2023年05月15日
人がつくった川・荒川 水害からいのちを守り……
人がつくった川・荒川 水害からいのちを守り、暮らしを豊かにする 長谷川敦(はせがわ・あつし) 旬報社(じゅんぽうしゃ)
まず、最初のページから最後のページまで、ゆっくりとめくりながら思いついたことを書き落としていきます。1回目の本読みです。
年に何回か用事があって千葉県へ行きます。
そのときに乗るJR総武線の電車は荒川を渡ります。
荒川はけっこう川幅の広い大きな川です。
墨田川や江戸川よりも広い。
荒川の河口付近にある葛西臨海公園には、何回か孫たちを連れて遊びに行きました。葛西臨海水族園という水族館があって、もう昔のことですが、一時期マグロの展示で話題になったことがあります。(マグロがいっきにたくさん死んでしまった)
淡水と海水が混じる河口付近は風が吹いていて気持ちがいい。菜の花もとてもきれいでした。
さて、本の厚い表紙をめくると地図があります。
荒川の源流はけっこう遠いところにあることを知り驚きました。
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ。埼玉県・山梨県・長野県にまたがる)とあります。へぇー そんなに遠いのか。そんなに遠いところから、ぐるーっと回って、東京湾に水が注いでいるわけね。
数枚の写真のページがあります。
人間が、水の流れをコントロールすることはむずかしいことです。
本来、建物を建てないほうがいい形状の土地に、人間が人間の欲で、建物を建てます。人間側の被害として、地下に流れている『水みち(みずみち)』という地下水の川があります。水脈です。水みちの上に建物を建てると、建物の中に水がしみ出してくることがあります。放置しておくと、やがて建物は壊れます。水のコントロールは困難で、なかなか厳しいものがあります。
44ページにみっつの地図が縦に並べてあります。現在の東京都から千葉県・茨城県にかけての地図です。
ずいぶん大昔の話です。地形の変化のようすが表されています。
関東地方は、海の部分が多かったことがわかります。縄文時代のようす。そして、現代の比較図です。
48ページには、今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で主人公の徳川家康のことが書いてあります。豊臣秀吉が徳川家康にいじわるをするように東海地方(愛知県から静岡県あたり)を取り上げて、徳川家康が利用するのに不便な地域である関東地方を家康に与えたとあります。
豊臣秀吉が徳川家康に滅ぼされないように考えた、家康を自分から遠ざける作戦だったのでしょう。されど、徳川家康はめげませんでした。
52ページに小舟が行き交う絵があります。
思うに、江戸時代の移動手段は、船が便利だったに違いありません。舟は現代の自動車のようなもので、物を運ぶのに水路を使うと有利なことがあったように思います。
54ページに徳川家康による江戸の町の都市計画のことが書いてあります。
徳川家康を中心において、優秀な人材が江戸幕府という組織の中にいたと考えられます。
87ページに、うんちとオシッコが船で運ばれていたというようなことが書いてあります。
農業を行ううえで大事なもののひとつに『肥料』があります。うんちとオシッコが野菜や穀物類にとっていい栄養素になるのです。捨てるのはもったいない。
昔、北海道でニシンという魚がたくさんとれて、地元ではお金が潤ったという話がありました。ニシンは食べるのではなく、肥料として使われたと別の本で読んだことがあります。
化学肥料が出てきたのはそれほど昔のことではないと思います。わたしが、小学一年生ぐらいのころ、父方実家が農家で、まだ人糞(じんぷん)を肥料として使っていました。六十年ぐらい前のことです。
101ページに水害で、たぶん、大雨で川が氾濫(はんらん。あふれた)したのでしょうが、小船で避難する人たちの姿が映った白黒写真があります。明治時代のことでしょう。
ページを見ると、1907年(明治23年)とあります。1907年は明治40年です。へんなものを見つけてしまいました。1907年が正しいのか、明治23年が正しいのかわかりませんが、なぜ気づいたかというと、わたしの母方祖父が、明治40年生まれで、西暦だと1907年だからです。(へんな話ですが、自分の祖父母・両親・兄弟姉妹の生年月日をきちんと言える人は少ないです。わたしは少数派の人間です)
100ページの文章を読んでみたら、1907年(明治40)と書いてありました。101ページの写真の下にある1907(明治23)は、誤植ですな。(ごしょく。誤りのこと)
149ページの東京の地図を見ながら考えたことです。
いつかは必ず災害が来ます。
大きな地震です。
この本のテーマである川がらみだと、スーパー台風の襲来です。川の水があふれて住宅地にあふれます。ときには、二階建ての家よりも水深が高くなります。人間の逃げ道がなくなります。泥水に流されたら人間は死んでしまいます。
怖い(こわい)
大きな川があふれると、建物は浸水します。
水がたまって、家が沈みます。
家の中で水攻めにあいます。
水の流れに流されてしまうこともあります。
早めの退避が必要です。
逃げろーー です。くどいようですが、水はこわいのです。
160ページに、避難訓練が重要なことが書いてあるようです。
災害の対応は『自助(じじょ。じぶんで逃げる) 共助(親族や近所の人たちで助け合う) 公助(こうじょ。役所の人たちがかけつける)』の順番が基本です。
人の助けを待っていたら被災してしまいます。津波ならなおさらのこと、まず、自分が必死になってその場を離れなければなりません。ぼーっとしていると、死んじゃいます。
178ページに2022年(令和4年)のことが書いてあります
コロナ禍(ころなか。コロナウィスルの感染拡大で、いろいろなことに関する中止や制限がかけられ、社会活動が低下したこと)で、隅田川の花火大会が三年連続で中止されたことが書いてあります。
最後のページまできました。
裏表紙のところにある絵は、表表紙のところにある絵と同じでした。
なんだかもったいない気がしました。違う絵を出せばよかったのに。(本の60ページあたりから、裏表紙の絵を見ながら説明文を読みました。わかりやすかった。最初は不要な地図の絵と思いましたが、必要な地図でした)
(さて、2回目の本読みを始めます)
表紙をめくって、写真のページがあります。
ふだんの『荒川』の写真と台風19号が来たときの写真です。
東京都北区と埼玉県川口市を分ける荒川部分ですから、東京の北部でしょう。(あとで調べたら、荒川から墨田川が別れる部分でした『岩淵水門(いわぶちすいもん)』というところです。
台風の時は、泥の河が広がっています。ふだんは陸地のところが、大量の川の水に沈んでいます。
川の水があふれたらたいへんなことになります。ほんとうにあふれることがありそうです。やばい。
次のページの写真では、さらに、台風19号の時に水の高さが7.17mまできましたと説明がありました。二階建ての家の屋根ぐらいの高さだと思います。水があふれたら、屋根の上で助けを待てるか、それとも流されてしまうか微妙な高さです。こわい。
5ページにある目次に『第4章 今の時代の荒川と、わたしたち』があります。
「浸水しても、しばらく生活ができるまちをつくる」とあります
浸水後、どうやって、その場所で生活ができるのだろうか。(あとから読んでみます)
8ページの『第5章 荒川と世界の未来のためにできること』では、プラスチックごみのことが書いてあります。プラスチックは便利ですが、ごみで自然界に捨てられるとたいへん迷惑なことになります。
『はじめに』から読み進んで行きます。
荒川の水の流れ:埼玉県→東京都→東京湾 長さ173km 日本で15番目の長さ
2回川の流れが人の手で変更された。
最初の状態:江戸時代の前は、今よりもずっと東の位置を流れていた。100年ちょっと前、今の荒川が流れているところは田畑だった。現在の『墨田川』が荒川の下流だった。
川にはふたつの顔がある。
①大雨のときに人々を困らせる。
②人間に恵みをもたらしてくれる。
東京の特徴は川の数がとても多いことだそうです。
墨田川、荒川、江戸川、多摩川(東京都の西と神奈川県との境目あたり)
13ページに荒川が、最初は東の位置を流れていたのに、だんだん西の方向へ位置が変わって行ったことがわかる地図があります。
① 江戸時代の前
② 江戸時代から明治時代(徳川家康がつくった徳川幕府がまちづくり計画で川の位置を西にずらしたのでしょう)
③ 現在:川の下流で、墨田川と荒川に分かれています。分岐点があります。(さきほどの写真にあった『岩淵水門』付近です)隅田川はもともとの荒川部分、新しい荒川の部分は新しい流れをつくったそうです。(明治時代以降に、国と東京都の都市計画でつくられた川の部分なのでしょう)
18ページに『人の力によって川がつくり変えられた』とあります。
400年前(江戸幕府が始まったころ)と100年前(明治時代が始まったころ)に変更があった。
川の工事をすることで、仕事が生れ、労働者の雇用が確保されるということがあります。(こよう:仕事につける)
雇用があれば、給料が支給され、支給されたお金は生活費の消費で、世の中を回ります。経済活動が活発になって、人々の生活が豊かになるということがあります。
なぜ、荒川の流れを変えたのか。
キーワードとして
①利水(りすい):流れる水を人間の生活のために利用する。
米をつくる。飲み水にする。水力発電に利用する。船による交通手段に利用する。(明治時代になるまで、鉄道はなかった)大量の荷物は船で運搬していた。
②治水(ちすい):大雨がもたらす洪水から人命や農作物を守る。(墨田川のまわりを洪水から守るために荒川がつくられた。岩淵水門のところで、水の流れをせき止めて、水の流れをコントロールする。水を荒川に流して、墨田川のまわりのまちを水害から守る)
昔いた人たちが子孫のことを思って、治水事業をやってくれた。(感謝です)
流域(りゅういき):川の周辺
28ページに『……もう一つのこの本のテーマは、今の時代を生きるわたしたちは……』とあるのですが、「もう一つ」の前にあるひとつめのテーマがなんなのかがわかりませんでした。
ページを戻ってめくりなおしてみましたがはっきりしません。
これまでのこと(過去)を知るということだろうか。(謎をさぐる)
ちなみに、「もう一つ」のほうは、未来のことのようです。
埼玉県立川の博物館学芸員羽田武朗さん登場です。
荒川についての展示があるそうです。
江戸時代は、川船が海からの風を利用して、上流に向かって動いていたそうです。おどろきました。ゆっくりで、目的地まで、五日間ぐらいかかったそうです。時間はいくらかかってもかまわない時代だったのでしょう。いまほど、時間厳守ではなかった時代だったと思います。(今の埼玉県上尾市-今の東京都足立区・荒川区)川の流れがおだやかだったから上流へ移動できたそうです。
荒川の埼玉県内流域は、県内の三分の二だそうです。(へぇー 広いんだあ)
わたしは12歳ぐらいのころ、東京都内から午後遅くの電車に乗って、埼玉県内を通り、群馬県、途中の駅で乗りかえて、栃木県の山奥まで移動したことがあります。
埼玉県内はずーっと田畑が広がっていました。この本では、昔の埼玉は農業が盛んだったと書いてあり実感があります。夕暮れ時の車窓の外には、農地が広がっていました。
もともと荒川だった部分が、岩淵から『墨田川』になったそうです。
隅田川は、スカイツリーを見学に行ったとき、ツリーのそばを流れていました。
隅田川と京都の鴨川は、人々がほとりでゆっくりできる点で似ていると感じます。
隅田川は、流れている区域で、千住川(せんじゅがわ)、浅草川、大川、隅田川などとバラバラの呼び名(通称名)だったそうです。『河川法』という法律で、墨田川と定められています。やはり、社会生活の基本は『法律』です。『法律』は大事です。
1700年代の江戸の人口は100万人に達していたそうです。今の仙台市ぐらいの規模です。
緊急用河川敷道路:荒川の両岸の道路のことです。大地震が起きた時は、消防や救急ほかの専用道路になるそうです。
荒川の歴史がつづられていきます。
荒川の発展は江戸時代以降だそうです。徳川幕府徳川家康さんのおかげです。家康さんが江戸に来たのは1590年です。関ケ原の合戦が1600年です。
その昔、7000年ぐらい前の縄文時代前半、関東平野の内陸部まで海だったそうです。高いところから土砂(どしゃ)が運ばれてきて陸地ができた。『沖積平野(ちゅうせきへいや)』というそうです。
荒川のほかに、利根川、渡良瀬川(わたらせがわ)が紹介されています。
豊臣秀吉は、徳川家康にいやがらせをして、もともと徳川家康がもっていた東海地区の土地を取り上げて、利用価値のない関東を徳川家康に与えたということは、ずばりそのとおりではないそうです。
当時の江戸は、水上交通の要所であったことから、にぎわっていたそうです。けして、何も無いさびしいまちではなかったと書いてあります。
家康が来る100年前、江戸城主の太田道灌(おおたどうかん)という武将のところをたずねたお坊さんが残した記録があるそうです。お城の横の港にはたくさんの船が集まっていた。毎日市場(いちば。ショッピングセンター)が開催されていた。千葉県の米、茨城県のお茶、長野県の銅などが取引されていた。けっこうにぎやかだったそうです。
物流が行き交い、商売ができるところには、お金と人が集まります。
『品川』は立派な港町だったそうです。東海地方、紀伊半島から、船で、品物が運ばれたり、品物を運んだりしたそうです。
熊じいさんは、新幹線の品川駅でよく乗り換えをします。今はとても港町とは思えません。江戸時代の面影はないのでしょう。
土木技術の進歩:領民の信用と信頼を得るために、領民に利益をもたらさなければ、領地の統治はできません。毎年ちゃんと農作物がとれる。川を流れる水をコントロールしなければなりません。たんぼに水が流れるように土木工事をしなければなりません。道路や橋も必要です。
広い土地をどう利用したらいいのかという都市計画の発想がいります。人手もいります。雇用の確保ができます。仕事があれば、給料があって、経済が回ります。
武士の目から見て、関東平野には、無限の可能性が広がっていたことでしょう。
江戸のまちが発展します。
(つづく)
1616年 徳川家康 死没 73歳 おつかれさまでした。
家康の都市計画の意図を継いだのが、伊奈忠治で、荒川の位置を東から西に変えたそうです。もともとあった川へ水の流れを誘導した。(荒川西遷(あらかわせいせん):1629年。久下(くげ)の南を流れる和田吉野川に流した)
埼玉県東部の開発について書いてあります。
利根川の開発について書いてあります。
荒川と同様に伊奈忠治の名前が出てきます。
仕事とはいえ、偉業を成し遂げておられます。
昔の職業は、世襲でした。(せしゅう。親の仕事を子が引き継ぐ)
開発に携わった人たちの名前と事業内容が続きます。
100年後、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが):利根川の水から用水路を引き、水を 埼玉県東部に流した。(見沼代用水みぬまだいようすい)
メリットとデメリットについて書いてあります。江戸時代の土木技術ではできなかったこともある。
損と得を比較して、どのあたりで、線引きをするか考える。
一定線の得をするために、犠牲があってもやむを得ないとするのです。
舟運(しゅううん):船による運搬や移動
堤(つつみ)のことが書いてあります。
地域を高い盛り土で囲って地域を水害から守るのです。『大囲堤(おおかこいつづみ)』
日本堤:荒川の西側
墨田堤:荒川の東側
評定所:江戸時代の裁判所のようなもの
水塚(みづか):屋敷の敷地の一部に盛り土(数十センチから2mぐらい)をして、そこに「くら」という建物を建てて、洪水のときは、「くら」に逃れる。くらを高くすると台風の時にとばされる危険があるので、「牛梁合掌づくり(うしばりがっしょうづくり)」というつくり方をする。二階の天井は低くする。まんなかだけ高くして、左右は屋根の傾きを急にする。
日本各地にいろんな暮らし方があります。
洪水は、上流から栄養がある土を運んでくれるメリットがあった。
荒川の流れを利用して船の運搬が盛んに行われたようすが、85ページの地図でわかります。下流から上流へ移動するときは、南から吹く海風を帆にあてて上流へ移動するとききました。
埼玉県の川越市が小江戸と呼ばれるわけがわかりました。川が幹線道路のようなものです。
河岸場(かしば):船着き場。鉄道の駅のように、船の駅のようなもの。
松平信綱(まつだいら・のぶつな):1689年川越藩主になって、家来たちが『九十九曲がり(くじゅうくまがり)』という曲がりくねった川の流れをつくり、河岸場(かしば。船着き場。川の駅ですな)をつくって整備したそうです。思うに、駅ができれば、宿場もできるような気がします。まちがにぎわいお金で潤います。(うるおいます)
曲がった川は、水面がゆるやかに流れて、水の量を一定の量で管理できます。舟の運航が安定します。
さきほども書きましたが、うんちとしっこが有益な肥料として重宝され舟で運搬されて、商売の取引の商品になります。ゴミ処理の(排尿・排便)の模範です。リサイクルです。江戸100万人のおしっこ・うんこが宝になったのです。おしっこ・うんこのおかげで、たくさんの農作物ができます。生活環境を守る衛生面でも効果が絶大にあったことでしょう。おしっこ・うんこを運ぶ舟を『葛西船(かさいぶね)』と言ったそうです。そこの部分を読んで、わたしは、葛西臨海公園に行ったことがあるのですが、荒川の河口にある『葛西(かさい)』という地名が、葛西舟と関係があるのだろうと思いました。
野菜の生産分布の説明があります。野菜の賞味期限でつくる野菜の種類が変わるのです。
江戸のまちを起点として、日もちがしないものは江戸のまちの近くで生産する(ネギやナス)。日もちのするものは、江戸から少し離れたところで生産する(ダイコンやごぼう)。
こう考えてみると、人間の知恵は無限です。江戸時代の人たちも暮らしを豊かにするために一生懸命ものごとを考えたことがわかります。
本は、第3章に移りました。東京を水害から守る! ~荒川放水路の建設~と標題があります。荒川をふたつに分けて、今の墨田川を荒川として、分けた新しい川を荒川放水路としたことは、これまでに読んだページの記事で理解しました。
なかなか情報量が豊富な本です。
94ページまできましたが、これまでに新しい知識となるいくつもの情報に触れました。
1868年(明治元年)、江戸時代が終わって、明治という元号の新しい時代がスタートです。
これまでの鎖国政策は、終わって、開国をして、外国とつきあっていかなければなりませんが、日本の技術力は欧米と比較してかなり遅れています。ぼーっとしていると、外国の植民地にされてしまう危険性があったとわたしは考えました。
都市『江戸』が『東京』に変わりました。
このころの急激な変化にさらされた明治の人たちは、新しいものに感激して、驚き半分、変化したくない気持ち半分だったような気がします。
そして、明治時代の人たちは、とてもがんばったと思うのです。
昔荒川、今墨田川だった両岸に工場が広がる。セメント工場、化学肥料工場、造船所、紡績工場、染料工場、製紙工場、聞いただけで、川に汚水が流されて、川が公害の発生源になりそうですが、この本では公害のことについては触れられていません。(読み進めていたら179ページに川の汚れのことが出てきました)
水害として、以下の年で、荒川(今の墨田川)の川の水が川からあふれたそうです。
1896年(明治29年)
1902年(明治35年)
1910年(明治43年)8月
水害から町を(どちらかといえば工場をなのかも)守るために、荒川を途中で分岐して、荒川の放水路をつくる計画が生まれます。
『立ち退きと移転』があります。
新しく川(放水路)になるところに住んでいる人や農地は、そこをどかなければなりません。
これは、現在における一般道路の拡幅や自動車専用道路の新設時にも同じことが起きます。明治時代だと、あとは、鉄道線路や駅施設等の設置があったことでしょう。
本には、そのようなことが書いてあります。『荒川放水路物語 絹田幸恵 新草出版』とあります。
1300軒が移転したそうです。
(つづく)
読み終えました。
前半は荒川のこれまでの歴史、次に洪水災害対策を中心とした防災の話、最後は自然環境保護のお話という流れでした。
94ページ以降の感想を書き足していきます。
今の墨田川(昔の荒川)両岸にたくさんの工場が建てられた。
今の荒川部分(昔は荒川放水路部分)をつくる工事のやり方について書いてあります。
1913年(大正2年):手掘りで工事開始。低水路(ふだん川の水が流れている)。高水路(洪水になりそうな水量が増えたときに水面の部分になる。この部分は「エキスカベーター」という機械を使用する)。浚渫船(しゅんせつせん。低水路の川底を深く掘る)
1924年(大正13年):荒川放水路は、上流から下流までつながる。浚渫船でさらに工事を進める。
1930年(昭和5年):荒川放水路が完成した。
青山士(あおやま・あきら):荒川放水路建設における重要人物。東京帝国大学で土木工学を学んで、パナマ運河の建設に約7年半の間従事した。(南北アメリカ大陸のつなぎ目を切って、太平洋と大西洋をつなぐ運河にした。パナマ共和国にある。工事期間は、1904年-1924年)
青山士はパナマ運河建設の経験を生かして、荒川放水路の工事において、岩淵水門の基礎工事を堅牢なものに仕上げた。(けんろう:がんじょう。しっかりして壊れにくい)
きちんとしたものを造るためには、厳しくて頑固(がんこ)な人材が必要です。『なれあい』では、いいものは仕上がりません。なれあい:利害関係者による手抜きによる不当利得の取得
1923年9月1日(大正12年)関東大震災発災するも青山士が工事を指揮した『岩淵水門』はびくともしていなかった。同水門は、新たな水門に変わる1982年(昭和57年)まで供用された。
青山士は、チームワークを大切にした。
事故に備えて労災保険を取り入れた。
そこの部分を読みながら、戦争における戦傷病者に対する本人や遺族への給付もあったのだろうと思いつきました。
青山士は、関東大震災発災時に差別攻撃の対象にされた朝鮮人工事従事者をかくまったとあります。お互いに信頼関係がなければきちんとした工事はできません。青山さんは、偉い!
埼玉県のある荒川中流から上流でも水害対策工事が進められます。1918年(大正7年)開始。途中、第二次世界大戦をはさんで、1954年(昭和29年)に工事が終了しています。37年間かかりました。
読んでいて思うに、舟で食べていた人たちもいたわけで、川が整備されて舟の利用が減り、仕事がなくなった人たちもけっこうな数いたと思うのですが、なにか補償があったのか、それとも長い年月の間に自然と産業が舟から鉄道、舟から自動車に代わっていったのかはわかりません。たぶんそういう変化があったと想像します。荒川整備工事に対する反対運動があったかもしれません。
舟から鉄道への移送手段の変更は、全国的なものだったことでしょう。
洪水時の水の流れをゆるくするためのものとして『横堤(よこてい)』が紹介されています。
川に沿って、横向きに土(堤つつみ)の出っ張りがあります。
第4章が、「今の時代の荒川と、わたしたち」とあります。
ずいぶん昔のはなしですが『カスリーン台風』というのが出てきます。1947年(昭和22年)でした。
川の水位が、8.6mまで上昇したそうです。
荒川と利根川で堤防が決壊したそうです。
荒川放水路があったおかげで、大規模災害の発生を避けることができたそうです。
令和元年東日本台風(2019年 台風19号)がきたとき、荒川の水位は、7.17mだったそうです。
墨田川と荒川放水路はもちこたえたそうです。
調節池というものの説明があります。
ダム、調節池、放水路など、川の水の量や流れをコントロールするためにいろいろな手段が用いられています。
地球温暖化の話が出ます。
わたしがこどもの頃と比較して気候が変化してきています。
台風が来る時期とかルートが半世紀前とは違ってきています。昔は、九州地方へ秋ごろに来ていました。今は、初夏から本州を縦断するようなルートで北上してきます。そして、ときに、スーパー台風というものすごい暴風のときがあります。
石油とか石炭、天然ガスなどの化石燃料を燃やすことによって空気中の二酸化炭素が増えて、地球の記憶があがるのが地球温暖化の原因ととられています。
自動車が出す排気ガスが大量だったことが大きな原因と思われます。世界は今、排気ガスを出さない電気自動車へ転換する変化のなかにあります。
『流域治水』という言葉が出てきます。
あふれる水を受け入れる、ためておくために、田んぼを利用する。『田んぼダム』です。
たまりそうな水を地下水へと流す。『浸透ます』の利用です。
下水処理の方法も詳しく書いてあります。
分流式(汚水と雨水は別々)と合流式(ふたつがいっしょ)がある。合流式は、下水処理後川に流す水の量が多いので、大雨のときは、台所やおふろの水を流すことを控えてもらうそうです)人口が多い東京はとくに効果があるそうです。人が多いとメリットもあるしデメリットもあります。そういうやりかたを『流域治水』というそうです。
ひとりひとりの心がけが大切です。
川が氾濫した時に災害にあいやすい地域があります。下町と呼ばれる墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区とあります。(江東五区と呼ぶそうです)
地盤沈下の話が出ます。4mぐらい地盤が沈下したところもあったそうです。かなりひどい。
工場用地下水のくみ上げが地盤沈下の原因です。組み上げられた地下水は、工業用水として利用されます。
洪水発生時の避難について書いてあります。
まずは、自分のことは自分でやる。自分の命は自分で守る。自分で自分の命を救わねばなりません。自立と自活の意識が必要です。
だれかにやってもらおうと思っていたら災難から逃げ遅れます。
東日本大震災のときの津波から自分の命を守る『津波てんでんこ』を思い出しました。(てんでんばらばらに急いで早く逃げろ!)
葛飾区の話が出ます。
観光で亀有を訪れた時のことを思い出しました。
両津勘吉、こちら亀有公園前派出所です。
荒川、江戸川、中川、新中川、綾瀬川、大場川が流れているそうです。たくさんありますなあ。
『浸水対応型市街地構想』というプランがあるそうです。
これから30年かけて次のようにするそうです。
・10年後までに:緊急的に避難できるマンションなどの高い建物の数を増やす。分譲マンションの管理組だと思いますが、行政と協定を結ぶそうです。
・20年後までに:マンションに太陽光発電パネルと蓄電池を設置する。停電に備えるため。
・30年後までに:マンション内に備蓄庫を設置する。ふだんから食べ物や生活用品を保管しておく。ゴムボートも用意しておく。
(この部分を読んで、実現はかなりむずかしいと考えました。最近は、どこもオートロックのマンションばかりです。備蓄庫を設置するスペースが分譲マンションにあるとは思えませんし、食料の保管は管理が必要です)
避難所になる学校の体育館は二階以上に設置する。
これはすでに実行されていると思います。
東京23区内は人口が多すぎます。
被災した時は、まずは、23区内から離れたほうがいいと自分は考えます。
1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災のことが書いてあります。
わたしも仕事で翌月の2月に現地へ行きましたが悲惨な状況でした。
あれからずいぶん経ちました。時の流れは早い。
地域を支えていくのは小学生と中学生とあります。加えて、町内会の役員となるのでしょうが、役員さんはどこも昼間自宅にいる年金生活者の高齢者が多い。こどもも年寄りも、いざというときは、災害弱者です。なかなか本に書いてあるとおりにはうまく事は運びません。
本に書かれてある文章は、災害ボランティアの部分のような記述になってきました。
洪水ハザードマップがあります。自分の家が浸水する可能性があると指摘されても引っ越しが簡単にできるわけでもありません。その時はその時とあきらめる年寄りもいます。(その時:災害発生時)
本の内容は、災害対応マニュアル(手引き)のようになっていきます。
川の汚れ、汚染のことが出てきます。汚いものを墨田川などの川に流すので、悪臭、有毒ガスなどが発生します。
人間の健康よりも『金、カネ、カネ』で、お金もうけが最優先の時代がありました。人命よりも会社のもうけが大事なのです。汚いから川を埋めたててくれという要望はいささか乱暴です。それでも埋めたところもあるそうです。川や運河が道になったそうです。人間は欲深い生き物です。
昭和40年代は『ヘドロ』という言葉をよく耳にしました。1965年代。その前から、日本のあちこちで体が奇形になったりする深刻な公害病が発生しました。
話はさらに飛び『プラスチックごみ』のことになりました。
ペットボトルとか、レジ袋とか、食べた生き物が死んでしまいます。プラスチックごみを食べた魚が食用として提供されたら、それを食べる人間の体にも悪影響がありそうです。こわい。
ずいぶん長い感想メモになってしまいました。
疲れました。
前半の徳川幕府がからんだ歴史の部分がおもしろかった。川と人間との共存がありました。現代に向かうにしたがって、人間が川を、力で押さえつけるイメージがありました。
まず、最初のページから最後のページまで、ゆっくりとめくりながら思いついたことを書き落としていきます。1回目の本読みです。
年に何回か用事があって千葉県へ行きます。
そのときに乗るJR総武線の電車は荒川を渡ります。
荒川はけっこう川幅の広い大きな川です。
墨田川や江戸川よりも広い。
荒川の河口付近にある葛西臨海公園には、何回か孫たちを連れて遊びに行きました。葛西臨海水族園という水族館があって、もう昔のことですが、一時期マグロの展示で話題になったことがあります。(マグロがいっきにたくさん死んでしまった)
淡水と海水が混じる河口付近は風が吹いていて気持ちがいい。菜の花もとてもきれいでした。
さて、本の厚い表紙をめくると地図があります。
荒川の源流はけっこう遠いところにあることを知り驚きました。
甲武信ヶ岳(こぶしがたけ。埼玉県・山梨県・長野県にまたがる)とあります。へぇー そんなに遠いのか。そんなに遠いところから、ぐるーっと回って、東京湾に水が注いでいるわけね。
数枚の写真のページがあります。
人間が、水の流れをコントロールすることはむずかしいことです。
本来、建物を建てないほうがいい形状の土地に、人間が人間の欲で、建物を建てます。人間側の被害として、地下に流れている『水みち(みずみち)』という地下水の川があります。水脈です。水みちの上に建物を建てると、建物の中に水がしみ出してくることがあります。放置しておくと、やがて建物は壊れます。水のコントロールは困難で、なかなか厳しいものがあります。
44ページにみっつの地図が縦に並べてあります。現在の東京都から千葉県・茨城県にかけての地図です。
ずいぶん大昔の話です。地形の変化のようすが表されています。
関東地方は、海の部分が多かったことがわかります。縄文時代のようす。そして、現代の比較図です。
48ページには、今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で主人公の徳川家康のことが書いてあります。豊臣秀吉が徳川家康にいじわるをするように東海地方(愛知県から静岡県あたり)を取り上げて、徳川家康が利用するのに不便な地域である関東地方を家康に与えたとあります。
豊臣秀吉が徳川家康に滅ぼされないように考えた、家康を自分から遠ざける作戦だったのでしょう。されど、徳川家康はめげませんでした。
52ページに小舟が行き交う絵があります。
思うに、江戸時代の移動手段は、船が便利だったに違いありません。舟は現代の自動車のようなもので、物を運ぶのに水路を使うと有利なことがあったように思います。
54ページに徳川家康による江戸の町の都市計画のことが書いてあります。
徳川家康を中心において、優秀な人材が江戸幕府という組織の中にいたと考えられます。
87ページに、うんちとオシッコが船で運ばれていたというようなことが書いてあります。
農業を行ううえで大事なもののひとつに『肥料』があります。うんちとオシッコが野菜や穀物類にとっていい栄養素になるのです。捨てるのはもったいない。
昔、北海道でニシンという魚がたくさんとれて、地元ではお金が潤ったという話がありました。ニシンは食べるのではなく、肥料として使われたと別の本で読んだことがあります。
化学肥料が出てきたのはそれほど昔のことではないと思います。わたしが、小学一年生ぐらいのころ、父方実家が農家で、まだ人糞(じんぷん)を肥料として使っていました。六十年ぐらい前のことです。
101ページに水害で、たぶん、大雨で川が氾濫(はんらん。あふれた)したのでしょうが、小船で避難する人たちの姿が映った白黒写真があります。明治時代のことでしょう。
ページを見ると、1907年(明治23年)とあります。1907年は明治40年です。へんなものを見つけてしまいました。1907年が正しいのか、明治23年が正しいのかわかりませんが、なぜ気づいたかというと、わたしの母方祖父が、明治40年生まれで、西暦だと1907年だからです。(へんな話ですが、自分の祖父母・両親・兄弟姉妹の生年月日をきちんと言える人は少ないです。わたしは少数派の人間です)
100ページの文章を読んでみたら、1907年(明治40)と書いてありました。101ページの写真の下にある1907(明治23)は、誤植ですな。(ごしょく。誤りのこと)
149ページの東京の地図を見ながら考えたことです。
いつかは必ず災害が来ます。
大きな地震です。
この本のテーマである川がらみだと、スーパー台風の襲来です。川の水があふれて住宅地にあふれます。ときには、二階建ての家よりも水深が高くなります。人間の逃げ道がなくなります。泥水に流されたら人間は死んでしまいます。
怖い(こわい)
大きな川があふれると、建物は浸水します。
水がたまって、家が沈みます。
家の中で水攻めにあいます。
水の流れに流されてしまうこともあります。
早めの退避が必要です。
逃げろーー です。くどいようですが、水はこわいのです。
160ページに、避難訓練が重要なことが書いてあるようです。
災害の対応は『自助(じじょ。じぶんで逃げる) 共助(親族や近所の人たちで助け合う) 公助(こうじょ。役所の人たちがかけつける)』の順番が基本です。
人の助けを待っていたら被災してしまいます。津波ならなおさらのこと、まず、自分が必死になってその場を離れなければなりません。ぼーっとしていると、死んじゃいます。
178ページに2022年(令和4年)のことが書いてあります
コロナ禍(ころなか。コロナウィスルの感染拡大で、いろいろなことに関する中止や制限がかけられ、社会活動が低下したこと)で、隅田川の花火大会が三年連続で中止されたことが書いてあります。
最後のページまできました。
裏表紙のところにある絵は、表表紙のところにある絵と同じでした。
なんだかもったいない気がしました。違う絵を出せばよかったのに。(本の60ページあたりから、裏表紙の絵を見ながら説明文を読みました。わかりやすかった。最初は不要な地図の絵と思いましたが、必要な地図でした)
(さて、2回目の本読みを始めます)
表紙をめくって、写真のページがあります。
ふだんの『荒川』の写真と台風19号が来たときの写真です。
東京都北区と埼玉県川口市を分ける荒川部分ですから、東京の北部でしょう。(あとで調べたら、荒川から墨田川が別れる部分でした『岩淵水門(いわぶちすいもん)』というところです。
台風の時は、泥の河が広がっています。ふだんは陸地のところが、大量の川の水に沈んでいます。
川の水があふれたらたいへんなことになります。ほんとうにあふれることがありそうです。やばい。
次のページの写真では、さらに、台風19号の時に水の高さが7.17mまできましたと説明がありました。二階建ての家の屋根ぐらいの高さだと思います。水があふれたら、屋根の上で助けを待てるか、それとも流されてしまうか微妙な高さです。こわい。
5ページにある目次に『第4章 今の時代の荒川と、わたしたち』があります。
「浸水しても、しばらく生活ができるまちをつくる」とあります
浸水後、どうやって、その場所で生活ができるのだろうか。(あとから読んでみます)
8ページの『第5章 荒川と世界の未来のためにできること』では、プラスチックごみのことが書いてあります。プラスチックは便利ですが、ごみで自然界に捨てられるとたいへん迷惑なことになります。
『はじめに』から読み進んで行きます。
荒川の水の流れ:埼玉県→東京都→東京湾 長さ173km 日本で15番目の長さ
2回川の流れが人の手で変更された。
最初の状態:江戸時代の前は、今よりもずっと東の位置を流れていた。100年ちょっと前、今の荒川が流れているところは田畑だった。現在の『墨田川』が荒川の下流だった。
川にはふたつの顔がある。
①大雨のときに人々を困らせる。
②人間に恵みをもたらしてくれる。
東京の特徴は川の数がとても多いことだそうです。
墨田川、荒川、江戸川、多摩川(東京都の西と神奈川県との境目あたり)
13ページに荒川が、最初は東の位置を流れていたのに、だんだん西の方向へ位置が変わって行ったことがわかる地図があります。
① 江戸時代の前
② 江戸時代から明治時代(徳川家康がつくった徳川幕府がまちづくり計画で川の位置を西にずらしたのでしょう)
③ 現在:川の下流で、墨田川と荒川に分かれています。分岐点があります。(さきほどの写真にあった『岩淵水門』付近です)隅田川はもともとの荒川部分、新しい荒川の部分は新しい流れをつくったそうです。(明治時代以降に、国と東京都の都市計画でつくられた川の部分なのでしょう)
18ページに『人の力によって川がつくり変えられた』とあります。
400年前(江戸幕府が始まったころ)と100年前(明治時代が始まったころ)に変更があった。
川の工事をすることで、仕事が生れ、労働者の雇用が確保されるということがあります。(こよう:仕事につける)
雇用があれば、給料が支給され、支給されたお金は生活費の消費で、世の中を回ります。経済活動が活発になって、人々の生活が豊かになるということがあります。
なぜ、荒川の流れを変えたのか。
キーワードとして
①利水(りすい):流れる水を人間の生活のために利用する。
米をつくる。飲み水にする。水力発電に利用する。船による交通手段に利用する。(明治時代になるまで、鉄道はなかった)大量の荷物は船で運搬していた。
②治水(ちすい):大雨がもたらす洪水から人命や農作物を守る。(墨田川のまわりを洪水から守るために荒川がつくられた。岩淵水門のところで、水の流れをせき止めて、水の流れをコントロールする。水を荒川に流して、墨田川のまわりのまちを水害から守る)
昔いた人たちが子孫のことを思って、治水事業をやってくれた。(感謝です)
流域(りゅういき):川の周辺
28ページに『……もう一つのこの本のテーマは、今の時代を生きるわたしたちは……』とあるのですが、「もう一つ」の前にあるひとつめのテーマがなんなのかがわかりませんでした。
ページを戻ってめくりなおしてみましたがはっきりしません。
これまでのこと(過去)を知るということだろうか。(謎をさぐる)
ちなみに、「もう一つ」のほうは、未来のことのようです。
埼玉県立川の博物館学芸員羽田武朗さん登場です。
荒川についての展示があるそうです。
江戸時代は、川船が海からの風を利用して、上流に向かって動いていたそうです。おどろきました。ゆっくりで、目的地まで、五日間ぐらいかかったそうです。時間はいくらかかってもかまわない時代だったのでしょう。いまほど、時間厳守ではなかった時代だったと思います。(今の埼玉県上尾市-今の東京都足立区・荒川区)川の流れがおだやかだったから上流へ移動できたそうです。
荒川の埼玉県内流域は、県内の三分の二だそうです。(へぇー 広いんだあ)
わたしは12歳ぐらいのころ、東京都内から午後遅くの電車に乗って、埼玉県内を通り、群馬県、途中の駅で乗りかえて、栃木県の山奥まで移動したことがあります。
埼玉県内はずーっと田畑が広がっていました。この本では、昔の埼玉は農業が盛んだったと書いてあり実感があります。夕暮れ時の車窓の外には、農地が広がっていました。
もともと荒川だった部分が、岩淵から『墨田川』になったそうです。
隅田川は、スカイツリーを見学に行ったとき、ツリーのそばを流れていました。
隅田川と京都の鴨川は、人々がほとりでゆっくりできる点で似ていると感じます。
隅田川は、流れている区域で、千住川(せんじゅがわ)、浅草川、大川、隅田川などとバラバラの呼び名(通称名)だったそうです。『河川法』という法律で、墨田川と定められています。やはり、社会生活の基本は『法律』です。『法律』は大事です。
1700年代の江戸の人口は100万人に達していたそうです。今の仙台市ぐらいの規模です。
緊急用河川敷道路:荒川の両岸の道路のことです。大地震が起きた時は、消防や救急ほかの専用道路になるそうです。
荒川の歴史がつづられていきます。
荒川の発展は江戸時代以降だそうです。徳川幕府徳川家康さんのおかげです。家康さんが江戸に来たのは1590年です。関ケ原の合戦が1600年です。
その昔、7000年ぐらい前の縄文時代前半、関東平野の内陸部まで海だったそうです。高いところから土砂(どしゃ)が運ばれてきて陸地ができた。『沖積平野(ちゅうせきへいや)』というそうです。
荒川のほかに、利根川、渡良瀬川(わたらせがわ)が紹介されています。
豊臣秀吉は、徳川家康にいやがらせをして、もともと徳川家康がもっていた東海地区の土地を取り上げて、利用価値のない関東を徳川家康に与えたということは、ずばりそのとおりではないそうです。
当時の江戸は、水上交通の要所であったことから、にぎわっていたそうです。けして、何も無いさびしいまちではなかったと書いてあります。
家康が来る100年前、江戸城主の太田道灌(おおたどうかん)という武将のところをたずねたお坊さんが残した記録があるそうです。お城の横の港にはたくさんの船が集まっていた。毎日市場(いちば。ショッピングセンター)が開催されていた。千葉県の米、茨城県のお茶、長野県の銅などが取引されていた。けっこうにぎやかだったそうです。
物流が行き交い、商売ができるところには、お金と人が集まります。
『品川』は立派な港町だったそうです。東海地方、紀伊半島から、船で、品物が運ばれたり、品物を運んだりしたそうです。
熊じいさんは、新幹線の品川駅でよく乗り換えをします。今はとても港町とは思えません。江戸時代の面影はないのでしょう。
土木技術の進歩:領民の信用と信頼を得るために、領民に利益をもたらさなければ、領地の統治はできません。毎年ちゃんと農作物がとれる。川を流れる水をコントロールしなければなりません。たんぼに水が流れるように土木工事をしなければなりません。道路や橋も必要です。
広い土地をどう利用したらいいのかという都市計画の発想がいります。人手もいります。雇用の確保ができます。仕事があれば、給料があって、経済が回ります。
武士の目から見て、関東平野には、無限の可能性が広がっていたことでしょう。
江戸のまちが発展します。
(つづく)
1616年 徳川家康 死没 73歳 おつかれさまでした。
家康の都市計画の意図を継いだのが、伊奈忠治で、荒川の位置を東から西に変えたそうです。もともとあった川へ水の流れを誘導した。(荒川西遷(あらかわせいせん):1629年。久下(くげ)の南を流れる和田吉野川に流した)
埼玉県東部の開発について書いてあります。
利根川の開発について書いてあります。
荒川と同様に伊奈忠治の名前が出てきます。
仕事とはいえ、偉業を成し遂げておられます。
昔の職業は、世襲でした。(せしゅう。親の仕事を子が引き継ぐ)
開発に携わった人たちの名前と事業内容が続きます。
100年後、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが):利根川の水から用水路を引き、水を 埼玉県東部に流した。(見沼代用水みぬまだいようすい)
メリットとデメリットについて書いてあります。江戸時代の土木技術ではできなかったこともある。
損と得を比較して、どのあたりで、線引きをするか考える。
一定線の得をするために、犠牲があってもやむを得ないとするのです。
舟運(しゅううん):船による運搬や移動
堤(つつみ)のことが書いてあります。
地域を高い盛り土で囲って地域を水害から守るのです。『大囲堤(おおかこいつづみ)』
日本堤:荒川の西側
墨田堤:荒川の東側
評定所:江戸時代の裁判所のようなもの
水塚(みづか):屋敷の敷地の一部に盛り土(数十センチから2mぐらい)をして、そこに「くら」という建物を建てて、洪水のときは、「くら」に逃れる。くらを高くすると台風の時にとばされる危険があるので、「牛梁合掌づくり(うしばりがっしょうづくり)」というつくり方をする。二階の天井は低くする。まんなかだけ高くして、左右は屋根の傾きを急にする。
日本各地にいろんな暮らし方があります。
洪水は、上流から栄養がある土を運んでくれるメリットがあった。
荒川の流れを利用して船の運搬が盛んに行われたようすが、85ページの地図でわかります。下流から上流へ移動するときは、南から吹く海風を帆にあてて上流へ移動するとききました。
埼玉県の川越市が小江戸と呼ばれるわけがわかりました。川が幹線道路のようなものです。
河岸場(かしば):船着き場。鉄道の駅のように、船の駅のようなもの。
松平信綱(まつだいら・のぶつな):1689年川越藩主になって、家来たちが『九十九曲がり(くじゅうくまがり)』という曲がりくねった川の流れをつくり、河岸場(かしば。船着き場。川の駅ですな)をつくって整備したそうです。思うに、駅ができれば、宿場もできるような気がします。まちがにぎわいお金で潤います。(うるおいます)
曲がった川は、水面がゆるやかに流れて、水の量を一定の量で管理できます。舟の運航が安定します。
さきほども書きましたが、うんちとしっこが有益な肥料として重宝され舟で運搬されて、商売の取引の商品になります。ゴミ処理の(排尿・排便)の模範です。リサイクルです。江戸100万人のおしっこ・うんこが宝になったのです。おしっこ・うんこのおかげで、たくさんの農作物ができます。生活環境を守る衛生面でも効果が絶大にあったことでしょう。おしっこ・うんこを運ぶ舟を『葛西船(かさいぶね)』と言ったそうです。そこの部分を読んで、わたしは、葛西臨海公園に行ったことがあるのですが、荒川の河口にある『葛西(かさい)』という地名が、葛西舟と関係があるのだろうと思いました。
野菜の生産分布の説明があります。野菜の賞味期限でつくる野菜の種類が変わるのです。
江戸のまちを起点として、日もちがしないものは江戸のまちの近くで生産する(ネギやナス)。日もちのするものは、江戸から少し離れたところで生産する(ダイコンやごぼう)。
こう考えてみると、人間の知恵は無限です。江戸時代の人たちも暮らしを豊かにするために一生懸命ものごとを考えたことがわかります。
本は、第3章に移りました。東京を水害から守る! ~荒川放水路の建設~と標題があります。荒川をふたつに分けて、今の墨田川を荒川として、分けた新しい川を荒川放水路としたことは、これまでに読んだページの記事で理解しました。
なかなか情報量が豊富な本です。
94ページまできましたが、これまでに新しい知識となるいくつもの情報に触れました。
1868年(明治元年)、江戸時代が終わって、明治という元号の新しい時代がスタートです。
これまでの鎖国政策は、終わって、開国をして、外国とつきあっていかなければなりませんが、日本の技術力は欧米と比較してかなり遅れています。ぼーっとしていると、外国の植民地にされてしまう危険性があったとわたしは考えました。
都市『江戸』が『東京』に変わりました。
このころの急激な変化にさらされた明治の人たちは、新しいものに感激して、驚き半分、変化したくない気持ち半分だったような気がします。
そして、明治時代の人たちは、とてもがんばったと思うのです。
昔荒川、今墨田川だった両岸に工場が広がる。セメント工場、化学肥料工場、造船所、紡績工場、染料工場、製紙工場、聞いただけで、川に汚水が流されて、川が公害の発生源になりそうですが、この本では公害のことについては触れられていません。(読み進めていたら179ページに川の汚れのことが出てきました)
水害として、以下の年で、荒川(今の墨田川)の川の水が川からあふれたそうです。
1896年(明治29年)
1902年(明治35年)
1910年(明治43年)8月
水害から町を(どちらかといえば工場をなのかも)守るために、荒川を途中で分岐して、荒川の放水路をつくる計画が生まれます。
『立ち退きと移転』があります。
新しく川(放水路)になるところに住んでいる人や農地は、そこをどかなければなりません。
これは、現在における一般道路の拡幅や自動車専用道路の新設時にも同じことが起きます。明治時代だと、あとは、鉄道線路や駅施設等の設置があったことでしょう。
本には、そのようなことが書いてあります。『荒川放水路物語 絹田幸恵 新草出版』とあります。
1300軒が移転したそうです。
(つづく)
読み終えました。
前半は荒川のこれまでの歴史、次に洪水災害対策を中心とした防災の話、最後は自然環境保護のお話という流れでした。
94ページ以降の感想を書き足していきます。
今の墨田川(昔の荒川)両岸にたくさんの工場が建てられた。
今の荒川部分(昔は荒川放水路部分)をつくる工事のやり方について書いてあります。
1913年(大正2年):手掘りで工事開始。低水路(ふだん川の水が流れている)。高水路(洪水になりそうな水量が増えたときに水面の部分になる。この部分は「エキスカベーター」という機械を使用する)。浚渫船(しゅんせつせん。低水路の川底を深く掘る)
1924年(大正13年):荒川放水路は、上流から下流までつながる。浚渫船でさらに工事を進める。
1930年(昭和5年):荒川放水路が完成した。
青山士(あおやま・あきら):荒川放水路建設における重要人物。東京帝国大学で土木工学を学んで、パナマ運河の建設に約7年半の間従事した。(南北アメリカ大陸のつなぎ目を切って、太平洋と大西洋をつなぐ運河にした。パナマ共和国にある。工事期間は、1904年-1924年)
青山士はパナマ運河建設の経験を生かして、荒川放水路の工事において、岩淵水門の基礎工事を堅牢なものに仕上げた。(けんろう:がんじょう。しっかりして壊れにくい)
きちんとしたものを造るためには、厳しくて頑固(がんこ)な人材が必要です。『なれあい』では、いいものは仕上がりません。なれあい:利害関係者による手抜きによる不当利得の取得
1923年9月1日(大正12年)関東大震災発災するも青山士が工事を指揮した『岩淵水門』はびくともしていなかった。同水門は、新たな水門に変わる1982年(昭和57年)まで供用された。
青山士は、チームワークを大切にした。
事故に備えて労災保険を取り入れた。
そこの部分を読みながら、戦争における戦傷病者に対する本人や遺族への給付もあったのだろうと思いつきました。
青山士は、関東大震災発災時に差別攻撃の対象にされた朝鮮人工事従事者をかくまったとあります。お互いに信頼関係がなければきちんとした工事はできません。青山さんは、偉い!
埼玉県のある荒川中流から上流でも水害対策工事が進められます。1918年(大正7年)開始。途中、第二次世界大戦をはさんで、1954年(昭和29年)に工事が終了しています。37年間かかりました。
読んでいて思うに、舟で食べていた人たちもいたわけで、川が整備されて舟の利用が減り、仕事がなくなった人たちもけっこうな数いたと思うのですが、なにか補償があったのか、それとも長い年月の間に自然と産業が舟から鉄道、舟から自動車に代わっていったのかはわかりません。たぶんそういう変化があったと想像します。荒川整備工事に対する反対運動があったかもしれません。
舟から鉄道への移送手段の変更は、全国的なものだったことでしょう。
洪水時の水の流れをゆるくするためのものとして『横堤(よこてい)』が紹介されています。
川に沿って、横向きに土(堤つつみ)の出っ張りがあります。
第4章が、「今の時代の荒川と、わたしたち」とあります。
ずいぶん昔のはなしですが『カスリーン台風』というのが出てきます。1947年(昭和22年)でした。
川の水位が、8.6mまで上昇したそうです。
荒川と利根川で堤防が決壊したそうです。
荒川放水路があったおかげで、大規模災害の発生を避けることができたそうです。
令和元年東日本台風(2019年 台風19号)がきたとき、荒川の水位は、7.17mだったそうです。
墨田川と荒川放水路はもちこたえたそうです。
調節池というものの説明があります。
ダム、調節池、放水路など、川の水の量や流れをコントロールするためにいろいろな手段が用いられています。
地球温暖化の話が出ます。
わたしがこどもの頃と比較して気候が変化してきています。
台風が来る時期とかルートが半世紀前とは違ってきています。昔は、九州地方へ秋ごろに来ていました。今は、初夏から本州を縦断するようなルートで北上してきます。そして、ときに、スーパー台風というものすごい暴風のときがあります。
石油とか石炭、天然ガスなどの化石燃料を燃やすことによって空気中の二酸化炭素が増えて、地球の記憶があがるのが地球温暖化の原因ととられています。
自動車が出す排気ガスが大量だったことが大きな原因と思われます。世界は今、排気ガスを出さない電気自動車へ転換する変化のなかにあります。
『流域治水』という言葉が出てきます。
あふれる水を受け入れる、ためておくために、田んぼを利用する。『田んぼダム』です。
たまりそうな水を地下水へと流す。『浸透ます』の利用です。
下水処理の方法も詳しく書いてあります。
分流式(汚水と雨水は別々)と合流式(ふたつがいっしょ)がある。合流式は、下水処理後川に流す水の量が多いので、大雨のときは、台所やおふろの水を流すことを控えてもらうそうです)人口が多い東京はとくに効果があるそうです。人が多いとメリットもあるしデメリットもあります。そういうやりかたを『流域治水』というそうです。
ひとりひとりの心がけが大切です。
川が氾濫した時に災害にあいやすい地域があります。下町と呼ばれる墨田区、江東区、足立区、葛飾区、江戸川区とあります。(江東五区と呼ぶそうです)
地盤沈下の話が出ます。4mぐらい地盤が沈下したところもあったそうです。かなりひどい。
工場用地下水のくみ上げが地盤沈下の原因です。組み上げられた地下水は、工業用水として利用されます。
洪水発生時の避難について書いてあります。
まずは、自分のことは自分でやる。自分の命は自分で守る。自分で自分の命を救わねばなりません。自立と自活の意識が必要です。
だれかにやってもらおうと思っていたら災難から逃げ遅れます。
東日本大震災のときの津波から自分の命を守る『津波てんでんこ』を思い出しました。(てんでんばらばらに急いで早く逃げろ!)
葛飾区の話が出ます。
観光で亀有を訪れた時のことを思い出しました。
両津勘吉、こちら亀有公園前派出所です。
荒川、江戸川、中川、新中川、綾瀬川、大場川が流れているそうです。たくさんありますなあ。
『浸水対応型市街地構想』というプランがあるそうです。
これから30年かけて次のようにするそうです。
・10年後までに:緊急的に避難できるマンションなどの高い建物の数を増やす。分譲マンションの管理組だと思いますが、行政と協定を結ぶそうです。
・20年後までに:マンションに太陽光発電パネルと蓄電池を設置する。停電に備えるため。
・30年後までに:マンション内に備蓄庫を設置する。ふだんから食べ物や生活用品を保管しておく。ゴムボートも用意しておく。
(この部分を読んで、実現はかなりむずかしいと考えました。最近は、どこもオートロックのマンションばかりです。備蓄庫を設置するスペースが分譲マンションにあるとは思えませんし、食料の保管は管理が必要です)
避難所になる学校の体育館は二階以上に設置する。
これはすでに実行されていると思います。
東京23区内は人口が多すぎます。
被災した時は、まずは、23区内から離れたほうがいいと自分は考えます。
1995年(平成7年)1月の阪神淡路大震災のことが書いてあります。
わたしも仕事で翌月の2月に現地へ行きましたが悲惨な状況でした。
あれからずいぶん経ちました。時の流れは早い。
地域を支えていくのは小学生と中学生とあります。加えて、町内会の役員となるのでしょうが、役員さんはどこも昼間自宅にいる年金生活者の高齢者が多い。こどもも年寄りも、いざというときは、災害弱者です。なかなか本に書いてあるとおりにはうまく事は運びません。
本に書かれてある文章は、災害ボランティアの部分のような記述になってきました。
洪水ハザードマップがあります。自分の家が浸水する可能性があると指摘されても引っ越しが簡単にできるわけでもありません。その時はその時とあきらめる年寄りもいます。(その時:災害発生時)
本の内容は、災害対応マニュアル(手引き)のようになっていきます。
川の汚れ、汚染のことが出てきます。汚いものを墨田川などの川に流すので、悪臭、有毒ガスなどが発生します。
人間の健康よりも『金、カネ、カネ』で、お金もうけが最優先の時代がありました。人命よりも会社のもうけが大事なのです。汚いから川を埋めたててくれという要望はいささか乱暴です。それでも埋めたところもあるそうです。川や運河が道になったそうです。人間は欲深い生き物です。
昭和40年代は『ヘドロ』という言葉をよく耳にしました。1965年代。その前から、日本のあちこちで体が奇形になったりする深刻な公害病が発生しました。
話はさらに飛び『プラスチックごみ』のことになりました。
ペットボトルとか、レジ袋とか、食べた生き物が死んでしまいます。プラスチックごみを食べた魚が食用として提供されたら、それを食べる人間の体にも悪影響がありそうです。こわい。
ずいぶん長い感想メモになってしまいました。
疲れました。
前半の徳川幕府がからんだ歴史の部分がおもしろかった。川と人間との共存がありました。現代に向かうにしたがって、人間が川を、力で押さえつけるイメージがありました。