2019年08月27日

孤愁の岸上・下 杉本苑子

孤愁の岸(こしゅうのきし) 上・下 杉本苑子(すぎもと・そのこ) 講談社文庫

 文庫の帯に、「濃尾三川水工事を命じられた薩摩藩」とあります。三川(さんせん)とは、木曽川、長良川、揖斐川、その交わる一帯を「輪中(わじゅう)」と学校で習いました。ずいぶん昔にテレビドラマでちょっとだけ見て、江戸時代に遠方の薩摩藩が、今でいうところの愛知県、岐阜県の河川工事をしているのだろうと疑問をもったことがあります。この小説はそのことを扱った内容です。詳しいことは知りません。これから読みます。

(つづく)

 主人公は、薩摩藩国老(家老)平田靱負(ひらた・ゆきえ)51才、小柄だが骨太がっしり。
 まだ、数ページ読んだだけです。江戸から治水の命令が鹿児島に届きました。

 「宝暦治水:薩摩藩士がたくさん亡くなった。1754年から1年間ぐらい」
 「江戸表:地方から見た江戸」
 「公儀:幕府」
 「普請:ふしん。建築工事」

(つづく)

 77ページぐらいまで読みました。
 官僚とか公務員世界、単身赴任がらみの大企業の世界、借財、財政とか、いわゆる国の機関の世界をみるようです。公共事業です。治水をしながら、地元住民の雇用確保もします。ただし、その費用は薩摩藩が負うのです。地元濃尾平野で暮らす人間はそれをどう見るのだろう。複雑な心理のからみあいになりそうです。
 タイトル「孤愁の岸」は、川岸にひとりぼっちで立っている総責任者侍平田靱負(ひらた・ゆきえ51才)の姿を思い浮かべます。最終的に彼は自害します。
 
 「米の石とは:1石は10斗。100升、1000合。1石は、成人一人の年間消費量。濃尾平野が64万5000石なので、64万5000人を養える。島津氏は、77万石」、「治水工事の費用30万両が現代ではいくらぐらいかわかりませんが、今の工事に換算したら、何百億円ぐらいだろうと考えます。ほとんどは人件費だろうに。自分なりに1両を30万円と換算して、当初の予算が30万両で900億円、ところがだまされていた。幕府は70万両2100億円を見込んでいたと解釈しました。薩摩藩はだまされた」
 
 関ヶ原の合戦で負けたほうで、外様大名になると、かなり厳しいものがあります。借金財政です。天下分け目の戦に負けたほうは代々みじめです。お金を大阪商人から借りて、担保を出して、別の高利貸しからも借りて、武士とはいえ貧乏です。特産物の砂糖は、いまどきのふるさと納税を思い起こさせます。
 武士は忍耐を強制されますが、恥辱(ちじょく。体面、名誉を傷つけられること)に対しては戦うという気構えです。されど、合戦となれば、負けてしまう。
 幕府から無茶な仕事を押し付けられて薩摩藩主は反旗を挙げたい。されど、藩主の島津重年26歳は藩がなくなるかもしれないことから幕府の命令に従うことを選択します。
 「(処分として」改易:現職者の任を解き、新しい人を任にあてる」、「大目付:幹部」
 政略結婚のごたごたもあったようです。
 悲劇です。されど、治水工事の結果は、現代にも役立っていると思います。「歴史」をつくったのです。
 小説ですから、虚構があると思います。
 鹿児島から濃尾平野へ行く13人の先発チームが組まれました。現代でいえば、家族持ちなので、単身赴任に該当します。
 桜島の影がさびしい。

(つづく)

 当時の川の流れです。東から木曽川が長良川と合流して、それが、揖斐川と合流して1本になる。さらに、2本に分かれて伊勢湾にそそぐ。現在は、3本に分かれて海につながっています。素人目にも治水のためには、川の分離が必要だと気づきます。
 川を治める。コントロールする。農業に生かし、水害を防ぐ。必要な工事です。
 されど、地元民の利益優先の思惑がからんでもめるのでしょう。十分今後が予測できます。ということは、当時の関係者ももめるとわかっていたはずです。水の取り合いは激しい争いになるでしょう。
 「殷賑:いんしん。活気があってにぎやかなこと」
 工事現場への出勤時刻は、午前7時から午後4時です。

 工事現場の説明として、工区が4区ある。
 一ノ手として、中島郡石田村庄屋金太夫方、羽島市
 二ノ手として、桑名郡西対海地大百姓平太夫方、木曽岬町(きそさきちょう)
 三ノ手として、安八郡大牧村鬼頭兵内方、安八町、大垣市
 四ノ手として、桑名郡金廻村庄屋源三邸内、かなまわりむら、海津市
 寝泊まりするところとして、工区ごとに『出小屋』をおく。本部として、三ノ手に『本小屋』をおく。

(つづく)

 お金の管理でもめそうです。
 現地でのおきてのような決め事として、節約目的だと思いますが、
1 ありあわせの物で一汁一菜
2 宿の手入れ無用
3 売買においては最低価格で。
 他の地方の治水事業で遠方から手伝いに来てくれて感謝されるはずなのに、薩摩藩の人たちは、濃尾平野(江戸幕府)「敵中」、敵地に乗り込む雰囲気です。
 ひとりひとりは、大きな組織の歯車のひとつひとつです。
 300年ぐらい前、薩摩藩の人たちが濃尾平野に来て木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を薩摩藩の負担でやったという物語の形が見えてきました。そして、さまざまな困難があった。
 「天井川」川よりも住居地、農耕地のほうが、標高が低い。学校で習いました。
 もめごとをなかったことにする隠蔽工作が始まりました。薩摩藩の犠牲者は2名。自害して、状況を訴えようとしましたがまるで、むなしい自爆テロでしかなかった。
 百姓が働いてくれません。
 無駄金が多い。
 資材の不正入札。
 賄賂わいろ
 リーダーの平田靱負(ひらた・ゆきえ)の立場は苦しい。

(つづく)
 
 「村方請負い、町方請負い:町方のほうが財力がある。町人。村方は百姓。38か所を町方受けを請願して、6か所の水中工事のみ町方請けが許可される」、「果報者:幸せ者」、「据風呂:すえふろ。ひとりが入る家の中の風呂。工事現場では、多数が入れるように別棟の風呂小屋がある」、「杣夫:そま。伐採、製材の従事者」、「諸色の値上げ:しょしき。物価。米を除いた日常品」、「焙烙:ほうろく。素焼きの土製、平たいなべ」、「慰藉:いしゃ。なぐさめ、いたわる」

 梅雨時の工事をした河川部分から出水(予算をしぶったがための不十分工事が原因か)が起ります。
 まるで、タイムマシンにのって、過去のその時の現場を見ているかのような記述です。苦しい事情を緻密に積み重ねていく手法です。
 
 疫病がはやり、若き薩摩藩主の濃尾平野現地視察があります。出来事は続いていきます。
 これは、働いて報酬を得る「仕事」ではないのか。処罰のための労役のように表現してあります。

 言葉の違いで意思疎通がうまくいかない。江戸言葉、濃尾平野地域の言葉、薩摩言葉。

(つづく)

 下巻に移りました。
 事故やいざこざで責任を取る形での薩摩藩の自殺者が30人出ています。異常事態です。平和な時代のなかの戦です。
 老母が工事に従事する息子にあてた手紙が温かい。酒のみなされ、女抱きなされで、お金を送ってくれました。
 「宵時雨:秋から冬にかけて急に降ったりやんだりする雨。よいしぐれ」
 歴史小説と娯楽小説を兼ねたような内容です。300年も前のことなので、記述通りの情景があったとは思えませんが、供応、接待、賄賂に、融通という不正行為、どんどん予算が消えていきます。薩摩藩はたまったものじゃありません。もう耐え忍んではいられない。

(つづく)

 「川普請」、「水行普請:すいこうふしん。川の流れ」働くのは百姓で、農作業の片手間でやれるような工事内容ではない。川を切り離す。せき止める。新たな川をつくる。
 土木建築業にたずさわる人向けの小説です。あとは、合い見積もりとか、競争入札をする行政の人。300年かけても公正入札に取り組んでいる人間心理のむずかしさがあります。
 よその藩の人を雇って、薩摩藩の人の人件費を削減する。いろいろと苦しいお金の工面です。
 百姓内で、仲間割れが起き始めます。不正を許せない百姓が現れます。内部告発です。地元の問屋、村役、群代役所の馴れ合いがあります。利益を安定して分配するための腐れ縁です。支払うのは島津藩です。
 虚偽の見積もりが発覚します。
 「気色:きしょく。顔に現れた心の内面」、「断絃:だんげん。弦を切ること。死別」、「嬰児:やや。えいじ。生まれたばかりの子ども」
 『水』の有益さと、災害の怖さがあります。

(つづく)

 読み終えました。最後の解説にありますが、江戸幕府にとって、薩摩藩は脅威であった。ゆえに、薩摩藩が歴史上ときおり登場してくることがわかりました。

 「多度神社:三重県桑名市」

 薩摩藩のメンバーは不本意なまま働き続けます。その土地の人のため、後世の人のためと割り切ろうとするのですが、割り切れません。やはり、自分の藩のため、自分の家族・一族のために働きたい。
 戦っても勝てない幕府に対して反抗できないがまんの苦しさがあります。
 なのに、工事がうまくいかないときは責任を取って切腹です。ひとりの言葉として、「われわれは、はじめから負けている」

 「薩摩の衆は濃尾の冬はこたえる」、「洗堰:あらいぜき。ふたつの川の水位の調整部分」、「油島千間堤:岐阜県海津市海津町油島。長良川と木曽川を分ける堤。あぶらじませんげんつづみ。千間=1818m」

 最終的に薩摩藩の工事参加者は、「総従事者のうち、屠腹した者50名(とふく、せっぷく)、病死者202名となっています」従事者は数千人なのでしょう。
 責任者の平田靱負(ひらた・ゆきえ)も、同胞(どうほう。同じ薩摩藩の人間)の亡きがらを濃尾平野に残して薩摩へ帰ることはできず切腹しています。
 武士とはなにかを考える作品でもありました。「ご家老は、命を落とした人々とともに、この野に眠るお覚悟だったのだな」とあります。されど、思うに、武士であっても死にたくはなかった。ふるさと鹿児島に帰りたかった。帰って親族に会いたかった。無念であったと思うのです。  

Posted by 熊太郎 at 06:10Comments(0)TrackBack(0)読書感想文