2024年12月25日

大竹しのぶさん主演『太鼓たたいて、笛吹いて』を観に行く

大竹しのぶさんの音楽劇、『太鼓たたいて、笛吹いて』を観に行く。ウィンクあいちにて(愛知県産業労働センター)

 大竹しのぶさんを映像で初めて見たのは、邦画『青春の門』でした。自分は高校生だったと思います。そのときの大竹さんは映画の中では、福岡県の炭鉱町で暮らす娘さんの役でした。
 たまたまですが、わたしはそのとき、福岡県の炭鉱町にある映画館で、『青春の門』を見ました。たぶん、大竹さんが出られた最初のシーンは、川があって、大竹しのぶさんは、土手をいっしょうけんめい走っておられました。ロケ地はたぶん、福岡県田川市を流れる中元寺川(ちゅうげんじがわ)だったのではなかろうかと思います。わたしは当時、五木寛之さんが書かれた原作小説をすでに読んでいました。
 まだ十代だった大竹しのぶさんを観て、わたしはびっくりしました。こんな清純で、清らかな人がこの世にいるのかと、第一印象で強い衝撃がありました。

 その後大竹しのぶさんは、NHKの朝ドラ、『水色の時』に出演されました。舞台は、日本アルプスの山々が見える長野県大町市(おおまちし)だったと思います。高校のときの修学旅行先が黒部立山(くろべたてやま)アルペンルートで、大町市内で宿泊しました。連なる(つらなる)雪をかぶった高い山脈を生まれて初めて見て感激しました。とても美しかった。

 2005年に愛知万博があったときに、会場のテントの中から大竹しのぶさんの声が聞こえてきました。あいさつをされて、文部省唱歌のような歌を歌われていました。なにかしらの権利を持った人だけが大竹さんを見ることができるようなエリアになっていました。

 2024年ももうすぐ終わりますが、今年1月に、東京ドームそばにあるIMMシアターという劇場で、明石家さんまさんが聖徳太子を演じる喜劇を観劇しました。劇の最後のほうで、さんまさんが舞台から観客席に降りてきて、観客席にある通路をぐるぐる回ってくれたので、さんまさんをそばで見ることができました。そんなこともあって、さんまさんから始まった2024年を、元夫婦の相手であるしのぶさんの舞台劇で締めることにしました。

 『太鼓たたいて、笛吹いて』では、大竹しのぶさんが、1935年(昭和10年)ごろからの第二次世界大戦中に向かうという時代に、国民に対して、軍隊のことを鼓舞して(こぶ:士気を高める)、軍隊にとって都合のいいように、国民の意識をコントロールする役割を果たす従軍作家として活動した林芙美子さん(はやしふみこさん。戦前の代表作が、『放浪記』)を演じます。
 小説家林芙美子さんは、戦争中に、軍部の加勢をしたという理由で、戦後、世間からの批判にさらされています。
 ご本人は、1951年(昭和26年。終戦が昭和20年)に亡くなっています。心臓麻痺で急逝されています。47歳でした。
 当時林芙美子さんは、人生の晩年を迎えてうんぬんかんぬんという言葉を残されています。昭和26年当時の日本人の平均寿命が、男性は61歳ぐらい、女性は65歳ぐらいでした。(そのときだったら、わたしはもう死んでいます)
 わたしがこどものころは、お年寄りに対して、『長生きしてね』と言ってくれるちびっこがいましたが、今はもうそう言ってくれるこどもさんはいなくなりました。『認知症にならないでね』ですな。
 
 『太鼓たたいて、笛吹いて』は、名古屋駅前にある、『ウィンクあいち(愛知県産業労働センター)』というビルの2階・3階にあるホールで公演されて、夫婦で観に行きました。さんまさんも、しのぶさんもうちら夫婦と同世代なので、思い出がいろいろとよみがえります。

 比較的ステージに近い席だったので、大竹しのぶさんの演技をはじめとして、はっきりと観劇することができました。しのぶさんは、林芙美子さんになりきっておられました。憑依(ひょうい)というのでしょうか、のりうつりです。とても長いセリフを暗記されてスラスラとテンポよくおしゃべりされていたので驚嘆しました。(きょうたん:大きな驚きと尊敬)。非常にリズム感がいい演劇でした。ピアノの伴奏に合わせて進行していく音楽劇でもありました。
 井上ひさしさんの戯曲作品(ぎきょく:劇の台本)とか、こまつ座のことは、チケットを手に入れたあとで知りました。こまつ座は、井上ひさしさんの作品だけを上演するそうです。

 演劇が始まる前に、ふと思い出したことがありました。わたしは二十代のときに内臓の病気で三か月程度入院した経験があるのですが、点滴による入院治療の合間に読んでいた本が、少女漫画の、『ガラスの仮面 美内すずえ(みうち・すずえ) 白泉社(はくせんしゃ)』でした。
 とても長い物語で(たぶん今も未完だと思います)何巻も読み続けました。マンガに出てくる主人公の、『北島マヤ』は、大竹しのぶさんのイメージでした。同じく、『姫川亜弓(ひめかわ・あゆみ)』は、大原麗子(おおはら・れいこ)さんのイメージでした。そんなことを思い出しました。







 思い出すままに、観劇の感想をここに落としてみます。

 影絵からスタートします。出演の皆さんが、影絵の人物になって、スクリーンの向こうにすっくと立っておられます。スクリーンがあがると、人形のような姿かたちをした演者の皆さんが動き出し、おしゃべりを始めます。舞台はセットも演者のお衣装も美しい。

 ステージのバックには、緑色の線で描かれた原稿用紙の映像が、ずーっと終わりまで投射され続けます。
 『文字』とか、『言葉』にこだわりをもった演劇の内容でした。小説家であること、人間にとって、本がいかにだいじなものであるかがアピール(主張)されていました。

 大竹しのぶさんは、大竹しのぶさんではないのじゃないかという印象がずーっと続きました。(林芙美子さんになりきっておられるのです)
 3時間ぐらいの公演が終了し、演技が終わって、みなさんがステージにあいさつに出てこられて、観客がスタンディングで(席から立ちあがって)拍手をしたときに、わたしも立ち上がったのですが、大竹しのぶさんのお顔が近くに見えて、演技を終えてほっとされたようすが伝わってきました。大竹さんの体から林芙美子という人物が抜けた瞬間だったのでしょう。

 客層は年配の人たちが多かった。あとは、二十代ぐらいに見えるひとりで見に来ている女性がちらほらおられました。お顔がきれいなひとたちなので、女優をめざしておられるのかもしれません。
 東京で舞台を観ると、演者と観客が意気投合して、積極的に拍手や笑いが湧きおこり、なかなか楽しくおもしろいのですが、東海地区の劇場だと、観客がなにかしら冷めている(さめている)雰囲気があります。演者が呼びかけても無言です。のりが悪いのです。観慣れていないとか、引いている。お笑いと一緒で、前説(まえせつ):劇場の雰囲気をあらかじめあっためておく役割の人。笑いを誘って、観客の緊張感をほぐしておく人やコンビやグループが必要なのかもしれません。

 人間ですから、『お金』の話が出ます。林芙美子さん始めおかあさんも、『お金』が欲しいのです。
 『お金』が欲しいから、陸軍の従軍記者のような立場で、小説家の能力を発揮するのです。みなさん、戦争で活躍しましょう。お国のために働きましょう。(でも、命を落とす仕事です。若い命です。演劇を観ていて、今のウクライナとロシアの戦争に行って亡くなる北朝鮮の若い兵士を思い浮かべました)

 脇役のみなさんの能力が高い。編集者とか音楽プロデューサーの三木孝を演じられた福井晶一さんという方が、この劇の進行役を果たしていかれます。歌もじょうずです。たいしたものです。

 年齢不詳のピアニストの朴勝哲さんもおじょうずでした。ステージの前、まんなかにピアノが設置されていて、朴さんが、客席に背を向けながら、メロディーを奏でます(かなでます)。演者の皆さんが演奏に合わせて何度も歌を歌います。みなさんお歌がおじょうずです。

 林芙美子さんという方は、わたしにとっては祖父母の世代の方です。明治生まれです。
 むかし、九州の祖父母の家で、中学生だったわたしが祖母と雑談していたときに、東京にいたときに関東大震災を体験したと祖母が言ったのでひっくりかえるほどびっくりしたことがあります。(1923年9月1日(大正12年))。そのときは、もう年寄りになっていた祖母にも、若々しい十代の青春時代があったのだと驚きました。林芙美子さんも関東大震災を体験されています。

 大竹しのぶさんが演じる林芙美子さんは、声が甲高い(かんだかい)。元気いっぱいです。そして、『お金』にこだわります。最初からお金持ちであったのではなく、初めは、貧困生活のご苦労があったようです。
 でも、小説が売れると、かなりのお金が手元に入ってきた時代だったようです。まわりから寄付金と言う名目でお金をたかられます。
 さらに、『戦はもうかる(いくさは、戦争に関係する個人も国(勝利国)も企業ももうかるのです)』、中国南京(なんきん)とか、満州とか、ボルネオ(現在は、州によってマレーシア・ブルネイ・インドネシア各国の領域)の話が出ます。うちの二世代上の親戚にも一家で満州へ渡った家族はいました。また、親の世代の兄弟で、若くして第二次世界大戦中に戦死した人もいました。そんなことも遠い昔のことになりました。現在の日本では、もうずいぶん世代交代が進みました。
 日清戦争(1894年(明治27年))、日露戦争(1904年(明治37年))の話題も劇中に出てきました。
 『戦(いくさ)はもうかる』という物語をつくって、国民の心理をコントロールして、軍国主義国家を形成して発展させることが軍部の目標です。林芙美子さんの文章作成能力を、そのための道具として活用します。林芙美子さんは、お金と名誉が欲しかった。しかし、途中で気づくのです。自分は間違っていたと。戦後、とても反省されています。

 ときおり、『松島』という地名がセリフに出てきます。宮城県の松島海岸のことだろうと思いました。何年か前に訪れたことがあるので、そのときの風景を思い出しながら観劇を楽しみました。

 昭和10年代の時代設定ですから、ときおり、政治的にドキッとするような単語がセリフに出てきます。
 アカ:共産主義、社会主義を侮辱(ぶじょく。差別)する言葉
 アナーキスト:無政府主義者。国家や宗教を否定する。自由人であることを優先する。
 セリフにはありませんでしたが、趣旨として、文盲(もんもう)の人:字が読めない人(わたしがこどものころは、お年寄りで、字の読み書きができない人がけっこういました。バスセンターで、行き先や時刻表などの文字が読めなくて困っているお年寄りがいたら助けてあげなさいと先生に教わりました)
 非国民(ひこくみん):日本軍や国策を批判する人

 『女の幸せは、男にすがること』(男尊女卑の時代です)

 『ひとりじゃない』という言葉が繰り返されます。歌も歌われます。
 聞いていて、大昔のアイドル歌手、天地真理さん(あまち・まりさん)の歌曲、『ひとりじゃないの』を思い出しました。まだ中学生だったわたしは、天地真理さんのポスターを部屋の壁にはっていました。今思うと、なんか、だまされたような感じです。たしかキャッチフレーズが、『白雪姫』でした。

 劇中で、鹿児島市にいたときの話が少し出てきました。
 以前鹿児島市の城山公園を訪れたときのことです。桜島から鹿児島湾、鹿児島市の市街地が見渡せる観光地です。
 展望台から少し下がったところで、地元の小学生たちが、かけっこのような走る大会をやっていました。先生方や、おもにお母さんのご父兄がたくさんおられて、こどもたちの応援をされていました。 あとで調べたら、城山の登山競走大会というイベントだったようで、作家の向田邦子さんとか林芙美子さんも通ったことがある小学校だったのでびっくりしました。
 
 書道の話が出てきます。島崎こま子という女性が、村役場の看板表示を木の板に書道の筆で書いているシーンなのですが、役場の名称が、『穂波村役場(ほなみむらやくば)』でした。わたしの記憶だと、福岡県内に以前、『嘉穂郡穂波町』という自治体がありました。あれ?と思って調べたら、長野県(現在は山ノ内町)と愛知県(現在は一宮市)、そして、福岡県(現在は飯塚市)に穂波村が過去に実在していました。劇中の設定は、戦時中の疎開先である長野県にあった『穂波村』なのでしょう。

 島崎藤村(しまざき・とうそん。小説家。1872年(明治5年)-1943年(昭和18年))の親戚(姪めい)だという、『島崎こま子』を天野はなさんという方が演じておられました。
 劇中では重要な人物です。劇中では、藤村が、こま子と関係を持った(近親相姦)というようなぶっそうな話も出ます。まあ、なんというか、演劇はなんでもありですな。避けて通れない人間性を描くことが芸術であり人類の文化なのでしょう。
 劇中では、林芙美子さんが養子を迎えたことが紹介されていたのですが、養子さんはその後十代で事故のため亡くなっています。

 ずいぶん前のことですが、木曽路にある、『島崎藤村記念館』を訪れたことがあります。岐阜県中津川市にある、『馬籠の宿(まごめのしゅく)』にありました。
 藤村は実家で8歳まで暮らしその後、東京へ行き英才教育を受けました。12歳から英語を学び、青年期に詩をつくりはじめ、やがて散文に移行し自費出版で「破戒」を刊行。フランス留学後は英語教師、作文教師、大学でフランス語を教える。
 馬籠宿の庄屋の息子として生まれ順風満帆の生涯を送った人だと思っていました。しかし、30代から40代は極貧生活を味わっています。妻やふたりの娘を亡くしています。
 50代になってやっと生活が安定し、晩年に『夜明け前』が書かれています。人生の後半では童話が書かれています。

 『(第二次世界大戦で日本は)きれいに負けることが必要だ(もう日本の勝ち目はない)』
 政府や軍部が、きれいに負ける度胸がなかったから、広島と長崎に原子爆弾が投下された。投下されてやっと敗戦を決心できたという流れで表現がなされます。
 反戦劇です。

 日本でテレビ放送が始まったのが、1953年(昭和28年)で、林芙美子さんは、1951年(昭和26年)に亡くなっていますから、テレビの時代の人ではありません。劇中では、ラジオ放送がときおり流されます。朗読劇とか、ひとり語りでメッセージを伝えます。
 これからの日本を考える世代の試行錯誤が、戦後始まったころのお話でした。

 この演劇鑑賞でうちの今年のイベントごとはすべて終了しました。
 去年の今頃と比べて、賢く(かしこく)なれたと思います。あわせて、今年もあちこち足を運んで、いい体験を重ねることができました。
 サヨナラ2024年、コンニチワ2025年という気分です。あと何年間生きられるかわかりませんが、なるべく明るく楽しい毎日を過ごすことを心がけていきます。

(その後、思いついたこと)
 林芙美子さんは、お金を得るために、関係者からそそのかされて、陸軍と同行し、文章を書いて戦況を国民に伝えることで、若き戦闘員の確保、その家族への同調意識をあおったわけですが、ふと考えたのです。そういうことは、戦時中だけではなくて、現在にもあるのではなかろうか。(あおる:仕向ける(しむける)、挑発する(ちょうはつする))
 ネットでも週刊誌でも、お金をもらって書いてある文章には、なにかしらの意図がある。(いと:たくらみ、企画、目的。状況に応じての「悪だくみ」)
 文章を読んでもらうことによって、お金を出した組織なり個人にとってメリットがある(利益がある)内容で文章が書かれている。ゆえに、つくり話、あるいは、グレーゾーンとして(灰色状態)、じょうずにつくり話に近いことが書いてある。
 お金のやりとりがからんだ文章は、正しく、素直に、書き手の本心が文章に織り込まれているわけではない。
 書き手が、お金をもらって書いた文章を読むときには、内容が本当に正しいのかと考える注意深さがいる。だまされてはいけない。そう考えたのです。

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