2019年08月13日

太川・蛭子の路線バスの旅 日光東照宮~会津若松

太川・蛭子の路線バスの旅 日光東照宮~会津若松 TV2019年7月25日放映分

 ゲストは村上佳菜子さんです。やばそうなメンバー構成です。途中いつものようにいろいろとトラブルがありましたが、たどり着けて良かった。
 過酷です。いったんやめた企画ですが、視聴者の関心が高い番組なので復活したのでしょう。3泊4日から1泊2日に短くして、途中、タクシー利用も可能にして、以前よりは条件的に楽になりましたが、基本的に「歩く旅」がつきまとうのは、路線バスが衰退化している昨今の事情によりしかたがありません。
 車だったら20分で行けるところに、路線バスを乗り換えたり、歩いたり、バスが来るのを待ち続けたりして、何時間もかけて向かって行く。今読んでいる本「モモ」ミヒャエル・エンデの児童文学で提唱されている「人間の心をやすらかに保つためのスローライフ」に通じるものがあります。
 判断に迷う時は、太川さんが判断するのですが、やはり、番組的に挑戦ルートを選択することになります。そうすると、歩く区間が増えます。村上さんはスポーツ選手ですから大丈夫ですが、71歳の蛭子さんにはつらい。番組の途中で、「だから辞めたいと言ったのに辞めさせてくれない」と嘆きます。
 120kmを1泊2日、12本の路線バスに乗車して制覇しました。お疲れさまでした。車で走れば時速60kmだと2時間で着きます。
 バスが山間部や農村地帯を横切るように道路を走って行くわけですが、風景を見ながら、日本中どこへ行っても似たような風景が広がっているという、どこを切っても金太郎あめの模様がでてくることを思い浮かべます。効率化していくと、さいごは同じ地点にたどり着きます。そして、いなかは人口が減って、高齢化が進んでいます。都会では、テクノロジーが進化し続けていますが、いなかでは時がどこかで止まったままです。さきほどの児童文学「モモ」のことが頭に浮かびます。小説では、人間はむだな時間を削減していくたびに、人間らしさを失っていくという警告がありました。  

2019年08月12日

がっこうぐらし! 邦画DVD

がっこうぐらし! 邦画DVD 2018年公開

 前知識なしで観始めました。中学校ものかと思ってずっと見ていましたが、高校でした。13分経過したあたりでいきなりゾンビ映画に変化しました。ゾンビに噛まれたらゾンビに変えられてしまう。
 話題になった邦画「カメラを止めるな」を思いだし、ゾンビ映画の撮影風景が思い浮かび、映像に感情移入することはできませんでした。それよりも、最近あったアニメ制作会社ビル放火事件と重なるような映像で驚きました。学校の倉庫にどういうわけか、大量のガソリンが保管してありました。多数の焼死体の映像が流れました。なにかのめぐりあわせかと、そちらのほうで不気味な気分になりました。

 5人の若い女性が中心になった映画です。
 観始めてしばらくして、学校で寝泊まりしているから「学校暮らし」なのかと合点がいきました。なぜかというと生徒たちがゾンビになってしまって、5人のまだ人間である女性たちが、学校から出ることができなくなったから。
 とっぴすぎて、自分はついていけない映画でした。撮影風景を想像してしまうので、怖くありません。いきなり、飛び出してくることは予測できます。
 「ころんでもへこたれない」とか「あきらめない」が心情の柱です。
 映画のなかの脅威は燃え尽きましたが、見ているほうは不完全燃焼でした。  

2019年08月11日

モモ 岩波少年文庫

モモ ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫

 邦画「コーヒーが冷めないうちに」で、登場人物の女性が喫茶店で読んでいた本です。小学校高学年以上向けぐらいの内容です。
 最初に、時間どろぼうと女の子(モモ)の話とあります。
 お話のなかにお話があります。むかしむかしで始まります。
 モモは、どこからともなく、古代ローマ時代ぐらいの感覚の時代に、とある場所へやってきて、廃墟となった円形劇場の舞台下にある部屋で暮らし始めます。そして、いろいろな人たちがモモを訪ねて来て親交を深めます。
 モモは年齢不詳ですが、8歳から12歳ぐらいに見えるそうです。背が低くてやせている。真っ黒な巻き毛の髪、そして、目も大きくて黒い。足も汚れて真っ黒。
 主な登場人物として、道路清掃員ベッポ、観光案内人ジジ(ジロラモ)、居酒屋店主ニノ、左官屋ニコラ、カメのカシオペイア(30分後の未来のことがこうらに文字で浮き出る)、床屋のフージなど。
 モモは、自分で、自分の名前を「モモ」と付けた。年齢は、自称100歳か102歳。でも見た目は8歳から12歳に見える。
 「時間」の解釈が始まります。時間の計測には意味がない。中身が重要である。時間とは生きること。死んだ人には「時間」はない。
 時間どろぼうが登場します。灰色の男たちです。人をだまして、人の時間を奪っていくのです。奪った時間でかれらは生きています。
 モモのところに集まっていた人の数がだんだん減っていきます。モモと会話をすると心がなごむのですが、どうしたことでしょうか。
 「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていく」
 時間貯蓄銀行の人間は言います。「人生で大切なことは、成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れること、ほかの人より成功し、偉くなり、金持ちになること。そうすれば、友情、愛、名誉は自然にくっついてくる」
 何でも数値化して判断材料にするのが、時間貯蓄銀行のメンバーのやり方です。そこに「効率」はありますが、「喜怒哀楽の感情」はありません。当然、愛情もありません。
 国家のために人間を利用する。労働力という視点だけで人間の価値をみる。
 なぜ、かれらにとって、モモは敵なのか。モモの時間感覚は彼らから見れば無駄だらけだから。されど、モモと会話をする人々の心は満たされる。

 タイミングにこだわる。あのときこうだったからああなった。不幸を避けるために、動くタイミングにこだわる。占い師のような、宗教のような雰囲気が物語の裏面にあります。
 モモはだんだん孤独になっていきます。モモのまわりから人がいなくなります。時間銀行の男たちが人々から時間を奪っていくからです。
 思春期を過ぎると少年少女たちはおとなに成長してこどもの世界からいなくなってしまう。モモはピーターパンのようでもあります。おとなになると時間の使い方が変わります。子ども時代の時間は自由な時間が多いのですが、おとなになるにしたがって、時間を管理されて、強制的に生活が縛られていくからです。その理由は報酬を得るためです。
 モモのともだちはいなくなってしまいました。カメのカシオペイアもいなくなってしまいました。
 雰囲気として、13才までの世界が終わりを告げようとしています。
 「この世界に人間が住めなくしたのは、人間自身だ」
 心のなかに「時間の花」がある。時間を奪われると、喜怒哀楽の感情がなくなっていく。関心が低くなる。憂鬱になる。からっぽになる。なにもかもが灰色になる。どうでもよくなる。病気になる。致死的退屈症とあります。
 「おまえがたよりにできるのはおまえだけだ。わたしはなにもしてやれない。ほかのだれもおまえのかわりはできない」自分のことは自分でやる。
 地震ではなく、「時震」が起ります。
 いろいろと考えさせられました。後半が良かった。  

Posted by 熊太郎 at 06:02Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2019年08月10日

かぞくいろ 邦画DVD

かぞくいろ RAILWAYS わたしたちの出発 邦画DVD 2018年公開

 いろいろ注文をつけたくなる部分もあるのですが、「家族」というものを考える心にしみる映画ではあります。
 ホン(脚本)がどうかと。どうしてこんな家族構成なのかとか、いろいろと疑問は湧きます。
 有村架純さんの結婚相手が、くも膜下出血で病院で病死しています。入院していたベッドでは元気な彼だったのに、入院治療中のベッド上で、脳出血を起こして死亡するものなのだろうか。なんのための入院治療なのか? 不可解です。
 有村架純さんの結婚相手には、10歳の連れ子である男の子がいます。前妻はその子の出産時に亡くなっています。前妻死亡時に、その子は前妻方の親族が引き取るという話が、実父抜きに双方の親同士で進められて決まっていたというトラブル話も、そんなことは、ふつうありえないだろうと。
 そこへ、有村架純さんが後妻に入ろうとして、前妻が産んだ子を「この子はわたしの子です」と発言します。それは無茶でしょう。(ゆえに最後に子どものほうが、あなたは、わたしの母親ではなく、亡父の妻であった人ですと意思表示をします)
 不可解な部分が多いとはいえ、人の命はあっけない。きのう隣にいた人が、今日はいないということはあります。だから、お互いの「生きている時間」を大切にしようという「命」をテーマにした映画です。不倫の結果の赤ちゃんの誕生シーンもあります。
 有村架純さんが気動車(ディーゼル車)の運転手を目指します。良かったシーンとして、「何点ですか」という問いに國村準さんが、「知らん(満点という意味)」、それから、「わたし失格ですか」の問いに、同じく「自分で考えろ(合格という意味)」
 雪の中(風花かざはな)の中を列車が走るシーンが良かった。
 学校行事で、親のいない子どもに親のことを作文で発表させるのは酷です。ドラマとはいえありえないでしょう。また、有村架純さんに浴びせる子役さんのセリフですが、脚本として、男の子にあそこまで言わせてはいけない。超えてはいけない一線でした。男の子は、義母への謝罪が必要です。確かに小さな謝罪はありましたが、関係修復が不可能になるセリフでした。全体的に危うい土台に立った脚本でした。  

2019年08月09日

種をまく人

種をまく人 ポール・フライシュマン あすなろ書房

 こういう本があることを知りました。今年読んで良かった1冊です。
 ひとりずつが証言をしながらリレーで物語をつむいでいく。以前、推理小説で読んだことがある形式だと思い出しました。この本は、こどもさん向きでも大丈夫です。ひとりの証言が短い。全員で11人ですが、全体のページは92ページですから、ひとりあたり、8ページ程度で、すんなり読めます。すんなり読めますが、文章が、ていねいでやさしくて、美しい。上質です。
 移民社会アメリカ合衆国を表している内容です。スラムのゴミ捨て場に豆の花が咲き、野菜類が育ちます。それとともに多国籍人種の民族の交流が始まります。みな、貧しい。
 小さな豆粒を最初に植えたのは、9歳のベトナム人女の子キムでした。父親は死んでもうこの世にはいません。キムは父親が死んでから8か月後に生まれたので、死んだ父親もキムを知りません。植えた豆粒には願いがこめられています。亡くなった父親はベトナムでお百姓をしていた。豆を上手に育てたら空の上にいる父親が自分に気づいてくれるかもしれない。キムが種を廃墟に植える様子を賃貸住宅ビルの3階にある部屋からたまたま見たのが、ルーマニア人のアナです。そうやってお話が続いていきます。
 舞台はアメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドです。エリー湖の南、カナダ国境付近です。時代設定は、1980年代ぐらいに思えます。

 子どもの頃に読んだ「ジャックと豆の木」を思い出しました。

 移民で構成される社会は、単一民族が多く暮らす島国日本育ちには実感が薄いかも。

 おもしろい。うまくできている構成です。

 畑地は市有地なのでしょう。違法ですが、小説です。

 「水コンテスト」を開催。

 「命」について考える。まもなくこの世を去ろうとしている老人が、芽が出て、この世に到着したばかりの幼い植物たちを見守る。「親心」

 16歳妊娠中のメキシコ人マリセーラの記述は異質です。あかちゃんなんか嫌い。赤ん坊なんかほしくない。それなのに妊娠してしまった。流産したい。リオーナという黒人女子がマリセーラに黄色い花アキノキリンソウをあげます。それは、お産を楽にする薬草です。自然界の命は、太陽と雨と季節で動いている。人間も自然の一部。マリセーヌは、あかちゃんなんか死んじゃえばいいとは思わなくなりました。

 インド人のコメントとして、インドのデリーは暑い。じゅうたんには、川、滝、花壇、小鳥など、砂漠の民が夢見るものがすべて織り込まれている。じゅうたんは、どこへでも持っていける「庭」

 ポーランド人は、ニンジンの芽を間引くことができない。第二次世界大戦中のドイツの強制収容所を思い出す。ユダヤ人の大量虐殺です。体の強い者と弱い者に分けて二列に並べて、弱い者はガス室に送られて殺された。

 みんなで持ち寄ってバーベキューをする。無料で与えることを否定する利益優先のルールを破る。

 黒人の語りとして、解放奴隷のこと。1859年に自分の祖先は、はるかな長距離を歩いて、その土地で暮らし始めた。かれらは、「種となった人たち」です。タイトルと重なります。

 生活保護をもらえても、もらうだけの生活は物悲しい。自分で食べ物をつくろうという気持ち。

 調べたこととして、「ライマメ:インゲンマメ」、「アキノキリンソウ:キク科の黄色い花」、「三丁・四丁:距離の単位。一丁は約109メートル」

 印象に残ったフレーズなどとして、「子どもが導く」、「人生には変えられないものが山ほどある」、「どうにもならないことを一日中考えているより、畑をつくろう」、「伯父さんはグァテマラにいたときは長老だったけれど、ここでは、言葉も通じず、子どもと同じ」、「種は伯父さんにとっては、なつかしい友だちだった」、「伯父さんは赤ん坊からまた一人前の男に戻った」、「マリファナよりもカボチャを植えよう」、「畑には、黒人、白人、中央アメリカ人、東洋人がいる」、「種を植えている女の子が、春の最初のツバメに見えて、心の中がぱあっと明るくなった」  

Posted by 熊太郎 at 06:40Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2019年08月08日

まなの本棚 芦田愛菜

まなの本棚 芦田愛菜(あしだ・まなみ) 小学館

 中学3年生女優。1年間に本を100冊以上読むという広告を見て、自分と同じようなことをする人がいるのだなあと思いこの本を読み始めました。
 まだ、途中ですが、内容は、読んだ本の軽い感想文になっています。それから、読書の動機など。
 本人が文章を書いたというよりも、インタビューを文章化してあるような印象です。さらりとした感想が多い。
 読んだことのある本が何冊か登場します。
 共感する部分として、同じ本でも、読むときの年齢によって感じることが違う。ゆえに「再読」という行為をします。さらに、気に入った本は何度も読み返します。そういうところは、効率優先の生活を送っている人から見ると不可解なのかもしれません。めんどうくさがりの人にも向かないでしょう。本当は、ちゃんとした仕事を完成するためには、手を抜かないことが必要不可欠なのです。
 人に特定の本を勧めるのはむずかしい。せっかく勧めて読んでもらっても読書の結果、相手に不快感をもたれることもあります。あまり勧めたくない。
 3~4冊を同時進行で読むという行為も自分と重なります。読みながら、合体させて、この世にはない物語の本を空想することもあります。
 電子図書は、年齢を重ねてくると、視覚的にむずかしい。焦点が合わない、疲れるということがあります。作者は老齢者ではありませんが、紙の本のほうがページをめくるときのわくわく感とか、紙の手触りが好きだと言っています。
 作者がまだ文字が読めなかった頃の気持ちが書いてあります。生まれて初めての文字との出会いのときにどう感じたか、その出来事で各自の思い出を集めるとおもしろいコメント集ができあがりそうです。

(つづく)

 小学校低学年は、「図鑑」が好き。年齢的に、知らないことを知りたい「欲」が強い。

 星新一シリーズはおもしろい。自分は本よりも中学生のころに、夜、ラジオの読み聞かせを聞いて好きになりました。

 ノーベル賞受賞者iPS細胞の山中伸弥教授との対談があります。山中氏の話で、昔のクイズ番組「クイズダービー」に出ていた篠沢教授という方が難病で亡くなったということは知りませんでした。病気になるのも「明日は我が身」という気持ちで今日を過ごしたい。

 「西の魔女が死んだ」のおばあちゃんの言葉、『この世には悪魔がうようよいる』は、味わい深いフレーズです。

 辻村深月さんとの対談があります。「ツナグ」は名作です。わたしの好みは「朝が来る」です。いろいろな書き方をされる人なので、ふたりの話題は、ファンタジーとか推理、アニメっぽい作品が中心です。良かったフレーズが、辻村さんの発言にある「本はむき出しの現実を生き抜くための心強い武器になる」、同じく「自分は10代のころ、まわりの大人が信用できなかった」

 それら以外で、印象に残った表現などとして、「演技をするときは、素の芦田愛菜が出ないように気をつけている。その人物を演じているという趣旨のお話し」、「(山中伸弥教授の言葉)研究の世界では失敗することはあたりまえ」

 調べた言葉として、「(髪に付ける)エクステ:髪の毛に直接つける毛束」  

Posted by 熊太郎 at 06:29Comments(0)TrackBack(0)読書感想文