同じ』が、大事なのです。
だけど、人間には、『個性』があります。
わたしは長いこと生きてきて、たくさんの人を見てきて感じるものがあります。
いろんな人がいるのです。見た目の印象は、その人の中身とは違ったりもします。また、二重人格と言う言葉がありますが、人はみな、俳優のような役者なのです。時と場所に応じて、複数の人格を演じるのです。家庭、学校、職場などで、ようすが変わったりもします。だから、学歴とか、職業とか、地位は、本当のその人を知るうえで参考になりません。
いい人そうに見えて、実はそうじゃない人もいます。また、その反対もあります。人間は複雑なのです。
両親に怒り(親が障害者であるという怒り)をぶつけて、両親の心を傷つけた時代がある著者です。とても反省されています。
でも、いい出会いがあって、屈折した心理の世界から、自分と同じような体験をもつ仲間のいる心素直な世界にかかわることができて、著者は救われています。
社会人向けの手話サークルで、ひとりの難聴者と知り合っています。人生を変えるいい出会いでした。
ラベル:人間の個性を定義づけるもの
苦労というか、同じような生活内容を、『共有』する。
J-CODA:1990年代創立。関係先として、東京大学多様性包摂共創センター(ほうせつきょうそうセンター)
コーダは、相手の目を見て話す人が多い(なるほど)
ヤングケアラーは、けして、かわいそうな人ではない。
自分は、家族を支えているという自信がある。
その経験は、人間として、貴重なものである。
コーダは、『通訳』の役割は果たすが、親の介護をしているわけではない。親とはちゃんと意思疎通ができる。親もちゃんと生活している。
読んでいて、まじめな人です。立派です。
わたしは年寄りですから、人生を長い目で見て考えます。
どんな状態であろうが、祖父母も父母もいつかは命をまっとうする。自分の命もいつかは尽きる。それまで、どう、人生を生きようかと考える。
『コンテンツ その2 4~8のエッセイ』
ちいさなころの耳が聞こえない両親との体験がおもしろい。ちゃんと意思疎通ができるのです。
手話、音声日本語(聴覚障害者の話し方。肺から空気を口や鼻に通して発声する)、筆談、口話(こうわ)、身振りなど、こどもである著者はそのことを楽しんでいます。親子のコミュニケーションが密なのです。かえって、一般家庭の親子のほうが、親子の関係が薄い。とくに父と子とか。
親から、どうして耳が聞こえない者同士で結婚したかの話があります。
『ちゃんとわかりあえる仲間と家庭をもちたい』(結婚の基本でしょう)
著者の言葉があります。『耳が聴こえない両親は罪人ではない』
コーダの仲間ができてきます。
遠藤しおみさん:コーダのコミュニティ「J-CODA」というグループがあるそうです。
彼女の不思議な思考があります。『両親が聴こえないのに、どうして自分は聴こえるんだろう。自分も聴こえないほうが良かった。聾(ろう)学校に通いたかった』
(なかなか人間の気持ちは複雑です)
手話通訳士:日本に4200人ぐらいいる。1億人以上いる日本の人口のうちの4200人です。少ないと感じます。
ふと思い出したことがあります。昔読んだことがある本を思い出しました。
『累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ) 山本譲司 新潮文庫』
なんというか、障害者の世界の中にも犯罪はあるのです。一般人と変わりありません。
累犯:るいはん。何度も罪を犯すこと。
その本に書かれていたことです。日本式の手話の教科書での手話は、生まれながらの聴覚障害者には通じないというのは新鮮な情報でした。手話は、日本語ではないそうです。『手話語』という外国語のようなものだそうです。
テレビやステージ横でやっている手話は、生来のろうあ者には通じていないようです。彼らには彼ら仲間同士で通じる手話語があるという記事内容です。
耳が聞こえる人の手話と生まれながらに聞こえない人の手話は異なるそうです。よって、裁判の時の手話通訳者の手話も通じていない。世の中は、聞こえる人たちの自己満足で成立しています。人と人とがわかりあうということは、むずかしいと感じる内容でした。
今読んでいるこちらの本にも、似たような話が書いてあります。
手話にはふたつあって、生まれながらに耳が聴こえない人たちが使う手話と、耳が聴こえる人たちが学んで覚える手話とは異なるそうです。そして、その手話は、英語とかフランス語みたいに、ひとつひとつの異なる言語なのです。
母語(ぼご):幼児のときから自然に身につけた言語。著者の母語は、手話だそうです。
コロナ禍当時の話があります。
話は飛びますが、先日の夜NHKニュースで、デフリンピックというスポーツ大会に20歳のろう者の若者がチャレンジすると放送されていました。デフ=聴覚障害者です。
『音楽』との関りについて書いてあります。ろう者の世界に、『音楽』はないのです。
耳が聴こえない両親に音楽を楽しむ習慣がなかったので、ふたりのこどもである著者は、音楽のことを知りません。カラオケはできません。曲を知りません。(ただ、先日、テレビ報道で、音楽やダンスを楽しむろう者のみなさんの映像を観ました。振動で音楽を感じることができるようです)
それでも、おかあさんは、著者が幼児のころ、子守唄を歌っていた。
『ね~ね~ね~』の連続という内容です。
(わたしが思うに、子守唄というものは、「ねむたい、ねむたいよ~」の連続でいいのです。幼いこどもを寝かしつけることが目標なのですから)
日本手話:聴覚障害者が使う、独特な文法体形をもつ手話
日本語対応手話:日本語の文法と語順に従う手話
渋谷智子さんが記した:『コーダの世界』
著者は、ろう者の代弁者です。
ろう者のまわりには、耳が聴こえる援助者のような人がいるが、援助が目的ではない。
自分をいい人に見せようとする偽善者がいる。それが目的ということです。
自分が多くの人から注目されたいという承認欲求をもつ人がいる。
ろう者を自分の利益のために利用している人がいる。
(なかなか厳しい話です)
ろう者を扱ったドラマ、『星の金貨』:1995年放送。同じ年に、『愛していると言ってくれ』
ろう者を、「哀しみ(かなしみ)」の対象として感情誘導する作品はイヤだったそうです。耳が聴こえないから、かわいそうという見方はしてほしくない。同情されるとプライドが傷つくのです。
聲の形(こえのかたち):マンガ。映画作品。こどもたちの世界です。聴こえないということで主人公がいじめられるそうです。
コーダあいのうた:2022年公開の洋画
しずかちゃんとパパ:NHKBSプレミアムドラマ
デフ・ヴォイス法廷の手話通訳士:2023年のドラマ
市川沙央(いちかわ・さおう):2023年第169回芥川賞受賞者。作品、『ハンチバック』
『コンテンツ その3 9~12のエッセイと、おわりに』
聴覚障害者向けのデジタル機器について書いてあります。
『ビデオ通話機能』:リモート電話で、手話を映像に出して活用する。
当初の、ガラ系携帯電話では、両親と電話での意思疎通ができなかった。
『ブギーボード』
電子メモパッド。付属のペンで画面に文字を書く。
ボタンを押すと瞬時に文字は消える。
筆談用ですな。
お年寄りになって、耳が遠くなってしまった人にも使えそうです。
富士通の、『Ontenna(オンテナ)』
映画鑑賞に活用できる。
クリップ式の小型機器
振動や光で、音楽を体感できる。
『電話リレーサービスの開始』
手話ができる通訳オペレーター(機器操作者)が介在して、ろう者(聴覚障害者)が聴者(ちょうしゃ。聴覚に障害がない人)と話せる。
『AIで動くロボット犬 aibo』
著者の愛犬は、「ししまる」というお名前だそうです。
機械ではありますが、自分の家族だそうです。なんだか、わかる気がします。人は、話し相手が欲しい。
『ノートパソコン』
ろう者である著者の父親が血液のがんで入院します。
担当医師が、パソコンを使って、ディスプレイ(画面)に文字を打ち込んで、父親を含めたご家族に病状説明をします。『死』という文字が、画面に出たそうです。
不備のある規則について書いてあります。
『聴覚障害者だけでは、ロープウェイにはのれない』
『テーマパークで、聴覚障害者はアトラクションに乗れない』
理由は安全のため。いざというときに、音が聞こえないと危険だそうです。
事前に、聴こえない人の意見を聞いてくれない。
当事者不在でものごとを決めないで欲しいという希望があります。希望を聞けば、代案が出てくるそうです。
聴こえない人に聞くことが、ハードルが高いのだろうかとあります。(困難度が大きい。まあ、そんなことはないとは思いますが、どこにたずねればいいのかがわからないのかもしれません)
耳が聴こえないからといって、同情されると、心が傷つくそうです。
著者の家族のなかがけっこうたいへんです。
祖父:元ヤクザ。短気、お酒のみの暴れん坊
祖母:穏やかだが、宗教に没頭。人生のすべてを神にささげる暮らし
父:4歳の時、結核治療のための注射の副作用で、聴力を失った。
母:生まれつきの聴覚障害者
なんだか、以前読んだ本にあった、にしおかすみこさんのご家庭を思い出します。
『ポンコツ一家 にしおかすみこ 講談社』
2023年(令和5年)に読みました。そのときの感想メモの一部です。
しっかりものの看護師をしていた母親が『(自分の)頭をかちわって死んでやるーー』と大きな声を出していたそうです。驚きました。認知症で人格が変わってしまったようです。
ぱっと本に目をとおして、おかあさんが認知症、お姉さんがダウン症、お父さんはお酒飲み、にしおかさんは芸人さんです。なかなかハードなものがあります。
ダウン症:ダウン症候群。染色体が1本多い。遺伝子疾患。身体的発達の遅延。軽度の知的障害。特徴的な顔つき。
中学のときに病気で亡くなりましたが、うちの親父もお酒飲みで苦労しました。お酒飲みの親をもつと、こどもは、ふつうなら体験しなくてもいい苦労を体験させられます。そうでない家がうらやましかった。
にしおかファミリーです。
お母さん:80歳。認知症で無表情。いろいろなことの管理能力なし。機械が壊れるように人間が壊れています。糖尿病があります。
お姉さん:47歳。ダウン症
お父さん:81歳。酔っ払い。耳が遠い。
著者:45歳。元SM女王さまキャラクターの芸人。独身とあります。なかなか厳しい生活環境です。
こちらの本に戻ります。
それぞれが、それぞれの境遇の家庭に生まれてきた。
どうしようもない。しかたがない。
いつも、心の中で、気持ちに折り合いをつけて、今ある環境に自分を適合・適応させていく努力を続けていた。
正直な気持ちとして、耳が聴こえない人を、憐れんでもらいたくない(あわれんで。かわいそうだと思う)。腫物(はれもの)に触るように接してもらいたくない(相手を傷つけないように慎重に接する)。
S0DA(ソーダ):Siblings Of Deaf Adults/Children):聴こえないきょうだいを持つ聴こえるきょうだいのこと。たとえば、聴こえない弟がいる兄
聴こえないというだけで、期待されていない弟の姿を見ることがつらかった。自分は弟をかわいそうだとは思っていなかった。ふつうの兄弟だった。
聴こえないきょうだいがいることで、結婚が破談になった。理由は遺伝だった。
聴こえない人間=不幸ではない。
人はいつも、『知らないもの』を排除しようとする。
141ページにある11番目のエッセイは秀逸です。
わたしは本を読んで、この部分が一番良かった。
タイトルは、『父について』です。
母親のことばかりを気にして、父親のことは気にしていなかった。
父親は立派な人で、自分でなんでもできる人だと思っていた。父は大丈夫な人だと思っていた。
だから、父親のことは頭から離れて、母親のことばかりを考えていたそうです。
ところが、父親はそんなに強い人ではなかったのではないかということです。
父親は、血液のがんで入院してしまいます。
父は耳が聴こえなかったが、著者である息子をかわいがり、小さいころからいろいろなところへ連れて行ってくれた。アウトドア派の父で、虫捕り、釣り、山登り、潮干狩り、海水浴、映画(ドラえもんほか)。父親は耳が聴こえないので、字幕がある映画を観たがったそうです。こどもである著者は、それはイヤだったそうです。(わたしもおやじがよく映画に連れて行ってくれました。怪獣映画とか、クレージーキャッツの映画とか。字幕の有無は、自分は気にしませんでした。映像を観ることで、自分が見たことがない世界があることを楽しめました)
2023年にお父さんは血液のがんで入院されます。
そのあたりの記述は、以前読んだ別の本を思い出しました。
『がん「ステージ4」から生まれ変わって いのちの歳時記 小倉一郎(おぐら・いちろう) 双葉社』
俳優さんですが、いろいろたいへんな経験をされて、余命宣告から生還されています。
こちらの著者のお父さんも生還されています。
父親は天体に興味があり、大学に進学して、天文学者になりたかった。
夢はかなわなかった。大学への進学は無理だった。父親は、塗装職人になった。
その部分を読んで、ふたつ思い出しました。
ひとつは、小説作品、『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』、それからドラマになった、『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) NHKドラマ10 毎週火曜日午後10時放送 全10話』です。登場人物のひとりが、宇宙にかかわる仕事をしたいのですが、思いどおりの進路をたどれないのです。定時制高校に通う生徒たちが、火星に関する研究発表に挑みます。
もうひとつが、映画、『ぼくが生きてる、ふたつの世界 邦画 2024年(令和6年)』です。
こちらの本の著者の家族が主人公の映画です。
映画のスタートは、無音です。ろう者の世界ですから、音のない世界で、主人公のお父さんが、漁船の船体にブルーの塗料を塗る作業をしています。それが、お父さんの仕事です。
親の耳が聴こえないということは、ほかの人から見れば、いろいろ不都合があると思うのだろうが、当事者にとっては、不都合はありませんということを説明されています。
今度生まれ変わることができるなら、今回と同様に、耳が聴こえない同じ両親のもとに生まれてきたいそうです。
著者は、耳が聴こえる両親のもとで育つことの、なかみのイメージが想像できないようすです。
自分たちは、かわいそうな人間ではありませんと表現されています。ぜんぜん、かわいそうじゃありませんと強調されています。
158ページまで文章を読んできて感じたことです。
きれいな言葉を使うと、「幸せ」が近づいてきます。
乱暴な言葉を使うと、「不幸せ(ふしあわせ)」が近づいてきます。
障害者が生活しにくい環境構造はだれがつくりあげたものなのか。
この社会は、『健常であること』を前提につくられている。
標準からこぼれ落ちてしまう人たちのことを踏まえずに設計されてきた。(今のアメリカ大統領に聞かせたい言葉です)
合理的配慮:障害者差別解消法。2013年制定(平成25年)。2021年(令和3年)改正。2024年(令和6年)施行。①物理的環境への合理的配慮 ②意思疎通への合理的配慮 ③ルールや慣行の柔軟な変更
してはいけないこと。①前例がないので、対応できません ②障害のある人だけを特別扱いできません ③もしなにかあったらいけないので、対応できません ④なになにの障害がある人には対応できません
わたしが長いこと生きてきて思うに、人は歳をとれば、最終的にはだれもが障害者になります。歩くことができなくなって車いす生活です。寝たきりの介護状態になります。だんだん、体の耐用年数が近づいてくるのです。足腰も目も歯もぼろぼろになっていきます。そういうことも含めて、障害者の人たちが楽に利用できる施設などは、年寄りや、当然健常者にとっても利用しやすい施設なのです。
損か得か、お金もうけのことばかり考えていたら、人間界は、くちゃくちゃになってしまうのです。
2025年05月01日
最高の二番手 堺正章
最高の二番手 堺正章 飛鳥新社
著者は、わたしが小学生のときからテレビで観ていた芸能人さんです。
お正月番組になると、かくし芸を披露されていました。
努力の人だと思っていました。
お父さんは、有名な喜劇俳優さんで堺俊二さんです。
ご自身はもう78歳になられています。長い時が過ぎました。1946年(昭和21年)生まれです。
(1回目の本読み)
まず、ゆっくりページを最後までめくってみます。
「はじめに」のところに、人生の終盤を迎えて、これまでのことをふりかえり、本を残しておきたいというようなことが書いてあります。
だれしも、死後に自分のカケラ(一部分。断片)をこの世に残しておきたいとは思うものです。それが本ということもあります。
本の構成です。
CHAPTER(チャプター。「章」のこと)1が、人生は「二番手」でうまくいく
CHAPTER2が、時が経って(たって)わかること
CHAPTER3が、人生に無駄(むだ)なことなんてない
というつくりです。序・破・急のパターンだろうか。始まり-展開-終結です。
ずーとページをめくっていての感想です。
教訓本、マニュアル本のようでもあります。人生をどう生きるかです。
エッセイ(随筆)の形式になっていますが、ご自身が文章をつくったというよりも、インタビューに答えたものを編集者の方が文書でまとめたような雰囲気があります。
わかりやすく文章を書くということは、とてもむずかしい。しかも長文です。この本は、聞き取りの本かもしれません。(あるいは、ご本人の原稿に編集者の方が手を入れて整理整頓されたような文章です)
『芸能界は椅子取りゲーム』という項目があります。
しばらく前のことですが、芸能人の不祥事で女子アナウンサーのことが話題になっていたのですが、女子アナウンサーの世界は、椅子取りゲームだから、お互いに悩み事を相談できるような環境にはないという説明をテレビで聞きました。
たいへんな世界です。ふつうは、ひとつの目標に向かって、チームワークを形成して仕事に取り組んでいきます。
結婚に2回失敗したと書いてあります。
わたしが若い頃に観たテレビ番組で、たぶん最初の結婚相手の方だったと思うのですが、芸能人、かつ、有名人のお宅なので、一般人の暮らしとはかけはなれている状況があり、そのことが自分には耐えられないと、女性の方が離婚の理由を言われていたような気がします。
盆暮のお中元、お歳暮の量が、本当に山のようにお宅に届いて、その整理をするだけで発狂するような状態になったということでした。たいへんです。一般家庭とは違います。
1ドル360円だったころの時代のことが書いてあります。
共感します。今どきの騒ぎを見ていると、いろいろなことで、半世紀ぐらい前は、今よりとても暮らしにくかったと思い出すのです。だから、今の状態が悪いとも感じられないのです。
思い出話が続きます。
若くして癌で亡くなった女優の夏目雅子さんの話が書いてあります。美しい人でした。
喜劇役者だったお父さん堺俊二さんのことも書いてあります。
この本全体の趣旨としての、『誰もがトップランナーである必要はない』で結ばれています。
(2回目の本読み)
コロナ禍におけるエンターテインメント(芸能活動)について書いてあります。
芸能の世界は、人が生きていくうえで必ず必要というわけでもない。
仕事の不安定さがあります。
日本人はがんばりやだから、社長になりたい人が多いとイギリス人が言ったそうです。
だから、本のタイトルの二番手という言葉が出てきます。なんなら、三番手、四番手もあるのです。
とかく、人間界では、順位付けをしたがる。
学校の成績から始まって、仕事なら営業成績、芸能界なら、視聴率、興行成績…… きりがありません。人間は競争をしたがる生き物です。
そして、格付けをする。人間や組織を上・中・下のように段階で並べて評価する。イヤですなあ。上にいる人はいいけれど、下にいるといい気分はしません。
読んでいると、ところどころでの著者からのメッセージ、『1位になんかならなくていいのだ……』が登場します。
1位を目指せる人は目指せばいいと思います。たとえば、大相撲なら、『横綱』です。でも、だれもが横綱になれるわけではありません。なれる人はなればいいし、なれない人はなれないなりに、相撲界を盛り上げていってくれればいいのです。
『傑作は常に次回作』(よく聞く言葉です)
『5勝4敗1分けぐらいが人生はおもしろい』とあります。
わたしは、『人生は60点で十分生きていける』と自分なりに思っています。とくに、全科目で60点がとれるなら、それはそれでたいした才能です。
一芸(いちげい)に秀でた(ひいでた)人は、一芸以外のことはできなくて、人の世話にならないと生活できそうにないということもあります。
読んでいて、著者は、『仕事人間』という印象が強い。
『現場主義』という言葉を書いておられます。ちゃんと働きたいのです。
『調整役』という言葉も頭に浮かんできました。
70代を過ぎてからの体力、知力の衰えについて書いてあります。
無理はしないほうがいい。一般人ならもうリタイヤしている年齢です。
う~む。なんというか、読んでいて、楽しい本ではありません。
お説教(おせっきょう。かたぐるしい教訓、忠告話)を聞いているような感じです。
いろんな有名人のかたのお名前が書いてあります。
市村正親(いちむら・まさちか):ミュージカル俳優。1949年(昭和26年)生まれ。76歳。たまたまですが、先月、市村さんの舞台を観ました。『屋根の上のバイオリン弾き』でした。なかなか良かった。音楽劇でした。
横山剣:クレイジーケンバンド。歌手、作曲家、プロデューサー。1960年(昭和35年)生まれ。60歳。以前テレビ番組でお見かけしたことがあります。
所ジョージ:シンガーソングライター、コメディアン、俳優。1955年(昭和30年)生まれ。70歳。こちらの本には、所さんが、アメ車好きなことが書いてあります。米国大統領が喜ぶでしょう。
次女さんのことが書いてあります。
堺小春:女優、タレント。1994年(平成6年)生まれ。31歳
早川雪舟(はやかわ・せっしゅう):俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家。1973年(昭和48年)87歳没
原節子:女優。2015年(平成27年)95歳没
伊丹万作:映画監督、脚本家、俳優。1946年(昭和21年)46歳没
書いてある内容は、古い話が多い。理屈っぽい話が続きます。その点では、平凡さを感じる本です。ユニークな内容(芸人であるがゆえのこと)を読みたい。
伊東四朗:コメディアン、俳優、タレント。1937年(昭和12年)生まれ。87歳
名古屋の中日劇場のことが書いてあります。もう以前あった中日劇場も中日ビルもありません。建て替えで、新しい高層ビルが建ちました。
『自分を好きな人が3分の1、キライな人が3分の1、ふつうに思っている人が3分の1、それでよしとする。』
わたしが働いていた時のことですが、味方が半分、敵が半分、それでよしという気持ちで働いていました。10年経ったら、まわりは敵だらけでした。しんどかった。
『運気のいい流れを引き寄せる方法』について書いてあります。
著者は、人のことを気にしないと答えを出されています。人をうらやんだり、にくんだり、くやしがったりしない。必要以上に人に興味をもたない。それが、芸能界を生き延びるコツだそうです。
表面に出て活躍、活動できる芸能人の席は、『500席』だそうです。その席の取り合いが芸能界だそうです。その席に座れば、億単位の年収が見込めると、考えることができます。
自分の担当マネージャーに怒りをぶつけてはいけないと書いてあります。
なんだか、ときおり流れるパワハラ芸能人に関するニュースを思い出します。
いろいろ有名な方のお名前が出てきますが、昔有名だった方のことが多い。
(つづく)
中盤以降はちょっと読みにくい感じなので流し読みに入りました。
長文の自慢話が続きます。
これはこうと定義(決めつけて)していきます。
かなり昔の話が多い。
個人という内輪(うちわ)の狭い世界の中でのお話です。
ムッシュかまやつ(かまやつひろし):ミュージシャン、俳優。2017年(平成29年)78歳没
かなり長い思い出話で、饒舌(じょうぜつ。おしゃべりが多い)でもあります。中身がくどくもあります。
ゴルフの話、クレー射撃の話、クラシックカーの話、麻雀の話、かくし芸の話などに続いていきます。
著者は仕事の面での、人生の成功者なのでしょう。
まじめに仕事に取り組んできた姿勢があったからできたことでしょう。
結婚はそうはいかなったようです。二度離婚して、現在は三人目の奥さんです。
過去の結婚部分を読んでいると、配偶者を犠牲にして、自分の仕事で成功した人というように思えました。
内田裕也:ミュージシャン、ロック歌手。2019年3月(平成31年)79歳没
水の江瀧子(みずのえ・たきこ):女優、タレント。2009年(平成21年)94歳没
堺駿二(さかい・しゅんじ 著者の父):コメディアン、喜劇俳優。1968年(昭和43年)54歳没。脳溢血(のういっけつ。脳出血のこと)で、新宿コマ劇場で行われていた舞台の二幕目の途中で、舞台袖(そで)にひっこんだあと倒れて亡くなった。当時著者は22歳。昔自分がまだ30歳ぐらいのころ、新宿コマ劇場を見たことがあります。そんなことを思い出しました。
209ページまできました。
以降、ものすごくさかのぼるような昔の話が書いてあります。
70歳近くになるわたしが、まだ小中学生だったころの思い出話です。
う~む。得るものがありません。著者自身の個人的な思い出話です。広がりがありません。
最終ページの、286ページまで読み終えました。
う~む。ご自身のための本でした。(おこらないでね。正直な感想です)
著者は、わたしが小学生のときからテレビで観ていた芸能人さんです。
お正月番組になると、かくし芸を披露されていました。
努力の人だと思っていました。
お父さんは、有名な喜劇俳優さんで堺俊二さんです。
ご自身はもう78歳になられています。長い時が過ぎました。1946年(昭和21年)生まれです。
(1回目の本読み)
まず、ゆっくりページを最後までめくってみます。
「はじめに」のところに、人生の終盤を迎えて、これまでのことをふりかえり、本を残しておきたいというようなことが書いてあります。
だれしも、死後に自分のカケラ(一部分。断片)をこの世に残しておきたいとは思うものです。それが本ということもあります。
本の構成です。
CHAPTER(チャプター。「章」のこと)1が、人生は「二番手」でうまくいく
CHAPTER2が、時が経って(たって)わかること
CHAPTER3が、人生に無駄(むだ)なことなんてない
というつくりです。序・破・急のパターンだろうか。始まり-展開-終結です。
ずーとページをめくっていての感想です。
教訓本、マニュアル本のようでもあります。人生をどう生きるかです。
エッセイ(随筆)の形式になっていますが、ご自身が文章をつくったというよりも、インタビューに答えたものを編集者の方が文書でまとめたような雰囲気があります。
わかりやすく文章を書くということは、とてもむずかしい。しかも長文です。この本は、聞き取りの本かもしれません。(あるいは、ご本人の原稿に編集者の方が手を入れて整理整頓されたような文章です)
『芸能界は椅子取りゲーム』という項目があります。
しばらく前のことですが、芸能人の不祥事で女子アナウンサーのことが話題になっていたのですが、女子アナウンサーの世界は、椅子取りゲームだから、お互いに悩み事を相談できるような環境にはないという説明をテレビで聞きました。
たいへんな世界です。ふつうは、ひとつの目標に向かって、チームワークを形成して仕事に取り組んでいきます。
結婚に2回失敗したと書いてあります。
わたしが若い頃に観たテレビ番組で、たぶん最初の結婚相手の方だったと思うのですが、芸能人、かつ、有名人のお宅なので、一般人の暮らしとはかけはなれている状況があり、そのことが自分には耐えられないと、女性の方が離婚の理由を言われていたような気がします。
盆暮のお中元、お歳暮の量が、本当に山のようにお宅に届いて、その整理をするだけで発狂するような状態になったということでした。たいへんです。一般家庭とは違います。
1ドル360円だったころの時代のことが書いてあります。
共感します。今どきの騒ぎを見ていると、いろいろなことで、半世紀ぐらい前は、今よりとても暮らしにくかったと思い出すのです。だから、今の状態が悪いとも感じられないのです。
思い出話が続きます。
若くして癌で亡くなった女優の夏目雅子さんの話が書いてあります。美しい人でした。
喜劇役者だったお父さん堺俊二さんのことも書いてあります。
この本全体の趣旨としての、『誰もがトップランナーである必要はない』で結ばれています。
(2回目の本読み)
コロナ禍におけるエンターテインメント(芸能活動)について書いてあります。
芸能の世界は、人が生きていくうえで必ず必要というわけでもない。
仕事の不安定さがあります。
日本人はがんばりやだから、社長になりたい人が多いとイギリス人が言ったそうです。
だから、本のタイトルの二番手という言葉が出てきます。なんなら、三番手、四番手もあるのです。
とかく、人間界では、順位付けをしたがる。
学校の成績から始まって、仕事なら営業成績、芸能界なら、視聴率、興行成績…… きりがありません。人間は競争をしたがる生き物です。
そして、格付けをする。人間や組織を上・中・下のように段階で並べて評価する。イヤですなあ。上にいる人はいいけれど、下にいるといい気分はしません。
読んでいると、ところどころでの著者からのメッセージ、『1位になんかならなくていいのだ……』が登場します。
1位を目指せる人は目指せばいいと思います。たとえば、大相撲なら、『横綱』です。でも、だれもが横綱になれるわけではありません。なれる人はなればいいし、なれない人はなれないなりに、相撲界を盛り上げていってくれればいいのです。
『傑作は常に次回作』(よく聞く言葉です)
『5勝4敗1分けぐらいが人生はおもしろい』とあります。
わたしは、『人生は60点で十分生きていける』と自分なりに思っています。とくに、全科目で60点がとれるなら、それはそれでたいした才能です。
一芸(いちげい)に秀でた(ひいでた)人は、一芸以外のことはできなくて、人の世話にならないと生活できそうにないということもあります。
読んでいて、著者は、『仕事人間』という印象が強い。
『現場主義』という言葉を書いておられます。ちゃんと働きたいのです。
『調整役』という言葉も頭に浮かんできました。
70代を過ぎてからの体力、知力の衰えについて書いてあります。
無理はしないほうがいい。一般人ならもうリタイヤしている年齢です。
う~む。なんというか、読んでいて、楽しい本ではありません。
お説教(おせっきょう。かたぐるしい教訓、忠告話)を聞いているような感じです。
いろんな有名人のかたのお名前が書いてあります。
市村正親(いちむら・まさちか):ミュージカル俳優。1949年(昭和26年)生まれ。76歳。たまたまですが、先月、市村さんの舞台を観ました。『屋根の上のバイオリン弾き』でした。なかなか良かった。音楽劇でした。
横山剣:クレイジーケンバンド。歌手、作曲家、プロデューサー。1960年(昭和35年)生まれ。60歳。以前テレビ番組でお見かけしたことがあります。
所ジョージ:シンガーソングライター、コメディアン、俳優。1955年(昭和30年)生まれ。70歳。こちらの本には、所さんが、アメ車好きなことが書いてあります。米国大統領が喜ぶでしょう。
次女さんのことが書いてあります。
堺小春:女優、タレント。1994年(平成6年)生まれ。31歳
早川雪舟(はやかわ・せっしゅう):俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家。1973年(昭和48年)87歳没
原節子:女優。2015年(平成27年)95歳没
伊丹万作:映画監督、脚本家、俳優。1946年(昭和21年)46歳没
書いてある内容は、古い話が多い。理屈っぽい話が続きます。その点では、平凡さを感じる本です。ユニークな内容(芸人であるがゆえのこと)を読みたい。
伊東四朗:コメディアン、俳優、タレント。1937年(昭和12年)生まれ。87歳
名古屋の中日劇場のことが書いてあります。もう以前あった中日劇場も中日ビルもありません。建て替えで、新しい高層ビルが建ちました。
『自分を好きな人が3分の1、キライな人が3分の1、ふつうに思っている人が3分の1、それでよしとする。』
わたしが働いていた時のことですが、味方が半分、敵が半分、それでよしという気持ちで働いていました。10年経ったら、まわりは敵だらけでした。しんどかった。
『運気のいい流れを引き寄せる方法』について書いてあります。
著者は、人のことを気にしないと答えを出されています。人をうらやんだり、にくんだり、くやしがったりしない。必要以上に人に興味をもたない。それが、芸能界を生き延びるコツだそうです。
表面に出て活躍、活動できる芸能人の席は、『500席』だそうです。その席の取り合いが芸能界だそうです。その席に座れば、億単位の年収が見込めると、考えることができます。
自分の担当マネージャーに怒りをぶつけてはいけないと書いてあります。
なんだか、ときおり流れるパワハラ芸能人に関するニュースを思い出します。
いろいろ有名な方のお名前が出てきますが、昔有名だった方のことが多い。
(つづく)
中盤以降はちょっと読みにくい感じなので流し読みに入りました。
長文の自慢話が続きます。
これはこうと定義(決めつけて)していきます。
かなり昔の話が多い。
個人という内輪(うちわ)の狭い世界の中でのお話です。
ムッシュかまやつ(かまやつひろし):ミュージシャン、俳優。2017年(平成29年)78歳没
かなり長い思い出話で、饒舌(じょうぜつ。おしゃべりが多い)でもあります。中身がくどくもあります。
ゴルフの話、クレー射撃の話、クラシックカーの話、麻雀の話、かくし芸の話などに続いていきます。
著者は仕事の面での、人生の成功者なのでしょう。
まじめに仕事に取り組んできた姿勢があったからできたことでしょう。
結婚はそうはいかなったようです。二度離婚して、現在は三人目の奥さんです。
過去の結婚部分を読んでいると、配偶者を犠牲にして、自分の仕事で成功した人というように思えました。
内田裕也:ミュージシャン、ロック歌手。2019年3月(平成31年)79歳没
水の江瀧子(みずのえ・たきこ):女優、タレント。2009年(平成21年)94歳没
堺駿二(さかい・しゅんじ 著者の父):コメディアン、喜劇俳優。1968年(昭和43年)54歳没。脳溢血(のういっけつ。脳出血のこと)で、新宿コマ劇場で行われていた舞台の二幕目の途中で、舞台袖(そで)にひっこんだあと倒れて亡くなった。当時著者は22歳。昔自分がまだ30歳ぐらいのころ、新宿コマ劇場を見たことがあります。そんなことを思い出しました。
209ページまできました。
以降、ものすごくさかのぼるような昔の話が書いてあります。
70歳近くになるわたしが、まだ小中学生だったころの思い出話です。
う~む。得るものがありません。著者自身の個人的な思い出話です。広がりがありません。
最終ページの、286ページまで読み終えました。
う~む。ご自身のための本でした。(おこらないでね。正直な感想です)
2025年04月19日
老いはヤケクソ 佐藤愛子
老いはヤケクソ 佐藤愛子 リベラル社発行 星雲社発売
インタビューの章が3章、そのほか2章(親族、友人、関係者のこと、そして作品のこと、過去の手記)、合計5章のレイアウト(配置)です。
著者は101歳になられたそうです。長生きです。執筆はもう能力的に無理だそうです。
インタビューです。よくおしゃべりされたそうです。
人に相手してもらうことが嬉しそうだったそうです。
わたしが高校生ぐらいのころに、佐藤愛子さんと遠藤周作さんと北杜夫(きた・もりお)さんの三人さんが対談されたテレビ番組を観たような記憶があります。仲良し三人組に見えました。たしか、『すばらしき仲間』というタイトルの対談番組でした。
遠藤周作さん(1996年(平成8年)73歳没)、北杜夫さん(2011年(平成23年)84歳没)です。
佐藤愛子さんは、1923年(大正12年)生まれ現在101歳です。本には、『百嫗(ひゃくおうな)』と書いてあります。嫗(おうな):歳をとった女性
佐藤愛子さんのお兄さんであるサトウハチローさんの歌はこどものころからよく聴きました。(1973年(昭和48年)70歳没)
自分が若い頃に読んでいた本の作者さんは、もう五木寛之さんぐらいが存命なぐらいです。(1932年(昭和7年)生まれ92歳)。
同じ時代を過ごした人たちが、ひとりふたりと姿を消していく。(亡くなっていく)
けっこうなプレッシャーがあります。(精神的な圧力)
わたしのまわりでも、たくさんの人たちがいなくなりました。
いろいろと思うところはあります。
きれいごとばかりではありません。
お互いにケンカするような、それなりの対立もありました。
されど、対立した者たち同士、どちらもすでにこの世にはおられません。
あの対立はなんだったのだろうかとふりかえることがあります。
最後はみんな消えてなくなるのなら対立などしなければいいのに……
この本のタイトルについて考えました。『老いはヤケクソ』というタイトルです。老いて、新しいことをやることもなし。やりたくても、思うように自分の心身が動いてくれないということはあります。
ゆえに、こちらの本のタイトル、『老いはヤケクソ』なのか。
人間死ぬのもたいへんです。なかなか死ねません。お迎えが来るまで、生きるのです。生きているのではなく、まだ死んでいないだけだという状態が続きます。
ときおり、高齢者施設で働いている方のブログを読むのですが、入所者のみなさんの頭の中が壊れています。若い頃はきっと、バリバリと仕事をしたり、家事をしたりされた、しっかり者だった人たちもおられると思います。でも今は、ご本人の言動がおかしいのです。
不謹慎かもしれませんが、(ふきんしん:無礼(ぶれい)、失礼(しつれい))長命な人のめんどうをみている子や孫はふと思うのです。『どうしてまだ生きているのだろう……(もう、(たいていは)彼女と同時代に生きていた人たちはこの世からいなくなったのに)』
長生きするとはどういうことなのだろうかという疑問をもちながら、この本を読むと何かわかるという手がかりがあるかもしれないという気持ちで読み始めるのです。
『「はじめ」に代えて 杉山桃子(佐藤愛子さんの孫)』
認知機能の衰えがあるものの、今回の本づくりのインタビューでは、ご本人は、うれしそうだったそうです。
『目次を見ながら考えたこと』
「映画は創作のストーリー」(どういう意味だろう)
「我慢しない」が信条(佐藤愛子さんは、我慢することを強いられた(しいられた)世代です。戦争体験者です)
「本当に強いのはお金やモノに執着しない人」(執着する人は多い)
『100歳インタビューについて 山田泰生(やまだ・やすお。新聞記者)』
歳をとることは、もはや「ヤケクソ」だそうです。
自分なりに素直に考えると、自分よりも先に配偶者が亡くなったらかなりショックです。
こどもたちが自分より先に亡くなったら、そんなばかなという気持ちになります。
友人たちが亡くなると、ああ、あいつも逝った(いった)かと思います。
もう自分たちの時代は終わりを告げたとあきらめもつきます。
されど、それでもまだ自分が生きていたら、猛烈な孤独感が襲ってきます。どうすることもできません。長い時間を与えられても、本を読むことも映像を見ることも飽きてしまいそうです。
『第1章 「百嫗(ひゃくおうな)」の心境 100歳インタビュー①』
耳が遠くなった。
世間から隔絶された小島で暮らしているような感じがしておられるそうです。
自分は101歳になった。自分がまだ小さかったころの記憶は、100年前ぐらいの出来事であると語られています。今を生きながら、100年前の記憶をたどるのです。
きんさん、ぎんさんの話が出ます。わたしが、30代のころのお話です。1991年(平成3年)にNHKで紹介されました。愛知県名古屋に住むふたごのご長寿の姉妹さんでした。おしゃべりじょうずなおもしろい方たちでした。
以下、佐藤愛子さんについてです。
長生きすればするほど、友だちがどんどんいなくなる。
親きょうだいもいなくなる。
同じ時代をいっしょにすごした相棒たちがいなくなる。同級生はもうひとりもいない。
愛犬も先に逝ってしまった。(いってしまった。天国へ召された)
そんな嘆きがあります。なげき:悲しみ
人と話をすることは好き。だから、今回のインタビューのことも好き。
映画、『九十歳。何がめでたい』を冒頭30分見たけれど、あまり覚えていない。
映画製作のことが少し書いてあります。
(そうなのかと驚くことが書いてありました)
医者嫌い。40代から医者にかかっていなかった。90代までは、病院なんて行ったことがなかった。
40代からなじみの整体に行っていた。それで、十分体調管理ができていた。
今は一日ぼんやり椅子に座って庭をながめている。
『第2章 老いはヤケクソ 100歳インタビュー②』
<みんなヤケクソで老いていっている>
真面目に老いていたらやれきれない気持ちになるそうです。やりきれない:気持ちがおさまらない。辛抱できない。
ヤケクソになれば楽ではあるが、端然(たんぜん)とはしていたい。たんぜん:正しく整っているようす。きちんとしている。規則正しく淡々と暮らしながらその時を待つ(あの世への旅立ち)
世代的に、戦争の話が出ます。戦争体験者の世代です。
戦時中は食べるものがなかった。食べるものの種類にこだわる気持ちはない。
肉は好き。魚は白身がいい。そのほかは何も気にしない。
朝昼兼用の食事をする。娘や孫が用意してくれる。毎回同じものを食べる。こだわりはない。同じものでいい。
新聞は、朝日新聞と産経新聞を読む。本は読まない。インターネットはわからない。(わたし(熊太郎)は、数年前から新聞は読まなくなりました。不自由はありません。新聞はとっています。家族が読んでいます。なんというか、読まなくても、何がどんなふうに書いてあるか想像できるのです。毎年、同じような時期に同じようなニュースが掲載されます。新聞製作の事前準備として、これから先、1年分の事前原稿の下地(したじ)が用意されているのではないかと思うときもありました)
佐藤愛子さんは、携帯電話は持っているが使っていない。家ではいまだに、ダイヤル式の電話を使っている。(わたしのまわりでも、ダイヤル式の加入電話を今も使用している友人や親族がいます)
テレビはつけっぱなしにしてある。見ているようで見ていない。記憶力がなくなり、聞いても記憶が残らない。
お金について:プライドを捨てればお金は稼げる(かせげる)。プライドが捨てられないからお金を稼げない。
父佐藤紅緑(さとう・こうろく)は、75歳で亡くなった。(数え年だと思います。実際は74歳)。兄サトウハチローは、70歳で亡くなった。
結婚は二度したけれど、恵まれなかった。最初の夫は(昭和18年(1943年)結婚。夫は、昭和26年(1951年)病死)、夫は、戦地から帰ってきたが、モルヒネ中毒になっていた。(腸の病気の痛み止めとしてモルヒネ(痛み止め)を使用していた)。
二度目の夫は、借金が理由で偽装離婚をしたが、元夫は、その後、なんと別の女と婚姻届を出した。知識がなかったので、夫の借金を佐藤愛子さんが肩代わりして返済した。のちに、法人の負債の場合、社長の妻に借金返済の義務はないと言われたそうです。されど、そのことを題材にして出した小説、『戦いすんで日が暮れて』が直木賞を受賞して、大ヒットしたそうです。
『第3章 「我慢しない」が信条100歳インタビュー③』
歳をとって、老化によって、目が悪い、耳が聞こえない。
なんだか、どうでもよくなる。
外出はほとんどしない。
女にとって、結婚は、がまんするという意味だそうです。がまんができないなら離婚です。
長生きしたいと思っていなかったのに、長生きをしている。
苦界(くがい):遊女の境遇
お金に対する執着心はない。損得にも興味はない。
父親の教えで、損得を考えなくなった。
父の教えだと、損得にこだわるのは下衆(げす。心が卑しい人(いやしい人)。身分がとても低い人)がすることだそうです。
だまされたっていい。人生なんてたいしたもんじゃない。そんなふうに書いてあります。すごいなあ。
恬淡(てんたん):あっさりした人。名誉や利益に執着しない。
死に方を自分で選ぶなんてぜいたく。戦争で命を落としていった若い人たちのことを思うと申し訳なくなる。
テレビ番組、『徹子の部屋』から出演依頼がたびたびくるけれど断っている。耄碌した姿を見られたくない。耄碌(もうろく):老いぼれた。
101歳の自分に、未来というものはない。
死ぬのは、こわくもないし、嫌という気持ちもない。
『第4章 愛すべき家族と相棒たち』
この部分は過去の手記です。
知っている人たちが自分よりも先に亡くなっていった。
なんともいえない寂しさ(さびしさ)がある。
もう一度会いたい人たちがいる。
でも、もう誰もいない。
「父 佐藤紅緑(さとう・こうろく) 小説家、劇作家、俳人 1949年(昭和24年)74歳没
頑固おやじだったそうです。窮屈なことがキライな自由人だったと読み取れます。ご本人は、だらしがなかった。
コハゼ:足袋(たび)にある金属の留め具(とめぐ)
慨歎(がいたん):気が高ぶるほど嘆いて心配すること。
気韻(きいん):気品の高い趣(おもむき)
冒瀆(ぼうとく):神聖なものや清らかなものを汚すこと。(けがすこと)
佐藤愛子さんは、父の佐藤紅緑さんの血筋を引いて性格が父親によく似ているそうです。
「母 三笠万里子 舞台女優 1972年(昭和47年)78歳没」
夫婦ゲンカが多かったそうです。父は、感情家で、母は、理性的な人間だった。母のくちぐせは、ものごとを大局的に見る。客観性を重視する。
性格は異なるふたりだったが、コンビとしてはいい具合だったようです。
佐藤愛子さんは母親とよくケンカをしたが、母親を尊敬もしておられます。
「兄 サトウハチロー 詩人、作詞家、作家 1973年(昭和48年)70歳没
わたしは、中学生のころ、作詞された歌詞や母親を思う詩などから、サトウハチローさんは心優しい人で人格者だと思っていましたが、その後、現実のことが書いてある書物などを読んで、本当は自分が思っていたイメージとはぜんぜん違う人だということがわかりショックを受けました。
こちらの本では、『不良セガレ』と書いてあります。
同様に、詩集、『一握の砂(いちあくのすな)』を出された石川啄木さんも、のちに、けっこういいかげんな人だったことを知り、おとなになってから残念な気持ちになりました。
芸術家のみなさんたちは、屈折した心理をおもちです。言っていることとやっていることが正反対だったりもするのです。なんだか、じょうずに人をだました人がお金持ちになるような気がするのです。受け手である自分は賢くならねば(かしこくならねば)だまされてしまうと警戒するのです。
作者と作品は別物と考えたほうがいい。作品は、作品として世に出た瞬間に作者の手元を離れて、受け手の解釈で理解されるのです。
佐藤愛子さんは、平穏無事な家庭環境で育った人ではありません。
また、平穏無事な人生を送られた人でもありません。
むしろ、攻撃的な人生でした。荒波の中を突き進んできた人です。
サトウハチローさんは、佐藤愛子さんよりも20歳も年上の兄です。(異母兄)
佐藤愛子さんには4人の兄がいた。
4人とも不良だった。長兄のサトウハチローさんが、一番の大不良だった。
されど、不良に寛大な世の中だった。(戦前の頃)
青春とは無軌道なもの。いけないとわかっていてもやる。やってしまうのが青春だ。無軌道は一過性のもので、青春を通過して人はおとなになる。厳しい対応だけでは、若い者の気持ちは育たないというような意味合いの文章が書いてあります。
放恣(ほうし):勝手気ままで節度がないこと
大切なことは、『大きく理解する心』
鵠沼(くげぬま):神奈川県藤沢市南部の海岸中央部
「乳母(うば):ばあや」
佐藤愛子さんが6歳ぐらいのとき世話になっていたばあやのことが書いてあります。
佐藤愛子さんは、実母よりもばあやが好きだったそうです。
ばあやのお乳を飲んで育ったそうです。
(なんだか、太宰治さんと似ています。太宰治さんも自分の子守りをしてくれた越野タケさんを慕っておられました)
佐藤愛子さんは、ばあやから、『……この世にはイヤでもどうしてもせんならんことがおますんや』ということを学んでいます。
やりたいことはやって、やりたくないことはやらないのは、こどもです。やりたくなくても、やらねばならないことはやるのがおとなです。
「夫 田畑麦彦 小説家、劇作家、俳人 2008年(平成20年)80歳没」
二人目のご主人です。事業の失敗で偽装離婚後、佐藤愛子さんの知らぬ間に、ほかの女性と入籍されています。
シームレス:継ぎ目がない衣類
正鵠(せいこく):物事の一番大切なポイント
読んでいて思うのは、佐藤愛子さんの歴史であり、日本文学界の歴史です。
借金の額は、3000万円ぐらい。(1967年頃。昭和42年頃)(ちょっと記述内容が変化していくのですが、このあとにある138ページと142ページには、2億円と書いてあります。現代の金額に置き換えてあるのだろうか)
「師:吉田一穂(よしだ・いっすい 男性) 詩人、評論家、童話作家 1973年(昭和48年)74歳没」
佐藤愛子さんが出会えて良かった人のおひとりです。
吉田さんのおかげで、自分は挫折せず、希望を失うことなく今まで生きてくることができたそうです。
吉田さんは、単純な人だった。美しいものは、美しいといい、美しくないものは、美しくないと言う人だった。
いつも自分を力づけてくれる人だった。むずかしいところもあったけれど、心の優しい人だったそうです。
「師:臼井栄子(うすい・えいこ) 整体指導者 2005年(平成17年)91歳没」
苦しいことから逃げようとするとますます苦しくなる。逃げないで、苦しいことの中に居座るとらくになる」ということを教えてくださったそうです。
佐藤愛子さんの恩人です。
(読みながら思うのは、もうみなさん亡くなっているということです。しみじみくるものがあります。自分を助けてくれる人がいないと人は生きられません)
「遠藤周作 作家 1996年(平成8年)73歳没」
いたずら好きな人だったそうです。人を笑わせることが好きな人だったそうです。
読みながら思うのは、なんというか、人はみなそれぞれ個性的なのです。画一的にこの人は、こういう人という評価なり、分析なりはしにくいのです。評価をしてもしょうがないという気持ちにもなります。もう、みなさん、この世の人ではありません。今生きている人たちも、いずれこの世の人ではなくなります。
遠藤周作さんがやった、佐藤愛子さんの娘さんの結婚式での祝辞がとてもおもしろい。笑いました。
「小説を書く人間はみな、おかしな人であります」(たしかに。この本を読んでいると納得します)
「川上宗薫(かわかみ・そうくん 本名の読みは、「むねしげ」さんだそうです 1985年(昭和60年)61歳没)
この部分の記述は長かった。それだけ、佐藤愛子さんに思い入れがある方です。
まだ、わたしが高校生ぐらいだった頃の川上宗薫さんは、男女のからみである情事を文章でねちっこく表現するポルノのようなエロい文章を週刊誌などに書いておられました。あまり好感をもたれるような人物ではなかったような印象が自分にあります。
されど、人間というのはわからないものです。川上宗薫さんは佐藤愛子さんの心の支えになっておられます。お互いに男女の恋愛関係はなく、親友、(愛子さんから見て)自分の弟という位置づけだったそうです。加えて、城山三郎さん(小説家。2007年(平成19年)79歳没)が、川上宗薫さんに、きみはいい小説を書いていたのに、残念だみたいなことを話されています。
癌で亡くなりましたが、半世紀前ぐらいは、癌の宣告は、死の宣告であり、当時の川上宗薫さんには癌の告知がなされていません。本人への病名は、食道潰瘍(しょくどうかいよう)です。
いろいろ、濃厚な話が書いてあります。
鎧袖一触(がいしゅういっしょく):鎧(よろい)の袖(そで)で、ちょっと触れただけで、敵をやっつけること。
人間のいいかげんさ、人間の不思議さ、そんな話が書いてあります。
おざなり:いいかげん
女遊びを続けていた川上宗薫さんは、仲間内ではとても好かれていた人間だったそうです。
とにかくおもしろい人だった。(そんな人も、今はもうこの世にいません)
「北杜夫(きた・もりお) 作家、精神科医 2011年(平成23年) 84歳没」
変人だったそうです。(わたしは高校生のころ、この方の本をよく読みました。『楡家の人々(にれけのひとびと』が面白おかしく楽しかった)
精神科医なのに、ご自身が躁うつ病で、ご家族がたいへんな迷惑被害にあわれました。
端倪(たんげい)すべからざる:物事の成り行きを予想できないこと
衒い(てらい):自分の能力を言葉にちらつかせること
同人誌:同じ志(こころざし)の人たちがお金を出しあってつくる本
佐藤愛子さんにとっては、賢い兄が、「遠藤周作さん。同じ年生まれですが、遠藤さんのほうが生まれ月が早い」で、愚かな(おろかな)弟が、「川上宗薫さん。1歳年下」と「北杜夫(きた・もりお)さん。4歳年下」さんだそうです。
エンゼン(艶然):美しい女性がにっこりと笑う
嗟嘆(さたん):感心してほめること
「中山あい子 詩人、作詞家、作家 2000年(平成12年)78歳没」
大人物だった。(すぐれた偉人)
世の中には、「どうでもいいこと」がたくさんあって、でも、凡人は、「どうでもいいこと」を気にして気楽に生きられないけれど、 中山あい子さんは、何にでも「ガッハッハ」と笑ってこだわらない人だった。
大吾(だいご)の人:迷いを捨て、悟りきった人(さとり:心理を会得する。えとく:理解して自分のものにする)
「人間も死んだらゴミだ」の記述部分がおもしろかった。
邦画、「プラン75」では、75歳になった希望者には、日本政府の施策で、安楽死と丁重な弔い(とむらい)が保証されるのですが、実は、ゴミ焼却場で焼かれて終わりなのです。
わたしは抵抗感をもって、その映画を観たのですが、中山あい子さんは、人間、死んだらゴミだから自分は葬式はいらないとして、「献体(解剖して医学や医師、医師見習いの役に立つ)」を申し込んで、そのようになさったのです。物は考えようです。死んだら、本人の魂は、借り物の体には宿っていないのです。中山あい子さんは、大人物です。
『第5章 物書きの境地』
佐藤愛子さんが小説家になったいきさつについて、時代を追って記述されています。それなりのご苦労が合って、長年の執筆継続があって、ようやく作家として独り立ちされています。
最初のご主人との間にこどもさんがふたり。(夫死亡後、夫の実家が引き取った)
二度目のご主人との間にこどもさんがひとりおられます。
いろいろたいへんなことを体験されています。なんだか、今春始まったNHK朝ドラ、『あんぱん』に出てくるこどもさんの母親みたいです。(実母の方は、やなせたかしさんと弟を親戚に渡して、ご自分は再婚されています)
佐藤愛子さんのことです。
我儘者(わがままもの)です。
世間の常識からはずれた言動をします。(父親の佐藤紅緑さんと似ているそうです)
「小説を書く人間はみなおかしい」という理屈から、若い頃の佐藤愛子さんは、自分がやれる職業は、小説家しかないと断定します。
生きるよすが:よりどころ、方法、頼り
「男に扶養されて暮らす生活」をつまらない人生だと考える。
曙光(しょこう):夜明けに差してくる太陽の光
吉川英治:小説家。1962年(昭和37年)70歳没
だいじなことは、人から何を言われても書き続けること。
能力的に、自分は文章を書くことで生計を立てることしかできないと思い込んでおられました。
書き始めて20年目、1969年(昭和44年)にようやく、作品、『戦いすんで日が暮れて』で、直木賞を受賞されています。
『九十歳。何がめでたい 小学館』
本は読みました。映画は先日動画配信サービスで観ました。そのうち感想をアップします。
エッセイを映画化してあります。
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず 小学館』
読んだことがあります。エッセイ集です。
気楽に読める本です。
著者が転倒したシーンの記述には臨場感があります。(読者がその場にいる感じ)
助けを呼んで、来てくれる人がいるうち(家)はいい。ひとり暮らしや複数で暮らしていてもひとりのような生活の人もいます。
人の寿命は人それぞれです。本を読みながら、残された時間をどのように過ごそうかと考える読書でした。
インタビューの章が3章、そのほか2章(親族、友人、関係者のこと、そして作品のこと、過去の手記)、合計5章のレイアウト(配置)です。
著者は101歳になられたそうです。長生きです。執筆はもう能力的に無理だそうです。
インタビューです。よくおしゃべりされたそうです。
人に相手してもらうことが嬉しそうだったそうです。
わたしが高校生ぐらいのころに、佐藤愛子さんと遠藤周作さんと北杜夫(きた・もりお)さんの三人さんが対談されたテレビ番組を観たような記憶があります。仲良し三人組に見えました。たしか、『すばらしき仲間』というタイトルの対談番組でした。
遠藤周作さん(1996年(平成8年)73歳没)、北杜夫さん(2011年(平成23年)84歳没)です。
佐藤愛子さんは、1923年(大正12年)生まれ現在101歳です。本には、『百嫗(ひゃくおうな)』と書いてあります。嫗(おうな):歳をとった女性
佐藤愛子さんのお兄さんであるサトウハチローさんの歌はこどものころからよく聴きました。(1973年(昭和48年)70歳没)
自分が若い頃に読んでいた本の作者さんは、もう五木寛之さんぐらいが存命なぐらいです。(1932年(昭和7年)生まれ92歳)。
同じ時代を過ごした人たちが、ひとりふたりと姿を消していく。(亡くなっていく)
けっこうなプレッシャーがあります。(精神的な圧力)
わたしのまわりでも、たくさんの人たちがいなくなりました。
いろいろと思うところはあります。
きれいごとばかりではありません。
お互いにケンカするような、それなりの対立もありました。
されど、対立した者たち同士、どちらもすでにこの世にはおられません。
あの対立はなんだったのだろうかとふりかえることがあります。
最後はみんな消えてなくなるのなら対立などしなければいいのに……
この本のタイトルについて考えました。『老いはヤケクソ』というタイトルです。老いて、新しいことをやることもなし。やりたくても、思うように自分の心身が動いてくれないということはあります。
ゆえに、こちらの本のタイトル、『老いはヤケクソ』なのか。
人間死ぬのもたいへんです。なかなか死ねません。お迎えが来るまで、生きるのです。生きているのではなく、まだ死んでいないだけだという状態が続きます。
ときおり、高齢者施設で働いている方のブログを読むのですが、入所者のみなさんの頭の中が壊れています。若い頃はきっと、バリバリと仕事をしたり、家事をしたりされた、しっかり者だった人たちもおられると思います。でも今は、ご本人の言動がおかしいのです。
不謹慎かもしれませんが、(ふきんしん:無礼(ぶれい)、失礼(しつれい))長命な人のめんどうをみている子や孫はふと思うのです。『どうしてまだ生きているのだろう……(もう、(たいていは)彼女と同時代に生きていた人たちはこの世からいなくなったのに)』
長生きするとはどういうことなのだろうかという疑問をもちながら、この本を読むと何かわかるという手がかりがあるかもしれないという気持ちで読み始めるのです。
『「はじめ」に代えて 杉山桃子(佐藤愛子さんの孫)』
認知機能の衰えがあるものの、今回の本づくりのインタビューでは、ご本人は、うれしそうだったそうです。
『目次を見ながら考えたこと』
「映画は創作のストーリー」(どういう意味だろう)
「我慢しない」が信条(佐藤愛子さんは、我慢することを強いられた(しいられた)世代です。戦争体験者です)
「本当に強いのはお金やモノに執着しない人」(執着する人は多い)
『100歳インタビューについて 山田泰生(やまだ・やすお。新聞記者)』
歳をとることは、もはや「ヤケクソ」だそうです。
自分なりに素直に考えると、自分よりも先に配偶者が亡くなったらかなりショックです。
こどもたちが自分より先に亡くなったら、そんなばかなという気持ちになります。
友人たちが亡くなると、ああ、あいつも逝った(いった)かと思います。
もう自分たちの時代は終わりを告げたとあきらめもつきます。
されど、それでもまだ自分が生きていたら、猛烈な孤独感が襲ってきます。どうすることもできません。長い時間を与えられても、本を読むことも映像を見ることも飽きてしまいそうです。
『第1章 「百嫗(ひゃくおうな)」の心境 100歳インタビュー①』
耳が遠くなった。
世間から隔絶された小島で暮らしているような感じがしておられるそうです。
自分は101歳になった。自分がまだ小さかったころの記憶は、100年前ぐらいの出来事であると語られています。今を生きながら、100年前の記憶をたどるのです。
きんさん、ぎんさんの話が出ます。わたしが、30代のころのお話です。1991年(平成3年)にNHKで紹介されました。愛知県名古屋に住むふたごのご長寿の姉妹さんでした。おしゃべりじょうずなおもしろい方たちでした。
以下、佐藤愛子さんについてです。
長生きすればするほど、友だちがどんどんいなくなる。
親きょうだいもいなくなる。
同じ時代をいっしょにすごした相棒たちがいなくなる。同級生はもうひとりもいない。
愛犬も先に逝ってしまった。(いってしまった。天国へ召された)
そんな嘆きがあります。なげき:悲しみ
人と話をすることは好き。だから、今回のインタビューのことも好き。
映画、『九十歳。何がめでたい』を冒頭30分見たけれど、あまり覚えていない。
映画製作のことが少し書いてあります。
(そうなのかと驚くことが書いてありました)
医者嫌い。40代から医者にかかっていなかった。90代までは、病院なんて行ったことがなかった。
40代からなじみの整体に行っていた。それで、十分体調管理ができていた。
今は一日ぼんやり椅子に座って庭をながめている。
『第2章 老いはヤケクソ 100歳インタビュー②』
<みんなヤケクソで老いていっている>
真面目に老いていたらやれきれない気持ちになるそうです。やりきれない:気持ちがおさまらない。辛抱できない。
ヤケクソになれば楽ではあるが、端然(たんぜん)とはしていたい。たんぜん:正しく整っているようす。きちんとしている。規則正しく淡々と暮らしながらその時を待つ(あの世への旅立ち)
世代的に、戦争の話が出ます。戦争体験者の世代です。
戦時中は食べるものがなかった。食べるものの種類にこだわる気持ちはない。
肉は好き。魚は白身がいい。そのほかは何も気にしない。
朝昼兼用の食事をする。娘や孫が用意してくれる。毎回同じものを食べる。こだわりはない。同じものでいい。
新聞は、朝日新聞と産経新聞を読む。本は読まない。インターネットはわからない。(わたし(熊太郎)は、数年前から新聞は読まなくなりました。不自由はありません。新聞はとっています。家族が読んでいます。なんというか、読まなくても、何がどんなふうに書いてあるか想像できるのです。毎年、同じような時期に同じようなニュースが掲載されます。新聞製作の事前準備として、これから先、1年分の事前原稿の下地(したじ)が用意されているのではないかと思うときもありました)
佐藤愛子さんは、携帯電話は持っているが使っていない。家ではいまだに、ダイヤル式の電話を使っている。(わたしのまわりでも、ダイヤル式の加入電話を今も使用している友人や親族がいます)
テレビはつけっぱなしにしてある。見ているようで見ていない。記憶力がなくなり、聞いても記憶が残らない。
お金について:プライドを捨てればお金は稼げる(かせげる)。プライドが捨てられないからお金を稼げない。
父佐藤紅緑(さとう・こうろく)は、75歳で亡くなった。(数え年だと思います。実際は74歳)。兄サトウハチローは、70歳で亡くなった。
結婚は二度したけれど、恵まれなかった。最初の夫は(昭和18年(1943年)結婚。夫は、昭和26年(1951年)病死)、夫は、戦地から帰ってきたが、モルヒネ中毒になっていた。(腸の病気の痛み止めとしてモルヒネ(痛み止め)を使用していた)。
二度目の夫は、借金が理由で偽装離婚をしたが、元夫は、その後、なんと別の女と婚姻届を出した。知識がなかったので、夫の借金を佐藤愛子さんが肩代わりして返済した。のちに、法人の負債の場合、社長の妻に借金返済の義務はないと言われたそうです。されど、そのことを題材にして出した小説、『戦いすんで日が暮れて』が直木賞を受賞して、大ヒットしたそうです。
『第3章 「我慢しない」が信条100歳インタビュー③』
歳をとって、老化によって、目が悪い、耳が聞こえない。
なんだか、どうでもよくなる。
外出はほとんどしない。
女にとって、結婚は、がまんするという意味だそうです。がまんができないなら離婚です。
長生きしたいと思っていなかったのに、長生きをしている。
苦界(くがい):遊女の境遇
お金に対する執着心はない。損得にも興味はない。
父親の教えで、損得を考えなくなった。
父の教えだと、損得にこだわるのは下衆(げす。心が卑しい人(いやしい人)。身分がとても低い人)がすることだそうです。
だまされたっていい。人生なんてたいしたもんじゃない。そんなふうに書いてあります。すごいなあ。
恬淡(てんたん):あっさりした人。名誉や利益に執着しない。
死に方を自分で選ぶなんてぜいたく。戦争で命を落としていった若い人たちのことを思うと申し訳なくなる。
テレビ番組、『徹子の部屋』から出演依頼がたびたびくるけれど断っている。耄碌した姿を見られたくない。耄碌(もうろく):老いぼれた。
101歳の自分に、未来というものはない。
死ぬのは、こわくもないし、嫌という気持ちもない。
『第4章 愛すべき家族と相棒たち』
この部分は過去の手記です。
知っている人たちが自分よりも先に亡くなっていった。
なんともいえない寂しさ(さびしさ)がある。
もう一度会いたい人たちがいる。
でも、もう誰もいない。
「父 佐藤紅緑(さとう・こうろく) 小説家、劇作家、俳人 1949年(昭和24年)74歳没
頑固おやじだったそうです。窮屈なことがキライな自由人だったと読み取れます。ご本人は、だらしがなかった。
コハゼ:足袋(たび)にある金属の留め具(とめぐ)
慨歎(がいたん):気が高ぶるほど嘆いて心配すること。
気韻(きいん):気品の高い趣(おもむき)
冒瀆(ぼうとく):神聖なものや清らかなものを汚すこと。(けがすこと)
佐藤愛子さんは、父の佐藤紅緑さんの血筋を引いて性格が父親によく似ているそうです。
「母 三笠万里子 舞台女優 1972年(昭和47年)78歳没」
夫婦ゲンカが多かったそうです。父は、感情家で、母は、理性的な人間だった。母のくちぐせは、ものごとを大局的に見る。客観性を重視する。
性格は異なるふたりだったが、コンビとしてはいい具合だったようです。
佐藤愛子さんは母親とよくケンカをしたが、母親を尊敬もしておられます。
「兄 サトウハチロー 詩人、作詞家、作家 1973年(昭和48年)70歳没
わたしは、中学生のころ、作詞された歌詞や母親を思う詩などから、サトウハチローさんは心優しい人で人格者だと思っていましたが、その後、現実のことが書いてある書物などを読んで、本当は自分が思っていたイメージとはぜんぜん違う人だということがわかりショックを受けました。
こちらの本では、『不良セガレ』と書いてあります。
同様に、詩集、『一握の砂(いちあくのすな)』を出された石川啄木さんも、のちに、けっこういいかげんな人だったことを知り、おとなになってから残念な気持ちになりました。
芸術家のみなさんたちは、屈折した心理をおもちです。言っていることとやっていることが正反対だったりもするのです。なんだか、じょうずに人をだました人がお金持ちになるような気がするのです。受け手である自分は賢くならねば(かしこくならねば)だまされてしまうと警戒するのです。
作者と作品は別物と考えたほうがいい。作品は、作品として世に出た瞬間に作者の手元を離れて、受け手の解釈で理解されるのです。
佐藤愛子さんは、平穏無事な家庭環境で育った人ではありません。
また、平穏無事な人生を送られた人でもありません。
むしろ、攻撃的な人生でした。荒波の中を突き進んできた人です。
サトウハチローさんは、佐藤愛子さんよりも20歳も年上の兄です。(異母兄)
佐藤愛子さんには4人の兄がいた。
4人とも不良だった。長兄のサトウハチローさんが、一番の大不良だった。
されど、不良に寛大な世の中だった。(戦前の頃)
青春とは無軌道なもの。いけないとわかっていてもやる。やってしまうのが青春だ。無軌道は一過性のもので、青春を通過して人はおとなになる。厳しい対応だけでは、若い者の気持ちは育たないというような意味合いの文章が書いてあります。
放恣(ほうし):勝手気ままで節度がないこと
大切なことは、『大きく理解する心』
鵠沼(くげぬま):神奈川県藤沢市南部の海岸中央部
「乳母(うば):ばあや」
佐藤愛子さんが6歳ぐらいのとき世話になっていたばあやのことが書いてあります。
佐藤愛子さんは、実母よりもばあやが好きだったそうです。
ばあやのお乳を飲んで育ったそうです。
(なんだか、太宰治さんと似ています。太宰治さんも自分の子守りをしてくれた越野タケさんを慕っておられました)
佐藤愛子さんは、ばあやから、『……この世にはイヤでもどうしてもせんならんことがおますんや』ということを学んでいます。
やりたいことはやって、やりたくないことはやらないのは、こどもです。やりたくなくても、やらねばならないことはやるのがおとなです。
「夫 田畑麦彦 小説家、劇作家、俳人 2008年(平成20年)80歳没」
二人目のご主人です。事業の失敗で偽装離婚後、佐藤愛子さんの知らぬ間に、ほかの女性と入籍されています。
シームレス:継ぎ目がない衣類
正鵠(せいこく):物事の一番大切なポイント
読んでいて思うのは、佐藤愛子さんの歴史であり、日本文学界の歴史です。
借金の額は、3000万円ぐらい。(1967年頃。昭和42年頃)(ちょっと記述内容が変化していくのですが、このあとにある138ページと142ページには、2億円と書いてあります。現代の金額に置き換えてあるのだろうか)
「師:吉田一穂(よしだ・いっすい 男性) 詩人、評論家、童話作家 1973年(昭和48年)74歳没」
佐藤愛子さんが出会えて良かった人のおひとりです。
吉田さんのおかげで、自分は挫折せず、希望を失うことなく今まで生きてくることができたそうです。
吉田さんは、単純な人だった。美しいものは、美しいといい、美しくないものは、美しくないと言う人だった。
いつも自分を力づけてくれる人だった。むずかしいところもあったけれど、心の優しい人だったそうです。
「師:臼井栄子(うすい・えいこ) 整体指導者 2005年(平成17年)91歳没」
苦しいことから逃げようとするとますます苦しくなる。逃げないで、苦しいことの中に居座るとらくになる」ということを教えてくださったそうです。
佐藤愛子さんの恩人です。
(読みながら思うのは、もうみなさん亡くなっているということです。しみじみくるものがあります。自分を助けてくれる人がいないと人は生きられません)
「遠藤周作 作家 1996年(平成8年)73歳没」
いたずら好きな人だったそうです。人を笑わせることが好きな人だったそうです。
読みながら思うのは、なんというか、人はみなそれぞれ個性的なのです。画一的にこの人は、こういう人という評価なり、分析なりはしにくいのです。評価をしてもしょうがないという気持ちにもなります。もう、みなさん、この世の人ではありません。今生きている人たちも、いずれこの世の人ではなくなります。
遠藤周作さんがやった、佐藤愛子さんの娘さんの結婚式での祝辞がとてもおもしろい。笑いました。
「小説を書く人間はみな、おかしな人であります」(たしかに。この本を読んでいると納得します)
「川上宗薫(かわかみ・そうくん 本名の読みは、「むねしげ」さんだそうです 1985年(昭和60年)61歳没)
この部分の記述は長かった。それだけ、佐藤愛子さんに思い入れがある方です。
まだ、わたしが高校生ぐらいだった頃の川上宗薫さんは、男女のからみである情事を文章でねちっこく表現するポルノのようなエロい文章を週刊誌などに書いておられました。あまり好感をもたれるような人物ではなかったような印象が自分にあります。
されど、人間というのはわからないものです。川上宗薫さんは佐藤愛子さんの心の支えになっておられます。お互いに男女の恋愛関係はなく、親友、(愛子さんから見て)自分の弟という位置づけだったそうです。加えて、城山三郎さん(小説家。2007年(平成19年)79歳没)が、川上宗薫さんに、きみはいい小説を書いていたのに、残念だみたいなことを話されています。
癌で亡くなりましたが、半世紀前ぐらいは、癌の宣告は、死の宣告であり、当時の川上宗薫さんには癌の告知がなされていません。本人への病名は、食道潰瘍(しょくどうかいよう)です。
いろいろ、濃厚な話が書いてあります。
鎧袖一触(がいしゅういっしょく):鎧(よろい)の袖(そで)で、ちょっと触れただけで、敵をやっつけること。
人間のいいかげんさ、人間の不思議さ、そんな話が書いてあります。
おざなり:いいかげん
女遊びを続けていた川上宗薫さんは、仲間内ではとても好かれていた人間だったそうです。
とにかくおもしろい人だった。(そんな人も、今はもうこの世にいません)
「北杜夫(きた・もりお) 作家、精神科医 2011年(平成23年) 84歳没」
変人だったそうです。(わたしは高校生のころ、この方の本をよく読みました。『楡家の人々(にれけのひとびと』が面白おかしく楽しかった)
精神科医なのに、ご自身が躁うつ病で、ご家族がたいへんな迷惑被害にあわれました。
端倪(たんげい)すべからざる:物事の成り行きを予想できないこと
衒い(てらい):自分の能力を言葉にちらつかせること
同人誌:同じ志(こころざし)の人たちがお金を出しあってつくる本
佐藤愛子さんにとっては、賢い兄が、「遠藤周作さん。同じ年生まれですが、遠藤さんのほうが生まれ月が早い」で、愚かな(おろかな)弟が、「川上宗薫さん。1歳年下」と「北杜夫(きた・もりお)さん。4歳年下」さんだそうです。
エンゼン(艶然):美しい女性がにっこりと笑う
嗟嘆(さたん):感心してほめること
「中山あい子 詩人、作詞家、作家 2000年(平成12年)78歳没」
大人物だった。(すぐれた偉人)
世の中には、「どうでもいいこと」がたくさんあって、でも、凡人は、「どうでもいいこと」を気にして気楽に生きられないけれど、 中山あい子さんは、何にでも「ガッハッハ」と笑ってこだわらない人だった。
大吾(だいご)の人:迷いを捨て、悟りきった人(さとり:心理を会得する。えとく:理解して自分のものにする)
「人間も死んだらゴミだ」の記述部分がおもしろかった。
邦画、「プラン75」では、75歳になった希望者には、日本政府の施策で、安楽死と丁重な弔い(とむらい)が保証されるのですが、実は、ゴミ焼却場で焼かれて終わりなのです。
わたしは抵抗感をもって、その映画を観たのですが、中山あい子さんは、人間、死んだらゴミだから自分は葬式はいらないとして、「献体(解剖して医学や医師、医師見習いの役に立つ)」を申し込んで、そのようになさったのです。物は考えようです。死んだら、本人の魂は、借り物の体には宿っていないのです。中山あい子さんは、大人物です。
『第5章 物書きの境地』
佐藤愛子さんが小説家になったいきさつについて、時代を追って記述されています。それなりのご苦労が合って、長年の執筆継続があって、ようやく作家として独り立ちされています。
最初のご主人との間にこどもさんがふたり。(夫死亡後、夫の実家が引き取った)
二度目のご主人との間にこどもさんがひとりおられます。
いろいろたいへんなことを体験されています。なんだか、今春始まったNHK朝ドラ、『あんぱん』に出てくるこどもさんの母親みたいです。(実母の方は、やなせたかしさんと弟を親戚に渡して、ご自分は再婚されています)
佐藤愛子さんのことです。
我儘者(わがままもの)です。
世間の常識からはずれた言動をします。(父親の佐藤紅緑さんと似ているそうです)
「小説を書く人間はみなおかしい」という理屈から、若い頃の佐藤愛子さんは、自分がやれる職業は、小説家しかないと断定します。
生きるよすが:よりどころ、方法、頼り
「男に扶養されて暮らす生活」をつまらない人生だと考える。
曙光(しょこう):夜明けに差してくる太陽の光
吉川英治:小説家。1962年(昭和37年)70歳没
だいじなことは、人から何を言われても書き続けること。
能力的に、自分は文章を書くことで生計を立てることしかできないと思い込んでおられました。
書き始めて20年目、1969年(昭和44年)にようやく、作品、『戦いすんで日が暮れて』で、直木賞を受賞されています。
『九十歳。何がめでたい 小学館』
本は読みました。映画は先日動画配信サービスで観ました。そのうち感想をアップします。
エッセイを映画化してあります。
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず 小学館』
読んだことがあります。エッセイ集です。
気楽に読める本です。
著者が転倒したシーンの記述には臨場感があります。(読者がその場にいる感じ)
助けを呼んで、来てくれる人がいるうち(家)はいい。ひとり暮らしや複数で暮らしていてもひとりのような生活の人もいます。
人の寿命は人それぞれです。本を読みながら、残された時間をどのように過ごそうかと考える読書でした。
2025年04月14日
ザイム真理教 森永卓郎
ザイム真理教 それは信者8000万人の巨大カルト 森永卓郎(もりなが・たくろう) 発行:三五館シンシャ 発売:フォレスト出版
『ザイム真理教』という言葉は、『財務省』と、『オウム真理教』を合体させた造語なのでしょう。
著者は、癌で亡くなってしまいました。
著者は亡くなっても、本は残ります。そして、本は、読まれ続けます。
もう終了してしまいましたが、NHKドラマ10、『東京サラダボウル』では、自殺して亡くなったという刑事が、この世に、『カケラ』を残します。事件の犯人を追い詰めるための証拠となるSDカードが、ジッポーのライターの中に隠してありました。SDカードは発見されて、犯人(警察官)を追い詰めるための証拠としての力を発揮しました。
こちらの本も、それぐらいの強い意思がこめられた本なのでしょう。人は死んでも本は残ります。
全体で190ページあります。これだけの文章量を書ける能力に感服します。かんぷく:感心して説得させられる面がある。
本は、2023年(令和5年)に発行されて、2025年(令和7年)で32刷されています。よく売れている本です。著者は、2025年(令和7年)1月に病死されています。67歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます
カルト集団:特定の教祖を熱狂的に信じる集団。被害者が出ます。
現在の日本経済のありようについては、失望しかありません。
これから先、日本の経済は衰退していくという暗い見通ししかありません。
日本社会のようすとして、みんながみんな貧しくなるのではなく、格差社会です。富める人は富み、そうでない人は生活苦を感じながら日々を送るのです。
国に頼れないから、個人で対策・対応を考えます。
そのヒントをこの本は与えてくれるのではないかという期待をもって読み始めます。
『第1章 ザイム真理教の誕生』
現在の財務省の前身である大蔵省のことが書いてあります。
主従関係、隷属関係で成り立っていた組織とあります。
下部組織は、絶対服従だったそうです。民主主義国家ではありませぬな。
ひどい話がいろいろ書いてあります。
異常で異様な世界です。
国の組織だけではなくて、都道府県・指定都市、市町村の組織も似たり寄ったりなのではないかと想像は広がります。
接待で、物事が決まります。官民間の接待関係もあるのでしょうが、本では主に、官官接待について書いてあります。接待費の原資は税金です。予算化されたお金を接待に使います。交際費なのでしょう。組織で働く人たちは、人のお金で飲み食いする人たちです。(ひどい)。
ただ、それで、得をする人たちもいます。
『第2章 宗教とカルトの違い』
「日本史」の話があります。
鎌倉時代に誕生した、『宗教』の話です。
うそだとわかっていて、うそをつく。うそをつくことで、庶民の苦痛をやわらげることができる。念仏をとなえれば、極楽浄土へいける。
じっさいは、人が死んだら、『無』になるだけで、極楽浄土や天国などにいけるはずもない。あの世なんて存在しない。宗教で描かれている世界観は、『虚構』だ。苦しむ庶民を救うためには、うそを信じさせてもかまわない。そんな話が書いてあります。
信仰心をもたせるための手法です。
『こういう行動をすれば、幸せになれる。天国に行ける』
『こうしなかったら、不幸になる。地獄に堕ちる』
カルト:あなたには悪霊がついている。あなたは原罪をかかえている。不安をあおり、恐怖心を与えて、マインドコントロール(思考をあやつる。洗脳する)する。
洗脳の手法として、「不退去」「退去妨害」「威圧」「模擬恋愛による心理誘導」「霊感商法」など。
信者からお金を吸い上げる。(少額なら問題にならないが、大金になると殺人事件が起きたりもする)
ディズニーランドの話、仲良しサークルのような財務省の中の雰囲気について書いてあります。その箱(組織)の中だけで通用する文化があります。
『第3章 事実と異なる神話を作る』
(なかなか厳しい領域に言葉を突っ込む内容になっています)
経済に関する記述は、一度読んだだけではわたしにはわかりません。
あとは、もう、終わったことなのだなあという本の内容です。
いろいろと、すったもんだがありました。
これからもあるのでしょうが、読んでいると、本当の情報はどこにあるのだろうかと疑心暗鬼(ぎしんあんき。疑り深くなる(うたぐりぶかくなる)。不安になる)のです。
財務省の説明には、意図的な意識の操作がある。(それが、著者がいうところの、『洗脳』なのでしょう)
財務省が国民に言うところの、『日本は少子高齢化で、社会保障費が必要だから消費税を増税しないと国家予算が破たんする。』(などということはないという解説と記述が続きます。そうなのかと、納得できそうな記述です。数値の解釈、表示に、いろんなからくりがあります)
アベノミクスの成否についても書いてあります。
小泉政権下での非正規雇用の増加についてのコメントもあります。
『第4章 アベノミクスはなぜ失敗したのか』
消費税の引き上げで、うまくいかなくなったと記述があります。
読んでいるとなるほどと思えます。
お国のいうことに従っていれば、平穏無事に暮らせると、従順にしている国民は案外、権力者たちにじょうずに利用されているのではないかという暗い気持ちになります。
一部の富裕層と、多数のそうではない層ができあがって、二極化して、中間層が薄くなっているようです。
たとえば、消費税率を下げるとか、なくすとかすると、景気は活発になるのでしょう。(勇気がいりますが……)
コロナ対策のことも書いてあります。(正直、ひどかった)
学校を全校休みにしました。全国民にマスクを配布したことなど、いくつか例示されています。
日本国民は従順でおとなしいことを利用して、やらなくてもいいことまでやったのです。
うそがあった森友学園のことも書いてあります。公文書の内容の改ざんを組織の上層部がやるなんて信じられません。指導する立場の人たちです。頭がおかしい。国と国民との信頼関係は終わりです。
形だけを整えるという政治手法、行政手法です。(これから先、日本はどうなるのだろう。不安な気持ちが広がります)
『第5章 信者の人権と生活を破壊する』
<宗教はウソをつくが、そのウソは信者に希望を与える……>
<ザイム真理教は、信者(国民)に国家が財政破たんするという恐怖心を植え付け、増税を繰り返して国民の生活を破壊する>そんなことが書いてあります。う~む。警戒しなければ。
読んでいて思うのは、あまりにも大きい組織に、一個人(いちこじん)は向かっていけない。
なるようにしかならないこの世間の波を渡っていくためには、一個人として、たくましく生きていく。自分の方針をもって、自分を信じてやっていく。国という組織を頼らない。自立、自活するという思いです。
日本経済が、平成時代の30年間、成長できなかった理由です。
『急激な増税と社会保険料アップで手取り収入が減ってしまったから』(たしかに、低賃金が続きました。物価も安物販売で定着しました)
『第6章 教祖と幹部の豪華な生活』
国家公務員の天下りの、「けしからんさ(常識外れ、道徳はずれ)」について書いてあります。
定年退職をして退職金を受け取る。天下り先の企業を退職して、退職金を受け取る。ぼろもうけです。
『第7章 強力サポーターと親衛隊』
みんなグル(わるい仲間)なのです。
大手新聞社は、ザイム真理教の味方としての関係者なのです。
表面上は、対立関係に見えても、裏では握手しているのです。
相互に、利益をワケワケしているのです。
大手新聞社は、財務省に忖度(そんたく。意図的に協力する。思いやる)した記事を書く。
「それで何が悪い」という意識があります。自分たちが良ければそれで良しです。
富裕層は、財務省の味方とあります。
税金面での考察があります。読んでいて、なるほどと思います。
『第8章 岸田政権は財務省の傀儡(かいらい。あやつり人形、手先(てさき))となった』
それでも、日本人は、ザイム真理教を信じ続けるのだろうかという問題提起があります。
『あとがき』
ある国会議員が、将来の消費税の税率は、25%ぐらいになると答えています。(著者は、いずれ国民生活は破たんすると決めつけています)
まるで、著者の遺言のような本でした。
今の政府のやりかただと、国民は、死ぬまで働いて、税金と社会保険料を払い続けろ。働けなくなったら死んでしまえというものだと書いてあります。
今年夏の参議院選挙は荒れそうです。
『ザイム真理教』という言葉は、『財務省』と、『オウム真理教』を合体させた造語なのでしょう。
著者は、癌で亡くなってしまいました。
著者は亡くなっても、本は残ります。そして、本は、読まれ続けます。
もう終了してしまいましたが、NHKドラマ10、『東京サラダボウル』では、自殺して亡くなったという刑事が、この世に、『カケラ』を残します。事件の犯人を追い詰めるための証拠となるSDカードが、ジッポーのライターの中に隠してありました。SDカードは発見されて、犯人(警察官)を追い詰めるための証拠としての力を発揮しました。
こちらの本も、それぐらいの強い意思がこめられた本なのでしょう。人は死んでも本は残ります。
全体で190ページあります。これだけの文章量を書ける能力に感服します。かんぷく:感心して説得させられる面がある。
本は、2023年(令和5年)に発行されて、2025年(令和7年)で32刷されています。よく売れている本です。著者は、2025年(令和7年)1月に病死されています。67歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます
カルト集団:特定の教祖を熱狂的に信じる集団。被害者が出ます。
現在の日本経済のありようについては、失望しかありません。
これから先、日本の経済は衰退していくという暗い見通ししかありません。
日本社会のようすとして、みんながみんな貧しくなるのではなく、格差社会です。富める人は富み、そうでない人は生活苦を感じながら日々を送るのです。
国に頼れないから、個人で対策・対応を考えます。
そのヒントをこの本は与えてくれるのではないかという期待をもって読み始めます。
『第1章 ザイム真理教の誕生』
現在の財務省の前身である大蔵省のことが書いてあります。
主従関係、隷属関係で成り立っていた組織とあります。
下部組織は、絶対服従だったそうです。民主主義国家ではありませぬな。
ひどい話がいろいろ書いてあります。
異常で異様な世界です。
国の組織だけではなくて、都道府県・指定都市、市町村の組織も似たり寄ったりなのではないかと想像は広がります。
接待で、物事が決まります。官民間の接待関係もあるのでしょうが、本では主に、官官接待について書いてあります。接待費の原資は税金です。予算化されたお金を接待に使います。交際費なのでしょう。組織で働く人たちは、人のお金で飲み食いする人たちです。(ひどい)。
ただ、それで、得をする人たちもいます。
『第2章 宗教とカルトの違い』
「日本史」の話があります。
鎌倉時代に誕生した、『宗教』の話です。
うそだとわかっていて、うそをつく。うそをつくことで、庶民の苦痛をやわらげることができる。念仏をとなえれば、極楽浄土へいける。
じっさいは、人が死んだら、『無』になるだけで、極楽浄土や天国などにいけるはずもない。あの世なんて存在しない。宗教で描かれている世界観は、『虚構』だ。苦しむ庶民を救うためには、うそを信じさせてもかまわない。そんな話が書いてあります。
信仰心をもたせるための手法です。
『こういう行動をすれば、幸せになれる。天国に行ける』
『こうしなかったら、不幸になる。地獄に堕ちる』
カルト:あなたには悪霊がついている。あなたは原罪をかかえている。不安をあおり、恐怖心を与えて、マインドコントロール(思考をあやつる。洗脳する)する。
洗脳の手法として、「不退去」「退去妨害」「威圧」「模擬恋愛による心理誘導」「霊感商法」など。
信者からお金を吸い上げる。(少額なら問題にならないが、大金になると殺人事件が起きたりもする)
ディズニーランドの話、仲良しサークルのような財務省の中の雰囲気について書いてあります。その箱(組織)の中だけで通用する文化があります。
『第3章 事実と異なる神話を作る』
(なかなか厳しい領域に言葉を突っ込む内容になっています)
経済に関する記述は、一度読んだだけではわたしにはわかりません。
あとは、もう、終わったことなのだなあという本の内容です。
いろいろと、すったもんだがありました。
これからもあるのでしょうが、読んでいると、本当の情報はどこにあるのだろうかと疑心暗鬼(ぎしんあんき。疑り深くなる(うたぐりぶかくなる)。不安になる)のです。
財務省の説明には、意図的な意識の操作がある。(それが、著者がいうところの、『洗脳』なのでしょう)
財務省が国民に言うところの、『日本は少子高齢化で、社会保障費が必要だから消費税を増税しないと国家予算が破たんする。』(などということはないという解説と記述が続きます。そうなのかと、納得できそうな記述です。数値の解釈、表示に、いろんなからくりがあります)
アベノミクスの成否についても書いてあります。
小泉政権下での非正規雇用の増加についてのコメントもあります。
『第4章 アベノミクスはなぜ失敗したのか』
消費税の引き上げで、うまくいかなくなったと記述があります。
読んでいるとなるほどと思えます。
お国のいうことに従っていれば、平穏無事に暮らせると、従順にしている国民は案外、権力者たちにじょうずに利用されているのではないかという暗い気持ちになります。
一部の富裕層と、多数のそうではない層ができあがって、二極化して、中間層が薄くなっているようです。
たとえば、消費税率を下げるとか、なくすとかすると、景気は活発になるのでしょう。(勇気がいりますが……)
コロナ対策のことも書いてあります。(正直、ひどかった)
学校を全校休みにしました。全国民にマスクを配布したことなど、いくつか例示されています。
日本国民は従順でおとなしいことを利用して、やらなくてもいいことまでやったのです。
うそがあった森友学園のことも書いてあります。公文書の内容の改ざんを組織の上層部がやるなんて信じられません。指導する立場の人たちです。頭がおかしい。国と国民との信頼関係は終わりです。
形だけを整えるという政治手法、行政手法です。(これから先、日本はどうなるのだろう。不安な気持ちが広がります)
『第5章 信者の人権と生活を破壊する』
<宗教はウソをつくが、そのウソは信者に希望を与える……>
<ザイム真理教は、信者(国民)に国家が財政破たんするという恐怖心を植え付け、増税を繰り返して国民の生活を破壊する>そんなことが書いてあります。う~む。警戒しなければ。
読んでいて思うのは、あまりにも大きい組織に、一個人(いちこじん)は向かっていけない。
なるようにしかならないこの世間の波を渡っていくためには、一個人として、たくましく生きていく。自分の方針をもって、自分を信じてやっていく。国という組織を頼らない。自立、自活するという思いです。
日本経済が、平成時代の30年間、成長できなかった理由です。
『急激な増税と社会保険料アップで手取り収入が減ってしまったから』(たしかに、低賃金が続きました。物価も安物販売で定着しました)
『第6章 教祖と幹部の豪華な生活』
国家公務員の天下りの、「けしからんさ(常識外れ、道徳はずれ)」について書いてあります。
定年退職をして退職金を受け取る。天下り先の企業を退職して、退職金を受け取る。ぼろもうけです。
『第7章 強力サポーターと親衛隊』
みんなグル(わるい仲間)なのです。
大手新聞社は、ザイム真理教の味方としての関係者なのです。
表面上は、対立関係に見えても、裏では握手しているのです。
相互に、利益をワケワケしているのです。
大手新聞社は、財務省に忖度(そんたく。意図的に協力する。思いやる)した記事を書く。
「それで何が悪い」という意識があります。自分たちが良ければそれで良しです。
富裕層は、財務省の味方とあります。
税金面での考察があります。読んでいて、なるほどと思います。
『第8章 岸田政権は財務省の傀儡(かいらい。あやつり人形、手先(てさき))となった』
それでも、日本人は、ザイム真理教を信じ続けるのだろうかという問題提起があります。
『あとがき』
ある国会議員が、将来の消費税の税率は、25%ぐらいになると答えています。(著者は、いずれ国民生活は破たんすると決めつけています)
まるで、著者の遺言のような本でした。
今の政府のやりかただと、国民は、死ぬまで働いて、税金と社会保険料を払い続けろ。働けなくなったら死んでしまえというものだと書いてあります。
今年夏の参議院選挙は荒れそうです。