2024年05月30日
中高年のアイドル綾小路きみまろ爆笑スーパーライブショーを見る
『中高年のアイドル綾小路きみまろ爆笑スーパーライブショー』を見に行く。愛知県半田市雁宿ホール(かりやどホール)
これまでに、本は3冊読んだことがあります。
『老婆は一日にして成らず 綾小路きみまろ PHP研究所』、以下は感想メモの一部です。
書店で思わず手にしてしまいました。文章読みと実際の漫談を聞くのとは違います。文章だと笑いにくいものですが、文章にリズム感があります。半分ほど読んでからYou Tubeを見ました。笑いました。文章どおりの語りが続きます。楽しい。
情熱に圧倒されます。ずば抜けた記憶力と体力、そして努力はたいしたものです。若い人たちには実感がないだろうけれど 老境にさしかかった身としては、話の内容に共感することばかりです。
文章を読みながらでも思わず笑ってしまいます。学習の上積みがあります。歴史、地理、文学などです。芸は完成の域に達しています。
観客は平和な夫婦です。やさしい連れ合いがいます。耐えてきたからこそ今、笑うことができるという人生の経過があります。
『一つ覚えて三つ忘れる中高年 綾小路きみまろ PHP研究所』
真実だから笑うことができます。そして、平和です。
韻(いん)を踏むことが作者の特徴で、たて続けに類似語を並べていき、オチでポンと転換させます。非常にリズミカルです。 作者の身近には、音楽とか川柳があったのでしょう。
長い間夫婦とか家族をやっていると、過去を思い出して、連れ合いとかこどもたちに迷惑をかけてしまってごめんなさいと後悔することが多いのですが、この本は、みんな一緒の行動をしているのだから安堵(あんど)しなさいと慰めてくれます。
『しょせん幸せなんて、自己申告 綾小路きみまろ 朝日新聞出版』
まじめな本でした。今年読んで良かった1冊です。語り口調の文章です。笑いが漏れます。めげないで! という励ましがあります。
作者と類似体験があるので共感できます。
最終学歴は、『自動車学校』だそうです。笑いました。
いつかご本人を観てみたいと思っていました。本読みとか映像ではなく、実際のご本人によるショーを観てみたい。笑えて楽しいだろうなあ。
先日、『徹子の部屋』にゲストで出演されました。鹿児島から出てこられて苦労されています。
自分が住んでいる愛知県内でショーがあることを知りました。
申し込んでチケットを手に入れて観に行ってきました。
愛知県半田市は、『ごん狐(ごんぎつね)』の童話で有名な、児童文学作家である新美南吉さん(にいみ・なんきちさん。1913年(大正2年)-1943年(昭和18年)29歳没)の故郷(ふるさと)でもあります。新美南吉記念館へは、家の車を運転して二度行ったことがあります。
先日の日曜日に、今回は赤い名鉄電車に乗って、夫婦で、『中高年のアイドル綾小路きみまろ爆笑スーパーライブショー』を観に行きました。楽しかったです。とてもおもしろい。笑いました。元気になりました。 行ってよかった。この日はこのあと帰宅して、大相撲の千秋楽をテレビで観戦しました。そちらも良かった。いい日曜日でした。
思い出すままに毒舌漫談(どくぜつまんだん)の感想を並べてみます。
はじめに、綾小路きみまろさんから、このホールでは6年ぶりの公演だと紹介がありました。ふと思ったのは、次回が6年後なら、綾小路きみまろさんは79歳になられる予定です。79歳で全国回りのこの仕事をやれているだろうかと考えると、ちょっと無理かもしれないと思いました。
1時間15分間ぐらい、赤いえんび服(燕尾服。ツバメの尾をしたような上着の正装(せいそう)。格式が高い服装)を着た綾小路きみまろさんが、ステージ上を右に動いたり、左に戻ったりされて、いっときの休憩もなくひとり語りの熱演でした。
綾小路きみまろさんが、ステージ前の座席で1列目から3列目あたりのお客さんたちを徹底的に毒舌(どくぜつ。厳しい悪口。毒をはくような言葉)でいじるのですが、どうもお客さんたちはそのパターンを知っておられるようで、どんなにひどいことを言われても、けしてお怒り(おいかり)にはなりません。むしろ、自分がけなされるようにいじられることを、楽しんでおられるようすでした。お客さんも綾小路きみまろさんも、心が広く、たいしたものです。うしろで見ている大多数の中高年層のお客さんたちは大爆笑でした。
漫談の始まりで、中高年は、おしっこが近いという話をけっこう長い時間帯でされたのですが、漫談が始まって1時間ぐらいして、本当におしっこに立ったステージまんなか近くの座席にいたお客さんがいたのでびっくりしました。それはそれで笑いにつながりました。まあ、なんでもありですな。
腰が曲がった、歩行が不自由な年配女性を何人もお見かけしました。おそらく、娘さんやお嫁さんでしょう、手を引かれてゆっくりと指定席に向かっておられました。漫談の内容と現実が一致するステージなのです。
綾小路きみまろさんは、ステージ上で、中高年の女性の歩き方をマネされます。手をうしろにまわして、バッグを手に下げて、体は前に傾くようにして前方へと歩かれます。おじょうずです。よく観察されています。観客にとても、うけていました。
まあ、下ネタも多い。
頻尿に(ひんにょう)に始まって、おしめ(オムツ)で終わる話の流れでした。老衰で死ぬ寸前には、みな生まれてきた状態に戻るのです。
お客さんを観ての顔いじりは、かなり激しい。
若い時は、若いというだけで、ぴちぴちしてきれいです。歳をとってくると劣化してきます。
その話を聞いていて、人前では口に出せませんが、若い時に見た細くて美しかった女優さんたちが、今はもうすっかり変わって、(体型も太くなって)同じ人とは思えない人もおられます。
年寄りを老害扱いする若い人もいますが、だれもがそうなるのです。年寄りに対して文句を言っているあなたも歳をとるのです。歳をとってみるとわかります。それまではできていたのに、これからはできないことが増えるのです。認知症になったら別人格の人に変わったりもするのです。
綾小路きみまろさんの年寄り責めとも思える口の攻撃はとどまるところを知りません。
話を聞いていてみんなが、『そうそう』、『あるある』とうなずいているのがわかります。
夫婦ふたりの毎日のお決まりの会話です。
妻、『あなた何食べる?』、これが一日三食、朝昼晩と続くのです。この部分のくだり(話)がとても面白かった。実感があります。実際そんな感じで毎日が過ぎていきます。奥さんは最後に、もう自分で自分の食事をつくってくれと夫に怒ります。(おこります)
綾小路きみまろさんが要所で使う言葉の単語は少なく、そのかわりインパクト(衝撃)は強く、同じ言葉を何度も繰り返す手法です。うまい。
ち密です。言葉選び、言葉遊びが続きます。何度も練習して体で覚えた芸です。感服しました。
ご自身の苦労話もあります。
鹿児島県から東京に出て来て、キャバレーの司会がイヤだったとか、刑務所の慰問がイヤだったとか、本当の感情だと思います。
同郷の森進一さんに声をかけられたことが転機になって、森進一さんのショーの司会を10年間やって、ほかの有名な歌手の方たちの司会も頼まれて、ここまでやってきましたというようなお話がありました。
わたしは、仕事というのは、才能と努力と人間関係だと思っています。自分を支えてくれるいい人がいないとつらい仕事はなかなか長続きしません。人に恵まれるためには、人に奉仕することで、自分に願いが返ってくるということはあります。
綾小路きみまろさんが、後半で何度も繰り返す言葉がありました。
前席のお客さんたちに何度も声をかけます。『いろいろあったんでしょ?』、そして、『けっきょくそういうことです』、人は生きて、人は死んでいくのです。
どこの夫婦にも山あり谷ありの人生波乱があります。思いがけない病気や事故、自然災害もあります。夫婦ゲンカも親子ゲンカもあります。こどもが生まれて育てて、進学させて就職させて、結婚させて孫ができて、老いた親の介護をして看取って(みとって)、その間に家も手に入れてという長い旅路のような人生を送ります。
このショーを夫婦で鑑賞に来ている人たちは、今は平和な日々を送ることができるようになった中高年夫婦だと思うのです。みなさんお疲れさまでしたなのです。
綾小路きみまろさんから、あの世へ旅立つ前にすべきことのアドバイスがあります。
お金の話です。体の部分にたとえて、お金の話をされました。けっこう長い話でした。
『けっきょくそういうことです。貯めたお金をあの世へ持って行くことはできないのです』
なにかしら有益なことに使って、残り少なくなってきた人生の一日、一日を楽しみましょうということです。貯めたお金で、綾小路きみまろさんのショーを観て笑いましょう。娯楽を楽しみましょうなのです。いい一日でした。
これまでに、本は3冊読んだことがあります。
『老婆は一日にして成らず 綾小路きみまろ PHP研究所』、以下は感想メモの一部です。
書店で思わず手にしてしまいました。文章読みと実際の漫談を聞くのとは違います。文章だと笑いにくいものですが、文章にリズム感があります。半分ほど読んでからYou Tubeを見ました。笑いました。文章どおりの語りが続きます。楽しい。
情熱に圧倒されます。ずば抜けた記憶力と体力、そして努力はたいしたものです。若い人たちには実感がないだろうけれど 老境にさしかかった身としては、話の内容に共感することばかりです。
文章を読みながらでも思わず笑ってしまいます。学習の上積みがあります。歴史、地理、文学などです。芸は完成の域に達しています。
観客は平和な夫婦です。やさしい連れ合いがいます。耐えてきたからこそ今、笑うことができるという人生の経過があります。
『一つ覚えて三つ忘れる中高年 綾小路きみまろ PHP研究所』
真実だから笑うことができます。そして、平和です。
韻(いん)を踏むことが作者の特徴で、たて続けに類似語を並べていき、オチでポンと転換させます。非常にリズミカルです。 作者の身近には、音楽とか川柳があったのでしょう。
長い間夫婦とか家族をやっていると、過去を思い出して、連れ合いとかこどもたちに迷惑をかけてしまってごめんなさいと後悔することが多いのですが、この本は、みんな一緒の行動をしているのだから安堵(あんど)しなさいと慰めてくれます。
『しょせん幸せなんて、自己申告 綾小路きみまろ 朝日新聞出版』
まじめな本でした。今年読んで良かった1冊です。語り口調の文章です。笑いが漏れます。めげないで! という励ましがあります。
作者と類似体験があるので共感できます。
最終学歴は、『自動車学校』だそうです。笑いました。
いつかご本人を観てみたいと思っていました。本読みとか映像ではなく、実際のご本人によるショーを観てみたい。笑えて楽しいだろうなあ。
先日、『徹子の部屋』にゲストで出演されました。鹿児島から出てこられて苦労されています。
自分が住んでいる愛知県内でショーがあることを知りました。
申し込んでチケットを手に入れて観に行ってきました。
愛知県半田市は、『ごん狐(ごんぎつね)』の童話で有名な、児童文学作家である新美南吉さん(にいみ・なんきちさん。1913年(大正2年)-1943年(昭和18年)29歳没)の故郷(ふるさと)でもあります。新美南吉記念館へは、家の車を運転して二度行ったことがあります。
先日の日曜日に、今回は赤い名鉄電車に乗って、夫婦で、『中高年のアイドル綾小路きみまろ爆笑スーパーライブショー』を観に行きました。楽しかったです。とてもおもしろい。笑いました。元気になりました。 行ってよかった。この日はこのあと帰宅して、大相撲の千秋楽をテレビで観戦しました。そちらも良かった。いい日曜日でした。
思い出すままに毒舌漫談(どくぜつまんだん)の感想を並べてみます。
はじめに、綾小路きみまろさんから、このホールでは6年ぶりの公演だと紹介がありました。ふと思ったのは、次回が6年後なら、綾小路きみまろさんは79歳になられる予定です。79歳で全国回りのこの仕事をやれているだろうかと考えると、ちょっと無理かもしれないと思いました。
1時間15分間ぐらい、赤いえんび服(燕尾服。ツバメの尾をしたような上着の正装(せいそう)。格式が高い服装)を着た綾小路きみまろさんが、ステージ上を右に動いたり、左に戻ったりされて、いっときの休憩もなくひとり語りの熱演でした。
綾小路きみまろさんが、ステージ前の座席で1列目から3列目あたりのお客さんたちを徹底的に毒舌(どくぜつ。厳しい悪口。毒をはくような言葉)でいじるのですが、どうもお客さんたちはそのパターンを知っておられるようで、どんなにひどいことを言われても、けしてお怒り(おいかり)にはなりません。むしろ、自分がけなされるようにいじられることを、楽しんでおられるようすでした。お客さんも綾小路きみまろさんも、心が広く、たいしたものです。うしろで見ている大多数の中高年層のお客さんたちは大爆笑でした。
漫談の始まりで、中高年は、おしっこが近いという話をけっこう長い時間帯でされたのですが、漫談が始まって1時間ぐらいして、本当におしっこに立ったステージまんなか近くの座席にいたお客さんがいたのでびっくりしました。それはそれで笑いにつながりました。まあ、なんでもありですな。
腰が曲がった、歩行が不自由な年配女性を何人もお見かけしました。おそらく、娘さんやお嫁さんでしょう、手を引かれてゆっくりと指定席に向かっておられました。漫談の内容と現実が一致するステージなのです。
綾小路きみまろさんは、ステージ上で、中高年の女性の歩き方をマネされます。手をうしろにまわして、バッグを手に下げて、体は前に傾くようにして前方へと歩かれます。おじょうずです。よく観察されています。観客にとても、うけていました。
まあ、下ネタも多い。
頻尿に(ひんにょう)に始まって、おしめ(オムツ)で終わる話の流れでした。老衰で死ぬ寸前には、みな生まれてきた状態に戻るのです。
お客さんを観ての顔いじりは、かなり激しい。
若い時は、若いというだけで、ぴちぴちしてきれいです。歳をとってくると劣化してきます。
その話を聞いていて、人前では口に出せませんが、若い時に見た細くて美しかった女優さんたちが、今はもうすっかり変わって、(体型も太くなって)同じ人とは思えない人もおられます。
年寄りを老害扱いする若い人もいますが、だれもがそうなるのです。年寄りに対して文句を言っているあなたも歳をとるのです。歳をとってみるとわかります。それまではできていたのに、これからはできないことが増えるのです。認知症になったら別人格の人に変わったりもするのです。
綾小路きみまろさんの年寄り責めとも思える口の攻撃はとどまるところを知りません。
話を聞いていてみんなが、『そうそう』、『あるある』とうなずいているのがわかります。
夫婦ふたりの毎日のお決まりの会話です。
妻、『あなた何食べる?』、これが一日三食、朝昼晩と続くのです。この部分のくだり(話)がとても面白かった。実感があります。実際そんな感じで毎日が過ぎていきます。奥さんは最後に、もう自分で自分の食事をつくってくれと夫に怒ります。(おこります)
綾小路きみまろさんが要所で使う言葉の単語は少なく、そのかわりインパクト(衝撃)は強く、同じ言葉を何度も繰り返す手法です。うまい。
ち密です。言葉選び、言葉遊びが続きます。何度も練習して体で覚えた芸です。感服しました。
ご自身の苦労話もあります。
鹿児島県から東京に出て来て、キャバレーの司会がイヤだったとか、刑務所の慰問がイヤだったとか、本当の感情だと思います。
同郷の森進一さんに声をかけられたことが転機になって、森進一さんのショーの司会を10年間やって、ほかの有名な歌手の方たちの司会も頼まれて、ここまでやってきましたというようなお話がありました。
わたしは、仕事というのは、才能と努力と人間関係だと思っています。自分を支えてくれるいい人がいないとつらい仕事はなかなか長続きしません。人に恵まれるためには、人に奉仕することで、自分に願いが返ってくるということはあります。
綾小路きみまろさんが、後半で何度も繰り返す言葉がありました。
前席のお客さんたちに何度も声をかけます。『いろいろあったんでしょ?』、そして、『けっきょくそういうことです』、人は生きて、人は死んでいくのです。
どこの夫婦にも山あり谷ありの人生波乱があります。思いがけない病気や事故、自然災害もあります。夫婦ゲンカも親子ゲンカもあります。こどもが生まれて育てて、進学させて就職させて、結婚させて孫ができて、老いた親の介護をして看取って(みとって)、その間に家も手に入れてという長い旅路のような人生を送ります。
このショーを夫婦で鑑賞に来ている人たちは、今は平和な日々を送ることができるようになった中高年夫婦だと思うのです。みなさんお疲れさまでしたなのです。
綾小路きみまろさんから、あの世へ旅立つ前にすべきことのアドバイスがあります。
お金の話です。体の部分にたとえて、お金の話をされました。けっこう長い話でした。
『けっきょくそういうことです。貯めたお金をあの世へ持って行くことはできないのです』
なにかしら有益なことに使って、残り少なくなってきた人生の一日、一日を楽しみましょうということです。貯めたお金で、綾小路きみまろさんのショーを観て笑いましょう。娯楽を楽しみましょうなのです。いい一日でした。
2022年06月14日
隈研吾作品 愛知県知多半島道路パーキングエリア
隈研吾(くま・けんご)建築設計事務所作品 愛知県知多半島道路大府パーキングエリア下り
数日前から読んでいる本が『建築家になりたい君へ 隈研吾(くま・けんご) 河出書房新社』です。なかなかいい本です。
たまたま新聞で、最近オープンしたパーキングエリアの建物が、隈研吾さんの事務所の作品であることを知りました。
車で親戚の家に行く途中にあったので、パーキングエリアに立ち寄って、昼食を兼ねて見学してきました。
できたばかりなので、とてもきれいです。
写真には写っていませんが、平日とはいえ、意外に混雑していました。
人に優しい建物という印象をもちました。
おそらく農業用のため池だと思いますが、じょうずに借景となっていました。
屋外で食事ができるように、イスとテーブルが置いてあるテラス席が、写真の左手方向に設けてあります。
借景(しゃっけい):自然にあるものを庭園風景の一部として取り入れる。
数日前から読んでいる本が『建築家になりたい君へ 隈研吾(くま・けんご) 河出書房新社』です。なかなかいい本です。
たまたま新聞で、最近オープンしたパーキングエリアの建物が、隈研吾さんの事務所の作品であることを知りました。
車で親戚の家に行く途中にあったので、パーキングエリアに立ち寄って、昼食を兼ねて見学してきました。
できたばかりなので、とてもきれいです。
写真には写っていませんが、平日とはいえ、意外に混雑していました。
人に優しい建物という印象をもちました。
おそらく農業用のため池だと思いますが、じょうずに借景となっていました。
屋外で食事ができるように、イスとテーブルが置いてあるテラス席が、写真の左手方向に設けてあります。
借景(しゃっけい):自然にあるものを庭園風景の一部として取り入れる。
2022年05月27日
和紙のふるさと四季桜の里愛知県豊田市小原地区を訪ねる。
『和紙のふるさと、四季桜の里』今は愛知県豊田市内、昔は小原村(おばらむら)を訪ねる。
小原村と同じく2005年の市町村合併で、豊田市内になった足助町(あすけちょう)には、何度も足を運んだことがありますが、足助(あすけ)へ行く途中で見かける案内板『四季桜の里 小原(おばら)』へは行ったことがありませんでした。
行ったことがないところへ行ってみよう! ということで、夫婦で自家用車に乗って自宅から行ってみました。山の中にあって、車で1時間ぐらいの距離でした。
途中でおひるごはんを食べて、そのあと、次の写真にある『たまご村』で、カップコーヒーを買って、屋外においてあるベンチに座って飲みました。
この先にある小原地区の美術館を見学したあとの帰り道に、また『たまご村』に立ち寄って、卵とお野菜を買って帰りました。
美術館で、和紙のつくり方の展示とか、絵画ほかの工芸作品を見学しました。
自分は、もうずいぶん昔の若い頃に、和文タイプライターを使って、和紙に文章を打ち込む仕事をしていたことがあります。
活字を打ち間違えて、たまにやりなおしということで、新しい和紙に打ち直すことがあって、先輩から『(和紙は高価で)ただじゃないんだぞ! しっかり気持ちを入れて仕事をしろ!』と叱られたことを思い出しました。
和紙の美術館内で、いまいちど、展示内容を読んで、和紙をつくるのには、長い時間と手間がかかるということを再認識しました。
和紙を使った工芸作品はどれも美しく、ためいきがこぼれました。
とくに白を基調とした冬の樹木の風景画、そして、白い鷺草(さぎそう)の花の描写、加えて、暖色(だんしょく。オレンジ、赤色など)のお花の作品が気に入って、ながめていて時間が経つのを忘れました。
なにせ、静かでした。訪れてみて、なんといえばいいのか、コメントがみつからないのですが、山の中にある場所で、人はいないのも同然で、耳に届くのは、野鳥のさえずりぐらいで、とにかく、静かなのです。
ときおり、ウグイスの「ホーホケキョ」の声が聞こえていましたが、完ぺきにホーホケキョとは鳴けないようで、ホーホケ、ホーホケと繰り返し、練習するように鳴いていました。
自分の頭上に見えるのは、空いっぱいに広がる青空と流れる白い雲です。自分たちが、絵画の中にいるような気分になるのです。
視界の左右に広がるのは、緑一色です。若葉の時期を過ぎて、やや濃い緑色の風景です。森林浴をしているような気分になります。
晩秋になれば、四季桜の里ですから、白い桜の花と、赤や黄色の紅葉を同時に観ることができる光景が広がるのでしょう。
小原村と同じく2005年の市町村合併で、豊田市内になった足助町(あすけちょう)には、何度も足を運んだことがありますが、足助(あすけ)へ行く途中で見かける案内板『四季桜の里 小原(おばら)』へは行ったことがありませんでした。
行ったことがないところへ行ってみよう! ということで、夫婦で自家用車に乗って自宅から行ってみました。山の中にあって、車で1時間ぐらいの距離でした。
途中でおひるごはんを食べて、そのあと、次の写真にある『たまご村』で、カップコーヒーを買って、屋外においてあるベンチに座って飲みました。
この先にある小原地区の美術館を見学したあとの帰り道に、また『たまご村』に立ち寄って、卵とお野菜を買って帰りました。
美術館で、和紙のつくり方の展示とか、絵画ほかの工芸作品を見学しました。
自分は、もうずいぶん昔の若い頃に、和文タイプライターを使って、和紙に文章を打ち込む仕事をしていたことがあります。
活字を打ち間違えて、たまにやりなおしということで、新しい和紙に打ち直すことがあって、先輩から『(和紙は高価で)ただじゃないんだぞ! しっかり気持ちを入れて仕事をしろ!』と叱られたことを思い出しました。
和紙の美術館内で、いまいちど、展示内容を読んで、和紙をつくるのには、長い時間と手間がかかるということを再認識しました。
和紙を使った工芸作品はどれも美しく、ためいきがこぼれました。
とくに白を基調とした冬の樹木の風景画、そして、白い鷺草(さぎそう)の花の描写、加えて、暖色(だんしょく。オレンジ、赤色など)のお花の作品が気に入って、ながめていて時間が経つのを忘れました。
なにせ、静かでした。訪れてみて、なんといえばいいのか、コメントがみつからないのですが、山の中にある場所で、人はいないのも同然で、耳に届くのは、野鳥のさえずりぐらいで、とにかく、静かなのです。
ときおり、ウグイスの「ホーホケキョ」の声が聞こえていましたが、完ぺきにホーホケキョとは鳴けないようで、ホーホケ、ホーホケと繰り返し、練習するように鳴いていました。
自分の頭上に見えるのは、空いっぱいに広がる青空と流れる白い雲です。自分たちが、絵画の中にいるような気分になるのです。
視界の左右に広がるのは、緑一色です。若葉の時期を過ぎて、やや濃い緑色の風景です。森林浴をしているような気分になります。
晩秋になれば、四季桜の里ですから、白い桜の花と、赤や黄色の紅葉を同時に観ることができる光景が広がるのでしょう。
2022年05月20日
中部国際空港(愛称:セントレア)で楽しむ
中部国際空港(愛称:セントレア)で楽しむ
気晴らしに空港へお昼ご飯を夫婦で食べに行ってきました。
自宅から車で1時間はかかりません。
行ってみると、国際線カウンターは照明が落とされていて、ほとんどが暗いスペースでした。
コロナ禍からの回復が待ち遠しい。
飛行機には100回以上乗ったことがありますが、ここ10年間ぐらいは搭乗から遠ざかっています。
久しぶりの空港訪問です。
写真に写っている白い飛行機は、このあと札幌へ出発します。
白い飛行機の奥に見えるピンクの飛行機は、沖縄県の石垣島へこれから飛び立つところで動き始めています。
今はそばにいる2機が、数時間後には、日本列島の北の端と南の端に移動します。
なかなかロマンチック(ここちよい空想空間)です。再び出会うこともあるのでしょう。絵本として、何かストーリーがつくれそうです。飛行機に性別をつけるとか、恋人、親子、兄弟姉妹、親友の関係を設定するとか。いろいろ考えられます。良かったらどなたか試してくださいな。物語の空間を日本から世界に広げてもいい。
お昼ご飯はどのお店にしようかと、少し迷ったあと、お野菜がたくさんのっかっているタンメンを食べました。おいしかった。とくにスープがおいしかった。
かみさんが、お店の入口に出ていたおおまかなメニュー写真のひとつを見て「スイカ」がのっているねと言ったので、それは珍しい、いいんじゃないと決めて頼んだら、スイカではなくて赤カブだったので笑いました。
タンメンというのは、ワンタンみたいにギョーザのような形のものが入っていると思っていたら、ラーメンのような麺でした。ちょっとびっくりしました。関東地方では、タンメンというものは一般的だそうですが、ここ中部地方では見かけません。まあ自分たちだけの体験かもしれませんが。
平日ということもあって、空港内のフロアーは閑散としていました。
ちびっ子連れの外国人ファミリーがちらほら、団体旅行の年配夫婦がちらほらという感じでした。
次の写真は、NHKBSの番組で紹介されていた空港ピアノです。
自分たちが行ったときは、幼稚園の年長さんぐらいの女の子と年少さんぐらいの男の子が弾いていました。
『ここで(ピアノを)弾くのは、勇気がいるね』とかみさんに声をかけましたが、まあいいかと、自分たちもいすにこしかけて鍵盤を押してみました。自分はド・レ・ミぐらいしか弾けません。かみさんは少し弾けます。なんだか盛り上がって、ふたりで交代ばんこに、スマホで記念写真を撮り合いました。
次の写真は、美しい機体です。フライト・パークで展示されている飛行機です。巨大です。
前回は、このスペースが2018年にオープンしてまもなくのときに孫たちも連れて訪れました。
これまでに、コロナ禍もあってか、ここの施設は、一時期お休みして、リフォームもあって、料金設定も変更されています。航空機が展示されている1階フロアーへの入場は、入場無料になっていました。1階にあるこどもさんを遊ばせる区画の一部分は有料でした。それでも無料のこどもさんの遊び場もあります。
マッサージチェアのようなシートでした。
展示物です。
いつか本物に座って、ヨーロッパとかに行ってみたい。
平和が待ち遠しい。
待ち遠しい事ばかりです。
それまで、健康長寿でいなければなりません。
フライト・パークは、閑散としていますが、ちびっこコーナーはけっこうにぎわっていました。
外国人のちびっこもいました。
安心してこどもを遊ばせてあげられる空間です。
1歳、2歳のこどもさんたちが多かった。
フライトシミュレーターも待ち時間なくトライできるという平日のようすでした。
あとは、駐車場の駐車券の事前精算機の位置が、以前は、各エレベーターの横にありましたが、それがなくなって、何か所(なんかしょ)かに1台という位置で設置されていました。
以前、駐車場は、入場の時、センサーでナンバーを確認してバーがあがるシステムだったような記憶だったので(イオンの駐車場システムと同じ)、バーの前で車を停めたのですが、いつまでたってもバーがあがらないので、右を見たら、駐車券を取る機器が見えました。機器からだいぶ離れたところに車を停めたので、いったん車から降りて駐車券を取りに行きました。恥ずかしかったです。
駐車場から出場するときは、事前精算をしていたので、駐車券を車内に入れたままの状態で、自動的に出場用のバーがあがってくれました。
まあ、入場時のことは、たぶん自分の記憶の思い違い、誤認だったのでしょう。
気晴らしに空港へお昼ご飯を夫婦で食べに行ってきました。
自宅から車で1時間はかかりません。
行ってみると、国際線カウンターは照明が落とされていて、ほとんどが暗いスペースでした。
コロナ禍からの回復が待ち遠しい。
飛行機には100回以上乗ったことがありますが、ここ10年間ぐらいは搭乗から遠ざかっています。
久しぶりの空港訪問です。
写真に写っている白い飛行機は、このあと札幌へ出発します。
白い飛行機の奥に見えるピンクの飛行機は、沖縄県の石垣島へこれから飛び立つところで動き始めています。
今はそばにいる2機が、数時間後には、日本列島の北の端と南の端に移動します。
なかなかロマンチック(ここちよい空想空間)です。再び出会うこともあるのでしょう。絵本として、何かストーリーがつくれそうです。飛行機に性別をつけるとか、恋人、親子、兄弟姉妹、親友の関係を設定するとか。いろいろ考えられます。良かったらどなたか試してくださいな。物語の空間を日本から世界に広げてもいい。
お昼ご飯はどのお店にしようかと、少し迷ったあと、お野菜がたくさんのっかっているタンメンを食べました。おいしかった。とくにスープがおいしかった。
かみさんが、お店の入口に出ていたおおまかなメニュー写真のひとつを見て「スイカ」がのっているねと言ったので、それは珍しい、いいんじゃないと決めて頼んだら、スイカではなくて赤カブだったので笑いました。
タンメンというのは、ワンタンみたいにギョーザのような形のものが入っていると思っていたら、ラーメンのような麺でした。ちょっとびっくりしました。関東地方では、タンメンというものは一般的だそうですが、ここ中部地方では見かけません。まあ自分たちだけの体験かもしれませんが。
平日ということもあって、空港内のフロアーは閑散としていました。
ちびっ子連れの外国人ファミリーがちらほら、団体旅行の年配夫婦がちらほらという感じでした。
次の写真は、NHKBSの番組で紹介されていた空港ピアノです。
自分たちが行ったときは、幼稚園の年長さんぐらいの女の子と年少さんぐらいの男の子が弾いていました。
『ここで(ピアノを)弾くのは、勇気がいるね』とかみさんに声をかけましたが、まあいいかと、自分たちもいすにこしかけて鍵盤を押してみました。自分はド・レ・ミぐらいしか弾けません。かみさんは少し弾けます。なんだか盛り上がって、ふたりで交代ばんこに、スマホで記念写真を撮り合いました。
次の写真は、美しい機体です。フライト・パークで展示されている飛行機です。巨大です。
前回は、このスペースが2018年にオープンしてまもなくのときに孫たちも連れて訪れました。
これまでに、コロナ禍もあってか、ここの施設は、一時期お休みして、リフォームもあって、料金設定も変更されています。航空機が展示されている1階フロアーへの入場は、入場無料になっていました。1階にあるこどもさんを遊ばせる区画の一部分は有料でした。それでも無料のこどもさんの遊び場もあります。
マッサージチェアのようなシートでした。
展示物です。
いつか本物に座って、ヨーロッパとかに行ってみたい。
平和が待ち遠しい。
待ち遠しい事ばかりです。
それまで、健康長寿でいなければなりません。
フライト・パークは、閑散としていますが、ちびっこコーナーはけっこうにぎわっていました。
外国人のちびっこもいました。
安心してこどもを遊ばせてあげられる空間です。
1歳、2歳のこどもさんたちが多かった。
フライトシミュレーターも待ち時間なくトライできるという平日のようすでした。
あとは、駐車場の駐車券の事前精算機の位置が、以前は、各エレベーターの横にありましたが、それがなくなって、何か所(なんかしょ)かに1台という位置で設置されていました。
以前、駐車場は、入場の時、センサーでナンバーを確認してバーがあがるシステムだったような記憶だったので(イオンの駐車場システムと同じ)、バーの前で車を停めたのですが、いつまでたってもバーがあがらないので、右を見たら、駐車券を取る機器が見えました。機器からだいぶ離れたところに車を停めたので、いったん車から降りて駐車券を取りに行きました。恥ずかしかったです。
駐車場から出場するときは、事前精算をしていたので、駐車券を車内に入れたままの状態で、自動的に出場用のバーがあがってくれました。
まあ、入場時のことは、たぶん自分の記憶の思い違い、誤認だったのでしょう。
2022年04月16日
半島の先っぽへ昼ごはんを食べに行く。
半島の先っぽへ昼ごはんを食べに行く。
10年ぐらい前にちょくちょく行っていた愛知県知多半島のフェリー乗り場そばにあったお店を久しぶりに訪ねることにしました。
イカ焼きとか、海鮮ラーメン、大あさり焼きなどがおいしかった。
されど、ずいぶん前のことでもあり、コロナ禍もあったし、スルメイカの不漁も聞きます。もしかしたら、お店は営業していないかもしれないと思いながら行きました。
やはり、お店は閉店状態でした。平日に訪れましたが、土日に開けているというようすもみられませんでした。残念。
やむなく、そこから車を運転して5分程度のところにある料理旅館で昼食をとりました。
エビフライがおいしかったです。
ブルー一面の風景が心地よい。
さわやかな春風が吹いています。
少し立ち位置を変えて、同じような写真が続きます。
平日ですが、料理旅館はとてもはやっていて、女性のグループを中心に、高齢者のグループが海の幸と海の風景とおしゃべりを楽しんでおられました。
お金も時間もある高齢者のみなさんでしょう。3人程度のグループで来て、そのうちの誰かが自家用車を運転して、メンバーの送迎をされておられるようすです。
心身ともに健全な自立したお年寄りたちです。
おそらく現役のときは、仕事に追われていたことでしょう。
忍耐が報われた(むくわれた。ごほうび)老後だと考えます。
次は、料理旅館の二階の和室(テーブル式)からながめた伊勢湾です。
平安時代とか鎌倉時代は海上交通が発達していて、伊勢半島から知多半島のあいだでは、たくさんの船が行き来していたと思います。たぶん武士たちが乗っていたことでしょう。
10年ぐらい前にちょくちょく行っていた愛知県知多半島のフェリー乗り場そばにあったお店を久しぶりに訪ねることにしました。
イカ焼きとか、海鮮ラーメン、大あさり焼きなどがおいしかった。
されど、ずいぶん前のことでもあり、コロナ禍もあったし、スルメイカの不漁も聞きます。もしかしたら、お店は営業していないかもしれないと思いながら行きました。
やはり、お店は閉店状態でした。平日に訪れましたが、土日に開けているというようすもみられませんでした。残念。
やむなく、そこから車を運転して5分程度のところにある料理旅館で昼食をとりました。
エビフライがおいしかったです。
ブルー一面の風景が心地よい。
さわやかな春風が吹いています。
少し立ち位置を変えて、同じような写真が続きます。
平日ですが、料理旅館はとてもはやっていて、女性のグループを中心に、高齢者のグループが海の幸と海の風景とおしゃべりを楽しんでおられました。
お金も時間もある高齢者のみなさんでしょう。3人程度のグループで来て、そのうちの誰かが自家用車を運転して、メンバーの送迎をされておられるようすです。
心身ともに健全な自立したお年寄りたちです。
おそらく現役のときは、仕事に追われていたことでしょう。
忍耐が報われた(むくわれた。ごほうび)老後だと考えます。
次は、料理旅館の二階の和室(テーブル式)からながめた伊勢湾です。
平安時代とか鎌倉時代は海上交通が発達していて、伊勢半島から知多半島のあいだでは、たくさんの船が行き来していたと思います。たぶん武士たちが乗っていたことでしょう。
2022年04月10日
明治村にある夏目漱石邸を訪ねる 愛知県犬山市
明治村にある夏目漱石邸を訪ねる 愛知県犬山市
ようやく行くことができました。
思い立ったのは、2021年2月のことでした。その頃に読んだ『吾輩は猫である』集英社文庫の表紙をめくったところに白黒写真で、東京本郷千駄木から明治村に移築された家の写真を見た時でした。
自宅から自家用車で行けば1時間もかからないところにあるのですが、コロナ禍の自粛が続いて遠い場所になっていました。
夏目漱石氏が住んでいた家が、明治村にあることはそれまで知りませんでした。(同じ家屋に夏目漱石氏の前に、時を異にして、森鴎外氏も住んでいたそうです)
あわせて、2020年の夏に読んだ「廉太郎ノオト(れんたろうノオト) 谷津矢車(やつ・やぐるま著 男性) 中央公論新社」に出てくる「幸田露伴邸(こうだ・ろはん邸)」がそばに建っていることも知り見学したくなりました。
森鴎外、夏目漱石、幸田露伴の三氏は、日本の近代文学を代表する小説家です。
幸田露伴邸は、作品「廉太郎ノオト」の85ページに、「蝸牛庵(かぎゅうあん。かたつむり)」という名で登場して、東京音楽学校の生徒である瀧廉太郎さんと幸田露伴氏の妹さんであるピアニストの幸田延(こうだ・のぶ)さん、ヴァイオリンを弾く幸さん(こうさん)姉妹との交流があります。
瀧廉太郎氏の師匠が幸田延さんという位置づけでした。
滝廉太郎:1879年(明治12年)-1903年(明治45年)26歳没 肺結核
参考までに、1872年(明治5年)鉄道開業東京新橋-横浜。
1878年(明治11年)東京で電灯が点灯。1879年(明治12年)琉球藩が(りゅうきゅうはんが)沖縄県になる。
夏目漱石邸にある書斎で自分も座って原稿を書くポーズをとりながら、かみさんに記念写真を撮ってもらいました。なにかしら嬉しかった。机の前に猫の置物が置いてあって、センサーが反応すると、ニャーと鳴いて説明が始まります。
ここで、夏目漱石氏は、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を執筆されたそうな。
次の写真が幸田露伴邸です。この部屋で、滝廉太郎氏や幸田露伴氏、彼の妹である幸田延、幸田幸(こうだ・こう)姉妹ほかが集まって、ヴァイオリンなどの楽器を演奏したり音楽談義をしたりしたのだろうと想像しました。
本『廉太郎ノウト』の90ページには『厠(かわや)から戻った廉太郎は蝸牛庵(かぎゅうあん)の縁側をよたつく足取りで歩いていた。』とあります。次の写真にある縁側のことなのでしょう。
明治村は、桜が散り始めで、桜吹雪が舞い始めていました。
大きな白いシデコブシの花は満開で絶景でした。
たくさん生えている青紫色のヤマツツジは、太陽光線を浴びながらきらきらと輝いていました。
赤色と白色のまじったモクレンもきれいでした。
丘の上から見える入鹿池(いるかいけ)の湖面はのどかで、景色としては、空中に池が浮かんでいるように見えて不思議でした。
園内を回っているのは、わたしたちのような年配の夫婦が多い平日の訪問でした。
そのほか、昨年大河ドラマで話題になった渋沢栄一氏が設立の発起人になった帝国ホテルの建物の中にある中二階のような喫茶室でホットコーヒーを飲んでのんびりしました。
次の写真が帝国ホテルの玄関です。
明治村(愛知県犬山市)、大正村(岐阜県明智町)、昭和村(岐阜県美濃加茂市)には、それぞれ行ったことがあります。
明治村は、半世紀ぶりぐらいに訪れました。前回来たときは、まだ中学校を卒業してまもなくの弟とふたりで、駅前からバスに乗って来ました。
永い(ながい)時が流れて、いまでは、ふたりともおじいさんになって、孫たちに囲まれる生活となりました。
みっつの村はこれから先、五十年後も存在することでしょう。
(2023年10月追記)
東京の日比谷公園付近を散策しました。
次の写真は、「帝国ホテル」です。
明治村で観た「帝国ホテル」の建物が、日比谷公園のあの位置に立っていたとイメージすると、文化的なデザインの建築物がたいしたものだと思えるのです。
ようやく行くことができました。
思い立ったのは、2021年2月のことでした。その頃に読んだ『吾輩は猫である』集英社文庫の表紙をめくったところに白黒写真で、東京本郷千駄木から明治村に移築された家の写真を見た時でした。
自宅から自家用車で行けば1時間もかからないところにあるのですが、コロナ禍の自粛が続いて遠い場所になっていました。
夏目漱石氏が住んでいた家が、明治村にあることはそれまで知りませんでした。(同じ家屋に夏目漱石氏の前に、時を異にして、森鴎外氏も住んでいたそうです)
あわせて、2020年の夏に読んだ「廉太郎ノオト(れんたろうノオト) 谷津矢車(やつ・やぐるま著 男性) 中央公論新社」に出てくる「幸田露伴邸(こうだ・ろはん邸)」がそばに建っていることも知り見学したくなりました。
森鴎外、夏目漱石、幸田露伴の三氏は、日本の近代文学を代表する小説家です。
幸田露伴邸は、作品「廉太郎ノオト」の85ページに、「蝸牛庵(かぎゅうあん。かたつむり)」という名で登場して、東京音楽学校の生徒である瀧廉太郎さんと幸田露伴氏の妹さんであるピアニストの幸田延(こうだ・のぶ)さん、ヴァイオリンを弾く幸さん(こうさん)姉妹との交流があります。
瀧廉太郎氏の師匠が幸田延さんという位置づけでした。
滝廉太郎:1879年(明治12年)-1903年(明治45年)26歳没 肺結核
参考までに、1872年(明治5年)鉄道開業東京新橋-横浜。
1878年(明治11年)東京で電灯が点灯。1879年(明治12年)琉球藩が(りゅうきゅうはんが)沖縄県になる。
夏目漱石邸にある書斎で自分も座って原稿を書くポーズをとりながら、かみさんに記念写真を撮ってもらいました。なにかしら嬉しかった。机の前に猫の置物が置いてあって、センサーが反応すると、ニャーと鳴いて説明が始まります。
ここで、夏目漱石氏は、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を執筆されたそうな。
次の写真が幸田露伴邸です。この部屋で、滝廉太郎氏や幸田露伴氏、彼の妹である幸田延、幸田幸(こうだ・こう)姉妹ほかが集まって、ヴァイオリンなどの楽器を演奏したり音楽談義をしたりしたのだろうと想像しました。
本『廉太郎ノウト』の90ページには『厠(かわや)から戻った廉太郎は蝸牛庵(かぎゅうあん)の縁側をよたつく足取りで歩いていた。』とあります。次の写真にある縁側のことなのでしょう。
明治村は、桜が散り始めで、桜吹雪が舞い始めていました。
大きな白いシデコブシの花は満開で絶景でした。
たくさん生えている青紫色のヤマツツジは、太陽光線を浴びながらきらきらと輝いていました。
赤色と白色のまじったモクレンもきれいでした。
丘の上から見える入鹿池(いるかいけ)の湖面はのどかで、景色としては、空中に池が浮かんでいるように見えて不思議でした。
園内を回っているのは、わたしたちのような年配の夫婦が多い平日の訪問でした。
そのほか、昨年大河ドラマで話題になった渋沢栄一氏が設立の発起人になった帝国ホテルの建物の中にある中二階のような喫茶室でホットコーヒーを飲んでのんびりしました。
次の写真が帝国ホテルの玄関です。
明治村(愛知県犬山市)、大正村(岐阜県明智町)、昭和村(岐阜県美濃加茂市)には、それぞれ行ったことがあります。
明治村は、半世紀ぶりぐらいに訪れました。前回来たときは、まだ中学校を卒業してまもなくの弟とふたりで、駅前からバスに乗って来ました。
永い(ながい)時が流れて、いまでは、ふたりともおじいさんになって、孫たちに囲まれる生活となりました。
みっつの村はこれから先、五十年後も存在することでしょう。
(2023年10月追記)
東京の日比谷公園付近を散策しました。
次の写真は、「帝国ホテル」です。
明治村で観た「帝国ホテル」の建物が、日比谷公園のあの位置に立っていたとイメージすると、文化的なデザインの建築物がたいしたものだと思えるのです。