2024年09月02日
エクソシスト 洋画 1974年(昭和49年)
エクソシスト 洋画 1974年(昭和49年) 2時間2分 動画配信サービス
ホラー映画『エクソシスト』は、高校生のころ、福岡県内の映画館で観ました。
今回半世紀ぶりぐらいで見直して、内容について、ずいぶんいろいろなことを忘れていることがわかりました。筋立てを忘れていたので、ラストシーンが今回観ていても、どうなるのだろうかと思いを巡らしながら観ていました。
昔のことで覚えているのは、当時観たときの映画館が超満員だったこと、高校の同じクラスの女子たちが観に来ていて、翌日そのうちのひとりがぜんせんこわくなかったと教室でアピールしていたことでした。『みんなーー 期待して見に行ってもこわくないよーー』って、言っていました。
ほかに覚えていたのは、悪魔にのりうつられた犠牲者の少女の首が360度ぐるりと回転するシーンでした。
今回観て、なかなかの力作だと好感をもちました。たいしたものです。
イラクでの遺跡発掘現場から始まって、後半、その作業に従事していた神父が悪魔払いの儀式に参加します。
悪魔が少女にのりうつる話です。少女の体から悪魔を出さねばなりません。
少女役は、リンダ・ブレアというまだこどものような女優さんだったことを思い出しました。
もう、当時映画館で映画を観た世代も出演していたリンダさんも、いまでは、おじいさん・おばあさんの世代になりました。時が流れるのは早いものです。
背中に翼がついた恐竜みたいな悪魔の姿です。
ああこの音楽、思い出しました。
オルゴールの音のようなきれいなメロディーの繰り返しです。
恐怖があなたに近づいて来るのです。
当時のこととして、ベトナム戦争のサイゴン陥落とか(かんらく。サイゴンは、南ベトナムの首都だった。1975年(昭和50年)4月30日南ベトナム(米国側)の無条件降伏があった。
暗い映像やグロテスクな映像、卑猥な(ひわい)な言動もあります。
当時はまだ、映画館の観客に厳しい年齢制限はなかったし、指定席というものもありませんでした。中学生でも田舎(いなか)である地元の集落にある映画館へ高倉健さんや菅原文太さん、鶴田浩二さんのヤクザ映画を観に行っていました。さすがに成人映画の日活ロマンポルノを見る中学生はいなかったと思いますが、おとなに変装した高校生ぐらいは、ポルノ映画を見に行っていたのかもしれません。(観客の年齢判断は映画館従業員の目視だけだったと思います。昭和時代は、規制について、ゆるいおおらかな時代でした。映画館もたくさんありました。自分たちが住んでいる住宅地の中に映画館がありました。テレビはまだ普及の過渡期でした。白黒テレビがカラーテレビになっていったころでした。かとき:移り変わりの途中の時期)
映画では、当初、少女は病気、脳の障害が疑われますが、検査した結果、機能は正常です。
脳脊髄液が原因で脳波に異常があるのではないかという話も出ますが、すべて正常です。
それでも少女はベッド上で、暴れ回ります。屈伸の動きなどは、恐怖をとおりこして、笑えます。コメディです。
すごい演技というか特殊撮影です。暴れ回るのでクスリを打って眠らせるしかないと観ていて思います。案の定(あんのじょう。やっぱり)、少女に鎮痛剤が打たれました。
この映画が成功したのは、宣伝効果があったからでしょう。
こわいぞーー こわいぞーー で、こわいもの見たさが人間の本質(ほんしつ。根本(こんぽん)の性質)にあります。
医学的な原因がわかりません。
ショック療法をするそうです。
カトリックの秘儀(ひぎ。秘密に行う儀式)『悪魔祓い(あくまばらい)』の儀式を行って、少女の体内から悪魔を体外に出すのです。
暗示を解く手法だそうです。呪術師(じゅじゅつし)に頼みます。
まあ、メチャクチャですなあ。動きが激しい。
少女の体はつくりものの人形だとわかります。
でも、まあまあおもしろい。
びっくりしました。
少女の口から緑色のチューインガムみたいなゲロが飛び出してきました。
教会の許可が出ないと悪魔払いの儀式はできないそうです。
でも、許可が出ました。
殺人事件がからんでいるので、(犯人は悪魔ですが)、刑事もいます。
オープンリールテープのテープレコーダーがなつかしい。小学校の授業で先生が使っていました。今の若い人は見たこともないでしょう。
大声でわめく悪魔くんです。
映画館の大画面で観るとこわいだろうなあ。(ちょっと自分は覚えていませんが、同時期に映画館へ観に行ったブルースリーの拳法映画はよく覚えています。アチョー アチョーです。振り回していたのは、ヌンチャクですな)
まあ、現実的に考えれば、迷信(科学的な根拠のないうそ話)の設定ですが、まあ、映画です。そして、ホラーです。(恐怖映画)
祈りでは救われない。
呪術師自身にとっては、自分が死んでしまうという最悪の結果が訪れました。されど、少女の命は救われました。犠牲を伴う救いです。
ストーリー展開よりも、特殊撮影の映像の展開で力が入るシーンが続きます。
少女の体から出た悪魔は、どこにいったのだろう。
エロ悪魔だった。へんな奴(やつ)だった。
力作でした。傑作です。
急で(きゅうで)長い階段が、この映画の象徴として扱われていました。
そこでふたりの人間が死にました。
ホラー映画『エクソシスト』は、高校生のころ、福岡県内の映画館で観ました。
今回半世紀ぶりぐらいで見直して、内容について、ずいぶんいろいろなことを忘れていることがわかりました。筋立てを忘れていたので、ラストシーンが今回観ていても、どうなるのだろうかと思いを巡らしながら観ていました。
昔のことで覚えているのは、当時観たときの映画館が超満員だったこと、高校の同じクラスの女子たちが観に来ていて、翌日そのうちのひとりがぜんせんこわくなかったと教室でアピールしていたことでした。『みんなーー 期待して見に行ってもこわくないよーー』って、言っていました。
ほかに覚えていたのは、悪魔にのりうつられた犠牲者の少女の首が360度ぐるりと回転するシーンでした。
今回観て、なかなかの力作だと好感をもちました。たいしたものです。
イラクでの遺跡発掘現場から始まって、後半、その作業に従事していた神父が悪魔払いの儀式に参加します。
悪魔が少女にのりうつる話です。少女の体から悪魔を出さねばなりません。
少女役は、リンダ・ブレアというまだこどものような女優さんだったことを思い出しました。
もう、当時映画館で映画を観た世代も出演していたリンダさんも、いまでは、おじいさん・おばあさんの世代になりました。時が流れるのは早いものです。
背中に翼がついた恐竜みたいな悪魔の姿です。
ああこの音楽、思い出しました。
オルゴールの音のようなきれいなメロディーの繰り返しです。
恐怖があなたに近づいて来るのです。
当時のこととして、ベトナム戦争のサイゴン陥落とか(かんらく。サイゴンは、南ベトナムの首都だった。1975年(昭和50年)4月30日南ベトナム(米国側)の無条件降伏があった。
暗い映像やグロテスクな映像、卑猥な(ひわい)な言動もあります。
当時はまだ、映画館の観客に厳しい年齢制限はなかったし、指定席というものもありませんでした。中学生でも田舎(いなか)である地元の集落にある映画館へ高倉健さんや菅原文太さん、鶴田浩二さんのヤクザ映画を観に行っていました。さすがに成人映画の日活ロマンポルノを見る中学生はいなかったと思いますが、おとなに変装した高校生ぐらいは、ポルノ映画を見に行っていたのかもしれません。(観客の年齢判断は映画館従業員の目視だけだったと思います。昭和時代は、規制について、ゆるいおおらかな時代でした。映画館もたくさんありました。自分たちが住んでいる住宅地の中に映画館がありました。テレビはまだ普及の過渡期でした。白黒テレビがカラーテレビになっていったころでした。かとき:移り変わりの途中の時期)
映画では、当初、少女は病気、脳の障害が疑われますが、検査した結果、機能は正常です。
脳脊髄液が原因で脳波に異常があるのではないかという話も出ますが、すべて正常です。
それでも少女はベッド上で、暴れ回ります。屈伸の動きなどは、恐怖をとおりこして、笑えます。コメディです。
すごい演技というか特殊撮影です。暴れ回るのでクスリを打って眠らせるしかないと観ていて思います。案の定(あんのじょう。やっぱり)、少女に鎮痛剤が打たれました。
この映画が成功したのは、宣伝効果があったからでしょう。
こわいぞーー こわいぞーー で、こわいもの見たさが人間の本質(ほんしつ。根本(こんぽん)の性質)にあります。
医学的な原因がわかりません。
ショック療法をするそうです。
カトリックの秘儀(ひぎ。秘密に行う儀式)『悪魔祓い(あくまばらい)』の儀式を行って、少女の体内から悪魔を体外に出すのです。
暗示を解く手法だそうです。呪術師(じゅじゅつし)に頼みます。
まあ、メチャクチャですなあ。動きが激しい。
少女の体はつくりものの人形だとわかります。
でも、まあまあおもしろい。
びっくりしました。
少女の口から緑色のチューインガムみたいなゲロが飛び出してきました。
教会の許可が出ないと悪魔払いの儀式はできないそうです。
でも、許可が出ました。
殺人事件がからんでいるので、(犯人は悪魔ですが)、刑事もいます。
オープンリールテープのテープレコーダーがなつかしい。小学校の授業で先生が使っていました。今の若い人は見たこともないでしょう。
大声でわめく悪魔くんです。
映画館の大画面で観るとこわいだろうなあ。(ちょっと自分は覚えていませんが、同時期に映画館へ観に行ったブルースリーの拳法映画はよく覚えています。アチョー アチョーです。振り回していたのは、ヌンチャクですな)
まあ、現実的に考えれば、迷信(科学的な根拠のないうそ話)の設定ですが、まあ、映画です。そして、ホラーです。(恐怖映画)
祈りでは救われない。
呪術師自身にとっては、自分が死んでしまうという最悪の結果が訪れました。されど、少女の命は救われました。犠牲を伴う救いです。
ストーリー展開よりも、特殊撮影の映像の展開で力が入るシーンが続きます。
少女の体から出た悪魔は、どこにいったのだろう。
エロ悪魔だった。へんな奴(やつ)だった。
力作でした。傑作です。
急で(きゅうで)長い階段が、この映画の象徴として扱われていました。
そこでふたりの人間が死にました。
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この記事へのコメント
こんばんは、いつも楽しく貴ブログを拝読しています。
この映画「エクソシスト」は、現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作だと思います。
この映画「エクソシスト」の製作、原作、脚色は、ウィリアム・ピーター・ブラッティで、彼は、それまでにも「暗闇でドッキリ」とか「地上最大の脱出作戦」等、数多くのコメディ映画の脚本を書いていますが、コメディと違ってこの「エクソシスト」が、果たして成功するのかどうか、全くわからなかったと彼は語っています。
彼の両親は、シリアとレバノンの生まれで、映画の冒頭に出てくる中東の廃墟の場面は、彼の出生とアメリカ情報局勤務当時の、その地での記憶と深く関わりがあると言われていますが、映画の本筋からは少しそれた感じを受けました。
それより、むしろ、この映画の実質的な、本当の意味での主役ともいえる、ギリシャ移民の子であるカラス神父(ジェーソン・ミラー)の、アメリカ社会から疎外されたような孤独な姿の中に、ウィリアム・ピーター・ブラッティの生い立ち、人間像、系譜といったものが生かされているような気がします。
この映画が、初めて公開された当時の日本では、ユリ・ゲラーの"スプーン曲げ"がもてはやされ、超能力やオカルト現象がブームを巻き起こしていました。
科学万能やエレクトロニクス革命の時代への反動のように、超常現象への関心が異常な程、高まっていました。
この事が「エクソシスト」を頂点とする、いわゆる"オカルト映画"のブームとなって現れたことは間違いありませんが、それは単に表層的なオカルト映画や見世物の恐怖ではなく、神と悪魔の存在を信じる欧米人にとっては、「エクソシスト」を始めとする一連のオカルト物は、彼らの心に奥深く突き刺さり、恐怖と戦慄を呼び起こしたのではないかと思います。
この映画のストーリーは、1949年のメリーランド州のある町で、14歳の少年の身に実際に起こった事件が元になったという事で、この少年は、3カ月に渡って悪霊に苦しみましたが、カトリックの"悪魔祓い師"(エクソシスト)によって解放されたそうです。
しかし、本当にこのような事実があったのかどうか、そして、カトリックの秘法によって人間の心が救われるのかどうか----我々、現代人にとってはなかなか信じ難い事です。
ましてや、キリスト教の歴史や背景や教義について、ほとんど知らない我々日本人にとっては、この映画の宗教的な本当の深さは、到底、わかりようがない気がします。
映画「エクソシスト」で描かれる、悪魔に取り憑かれた12歳の少女リーガン(リンダ・ブレア)の異常でおぞましい振る舞いは、むしろ滑稽でもあり、生理的な嫌悪感しか感じさせません。
悪魔の所業を示す音響効果や特撮も、反対にその実在感というものを希薄にしているような気がします。
むしろ、病院で再三再四繰り返される、脳や脊髄の近代的な医学検査の残酷さこそショッキングであり、また、カラス神父が自分の老母を貧窮の中に死なせる、ニューヨークの精神老人病棟の悲惨な状況の中にこそ、現代の悪霊そのものの姿を感じてしまいます。
カラス神父の、神に一生を捧げたばかりに、精神病の医者の資格を持ちながら、愛する母親を生ける屍のように放置しなければならなかった苦しみは、少女の悪霊に白髪の老母の姿を見て、その声を聞き間違う程に深いものがあったのだと思います。
そして、少女に巣食った悪霊を自らの心に受け入れて、身を捨てるカラス神父の壮絶な最期は、"現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念"を我々観る者の魂の奥底に突き付けてきます。
この「エクソシスト」は当時、評判になったような少女リーガンの異常で、怪奇的なオカルトタッチの姿にその興味を持つのではなく、悪魔祓い師(エクソシスト)の"カラス神父の絶望の淵に深く沈みこんだ心"にこそ、焦点をおいて観るべきなのだと強く思います。
半ば壊れかかったアパートで、一人ラジオを聴き、病院のベッドで顔をそむけ、そして、地下鉄の入り口に幻のように現われる老母の姿は、カラス神父にとっては、少女リーガンに取り憑いた悪霊そのものです。
そして、この悔恨の悪霊は、乱れた男女関係その他、諸々の人間関係から生まれた、この世の邪悪と共に、この純粋で無垢な少女の身を借りて、醜い悪魔となって、この世に現われて来たような気がします。
そして、メリン神父(マックス・フォン・シドー)とカラス神父の二人の死というものを代償にして、やっと追い祓われる悪魔は、実は"現代社会の中で、人それぞれに歪められてしまった心そのもの"である事を暗示的に示しているのだと思います。
原作、脚色のウィリアム・ピーター・ブラッティと監督のウィリアム・フリードキンの、この映画に情熱をかけた真の狙いもそこにあったのだと思います。
この映画「エクソシスト」は、現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作だと思います。
この映画「エクソシスト」の製作、原作、脚色は、ウィリアム・ピーター・ブラッティで、彼は、それまでにも「暗闇でドッキリ」とか「地上最大の脱出作戦」等、数多くのコメディ映画の脚本を書いていますが、コメディと違ってこの「エクソシスト」が、果たして成功するのかどうか、全くわからなかったと彼は語っています。
彼の両親は、シリアとレバノンの生まれで、映画の冒頭に出てくる中東の廃墟の場面は、彼の出生とアメリカ情報局勤務当時の、その地での記憶と深く関わりがあると言われていますが、映画の本筋からは少しそれた感じを受けました。
それより、むしろ、この映画の実質的な、本当の意味での主役ともいえる、ギリシャ移民の子であるカラス神父(ジェーソン・ミラー)の、アメリカ社会から疎外されたような孤独な姿の中に、ウィリアム・ピーター・ブラッティの生い立ち、人間像、系譜といったものが生かされているような気がします。
この映画が、初めて公開された当時の日本では、ユリ・ゲラーの"スプーン曲げ"がもてはやされ、超能力やオカルト現象がブームを巻き起こしていました。
科学万能やエレクトロニクス革命の時代への反動のように、超常現象への関心が異常な程、高まっていました。
この事が「エクソシスト」を頂点とする、いわゆる"オカルト映画"のブームとなって現れたことは間違いありませんが、それは単に表層的なオカルト映画や見世物の恐怖ではなく、神と悪魔の存在を信じる欧米人にとっては、「エクソシスト」を始めとする一連のオカルト物は、彼らの心に奥深く突き刺さり、恐怖と戦慄を呼び起こしたのではないかと思います。
この映画のストーリーは、1949年のメリーランド州のある町で、14歳の少年の身に実際に起こった事件が元になったという事で、この少年は、3カ月に渡って悪霊に苦しみましたが、カトリックの"悪魔祓い師"(エクソシスト)によって解放されたそうです。
しかし、本当にこのような事実があったのかどうか、そして、カトリックの秘法によって人間の心が救われるのかどうか----我々、現代人にとってはなかなか信じ難い事です。
ましてや、キリスト教の歴史や背景や教義について、ほとんど知らない我々日本人にとっては、この映画の宗教的な本当の深さは、到底、わかりようがない気がします。
映画「エクソシスト」で描かれる、悪魔に取り憑かれた12歳の少女リーガン(リンダ・ブレア)の異常でおぞましい振る舞いは、むしろ滑稽でもあり、生理的な嫌悪感しか感じさせません。
悪魔の所業を示す音響効果や特撮も、反対にその実在感というものを希薄にしているような気がします。
むしろ、病院で再三再四繰り返される、脳や脊髄の近代的な医学検査の残酷さこそショッキングであり、また、カラス神父が自分の老母を貧窮の中に死なせる、ニューヨークの精神老人病棟の悲惨な状況の中にこそ、現代の悪霊そのものの姿を感じてしまいます。
カラス神父の、神に一生を捧げたばかりに、精神病の医者の資格を持ちながら、愛する母親を生ける屍のように放置しなければならなかった苦しみは、少女の悪霊に白髪の老母の姿を見て、その声を聞き間違う程に深いものがあったのだと思います。
そして、少女に巣食った悪霊を自らの心に受け入れて、身を捨てるカラス神父の壮絶な最期は、"現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念"を我々観る者の魂の奥底に突き付けてきます。
この「エクソシスト」は当時、評判になったような少女リーガンの異常で、怪奇的なオカルトタッチの姿にその興味を持つのではなく、悪魔祓い師(エクソシスト)の"カラス神父の絶望の淵に深く沈みこんだ心"にこそ、焦点をおいて観るべきなのだと強く思います。
半ば壊れかかったアパートで、一人ラジオを聴き、病院のベッドで顔をそむけ、そして、地下鉄の入り口に幻のように現われる老母の姿は、カラス神父にとっては、少女リーガンに取り憑いた悪霊そのものです。
そして、この悔恨の悪霊は、乱れた男女関係その他、諸々の人間関係から生まれた、この世の邪悪と共に、この純粋で無垢な少女の身を借りて、醜い悪魔となって、この世に現われて来たような気がします。
そして、メリン神父(マックス・フォン・シドー)とカラス神父の二人の死というものを代償にして、やっと追い祓われる悪魔は、実は"現代社会の中で、人それぞれに歪められてしまった心そのもの"である事を暗示的に示しているのだと思います。
原作、脚色のウィリアム・ピーター・ブラッティと監督のウィリアム・フリードキンの、この映画に情熱をかけた真の狙いもそこにあったのだと思います。
Posted by オーウェン at 2024年09月07日 23:51
すごいコメントをありがとうございました。
細かい経緯と本作品の味わい方がよくわかりました。
感謝します。
細かい経緯と本作品の味わい方がよくわかりました。
感謝します。
Posted by 熊太郎 at 2024年09月10日 12:06
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