2024年09月06日

ブリキの太鼓 ヨーロッパ映画 1981年

ブリキの太鼓 ヨーロッパ映画 1981年(昭和56年) ディレクターズカット163分 動画配信サービス

 有名な映画ですが初めて観ました。
 奇妙な映画でした。
 第二次世界大戦がからんでいます。
 ポーランド人の少年と家族が出てきます。
 少年オスカルは障害児のようにも見えますが、架空の体の状態です。生まれながらに大人の知能を有しているという少年の設定です。
 しばらくまえに見たバカリズム脚本のドラマ、『ブラッシュアップライフ テレビドラマ 2023年1月~3月放送』みたいです。この映画にヒントがあって、『ブラッシュアップライフ』が生まれているのかもしれません。
 自分で自分の年齢をコントロールする能力をもっている少年で天才です。体の成長を3歳の状態でストップして、以降年齢を重ねても体は大きくなりません。
 こどもの体のまま、精神年齢は、最終的には21歳ぐらいまでいきます。ただ、映像を見る限り、3歳よりも大きい年齢の体に見えます。4歳後半から5歳児ぐらいに見えます。
 少年はもうひとつ能力をもっています。高い声(叫び声)を出すことで、ガラスを破壊することができます。

 戦時中ですから激動のポーランドです。ドイツ軍が侵攻してきます。
 先日観た映画が、『トラ・トラ・トラ』と、『ミッドウェイ』でした。たまたま、戦争における戦闘シーンの連続鑑賞になってしまいました。広島・長崎原爆投下記念式典とか、8月15日終戦記念日が近い時期にそれらの映画を観ました。

 映画は、なんとも奇妙な出だしでした。
 字幕スーパーが出なくて、なにをしゃべっているのかわからない外国語が続きました。
 途中で、自分で字幕を設定するのだと気づいて、設定のマークをしどろもどろに設定してセリフの意味がわかるようになりました。

 天才である男の語り話だろうか。
 『物語は、僕が生まれる前から始まる。僕のかわいそうなママが生まれることになったのは、僕の祖母アンナ・ブンスキが、若くて世間知らずで、スカートを4枚はいていて芋畑に座っていた1899年(日本だと明治32年)のある日、カシュバイの野でのことだ。(警察官ふたりに追われて逃げて来た常習放火犯人の男を祖母はかくまって、さらに夫にした)』

 カシュバイ人という民族があるらしい。(カシューブ人)

 母親のアグネスは、オスカルが3歳になったときに、ブリキの太鼓を誕生日のプレゼントとしてプレゼントします。以降、壊れたら新しいブリキの太鼓を買いながら、いつもオスカルのそばにはブリキの太鼓があります。そして、オスカルは、周囲がやかましいと思うほど、ブリキの太鼓をたたきます。

 おとなたちを見る少年オスカルの目線は、冷ややかです。
 おとなたちのだらしない暮らしぶりを見て、少年オスカルは、おとなになることをやめました。ピーターパンみたいです。
 生活に、『不幸せ』があります。
 なにがなんでもおとなの言うことをきかないこどもっています。
 物事の見方はいろいろあって、そんな奇妙なオスカルを研究対象にしたいという人物も現れます。
 オスカルは、何がしたいのだろう。何のためにそこにいるのだろう。観ている自分の所感です。
 人間がもつ『悪』をあぶりだす作品です。
 哲学的です。
 人間とは何か。
 人間とは、きれいなものではない。
 人間とは、『業のかたまり(ごうのかたまり。欲望の固まり。悪行(あくぎょう)の固まり。自己中心的)』
 
 サーカスが出てきます。
 小人チーム(こびとチーム)が芸をして、話を引っ張ります。オスカルも仲間に入っていきます。
 
 ドイツの侵攻があります。
 『僕はポーランド人だ』
 それに対して、『ドイツ語の新聞を読め!』と言われる。
 おおぜいの人間がナチス・ドイツに洗脳されて集団行動をとります。
 こどもからおとなまで、心がコントロールされていきます。
 
 エロい話も多々出てきます。
 気が変になってしまう女性もいます。

 戦火に巻き込まれた少年マルコです。
 銃声で鼓膜が破れそうです。
 部屋の中に弾丸が飛んできます。
 戦車の砲撃で部屋が壊れます。
 そんななかでも、トランプゲームしている人たちがいます。みんな頭がおかしい。
 異常です。
 
 宗教が人心をコントロールする。

 冷めた目で、こどもがおとなを見ています。
 女性が商品のようになっている。
 ウソ泣きをするこどもは、化け物(ばけもの)のようです。
 
 ドイツ人たちは、戦況がいい今は幸せそうですが、最後は戦争に負けます。
 戦争は悲惨な殺し合いです。
 今日は生きている人も、あしたは、生きているかはわかりません。

 生き残った人間の気持ちがあります。
 妻もこどもたちもみんな死んでいなくなった。
 自分だけが、生き残った。
 
 埋葬は土葬です。
 
 『なすべきか、なさざるべきか。僕は成長するんだ』
 マルコは、二十歳を過ぎて、自分の体を成人に成長させることにしました。
 
 ここで、全部がだめになったとあります。
 不思議な話でした。
 この時代に、この場所に生まれた人のお話でした。
 原点は、祖母が芋畑で夫となる男に出会ったことから始まったのです。

 理屈で考えるというよりも、人生とか戦争を、心で感じる映画でした。  

2024年09月05日

はなのあなのはなし やぎゅう げんいちろう

はなのあなのはなし やぎゅう げんいちろう・作 かがくのとも絵本 福音館書店

 なかなかいい絵本でした。
 耳鼻咽喉科のテキストを読むようでもあります。

 『このほんは、はなのあなをしっかりとふくらましてよんでください。』から始まります。
 メッセージ文字は手書きです。

 自分のはなのあなと、人のはなのあなを比較します。大きさ比べです。
 かたちを比べたりもします。
 動物のはなのあなも出てきます。
 ユーモラスです。(おもしろい。おかしい)
 ぞう、うま、かめ、いぬ、らくだ、いのししなんかのはなのあなです。
 それぞれあなはふたつあります。
 いるかのはなのあなはひとつだそうです。頭の上にあります。潮をふいたりしているあなです。

 開け閉めできる、はなのあながあります。
 あざらしとか、かばのはなのあなです。
 ほーっと感心しました。
 
 呼吸をするために、はなのあながあります。
 だいじな、あなです。
 あながないと息が苦しくなります。
 はなのあなは、においをかぐこともできます。
 ときおり、はながつまったり、はなたれになることもあります。
 はながつまると、発声がうまくいかなくなることもあります。
 
 はなげの話が出ます。
 はなげは、はなのなかをおそうじしてくれる役目があります。
 はなくその話も出ます。

 花粉症のときはつらい。
 ティッシュだらけになります。

 たま~に、はなじが出たりもします。
 はなじが止まるまで心配です。

 はなの構造図があります。わかりやすい。人間の顔の断面図です。
 
 はなの穴に、石や、豆や、消しゴムや鉛筆などを入れてはいけないと注意があります。
 先日観たテレビ番組、『東野・岡村の旅猿 マカオ編』では、ろうそくのような形をした棒で、片方の端っこに火をつけて、反対側から煙が出てきて、その部分を、耳の穴にあてたり、おへその上にのせたりするマッサージをしていました。マッサージをしてもらっていたダイアンの津田さんが、悶絶(もんぜつ。苦しくて気絶しそうになる)状態になり、裸体に紙パンツをはいていたのですが、紙パンツが破れて、だいじなものが見えている状態になってしまいました。そんなことを思い出しました。あのろうそくのような筒から出ていた煙には、感覚をマヒさせるような薬物効果があるのではないかなどと、絵本をながめながら思ったのでした。

 読み終えました。
 なるほど、いいお話でした。
 裏表紙に書いてあるたくさんの黒丸は、はなのあなが並んでいる絵でしょう。
 いい感じです。  

Posted by 熊太郎 at 07:23Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年09月04日

板上に咲く 原田マハ

板上に咲く 原田マハ 幻冬舎

 青森が生んだ木版画家、棟方志功(むなかた・しこう)のお話です。なお、棟方志功本人の解釈によると、『版画』は、『板画』という文字が妥当だそうです。

 棟方志功:1903年(明治36年)-1975年(昭和50年)72歳没。

 本書によると、棟方志功は、物静かな人だった。考え込んでいる((意識が)どこかへ行っちゃってる)。家族といっしょにいても、本人の心や気持ちは、そこに存在していないようすだった)。
 そのとき(製作開始)が来ると、ウワーッ、ウワーッと声を出してアトリエに飛び込んでいたそうです。(迫力があります)
 大きな硯(すずり)で、木版画の製作に使用する墨(すみ)を磨る(する)ことが、妻であるチヤの仕事だった。
 棟方志功は、こどもの頃から絵を描くことが好きで得意だった。帝展入選を目標にして東京へ出た。

 棟方志功の奥さんチヤの語りから始まります。奥さんは、青森県弘前市(ひろさきし)の医院で看護師をしていた。棟方志功と結婚してこどもができて、東京にいる同氏のところへ行った。

 物語の始まりの時代設定は、1987年(昭和62年)10月、場所は、東京杉並となっています。棟方志功の死後12年が経過しています。
 
 東郷青児美術館:新宿にある。現在は、SOMPO美術館。わたしは東京見物で、今年1月に同美術館を訪れて、本書に出てくるゴッホの『ひまわり』を見学しました。
 本書によると、ゴッホの『ひまわり』は、競売により生命保険会社が58億円で購入したそうです。歴史上世界的に有名なご本人が描いた絵を入館料金だけで直接見ることができることは幸せなことだと思います。力強い筆づかいでした。ゴッホが描いた『ひまわり』は、笑っているように見えました。ながめていて、明るく充実した幸福感を味わいました。

 本書によると、棟方志功にとってゴッホは神さま、偉大な先生のような存在だったそうです。
 『ワぁ、ゴッホになる!』棟方志功は、17歳のときにゴッホの絵を雑誌で見た。
 棟方志功は、こどもの頃から弱視だった。写実的な細かい絵は描けない。
 遠近法:空間を維持した書き方。
 布置法(ふちほう):並べて置く。

 巴里爾」(ぱりじ):棟方志功夫婦の長男のお名前。フランスのパリにちなんでいる。
 ワ:棟方志功氏が自分のことを言う時の言葉。ワ(私)。
 
『1928年(昭和3年)10月青森-1929年(昭和4年)9月弘前(ひろさき)』
赤城チヤ:青森市出身。棟方志功の妻となる女性。18歳から20歳ころ。看護師志望で弘前市にて看護師になった。弘前での下宿先が、工藤一家。当時棟方志功は25歳ぐらい。東京にいた。

川村イト:赤城チヤの親友。小学校の同級生。歯科医院の娘。

女の一生の役割は、『嫁』と『母』しかない時代だった。『職業婦人』は、珍しかった。

古藤正雄(ことう・まさお):昭和時代の彫刻家。棟方志功と親しかった。1986年(昭和61年)没。

帝展(ていてん):帝国美術院展覧会。1919年(大正8年)から1935年(昭和10年)まで開催された。

与謝野晶子(よさの・あきこ):1878年(明治11年)-1942年(昭和17年)63歳没。歌人、作家、思想家。

 文章の書き方に工夫がしてあります。
 文章で、棟方志功の人柄を浮き彫りにする努力がなされていることがわかります。
 
<チヤ様、私は貴女に惚れ申し候(チヤさま、わたしはあなたに、ほれもうしそうろう)。ご同意なくばあきらめ候((結婚の)同意がなければ、あきらめます(そうろう)) 志功>心がこもったプロポーズの言葉ですが、なんと、新聞の告知欄に掲載されています。そういえばわたしはこどものころ、新聞でよく見ました。『〇〇(下の名前)、チチキトク、スグカエレ』とか。

 青森県にある八甲田山(はっこうださん)のことがときおり出てきます。
 わたしは、観光用ロープウェイで八甲田山の頂上まで二度上ったことがあります。
 とてもきれいなところです。とくに、雪景色のときの風景が抜群です。

『1930年(昭和5年)5月青森-1932年(昭和7年)6月東京中野』
 同じく青森出身の作家として、太宰治(だざい・おさむ):1909年(明治42年)-1948年(昭和23年)38歳没。

鷹山宇一(たかやま・ういち):棟方志功に影響されて絵描きへの道へと進んだ人物。青森県上北郡の裕福な家の息子。

松木満史(まつき・まんし):西津軽郡の裕福な桶屋の息子。棟方志功より3歳年下。東京中野で、棟方志功が居候させてもらっていた一家。夫婦でこどもがあった。

 絵の仲間が集まったときの年齢は、14歳から19歳。みんなでグループをつくった。『青光社』という名称だった。

小野忠明:棟方志功の絵の仲間。雑誌『白樺』を、当時17歳の棟方志功に見せた。ゴッホの『ひまわり』が掲載されていた。棟方志功は、ゴッホになることを決意した。そのときの複製画を切り取って以降ずーっと棟方志功は持っていたようです。

 棟方志功の妻チヤの視点で同氏のことが書いてあります。
 なんだろう。表現が、弱いような印象を受けるのです。
 味わいと雰囲気はあるのですが、力強さは感じられません。
 ドラマとか舞台劇の台本を読んでいるようでもあります。

 棟方志功は1903年(明治36年)生まれですから、わたしの祖父の世代です。わたしの祖父は、1907年(明治40年)生まれでした。
 棟方志功は、15人兄弟・姉妹です。すごいなあ。
 棟方志功は、6番目の3男だったそうです。母親は41歳で肝臓がんのために亡くなったそうです。こどもをたくさん産んだことも体力低下に関係していたのではなかろうか。
 家は鍛冶屋で、小さいころから火花や煤(すす)を見ていたせいか弱視だったそうです。
 青森の『ねぶた』を見て、絵を描くことに興味をもったそうです。
 絵が描ける人は、絵以外のことについても芸術家といえるような気がします。お笑い芸人さんでも絵が上手な人がいます。
 
 棟方チヤの性格設定はシンプルです。(単純明快)。
 『ワはあの人ば信ずるっぺって、思っでんだ』
 『スコさ(棟方志功のことをそう呼ぶ)』
 
 絵が売れなくて、棟方志功が食べていくためにやった仕事です。自転車に乗ってラッパを吹いて、『納豆売り』、それから、『靴の修理屋』、『看板の絵描き』とあります。

けよう:棟方夫婦のこども。長女。本では、『きょう子』という表記も出てきます。文章のあちこちに津軽なまりが出てきます。

『1932年(昭和7年)9月東京中野野方(現在の高円寺駅の北あたり)-1933年(昭和8年)12月青森』
経木(きょうぎ):スギ、ヒノキなどの木の薄い皮。食品を包むときに使用する。

『白樺』に、ゴッホの複製画が載っていた。白樺:文芸誌、美術誌。1910年(明治43年)武者小路実篤、志賀直哉ほかが創刊した。ロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンをとりあげた。

川上澄生(かわかみ・すみお):版画家。1895年(明治28年)-1972年(昭和47年)77歳没。
 
 版画は何枚も刷るから(するから)お金にならない。版画はチラシのようなもの。
 (リトグラフという手法があることを思い出しました。枚数を限定して、何枚のうちの何枚目と絵の隅に、表示されています)
 ゴッホは、版画である日本の浮世絵の影響を受けて炎の作家になった。
 葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、渓斎英泉(けいさい・えいせん)などです。
 
 棟方夫婦に、長男、『巴里爾(ぱりじ)』が誕生しました。ふたりめのこどもさんです。
 奥さんは、貧乏版画家の棟方志功さんを助けるために、ミシンの技術を習得して、家族を養うことを決意します。(されど、棟方志功はそれを断ります)

『1934年(昭和9年)3月 東京中野』
 浮世絵:浮世絵の製作は、絵師・彫師(ほりし)・摺り師(すりし)の共同作業だった。棟方志功はそれをひとりでやった。多色摺り(たしょくずり)はお金がかかる。経済的余裕がなかった棟方志功は白黒の木版画を製作した。
 版画は油絵よりも格下に見られていた。
 棟方志功は、たいへんな読書家だった。
 知己(ちき):知り合い、知人。
 化ける(ばける):想像もしなかったすごい版画家になる。
 棟方志功は、目が悪いが、お金がないから目医者にはかからない。
 
新詩論:松木から棟方志功に渡された本。この本にある詩、『大和し美し(やまとしうるはし) 詩人 佐藤一英(さとう・いちえい)作』が、棟方志功の人生を変えるそうです。四季をともなう日本国の自然美が感じられる詩です。

『1936年(昭和11年)4月 東京中野』
 188ページあたりまで読みました。
 おとなしい内容の小説作品です。
 棟方志功の妻チヤのひとり語りで、淡々と静かに時代が流れていきます。
 貧困生活から栄光へ、下積みから売れる作家へ、ゴッホが棟方志功を支えてくれます。
 そして、妻チヤが、3人のこどもをかかえながら、夫棟方志功を支えていきます。

水谷良一:内閣官僚

 東京中野で、二軒長屋を借りて家族5人で暮らす。まだ昭和11年です。中野の風景は田舎です。
 長屋を、『雑華堂(ざっけどう)』と名づけた棟方志功です。
 家の中の壁などを版画で飾ったそうです。
 
柳宗悦(やなぎ・むねよし):美術評論家、宗教哲学者、思想家。1889年(明治22年)-1961年(昭和36年)72歳没。民藝運動の主唱者(手仕事でできたものに『美』を見いだす)

濱田庄司(はまだ・しょうじ):陶芸家。民藝運動の中心的な活動家。1894年(明治27年)-1978年(昭和53年)83歳没。

河井寛次郎:京都住まい。陶芸家、彫刻、デザインほかの芸術関係者。1890年(明治23年)-1966年(昭和36年)76歳没。

日本民藝館(にほんみんげいかん):東京目黒区にある。1936年(昭和11年)創立。
 
山本顧彌太(やまもと・こやた):実業家。綿織物で財を成す。1886年(明治19年)-1963年(昭和38年)77歳没。ゴッホの『ひまわり』の原画を所有している。(今でいうと2億円で購入したそうです)。絵は1945年(昭和20年)の空襲により家とともに焼失しています。(250ページにそのことがチラリと書いてあります)

 苦労が報われていきます。(むくわれていきます)
 一家は貧困暮らしをしていましたが、棟方志功の絵が売れるようになって、家族が生活できるようになります。絵が250円で売れました。(当時の1円が現在の1000円~3000円ですから、25万円~75万円です)。
 いい話です。
 つくづく、仕事は、才能と努力、そして人間関係だと思うのです。

富本憲吉(とみもと・けんきち):陶芸家、人間国宝。1886年(明治19年)-1963年(昭和38年)77歳没。

『1937年(昭和12年)四月 東京中野-1939年(昭和14年)五月 東京中野』
 神仏画の製作が始まります。
 宗教の雰囲気の版画です。
 製作にあたって大量の熱量がこもっています。
 力がこもっています。
 青森の、『ねぶた』からきているのだろうか。

 木製のまな板に木版画を掘り始めます。それも、大量のまな板を使用する製作です。
 長さ10mの屏風絵です。
 大作です。
 されど、評価はそれほどでもありません。
 中心に棟方志功が考えた経典には出てこない仮想の仏を配置したからです。
 仏は、屏風の折り目に書かれているので、顔がまっぷたつに割れているように見えるそうです。
 
バーナード・リーチ:香港出身。イギリス人の陶芸家。画家、デザイナー。1887年(日本だと明治20年)-1979年(昭和54年)92歳没。

李朝(りちょう):李氏朝鮮。朝鮮半島の王朝。1392年(日本は室町時代)-1897年(日本は明治時代明治30年。

メートルがあがる:電力使用量のメーターが上がる→酔いが進むというたとえ。酔っ払う。

 男尊女卑の時代です。男は酒を飲んで舞い上がって、女子は給仕役です。(女子は、飲食の世話をする)。

 1936年(昭和11年)スペイン内戦ぼっ発。1939年(昭和14年)まで。

善知鳥神社(うとうじんじゃ):青森市にある神社。棟方志功夫婦が夫婦の誓いをした場所。

 作風は、能(のう。能楽(のうがく)。日本の伝統芸能)とか、仏を素材にするようになります。宗教的です。

伝教大師(でんぎょうだいし):最澄(さいちょう)。天台宗の開祖(かいそ)。平安時代初期の仏教僧。滋賀県大津市にある比叡山延暦寺(えんりゃくじ)。

 棟方志功は、左目の視力を失いつつあります。

 製作、創作について、仏教の世界に救いを求める。

『1944年(昭和19年)五月 東京代々木-1945年(昭和20年)五月富山 福光(現在は、南砺市(なんとし。疎開先です))』
 長女 けよう 13歳
 長男 巴里爾(ぱりじ) 10歳
 次女 ちよゑ(え) 8歳
 次男 令明(よしあき) 2歳半

 東京への空襲を避けるために、富山県に疎開します。
 版木を富山へ運びたいけれど、版木は生活必需品ではないから鉄道輸送のときに認めてもらえそうもありません。いろいろあります。
 棟方志功は、ゴッホになることをあきらめます。
 ゴッホになることをあきらめて、『ムナカタ』になることを決意します。

 小説の内容は、戦時中の記述からすると、戦争反対という反戦の意味があるのでしょうが、その趣旨からは抜けだして、この小説の根っこにあるのは、才能と努力の人である棟方志功と、夫を支える棟方志功の愛妻チヤのふたりが、お互いの夫婦愛を育てていくことのすばらしさを表現した作品です。
 (なんというか、今の世の中では、『仮面夫婦』とか、『家庭内別居状態にある夫婦』ということを聞くのですが、長い結婚生活を送っていても仲良しに見える夫婦というのはいます。それは、それなりにお互いが相手を気遣う(きずかう)努力をしているからだと思うのです。どちらかいっぽうだけがめんどうなことを負担する生活をしていると夫婦関係は冷たくなります)

 戦時中の空襲から守るために、『版木』を『椅子』として鉄道運搬の受付に出します。東京から棟方志功家族の疎開先(そかいさき)である富山県へ大事な版木を列車で搬送するのです。
 そして、約10万人が死者として犠牲者になった東京大空襲が始まりました。1945年(昭和20年)3月10日でした。

 まずは、生き抜かねばなりません。
 じょうずにたとえてあります。
 『自分は、ひまわりだ』
 (なんだか、ウクライナの話とも共通してきます)
 『自分は、ひまわりだ』の『ひまわり』は、棟方志功の妻であるチヤのことなのです。
 
『終章 1987年(昭和62年)十月 東京杉並』
 広島市への原爆投下の記事があります。
 その後、ご夫婦が、海外から招きを受けて、あちこち回ったお話があります。
 アメリカ各地、ヨーロッパ諸国、インド、フランス、フランスでは、ゴッホと弟のテオのお墓参りをしました。

 夫婦ってなんだろうって考えました。
 お互いに協力して助け合っていくのが夫婦の姿と受け止めました。  

Posted by 熊太郎 at 06:23Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年09月02日

エクソシスト 洋画 1974年(昭和49年)

エクソシスト 洋画 1974年(昭和49年) 2時間2分 動画配信サービス

 ホラー映画『エクソシスト』は、高校生のころ、福岡県内の映画館で観ました。
 今回半世紀ぶりぐらいで見直して、内容について、ずいぶんいろいろなことを忘れていることがわかりました。筋立てを忘れていたので、ラストシーンが今回観ていても、どうなるのだろうかと思いを巡らしながら観ていました。
 昔のことで覚えているのは、当時観たときの映画館が超満員だったこと、高校の同じクラスの女子たちが観に来ていて、翌日そのうちのひとりがぜんせんこわくなかったと教室でアピールしていたことでした。『みんなーー 期待して見に行ってもこわくないよーー』って、言っていました。
 ほかに覚えていたのは、悪魔にのりうつられた犠牲者の少女の首が360度ぐるりと回転するシーンでした。

 今回観て、なかなかの力作だと好感をもちました。たいしたものです。

 イラクでの遺跡発掘現場から始まって、後半、その作業に従事していた神父が悪魔払いの儀式に参加します。
 悪魔が少女にのりうつる話です。少女の体から悪魔を出さねばなりません。
 少女役は、リンダ・ブレアというまだこどものような女優さんだったことを思い出しました。
 もう、当時映画館で映画を観た世代も出演していたリンダさんも、いまでは、おじいさん・おばあさんの世代になりました。時が流れるのは早いものです。

 背中に翼がついた恐竜みたいな悪魔の姿です。

 ああこの音楽、思い出しました。
 オルゴールの音のようなきれいなメロディーの繰り返しです。
 恐怖があなたに近づいて来るのです。

 当時のこととして、ベトナム戦争のサイゴン陥落とか(かんらく。サイゴンは、南ベトナムの首都だった。1975年(昭和50年)4月30日南ベトナム(米国側)の無条件降伏があった。

 
 暗い映像やグロテスクな映像、卑猥な(ひわい)な言動もあります。
 当時はまだ、映画館の観客に厳しい年齢制限はなかったし、指定席というものもありませんでした。中学生でも田舎(いなか)である地元の集落にある映画館へ高倉健さんや菅原文太さん、鶴田浩二さんのヤクザ映画を観に行っていました。さすがに成人映画の日活ロマンポルノを見る中学生はいなかったと思いますが、おとなに変装した高校生ぐらいは、ポルノ映画を見に行っていたのかもしれません。(観客の年齢判断は映画館従業員の目視だけだったと思います。昭和時代は、規制について、ゆるいおおらかな時代でした。映画館もたくさんありました。自分たちが住んでいる住宅地の中に映画館がありました。テレビはまだ普及の過渡期でした。白黒テレビがカラーテレビになっていったころでした。かとき:移り変わりの途中の時期)

 映画では、当初、少女は病気、脳の障害が疑われますが、検査した結果、機能は正常です。
 脳脊髄液が原因で脳波に異常があるのではないかという話も出ますが、すべて正常です。
 それでも少女はベッド上で、暴れ回ります。屈伸の動きなどは、恐怖をとおりこして、笑えます。コメディです。
 すごい演技というか特殊撮影です。暴れ回るのでクスリを打って眠らせるしかないと観ていて思います。案の定(あんのじょう。やっぱり)、少女に鎮痛剤が打たれました。
 
 この映画が成功したのは、宣伝効果があったからでしょう。
 こわいぞーー こわいぞーー で、こわいもの見たさが人間の本質(ほんしつ。根本(こんぽん)の性質)にあります。

 医学的な原因がわかりません。
 ショック療法をするそうです。
 カトリックの秘儀(ひぎ。秘密に行う儀式)『悪魔祓い(あくまばらい)』の儀式を行って、少女の体内から悪魔を体外に出すのです。
 暗示を解く手法だそうです。呪術師(じゅじゅつし)に頼みます。
 
 まあ、メチャクチャですなあ。動きが激しい。
 少女の体はつくりものの人形だとわかります。
 でも、まあまあおもしろい。
 びっくりしました。
 少女の口から緑色のチューインガムみたいなゲロが飛び出してきました。
 
 教会の許可が出ないと悪魔払いの儀式はできないそうです。
 でも、許可が出ました。
 殺人事件がからんでいるので、(犯人は悪魔ですが)、刑事もいます。
 オープンリールテープのテープレコーダーがなつかしい。小学校の授業で先生が使っていました。今の若い人は見たこともないでしょう。
 
 大声でわめく悪魔くんです。
 映画館の大画面で観るとこわいだろうなあ。(ちょっと自分は覚えていませんが、同時期に映画館へ観に行ったブルースリーの拳法映画はよく覚えています。アチョー アチョーです。振り回していたのは、ヌンチャクですな)
 
 まあ、現実的に考えれば、迷信(科学的な根拠のないうそ話)の設定ですが、まあ、映画です。そして、ホラーです。(恐怖映画)

 祈りでは救われない。
 呪術師自身にとっては、自分が死んでしまうという最悪の結果が訪れました。されど、少女の命は救われました。犠牲を伴う救いです。
 ストーリー展開よりも、特殊撮影の映像の展開で力が入るシーンが続きます。
 少女の体から出た悪魔は、どこにいったのだろう。
 エロ悪魔だった。へんな奴(やつ)だった。
 
 力作でした。傑作です。

 急で(きゅうで)長い階段が、この映画の象徴として扱われていました。
 そこでふたりの人間が死にました。