2024年06月19日
出川哲朗の充電バイクの旅 新潟瓢湖→山形鼠ヶ関灯台
出川哲朗の充電バイクの旅 鬼奴&ノンスタ井上 新潟瓢湖(ひょうこ)あやめ園→山形鼠ヶ関灯台(ねずみがせきとうだい) TVer(ティーバー)
出川哲朗の充電させてもらえませんか? 行くぞ新潟!美しき日本海沿いを118キロ■目指すは絶景夕日の<鼠ヶ関灯台(ねずみがせきとうだい)>■ミラクルな出会いの連続で椿鬼奴&ノンスタ井上も大感激だ!ヤバイよヤバイよSP
白鳥が飛来する新潟県にある瓢湖(ひょうこ)へは三十年ぐらい前に行ったことがあるので映像を楽しみにしていましたが、今回、湖は映りませんでした。残念。その代わりにあやめ園が出ましたが、いつもなにかしら企画でぬけているところがある土方(ひじかた)ディレクターなので、あやめの花はひとつも咲いていませんでした。でも、そのあと、花が満開のときの映像が流れましたのでよしとしましょう。
そのあと長い時間帯で映像が流れた、『月岡温泉』には、宿泊したことがあるので、いろいろ思い出しました。まだ、自分はそのころ若かった。三十代でした。
今回は、椿鬼奴さんが登場する前半を見て、なかなか楽しめました。
小さいお子さんはおもしろいし、見ていて、生まれてきてくれてありがとうと言いたくなりました。
また、年配の人にとっては、出川さんや芸能人に会えて、これまでいろいろあって苦労したけれど、(出川哲朗さんという超有名人に偶然出会えて)生きててよかったという人もいます。いい番組です。
日本海の海のブルーがとてもきれいな景色です。
田園は広々と広がっています。
越後山脈は雪をかぶっています。
出演者は、ラーメンを食べています。
先日観た、『東野・岡村の旅猿』では、ゲストにロバート秋山さんを迎えて、福島県の旅で、喜多方ラーメンを食べておられました。
こちらの番組とロケ地がなんとなく近く、イメージが重なります。
月岡温泉は美肌の湯なのですが、旅館の女将さん(おかみさん)は年配の方で、自分は慢性だからもう効能がないというようなことを言われたのでおもしろかった。もう、美肌とか美人の効果が効かない(きかない)そうです。
そのあと、おにぎりみたいに大きなイチゴに出会いました。
椿鬼奴さんは、イチゴを買って、トマトも買って、タマネギも買うふうです。
椿鬼奴さん夫婦は、夫が主婦のようなもので、料理をされるそうです。まあ、ふたりがそれで良いのならそれでいいと思います。いろんな夫婦の形があります。夫は、ボートレース(ギャンブル)で忙しいそうです。ふつう、考えられないパターンですが、妻がそれでいいのなら、ほかの人がなにか文句を言う筋合い(すじあい。理屈、根拠、立場)はありません。
妻がおいしい食材を買って、夫に料理をしてもらう。夫婦というものは、ふたりがそれでいいならそれでいいのです。
城跡でお祭りです。
新発田城(しばたじょう)のさくらまつりだそうです。
充電を依頼したお宅にいた孫の女の子が明るい。
好きな食べ物は? と出川さんに質問して、出川さんが、カレーとハンバーグ、鬼奴さんが、焼き肉としゃぶしゃぶと答えました。
孫娘さんは5歳ぐらいで、おさるさんのように動き回ります。遊具のトランポリンでジャンプして、てつぼうにからまって回って、動きがとてもいい。
孫娘さんは、口が達者でおもしろい。生まれてきてくれてありがとうです。
おじいさんは、71歳だそうです。
孫娘さんの妹も出てきてにぎやかです。
鬼奴さんがさっき買ったイチゴをみんなに配って、即席のおじいさんの誕生日会が始まりました。
ハッピバースディおじいちゃんの歌をみんなで歌いました。いい誕生日になりました。
孫娘さんは将来消防士になりたいそうです。お父さんが消防団に入っているので、お父さんといっしょに仕事をしてみたいそうです。エライ!
ばかうけのお菓子の工場というところのそばを充電バイクで走りました。
ばかうけのお菓子:ちょっとわたしは知らないお菓子です。
タラフク亭というところ探しますが、なかなか見つかりません。
地元の人たちが、信号を左とか右とか案内してくれますが、そこから信号までの距離がとても長い。なにせ信号機がないのです。距離感覚が都市部とは違います。信号までの距離がとても遠い。信号がいらない地域なのです。
コミュニティセンター(公民館でしょうか)併設のレストランでした。地元の人でないとすんなりわかりません。
やっとたどり着きました。
ここまでで、椿鬼奴さんの出番は終わり、後半のゲストであるノンスタイル井上さんが登場しました。
(次週へ続く)
ノンスタイル井上さんとゴールの山形県にある灯台をめざします。
途中、スマホカメラの撮影会みたいになります。
自分は芸能人といっしょに写真に写りたいとは強くは思いません。
あいさつをして、握手をして、がんばってくださいとか、応援していますと声をかけるぐらいで十分です。
自分の目で、じかに相手を見て、脳みそに記録なり、記憶ができたらそれでいい。
なんというか、これまでの体験で、タレントさんとか有名人というのは、近くで実際に見てみると、テレビで見るのと同じだという感想があります。
初対面の人同士です。
ノンスタイルの井上さんは人に優しい。
好感をもちました。
井上さんが、2~3歳ぐらいの女の子を抱いて、抱かれた女の子が嫌がって、出川さんから、『さすが泣かれじょうず』と声をかけられました。おもしろい。
玄関を入ると、家の中に、『非常口』という証明があったので、驚きました。
昔民宿をやられていたそうです。宿泊施設だったので、非常口の緑の照明が残っているのです。
地元のマラソンで、ゴールテープを切るシーンがとっても良かった。
選手がゴールするたびに、出川さんと井上さんがもったゴールテープを切ってもらいます。
ゴールした人たちが、どうして、タレントそこにいるのかとびっくりされます。
あかちゃんを抱いた出川さんが、こどもさんの名前を聞いて、ハッピバースディの誕生祝の歌を歌っているシーンが不思議でした。
誕生日ということは、満1歳であるはずで、満1歳といえば、歩き始めていてもおかしくない体つきなのに、映像に映っているあかちゃんは、どう見ても生後4か月ぐらいにしか見えないのです。
やっぱり違っていました。その日は、あかちゃんのパパの誕生日だったそうです。
日本海、新潟の海の風景がとてもきれいです。
福井県の若狭(わかさ)あたりの海もとてもきれいです。
わざわざ海外に行かなくても、日本には、美しい海の風景がたくさんあります。
戸建てのお宅かと思ったら、レストランが併設されていました。
古民家カフェレストランでした。
きさくなご夫婦で、楽しい雰囲気が見ている者にも伝わってきました。
そのあと行った公衆浴場で、なかなかいいシーンがありました。
露天風呂につかりながら、出川さんたちと、6歳の弟を連れた10歳小学4年生のメガネの少年がおしゃべりします。
ちゃんとおとなと会話ができる立派な少年でした。
充電バイクの電気がなくなりそうになりますが、ギリギリ、目的地の灯台に着きました。
見ていて、以前、出川さんが、福岡県博多にある福岡タワーにのぼったときの回をなんとなく思い出しました。
お疲れさまでした。
出川哲朗の充電させてもらえませんか? 行くぞ新潟!美しき日本海沿いを118キロ■目指すは絶景夕日の<鼠ヶ関灯台(ねずみがせきとうだい)>■ミラクルな出会いの連続で椿鬼奴&ノンスタ井上も大感激だ!ヤバイよヤバイよSP
白鳥が飛来する新潟県にある瓢湖(ひょうこ)へは三十年ぐらい前に行ったことがあるので映像を楽しみにしていましたが、今回、湖は映りませんでした。残念。その代わりにあやめ園が出ましたが、いつもなにかしら企画でぬけているところがある土方(ひじかた)ディレクターなので、あやめの花はひとつも咲いていませんでした。でも、そのあと、花が満開のときの映像が流れましたのでよしとしましょう。
そのあと長い時間帯で映像が流れた、『月岡温泉』には、宿泊したことがあるので、いろいろ思い出しました。まだ、自分はそのころ若かった。三十代でした。
今回は、椿鬼奴さんが登場する前半を見て、なかなか楽しめました。
小さいお子さんはおもしろいし、見ていて、生まれてきてくれてありがとうと言いたくなりました。
また、年配の人にとっては、出川さんや芸能人に会えて、これまでいろいろあって苦労したけれど、(出川哲朗さんという超有名人に偶然出会えて)生きててよかったという人もいます。いい番組です。
日本海の海のブルーがとてもきれいな景色です。
田園は広々と広がっています。
越後山脈は雪をかぶっています。
出演者は、ラーメンを食べています。
先日観た、『東野・岡村の旅猿』では、ゲストにロバート秋山さんを迎えて、福島県の旅で、喜多方ラーメンを食べておられました。
こちらの番組とロケ地がなんとなく近く、イメージが重なります。
月岡温泉は美肌の湯なのですが、旅館の女将さん(おかみさん)は年配の方で、自分は慢性だからもう効能がないというようなことを言われたのでおもしろかった。もう、美肌とか美人の効果が効かない(きかない)そうです。
そのあと、おにぎりみたいに大きなイチゴに出会いました。
椿鬼奴さんは、イチゴを買って、トマトも買って、タマネギも買うふうです。
椿鬼奴さん夫婦は、夫が主婦のようなもので、料理をされるそうです。まあ、ふたりがそれで良いのならそれでいいと思います。いろんな夫婦の形があります。夫は、ボートレース(ギャンブル)で忙しいそうです。ふつう、考えられないパターンですが、妻がそれでいいのなら、ほかの人がなにか文句を言う筋合い(すじあい。理屈、根拠、立場)はありません。
妻がおいしい食材を買って、夫に料理をしてもらう。夫婦というものは、ふたりがそれでいいならそれでいいのです。
城跡でお祭りです。
新発田城(しばたじょう)のさくらまつりだそうです。
充電を依頼したお宅にいた孫の女の子が明るい。
好きな食べ物は? と出川さんに質問して、出川さんが、カレーとハンバーグ、鬼奴さんが、焼き肉としゃぶしゃぶと答えました。
孫娘さんは5歳ぐらいで、おさるさんのように動き回ります。遊具のトランポリンでジャンプして、てつぼうにからまって回って、動きがとてもいい。
孫娘さんは、口が達者でおもしろい。生まれてきてくれてありがとうです。
おじいさんは、71歳だそうです。
孫娘さんの妹も出てきてにぎやかです。
鬼奴さんがさっき買ったイチゴをみんなに配って、即席のおじいさんの誕生日会が始まりました。
ハッピバースディおじいちゃんの歌をみんなで歌いました。いい誕生日になりました。
孫娘さんは将来消防士になりたいそうです。お父さんが消防団に入っているので、お父さんといっしょに仕事をしてみたいそうです。エライ!
ばかうけのお菓子の工場というところのそばを充電バイクで走りました。
ばかうけのお菓子:ちょっとわたしは知らないお菓子です。
タラフク亭というところ探しますが、なかなか見つかりません。
地元の人たちが、信号を左とか右とか案内してくれますが、そこから信号までの距離がとても長い。なにせ信号機がないのです。距離感覚が都市部とは違います。信号までの距離がとても遠い。信号がいらない地域なのです。
コミュニティセンター(公民館でしょうか)併設のレストランでした。地元の人でないとすんなりわかりません。
やっとたどり着きました。
ここまでで、椿鬼奴さんの出番は終わり、後半のゲストであるノンスタイル井上さんが登場しました。
(次週へ続く)
ノンスタイル井上さんとゴールの山形県にある灯台をめざします。
途中、スマホカメラの撮影会みたいになります。
自分は芸能人といっしょに写真に写りたいとは強くは思いません。
あいさつをして、握手をして、がんばってくださいとか、応援していますと声をかけるぐらいで十分です。
自分の目で、じかに相手を見て、脳みそに記録なり、記憶ができたらそれでいい。
なんというか、これまでの体験で、タレントさんとか有名人というのは、近くで実際に見てみると、テレビで見るのと同じだという感想があります。
初対面の人同士です。
ノンスタイルの井上さんは人に優しい。
好感をもちました。
井上さんが、2~3歳ぐらいの女の子を抱いて、抱かれた女の子が嫌がって、出川さんから、『さすが泣かれじょうず』と声をかけられました。おもしろい。
玄関を入ると、家の中に、『非常口』という証明があったので、驚きました。
昔民宿をやられていたそうです。宿泊施設だったので、非常口の緑の照明が残っているのです。
地元のマラソンで、ゴールテープを切るシーンがとっても良かった。
選手がゴールするたびに、出川さんと井上さんがもったゴールテープを切ってもらいます。
ゴールした人たちが、どうして、タレントそこにいるのかとびっくりされます。
あかちゃんを抱いた出川さんが、こどもさんの名前を聞いて、ハッピバースディの誕生祝の歌を歌っているシーンが不思議でした。
誕生日ということは、満1歳であるはずで、満1歳といえば、歩き始めていてもおかしくない体つきなのに、映像に映っているあかちゃんは、どう見ても生後4か月ぐらいにしか見えないのです。
やっぱり違っていました。その日は、あかちゃんのパパの誕生日だったそうです。
日本海、新潟の海の風景がとてもきれいです。
福井県の若狭(わかさ)あたりの海もとてもきれいです。
わざわざ海外に行かなくても、日本には、美しい海の風景がたくさんあります。
戸建てのお宅かと思ったら、レストランが併設されていました。
古民家カフェレストランでした。
きさくなご夫婦で、楽しい雰囲気が見ている者にも伝わってきました。
そのあと行った公衆浴場で、なかなかいいシーンがありました。
露天風呂につかりながら、出川さんたちと、6歳の弟を連れた10歳小学4年生のメガネの少年がおしゃべりします。
ちゃんとおとなと会話ができる立派な少年でした。
充電バイクの電気がなくなりそうになりますが、ギリギリ、目的地の灯台に着きました。
見ていて、以前、出川さんが、福岡県博多にある福岡タワーにのぼったときの回をなんとなく思い出しました。
お疲れさまでした。
2024年06月18日
聞いて聞いて! 音と耳のはなし
聞いて聞いて! 音と耳のはなし 高津修・遠藤義人 文 長崎訓子(ながさき・くにこ) 絵 福音館書店
こどもさん向けの絵本です。
何の話だろう。まず思う。何のお話が書いてあるのだろう。何のお話が始まるのだろう。
お部屋で、ひとりで、絵本を読んでいる少年の絵があります。そばには、時計とラジオと太鼓とワンちゃんがいます。窓の外には鳥が三羽飛んでいます。
ベビーベッドで寝ていたあかちゃんが、『ほぎゃー』と大きな声で泣き出しました。
ママがあわててあかちゃんに駆け寄ります。あかちゃんは、泣かないとめんどうをみてもらえません。めんどうをみてもらえないと、最悪死んじゃいます。だから、あかちゃんは、必死で泣きます。
少年は、あかちゃんの泣き声を聞いて、何か思いついたようです。
どうして、声が出るのかな。どうやったら、声が出るのかな。声という音が聞こえる仕組みはどうなっているのかな。
『のどの奥に「声帯」がある。「声帯」は2枚ある。息がのどを通る時に、声帯が震えて声が出る。』
(へーぇ。人間のからだって、うまくできている)
音=空気の振動
口から出た音を、耳が拾う。
耳は、空気の振動をキャッチする。
鼓膜(こまく)→耳小骨(じしょうこつ。3つの骨。振動が大きくなる)→蝸牛(かぎゅう。振動が電気信号をつくって、信号を脳に伝える)→脳が計算をして、何の音なのかを判断する。
スピーカーの構造みたいな話です。
耳鼻科(じびか)の勉強みたいです。
事例が列挙されます。
大太鼓、輪ゴム、電動鉛筆削り器、鼻をかむ動作など。
低い音、高い音、例示しながら説明があります。
ミンミンゼミは、おなかの中の膜を震わせて音を出すそうです。羽をこすり合わせて音を出していると勘違いしていました。
羽をすりあわせて音を出していたのは、コオロギのほうでした。
動物によって、聞こえる音の振動の範囲があるらしい。
人間:1秒間に、20回から2万回の震え(振動)を聞き取れる。
ネズミ:1秒間に、5万回震える音で仲間に合図を送る。(ネコには、その音が聞こえる)
ネコ:1秒間に、7万回以上震える音がわかる。
イルカとコウモリ:1秒間に、10万回以上震える音がわかる。その音がはねかえってくる仕組みを利用して獲物をつかまえる。(すごいなあ)
クジラやゾウ:グーンと低い声で、離れたところにいる仲間に合図を送る。そういえば、クジラの出す音を素材にした小説作品がありました。
『52ヘルツのクジラたち 町田そのこ 中央公論新社』。クジラの声が表現するものが、人間の『孤独』でした。
ゾウ:1秒間に、10回から20回震える音でとても低い声を出すそうです。
小さなものが出す音は高くて、大きなものが出す音は低いそうな。
音を伝えるものとして、『空気』以外の紹介があります。
鉄のレール:たった1秒で、6km先まで音が届く。
川の水:音は、1秒間で1.5km進む。
空気:1秒間に、約340mしか進まない。6km先で上がった花火の音が聞こえるのは、18秒後になる。
光:1秒間で、30万km進む。(地球を7周半です)。絵本では、花火を例に説明があります。そういえば、雷の稲妻(いなづま)の光と、音の時差があります。ふとそう思いつきました。
100年以上前のフランスでのことが書いてあります。
当時は、ラジオもテレビもありません。
発明家クレマン・アデールが、電話の受話器を両耳に当てた。昔の受話器は、マイクのような形でした。両耳に当てて音を聴くと、リアルな音に聞こえた。(自分がその場所にいるような感じということです)。両方の耳に、電話の受話器を当ててその場の音を聴くと、ふたつの耳と脳が、リアルな光景を脳内に再現してくれる。これを、『ステレオ効果』というそうです。
脳の力はすごい。左右で聞こえた音のズレから、ステレオ効果をつくりだすそうです。
この絵本は、『音』の研究本です。
読みながら、毎週日曜日午前10時から熊太郎じいさんが聴いているNHKラジオ番組、『子ども科学電話相談』のコーナーを思い出しました。
こどもさんから、こういう音に関する質問もあるでしょう。
絵本では、いわゆる、『こだま(山でヤッホーというとヤッホーと自分の声が返ってくる)』の説明があります。発展して、音楽ホールで、合唱の声が反響することの説明があります。『ステレオ効果』の説明です。
熊太郎じいさんは、たまに夫婦でミュージカルを観に行くので、観に行ったときのステージを思い出しました。
胎児のことが書いてあります。(おなかの中にいるとき、あかちゃんは、お母さんの声を聞いている)
生まれてくると、まっしろな脳みそに、たくさんの情報が、順番に記録されていく。
きみたちの未来は明るいというような雰囲気で、絵本は終わっています。
絵本を読み終えて、いわゆる耳が聞こえない障害者の人たちの本を2冊思い出しました。参考までに、ここに落としておきます。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。
ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いた本です。本の帯にあるメッセージは、『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。
もう一冊です。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。
本の中では、著者と、著者とは他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じ合ったりします。ステキなことです。
そして『……ぼくは決して孤独ではなかったのだ。』という自覚が芽生えます。(日本国内には推定2万2000人のコーダがいる)
耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。
あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー
拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません)
ステキです。
本の中に、『第五章 母親との関係をやり直す』がありました。人生は、やり直すことができるのです。
こどもさん向けの絵本です。
何の話だろう。まず思う。何のお話が書いてあるのだろう。何のお話が始まるのだろう。
お部屋で、ひとりで、絵本を読んでいる少年の絵があります。そばには、時計とラジオと太鼓とワンちゃんがいます。窓の外には鳥が三羽飛んでいます。
ベビーベッドで寝ていたあかちゃんが、『ほぎゃー』と大きな声で泣き出しました。
ママがあわててあかちゃんに駆け寄ります。あかちゃんは、泣かないとめんどうをみてもらえません。めんどうをみてもらえないと、最悪死んじゃいます。だから、あかちゃんは、必死で泣きます。
少年は、あかちゃんの泣き声を聞いて、何か思いついたようです。
どうして、声が出るのかな。どうやったら、声が出るのかな。声という音が聞こえる仕組みはどうなっているのかな。
『のどの奥に「声帯」がある。「声帯」は2枚ある。息がのどを通る時に、声帯が震えて声が出る。』
(へーぇ。人間のからだって、うまくできている)
音=空気の振動
口から出た音を、耳が拾う。
耳は、空気の振動をキャッチする。
鼓膜(こまく)→耳小骨(じしょうこつ。3つの骨。振動が大きくなる)→蝸牛(かぎゅう。振動が電気信号をつくって、信号を脳に伝える)→脳が計算をして、何の音なのかを判断する。
スピーカーの構造みたいな話です。
耳鼻科(じびか)の勉強みたいです。
事例が列挙されます。
大太鼓、輪ゴム、電動鉛筆削り器、鼻をかむ動作など。
低い音、高い音、例示しながら説明があります。
ミンミンゼミは、おなかの中の膜を震わせて音を出すそうです。羽をこすり合わせて音を出していると勘違いしていました。
羽をすりあわせて音を出していたのは、コオロギのほうでした。
動物によって、聞こえる音の振動の範囲があるらしい。
人間:1秒間に、20回から2万回の震え(振動)を聞き取れる。
ネズミ:1秒間に、5万回震える音で仲間に合図を送る。(ネコには、その音が聞こえる)
ネコ:1秒間に、7万回以上震える音がわかる。
イルカとコウモリ:1秒間に、10万回以上震える音がわかる。その音がはねかえってくる仕組みを利用して獲物をつかまえる。(すごいなあ)
クジラやゾウ:グーンと低い声で、離れたところにいる仲間に合図を送る。そういえば、クジラの出す音を素材にした小説作品がありました。
『52ヘルツのクジラたち 町田そのこ 中央公論新社』。クジラの声が表現するものが、人間の『孤独』でした。
ゾウ:1秒間に、10回から20回震える音でとても低い声を出すそうです。
小さなものが出す音は高くて、大きなものが出す音は低いそうな。
音を伝えるものとして、『空気』以外の紹介があります。
鉄のレール:たった1秒で、6km先まで音が届く。
川の水:音は、1秒間で1.5km進む。
空気:1秒間に、約340mしか進まない。6km先で上がった花火の音が聞こえるのは、18秒後になる。
光:1秒間で、30万km進む。(地球を7周半です)。絵本では、花火を例に説明があります。そういえば、雷の稲妻(いなづま)の光と、音の時差があります。ふとそう思いつきました。
100年以上前のフランスでのことが書いてあります。
当時は、ラジオもテレビもありません。
発明家クレマン・アデールが、電話の受話器を両耳に当てた。昔の受話器は、マイクのような形でした。両耳に当てて音を聴くと、リアルな音に聞こえた。(自分がその場所にいるような感じということです)。両方の耳に、電話の受話器を当ててその場の音を聴くと、ふたつの耳と脳が、リアルな光景を脳内に再現してくれる。これを、『ステレオ効果』というそうです。
脳の力はすごい。左右で聞こえた音のズレから、ステレオ効果をつくりだすそうです。
この絵本は、『音』の研究本です。
読みながら、毎週日曜日午前10時から熊太郎じいさんが聴いているNHKラジオ番組、『子ども科学電話相談』のコーナーを思い出しました。
こどもさんから、こういう音に関する質問もあるでしょう。
絵本では、いわゆる、『こだま(山でヤッホーというとヤッホーと自分の声が返ってくる)』の説明があります。発展して、音楽ホールで、合唱の声が反響することの説明があります。『ステレオ効果』の説明です。
熊太郎じいさんは、たまに夫婦でミュージカルを観に行くので、観に行ったときのステージを思い出しました。
胎児のことが書いてあります。(おなかの中にいるとき、あかちゃんは、お母さんの声を聞いている)
生まれてくると、まっしろな脳みそに、たくさんの情報が、順番に記録されていく。
きみたちの未来は明るいというような雰囲気で、絵本は終わっています。
絵本を読み終えて、いわゆる耳が聞こえない障害者の人たちの本を2冊思い出しました。参考までに、ここに落としておきます。
『育児まんが日記 せかいはことば 齋藤陽道(さいとう・はるみち) ナナロク社』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。
コーダ:耳が聞こえない・聞こえにくい親をもつこどものこと。
ふたりのお子さんをもつ、ろうのご両親のうちのパパが書いた本です。本の帯にあるメッセージは、『毎日は、いつもおもしろい』です。0才と3才のこどもさんがおられます。
もう一冊です。
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと 五十嵐内(いがらし・だい) 幻冬舎』
ろう(聾):聴力を失っている。耳が聞こえない。本の帯に『耳の聞こえない母が大嫌いだった。』と書いてあります。著者は、ろうあ者の両親のもとに生まれて、いつもひとりぼっちだったそうです。
本の中では、著者と、著者とは他人である聴覚障害者たちとの出会いがあります。手話と手話で話すのですが、言葉が通じると、心が通い合ったり、気持ちが通じ合ったりします。ステキなことです。
そして『……ぼくは決して孤独ではなかったのだ。』という自覚が芽生えます。(日本国内には推定2万2000人のコーダがいる)
耳が聴こえない人たちのお誕生日会があります。
あっぴーあーすでぃうーゆー:ハッピバースディトゥユー
拍手を表す手話:両手を上にあげてヒラヒラさせる。(音はしません)
ステキです。
本の中に、『第五章 母親との関係をやり直す』がありました。人生は、やり直すことができるのです。
2024年06月17日
貯金の種類について
貯金の種類について
先日読んだ文章に、なるほどなと思うところがありました。
その文章の要点に加えて、自分の考えなどを書いてみます。
貯金には3種類がある。
①まず、今すぐ、あるいは近い将来に使うためのお金の貯金がある。普通預金です。生活費、趣味を楽しむ費用など。
②次に、将来に備えて、計画的に貯める。定期預金とかNISAの積立てとか。さきざき住宅購入資金(頭金にする)にあてる。あるいは、こどもが進学するための教育資金、独身の人なら結婚資金とかがあります。
③最後に余裕資金があります。極端にいうと、そのお金がなくなっても日常生活に影響がないお金です。投資に回すことができるお金です。自分が死んだあと、最終的にこの部分の蓄えが(たくわえが)残れば、お金は子孫に引き継ぐ相続財産になります。
わたしは、老齢者なので②は、もうありません。住宅のお金もこどもの教育費ももういりません。すでに体験して終わったことです。
もう遺言も書いて、公証人役場への届けも済ませました。
妻子には遺言の中身について話をしてあります。まだ早すぎるのではないかと息子に笑われましたが、やることをやったので、せいせいしています。
①も基本的に2か月に1回支給される年金で生活しています。特別な話ではありませんが、わたしは就職して定年退職まで無職だった日は一日もありません。40年間ぐらい働き続けました。
体を壊して入院したことがありますが病欠扱いでした。昭和の時代は、終身雇用の時代でした。
③は、ここ3年間ぐらいで取り組んでいることです。銀行定期預金のあまりの利子の低さに嫌気がさして、銀行でそんな話をしたら、NISAを利用する投資信託とか、株式投資を勧められました。
元来自分にはそういうことは向いていないと思っていましたが、やってみたらけっこうおもしろく、こういう世界もあったのかとそれまで自分が無知であったことがわかりました。
そんなことを土台にして、お金について、自分の読書歴をからめながら考えてみました。
『節約』とか、『ケチ』についての考察です。
徹底的にお金を貯める人がいます。お金がたくさんあっても、人から問われると、カネはないと返答があります。
お金の貯め方はわかっていても、お金の使い方はわからない。
小説作品、『おらおらでひとりいぐも 若竹千佐子 河出書房新社』には、夫を亡くした老齢のひとり暮らし女性が主人公として出てきます。75歳、日高桃子です。
日高桃子には、息子と娘がいますが、息子とはなにかわけがあって、疎遠(そえん)になっていたという記憶です。
娘には、日高桃子からみると孫がいました。
娘が、生活に余裕がなく家計が苦しいので、孫の教育費を貸してほしいと母親である日高桃子に頼みに来ましたが、日高桃子は娘にお金を貸しません。
疎遠(そえん)な息子から母親の日高桃子に電話がかかってきます。緊急事態なので、お金を貸してほしいと頼まれて、日高桃子は、息子に言われた口座に250万円を振り込みました。
息子からの電話は、オレオレ詐欺でした。
娘が怒ります。(いかります)
母親である日高桃子は、意識がふらふらになります。
そんな流れでした。
お金というものは、どれだけ貯めても、使わなければ、ないのといっしょなのです。
5月に愛知県半田市の雁宿ホール(かりやどホール)で観た中高年のアイドル綾小路きみまろさんの爆笑スーパーライブショーで、きみまろさんが言っていました。
『けっきょくそういうことです。貯めたお金をあの世へ持って行くことはできないのです』
貯めたお金はあるていど、なにかしら有益なことに使って、残り少なくなってきた人生の一日、一日を楽しみましょうということです。寿命が尽きるまでという自分に残された時間で、自分がしたいことをして楽しみましょうなのです。
もう一冊は、フランス旅行記・滞在記でした。女性筆者が、のんびりのびのびとしたフランスの農村地域に滞在したときの記録(エッセイ)だったと思います。場所は、フランスのワインをつくるためのぶどうの産地だったのかもしれません。
その本を読んだのは、いまから二十五年ぐらい前で、自費出版の本でした。
明るくすこやかな記述が続いて、本の終わりまできて、ちょっと胸にぐっときた文章を読んだ覚えがあります。
本に書いてあった女性著者の言葉です。これまでいろいろ書いてきましたが、現在自分は病院に入院していて、もう旅行はできそうにありませんというようなことが書いてありました。
病院のベッドの上で、自分の体が元気だったころのことを思い出す毎日を送っておられるということでした。
人間はいつまでも五体満足で自由自在に体を動かして、好きなところへ行けるわけではないのです。
だんだん体のあちこちの耐用年数がきて、思うように体が動かなくなって、寝たきりになって、紙おむつ着用になります。
人によっては脳みその病気である認知症になって、まわりに負担をかけるような人格に性格が変化します。
体も脳みそも、最終的には、人間としての機能が停止するときがくるのです。
人は、いつかは仕事がなくなって働けなくなります。そのかわりに自由に使える自分の時間を手に入れます。
体が不自由になって、寝たきりおむつ生活になったときに、あれもこれもやっておけばよかったと後悔することが、できるだけ少ないようにする。やれることだったのに、やらなかったと残念に思うことがなるべく少ないようにする。
仕事がなくなったあとの老後の送り方について考えました。
労働者や家庭人としての現役時代の激務に耐えたごほうびとして、寿命が尽きるまでの時間は、お金を使って日々を楽しむ人生を送るように、生活をコントロールしていくのも、終活のひとつだと思ったしだいです。
最後は、自分の体はお棺に入れられて、火葬場の焼却炉入口前で、ご遺族関係者などから、『(人生を終えられて)おつかれさまでした』と、心の中で声をかけられるのです。
終活(しゅうかつ):人生の最期を迎えるための心の準備など。
先日読んだ文章に、なるほどなと思うところがありました。
その文章の要点に加えて、自分の考えなどを書いてみます。
貯金には3種類がある。
①まず、今すぐ、あるいは近い将来に使うためのお金の貯金がある。普通預金です。生活費、趣味を楽しむ費用など。
②次に、将来に備えて、計画的に貯める。定期預金とかNISAの積立てとか。さきざき住宅購入資金(頭金にする)にあてる。あるいは、こどもが進学するための教育資金、独身の人なら結婚資金とかがあります。
③最後に余裕資金があります。極端にいうと、そのお金がなくなっても日常生活に影響がないお金です。投資に回すことができるお金です。自分が死んだあと、最終的にこの部分の蓄えが(たくわえが)残れば、お金は子孫に引き継ぐ相続財産になります。
わたしは、老齢者なので②は、もうありません。住宅のお金もこどもの教育費ももういりません。すでに体験して終わったことです。
もう遺言も書いて、公証人役場への届けも済ませました。
妻子には遺言の中身について話をしてあります。まだ早すぎるのではないかと息子に笑われましたが、やることをやったので、せいせいしています。
①も基本的に2か月に1回支給される年金で生活しています。特別な話ではありませんが、わたしは就職して定年退職まで無職だった日は一日もありません。40年間ぐらい働き続けました。
体を壊して入院したことがありますが病欠扱いでした。昭和の時代は、終身雇用の時代でした。
③は、ここ3年間ぐらいで取り組んでいることです。銀行定期預金のあまりの利子の低さに嫌気がさして、銀行でそんな話をしたら、NISAを利用する投資信託とか、株式投資を勧められました。
元来自分にはそういうことは向いていないと思っていましたが、やってみたらけっこうおもしろく、こういう世界もあったのかとそれまで自分が無知であったことがわかりました。
そんなことを土台にして、お金について、自分の読書歴をからめながら考えてみました。
『節約』とか、『ケチ』についての考察です。
徹底的にお金を貯める人がいます。お金がたくさんあっても、人から問われると、カネはないと返答があります。
お金の貯め方はわかっていても、お金の使い方はわからない。
小説作品、『おらおらでひとりいぐも 若竹千佐子 河出書房新社』には、夫を亡くした老齢のひとり暮らし女性が主人公として出てきます。75歳、日高桃子です。
日高桃子には、息子と娘がいますが、息子とはなにかわけがあって、疎遠(そえん)になっていたという記憶です。
娘には、日高桃子からみると孫がいました。
娘が、生活に余裕がなく家計が苦しいので、孫の教育費を貸してほしいと母親である日高桃子に頼みに来ましたが、日高桃子は娘にお金を貸しません。
疎遠(そえん)な息子から母親の日高桃子に電話がかかってきます。緊急事態なので、お金を貸してほしいと頼まれて、日高桃子は、息子に言われた口座に250万円を振り込みました。
息子からの電話は、オレオレ詐欺でした。
娘が怒ります。(いかります)
母親である日高桃子は、意識がふらふらになります。
そんな流れでした。
お金というものは、どれだけ貯めても、使わなければ、ないのといっしょなのです。
5月に愛知県半田市の雁宿ホール(かりやどホール)で観た中高年のアイドル綾小路きみまろさんの爆笑スーパーライブショーで、きみまろさんが言っていました。
『けっきょくそういうことです。貯めたお金をあの世へ持って行くことはできないのです』
貯めたお金はあるていど、なにかしら有益なことに使って、残り少なくなってきた人生の一日、一日を楽しみましょうということです。寿命が尽きるまでという自分に残された時間で、自分がしたいことをして楽しみましょうなのです。
もう一冊は、フランス旅行記・滞在記でした。女性筆者が、のんびりのびのびとしたフランスの農村地域に滞在したときの記録(エッセイ)だったと思います。場所は、フランスのワインをつくるためのぶどうの産地だったのかもしれません。
その本を読んだのは、いまから二十五年ぐらい前で、自費出版の本でした。
明るくすこやかな記述が続いて、本の終わりまできて、ちょっと胸にぐっときた文章を読んだ覚えがあります。
本に書いてあった女性著者の言葉です。これまでいろいろ書いてきましたが、現在自分は病院に入院していて、もう旅行はできそうにありませんというようなことが書いてありました。
病院のベッドの上で、自分の体が元気だったころのことを思い出す毎日を送っておられるということでした。
人間はいつまでも五体満足で自由自在に体を動かして、好きなところへ行けるわけではないのです。
だんだん体のあちこちの耐用年数がきて、思うように体が動かなくなって、寝たきりになって、紙おむつ着用になります。
人によっては脳みその病気である認知症になって、まわりに負担をかけるような人格に性格が変化します。
体も脳みそも、最終的には、人間としての機能が停止するときがくるのです。
人は、いつかは仕事がなくなって働けなくなります。そのかわりに自由に使える自分の時間を手に入れます。
体が不自由になって、寝たきりおむつ生活になったときに、あれもこれもやっておけばよかったと後悔することが、できるだけ少ないようにする。やれることだったのに、やらなかったと残念に思うことがなるべく少ないようにする。
仕事がなくなったあとの老後の送り方について考えました。
労働者や家庭人としての現役時代の激務に耐えたごほうびとして、寿命が尽きるまでの時間は、お金を使って日々を楽しむ人生を送るように、生活をコントロールしていくのも、終活のひとつだと思ったしだいです。
最後は、自分の体はお棺に入れられて、火葬場の焼却炉入口前で、ご遺族関係者などから、『(人生を終えられて)おつかれさまでした』と、心の中で声をかけられるのです。
終活(しゅうかつ):人生の最期を迎えるための心の準備など。
2024年06月14日
含み益とか、含み損とか 株式投資
含み益とか、含み損とか 株式投資
自分は、含み益(ふくみえき)とか、含み損(ふくみぞん)というのは、株を売却しなければ、利益も損失もないと考えています。
だから、含み益は、どこかの時点で売却して利益にします。いっきに全株売却するときもあるし、数回に分けて売却するときもあります。
含み損も、損切りすることがあります。
利益の確定も損切りも、その時期の判断が、とてもむずかしい。
たいていは、含み益の確定は、売ったあとも株価が上がるし、含み損は、売ったあと、やっぱり株価が上がります。上がるというよりも元の株価に回復するという表現のほうが、実感があります。あわてないで待つと、3か月ぐらいで元の株価に回復することがよくあります。あわてて損切りしないほうがいい。
悶々としながら、(もんもんとしながら:内心であれやこれやと迷う)考えることに時間を費やすのも株取引の楽しみでもあります。
答えが出なければ、とりあえず放置です。
株取引を始めて3年目が今月で終わります。
1年目は何もわからず、配当金と株主優待の受け取りだけで過ぎました。
2年目は、株価が上がったときに売っていれば、いいもうけになっていたことに気づいて、複数回売り買いを続けましたが、思ったほどの効果は得られませんでした。
3年目は、慎重に取引をして損切りは1回も体験しませんでした。株式市場に活気があって、いい感じで利益が増えました。
来月7月を迎えての4年目は、いったん一定額を株式市場から引き揚げて日本や世界の政治がどうなるかようすをみようという立ち位置です。
今年は、世界のあちこちで選挙が多い年です。日本では、与野党の勢力図が拮抗(きっこう。勢力が等しくなる)して政権が逆転するかもしれないという不安定さがあります。
アメリカ合衆国大統領選挙では、トランプ氏の復活もありえます。ウクライナやイスラエルがらみの戦争もどうなるのか先行きが見えません。
4年目は、持ち株の銘柄を増やして(逆に銘柄ごとの持ち株数は減らして)、1年目のときのように、配当金と株主優待を楽しむことを基本にしてやってみようとプランを練っています。
自分は、含み益(ふくみえき)とか、含み損(ふくみぞん)というのは、株を売却しなければ、利益も損失もないと考えています。
だから、含み益は、どこかの時点で売却して利益にします。いっきに全株売却するときもあるし、数回に分けて売却するときもあります。
含み損も、損切りすることがあります。
利益の確定も損切りも、その時期の判断が、とてもむずかしい。
たいていは、含み益の確定は、売ったあとも株価が上がるし、含み損は、売ったあと、やっぱり株価が上がります。上がるというよりも元の株価に回復するという表現のほうが、実感があります。あわてないで待つと、3か月ぐらいで元の株価に回復することがよくあります。あわてて損切りしないほうがいい。
悶々としながら、(もんもんとしながら:内心であれやこれやと迷う)考えることに時間を費やすのも株取引の楽しみでもあります。
答えが出なければ、とりあえず放置です。
株取引を始めて3年目が今月で終わります。
1年目は何もわからず、配当金と株主優待の受け取りだけで過ぎました。
2年目は、株価が上がったときに売っていれば、いいもうけになっていたことに気づいて、複数回売り買いを続けましたが、思ったほどの効果は得られませんでした。
3年目は、慎重に取引をして損切りは1回も体験しませんでした。株式市場に活気があって、いい感じで利益が増えました。
来月7月を迎えての4年目は、いったん一定額を株式市場から引き揚げて日本や世界の政治がどうなるかようすをみようという立ち位置です。
今年は、世界のあちこちで選挙が多い年です。日本では、与野党の勢力図が拮抗(きっこう。勢力が等しくなる)して政権が逆転するかもしれないという不安定さがあります。
アメリカ合衆国大統領選挙では、トランプ氏の復活もありえます。ウクライナやイスラエルがらみの戦争もどうなるのか先行きが見えません。
4年目は、持ち株の銘柄を増やして(逆に銘柄ごとの持ち株数は減らして)、1年目のときのように、配当金と株主優待を楽しむことを基本にしてやってみようとプランを練っています。
2024年06月13日
集団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち 澤宮優
集団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち 澤宮優(さわみや・ゆう) 弦書房(げんしょぼう)
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』を読んで、こちらの本につながりました。
物語の中の話ですが、宙(そら)わたる教室には、次のご夫婦が出てきます。おふたりとも集団就職の体験者です。
長嶺省造:定時制高校二年生。昭和23年生まれ。74歳。金属加工の会社を自営で経営していたが、70歳で会社経営を閉じた。子どもはふたりで、孫がいる。福島の常磐炭田(じょうばんたんでん)の炭鉱町で育った。炭鉱が斜陽化したためもあり、中卒で、集団就職で東京に来て町工場でがんばった。37歳で独立した。父親は10歳のときに炭鉱事故で亡くなった。
長嶺江美子:長嶺省造の妻。『じん肺(仕事中に大量の粉塵(ふんじん。ほこり、金属の粒(つぶ)などを長期間吸い込んで肺の組織が壊れた)』で現在は入院中。退院はいつになるのかわからない。学歴は中学卒業。青森から集団就職で上京して、タイル工場で10年間粉まみれで働いた。高校に行きたかった。
まず、パラパラとページを最後までめくってみました。
自分に記憶のある地名がいくつも出てきます。
熊本県八代市(やつしろし)、福岡県大牟田市(おおむたし)、熊本県天草(あまくさ)諸島、名古屋市、炭鉱の町、岐阜県多治見市虎渓山(こけいざん)、熊本県宇土半島(うとはんとう)、長崎、沖縄、愛知県瀬戸市……
貧困があります。生活保護の文字も見えます。
金の卵(きんのたまご)と言われて、都市部へ列車で送られた義務教育中学卒業の男女の皆さんは大変なご苦労をされました。
福岡にいたころ、自分の身近にも金の卵だった同級生の生徒がいました。
盆正月に帰省してくるのですが、ときに、帰省して、都市部の職場に戻らないこどもがいました。そういうこどものところには、都会の職場からお迎えのおとなが来ました。若い女性社員でした。説得されて、こどもはまた都会の職場へ連れて行かれます。
職場へ戻るときにこどもが父親に、『とおちゃんには、オレの気持ちはわからんだろ!』と激しく怒鳴っていたのを耳にしたことがありました。遠い昔の思い出です。そのとおちゃんは、もうこの世にはいないであろう年齢です。
53ページに、筆者が、岐阜県に集団就職した女性に取材を申し込んだら、『昔のことは思い出したくない』と言われたとあります。
それでもみんな、一生懸命生きてきた。
そんな時代に生まれて、そんな生活を送った男女がいました。
大手紡績会社、繊維会社、陶器会社、鉄鋼会社、自動車工場、大手スーパー、いろいろあります。寿司屋とか、床屋とかの、職人仕事もあります。
地方出身をばかにされた。
会社の寮暮らしです。事業所への住み込みもあります。邦画、『ALWAYS 三丁目の夕日』を思い出します。青森から集団就職列車に乗って東京へ出て来たという設定の堀北真希さんが熱演でした。『鈴木オート』という自動車屋で工員として働くのです。泣けました。
こちらの本では、定時制高校への通学話も出てきます。みんなが高校に行きたかった。でもお金がなくて高校に行けないこどもがたくさんいた時代です。
本の最後に年表があります。
1954年(昭和29年)青森-上野で、集団就職者専用臨時列車が走る。
1955年(昭和30年)熊本県天草諸島、福岡県、佐賀県、鹿児島奄美大島、長崎の中学卒業性が、関東、中京、阪神地区へ集団就職をした。
1956年(昭和31年)鹿児島から集団就職。
1957年(昭和32年)沖縄から集団就職。
1960年(昭和35年)都市部の高校進学率は、男子55.6%、女子54.2%。(地方の進学率はそれより低かった)
1977年(昭和52年)集団就職廃止。
最後のページまでめくって、この著者の方の本を以前読んだことがあることを思い出しました。
『昭和の消えた仕事図鑑 澤宮優(さわみや・ゆう) 原書房』以下は、そのときの感想メモの一部です。
図鑑なので、網羅する読み方ではなく、ポイントで目を落としていきます。職に盛衰(せいすい)があります。 歴史の流れのなかで、そのときどきで必要な職があります。
時間がかかる作業、たとえば、職人技が機械化されていきます。ドラマや映画になった職もあります。自分がこどものころ、かやぶき屋根をふき替える作業は見たことがあります。電話交換手は、代表電話でまだ残っている法人もあります。
山師(やまし。鉱脈を探す職の人)には会ったことはありませんが、山師の息子だった人には会ったことがあります。
半世紀前、子どもたちはたいてい貧しかった。二本の棒をさしたアイスキャンデーは、ひとつのキャンデーを半分に分けて食べられるようにしてあったと記述があります。
さて、集団就職の本の最初に戻って、もう一度目を通していきます。
目次にある単語などです。
炭鉱の町、京・阪神で働く(鉄鋼と紡績の街)、タイル職人、仕送り、鹿児島・島根、中京で働く(繊維と陶器と鉄鋼の町)、大手自動車工場、関東で働く、沖縄、定時制高校……
『序章 見送る人たち』
昭和時代に、経済の高度成長期がありました。
大都会の企業は、若い働き手がたくさん必要だった。
都市圏では高校進学率が進んだので、求人難だった。
地方の中学卒業生が集団で大都市圏に労働力として運ばれた。
各県と国鉄は、集団就職列車をつくった。
昭和29年、青森から622名が、東京上野まで、21時間かけて到着した。
集団就職者を、『金(きん)の卵』と呼んだ。
15歳で中学を卒業したこどもたちは、労働現場で苦労した。慣れない都会での孤独感、人生の悩み、労働条件の悪さ、都会の誘惑と挫折などがあった。
住んでいる土地によって移動手段が異なったりもします。鉄道に始まって、貸し切りバスでの長距離移動、離島であれば船です。
集団就職列車は、戦時中の赤紙が来た若い人たちが兵隊として赴任地へ送られる列車にも似ています。親子のつらい別れがあります。
企業は採用に当たって親にお金を払っています。人質のようでもあります。途中でこどもが仕事をやめたら、親はそのお金を企業に返さなければなりません。
こどもはたいてい親に仕送りをしています。ちゃんとした親は一円も使わずに貯めてくれて、こどもが結婚する時に、お祝いとして仕送りした以上の金額を子に渡しました。でもそんな親ばかりではありません。
教師たちは、こどもたちの就職先の職場を見に行きます。いろいろあります。みんながいろんなことをがまんしています。
つらい体験ばかりではなかったと思うのです。働いてお金をもらって、好きな食べ物を買って食べて、着たい服を買って着てという楽しみもありました。
集団就職を体験されたみなさんは、今はもう老齢期を迎えておられます。
あれはあれで良かったと思うしかありません。後悔しても、過去を変えることはできません。
いつだって、自分はいっしょうけんめいやったと思うしかありません。
国の政策にほんろうされる弱者である国民の姿があります。
競争社会の中で、力の弱い立場の者は、一部の富裕層の人間のために利用されます。
権力を握った人間が、自分たちのために国民を好きなように動かします。
カネ、カネ、カネの時代がありました。
タイル職人の話、長崎の話、母子家庭の話、生活保護の話、修学旅行に行くお金がなかった話、狭い部屋の住み込み仕事、庶民は、だれもかれもが貧乏です。
別の本を読んだ時に書いた文章をここにも落としてみます。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
物語の中の定時制高校では、世代間の対立が、くっきりと出てきて、荒っぽい言動も出てくる表現になってきます。世代間衝突です。
老齢者は、いまどきの若いもんはと定時制高校に来ても勉強しない若い人たちを𠮟りつけ、若い人は、自分たちのことを何も知らないくせにうっとおしいと高齢者の世代を攻めます。
気づくのは、貧困という苦労はあったけれど、昭和時代の若い人には未来への夢があった。地方から出て来てがんばって、じっさいに経済的に豊かになった人が多い。ところが、今の若い人には、未来への夢がないということです。
社会制度とか社会秩序が変わりました。人口構成も大きく変化しました。
この部分を読んでいて思ったのは、昔は、たいてい、まわりにいるみんなが、同じように貧乏だった。
今は、貧富の差とか、学歴・学力の差が、極端に分かれてしまった。格差というのでしょう。
わたしが高校生の頃、大学進学にあたって、家が経済的に苦しい母子家庭だったので、日本育英会の奨学金を申請しました。審査のために面接があったのですが、今はどうか知りませんが、当時は集団面接で、面接会場に行ってみたら、同じ高校に通っている顔見知りの生徒がたくさんいて、なんだおまえもかという雰囲気になり、みんな貧乏なんだなあとお互いにお互いを思った次第です。あんな、頭が良くてかっこいい奴でも、家は貧乏なんだなあです。いいとこのボンボンなんていない田舎でした。
こちらの本に戻ります。
『昔のことは思い出したくない』
『ただ真面目なだけが取り柄で周囲の方々に助けて頂きながら一生懸命生きて来ただけです』。実感がこもっています。納得します。
中学を卒業して、鹿児島から列車で運ばれて来て、大阪の紡績会社で働く。知り合いもおらず心細い。高温の職場で、労働条件はきつい。何度泣いたかわからない。
新幹線はまだありません。蒸気機関車での長時間移動です。
根性です。努力と忍耐があれば、楽しい時もあります。独身寮ではイベントがあります。大手の会社には、社内に学園があって、いろいろ学習させてくれます。洋裁、和裁、編み物、生け花、礼儀作法など。嫁ぎ先で役に立った。
労働組合の仕事をすれば、読み書き計算を学べた。
昔は電話も十分なくて、手紙をたくさん書いた。
休みの日には、都会の街に出て娯楽を楽しみます。歌声喫茶に入る。
会社の人事担当者は、採用した少女たちの実家をたずねておやごさんにこどもさんの近況を伝えた。
父兄会で、オープンリール式のテープレコーダーだと思いますが、少女たちの録音した声を聞いてもらった。
人間的なつながりが濃厚な時代でした。
給料は安くて、仕事はきつくて、今どきのような個人情報がどうのこうのもなくて、プライバシーはさらけだしてみんながかたまって生活していました。
『第二章 中京(ちゅうきょう。名古屋地区を中心にした地域)で働く 繊維と陶器と鉄鋼の町』
知っている地名がたくさん出てきます。岐阜県多治見市内にある永保寺(えいほうじ)は、紅葉がとてもきれいなお寺さんです。愛知県尾張旭市にある森林公園は、こどもたちが小さい時によく遊びに連れていきました。熊本県宇土半島(うとはんとう)は、自分が中学生のときに何度か路線バスで通りました。
名古屋市公会堂のことも書いてあります。NHK朝ドラ、『虎に翼』の映像で、名古屋市公会堂がある鶴舞公園(つるまこうえん)の噴水塔が出てきます。
愛知県瀬戸市とか岐阜県多治見市に集団就職がらみで出て来た九州出身の人が多いとは、この本を読んで初めて知りました。
本のこの部分を読んでいて、中京地区に集団就職で出て来た方々はとても苦労されたことがわかります。苦労されて、安定した生活を築かれています。
金の卵の受け皿となったのが、中京工業地区とあります。愛知、岐阜、三重です。
製糸、紡績、繊維工業、毛織物工業、瀬戸市、常滑市、多治見市、土岐市、岐阜市、一宮市、窯業(ようぎょう)、陶磁器製造、鉄鋼業、石油化学工業、自動車工業など、製造業が盛んな地域です。
九州から来た人間はバカにされた。どうせ中学で勉強もしていないのだろう。(誤解があります。中学で成績が優秀だった人たちが学校から選ばれて来ています。経済的な事情で高校への進学ができなかった人たちです)
自分より成績の悪い子が高校に行くと聞いてくやしかったとあります。自分より成績の悪い子が大学に行くというくやしさもあります。
地元の人は、九州人は気が荒いからと嫌がるので、九州から出てきている同郷の相手と結婚したとあります。夫婦だったからがんばれたともあります。
15歳で出て来て、電話もなくて、外国に売り飛ばされる感じだったと話す熊本から来た女性がいます。
職業病として、肺疾患が紹介されます。有害なアスベストも仕事場にありました。
集団就職で来た人たちは、定時制高校に通う人が多い。
陶器の瀬戸焼は九州有田や天草(あまくさ)からきていることは、この本を読んで初めて知りました。
中学を出て、15歳で働き始めるから、女子には誘惑があります。
女子工員をへんな男たちが狙います。(ねらいます)
体目的の男たちを追い払うのがたいへんです。
女子たちを集めて性教育をします。望まない妊娠があってはいけません。堕胎(だたい)も関係してきます。きれいごとばかりをいってはおれません。現実的な対応が必要です。
岐阜県多治見市の住人は、北海道から鹿児島までの集団就職で来た人たちが多いということは初めて知りました。陶磁器や美濃焼タイルの産地です。
『第三章 関東で働く 京浜工業地帯(けいひんこうぎょうちたい)』
東北出身の集団就職者が多いが、九州沖縄からの就職者もいる。九州から名古屋をへて、東京で働くというパターンもある。
『中学を出たら就職することはあたりまえという感じだった……』鹿児島の方です。
学力があってもお金がなくて高校に行くのは無理です。
関東の電機メーカーに就職した。
当時、就職した土地に定時制高校はまだなかった。
女性ですからいろいろあります。仕事を辞めれば水商売です。
男からだまされることもあります。
女ともだちから、産婦人科に行くからあなたの保険証を貸してくれと言われて断ったことがあるそうです。
親の援助を受けることができなかったから自分でがんばる。
仕事場で連れて行ってくれるバス旅行が楽しみだった。
給料をもらってステレオを買ってレコードを聴くことが楽しみだった。
原子爆弾が落ちた長崎のことが出てきます。
戦争は悲惨です。原爆の犠牲になったご親族のことがリアルな描写で出てきます。戦争はしてはいけません。
権力をもつ独裁者たちは自分と自分の関係者以外の人間を、人間だと思っていません。
思うのは、肌の色で人種差別をする当時のアメリカ合衆国の白人たちは、黄色人種の日本人を人間とは思っていなかったのだろうということです。原爆を落とすという実験をしてみたかった。黄色人種の日本人を人体実験がわりのモルモットのように見ていた。
『社会保険制度があの時代はなかった……』病院にかかるときの保険証が国民皆保険(こくみんかいほけん。全員が保険に加入)としてまだなかった。国民健康保険のスタートは、1961年(昭和36年)です。
仕事は長時間労働です。とくに自動車製造のための単純作業の連続労働は発狂しそうなぐらいの苦痛を伴います。
東京上野の不忍池(しのばずのいけ)あたりの夕日の光景が、熊本県天草諸島で見る夕日の景色に似ていた。(天草西海岸は、どこにいてもたいていきれいな夕陽を見ることができます)
『境遇は選べないが、生き方は選ぶことができる』
生まれる場所と親は選べませんが、その後の人生をどう生きるかは自分で選ぶことができます。学校を出たら、自分の好きなところに住んで、好きな仕事をして、好きな人と結婚できます。
146ページまで読んできて思ったことです。
なんでも『集団』だった時代がありました。
昭和30年代から40年代、西暦だと、1955年代から1975年代ぐらいです。
さらに時代はさかのぼりますが、戦時中の『集団疎開(しゅうだんそかい。空襲からのがれるために田舎へ集まる』。昭和10年代後半です。昭和20年が終戦(1945年)。
明治、大正、昭和初期の軍国主義、軍事教育の名残が、『集団』という単語につながっていくと理解しました。
『集団就職』、『集団行動』、そして、『連帯責任』です。
個人を標準化して富国強兵(ふこくきょうへい。国の産業に従事させて、軍事力を強くする)のために管理監督するのです。
そして、『産めよ増やせよ』です。たくさんこどもをでかして、労働者として、そして軍人として国のために貢献してもらうのです。国家の上層部にいる人間のためではなく、国民全体のためという発想はあったかと思いますが、それがすべてでもなかったような気もします。
『第四章 僕らは南の島からやってきた』
鹿児島県の与論島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、徳之島、奄美大島、種子島からの集団就職です。移動手段に船があります。郵便局の赤い自転車と白黒パトカーしか知らない中学卒業生たちを都会へ運びました。かれらにも将来の夢がありました。
沖縄県では、沖縄本島、宮古島、八重山諸島からの集団就職です。
14世紀なかごろに、沖縄には、北山、中山、南山の三国があった。
15世紀前半に、三国が統一されて、琉球王国が成立した。首里城が王の住む城だった。
江戸時代は、清と(しん。昔の中国)と江戸幕府の薩摩藩に属した。
明治時代に沖縄県になった。
第二次世界大戦後、沖縄県は、日本の主権からはずれた。
昭和28年(1953年)に鹿児島県の奄美諸島が日本に復帰した。
昭和46年(1971年)に沖縄県が日本に復帰した。(わたしがこどものころは、沖縄に行くためにはパスポートが必要でした)。沖縄はアメリカ合衆国の統治下にありました。
沖縄の集団就職者は本土の人間から差別を受けた。パスポートをとりあげる会社もあった。方言で苦労した。丸坊主にされた。刑務所帰りと誤解されて、警察によく呼び止められた。(ひどい差別行為をする人がいます。人間なのに、家畜同様の扱いです)
ナンクルナイサ:なんとかなるさ。
本土の都市部には、沖縄のような美しい自然がなかった。海は汚れていた。きれいな海がなつかしい。
高校野球で、沖縄県のチームは負けてばかりだった。最初に出場した高校が持ち帰った甲子園の思い出の土は、アメリカ統治下だったため、検疫(けんえき)にひっかかって、沖縄到着時に、海に捨てられたと書いてあります。みなさん、そうとうくやしい思いを体験されています。1999年(平成11年)春の大会で、沖縄尚学高校が甲子園で初優勝しています。
戦後沖縄では、日本円ではなく、米ドルで金銭の支払いをしていた。昭和46年(1971年)のこととして、まだ米ドルが使われていた。(昭和47年に沖縄は、日本に復帰しました)
こどもたちは、集団就職で本土に来て、日本円の価値がわからなかった。
また、沖縄の道路はアメリカ統治下ですから、車は右側通行だった。本土に来て、対向車線から来る車が怖かった。(こわかった)
そんな話が続きます。
本土では、バカ!とか、アホ!とか、ひどい言葉を浴びせられています。
自分のこととして、歳をとってみて、むかし自分に対して、ひどいことを言った人は、今、どこでどうしているのだろうかと思うことがあります。
たいていは、もう亡くなっています。自分が20代だったころに50代ぐらいだった人たちはもうこの世にはいません。
歳をとってみて、もう終わったのだなあと思います。
沖縄のみなさんは、苦労されました。
沖縄県の集団就職は、昭和51年(1976年)に終わったと書いてあります。
このときは、飛行機による移動だった。新卒239人が、飛行機に乗って、本土へ就職したそうです。
『第五章 年季奉公 封建的労働の名残り』
集団就職ではないけれど、中卒で、大きな農家で住み込みで働いた女性たちの話が書いてあります。
お金で売られていくような労働力です。最初に年間の契約金を親が受け取って、遠方の豪農の家へ行って働く。一年契約です。逃げ出せません。お金でしばられています。逃げれば親に迷惑がかかります。お金欲しさで、親が娘を身売りするようなものです。もらったお金は、親が漁師だから、漁をする道具を買ったり修理したりするお金に当てる。子だくさんだから、生活費にあてる。
ここでも、さきほどの沖縄同様に、人をばかにする人がいます。
『(熊本県の)天草(あまくさの人間は貧乏だから)は、いもばっかし食うとるんやろう』
どうして人は、人をばかにするのだろう。
ばかにすることで、優位な気持ちになって、いい気分になるのか。
言われた人は、心が傷つきます。
蒸気機関車の床に新聞紙を敷いて座って九州から大阪まで行った。
大阪で橋幸夫のコンサートに行った。とてもうれしかった。(NHK朝ドラの『あまちゃん』で、舞台は岩手県でしたが類似のシーンがありました)
『適職とか言うけれど、それはやってみないとわからないことですね……』(同感です。採用されてもすぐ会社をやめる新卒大学生は、最初から働く気がない人間なのです。自分には向いていないと感じられる仕事でも、やってみたら自分に合っていたということはあります)
『第六章 隔週定時制高校 織姫たちの青春』
昭和40年代(1965年代)です。定時制高校卒業までは4年間です。
繊維工場での二交代制勤務です。一週おきに変わります。
A組 朝5時~午後1時半までの勤務:午後3時~午後7時半 5限授業。
B組 午後1時半~午後10時までの勤務:水・木・金に、午前9時~午前11時半 3限授業。
当時の定時制高校教師女性からコメントがあります。
定時制高校には、『教える』、『学ぶ』の原点があった。
沖縄から来た生徒から、沖縄の実家には電気がきていないと言われた。
生徒たちは実家に仕送りをしていた。
卒業した生徒たちは、高卒資格を取得して、看護師になったり、短大や大学に進学したりした人もいた。
生徒思いの熱心な教師がたくさんいた。
193ページに、いい文章が書いてあります。(かがやき 貝塚隔定40年のあしあと)
『気性の激しい人、おとなしい人…… いろいろな人にめぐりあう…… それぞれの花が、それぞれの場所で、それぞれに美しく咲いている。コスモスが逆立ちしてもバラになれないように、どうあがいても、「私」は「貴方(あなた)」になれない。一人一人が自分の持ち味を、思い切り、咲かせればいいと思う』
195ページには、『まだ親と別れるのが悲しいという年齢でやって来て、いきなり働くことになるわけでしょう。もうしょっちゅう泣いていましたよ…… だから人と人の結びつきは凄かった(すごかった)と思いますよ』
大きな楽しみは修学旅行である。信州に行ったそうです。ほかには、東京ディズニーランドが修学旅行の行き先としてあって、三泊四日だったそうです。
長崎県の島原鉄道の話が出ます。旅番組では、海岸沿いを走る鉄道で、景色が美しいと、ときおり放送されます。
されど、この本では、島原鉄道で、中学を出たばかりのこどもたちが集団就職です。長崎駅から集団就職の列車に乗せられて大阪方面へ行きます。
思うに、学校というところは、コツコツ続けていれば、最後は卒業につながります。
期限がある苦労の期間です。永久に続くものではありません。人生において、学校は一時的な滞在地です。
『第七章 いま、働くことの意味を問う』
昭和三十年代から四十年代に集団就職でいなかの若い人たちが都市部に運ばれたから、今になっていなかが過疎化(かそか)してしまったということはあります。
当事者はもうリタイヤしている世代です。遠い思い出の出来事となっています。
『[付]集団就職とその時代』
福岡県の部分を読んでいてのことです。たまに福岡へ行くのですが、不思議な気分になることがあります。
福岡には、東京へ出て行って有名になられた人たちがたくさんおられます。
駅の近くに元首相の実家が残っていて(現在は会社が管理している)、道をへだてた先には、有名になった芸能人が通っていた高校があったりもします。でも、静かです。駅の周辺はさびれています。人材は、東京へ流れていきました。
250ページあたりまで読んで、すごいなという感想をもちました。
ち密な取材の成果がこの本になっています。
今年読んで良かった一冊になりました。
(その後、思ったこと)
自分がおとなになったときに、驚いたことがあります。
自分は、自分の両親の兄弟姉妹の人たち、(おじさんとかおばさんとか)を見て育って、兄弟姉妹というものは仲がいいものだと思いこんでいました。
でも、社会人になって体験を積んでいくと、必ずしもそうではない。むしろ、逆で、仲が良くない兄弟姉妹がけっこういるということがわかって、ちょっとしたショックでした。仲が悪い理由は、たいていが財産の取り合いでした。介護が必要な高齢の親のたらいまわしもあります。それから、相手を見下す(みくだす)気持ちでした。兄弟姉妹間で、『比較』があります。兄弟姉妹はライバルなのです。
わたしの叔父叔母たちは、兄弟姉妹の数がとても多い世代でした。
わたしの両親はふたりとも九州の人間で、この本に出てくる集団就職を体験された叔父叔母もおられます。みんな貧しかった。だからお互いに助け合っておられました。
上の兄弟姉妹を頼って、下の兄弟姉妹が都市部に出て行くというパターンがありました。仕事を探してもらって、アパートに泊めてもらって、自分の住む場所へ移るというやり方でした。お互いに助け合っておられました。
なんというか、兄弟姉妹間で対立する人生を送るということは、精神的にけっこうきついものがあります。そんなことを思いました。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』を読んで、こちらの本につながりました。
物語の中の話ですが、宙(そら)わたる教室には、次のご夫婦が出てきます。おふたりとも集団就職の体験者です。
長嶺省造:定時制高校二年生。昭和23年生まれ。74歳。金属加工の会社を自営で経営していたが、70歳で会社経営を閉じた。子どもはふたりで、孫がいる。福島の常磐炭田(じょうばんたんでん)の炭鉱町で育った。炭鉱が斜陽化したためもあり、中卒で、集団就職で東京に来て町工場でがんばった。37歳で独立した。父親は10歳のときに炭鉱事故で亡くなった。
長嶺江美子:長嶺省造の妻。『じん肺(仕事中に大量の粉塵(ふんじん。ほこり、金属の粒(つぶ)などを長期間吸い込んで肺の組織が壊れた)』で現在は入院中。退院はいつになるのかわからない。学歴は中学卒業。青森から集団就職で上京して、タイル工場で10年間粉まみれで働いた。高校に行きたかった。
まず、パラパラとページを最後までめくってみました。
自分に記憶のある地名がいくつも出てきます。
熊本県八代市(やつしろし)、福岡県大牟田市(おおむたし)、熊本県天草(あまくさ)諸島、名古屋市、炭鉱の町、岐阜県多治見市虎渓山(こけいざん)、熊本県宇土半島(うとはんとう)、長崎、沖縄、愛知県瀬戸市……
貧困があります。生活保護の文字も見えます。
金の卵(きんのたまご)と言われて、都市部へ列車で送られた義務教育中学卒業の男女の皆さんは大変なご苦労をされました。
福岡にいたころ、自分の身近にも金の卵だった同級生の生徒がいました。
盆正月に帰省してくるのですが、ときに、帰省して、都市部の職場に戻らないこどもがいました。そういうこどものところには、都会の職場からお迎えのおとなが来ました。若い女性社員でした。説得されて、こどもはまた都会の職場へ連れて行かれます。
職場へ戻るときにこどもが父親に、『とおちゃんには、オレの気持ちはわからんだろ!』と激しく怒鳴っていたのを耳にしたことがありました。遠い昔の思い出です。そのとおちゃんは、もうこの世にはいないであろう年齢です。
53ページに、筆者が、岐阜県に集団就職した女性に取材を申し込んだら、『昔のことは思い出したくない』と言われたとあります。
それでもみんな、一生懸命生きてきた。
そんな時代に生まれて、そんな生活を送った男女がいました。
大手紡績会社、繊維会社、陶器会社、鉄鋼会社、自動車工場、大手スーパー、いろいろあります。寿司屋とか、床屋とかの、職人仕事もあります。
地方出身をばかにされた。
会社の寮暮らしです。事業所への住み込みもあります。邦画、『ALWAYS 三丁目の夕日』を思い出します。青森から集団就職列車に乗って東京へ出て来たという設定の堀北真希さんが熱演でした。『鈴木オート』という自動車屋で工員として働くのです。泣けました。
こちらの本では、定時制高校への通学話も出てきます。みんなが高校に行きたかった。でもお金がなくて高校に行けないこどもがたくさんいた時代です。
本の最後に年表があります。
1954年(昭和29年)青森-上野で、集団就職者専用臨時列車が走る。
1955年(昭和30年)熊本県天草諸島、福岡県、佐賀県、鹿児島奄美大島、長崎の中学卒業性が、関東、中京、阪神地区へ集団就職をした。
1956年(昭和31年)鹿児島から集団就職。
1957年(昭和32年)沖縄から集団就職。
1960年(昭和35年)都市部の高校進学率は、男子55.6%、女子54.2%。(地方の進学率はそれより低かった)
1977年(昭和52年)集団就職廃止。
最後のページまでめくって、この著者の方の本を以前読んだことがあることを思い出しました。
『昭和の消えた仕事図鑑 澤宮優(さわみや・ゆう) 原書房』以下は、そのときの感想メモの一部です。
図鑑なので、網羅する読み方ではなく、ポイントで目を落としていきます。職に盛衰(せいすい)があります。 歴史の流れのなかで、そのときどきで必要な職があります。
時間がかかる作業、たとえば、職人技が機械化されていきます。ドラマや映画になった職もあります。自分がこどものころ、かやぶき屋根をふき替える作業は見たことがあります。電話交換手は、代表電話でまだ残っている法人もあります。
山師(やまし。鉱脈を探す職の人)には会ったことはありませんが、山師の息子だった人には会ったことがあります。
半世紀前、子どもたちはたいてい貧しかった。二本の棒をさしたアイスキャンデーは、ひとつのキャンデーを半分に分けて食べられるようにしてあったと記述があります。
さて、集団就職の本の最初に戻って、もう一度目を通していきます。
目次にある単語などです。
炭鉱の町、京・阪神で働く(鉄鋼と紡績の街)、タイル職人、仕送り、鹿児島・島根、中京で働く(繊維と陶器と鉄鋼の町)、大手自動車工場、関東で働く、沖縄、定時制高校……
『序章 見送る人たち』
昭和時代に、経済の高度成長期がありました。
大都会の企業は、若い働き手がたくさん必要だった。
都市圏では高校進学率が進んだので、求人難だった。
地方の中学卒業生が集団で大都市圏に労働力として運ばれた。
各県と国鉄は、集団就職列車をつくった。
昭和29年、青森から622名が、東京上野まで、21時間かけて到着した。
集団就職者を、『金(きん)の卵』と呼んだ。
15歳で中学を卒業したこどもたちは、労働現場で苦労した。慣れない都会での孤独感、人生の悩み、労働条件の悪さ、都会の誘惑と挫折などがあった。
住んでいる土地によって移動手段が異なったりもします。鉄道に始まって、貸し切りバスでの長距離移動、離島であれば船です。
集団就職列車は、戦時中の赤紙が来た若い人たちが兵隊として赴任地へ送られる列車にも似ています。親子のつらい別れがあります。
企業は採用に当たって親にお金を払っています。人質のようでもあります。途中でこどもが仕事をやめたら、親はそのお金を企業に返さなければなりません。
こどもはたいてい親に仕送りをしています。ちゃんとした親は一円も使わずに貯めてくれて、こどもが結婚する時に、お祝いとして仕送りした以上の金額を子に渡しました。でもそんな親ばかりではありません。
教師たちは、こどもたちの就職先の職場を見に行きます。いろいろあります。みんながいろんなことをがまんしています。
つらい体験ばかりではなかったと思うのです。働いてお金をもらって、好きな食べ物を買って食べて、着たい服を買って着てという楽しみもありました。
集団就職を体験されたみなさんは、今はもう老齢期を迎えておられます。
あれはあれで良かったと思うしかありません。後悔しても、過去を変えることはできません。
いつだって、自分はいっしょうけんめいやったと思うしかありません。
国の政策にほんろうされる弱者である国民の姿があります。
競争社会の中で、力の弱い立場の者は、一部の富裕層の人間のために利用されます。
権力を握った人間が、自分たちのために国民を好きなように動かします。
カネ、カネ、カネの時代がありました。
タイル職人の話、長崎の話、母子家庭の話、生活保護の話、修学旅行に行くお金がなかった話、狭い部屋の住み込み仕事、庶民は、だれもかれもが貧乏です。
別の本を読んだ時に書いた文章をここにも落としてみます。
『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
物語の中の定時制高校では、世代間の対立が、くっきりと出てきて、荒っぽい言動も出てくる表現になってきます。世代間衝突です。
老齢者は、いまどきの若いもんはと定時制高校に来ても勉強しない若い人たちを𠮟りつけ、若い人は、自分たちのことを何も知らないくせにうっとおしいと高齢者の世代を攻めます。
気づくのは、貧困という苦労はあったけれど、昭和時代の若い人には未来への夢があった。地方から出て来てがんばって、じっさいに経済的に豊かになった人が多い。ところが、今の若い人には、未来への夢がないということです。
社会制度とか社会秩序が変わりました。人口構成も大きく変化しました。
この部分を読んでいて思ったのは、昔は、たいてい、まわりにいるみんなが、同じように貧乏だった。
今は、貧富の差とか、学歴・学力の差が、極端に分かれてしまった。格差というのでしょう。
わたしが高校生の頃、大学進学にあたって、家が経済的に苦しい母子家庭だったので、日本育英会の奨学金を申請しました。審査のために面接があったのですが、今はどうか知りませんが、当時は集団面接で、面接会場に行ってみたら、同じ高校に通っている顔見知りの生徒がたくさんいて、なんだおまえもかという雰囲気になり、みんな貧乏なんだなあとお互いにお互いを思った次第です。あんな、頭が良くてかっこいい奴でも、家は貧乏なんだなあです。いいとこのボンボンなんていない田舎でした。
こちらの本に戻ります。
『昔のことは思い出したくない』
『ただ真面目なだけが取り柄で周囲の方々に助けて頂きながら一生懸命生きて来ただけです』。実感がこもっています。納得します。
中学を卒業して、鹿児島から列車で運ばれて来て、大阪の紡績会社で働く。知り合いもおらず心細い。高温の職場で、労働条件はきつい。何度泣いたかわからない。
新幹線はまだありません。蒸気機関車での長時間移動です。
根性です。努力と忍耐があれば、楽しい時もあります。独身寮ではイベントがあります。大手の会社には、社内に学園があって、いろいろ学習させてくれます。洋裁、和裁、編み物、生け花、礼儀作法など。嫁ぎ先で役に立った。
労働組合の仕事をすれば、読み書き計算を学べた。
昔は電話も十分なくて、手紙をたくさん書いた。
休みの日には、都会の街に出て娯楽を楽しみます。歌声喫茶に入る。
会社の人事担当者は、採用した少女たちの実家をたずねておやごさんにこどもさんの近況を伝えた。
父兄会で、オープンリール式のテープレコーダーだと思いますが、少女たちの録音した声を聞いてもらった。
人間的なつながりが濃厚な時代でした。
給料は安くて、仕事はきつくて、今どきのような個人情報がどうのこうのもなくて、プライバシーはさらけだしてみんながかたまって生活していました。
『第二章 中京(ちゅうきょう。名古屋地区を中心にした地域)で働く 繊維と陶器と鉄鋼の町』
知っている地名がたくさん出てきます。岐阜県多治見市内にある永保寺(えいほうじ)は、紅葉がとてもきれいなお寺さんです。愛知県尾張旭市にある森林公園は、こどもたちが小さい時によく遊びに連れていきました。熊本県宇土半島(うとはんとう)は、自分が中学生のときに何度か路線バスで通りました。
名古屋市公会堂のことも書いてあります。NHK朝ドラ、『虎に翼』の映像で、名古屋市公会堂がある鶴舞公園(つるまこうえん)の噴水塔が出てきます。
愛知県瀬戸市とか岐阜県多治見市に集団就職がらみで出て来た九州出身の人が多いとは、この本を読んで初めて知りました。
本のこの部分を読んでいて、中京地区に集団就職で出て来た方々はとても苦労されたことがわかります。苦労されて、安定した生活を築かれています。
金の卵の受け皿となったのが、中京工業地区とあります。愛知、岐阜、三重です。
製糸、紡績、繊維工業、毛織物工業、瀬戸市、常滑市、多治見市、土岐市、岐阜市、一宮市、窯業(ようぎょう)、陶磁器製造、鉄鋼業、石油化学工業、自動車工業など、製造業が盛んな地域です。
九州から来た人間はバカにされた。どうせ中学で勉強もしていないのだろう。(誤解があります。中学で成績が優秀だった人たちが学校から選ばれて来ています。経済的な事情で高校への進学ができなかった人たちです)
自分より成績の悪い子が高校に行くと聞いてくやしかったとあります。自分より成績の悪い子が大学に行くというくやしさもあります。
地元の人は、九州人は気が荒いからと嫌がるので、九州から出てきている同郷の相手と結婚したとあります。夫婦だったからがんばれたともあります。
15歳で出て来て、電話もなくて、外国に売り飛ばされる感じだったと話す熊本から来た女性がいます。
職業病として、肺疾患が紹介されます。有害なアスベストも仕事場にありました。
集団就職で来た人たちは、定時制高校に通う人が多い。
陶器の瀬戸焼は九州有田や天草(あまくさ)からきていることは、この本を読んで初めて知りました。
中学を出て、15歳で働き始めるから、女子には誘惑があります。
女子工員をへんな男たちが狙います。(ねらいます)
体目的の男たちを追い払うのがたいへんです。
女子たちを集めて性教育をします。望まない妊娠があってはいけません。堕胎(だたい)も関係してきます。きれいごとばかりをいってはおれません。現実的な対応が必要です。
岐阜県多治見市の住人は、北海道から鹿児島までの集団就職で来た人たちが多いということは初めて知りました。陶磁器や美濃焼タイルの産地です。
『第三章 関東で働く 京浜工業地帯(けいひんこうぎょうちたい)』
東北出身の集団就職者が多いが、九州沖縄からの就職者もいる。九州から名古屋をへて、東京で働くというパターンもある。
『中学を出たら就職することはあたりまえという感じだった……』鹿児島の方です。
学力があってもお金がなくて高校に行くのは無理です。
関東の電機メーカーに就職した。
当時、就職した土地に定時制高校はまだなかった。
女性ですからいろいろあります。仕事を辞めれば水商売です。
男からだまされることもあります。
女ともだちから、産婦人科に行くからあなたの保険証を貸してくれと言われて断ったことがあるそうです。
親の援助を受けることができなかったから自分でがんばる。
仕事場で連れて行ってくれるバス旅行が楽しみだった。
給料をもらってステレオを買ってレコードを聴くことが楽しみだった。
原子爆弾が落ちた長崎のことが出てきます。
戦争は悲惨です。原爆の犠牲になったご親族のことがリアルな描写で出てきます。戦争はしてはいけません。
権力をもつ独裁者たちは自分と自分の関係者以外の人間を、人間だと思っていません。
思うのは、肌の色で人種差別をする当時のアメリカ合衆国の白人たちは、黄色人種の日本人を人間とは思っていなかったのだろうということです。原爆を落とすという実験をしてみたかった。黄色人種の日本人を人体実験がわりのモルモットのように見ていた。
『社会保険制度があの時代はなかった……』病院にかかるときの保険証が国民皆保険(こくみんかいほけん。全員が保険に加入)としてまだなかった。国民健康保険のスタートは、1961年(昭和36年)です。
仕事は長時間労働です。とくに自動車製造のための単純作業の連続労働は発狂しそうなぐらいの苦痛を伴います。
東京上野の不忍池(しのばずのいけ)あたりの夕日の光景が、熊本県天草諸島で見る夕日の景色に似ていた。(天草西海岸は、どこにいてもたいていきれいな夕陽を見ることができます)
『境遇は選べないが、生き方は選ぶことができる』
生まれる場所と親は選べませんが、その後の人生をどう生きるかは自分で選ぶことができます。学校を出たら、自分の好きなところに住んで、好きな仕事をして、好きな人と結婚できます。
146ページまで読んできて思ったことです。
なんでも『集団』だった時代がありました。
昭和30年代から40年代、西暦だと、1955年代から1975年代ぐらいです。
さらに時代はさかのぼりますが、戦時中の『集団疎開(しゅうだんそかい。空襲からのがれるために田舎へ集まる』。昭和10年代後半です。昭和20年が終戦(1945年)。
明治、大正、昭和初期の軍国主義、軍事教育の名残が、『集団』という単語につながっていくと理解しました。
『集団就職』、『集団行動』、そして、『連帯責任』です。
個人を標準化して富国強兵(ふこくきょうへい。国の産業に従事させて、軍事力を強くする)のために管理監督するのです。
そして、『産めよ増やせよ』です。たくさんこどもをでかして、労働者として、そして軍人として国のために貢献してもらうのです。国家の上層部にいる人間のためではなく、国民全体のためという発想はあったかと思いますが、それがすべてでもなかったような気もします。
『第四章 僕らは南の島からやってきた』
鹿児島県の与論島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、徳之島、奄美大島、種子島からの集団就職です。移動手段に船があります。郵便局の赤い自転車と白黒パトカーしか知らない中学卒業生たちを都会へ運びました。かれらにも将来の夢がありました。
沖縄県では、沖縄本島、宮古島、八重山諸島からの集団就職です。
14世紀なかごろに、沖縄には、北山、中山、南山の三国があった。
15世紀前半に、三国が統一されて、琉球王国が成立した。首里城が王の住む城だった。
江戸時代は、清と(しん。昔の中国)と江戸幕府の薩摩藩に属した。
明治時代に沖縄県になった。
第二次世界大戦後、沖縄県は、日本の主権からはずれた。
昭和28年(1953年)に鹿児島県の奄美諸島が日本に復帰した。
昭和46年(1971年)に沖縄県が日本に復帰した。(わたしがこどものころは、沖縄に行くためにはパスポートが必要でした)。沖縄はアメリカ合衆国の統治下にありました。
沖縄の集団就職者は本土の人間から差別を受けた。パスポートをとりあげる会社もあった。方言で苦労した。丸坊主にされた。刑務所帰りと誤解されて、警察によく呼び止められた。(ひどい差別行為をする人がいます。人間なのに、家畜同様の扱いです)
ナンクルナイサ:なんとかなるさ。
本土の都市部には、沖縄のような美しい自然がなかった。海は汚れていた。きれいな海がなつかしい。
高校野球で、沖縄県のチームは負けてばかりだった。最初に出場した高校が持ち帰った甲子園の思い出の土は、アメリカ統治下だったため、検疫(けんえき)にひっかかって、沖縄到着時に、海に捨てられたと書いてあります。みなさん、そうとうくやしい思いを体験されています。1999年(平成11年)春の大会で、沖縄尚学高校が甲子園で初優勝しています。
戦後沖縄では、日本円ではなく、米ドルで金銭の支払いをしていた。昭和46年(1971年)のこととして、まだ米ドルが使われていた。(昭和47年に沖縄は、日本に復帰しました)
こどもたちは、集団就職で本土に来て、日本円の価値がわからなかった。
また、沖縄の道路はアメリカ統治下ですから、車は右側通行だった。本土に来て、対向車線から来る車が怖かった。(こわかった)
そんな話が続きます。
本土では、バカ!とか、アホ!とか、ひどい言葉を浴びせられています。
自分のこととして、歳をとってみて、むかし自分に対して、ひどいことを言った人は、今、どこでどうしているのだろうかと思うことがあります。
たいていは、もう亡くなっています。自分が20代だったころに50代ぐらいだった人たちはもうこの世にはいません。
歳をとってみて、もう終わったのだなあと思います。
沖縄のみなさんは、苦労されました。
沖縄県の集団就職は、昭和51年(1976年)に終わったと書いてあります。
このときは、飛行機による移動だった。新卒239人が、飛行機に乗って、本土へ就職したそうです。
『第五章 年季奉公 封建的労働の名残り』
集団就職ではないけれど、中卒で、大きな農家で住み込みで働いた女性たちの話が書いてあります。
お金で売られていくような労働力です。最初に年間の契約金を親が受け取って、遠方の豪農の家へ行って働く。一年契約です。逃げ出せません。お金でしばられています。逃げれば親に迷惑がかかります。お金欲しさで、親が娘を身売りするようなものです。もらったお金は、親が漁師だから、漁をする道具を買ったり修理したりするお金に当てる。子だくさんだから、生活費にあてる。
ここでも、さきほどの沖縄同様に、人をばかにする人がいます。
『(熊本県の)天草(あまくさの人間は貧乏だから)は、いもばっかし食うとるんやろう』
どうして人は、人をばかにするのだろう。
ばかにすることで、優位な気持ちになって、いい気分になるのか。
言われた人は、心が傷つきます。
蒸気機関車の床に新聞紙を敷いて座って九州から大阪まで行った。
大阪で橋幸夫のコンサートに行った。とてもうれしかった。(NHK朝ドラの『あまちゃん』で、舞台は岩手県でしたが類似のシーンがありました)
『適職とか言うけれど、それはやってみないとわからないことですね……』(同感です。採用されてもすぐ会社をやめる新卒大学生は、最初から働く気がない人間なのです。自分には向いていないと感じられる仕事でも、やってみたら自分に合っていたということはあります)
『第六章 隔週定時制高校 織姫たちの青春』
昭和40年代(1965年代)です。定時制高校卒業までは4年間です。
繊維工場での二交代制勤務です。一週おきに変わります。
A組 朝5時~午後1時半までの勤務:午後3時~午後7時半 5限授業。
B組 午後1時半~午後10時までの勤務:水・木・金に、午前9時~午前11時半 3限授業。
当時の定時制高校教師女性からコメントがあります。
定時制高校には、『教える』、『学ぶ』の原点があった。
沖縄から来た生徒から、沖縄の実家には電気がきていないと言われた。
生徒たちは実家に仕送りをしていた。
卒業した生徒たちは、高卒資格を取得して、看護師になったり、短大や大学に進学したりした人もいた。
生徒思いの熱心な教師がたくさんいた。
193ページに、いい文章が書いてあります。(かがやき 貝塚隔定40年のあしあと)
『気性の激しい人、おとなしい人…… いろいろな人にめぐりあう…… それぞれの花が、それぞれの場所で、それぞれに美しく咲いている。コスモスが逆立ちしてもバラになれないように、どうあがいても、「私」は「貴方(あなた)」になれない。一人一人が自分の持ち味を、思い切り、咲かせればいいと思う』
195ページには、『まだ親と別れるのが悲しいという年齢でやって来て、いきなり働くことになるわけでしょう。もうしょっちゅう泣いていましたよ…… だから人と人の結びつきは凄かった(すごかった)と思いますよ』
大きな楽しみは修学旅行である。信州に行ったそうです。ほかには、東京ディズニーランドが修学旅行の行き先としてあって、三泊四日だったそうです。
長崎県の島原鉄道の話が出ます。旅番組では、海岸沿いを走る鉄道で、景色が美しいと、ときおり放送されます。
されど、この本では、島原鉄道で、中学を出たばかりのこどもたちが集団就職です。長崎駅から集団就職の列車に乗せられて大阪方面へ行きます。
思うに、学校というところは、コツコツ続けていれば、最後は卒業につながります。
期限がある苦労の期間です。永久に続くものではありません。人生において、学校は一時的な滞在地です。
『第七章 いま、働くことの意味を問う』
昭和三十年代から四十年代に集団就職でいなかの若い人たちが都市部に運ばれたから、今になっていなかが過疎化(かそか)してしまったということはあります。
当事者はもうリタイヤしている世代です。遠い思い出の出来事となっています。
『[付]集団就職とその時代』
福岡県の部分を読んでいてのことです。たまに福岡へ行くのですが、不思議な気分になることがあります。
福岡には、東京へ出て行って有名になられた人たちがたくさんおられます。
駅の近くに元首相の実家が残っていて(現在は会社が管理している)、道をへだてた先には、有名になった芸能人が通っていた高校があったりもします。でも、静かです。駅の周辺はさびれています。人材は、東京へ流れていきました。
250ページあたりまで読んで、すごいなという感想をもちました。
ち密な取材の成果がこの本になっています。
今年読んで良かった一冊になりました。
(その後、思ったこと)
自分がおとなになったときに、驚いたことがあります。
自分は、自分の両親の兄弟姉妹の人たち、(おじさんとかおばさんとか)を見て育って、兄弟姉妹というものは仲がいいものだと思いこんでいました。
でも、社会人になって体験を積んでいくと、必ずしもそうではない。むしろ、逆で、仲が良くない兄弟姉妹がけっこういるということがわかって、ちょっとしたショックでした。仲が悪い理由は、たいていが財産の取り合いでした。介護が必要な高齢の親のたらいまわしもあります。それから、相手を見下す(みくだす)気持ちでした。兄弟姉妹間で、『比較』があります。兄弟姉妹はライバルなのです。
わたしの叔父叔母たちは、兄弟姉妹の数がとても多い世代でした。
わたしの両親はふたりとも九州の人間で、この本に出てくる集団就職を体験された叔父叔母もおられます。みんな貧しかった。だからお互いに助け合っておられました。
上の兄弟姉妹を頼って、下の兄弟姉妹が都市部に出て行くというパターンがありました。仕事を探してもらって、アパートに泊めてもらって、自分の住む場所へ移るというやり方でした。お互いに助け合っておられました。
なんというか、兄弟姉妹間で対立する人生を送るということは、精神的にけっこうきついものがあります。そんなことを思いました。
2024年06月12日
おちびさんじゃないよ イマジネイション・プラス
おちびさんじゃないよ マヤ・マイヤーズ ぶん ヘウォン・ユン え まえざわ あきえ やく イマジネイション・プラス
子どもさん向けの絵本です。
テンちゃん:からだの小さな女の子
マルくん:転校してきたこども。からだがテンちゃんよりも小さいかもしれない。たぶん小さい。
『イマジネイション・プラス』という出版社は初めて聞きました。子どもたちの、『おもいやるきもち』と、『やさしくするきもち』を育む(はぐくむ)絵本・児童書の出版社だそうです。えらい!
家族8人の絵から始まります。
テンちゃんは、幼稚園の年中さん(5歳)ぐらいに見えます。
祖父母、両親、長女(中学生ぐらい)、長兄・次兄(ちょうけい。じけい。ふたりとも小学6年生ぐらいに見えます)、そして、テンちゃんです。
色が明るい絵です。服装がリアルです。普段着です。
外国の絵本だなあ。
こどもが、体が小さい時期は、それほど長くはありません。
こどもは日々成長しています。生まれて10年もたてば、かなり大きくなります。
ときおり、成長してく孫たちを見ていて、ずっと体が小さいままでいればかわいいのになあと思うことがあります。
幼稚園生だと思っていたテンちゃんは、小学校の2年生ぐらいでした。
さらに、ヨーロッパかアメリカ合衆国だと思っていたお国は、インドネシアでした。ジャカルタが首都ですと、テンちゃんが教えてくれました。
テンちゃんは、見た目はおちびさんでも、のうみその中は、おとななのよと言っています。
プライドがあります。プライド:自信とか誇り(ほこり)とか。人にばかにされたくない気持ち。
テンちゃんは、おとなからこども扱いされたくありません。自立とか、自活(じかつ)の意識が強いテンちゃんです。
かわいげがない女と言われそうですが頼もしい。
今放送されているNHK朝ドラ、『虎に翼(鬼に金棒という意味らしい)』に出てくる女性で初めて裁判所長になった寅ちゃん(とらちゃん)に似ています。伊藤沙莉(いとうさいり)さんが演じています。いつも、『はて?』と言って、女性差別に向かっていきます。
起承転結(きしょうてんけつ)の、『転(てん)』の部分にきました。
転校生として、テンちゃんのクラスにマルくんが入ってきました。
マルくんは、体が小さいのです。
小さいから、いじめっこに目をつけられます。いじめっこは、マルくんをいじめてやろうとします。なんてやつだ! 撃退しなければなりません。(げきたい:追い払う)
からだが小さい子は、いじめに合いやすい。相手に自分より弱いと思われるからです。
マルくんのことを心配するテンちゃんです。テンちゃんも体が小さいけれど、気は強いからだいじょうぶなのです。
やっぱり、いじめっこは、マルくんのことをいじめようとしはじめました。
いじめっこは、マルくんのお弁当の中身をバカにします。
人のお弁当の中身をバカにする人間は、将来はだめ人間になります。
そういう人がさきざきお金に困って、お金を貸してくれなどと言ってきます。お金を貸したら絶対に返してくれません。気をつけましょう。(わたしの実体験です)
テンちゃんの怒り(いかり)が爆発します。
『あたしは、ちびじゃないっ!!』
強烈な意思表示があります。
人をバカにする人は、さきざき苦労します。人が離れていきます。いまのうちに反省して、態度を改めたほうがいい。
重ねて(かさねて)、テンちゃんの強い意思表示があります。
『基本的人権の尊重』という言葉が頭に浮かびます。
絵を見ていると、インドネシアの小学校の昼食というのは、食堂で食べるようです。教室ではありません。
マルくんの言葉に笑いました。
『テンちゃんって、いままであったともだちのなかで、いちばん、おおものだとおもう』、本当にテンちゃんの将来が楽しみです。女性国会議員になってほしい。おおもの:ほかの人たちよりも格上の人物。ずばぬけて優れた(すぐれた)能力をもっている。
体の大きさと、頭の中にある能力とは関係がありません。
世の中には、『いじめ』というひどいことをする人間がいます。
いじめをする人間は、いつの時代にも存在します。
だから、いじめをする人間とはかかわりあいにならない。
負けてたまるかって、思わなければならない。
自分を守るためにがんばる。
マルくんの心もちが優しい(やさしい)。
でも、テンちゃんも、マルくんより自分のほうが体が少し大きいことに優越感をもっています。
テンちゃんは、そのことに自分で気づいて、そう思ったらいけないと気づけました。
人間の心の動きを正確に表現したいい絵本でした。
子どもさん向けの絵本です。
テンちゃん:からだの小さな女の子
マルくん:転校してきたこども。からだがテンちゃんよりも小さいかもしれない。たぶん小さい。
『イマジネイション・プラス』という出版社は初めて聞きました。子どもたちの、『おもいやるきもち』と、『やさしくするきもち』を育む(はぐくむ)絵本・児童書の出版社だそうです。えらい!
家族8人の絵から始まります。
テンちゃんは、幼稚園の年中さん(5歳)ぐらいに見えます。
祖父母、両親、長女(中学生ぐらい)、長兄・次兄(ちょうけい。じけい。ふたりとも小学6年生ぐらいに見えます)、そして、テンちゃんです。
色が明るい絵です。服装がリアルです。普段着です。
外国の絵本だなあ。
こどもが、体が小さい時期は、それほど長くはありません。
こどもは日々成長しています。生まれて10年もたてば、かなり大きくなります。
ときおり、成長してく孫たちを見ていて、ずっと体が小さいままでいればかわいいのになあと思うことがあります。
幼稚園生だと思っていたテンちゃんは、小学校の2年生ぐらいでした。
さらに、ヨーロッパかアメリカ合衆国だと思っていたお国は、インドネシアでした。ジャカルタが首都ですと、テンちゃんが教えてくれました。
テンちゃんは、見た目はおちびさんでも、のうみその中は、おとななのよと言っています。
プライドがあります。プライド:自信とか誇り(ほこり)とか。人にばかにされたくない気持ち。
テンちゃんは、おとなからこども扱いされたくありません。自立とか、自活(じかつ)の意識が強いテンちゃんです。
かわいげがない女と言われそうですが頼もしい。
今放送されているNHK朝ドラ、『虎に翼(鬼に金棒という意味らしい)』に出てくる女性で初めて裁判所長になった寅ちゃん(とらちゃん)に似ています。伊藤沙莉(いとうさいり)さんが演じています。いつも、『はて?』と言って、女性差別に向かっていきます。
起承転結(きしょうてんけつ)の、『転(てん)』の部分にきました。
転校生として、テンちゃんのクラスにマルくんが入ってきました。
マルくんは、体が小さいのです。
小さいから、いじめっこに目をつけられます。いじめっこは、マルくんをいじめてやろうとします。なんてやつだ! 撃退しなければなりません。(げきたい:追い払う)
からだが小さい子は、いじめに合いやすい。相手に自分より弱いと思われるからです。
マルくんのことを心配するテンちゃんです。テンちゃんも体が小さいけれど、気は強いからだいじょうぶなのです。
やっぱり、いじめっこは、マルくんのことをいじめようとしはじめました。
いじめっこは、マルくんのお弁当の中身をバカにします。
人のお弁当の中身をバカにする人間は、将来はだめ人間になります。
そういう人がさきざきお金に困って、お金を貸してくれなどと言ってきます。お金を貸したら絶対に返してくれません。気をつけましょう。(わたしの実体験です)
テンちゃんの怒り(いかり)が爆発します。
『あたしは、ちびじゃないっ!!』
強烈な意思表示があります。
人をバカにする人は、さきざき苦労します。人が離れていきます。いまのうちに反省して、態度を改めたほうがいい。
重ねて(かさねて)、テンちゃんの強い意思表示があります。
『基本的人権の尊重』という言葉が頭に浮かびます。
絵を見ていると、インドネシアの小学校の昼食というのは、食堂で食べるようです。教室ではありません。
マルくんの言葉に笑いました。
『テンちゃんって、いままであったともだちのなかで、いちばん、おおものだとおもう』、本当にテンちゃんの将来が楽しみです。女性国会議員になってほしい。おおもの:ほかの人たちよりも格上の人物。ずばぬけて優れた(すぐれた)能力をもっている。
体の大きさと、頭の中にある能力とは関係がありません。
世の中には、『いじめ』というひどいことをする人間がいます。
いじめをする人間は、いつの時代にも存在します。
だから、いじめをする人間とはかかわりあいにならない。
負けてたまるかって、思わなければならない。
自分を守るためにがんばる。
マルくんの心もちが優しい(やさしい)。
でも、テンちゃんも、マルくんより自分のほうが体が少し大きいことに優越感をもっています。
テンちゃんは、そのことに自分で気づいて、そう思ったらいけないと気づけました。
人間の心の動きを正確に表現したいい絵本でした。