2023年05月06日

週刊文春 シリーズ昭和④哀悼篇 昭和の遺書 魂の記録

週刊文春 シリーズ昭和④哀悼篇 昭和の遺書 魂の記録 生きる意味を教えてくれる91人の「最期の言葉」 文春ムック 平成29年12月11日発行 2017年11月27日電子版発行 Kindle Unlimited 電子書籍

 胸にぐっとくるものがありました。
 読書メモを残しておいた方がいいと思ったので、いくつかをピックアップして感想を添えます。
 最初は、もうずいぶん前に亡くなってしまった人たちが遺した(のこした)言葉であり、もう済んでしまったことと、今はいない人たちのことを未来に向かって、なにかをどうすることもできないと、消極的な気持ちで読み始めました。各自の年齢は死没時のものです。

『手塚治虫』 1989年2月9日(平成元年) 60歳 胃がん
 なんというか、仕事の鬼です。仕事中毒でもある。
 娘さんの本を読んだことがあります。『ゲゲゲの娘、レレレの娘、ラララの娘 水木悦子 赤塚りえ子 手塚るみ子 文藝春秋』
 ご本人の日記の最終ページに「……仕事をさせてくれ」という叫びのような文字が残されています。

『美空ひばり』 1989年6月24日(平成元年) 52歳 間質性肺炎
 東京ドームでのコンサートにかける気迫がすごい。
 5万人の観客の前で熱唱されています。
 死期が近づいて、栄光の時が遠ざかっていくというように書かれています。

『逸見政孝(いつみ・まさたか)』 ニュースキャスター 1993年12月25日(平成5年) 48歳 がん
 人気者のアナウンサーの方でした。
 息子さんに気持ちを伝えておられます。
 ママのことを気にかけてやってくれ。

『青島幸雄』 東京都知事・タレント・作家 2006年12月20日(平成18年) 74歳 骨髄異形成症候群
 ママ(奥さん)のことを慕っておられました。


*長寿社会と言われていますが、短命で亡くなる方も多い。体力・精神力の限界線を超えて働きすぎて、体が壊れたのだろうか。


『田中好子』 歌手キャンディーズメンバー 2011年4月21日(平成23年) 55歳 乳がん
 もっと生きていたかったという思いが切々と伝わってきました。

『川島なおみ』 女優 2015年9月24日(平成27年) 54歳 胆管がん
 だんなさんに向けて、再婚はしないでねとお願いされています。
 重松清小説作品『その日の前に』では、がんで亡くなる奥さんが『(わたしのことは)忘れてもいいよ』と言葉を遺して亡くなります。『忘れないで』ではなくて、遺されるご主人のこれから先の幸せのために『忘れてもいいよ』(再婚してもいいよ)と表現したとわたしは受け止めました。そして『忘れてね』(再婚してください)ではないのです。本当は、忘れてほしくないのです。
 どちらがどうなのか、他人が判断することはむずかしい。
 夫婦のことは夫婦にしかわかりません。

『色川武弘(いろかわたけひろ)』 作家 1989年4月10日(平成元年) 60歳 心臓破裂
 わたしは、別名、阿佐田哲也としての雀士(プロ麻雀士)としてのご本人の本をよく読みました。
 若い死です。
 ご本人は、うまく死ねるように、死に方を研究したいと記されています。

『寺山修司』 劇作家、歌人 1983年5月22日(昭和58年) 47歳 敗血症
 自分のお墓はいらないと意思表示をされています。お仲間たちも短命だったようです。7名の知人の死が列挙されています。

『湯川秀樹』 ノーベル賞受賞物理学者 1981年9月8日(昭和56年) 74歳 肺炎・心不全
 死んだ後のことはわからないというような悟りを開かれています。

『梨本勝』 芸能レポーター 2010年8月21日(平成22年) 65歳 肺がん
 恐い(こわい)と言われ、奥さんにありがとねと感謝され、その後お亡くなりになっています。

『筑紫哲也』 ジャーナリスト 2008年11月7日(平成20年) 73歳 肺がん
 最後にご本人が、ボールペンで紙にメモされた言葉は『Thank you』

『井上ひさし』 作家 2010年4月9日(平成22年) 75歳 肺がん
 戦争や災害でおおぜいといっしょに死ぬよりも、ひとりひとりがそれぞれの死に方で死ぬというのは、幸せなことなんだよと奥さんにお話されています。

『杉原輝夫』 プロゴルファー 2011年12月28日(平成23年) 74歳 前立腺がん
 インタビューで、一生懸命やることがファンサービスなのだと力説されています。

『五味康祐(ごみ・やすすけ)』 小説家 1980年4月1日(昭和55年) 58歳 肺がん
 ご本人は、自分は長生きできる。自分は長生きしなければならないとアピールされています。

『佐野洋子』 絵本作家、エッセイスト 2010年11月5日(平成22年) 72歳 乳がん
 絵本『100万回生きたねこ』の作者さんです。
 余命宣告を受けて文章を遺されています。思い残すことは何もない。こどももいない。楽に死にたい。自分はものすごく貧乏をした。貧乏からすべてのことを学んだ。一番大事なものはお金では買えない。自分にとって一番大事なものは『情(じょう。気持ち。思いやり)』だったと結んでおられます。

『鶴田浩二』 俳優 1987年6月16日(昭和62年) 62歳 肺がん
 わたしは、当時の水谷豊さんとか桃井かおりさんがいっしょに出演していたNHKドラマ『男たちの旅路』のファンでした。
 最後の言葉は、男とはこういうものだということが色紙に書かれています。主題は『忍耐』です。
 (追記:この文章を作成後、ドラマ『男たちの旅路』が5月12日金曜日夜にNHKBSプレミアムで再放送されることを知りました。観てみるつもりです。最近は、朝は、岩手県三陸鉄道がらみ、じぇじぇじぇの『あまちゃん』を観て、火曜日の夜はBS日テレで、昔の太川陽介さんとえびすよしかずさんの路線バス乗り継ぎ旅の再放送を観て、今回この本を読んだことがきっかけで、この、「男たちの旅路」を観て、自分はいったい今、いつの時代に生きているのだろうかと不思議な気分になります。日曜日のお昼にNHKの「のど自慢」も観ているのですが、自分が若かったころのなつかしい昔の歌が流れることが多く、やはり、昔の歌のほうが歌いやすく気持ちをこめやすいとうなずくのです)

『円谷幸吉(つぶらや・こうきち)』 オリンピックマラソンランナー 1968年1月8日(昭和43年) 27歳 自死
 フォークソングの歌にもなった人です。悲しい結末でした。
 親族への感謝と「(がんばりすぎて)もう走れません」という切ない内容のお手紙が遺されています。みんなのそばで、みんなと一緒に暮らしたかったと結ばれています。悲劇です。必勝優先の孤独な位置に追い込まれています。

『尾崎豊』 ミュージシャン 1992年4月25日(平成4年) 26歳 自死
 共働きで子育てと仕事の両立に追われる生活をしていた頃なので、自分はあまり知らない人なのですが、職場の若い人が熱狂的なファンでした。
 文章には、宗教的な記述もあり、なにかしら、なにかに憑(と)りつかれていたのではないか。(とりつかれて:のりうつられた)

『田宮二郎』 俳優 1978年12月28日(昭和53年) 43歳 自死
 こどものころよくテレビで拝見した俳優さんです。
 奥さんに言葉を遺されています。お子さんはおふたりおられます。
 死の理由がわかりません。

*自死の有名人が続きます。気が滅入ってきたので自死者の感想はとばします。
 死なないでほしい。うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。それが人生です。
 会社の秘密を守るために自死した商社の幹部がいます。『会社の生命は永遠です』とあります。違います。不祥事から会社の秘密を守るために56歳で会社のビルから飛び降りて亡くなっています。犯罪を立証するための生き証人だったのでしょう。

『向田邦子』 脚本家、作家 1981年8月22日(昭和56年) 51歳 飛行機墜落事故(台湾にて)
 遺書というか遺言書を遺されています。1979年(昭和54年)に財産分与等についての遺言書を作成されています。
 
『金子光春』 詩人 1975年6月30日(昭和50年) 79歳 心不全
 わたしが高校生のときに心酔した詩人です。東京吉祥寺にあったご自宅で亡くなったことは、この部分を書きながら調べて初めて知りました。吉祥寺駅(きちじょうじえき)の北です。今年3月末に同地を訪れたばかりなので縁を感じました。
 遺される奥さんへの感謝と、財産はすべて奥さんに渡すというような内容の遺言になっています。死の二か月前ぐらいの時期に書かれています。

『河口博次(かわぐちひろつぐ)』 大阪商船三井船舶神戸支店長 1985年8月12日日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者 墜落していく間、社員手帳に書かれた家族あての遺書 52歳没
 (要旨として)こどもたちに対してママを頼む。パパは残念だ。きっと助からない。原因はわからない。もう飛行機には乗りたくない。神さま助けてください。ママに対して、こどもたちを頼む。
 (胸を突かれるような記述です。これを読んで自分が思い出したことがあります。わたしの父が病気で死ぬ前々日ぐらいにわたしに『(自分が死んだら)お母さんのことを頼む』と言いました。当時中学生の反抗期だったわたしは、父親とたいていケンカをする毎日であり、なに言ってるんだ! と怒っていました。(おこっていました)。40歳で病死した父の遺体を見た時は「(自分たち家族は)これからどうやって生活していくんだ!」と、やっぱり怒っていました。今思うに、父は気が短い人間でしたが、自分も気が短い人間でした。

 そのあとのページには、第二次世界大戦で散っていかれた方々の遺書や手紙が続いて掲載されています。戦争は異常です。だれのために、なんのために命を落としていくのか。不明朗です。人間全体が、錯覚という世界につかっているようです。

 一昨年の秋に、高齢だった義父を亡くし、翌月に義母も亡くし、たて続けのお葬式の段取りやその後の手続きで忙しく、あっという間に月日が過ぎました。
 義父母は遺言書を遺してくれていたので、それに従ってその後の手続きをしていきましたが、なかなかたいへんな作業でした。

 ひと息ついたところで、九州に住むもう九十歳近い実母に何回か会いに行き、実母の死後のことについてまじめに話をしました。なにをどうするのかを聞き、どこに何があるのかを聞き、計画をまとめ終わるまでには、かなり時間がかかりました。遺言書の話をしたら『(弟に向かって)あんたが書いてくれればいい』みたいなことを言うので、しかたがないなと笑いながら、きょうだいと、葬式は、こんな感じでとか、財産はこんなふうに分けようと相談して話がまとまりました。

 自分自身もきちんとしておかなければならないと考えて、公証人役場に行って、公正証書遺言の手続きをしました。あわせて、家族へのメッセージも残しました。
 こどもには、まだ早いのではないかと笑われましたが、今書いても数年後に書いても内容は変わらないと説明して、内容はこんなふうにしてあると伝えました。
 すっきりしました。
 あとは、長生きするだけです。  

Posted by 熊太郎 at 06:44Comments(0)TrackBack(0)読書感想文