2024年09月04日

板上に咲く 原田マハ

板上に咲く 原田マハ 幻冬舎

 青森が生んだ木版画家、棟方志功(むなかた・しこう)のお話です。なお、棟方志功本人の解釈によると、『版画』は、『板画』という文字が妥当だそうです。

 棟方志功:1903年(明治36年)-1975年(昭和50年)72歳没。

 本書によると、棟方志功は、物静かな人だった。考え込んでいる((意識が)どこかへ行っちゃってる)。家族といっしょにいても、本人の心や気持ちは、そこに存在していないようすだった)。
 そのとき(製作開始)が来ると、ウワーッ、ウワーッと声を出してアトリエに飛び込んでいたそうです。(迫力があります)
 大きな硯(すずり)で、木版画の製作に使用する墨(すみ)を磨る(する)ことが、妻であるチヤの仕事だった。
 棟方志功は、こどもの頃から絵を描くことが好きで得意だった。帝展入選を目標にして東京へ出た。

 棟方志功の奥さんチヤの語りから始まります。奥さんは、青森県弘前市(ひろさきし)の医院で看護師をしていた。棟方志功と結婚してこどもができて、東京にいる同氏のところへ行った。

 物語の始まりの時代設定は、1987年(昭和62年)10月、場所は、東京杉並となっています。棟方志功の死後12年が経過しています。
 
 東郷青児美術館:新宿にある。現在は、SOMPO美術館。わたしは東京見物で、今年1月に同美術館を訪れて、本書に出てくるゴッホの『ひまわり』を見学しました。
 本書によると、ゴッホの『ひまわり』は、競売により生命保険会社が58億円で購入したそうです。歴史上世界的に有名なご本人が描いた絵を入館料金だけで直接見ることができることは幸せなことだと思います。力強い筆づかいでした。ゴッホが描いた『ひまわり』は、笑っているように見えました。ながめていて、明るく充実した幸福感を味わいました。

 本書によると、棟方志功にとってゴッホは神さま、偉大な先生のような存在だったそうです。
 『ワぁ、ゴッホになる!』棟方志功は、17歳のときにゴッホの絵を雑誌で見た。
 棟方志功は、こどもの頃から弱視だった。写実的な細かい絵は描けない。
 遠近法:空間を維持した書き方。
 布置法(ふちほう):並べて置く。

 巴里爾」(ぱりじ):棟方志功夫婦の長男のお名前。フランスのパリにちなんでいる。
 ワ:棟方志功氏が自分のことを言う時の言葉。ワ(私)。
 
『1928年(昭和3年)10月青森-1929年(昭和4年)9月弘前(ひろさき)』
赤城チヤ:青森市出身。棟方志功の妻となる女性。18歳から20歳ころ。看護師志望で弘前市にて看護師になった。弘前での下宿先が、工藤一家。当時棟方志功は25歳ぐらい。東京にいた。

川村イト:赤城チヤの親友。小学校の同級生。歯科医院の娘。

女の一生の役割は、『嫁』と『母』しかない時代だった。『職業婦人』は、珍しかった。

古藤正雄(ことう・まさお):昭和時代の彫刻家。棟方志功と親しかった。1986年(昭和61年)没。

帝展(ていてん):帝国美術院展覧会。1919年(大正8年)から1935年(昭和10年)まで開催された。

与謝野晶子(よさの・あきこ):1878年(明治11年)-1942年(昭和17年)63歳没。歌人、作家、思想家。

 文章の書き方に工夫がしてあります。
 文章で、棟方志功の人柄を浮き彫りにする努力がなされていることがわかります。
 
<チヤ様、私は貴女に惚れ申し候(チヤさま、わたしはあなたに、ほれもうしそうろう)。ご同意なくばあきらめ候((結婚の)同意がなければ、あきらめます(そうろう)) 志功>心がこもったプロポーズの言葉ですが、なんと、新聞の告知欄に掲載されています。そういえばわたしはこどものころ、新聞でよく見ました。『〇〇(下の名前)、チチキトク、スグカエレ』とか。

 青森県にある八甲田山(はっこうださん)のことがときおり出てきます。
 わたしは、観光用ロープウェイで八甲田山の頂上まで二度上ったことがあります。
 とてもきれいなところです。とくに、雪景色のときの風景が抜群です。

『1930年(昭和5年)5月青森-1932年(昭和7年)6月東京中野』
 同じく青森出身の作家として、太宰治(だざい・おさむ):1909年(明治42年)-1948年(昭和23年)38歳没。

鷹山宇一(たかやま・ういち):棟方志功に影響されて絵描きへの道へと進んだ人物。青森県上北郡の裕福な家の息子。

松木満史(まつき・まんし):西津軽郡の裕福な桶屋の息子。棟方志功より3歳年下。東京中野で、棟方志功が居候させてもらっていた一家。夫婦でこどもがあった。

 絵の仲間が集まったときの年齢は、14歳から19歳。みんなでグループをつくった。『青光社』という名称だった。

小野忠明:棟方志功の絵の仲間。雑誌『白樺』を、当時17歳の棟方志功に見せた。ゴッホの『ひまわり』が掲載されていた。棟方志功は、ゴッホになることを決意した。そのときの複製画を切り取って以降ずーっと棟方志功は持っていたようです。

 棟方志功の妻チヤの視点で同氏のことが書いてあります。
 なんだろう。表現が、弱いような印象を受けるのです。
 味わいと雰囲気はあるのですが、力強さは感じられません。
 ドラマとか舞台劇の台本を読んでいるようでもあります。

 棟方志功は1903年(明治36年)生まれですから、わたしの祖父の世代です。わたしの祖父は、1907年(明治40年)生まれでした。
 棟方志功は、15人兄弟・姉妹です。すごいなあ。
 棟方志功は、6番目の3男だったそうです。母親は41歳で肝臓がんのために亡くなったそうです。こどもをたくさん産んだことも体力低下に関係していたのではなかろうか。
 家は鍛冶屋で、小さいころから火花や煤(すす)を見ていたせいか弱視だったそうです。
 青森の『ねぶた』を見て、絵を描くことに興味をもったそうです。
 絵が描ける人は、絵以外のことについても芸術家といえるような気がします。お笑い芸人さんでも絵が上手な人がいます。
 
 棟方チヤの性格設定はシンプルです。(単純明快)。
 『ワはあの人ば信ずるっぺって、思っでんだ』
 『スコさ(棟方志功のことをそう呼ぶ)』
 
 絵が売れなくて、棟方志功が食べていくためにやった仕事です。自転車に乗ってラッパを吹いて、『納豆売り』、それから、『靴の修理屋』、『看板の絵描き』とあります。

けよう:棟方夫婦のこども。長女。本では、『きょう子』という表記も出てきます。文章のあちこちに津軽なまりが出てきます。

『1932年(昭和7年)9月東京中野野方(現在の高円寺駅の北あたり)-1933年(昭和8年)12月青森』
経木(きょうぎ):スギ、ヒノキなどの木の薄い皮。食品を包むときに使用する。

『白樺』に、ゴッホの複製画が載っていた。白樺:文芸誌、美術誌。1910年(明治43年)武者小路実篤、志賀直哉ほかが創刊した。ロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンをとりあげた。

川上澄生(かわかみ・すみお):版画家。1895年(明治28年)-1972年(昭和47年)77歳没。
 
 版画は何枚も刷るから(するから)お金にならない。版画はチラシのようなもの。
 (リトグラフという手法があることを思い出しました。枚数を限定して、何枚のうちの何枚目と絵の隅に、表示されています)
 ゴッホは、版画である日本の浮世絵の影響を受けて炎の作家になった。
 葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、渓斎英泉(けいさい・えいせん)などです。
 
 棟方夫婦に、長男、『巴里爾(ぱりじ)』が誕生しました。ふたりめのこどもさんです。
 奥さんは、貧乏版画家の棟方志功さんを助けるために、ミシンの技術を習得して、家族を養うことを決意します。(されど、棟方志功はそれを断ります)

『1934年(昭和9年)3月 東京中野』
 浮世絵:浮世絵の製作は、絵師・彫師(ほりし)・摺り師(すりし)の共同作業だった。棟方志功はそれをひとりでやった。多色摺り(たしょくずり)はお金がかかる。経済的余裕がなかった棟方志功は白黒の木版画を製作した。
 版画は油絵よりも格下に見られていた。
 棟方志功は、たいへんな読書家だった。
 知己(ちき):知り合い、知人。
 化ける(ばける):想像もしなかったすごい版画家になる。
 棟方志功は、目が悪いが、お金がないから目医者にはかからない。
 
新詩論:松木から棟方志功に渡された本。この本にある詩、『大和し美し(やまとしうるはし) 詩人 佐藤一英(さとう・いちえい)作』が、棟方志功の人生を変えるそうです。四季をともなう日本国の自然美が感じられる詩です。

『1936年(昭和11年)4月 東京中野』
 188ページあたりまで読みました。
 おとなしい内容の小説作品です。
 棟方志功の妻チヤのひとり語りで、淡々と静かに時代が流れていきます。
 貧困生活から栄光へ、下積みから売れる作家へ、ゴッホが棟方志功を支えてくれます。
 そして、妻チヤが、3人のこどもをかかえながら、夫棟方志功を支えていきます。

水谷良一:内閣官僚

 東京中野で、二軒長屋を借りて家族5人で暮らす。まだ昭和11年です。中野の風景は田舎です。
 長屋を、『雑華堂(ざっけどう)』と名づけた棟方志功です。
 家の中の壁などを版画で飾ったそうです。
 
柳宗悦(やなぎ・むねよし):美術評論家、宗教哲学者、思想家。1889年(明治22年)-1961年(昭和36年)72歳没。民藝運動の主唱者(手仕事でできたものに『美』を見いだす)

濱田庄司(はまだ・しょうじ):陶芸家。民藝運動の中心的な活動家。1894年(明治27年)-1978年(昭和53年)83歳没。

河井寛次郎:京都住まい。陶芸家、彫刻、デザインほかの芸術関係者。1890年(明治23年)-1966年(昭和36年)76歳没。

日本民藝館(にほんみんげいかん):東京目黒区にある。1936年(昭和11年)創立。
 
山本顧彌太(やまもと・こやた):実業家。綿織物で財を成す。1886年(明治19年)-1963年(昭和38年)77歳没。ゴッホの『ひまわり』の原画を所有している。(今でいうと2億円で購入したそうです)。絵は1945年(昭和20年)の空襲により家とともに焼失しています。(250ページにそのことがチラリと書いてあります)

 苦労が報われていきます。(むくわれていきます)
 一家は貧困暮らしをしていましたが、棟方志功の絵が売れるようになって、家族が生活できるようになります。絵が250円で売れました。(当時の1円が現在の1000円~3000円ですから、25万円~75万円です)。
 いい話です。
 つくづく、仕事は、才能と努力、そして人間関係だと思うのです。

富本憲吉(とみもと・けんきち):陶芸家、人間国宝。1886年(明治19年)-1963年(昭和38年)77歳没。

『1937年(昭和12年)四月 東京中野-1939年(昭和14年)五月 東京中野』
 神仏画の製作が始まります。
 宗教の雰囲気の版画です。
 製作にあたって大量の熱量がこもっています。
 力がこもっています。
 青森の、『ねぶた』からきているのだろうか。

 木製のまな板に木版画を掘り始めます。それも、大量のまな板を使用する製作です。
 長さ10mの屏風絵です。
 大作です。
 されど、評価はそれほどでもありません。
 中心に棟方志功が考えた経典には出てこない仮想の仏を配置したからです。
 仏は、屏風の折り目に書かれているので、顔がまっぷたつに割れているように見えるそうです。
 
バーナード・リーチ:香港出身。イギリス人の陶芸家。画家、デザイナー。1887年(日本だと明治20年)-1979年(昭和54年)92歳没。

李朝(りちょう):李氏朝鮮。朝鮮半島の王朝。1392年(日本は室町時代)-1897年(日本は明治時代明治30年。

メートルがあがる:電力使用量のメーターが上がる→酔いが進むというたとえ。酔っ払う。

 男尊女卑の時代です。男は酒を飲んで舞い上がって、女子は給仕役です。(女子は、飲食の世話をする)。

 1936年(昭和11年)スペイン内戦ぼっ発。1939年(昭和14年)まで。

善知鳥神社(うとうじんじゃ):青森市にある神社。棟方志功夫婦が夫婦の誓いをした場所。

 作風は、能(のう。能楽(のうがく)。日本の伝統芸能)とか、仏を素材にするようになります。宗教的です。

伝教大師(でんぎょうだいし):最澄(さいちょう)。天台宗の開祖(かいそ)。平安時代初期の仏教僧。滋賀県大津市にある比叡山延暦寺(えんりゃくじ)。

 棟方志功は、左目の視力を失いつつあります。

 製作、創作について、仏教の世界に救いを求める。

『1944年(昭和19年)五月 東京代々木-1945年(昭和20年)五月富山 福光(現在は、南砺市(なんとし。疎開先です))』
 長女 けよう 13歳
 長男 巴里爾(ぱりじ) 10歳
 次女 ちよゑ(え) 8歳
 次男 令明(よしあき) 2歳半

 東京への空襲を避けるために、富山県に疎開します。
 版木を富山へ運びたいけれど、版木は生活必需品ではないから鉄道輸送のときに認めてもらえそうもありません。いろいろあります。
 棟方志功は、ゴッホになることをあきらめます。
 ゴッホになることをあきらめて、『ムナカタ』になることを決意します。

 小説の内容は、戦時中の記述からすると、戦争反対という反戦の意味があるのでしょうが、その趣旨からは抜けだして、この小説の根っこにあるのは、才能と努力の人である棟方志功と、夫を支える棟方志功の愛妻チヤのふたりが、お互いの夫婦愛を育てていくことのすばらしさを表現した作品です。
 (なんというか、今の世の中では、『仮面夫婦』とか、『家庭内別居状態にある夫婦』ということを聞くのですが、長い結婚生活を送っていても仲良しに見える夫婦というのはいます。それは、それなりにお互いが相手を気遣う(きずかう)努力をしているからだと思うのです。どちらかいっぽうだけがめんどうなことを負担する生活をしていると夫婦関係は冷たくなります)

 戦時中の空襲から守るために、『版木』を『椅子』として鉄道運搬の受付に出します。東京から棟方志功家族の疎開先(そかいさき)である富山県へ大事な版木を列車で搬送するのです。
 そして、約10万人が死者として犠牲者になった東京大空襲が始まりました。1945年(昭和20年)3月10日でした。

 まずは、生き抜かねばなりません。
 じょうずにたとえてあります。
 『自分は、ひまわりだ』
 (なんだか、ウクライナの話とも共通してきます)
 『自分は、ひまわりだ』の『ひまわり』は、棟方志功の妻であるチヤのことなのです。
 
『終章 1987年(昭和62年)十月 東京杉並』
 広島市への原爆投下の記事があります。
 その後、ご夫婦が、海外から招きを受けて、あちこち回ったお話があります。
 アメリカ各地、ヨーロッパ諸国、インド、フランス、フランスでは、ゴッホと弟のテオのお墓参りをしました。

 夫婦ってなんだろうって考えました。
 お互いに協力して助け合っていくのが夫婦の姿と受け止めました。  

Posted by 熊太郎 at 06:23Comments(0)TrackBack(0)読書感想文