2019年08月26日

白狐魔記(しらこまき) 源平の嵐 斉藤洋

白狐魔記(しらこまき) 源平の嵐 斉藤洋 偕成社

 妖怪白狐のお話みたいな感じで、源氏と平家の対立と戦の終末期を描くものだろうという予想で読み始めました。
 こういう児童文学作品があったことを初めて知りました。おもしろい。秀作です。
 ひとりだちのために、住み家から、母親ぎつねに、きつく追い払われたきつねの話から始まります。物語の3分の2ぐらいを読みましたが、彼にはまだ名前がありません。同じく追い出された弟らしききつねがいますが、その存在には詳しくは触れられていません。
 きつねの一人称、ひとり語りで物語は続いていきます。
 人間の復讐心の強さ、あきらめの悪さについて書いてあります。永遠に仕返しが続くことを源平合戦から引き出しています。
 「仕返し」を防ぐことはむずかしい。相手の仕返しから逃れて生きていくための手法として紹介されているのが、相手のそばにいるのだけれど、相手から「見えないような存在になる」
 だから、きつねは、人間に変身する。そのように話の流れを自分なりにつかみました。
 
 良書です。今年読んで良かった1冊です。以前読んだ同作者の「ルドルフとイッパイアッテナ」もおもしろかった。

 母親ぎつねに追い出されたきつねは決心します。
 東に60里(240km)いったところに白駒山(しろこまさん)という険しい山がある。そこには、きつねが人間に化けるための修行をしてくれる仙人がいる。その仙人に会って、人間を化かす神通力とやらを身に着けたい。
 そのときに、「縁(えん)」の話が出ます。縁があるかないかは、自分では決められませんが、縁がないと相手とは出会えません。

 場所が、白駒山(しらこまさん)で、そこにいるきつねは白いのか。そして、その仙人という扱いである白いきつねは、人間にもなれるし、馬にもなれる。いわゆる化け物か。妖怪なんとかへんげ。
 物語のなかでは、作者が、「若いきつね」になりきっています。仙人である巨大な白ぎつねは、変化が自由自在で魔界の妖怪を超えて神のようです。
 
 おもしろい展開が続きます。

 迫力のある平家と源氏の弓矢の応酬です。義経と弁慶が登場しました。一の谷の奇襲です。(平安時代末期1184年、ドラマチック(劇的、印象的、感動を呼び起こす)な記述です。でもきつねには、ふたりが、どんな人物かはわかりません。
 犬ときつねの格闘シーンも迫力に満ちています。猟犬7匹対きつね1匹です。
 
 「おかどちがい:本来の筋からずれている。場所が違う」

 仙人は老人ではなく若い男でしたが、そもそも仙人は人間ではない。

 掟(おきて。地域・集団の決まりごと。さからうと大きな被害をもらうことになる)のような、「白駒山と白駒山の頂上から見える場所での殺生(せっしょう、殺し)はいけない」の意味は、いずれ解き明かされるのだろうか。

 よくは知りませんが、ドラゴンボールみたい。「気」とか「念」とか。体内エネルギーを表現。

 相手の記憶を消すという高等技術。

 「無」と「空(くう)」の違い。

 ぐっときた表現などとして、「いちばん恐ろしい敵は人間だ」、「これからおまえは、字をおぼえるのだ(学習は字をおぼえるところから始まる)」

(つづく)

 師匠の仙人ぎつねは、気持ちや考えがまっすぐな人です。いや、きつねです。

 ようやく主人公のきつねに名前を付ける話が出てきました。148ページ付近です。
 いまいる山の名前からとって、「白駒丸(しらこままる)」、そこからさらに変化させて、「白狐魔丸(しらこままる)」すばらしい。かっこいい。人間は白い生き物を神の使いだという。

 きつねと義経、弁慶との再会シーンです。義経は、兄頼朝の懸賞金付殺害指令で追われている身です。

 「佐藤忠信:義経の身代わりになって平家に殺害された」
 「主君のために死ぬのは本望(ほんもう。本来の望み)でござる」の言葉があります。今は、そういうことを言う人はいなくなりました。
 佐藤忠信の言動には、「美」があります。自分の役割を果たす。自分の責任を果たす。潔い。(いさぎよい。清らか。汚れがない)

 この本を読む前に、直木賞作品「渦 妹背山婦人庭訓魂結び(いもせやまおんなていきんたまむすび)」を読んだのですが、浄瑠璃の舞台として、奈良県吉野が登場します。
 以前吉野に行ったとき、義経と静御前(しずかごぜん)が吉野に一時的にいたというところを見学した覚えがあります。
 たまたま2作品が重なり縁を感じました。  

Posted by 熊太郎 at 06:07Comments(0)TrackBack(0)読書感想文