2024年06月20日

マイ・ブロークン・マリコ 邦画2022年

マイ・ブロークン・マリコ 邦画2022年(令和4年) 1時間25分 動画配信サービス

 テレビでたまたま女優の永野芽郁(ながの・めい)さんをお見かけしました。
 四国香川県小豆島(しょうどしま)ロケの様子で、中学校を訪問されていました。
 永野芽郁さんは、小豆島出身だと誤解しました。(東京都出身です)
 小豆島には行ったことがあるので、島の映像を観たいと思いました。
 『モニタリング』という、なんというか、相手をびっくりさせる内容のテレビ番組でした。現地の中学生たちが大喜びしていました。小豆島を舞台にした映画の宣伝が目的でのテレビ出演でした。
 永野芽郁さんをNHKの朝ドラで見たことがあります。『半分、青い。』でした。自分が行ったことがある岐阜県の地域がロケ地だったので関心をもって見ていました。舞台が東京に移ってからはほとんど見ませんでした。主人公が、漫画家になるような話だった記憶です。
 基本的にわたしは、地理に興味をもって、ドラマやバラエティを観る人間です。

 さて、そのつながりで、永野芽郁さんが出演している映画を観たいと思いました。
 こちらの映画はかなり暗い内容でした。小豆島の映画はだいじょうぶだろうか。
 『からかい上手の高木さん』という映画で、暗い映画ではなさそうです。よかった。

シイノ・トモヨ(永野芽郁):料理はできない。幼いころから知っているイナガワ・マリコのことを、『ダチ(友だちのだちでしょう)』と呼ぶ。

イナガワ・マリコ(奈緒):とてもかわいそうな設定です。母親は父親が原因で死んでいるようです。アル中の暴力父親から虐待や暴行を受けて育ちます。シイノ・トモヨの存在が心の支えです。シイノ・トモヨが、イナガワ・マリコの父親に立ち向かっていきますが、いかんせんまだこどもだったりもします。
 イナガガワ・マリコは、暴れる(あばれる)父親の存在や、すさんだ生活に耐えきれなくて、住宅の5階から転落死します。自殺です。シイノ・トモヨの心に、イナガワ・マリコを死に追いやった彼女の父親への復讐心が燃え上がります。

 回想シーンで、ふたりの子役さんたちがけっこうな回数出てきます。幼児期、小学生とか、中学生とか、時間帯が長く、見ていて、主役は子役さんたちではなかろうかと思うことがありました。

 クソ上司が出てきます。自分の会社はブラックだと大声で公言します。退職させてくれません。よくいうパワハラ上司です。もはやそれは犯罪行為です。脅迫、恐喝、権利侵害、いろいろあります。逮捕してもらいましょう。

 主役の永野芽郁さんにながながと、タバコを吸わせる映画だとあきれました。最初から最後までタバコと手紙でつなぎます。この映画は、タバコと手紙でできあがっています。昭和40年代・50年代の表現手法です。
 
 (葬儀・火葬における)直送(ちょくそう):お寺や親族一同を呼んでの葬式をあげない。挙げても簡単なもの。お坊さんは来ないか、来ても形だけの短時間、あるいは、葬儀社の職員がお坊さんの代わりに手を合わせるだけ。そんなイメージです。棺桶に入れて、一晩安置して、火葬場へ運んで焼いて、骨はほんの少しだけ拾うだけでしょう。
 あとでパワハラ上司が出てくるのですが、葬式よりも仕事が大事だとクソ上司がほえます。仕事よりも葬式のほうが大事です。お金よりも気持ちが大事です。それが人間です。おかしな世の中になってしまいました。

 虐待オヤジが壊れています。
 こういうオヤジっています。
 あんがい、ふだんはあいそがよくて、近所づきあいや仕事場では、協調性があったりもします。外面(そとずら)がいいのです。自分の精神的なストレスは家族にぶつけて解消します。家族は大迷惑です。
 気が弱いからアルコールを飲みます。アルコール中毒になります。自分で自分をコントロール(管理)できない。そういう人には、近づかないほうがいいけれど、それが、自分の父親だと最悪です。しなくてもいい苦労を体験することになります。映像にある状態までくると、児童相談所が対応する事例でしょう。

 親の役割を果たす能力をもっていない親っています。
 だから、こどもは大きくなると家を出て、自活する能力を身につけることができるとはいえます。

 この映画は、不幸を並べていく映画なのか。

 復讐劇です。永野芽郁さんは熱演です。
 ユーモラスな演技も鬼気迫る演技もじょうずです。

 なかほどまで観て、どうなっていくの、この映画という気持ちになりました。

 なぜ、そんなに、『海』に行きたいのだろう?
 映画やドラマだと、登場人物は、海に行きたがります。
 あまり海を見たことがないのでしょう。
 わたしは幼児期に海のそばに建つ家で暮らしたことがあります。
 毎日海が見えました。
 毎日、富士山が見えるところにいるようなものなのでしょう。
 わたしは、海はたまに見るだけでかまいません。目を閉じれば海の記憶がよみがえります。

 親友である自殺したイナガワ・マリコのお骨(おこつ)が入った箱があります。
 う~む。人生体験が薄い人にはわからないと思いますが、火葬場直送葬儀形式の場合、映像で出てくるような、立派なお骨箱に骨を入れるとは思えません。小さくて簡易的な骨箱です。骨箱には、ほんの少しの骨しか入っていません。なにせ、葬式代を最小限に抑えるための火葬場直送なのですから。
 まあ、全体的に、話をつくってある映画です。世の中は映像のようになっているとは思わないほうがいい。現実と映画は別物です。
 
 長距離深夜バスで移動します。
 イナガワ・マリコの骨を海に散骨するようです。

 男に支配される人生を送る女がいます。(それでいいのか)
 男の収入に依存する女がいて、女を母親代わり、家政婦がわりに使う男がいます。(女は、それでいいのか)

 映像は東北青森八戸(はちのへ)あたりなのに、登場人物の年配男性のセリフが九州弁です。『どこからきたと?』、不思議でした。

 リストカット(死にたくて手首を切るが、ためらうので、かすり傷になる。たくさん切り傷ができる)のシーンがありますが、演技だと思って見ているので、怖くはありません。演技がじょうずか、そうでないかを基準にして観ています。

 歯磨きとか、タバコとかの映像が出ます。まあ、タバコは薬物依存という、心、そして脳みその病気であり、治療が必要です。

 だめな男に依存するという女の生き方を問う作品です。

 観ていて、気が重くなってくる映画です。
 今放送されていているNHK朝ドラ、『虎に翼』の伊藤沙莉さんみたいに、気持ちを強くもって前進した方がいい。男に頼るな!です。女は、男のしもべ(召使い。めしつかい)になるなです。

 女性同士の同性愛のような面があるのだろかと思って観ていましたが、そういうことは感じられませんでした。
 
 死んだ人を、今も生きているかのように扱うのには、無理があります。
 非現実的です。
 近しい身内を亡くすことは珍しいことではありません。病気や事故、自然災害や事件など、人間は簡単に死にます。きょう隣にいる人が、あしたも隣にいるという保証はどこにもありません。だから、なにげない毎日は大切なのです。
 
 映画にメッセージがありますが、死んだ人のことを思い続けたいのなら、『(自分が)生きているしかない』のです。死んだ人のことは、自分の記憶の中にしか存在していないからです。

 鉄道駅のシーンが出てきます。
 跨線橋(こせんきょう。上り下りの線路が、空中に浮いた状態にある歩道橋のような形状の部分を通って移動する)の映像が、昔、北海道に行ったときに見た駅舎の風景に似ていました。今はもう廃線になったと思いますが、足寄駅(あしょろえき)だった記憶です。

 『シイノ・トモヨ、はずかしながら、帰ってまいりました』
 グアム島から帰還した横井正一さん(よこいしょういちさん)みたいな言葉づかいです。(1972年(昭和47年)帰還。終戦を知らずに、何十年間もグアム島のジャングルに潜んでいた(ひそんでいた))。今どきの若い女性がそんな言葉づかいをするとは思えないのです。
 
 線香花火です。
 映画の定番、終わり付近で、打ち上げ花火とか、線香花火のシーンです。う~む。平凡かなあ。

 イナガワ・マリコから、保護猫の話が出ます。自分と捨て猫を重ねてあるのでしょう。
 シイノ・トモヨの親子・きょだいのことは話が出てきませんでした。かたよったつくりで変です。

 イナガワ・マリコの父親と暮らしていた田村恭子という女性(吉田羊)からシイノ・トモヨに手紙が届きました。封筒の中に、自殺したイナガワ・マリコからシイノ・トモヨあての手紙が入っていました。
 遺書だと思うのですが、手紙の内容は映像に出てきませんでした。内容を出すべきです。つくり手の力量がないと感じました。