2024年06月13日

集団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち 澤宮優

団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち 澤宮優(さわみや・ゆう) 弦書房(げんしょぼう)

 『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』を読んで、こちらの本につながりました。
 物語の中の話ですが、宙(そら)わたる教室には、次のご夫婦が出てきます。おふたりとも集団就職の体験者です。
 長嶺省造:定時制高校二年生。昭和23年生まれ。74歳。金属加工の会社を自営で経営していたが、70歳で会社経営を閉じた。子どもはふたりで、孫がいる。福島の常磐炭田(じょうばんたんでん)の炭鉱町で育った。炭鉱が斜陽化したためもあり、中卒で、集団就職で東京に来て町工場でがんばった。37歳で独立した。父親は10歳のときに炭鉱事故で亡くなった。
 長嶺江美子:長嶺省造の妻。『じん肺(仕事中に大量の粉塵(ふんじん。ほこり、金属の粒(つぶ)などを長期間吸い込んで肺の組織が壊れた)』で現在は入院中。退院はいつになるのかわからない。学歴は中学卒業。青森から集団就職で上京して、タイル工場で10年間粉まみれで働いた。高校に行きたかった。

 まず、パラパラとページを最後までめくってみました。
 自分に記憶のある地名がいくつも出てきます。
 熊本県八代市(やつしろし)、福岡県大牟田市(おおむたし)、熊本県天草(あまくさ)諸島、名古屋市、炭鉱の町、岐阜県多治見市虎渓山(こけいざん)、熊本県宇土半島(うとはんとう)、長崎、沖縄、愛知県瀬戸市……

 貧困があります。生活保護の文字も見えます。
 金の卵(きんのたまご)と言われて、都市部へ列車で送られた義務教育中学卒業の男女の皆さんは大変なご苦労をされました。
 福岡にいたころ、自分の身近にも金の卵だった同級生の生徒がいました。
 盆正月に帰省してくるのですが、ときに、帰省して、都市部の職場に戻らないこどもがいました。そういうこどものところには、都会の職場からお迎えのおとなが来ました。若い女性社員でした。説得されて、こどもはまた都会の職場へ連れて行かれます。
 職場へ戻るときにこどもが父親に、『とおちゃんには、オレの気持ちはわからんだろ!』と激しく怒鳴っていたのを耳にしたことがありました。遠い昔の思い出です。そのとおちゃんは、もうこの世にはいないであろう年齢です。

 53ページに、筆者が、岐阜県に集団就職した女性に取材を申し込んだら、『昔のことは思い出したくない』と言われたとあります。
 それでもみんな、一生懸命生きてきた。
 そんな時代に生まれて、そんな生活を送った男女がいました。

 大手紡績会社、繊維会社、陶器会社、鉄鋼会社、自動車工場、大手スーパー、いろいろあります。寿司屋とか、床屋とかの、職人仕事もあります。
 地方出身をばかにされた。
 会社の寮暮らしです。事業所への住み込みもあります。邦画、『ALWAYS 三丁目の夕日』を思い出します。青森から集団就職列車に乗って東京へ出て来たという設定の堀北真希さんが熱演でした。『鈴木オート』という自動車屋で工員として働くのです。泣けました。
 こちらの本では、定時制高校への通学話も出てきます。みんなが高校に行きたかった。でもお金がなくて高校に行けないこどもがたくさんいた時代です。

 本の最後に年表があります。
 1954年(昭和29年)青森-上野で、集団就職者専用臨時列車が走る。
 1955年(昭和30年)熊本県天草諸島、福岡県、佐賀県、鹿児島奄美大島、長崎の中学卒業性が、関東、中京、阪神地区へ集団就職をした。
 1956年(昭和31年)鹿児島から集団就職。
 1957年(昭和32年)沖縄から集団就職。
 1960年(昭和35年)都市部の高校進学率は、男子55.6%、女子54.2%。(地方の進学率はそれより低かった)
 1977年(昭和52年)集団就職廃止。

 最後のページまでめくって、この著者の方の本を以前読んだことがあることを思い出しました。
 『昭和の消えた仕事図鑑 澤宮優(さわみや・ゆう) 原書房』以下は、そのときの感想メモの一部です。
 図鑑なので、網羅する読み方ではなく、ポイントで目を落としていきます。職に盛衰(せいすい)があります。 歴史の流れのなかで、そのときどきで必要な職があります。
 時間がかかる作業、たとえば、職人技が機械化されていきます。ドラマや映画になった職もあります。自分がこどものころ、かやぶき屋根をふき替える作業は見たことがあります。電話交換手は、代表電話でまだ残っている法人もあります。
 山師(やまし。鉱脈を探す職の人)には会ったことはありませんが、山師の息子だった人には会ったことがあります。
 半世紀前、子どもたちはたいてい貧しかった。二本の棒をさしたアイスキャンデーは、ひとつのキャンデーを半分に分けて食べられるようにしてあったと記述があります。

 さて、集団就職の本の最初に戻って、もう一度目を通していきます。

 目次にある単語などです。
 炭鉱の町、京・阪神で働く(鉄鋼と紡績の街)、タイル職人、仕送り、鹿児島・島根、中京で働く(繊維と陶器と鉄鋼の町)、大手自動車工場、関東で働く、沖縄、定時制高校……

『序章 見送る人たち』
 昭和時代に、経済の高度成長期がありました。
 大都会の企業は、若い働き手がたくさん必要だった。
 都市圏では高校進学率が進んだので、求人難だった。
 地方の中学卒業生が集団で大都市圏に労働力として運ばれた。
 各県と国鉄は、集団就職列車をつくった。
 昭和29年、青森から622名が、東京上野まで、21時間かけて到着した。
 集団就職者を、『金(きん)の卵』と呼んだ。
 15歳で中学を卒業したこどもたちは、労働現場で苦労した。慣れない都会での孤独感、人生の悩み、労働条件の悪さ、都会の誘惑と挫折などがあった。
 
 住んでいる土地によって移動手段が異なったりもします。鉄道に始まって、貸し切りバスでの長距離移動、離島であれば船です。
 集団就職列車は、戦時中の赤紙が来た若い人たちが兵隊として赴任地へ送られる列車にも似ています。親子のつらい別れがあります。
 企業は採用に当たって親にお金を払っています。人質のようでもあります。途中でこどもが仕事をやめたら、親はそのお金を企業に返さなければなりません。
 こどもはたいてい親に仕送りをしています。ちゃんとした親は一円も使わずに貯めてくれて、こどもが結婚する時に、お祝いとして仕送りした以上の金額を子に渡しました。でもそんな親ばかりではありません。
 教師たちは、こどもたちの就職先の職場を見に行きます。いろいろあります。みんながいろんなことをがまんしています。
 つらい体験ばかりではなかったと思うのです。働いてお金をもらって、好きな食べ物を買って食べて、着たい服を買って着てという楽しみもありました。
 集団就職を体験されたみなさんは、今はもう老齢期を迎えておられます。
 あれはあれで良かったと思うしかありません。後悔しても、過去を変えることはできません。
 いつだって、自分はいっしょうけんめいやったと思うしかありません。

 国の政策にほんろうされる弱者である国民の姿があります。
 競争社会の中で、力の弱い立場の者は、一部の富裕層の人間のために利用されます。
 権力を握った人間が、自分たちのために国民を好きなように動かします。
 カネ、カネ、カネの時代がありました。
 
 タイル職人の話、長崎の話、母子家庭の話、生活保護の話、修学旅行に行くお金がなかった話、狭い部屋の住み込み仕事、庶民は、だれもかれもが貧乏です。
 
 別の本を読んだ時に書いた文章をここにも落としてみます。
 『宙わたる教室(そらわたるきょうしつ) 伊予原新(いよはら・しん) 文藝春秋』
 物語の中の定時制高校では、世代間の対立が、くっきりと出てきて、荒っぽい言動も出てくる表現になってきます。世代間衝突です。
 老齢者は、いまどきの若いもんはと定時制高校に来ても勉強しない若い人たちを𠮟りつけ、若い人は、自分たちのことを何も知らないくせにうっとおしいと高齢者の世代を攻めます。
 気づくのは、貧困という苦労はあったけれど、昭和時代の若い人には未来への夢があった。地方から出て来てがんばって、じっさいに経済的に豊かになった人が多い。ところが、今の若い人には、未来への夢がないということです。
 社会制度とか社会秩序が変わりました。人口構成も大きく変化しました。
 この部分を読んでいて思ったのは、昔は、たいてい、まわりにいるみんなが、同じように貧乏だった。
 今は、貧富の差とか、学歴・学力の差が、極端に分かれてしまった。格差というのでしょう。
 わたしが高校生の頃、大学進学にあたって、家が経済的に苦しい母子家庭だったので、日本育英会の奨学金を申請しました。審査のために面接があったのですが、今はどうか知りませんが、当時は集団面接で、面接会場に行ってみたら、同じ高校に通っている顔見知りの生徒がたくさんいて、なんだおまえもかという雰囲気になり、みんな貧乏なんだなあとお互いにお互いを思った次第です。あんな、頭が良くてかっこいい奴でも、家は貧乏なんだなあです。いいとこのボンボンなんていない田舎でした。

 こちらの本に戻ります。
 『昔のことは思い出したくない』
 『ただ真面目なだけが取り柄で周囲の方々に助けて頂きながら一生懸命生きて来ただけです』。実感がこもっています。納得します。
 中学を卒業して、鹿児島から列車で運ばれて来て、大阪の紡績会社で働く。知り合いもおらず心細い。高温の職場で、労働条件はきつい。何度泣いたかわからない。
 新幹線はまだありません。蒸気機関車での長時間移動です。
 根性です。努力と忍耐があれば、楽しい時もあります。独身寮ではイベントがあります。大手の会社には、社内に学園があって、いろいろ学習させてくれます。洋裁、和裁、編み物、生け花、礼儀作法など。嫁ぎ先で役に立った。
 労働組合の仕事をすれば、読み書き計算を学べた。
 昔は電話も十分なくて、手紙をたくさん書いた。
 休みの日には、都会の街に出て娯楽を楽しみます。歌声喫茶に入る。
 
 会社の人事担当者は、採用した少女たちの実家をたずねておやごさんにこどもさんの近況を伝えた。
 父兄会で、オープンリール式のテープレコーダーだと思いますが、少女たちの録音した声を聞いてもらった。
 人間的なつながりが濃厚な時代でした。
 給料は安くて、仕事はきつくて、今どきのような個人情報がどうのこうのもなくて、プライバシーはさらけだしてみんながかたまって生活していました。

『第二章 中京(ちゅうきょう。名古屋地区を中心にした地域)で働く 繊維と陶器と鉄鋼の町』
 知っている地名がたくさん出てきます。岐阜県多治見市内にある永保寺(えいほうじ)は、紅葉がとてもきれいなお寺さんです。愛知県尾張旭市にある森林公園は、こどもたちが小さい時によく遊びに連れていきました。熊本県宇土半島(うとはんとう)は、自分が中学生のときに何度か路線バスで通りました。
 名古屋市公会堂のことも書いてあります。NHK朝ドラ、『虎に翼』の映像で、名古屋市公会堂がある鶴舞公園(つるまこうえん)の噴水塔が出てきます。
 愛知県瀬戸市とか岐阜県多治見市に集団就職がらみで出て来た九州出身の人が多いとは、この本を読んで初めて知りました。

 本のこの部分を読んでいて、中京地区に集団就職で出て来た方々はとても苦労されたことがわかります。苦労されて、安定した生活を築かれています。
 金の卵の受け皿となったのが、中京工業地区とあります。愛知、岐阜、三重です。
 製糸、紡績、繊維工業、毛織物工業、瀬戸市、常滑市、多治見市、土岐市、岐阜市、一宮市、窯業(ようぎょう)、陶磁器製造、鉄鋼業、石油化学工業、自動車工業など、製造業が盛んな地域です。
 九州から来た人間はバカにされた。どうせ中学で勉強もしていないのだろう。(誤解があります。中学で成績が優秀だった人たちが学校から選ばれて来ています。経済的な事情で高校への進学ができなかった人たちです)
 自分より成績の悪い子が高校に行くと聞いてくやしかったとあります。自分より成績の悪い子が大学に行くというくやしさもあります。
 地元の人は、九州人は気が荒いからと嫌がるので、九州から出てきている同郷の相手と結婚したとあります。夫婦だったからがんばれたともあります。
 15歳で出て来て、電話もなくて、外国に売り飛ばされる感じだったと話す熊本から来た女性がいます。
 職業病として、肺疾患が紹介されます。有害なアスベストも仕事場にありました。
 
 集団就職で来た人たちは、定時制高校に通う人が多い。
 陶器の瀬戸焼は九州有田や天草(あまくさ)からきていることは、この本を読んで初めて知りました。
 
 中学を出て、15歳で働き始めるから、女子には誘惑があります。
 女子工員をへんな男たちが狙います。(ねらいます)
 体目的の男たちを追い払うのがたいへんです。
 女子たちを集めて性教育をします。望まない妊娠があってはいけません。堕胎(だたい)も関係してきます。きれいごとばかりをいってはおれません。現実的な対応が必要です。

 岐阜県多治見市の住人は、北海道から鹿児島までの集団就職で来た人たちが多いということは初めて知りました。陶磁器や美濃焼タイルの産地です。

『第三章 関東で働く 京浜工業地帯(けいひんこうぎょうちたい)』
 東北出身の集団就職者が多いが、九州沖縄からの就職者もいる。九州から名古屋をへて、東京で働くというパターンもある。
 『中学を出たら就職することはあたりまえという感じだった……』鹿児島の方です。
 学力があってもお金がなくて高校に行くのは無理です。
 関東の電機メーカーに就職した。
 当時、就職した土地に定時制高校はまだなかった。
 女性ですからいろいろあります。仕事を辞めれば水商売です。
 男からだまされることもあります。
 女ともだちから、産婦人科に行くからあなたの保険証を貸してくれと言われて断ったことがあるそうです。
 親の援助を受けることができなかったから自分でがんばる。
 仕事場で連れて行ってくれるバス旅行が楽しみだった。
 給料をもらってステレオを買ってレコードを聴くことが楽しみだった。
 
 原子爆弾が落ちた長崎のことが出てきます。
 戦争は悲惨です。原爆の犠牲になったご親族のことがリアルな描写で出てきます。戦争はしてはいけません。
 権力をもつ独裁者たちは自分と自分の関係者以外の人間を、人間だと思っていません。
 思うのは、肌の色で人種差別をする当時のアメリカ合衆国の白人たちは、黄色人種の日本人を人間とは思っていなかったのだろうということです。原爆を落とすという実験をしてみたかった。黄色人種の日本人を人体実験がわりのモルモットのように見ていた。

 『社会保険制度があの時代はなかった……』病院にかかるときの保険証が国民皆保険(こくみんかいほけん。全員が保険に加入)としてまだなかった。国民健康保険のスタートは、1961年(昭和36年)です。

 仕事は長時間労働です。とくに自動車製造のための単純作業の連続労働は発狂しそうなぐらいの苦痛を伴います。
 
 東京上野の不忍池(しのばずのいけ)あたりの夕日の光景が、熊本県天草諸島で見る夕日の景色に似ていた。(天草西海岸は、どこにいてもたいていきれいな夕陽を見ることができます)

 『境遇は選べないが、生き方は選ぶことができる』
 生まれる場所と親は選べませんが、その後の人生をどう生きるかは自分で選ぶことができます。学校を出たら、自分の好きなところに住んで、好きな仕事をして、好きな人と結婚できます。

 146ページまで読んできて思ったことです。
 なんでも『集団』だった時代がありました。
 昭和30年代から40年代、西暦だと、1955年代から1975年代ぐらいです。
 さらに時代はさかのぼりますが、戦時中の『集団疎開(しゅうだんそかい。空襲からのがれるために田舎へ集まる』。昭和10年代後半です。昭和20年が終戦(1945年)。
 明治、大正、昭和初期の軍国主義、軍事教育の名残が、『集団』という単語につながっていくと理解しました。
 『集団就職』、『集団行動』、そして、『連帯責任』です。
 個人を標準化して富国強兵(ふこくきょうへい。国の産業に従事させて、軍事力を強くする)のために管理監督するのです。
 そして、『産めよ増やせよ』です。たくさんこどもをでかして、労働者として、そして軍人として国のために貢献してもらうのです。国家の上層部にいる人間のためではなく、国民全体のためという発想はあったかと思いますが、それがすべてでもなかったような気もします。

『第四章 僕らは南の島からやってきた』
 鹿児島県の与論島、沖永良部島(おきのえらぶじま)、徳之島、奄美大島、種子島からの集団就職です。移動手段に船があります。郵便局の赤い自転車と白黒パトカーしか知らない中学卒業生たちを都会へ運びました。かれらにも将来の夢がありました。
 沖縄県では、沖縄本島、宮古島、八重山諸島からの集団就職です。
 14世紀なかごろに、沖縄には、北山、中山、南山の三国があった。
 15世紀前半に、三国が統一されて、琉球王国が成立した。首里城が王の住む城だった。
 江戸時代は、清と(しん。昔の中国)と江戸幕府の薩摩藩に属した。
 明治時代に沖縄県になった。
 第二次世界大戦後、沖縄県は、日本の主権からはずれた。
 昭和28年(1953年)に鹿児島県の奄美諸島が日本に復帰した。
 昭和46年(1971年)に沖縄県が日本に復帰した。(わたしがこどものころは、沖縄に行くためにはパスポートが必要でした)。沖縄はアメリカ合衆国の統治下にありました。
 沖縄の集団就職者は本土の人間から差別を受けた。パスポートをとりあげる会社もあった。方言で苦労した。丸坊主にされた。刑務所帰りと誤解されて、警察によく呼び止められた。(ひどい差別行為をする人がいます。人間なのに、家畜同様の扱いです)
 ナンクルナイサ:なんとかなるさ。
 本土の都市部には、沖縄のような美しい自然がなかった。海は汚れていた。きれいな海がなつかしい。
 高校野球で、沖縄県のチームは負けてばかりだった。最初に出場した高校が持ち帰った甲子園の思い出の土は、アメリカ統治下だったため、検疫(けんえき)にひっかかって、沖縄到着時に、海に捨てられたと書いてあります。みなさん、そうとうくやしい思いを体験されています。1999年(平成11年)春の大会で、沖縄尚学高校が甲子園で初優勝しています。

 戦後沖縄では、日本円ではなく、米ドルで金銭の支払いをしていた。昭和46年(1971年)のこととして、まだ米ドルが使われていた。(昭和47年に沖縄は、日本に復帰しました)
 こどもたちは、集団就職で本土に来て、日本円の価値がわからなかった。
 また、沖縄の道路はアメリカ統治下ですから、車は右側通行だった。本土に来て、対向車線から来る車が怖かった。(こわかった)
 そんな話が続きます。
 
 本土では、バカ!とか、アホ!とか、ひどい言葉を浴びせられています。
 自分のこととして、歳をとってみて、むかし自分に対して、ひどいことを言った人は、今、どこでどうしているのだろうかと思うことがあります。
 たいていは、もう亡くなっています。自分が20代だったころに50代ぐらいだった人たちはもうこの世にはいません。
 歳をとってみて、もう終わったのだなあと思います。
 
 沖縄のみなさんは、苦労されました。
 沖縄県の集団就職は、昭和51年(1976年)に終わったと書いてあります。
 このときは、飛行機による移動だった。新卒239人が、飛行機に乗って、本土へ就職したそうです。

『第五章 年季奉公 封建的労働の名残り』
 集団就職ではないけれど、中卒で、大きな農家で住み込みで働いた女性たちの話が書いてあります。
 お金で売られていくような労働力です。最初に年間の契約金を親が受け取って、遠方の豪農の家へ行って働く。一年契約です。逃げ出せません。お金でしばられています。逃げれば親に迷惑がかかります。お金欲しさで、親が娘を身売りするようなものです。もらったお金は、親が漁師だから、漁をする道具を買ったり修理したりするお金に当てる。子だくさんだから、生活費にあてる。

 ここでも、さきほどの沖縄同様に、人をばかにする人がいます。
 『(熊本県の)天草(あまくさの人間は貧乏だから)は、いもばっかし食うとるんやろう』
 どうして人は、人をばかにするのだろう。
 ばかにすることで、優位な気持ちになって、いい気分になるのか。
 言われた人は、心が傷つきます。

 蒸気機関車の床に新聞紙を敷いて座って九州から大阪まで行った。
 大阪で橋幸夫のコンサートに行った。とてもうれしかった。(NHK朝ドラの『あまちゃん』で、舞台は岩手県でしたが類似のシーンがありました)

 『適職とか言うけれど、それはやってみないとわからないことですね……』(同感です。採用されてもすぐ会社をやめる新卒大学生は、最初から働く気がない人間なのです。自分には向いていないと感じられる仕事でも、やってみたら自分に合っていたということはあります)

『第六章 隔週定時制高校 織姫たちの青春』
 昭和40年代(1965年代)です。定時制高校卒業までは4年間です。
 繊維工場での二交代制勤務です。一週おきに変わります。
 A組 朝5時~午後1時半までの勤務:午後3時~午後7時半 5限授業。
 B組 午後1時半~午後10時までの勤務:水・木・金に、午前9時~午前11時半 3限授業。
 当時の定時制高校教師女性からコメントがあります。
 定時制高校には、『教える』、『学ぶ』の原点があった。
 沖縄から来た生徒から、沖縄の実家には電気がきていないと言われた。
 生徒たちは実家に仕送りをしていた。
 卒業した生徒たちは、高卒資格を取得して、看護師になったり、短大や大学に進学したりした人もいた。
 生徒思いの熱心な教師がたくさんいた。
 193ページに、いい文章が書いてあります。(かがやき 貝塚隔定40年のあしあと)
 『気性の激しい人、おとなしい人…… いろいろな人にめぐりあう…… それぞれの花が、それぞれの場所で、それぞれに美しく咲いている。コスモスが逆立ちしてもバラになれないように、どうあがいても、「私」は「貴方(あなた)」になれない。一人一人が自分も持ち味を、思い切り、咲かせればいいと思う』
 195ページには、『まだ親と別れるのが悲しいという年齢でやって来て、いきなり働くことになるわけでしょう。もうしょっちゅう泣いていましたよ…… だから人と人の結びつきは凄かった(すごかった)と思いますよ』
 大きな楽しみは修学旅行である。信州に行ったそうです。ほかには、東京ディズニーランドが修学旅行の行き先としてあって、三泊四日だったそうです。
 
 長崎県の島原鉄道の話が出ます。旅番組では、海岸沿いを走る鉄道で、景色が美しいと、ときおり放送されます。
 されど、この本では、島原鉄道で、中学を出たばかりのこどもたちが集団就職です。長崎駅から集団就職の列車に乗せられて大阪方面へ行きます。
 
 思うに、学校というところは、コツコツ続けていれば、最後は卒業につながります。
 期限がある苦労の期間です。永久に続くものではありません。人生において、学校は一時的な滞在地です。

『第七章 いま、働くことの意味を問う』
 昭和三十年代から四十年代に集団就職でいなかの若い人たちが都市部に運ばれたから、今になっていなかが過疎化(かそか)してしまったということはあります。
 当事者はもうリタイヤしている世代です。遠い思い出の出来事となっています。

『[付]集団就職とその時代』
 福岡県の部分を読んでいてのことです。たまに福岡へ行くのですが、不思議な気分になることがあります。
 福岡には、東京へ出て行って有名になられた人たちがたくさんおられます。
 駅の近くに元首相の実家が残っていて(現在は会社が管理している)、道をへだてた先には、有名になった芸能人が通っていた高校があったりもします。でも、静かです。駅の周辺はさびれています。人材は、東京へ流れていきました。

 250ページあたりまで読んで、すごいなという感想をもちました。
 ち密な取材の成果がこの本になっています。
 今年読んで良かった一冊になりました。
 
(その後、思ったこと)
 自分がおとなになったときに、驚いたことがあります。
 自分は、自分の両親の兄弟姉妹の人たち、(おじさんとかおばさんとか)を見て育って、兄弟姉妹というものは仲がいいものだと思いこんでいました。
 でも、社会人になって体験を積んでいくと、必ずしもそうではない。むしろ、逆で、仲が良くない兄弟姉妹がけっこういるということがわかって、ちょっとしたショックでした。仲が悪い理由は、たいていが財産の取り合いでした。介護が必要な高齢の親のたらいまわしもあります。それから、相手を見下す(みくだす)気持ちでした。兄弟姉妹間で、『比較』があります。兄弟姉妹はライバルなのです。
 わたしの叔父叔母たちは、兄弟姉妹の数がとても多い世代でした。
 わたしの両親はふたりとも九州の人間で、この本に出てくる集団就職を体験された叔父叔母もおられます。みんな貧しかった。だからお互いに助け合っておられました。
 上の兄弟姉妹を頼って、下の兄弟姉妹が都市部に出て行くというパターンがありました。仕事を探してもらって、アパートに泊めてもらって、自分の住む場所へ移るというやり方でした。お互いに助け合っておられました。
 なんというか、兄弟姉妹間で対立する人生を送るということは、精神的にけっこうきついものがあります。そんなことを思いました。

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