2023年12月17日
鹿児島市内 仙厳園(せんがんえん)
鹿児島市内 仙厳園(せんがんえん)
最初は地名を読めませんでした。「せんげんえん」だろうか。「せんがんえん」でした。
薩摩島津家の別荘のようなものと受け取りました。
桜島が近い。くっきりと山肌が目の前に迫ります。
入場してすぐでしたが、結婚式の前撮りをされているカップルとスタッフのみなさんがおられました。熊太郎夫婦と同じようなコースで園内を写真撮影しながら回られていました。いいお天気で良かった。きっとお日柄も良かったのでしょう。
入口を入ると反射炉跡地がありました。大砲をつくるために、太陽で鉄を溶かす施設だったと思います。(金属溶解炉)。以前、静岡県の韮山(にらやま)で見学したことがあります。先日は、テレビ番組『東野・岡村の旅猿』で、山口県萩市のものが紹介されていました。
こちらの反射炉の手前方向、背後は、芝生の斜面になっており、修学旅行中の中学生らしきこどもたちが寝そべって、気持ちよさそうに、ひなたぼっこをしたり、記念写真を撮りあったりしていました。のどかです。
島津家のお殿様たちが過ごされた御殿を見学しました。
ちょうど、内部を紹介してもらえるツアーが始まる時刻だったので、熊太郎夫婦ともうひとつのグループの方と5人で御殿の中を案内していただきました。親切丁寧な説明をありがとうございました。
写真撮影可でしたので、たくさん写真を撮りましたが、ブログに写真を掲載する容量が減ってきたので、ここに掲載する写真は数枚にしておきます。
まあ、なにせ、豪華です。
海外からのお客さまをもてなす迎賓館の役割もあったそうです。
古いシャンデリアが、そのまま今も使われています。
おふろです。広い。お湯をもってきて浴槽(よくそう)に入れて使っていたそうです。
お殿さまの寝床です。
きれいな陶器が展示してありました。薩摩焼(さつまやき)です。
ロシアの皇帝にプレゼントした品物のレプリカ(複製)と聞きました。
最初は地名を読めませんでした。「せんげんえん」だろうか。「せんがんえん」でした。
薩摩島津家の別荘のようなものと受け取りました。
桜島が近い。くっきりと山肌が目の前に迫ります。
入場してすぐでしたが、結婚式の前撮りをされているカップルとスタッフのみなさんがおられました。熊太郎夫婦と同じようなコースで園内を写真撮影しながら回られていました。いいお天気で良かった。きっとお日柄も良かったのでしょう。
入口を入ると反射炉跡地がありました。大砲をつくるために、太陽で鉄を溶かす施設だったと思います。(金属溶解炉)。以前、静岡県の韮山(にらやま)で見学したことがあります。先日は、テレビ番組『東野・岡村の旅猿』で、山口県萩市のものが紹介されていました。
こちらの反射炉の手前方向、背後は、芝生の斜面になっており、修学旅行中の中学生らしきこどもたちが寝そべって、気持ちよさそうに、ひなたぼっこをしたり、記念写真を撮りあったりしていました。のどかです。
島津家のお殿様たちが過ごされた御殿を見学しました。
ちょうど、内部を紹介してもらえるツアーが始まる時刻だったので、熊太郎夫婦ともうひとつのグループの方と5人で御殿の中を案内していただきました。親切丁寧な説明をありがとうございました。
写真撮影可でしたので、たくさん写真を撮りましたが、ブログに写真を掲載する容量が減ってきたので、ここに掲載する写真は数枚にしておきます。
まあ、なにせ、豪華です。
海外からのお客さまをもてなす迎賓館の役割もあったそうです。
古いシャンデリアが、そのまま今も使われています。
おふろです。広い。お湯をもってきて浴槽(よくそう)に入れて使っていたそうです。
お殿さまの寝床です。
きれいな陶器が展示してありました。薩摩焼(さつまやき)です。
ロシアの皇帝にプレゼントした品物のレプリカ(複製)と聞きました。
2023年12月16日
鹿児島市内 城山公園
鹿児島市内 城山公園
朝、ホテルの無料送迎バスで鹿児島中央駅まで行きました。
駅にあるコインロッカーに荷物を預けて、今度は、宿泊したホテルの1階インフォメーションで購入した一日乗車券を使って、『鹿児島シティビュー』という市内の観光地を循環しているバスに乗って鹿児島市内を回りました。山沿いから海沿いへと、市内をぐるりと回るので市内のようすがわかりました。以前大分県別府市で利用した温泉地獄めぐりと似たようなコースどりでした。
鹿児島市の人口は、59万人ぐらいです。別府市は、11万人ぐらいです。熊太郎夫婦が去年訪れた善光寺がある長野市が、36万6000人ぐらいです。九州で一番人口が多い福岡市が、164万4000人ぐらいです。
バスが城山公園に着く前に、西郷隆盛さんの大きな銅像を車窓から見ました。
また、西郷隆盛さんが、自害する前に数日間を過ごした『西郷洞窟』も車窓から見ました。洞窟の前にある小さな広場では、地元の幼稚園か保育園のちびっこたちが遊んでいて、バスに乗っているわたしたちに手を振ってくれたので、わたしたちも手を振り返しました。
城山公園からの景色はとてもきれいでした。
こぢんまりとした広場です。
見学滞在時間はそれほどいらないでしょう。15分程度記念撮影をしたり、景色をぼーっとながめたりして、到着してから30分後に来た鹿児島シティビューのバスに乗りました。
展望広場で、そばにいた男女のグループに写真のシャッター押しをお願いしたら、たいへん親切に対応してくださいました。
日本人観光客だと思って、うちの奥さんが声をかけたのですが、韓国人の旅行者の方たちでした。若い男性が、片言の日本語でゆっくりていねいにわたしたち夫婦の写真をとってくださいました。(カムサハムニダ:ありがとう)
展望台から少し下がったところで、地元の小学生たちが、かけっこのような走る大会をやっていました。先生方や、おもにお母さんのご父兄がたくさんおられて、こどもたちの応援をされていました。
あとで調べたら、城山の登山競走大会というイベントだったようで、作家の向田邦子さんとか林芙美子さんも通ったことがある小学校だったのでびっくりしました。
たしか、麓(ふもと)にある『かごしま近代文学館』に、向田邦子さんの展示コーナーがあった記憶です。なにかで読んだことがあります。
向田邦子作品は、『父の詫び状(ちちのわびじょう) 向田邦子 文春文庫』『阿修羅(あしゅら)のごとく 向田邦子 文春文庫』『思い出トランプ 向田邦子 新潮文庫』、それから林芙美子さんは、読書メモは残っていませんが、『放浪記』を読んだことがあります。
城山公園展望台付近は、平日だったせいかもしれませんが、観光地としては、さびれているような印象でした。展望台につながる道にあるみやげ物店もやっていないところが多かった。
城山公園は、西南戦争のときの激戦地だったそうです。(西南戦争:1877年(明治10年))
西郷隆盛グループは、バスで来るときに見た西郷洞窟を出たあと、ちょっと東へ行ったあたりで自害されたそうです。
桜島の山の上、白い雲のように見えるのは、雲ではなくて、噴煙です。
海の表面がとても穏やかです。(おだやかです)
以前、四国の瀬戸内海にある小豆島(しょうどしま)に行ったときに見た瀬戸内海に似ています。海というよりも、湖のように見えるのです。この日の鹿児島湾は、とても穏やかでした。
そういえば、小豆島で、『二十四の瞳(にじゅうしのひとみ)』を書かれた壺井榮さん(つぼい・さかえさん)の文学館を見学したとき、展示に壺井榮さんと林芙美子さんは親しい間柄だったと書いてありました。
朝、ホテルの無料送迎バスで鹿児島中央駅まで行きました。
駅にあるコインロッカーに荷物を預けて、今度は、宿泊したホテルの1階インフォメーションで購入した一日乗車券を使って、『鹿児島シティビュー』という市内の観光地を循環しているバスに乗って鹿児島市内を回りました。山沿いから海沿いへと、市内をぐるりと回るので市内のようすがわかりました。以前大分県別府市で利用した温泉地獄めぐりと似たようなコースどりでした。
鹿児島市の人口は、59万人ぐらいです。別府市は、11万人ぐらいです。熊太郎夫婦が去年訪れた善光寺がある長野市が、36万6000人ぐらいです。九州で一番人口が多い福岡市が、164万4000人ぐらいです。
バスが城山公園に着く前に、西郷隆盛さんの大きな銅像を車窓から見ました。
また、西郷隆盛さんが、自害する前に数日間を過ごした『西郷洞窟』も車窓から見ました。洞窟の前にある小さな広場では、地元の幼稚園か保育園のちびっこたちが遊んでいて、バスに乗っているわたしたちに手を振ってくれたので、わたしたちも手を振り返しました。
城山公園からの景色はとてもきれいでした。
こぢんまりとした広場です。
見学滞在時間はそれほどいらないでしょう。15分程度記念撮影をしたり、景色をぼーっとながめたりして、到着してから30分後に来た鹿児島シティビューのバスに乗りました。
展望広場で、そばにいた男女のグループに写真のシャッター押しをお願いしたら、たいへん親切に対応してくださいました。
日本人観光客だと思って、うちの奥さんが声をかけたのですが、韓国人の旅行者の方たちでした。若い男性が、片言の日本語でゆっくりていねいにわたしたち夫婦の写真をとってくださいました。(カムサハムニダ:ありがとう)
展望台から少し下がったところで、地元の小学生たちが、かけっこのような走る大会をやっていました。先生方や、おもにお母さんのご父兄がたくさんおられて、こどもたちの応援をされていました。
あとで調べたら、城山の登山競走大会というイベントだったようで、作家の向田邦子さんとか林芙美子さんも通ったことがある小学校だったのでびっくりしました。
たしか、麓(ふもと)にある『かごしま近代文学館』に、向田邦子さんの展示コーナーがあった記憶です。なにかで読んだことがあります。
向田邦子作品は、『父の詫び状(ちちのわびじょう) 向田邦子 文春文庫』『阿修羅(あしゅら)のごとく 向田邦子 文春文庫』『思い出トランプ 向田邦子 新潮文庫』、それから林芙美子さんは、読書メモは残っていませんが、『放浪記』を読んだことがあります。
城山公園展望台付近は、平日だったせいかもしれませんが、観光地としては、さびれているような印象でした。展望台につながる道にあるみやげ物店もやっていないところが多かった。
城山公園は、西南戦争のときの激戦地だったそうです。(西南戦争:1877年(明治10年))
西郷隆盛グループは、バスで来るときに見た西郷洞窟を出たあと、ちょっと東へ行ったあたりで自害されたそうです。
桜島の山の上、白い雲のように見えるのは、雲ではなくて、噴煙です。
海の表面がとても穏やかです。(おだやかです)
以前、四国の瀬戸内海にある小豆島(しょうどしま)に行ったときに見た瀬戸内海に似ています。海というよりも、湖のように見えるのです。この日の鹿児島湾は、とても穏やかでした。
そういえば、小豆島で、『二十四の瞳(にじゅうしのひとみ)』を書かれた壺井榮さん(つぼい・さかえさん)の文学館を見学したとき、展示に壺井榮さんと林芙美子さんは親しい間柄だったと書いてありました。
2023年12月15日
鹿児島市内へ行く
鹿児島市内へ行く
(次の部分は、2023年(令和5年)7月に書いた記述です)
しばらく前から観光旅行のプランをつくっています。
当初は、今年5月ごろに、NHKテレビ番組『72時間』で観た青森県恐山(おそれざん。荒涼とした風景が良かった)へ行こうとしましたが、4月のとある朝、おふとんの中で目が覚めたら、おしりのまんなか右側に激痛があり、病院で坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)という診断をいただき、7月初旬まで整形外科に通院して5月の旅行をあきらめました。お尻のまんなか右あたりから、右足ふともも・右足ふくはぎ、右足の指先(ゆびさき)小指あたりまで1本の筋が通っていて、痛みと右足の裏に空気が入っている感覚が続きました。(結局7月まで毎週整形外科へリハビリに通い痛みがおさまりました)
それなら9月に青森の恐山と盛岡市内に行けないかとプランを練っていたら、恐山にも翌日の宿泊を考えていた岩手県盛岡市内にも熊が出たとのニュースを目にして、今年はやめておこう。熊がいなくなるであろう来年以降にしようと、東北旅行は先のばしにすることにしました。
次に考えたのが、長崎県の雲仙温泉でした。今はもう亡くなりましたが、義父母が五十代のときに観光旅行したところであり、わたしたち夫婦も訪れてみようかと思いついたのです。ところが、意外に遠い。うーむどうしようかと迷っていた時に、九州福岡の親戚と電話で話したら、どうも雲仙は観光地としてはさびれているらしい。通過点として立ち寄る場所で、宿泊する人は少ない。
あれやこれや話しているうちに、新幹線開業で、博多駅から鹿児島中央駅までは、1時間半ぐらいで行ける(速い!)。
親戚の話では、鹿児島市内は観光地として、とても楽しめるところだと聞いて、心が鹿児島市内にと動きました。
以前、大学生だった息子とふたりで、航空機を使って、鹿児島空港で降りて、レンタカーを借りて、指宿(いぶすき)に宿泊して、開聞岳(かいもんだけ)とか池田湖を見学したことはありますが、鹿児島市内の見学体験はありません。
うちの奥さんに聞いたらこれまで見たことがない桜島を観たいというので、鹿児島市内観光をすることにしました。
今はまだ7月の始めです。訪問は初秋を予定しています。
坐骨神経痛の痛みはもうすぐ消えそうです。歳をとりました。
(以下は、2023年10月9日に書いた記述です)
予定よりかなり遅くなりましたが、昨日、鹿児島市内にあるホテルの予約を済ませました。
訪問はいろいろ予定を調整して、12月の初めころにしました。ホテルの展望温泉風呂につかりながら、雄大な桜島をながめたい。楽しみです。
その後、ニュースで、熊ではなく、鹿児島市内にイノシシが出たという報道を観ました。熊よりはだいじょうぶでしょう。
(今回の記述です。先週、12月のとある日に、鹿児島市内を訪れました。好天気に恵まれて良かった)
名古屋駅から新幹線に乗って、岡山駅で九州新幹線『さくら』に乗り換えて、(家を午前10時ごろ出て)午後4時過ぎに『鹿児島中央駅』に到着しました。『さくら』は8両編成で、シートは通路の両側に2列で、ソファーに座っているようで快適でした。
半世紀前ぐらい前(50年ぐらい前)のこと思うと本当に便利になりました。わたしがこどものころは、まだ蒸気機関車が走っていたし、架線式の電車ではなく、ディーゼルカー(軽油を燃料としたエンジン車)で、新幹線は、東京から新大阪までしかありませんでした。長距離は夜中に走る寝台車で移動していました。ブルートレインには何度も乗りました。
ときどき思うのですが、いろいろと、こんなに便利な世の中になったのに、まだ文句を言う人がいるのかと残念になります。昔は、たいへんでした。
くわえて、サラリーマンというものは、通勤が大変です。片道1時間45分ぐらいの通勤をしている人はざらにいます。さらにそれが転勤の人事異動辞令をもらうまでは、5年、7年と続くこともあります。朝は早く家を出て、夜は遅く帰るという繰り返しです。近頃は時短で残業はしてはいけないようですが、残業代を生活給として必要としている人もいます。だいじょうぶだろうか。
そんなこともあって、長時間通勤に慣れてくると、片道5時間から6時間の電車や車での移動が苦にならず、なんとも思わなくなります。近いとは思いませんが、遠いとも思いません。
今回思ったのは、博多駅-鹿児島中央駅間だったら、1時間半ぐらいなので、新幹線通勤ができそうです。仕事でも観光でも日帰りが可能です。
鹿児島中央駅から乗ったホテルの無料送迎バスの車窓にときおりちらちらと西日を浴びた桜島の山がありました。夕映えに輝く桜島は、雄大で力強い。絵画作品で、葛飾北斎が描いた赤富士というのがありますが、ここ鹿児島では、赤桜島です。バスを降りたら写真を撮ろうと思っていましたが、下車するとチェックインの手続きにつながって、部屋に入った時は、もう日が暮れていました。また改めて、今ぐらいの好天の時期に、もう少し早い時刻に来ればいい写真が撮れそうだと思いました。
ホテルのエレベーターの中に元気なこどもたちがいたので、ほかのお客さんとわたしたち夫婦でこどもたちに話しかけました。
修学旅行だそうです。中学生かと聞いたら、小学生だと返事があったので、最近の小学生は背が高いなあと感心しました。
あとでわかりましたが、おとなりの宮崎県から修学旅行で鹿児島県に来ていたのでした。
熊太郎の小学校の修学旅行の行き先は、東京でした。当時は栃木県に住んでいたので、バスで東京へ行って、学生会館というところに泊まって、広い和室で枕投げ大会をしたことを覚えています。あとは、後楽園遊園地のジェットコースターに乗りました。だれと乗ったのかはもう覚えていませんが。とても楽しかった。あとのことは記憶がありません。どこを見学したのだろう。忘れました。
いまどきのこどもさんは、ホテルのツインルームに泊まるのだろうか。枕投げ大会ができません。楽しいのに……
次の写真は、翌日、日の出のころの桜島あたりの光景です。午前7時過ぎぐらいです。
鹿児島市は日本列島の西の方に位置しているので、日没も日の出も時刻が遅く感じました。
次から3枚の写真は、日の出前の桜島です。
どの位置なのかわたしにははっきりとはわかりませんが、左から北岳、中岳、南岳と位置していて、南岳だけが噴火活動をしているそうです。(帰宅してから、12月10日日曜日に桜島が大規模に噴火したというニュースを読みました)
見えている煙は、雲ではなく、噴煙です。
次の写真では、わたしにはどれが何かはわかりませんが、左側の薄い山並みが、霧島とか高千穂だそうです。ホテルのどこかに貼ってあった掲示物にそう書いてありました。
時間がさかのぼるのですが、前日日没後の桜島です。このあと真っ暗になってしまいました。
なかなかいい感じだったので、またいつか来てもいいかなという気分になりました。船で桜島まで渡ってもいい。遠くはありません。こちらの陸から桜島までの距離は3kmと、どこかに表示がありました。
次回は、訪れた『城山公園』とか『仙厳園(せんがんえん)』のことをアップしてみます。
(次の部分は、2023年(令和5年)7月に書いた記述です)
しばらく前から観光旅行のプランをつくっています。
当初は、今年5月ごろに、NHKテレビ番組『72時間』で観た青森県恐山(おそれざん。荒涼とした風景が良かった)へ行こうとしましたが、4月のとある朝、おふとんの中で目が覚めたら、おしりのまんなか右側に激痛があり、病院で坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)という診断をいただき、7月初旬まで整形外科に通院して5月の旅行をあきらめました。お尻のまんなか右あたりから、右足ふともも・右足ふくはぎ、右足の指先(ゆびさき)小指あたりまで1本の筋が通っていて、痛みと右足の裏に空気が入っている感覚が続きました。(結局7月まで毎週整形外科へリハビリに通い痛みがおさまりました)
それなら9月に青森の恐山と盛岡市内に行けないかとプランを練っていたら、恐山にも翌日の宿泊を考えていた岩手県盛岡市内にも熊が出たとのニュースを目にして、今年はやめておこう。熊がいなくなるであろう来年以降にしようと、東北旅行は先のばしにすることにしました。
次に考えたのが、長崎県の雲仙温泉でした。今はもう亡くなりましたが、義父母が五十代のときに観光旅行したところであり、わたしたち夫婦も訪れてみようかと思いついたのです。ところが、意外に遠い。うーむどうしようかと迷っていた時に、九州福岡の親戚と電話で話したら、どうも雲仙は観光地としてはさびれているらしい。通過点として立ち寄る場所で、宿泊する人は少ない。
あれやこれや話しているうちに、新幹線開業で、博多駅から鹿児島中央駅までは、1時間半ぐらいで行ける(速い!)。
親戚の話では、鹿児島市内は観光地として、とても楽しめるところだと聞いて、心が鹿児島市内にと動きました。
以前、大学生だった息子とふたりで、航空機を使って、鹿児島空港で降りて、レンタカーを借りて、指宿(いぶすき)に宿泊して、開聞岳(かいもんだけ)とか池田湖を見学したことはありますが、鹿児島市内の見学体験はありません。
うちの奥さんに聞いたらこれまで見たことがない桜島を観たいというので、鹿児島市内観光をすることにしました。
今はまだ7月の始めです。訪問は初秋を予定しています。
坐骨神経痛の痛みはもうすぐ消えそうです。歳をとりました。
(以下は、2023年10月9日に書いた記述です)
予定よりかなり遅くなりましたが、昨日、鹿児島市内にあるホテルの予約を済ませました。
訪問はいろいろ予定を調整して、12月の初めころにしました。ホテルの展望温泉風呂につかりながら、雄大な桜島をながめたい。楽しみです。
その後、ニュースで、熊ではなく、鹿児島市内にイノシシが出たという報道を観ました。熊よりはだいじょうぶでしょう。
(今回の記述です。先週、12月のとある日に、鹿児島市内を訪れました。好天気に恵まれて良かった)
名古屋駅から新幹線に乗って、岡山駅で九州新幹線『さくら』に乗り換えて、(家を午前10時ごろ出て)午後4時過ぎに『鹿児島中央駅』に到着しました。『さくら』は8両編成で、シートは通路の両側に2列で、ソファーに座っているようで快適でした。
半世紀前ぐらい前(50年ぐらい前)のこと思うと本当に便利になりました。わたしがこどものころは、まだ蒸気機関車が走っていたし、架線式の電車ではなく、ディーゼルカー(軽油を燃料としたエンジン車)で、新幹線は、東京から新大阪までしかありませんでした。長距離は夜中に走る寝台車で移動していました。ブルートレインには何度も乗りました。
ときどき思うのですが、いろいろと、こんなに便利な世の中になったのに、まだ文句を言う人がいるのかと残念になります。昔は、たいへんでした。
くわえて、サラリーマンというものは、通勤が大変です。片道1時間45分ぐらいの通勤をしている人はざらにいます。さらにそれが転勤の人事異動辞令をもらうまでは、5年、7年と続くこともあります。朝は早く家を出て、夜は遅く帰るという繰り返しです。近頃は時短で残業はしてはいけないようですが、残業代を生活給として必要としている人もいます。だいじょうぶだろうか。
そんなこともあって、長時間通勤に慣れてくると、片道5時間から6時間の電車や車での移動が苦にならず、なんとも思わなくなります。近いとは思いませんが、遠いとも思いません。
今回思ったのは、博多駅-鹿児島中央駅間だったら、1時間半ぐらいなので、新幹線通勤ができそうです。仕事でも観光でも日帰りが可能です。
鹿児島中央駅から乗ったホテルの無料送迎バスの車窓にときおりちらちらと西日を浴びた桜島の山がありました。夕映えに輝く桜島は、雄大で力強い。絵画作品で、葛飾北斎が描いた赤富士というのがありますが、ここ鹿児島では、赤桜島です。バスを降りたら写真を撮ろうと思っていましたが、下車するとチェックインの手続きにつながって、部屋に入った時は、もう日が暮れていました。また改めて、今ぐらいの好天の時期に、もう少し早い時刻に来ればいい写真が撮れそうだと思いました。
ホテルのエレベーターの中に元気なこどもたちがいたので、ほかのお客さんとわたしたち夫婦でこどもたちに話しかけました。
修学旅行だそうです。中学生かと聞いたら、小学生だと返事があったので、最近の小学生は背が高いなあと感心しました。
あとでわかりましたが、おとなりの宮崎県から修学旅行で鹿児島県に来ていたのでした。
熊太郎の小学校の修学旅行の行き先は、東京でした。当時は栃木県に住んでいたので、バスで東京へ行って、学生会館というところに泊まって、広い和室で枕投げ大会をしたことを覚えています。あとは、後楽園遊園地のジェットコースターに乗りました。だれと乗ったのかはもう覚えていませんが。とても楽しかった。あとのことは記憶がありません。どこを見学したのだろう。忘れました。
いまどきのこどもさんは、ホテルのツインルームに泊まるのだろうか。枕投げ大会ができません。楽しいのに……
次の写真は、翌日、日の出のころの桜島あたりの光景です。午前7時過ぎぐらいです。
鹿児島市は日本列島の西の方に位置しているので、日没も日の出も時刻が遅く感じました。
次から3枚の写真は、日の出前の桜島です。
どの位置なのかわたしにははっきりとはわかりませんが、左から北岳、中岳、南岳と位置していて、南岳だけが噴火活動をしているそうです。(帰宅してから、12月10日日曜日に桜島が大規模に噴火したというニュースを読みました)
見えている煙は、雲ではなく、噴煙です。
次の写真では、わたしにはどれが何かはわかりませんが、左側の薄い山並みが、霧島とか高千穂だそうです。ホテルのどこかに貼ってあった掲示物にそう書いてありました。
時間がさかのぼるのですが、前日日没後の桜島です。このあと真っ暗になってしまいました。
なかなかいい感じだったので、またいつか来てもいいかなという気分になりました。船で桜島まで渡ってもいい。遠くはありません。こちらの陸から桜島までの距離は3kmと、どこかに表示がありました。
次回は、訪れた『城山公園』とか『仙厳園(せんがんえん)』のことをアップしてみます。
2023年12月14日
歌うように、伝えたい 人生を中断した私の再生と希望 塩見三省
歌うように、伝えたい 人生を中断した私の再生と希望 塩見三省(しおみ・さんせい) 角川春樹事務所
今年4月以降、NHKBSの再放送で、『あまちゃん』を見ていました。塩見三省さんは、岩手県三陸を舞台にして、小田勉さん(べんさん)を演じておられました。琥珀(こはく)をいつも大事そうに磨いておられました。
熊太郎『塩見三省さんは病気になって亡くなったねーー』
熊太郎の妻『そうだね。お気の毒だったねぇ』
調べたら塩見三省さんはご存命でした。失礼しました。
申し訳ないというお詫びの気持ちもこめて、塩見三省さんのエッセイ集を読み始めます。
2014年(平成26年)3月19日、病院に救急搬送されています。脳内出血です。左半身まひで、手足に障害が残っておられます。ご本人が66歳のときです。現在75歳であられます。この本は、ご本人が73歳のときに書かれていて、7年間マヒした左足をひきずって生きてきたと記されています。
明日は我が身かもしれません。身につまされます。
自分の体験だと、だいたい48歳ぐらいから体が壊れ始めます。元に戻りません。目が見にくくなります。体の関節が傷んで(いたんで)、わたしの場合、右肩が抜けたような状態が10年ぐらい前からずーっと続いています。頚椎症(けいついしょう)の後遺症みたいなものだと思います。いちおう整形外科は受診しました。
歯や皮膚も傷みます。(いたみます)。耳も聞こえにくくなります。
脳みそは理解力が落ちます。相手が何かを話していることはわかるのですが、何を話しているのかがわからないことがあります。
下半身に神経痛のような痛みが走ります。今年初夏に坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)を患いました。(わずらいました)
全体的に右半身が悪くなっています。まだ使える左半身に頼りながら生活しています。指の先には湿り気がなくなり、本や新聞のページをめくることができません。
先日は、分別ごみをごみ集積場に出しに行ったとき、いっぱい落ちていたどんぐりを左足で踏んで、すってんころりとあおむけに転倒して、地面にお尻の左側を強く打ち付け、細い溝のコンクリート部分に右足のむこうずねをあてて、打撲(だぼく)とすりきずで、右足のすねに血がいっぱい出てしまいました。
歳をとるところびやすくなります。もう若い頃のように、無理がききません。自分の足元に何があるかよく注意して歩かねばと思い知らされました。
老齢者に、がんばれとか、あきらめるなとかいう言葉は禁句です。がんばったら死んじゃいます。
世の中では、高齢者の雇用延長とかの政策の話がありますが、どうしてそんな発想ができるのか不思議です。同世代ですでに病気で亡くなった人が何人もいます。
日本人全員が90歳ぐらいまで生きられるわけでないのです。東京国会議事堂付近で働いている人たちは、なにか、思い違いをされているのではなかろうか。73歳ぐらいで亡くなる方もけっこうおられます。余生を楽しめずに死んだら無念です。
余談が長くなってしまいました。
塩見三省さんは、脳内出血によって、自分の人生は中断せざるを得なくなったと記されています。
ただ、これで人生をすべてあきらめるわけにはいかない。
健康を失うことで、今まで見えていなかったことが見えるようになったということはあります。
やすらかに人生を終えたいのであれば、アルコールの大量飲酒はやめるべきだし、ニコチンもだめです。薬物依存もペケです。増えた体重はなかなか減ってはくれません。暴飲暴食はやめたほうがいい。体の健康も大事だし、心の健康も大事です。
塩見三省さんは、ドラマの共演者だった手術体験がある星野源さんに勧められて(2012年くも膜下出血(平成24年))、文章を書き始めたそうです。
書くことで、生きる希望が湧いてきたそうです。
iPad(アイパッド)で書くそうです。右手の人差し指一本で、一文字(ひともじ)ずつ打つそうです。脳みそは半分しか活動していないと書いてあります。書くことで、それまで白黒だった世界が、色彩のある世界に変わったそうです。
『第1章 私の病との闘い 「人生が中断する」ということ、立ち直るということ』
かなり重いお話を、力強く書かれています。
脳内出血後、左半身が動きません。感覚がないのに、痛みがあります。痛みは脳で感じているらしい。塩見三省さんの右脳で出血がありました。
世間から見捨てられたように、病院のベッドで、『「一匹の虫」となって横たわり……』とあります。
熊太郎も別の病気ですが似たような入院体験があります。自分が入院数日後に思ったのは、『ここにいちゃいけない』ということでした。なんというか、自分が人間のゴミに思えました。語弊(ごへい)があるのかもしれませんが、(ごへい:誤解を招きやすい言い方)、病院は人間として使えない状態になった人を収容するところだと感じました。だからがんばって、退院して社会復帰せねばならぬと思いつつも思うように体が動いてくれないのです。
あわせて、医療関係者もいい人ばかりではありません。へんな人やいやな感じがする人もいます。なんだか、弱者という患者の立場でいると、医療関係者が横柄(おうへい)で威張っているように見えたこともありました。弱い者いじめです。(叱られるかもしれませんが本音(ほんね)です)
塩見三省さんは、病院側と対立されています。病後の生活のしかたについてです。
これまでなじみ親しんできた和風の生活を、バリアフリーに近い洋風の生活に変えることが嫌です。
生まれて初めて長期入院されたそうです。珍しいと思いますがそういう人って多いのかなあ。
人間は一生のうち必ず一度は入院を体験すると思います。熊太郎は内臓が壊れて、二十代のころに長期入院の体験があります。
救急搬送され、治療後のご本人のショックは大きい。
鏡で自分の姿を見て、『誰なんだ、この男は……。』と思われたそうです。
感覚のない左手を右手でよいしょと持ち上げて体にのせる。
リアルなマヒのようすや、リハビリのようすが書いてあります。鬼気迫ります。(ききせまります:おそろしい。身の毛もよだつ(毛がさか立つ))
ほかの患者さんのことも少し書いてあります。
交通信号の色はわかるけれど、『赤』で止まり、『青』で進むということがわからない。
テレビの世界をあきらめる。(役者の出演者として)
激しくて強い記述内容です。ぐっと胸をつかまれた気持ちになります。周囲の人たちも含めた闘病記です。
孤立していきます。
車の運転をやめて車を処分する。
相撲(すもう)のテレビ中継が、心のなぐさめになる。
杖(つえ)をついて歩く。転倒して迷惑をかけて心ない言葉を浴びせられたことがあるそうです。女性誌や週刊誌の記者に隠し撮りをされて心外な記事を書かれたこともあるそうです。(しんがい:不本意。残念)(開きなおって、こそこそ隠し撮りなんかしないで、堂々とわたしを撮りなさい。インタビューに応じましょうという姿勢を見せてもいいのではないかと熊太郎は思いました)
不様:ぶざま。みっともない。醜態(しゅうたい)
力がこもった文章が続きます。
徐々にテレビに復帰されていきます。朝の番組とかドラマとか。映画とか。
負けじ魂(だましい)があります。人に恵まれています。
『第2章 病と共に生きるとは 記憶 私の走馬灯(そうまとう)』
生まれてからの思い出の記(き)です。
本をまだ最後まで読んではいませんが、今年読んで良かった一冊です。
京都府綾部市がふるさと。
1965年頃(昭和40年頃)のことが書いてあります。
まだ十代です。
1966年(昭和41年)で京都の同志社大学生。18歳です。
当時は学生運動で、大学は全国的に荒れていました。
熊太郎が中学の修学旅行で歩いた京都嵐山や嵯峨野などの風景が書いてあります。あのころ、今ほど観光地化されていなかったような覚えです。歴史を学ぶ土地でした。
東京に来てからのことが書いてあります。熊太郎が今年訪れた吉祥寺(きちじょうじ)とか三鷹のことが書いてあって親近感をもちました。
有名な人たちのお名前がたくさん出てきます。演劇人の人たちです。塩見三省さんは、まだ二十代です。
1985年(昭和60年)にお母上が死去されています。
1971年(昭和46年)にイギリスロンドンからシベリア鉄道を使って、日本の横浜まで帰国されています。すごいなあ。途中、原野のなかにあるシベリアの駅で置き去りになりそうになっておられます。置き去りにされていたら、死んでいたかもしれません。そのときご本人はまだ23歳です。命をつなぐためには、『運(うん)』がいります。
『第3章 あの人たちを想う いつまでも忘れないということ』
すでに亡くなられている方たちとの思い出話です。そして、いずれは、ご自身もそちらの世界へいくのだという流れのお話です。
もうずいぶん前の話もあります。この20年間ぐらいでおおぜいの芸能界の人たちが亡くなりました。自分も今年4年ぶりに開催された職場の同窓会で、この4年間に20人ぐらいの先輩たちが亡くなったことを知りました。
岸田今日子:2006年(平成18年)76歳没
文章が固いかなと感じます。リズムにのれない部分がある文章です。
役者さんのためか、セリフが入る文章で、脚本のような雰囲気の部分もあります。
つかこうへい:2010年(平成22年)62歳没
読んでいると、演劇人の人たちは、いい意味で、『演劇バカ』です。熱中しています。
だれのためにやるのか。自分たちのためにやる。表現する。自分たちの主張を表現する。
生涯現役で演技を続ける。
サラリーマンのように、9時から5時まで働く仕事ではない。いいかえれば、人生のすべての時間が役者という仕事の時間でもある。定年退職はない。
モドリ:悪人と思っていたが、実は善人だったという役柄
戯曲『熱海殺人事件』に関連した話として、宮崎勉の連続殺人事件:1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に起きた、4人の幼女・女児殺害事件。2008年死刑執行。45歳没
1980年代から90年代、2000年を過ぎても、ご本人は、がんがん働いておられます。
脳内出血を起こしたのは、働きすぎたからだろうか。
中村伸郎(なかむら・のぶお):1991年(平成3年)82歳没
別役実(べつやく・みのる):2020年(令和2年)82歳没
長岡輝子:2010年(平成22年)102歳没
ときおりページのあちこちに宮沢賢治の名前が出てきます。演劇人は、宮沢賢治作品から、いろいろ影響を受けているそうです。そういえば、この本の前に読んだ本『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』のページにも宮沢賢治さんの名前があった記憶です。
植木等:2007年(平成19年)80歳没
K君:演出家
自分が長生きしても、友だちがみんな先に逝ってしまって(いってしまって、亡くなって)、さみしいということはあります。
自分の体験だと、訃報(ふほう。死の知らせ)というものは、集団で発生します。同じ時代を生きた仲間が同じような時期に命尽きます。義父母の訃報を連絡したら、義父母の友人たちも最近亡くなったばかりだったというような体験があります。
大杉漣(おおすぎ・れん):塩見三省さんは、大杉さんを大杉さんの本名の『孝』で呼んでおられます。2018年(平成30年)66歳没
『第4章 この人たちと生きる 生きることへの支えとして』
第4章は、存命の方たちとの交流です。
岸部一徳さん:日本橋の三越の前で待ち合わせをされたそうです。熊太郎は今年10月に日本橋三越前を歩いたので親近感が湧きました。
長嶋茂雄さん:リハビリをする病院が同じだったそうです。お言葉が力強い。『シオミさん、どーってことないよ』と言わんばかりのポジティブシンキングだったそうです。
三池崇史さん:映画監督の方です。
岩井俊二さん:同じく映画監督さんです。
ドンゴロスの背景:南京袋模様(もよう)の背景ということだろうか。
182ページまで読んできて、奥さんのことが出てこないことが不思議です。
たとえば、医療保険とか、介護保険とか、身体障害者制度の利用とか、衣食住の生活を送るうえで、避けて通れない手続きがあります。ご本人が自力でできることではありませんから、奥さんがたくさんの事務をなさっていたのでしょう。(本の後半247ページ「後書きとして…」で、ようやく奥さんへの感謝の言葉が出てきました)
細かく言うと、入院されていましたから、高額療養費の還付手続きとか、バリアフリーの部屋にするための介護保険を使った住宅改修とか、補装具や日常生活用具や手当を求める身体障害者手帳の申請とか、障害年金の手続きもあったかもしれません。医療・介護・年金制度に関する手続きが、いろいろあります。きっと奥さんがてんてこまいで手続きをされたのでしょう。ゆえに、ご本人は、もっと奥さんにお礼を言われたほうがいいと思います。最大の恩人は奥さんです。奥さんの貢献度は高い。
本全体を読み終えて感じたことです。
ご本人も含めて、まわりにいる方々も、演劇人の人たちは、少年、少女なのです。
十代の意識のまま、舞台や映画やドラマづくりにすべての力を注いでいる人たちです。
ゆえに、実社会での日常生活のにおいがしません。
特殊な世界です。そういう箱の中で人生を送られている。
虚構をつくる世界です。
演技で観ている人たちの心理を操作して感動してもらいます。
人に喜んでもらって収入を得ます。
マヒして動かなくなった左手の上に子役さんの小さな手が重なるシーンを撮影して映画ができあがる。祖父と孫の役柄です。動かない左手が感動を生む素材になります。
萩原健一(はぎわら・けんいち):2019年(平成31年)68歳没
ドライ、ランスルー:ドライは、カメラなしの最初から最後までのリハーサル。ランスルーは、本番どおりの通し稽古(けいこ)。最終確認。
『第5章 夕暮れ時が一番好きだ 気持ちが良いのは少し寂しいくらいの時でもある』
病牀六尺(びょうしょうろくしゃく):正岡子規(まさおか・しき)の随筆集。病床にある著者の所感(しょかん。感想)1902年(明治35年)発表
役者の卵が障害者の役を演じるために障害者の動きを病院へ見学に来る。障害者にとっては、うれしいことではありません。
役者であるご本人に怒りが生まれています。
路線バスに乗ることが好き。奥さんと乗る。高い席から景色を見渡すのが好き。
東京ビッグサイトまで、行って帰っての半日バス旅が楽しみ。
元気なころは、海外旅行にも行かれて、バイクにも乗られて、そんな思い出話があります。
東京の街は、1980年代から(昭和55年)ずいぶん変化した。都市化が進んだ。思うに地方都市でもその頃は原野が広がる景色がありました。今はビルばかりです。
ふたつのことを同時にできなくなった。
歩きながら話すことができない。
読んでいると車いすの障害者になられた詩画作家星野富弘さんの本に書いてあったご本人の語りに似ていると感じます。『克服』があります。
『第6章 静寂と修羅(しゅら) 北野武監督 生き残るということ』
映画監督北野武さんに敬意を表されています。尊敬の気持ちがとても強い。
作品『アウトレイジ ビヨンド』等への出演があります。
左半身不随後も映画出演のために目標をつくって努力する姿があります。リハビリです。
原稿を書き終えたらしき日付は、『2021年5月』(令和3年)となっています。
この本をつくるきっかけとなった小説家髙田郁(たかだ・かおる)さんの解説が最後にあります。
ご自身の作品『銀二貫』のテレビドラマ化で、塩見三省さんに出演してもらったそうです。
2014年2月3日、まだ、塩見三省さんがご病気になる前にお母さんといっしょに面談されたそうです。翌月である3月19日に、塩見三省さんは脳出血で倒れられています。
日記を書くことで慰められる。
先日読んだ『さみしい夜にはペンを持て 古賀史健(こが・ふみたけ) 絵・ならの ポプラ社』を思い出しました。ペンを持って日記を書くのです。学校に行きたくない中学生男子が、日記に救われます。
いい文章です。
『本は寡黙(かもく。言葉数が少ない)で、そして雄弁です。手に取って開かない限り、語りかけてはこない……』
(追記 2023年12月18日月曜日夜のこと)
たまたまテレビ番組表を見ていたら、塩見三省さんがゲストで登場している番組を放映していたので見ました。
NHKEテレの番組で、『ハートネットTV 私のリカバリー』というテーマでした。
放送を見ながら、自分がその時座っていた椅子の後ろにある本棚にこちらの本があり、本の40ページあたりに書いてある女子大生の入院患者さんと彼女のお母さんの話題がテレビで紹介されていました。縁を感じました。
今年4月以降、NHKBSの再放送で、『あまちゃん』を見ていました。塩見三省さんは、岩手県三陸を舞台にして、小田勉さん(べんさん)を演じておられました。琥珀(こはく)をいつも大事そうに磨いておられました。
熊太郎『塩見三省さんは病気になって亡くなったねーー』
熊太郎の妻『そうだね。お気の毒だったねぇ』
調べたら塩見三省さんはご存命でした。失礼しました。
申し訳ないというお詫びの気持ちもこめて、塩見三省さんのエッセイ集を読み始めます。
2014年(平成26年)3月19日、病院に救急搬送されています。脳内出血です。左半身まひで、手足に障害が残っておられます。ご本人が66歳のときです。現在75歳であられます。この本は、ご本人が73歳のときに書かれていて、7年間マヒした左足をひきずって生きてきたと記されています。
明日は我が身かもしれません。身につまされます。
自分の体験だと、だいたい48歳ぐらいから体が壊れ始めます。元に戻りません。目が見にくくなります。体の関節が傷んで(いたんで)、わたしの場合、右肩が抜けたような状態が10年ぐらい前からずーっと続いています。頚椎症(けいついしょう)の後遺症みたいなものだと思います。いちおう整形外科は受診しました。
歯や皮膚も傷みます。(いたみます)。耳も聞こえにくくなります。
脳みそは理解力が落ちます。相手が何かを話していることはわかるのですが、何を話しているのかがわからないことがあります。
下半身に神経痛のような痛みが走ります。今年初夏に坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)を患いました。(わずらいました)
全体的に右半身が悪くなっています。まだ使える左半身に頼りながら生活しています。指の先には湿り気がなくなり、本や新聞のページをめくることができません。
先日は、分別ごみをごみ集積場に出しに行ったとき、いっぱい落ちていたどんぐりを左足で踏んで、すってんころりとあおむけに転倒して、地面にお尻の左側を強く打ち付け、細い溝のコンクリート部分に右足のむこうずねをあてて、打撲(だぼく)とすりきずで、右足のすねに血がいっぱい出てしまいました。
歳をとるところびやすくなります。もう若い頃のように、無理がききません。自分の足元に何があるかよく注意して歩かねばと思い知らされました。
老齢者に、がんばれとか、あきらめるなとかいう言葉は禁句です。がんばったら死んじゃいます。
世の中では、高齢者の雇用延長とかの政策の話がありますが、どうしてそんな発想ができるのか不思議です。同世代ですでに病気で亡くなった人が何人もいます。
日本人全員が90歳ぐらいまで生きられるわけでないのです。東京国会議事堂付近で働いている人たちは、なにか、思い違いをされているのではなかろうか。73歳ぐらいで亡くなる方もけっこうおられます。余生を楽しめずに死んだら無念です。
余談が長くなってしまいました。
塩見三省さんは、脳内出血によって、自分の人生は中断せざるを得なくなったと記されています。
ただ、これで人生をすべてあきらめるわけにはいかない。
健康を失うことで、今まで見えていなかったことが見えるようになったということはあります。
やすらかに人生を終えたいのであれば、アルコールの大量飲酒はやめるべきだし、ニコチンもだめです。薬物依存もペケです。増えた体重はなかなか減ってはくれません。暴飲暴食はやめたほうがいい。体の健康も大事だし、心の健康も大事です。
塩見三省さんは、ドラマの共演者だった手術体験がある星野源さんに勧められて(2012年くも膜下出血(平成24年))、文章を書き始めたそうです。
書くことで、生きる希望が湧いてきたそうです。
iPad(アイパッド)で書くそうです。右手の人差し指一本で、一文字(ひともじ)ずつ打つそうです。脳みそは半分しか活動していないと書いてあります。書くことで、それまで白黒だった世界が、色彩のある世界に変わったそうです。
『第1章 私の病との闘い 「人生が中断する」ということ、立ち直るということ』
かなり重いお話を、力強く書かれています。
脳内出血後、左半身が動きません。感覚がないのに、痛みがあります。痛みは脳で感じているらしい。塩見三省さんの右脳で出血がありました。
世間から見捨てられたように、病院のベッドで、『「一匹の虫」となって横たわり……』とあります。
熊太郎も別の病気ですが似たような入院体験があります。自分が入院数日後に思ったのは、『ここにいちゃいけない』ということでした。なんというか、自分が人間のゴミに思えました。語弊(ごへい)があるのかもしれませんが、(ごへい:誤解を招きやすい言い方)、病院は人間として使えない状態になった人を収容するところだと感じました。だからがんばって、退院して社会復帰せねばならぬと思いつつも思うように体が動いてくれないのです。
あわせて、医療関係者もいい人ばかりではありません。へんな人やいやな感じがする人もいます。なんだか、弱者という患者の立場でいると、医療関係者が横柄(おうへい)で威張っているように見えたこともありました。弱い者いじめです。(叱られるかもしれませんが本音(ほんね)です)
塩見三省さんは、病院側と対立されています。病後の生活のしかたについてです。
これまでなじみ親しんできた和風の生活を、バリアフリーに近い洋風の生活に変えることが嫌です。
生まれて初めて長期入院されたそうです。珍しいと思いますがそういう人って多いのかなあ。
人間は一生のうち必ず一度は入院を体験すると思います。熊太郎は内臓が壊れて、二十代のころに長期入院の体験があります。
救急搬送され、治療後のご本人のショックは大きい。
鏡で自分の姿を見て、『誰なんだ、この男は……。』と思われたそうです。
感覚のない左手を右手でよいしょと持ち上げて体にのせる。
リアルなマヒのようすや、リハビリのようすが書いてあります。鬼気迫ります。(ききせまります:おそろしい。身の毛もよだつ(毛がさか立つ))
ほかの患者さんのことも少し書いてあります。
交通信号の色はわかるけれど、『赤』で止まり、『青』で進むということがわからない。
テレビの世界をあきらめる。(役者の出演者として)
激しくて強い記述内容です。ぐっと胸をつかまれた気持ちになります。周囲の人たちも含めた闘病記です。
孤立していきます。
車の運転をやめて車を処分する。
相撲(すもう)のテレビ中継が、心のなぐさめになる。
杖(つえ)をついて歩く。転倒して迷惑をかけて心ない言葉を浴びせられたことがあるそうです。女性誌や週刊誌の記者に隠し撮りをされて心外な記事を書かれたこともあるそうです。(しんがい:不本意。残念)(開きなおって、こそこそ隠し撮りなんかしないで、堂々とわたしを撮りなさい。インタビューに応じましょうという姿勢を見せてもいいのではないかと熊太郎は思いました)
不様:ぶざま。みっともない。醜態(しゅうたい)
力がこもった文章が続きます。
徐々にテレビに復帰されていきます。朝の番組とかドラマとか。映画とか。
負けじ魂(だましい)があります。人に恵まれています。
『第2章 病と共に生きるとは 記憶 私の走馬灯(そうまとう)』
生まれてからの思い出の記(き)です。
本をまだ最後まで読んではいませんが、今年読んで良かった一冊です。
京都府綾部市がふるさと。
1965年頃(昭和40年頃)のことが書いてあります。
まだ十代です。
1966年(昭和41年)で京都の同志社大学生。18歳です。
当時は学生運動で、大学は全国的に荒れていました。
熊太郎が中学の修学旅行で歩いた京都嵐山や嵯峨野などの風景が書いてあります。あのころ、今ほど観光地化されていなかったような覚えです。歴史を学ぶ土地でした。
東京に来てからのことが書いてあります。熊太郎が今年訪れた吉祥寺(きちじょうじ)とか三鷹のことが書いてあって親近感をもちました。
有名な人たちのお名前がたくさん出てきます。演劇人の人たちです。塩見三省さんは、まだ二十代です。
1985年(昭和60年)にお母上が死去されています。
1971年(昭和46年)にイギリスロンドンからシベリア鉄道を使って、日本の横浜まで帰国されています。すごいなあ。途中、原野のなかにあるシベリアの駅で置き去りになりそうになっておられます。置き去りにされていたら、死んでいたかもしれません。そのときご本人はまだ23歳です。命をつなぐためには、『運(うん)』がいります。
『第3章 あの人たちを想う いつまでも忘れないということ』
すでに亡くなられている方たちとの思い出話です。そして、いずれは、ご自身もそちらの世界へいくのだという流れのお話です。
もうずいぶん前の話もあります。この20年間ぐらいでおおぜいの芸能界の人たちが亡くなりました。自分も今年4年ぶりに開催された職場の同窓会で、この4年間に20人ぐらいの先輩たちが亡くなったことを知りました。
岸田今日子:2006年(平成18年)76歳没
文章が固いかなと感じます。リズムにのれない部分がある文章です。
役者さんのためか、セリフが入る文章で、脚本のような雰囲気の部分もあります。
つかこうへい:2010年(平成22年)62歳没
読んでいると、演劇人の人たちは、いい意味で、『演劇バカ』です。熱中しています。
だれのためにやるのか。自分たちのためにやる。表現する。自分たちの主張を表現する。
生涯現役で演技を続ける。
サラリーマンのように、9時から5時まで働く仕事ではない。いいかえれば、人生のすべての時間が役者という仕事の時間でもある。定年退職はない。
モドリ:悪人と思っていたが、実は善人だったという役柄
戯曲『熱海殺人事件』に関連した話として、宮崎勉の連続殺人事件:1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に起きた、4人の幼女・女児殺害事件。2008年死刑執行。45歳没
1980年代から90年代、2000年を過ぎても、ご本人は、がんがん働いておられます。
脳内出血を起こしたのは、働きすぎたからだろうか。
中村伸郎(なかむら・のぶお):1991年(平成3年)82歳没
別役実(べつやく・みのる):2020年(令和2年)82歳没
長岡輝子:2010年(平成22年)102歳没
ときおりページのあちこちに宮沢賢治の名前が出てきます。演劇人は、宮沢賢治作品から、いろいろ影響を受けているそうです。そういえば、この本の前に読んだ本『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』のページにも宮沢賢治さんの名前があった記憶です。
植木等:2007年(平成19年)80歳没
K君:演出家
自分が長生きしても、友だちがみんな先に逝ってしまって(いってしまって、亡くなって)、さみしいということはあります。
自分の体験だと、訃報(ふほう。死の知らせ)というものは、集団で発生します。同じ時代を生きた仲間が同じような時期に命尽きます。義父母の訃報を連絡したら、義父母の友人たちも最近亡くなったばかりだったというような体験があります。
大杉漣(おおすぎ・れん):塩見三省さんは、大杉さんを大杉さんの本名の『孝』で呼んでおられます。2018年(平成30年)66歳没
『第4章 この人たちと生きる 生きることへの支えとして』
第4章は、存命の方たちとの交流です。
岸部一徳さん:日本橋の三越の前で待ち合わせをされたそうです。熊太郎は今年10月に日本橋三越前を歩いたので親近感が湧きました。
長嶋茂雄さん:リハビリをする病院が同じだったそうです。お言葉が力強い。『シオミさん、どーってことないよ』と言わんばかりのポジティブシンキングだったそうです。
三池崇史さん:映画監督の方です。
岩井俊二さん:同じく映画監督さんです。
ドンゴロスの背景:南京袋模様(もよう)の背景ということだろうか。
182ページまで読んできて、奥さんのことが出てこないことが不思議です。
たとえば、医療保険とか、介護保険とか、身体障害者制度の利用とか、衣食住の生活を送るうえで、避けて通れない手続きがあります。ご本人が自力でできることではありませんから、奥さんがたくさんの事務をなさっていたのでしょう。(本の後半247ページ「後書きとして…」で、ようやく奥さんへの感謝の言葉が出てきました)
細かく言うと、入院されていましたから、高額療養費の還付手続きとか、バリアフリーの部屋にするための介護保険を使った住宅改修とか、補装具や日常生活用具や手当を求める身体障害者手帳の申請とか、障害年金の手続きもあったかもしれません。医療・介護・年金制度に関する手続きが、いろいろあります。きっと奥さんがてんてこまいで手続きをされたのでしょう。ゆえに、ご本人は、もっと奥さんにお礼を言われたほうがいいと思います。最大の恩人は奥さんです。奥さんの貢献度は高い。
本全体を読み終えて感じたことです。
ご本人も含めて、まわりにいる方々も、演劇人の人たちは、少年、少女なのです。
十代の意識のまま、舞台や映画やドラマづくりにすべての力を注いでいる人たちです。
ゆえに、実社会での日常生活のにおいがしません。
特殊な世界です。そういう箱の中で人生を送られている。
虚構をつくる世界です。
演技で観ている人たちの心理を操作して感動してもらいます。
人に喜んでもらって収入を得ます。
マヒして動かなくなった左手の上に子役さんの小さな手が重なるシーンを撮影して映画ができあがる。祖父と孫の役柄です。動かない左手が感動を生む素材になります。
萩原健一(はぎわら・けんいち):2019年(平成31年)68歳没
ドライ、ランスルー:ドライは、カメラなしの最初から最後までのリハーサル。ランスルーは、本番どおりの通し稽古(けいこ)。最終確認。
『第5章 夕暮れ時が一番好きだ 気持ちが良いのは少し寂しいくらいの時でもある』
病牀六尺(びょうしょうろくしゃく):正岡子規(まさおか・しき)の随筆集。病床にある著者の所感(しょかん。感想)1902年(明治35年)発表
役者の卵が障害者の役を演じるために障害者の動きを病院へ見学に来る。障害者にとっては、うれしいことではありません。
役者であるご本人に怒りが生まれています。
路線バスに乗ることが好き。奥さんと乗る。高い席から景色を見渡すのが好き。
東京ビッグサイトまで、行って帰っての半日バス旅が楽しみ。
元気なころは、海外旅行にも行かれて、バイクにも乗られて、そんな思い出話があります。
東京の街は、1980年代から(昭和55年)ずいぶん変化した。都市化が進んだ。思うに地方都市でもその頃は原野が広がる景色がありました。今はビルばかりです。
ふたつのことを同時にできなくなった。
歩きながら話すことができない。
読んでいると車いすの障害者になられた詩画作家星野富弘さんの本に書いてあったご本人の語りに似ていると感じます。『克服』があります。
『第6章 静寂と修羅(しゅら) 北野武監督 生き残るということ』
映画監督北野武さんに敬意を表されています。尊敬の気持ちがとても強い。
作品『アウトレイジ ビヨンド』等への出演があります。
左半身不随後も映画出演のために目標をつくって努力する姿があります。リハビリです。
原稿を書き終えたらしき日付は、『2021年5月』(令和3年)となっています。
この本をつくるきっかけとなった小説家髙田郁(たかだ・かおる)さんの解説が最後にあります。
ご自身の作品『銀二貫』のテレビドラマ化で、塩見三省さんに出演してもらったそうです。
2014年2月3日、まだ、塩見三省さんがご病気になる前にお母さんといっしょに面談されたそうです。翌月である3月19日に、塩見三省さんは脳出血で倒れられています。
日記を書くことで慰められる。
先日読んだ『さみしい夜にはペンを持て 古賀史健(こが・ふみたけ) 絵・ならの ポプラ社』を思い出しました。ペンを持って日記を書くのです。学校に行きたくない中学生男子が、日記に救われます。
いい文章です。
『本は寡黙(かもく。言葉数が少ない)で、そして雄弁です。手に取って開かない限り、語りかけてはこない……』
(追記 2023年12月18日月曜日夜のこと)
たまたまテレビ番組表を見ていたら、塩見三省さんがゲストで登場している番組を放映していたので見ました。
NHKEテレの番組で、『ハートネットTV 私のリカバリー』というテーマでした。
放送を見ながら、自分がその時座っていた椅子の後ろにある本棚にこちらの本があり、本の40ページあたりに書いてある女子大生の入院患者さんと彼女のお母さんの話題がテレビで紹介されていました。縁を感じました。
2023年12月13日
タイトル拒絶 邦画 2020年
タイトル拒絶 邦画 2020年 hulu(フールー)
伊藤沙莉(いとう・さいり)さんという女優さんを知らなくて、お兄さんのお笑いコンビオズワルドの伊藤俊介さんは知っていて、今年の9月に放送されたサンドイッチマンの毎週月曜日にあるテレビ番組『帰れマンデー見つけ隊!!』で、伊藤沙莉さんを見て、この人は、女優として魅力がある人だと感じて、作品をいくつかピックアップしてみて、とりあえずこちらの『タイトル拒絶』という映画作品を最初に観てみました。
前知識として、ネットで、伊藤沙莉さんの貧困母子家庭のころの話を読んで好感をもちました。狭い部屋で、一族みんなで固まって寝ていたとのこと。あとは、ハスキーボイスがいい。人間の強さが伝わってきます。
さて、映画のほうです。
タイトルが不思議でした。
結論としては、『わたしの(これまでの)人生は、タイトルを付けるほどの価値があるものではない!』という主張です。そして、これから先の人生もぱっとしないという意味なのです。やけくそなのです。ほっといてくれ!といいつつ、どうにかしてくれ!なのです。
基本的には、女性蔑視(じょせいべっし。男が女を馬鹿にする社会のありよう)に対する女性側の強くて厳しい抗議があります。男のバカヤローー なのです。
伊藤沙莉さんの演技は素晴らしい。
冒頭からしばらく続くひとり芝居には、迫力があります。熱演でした。体当たりです。伊藤沙莉さんでなければできないであろう適役でした。すごいパワーです。
ウサギ:男はウサギに集まる。されど、ウサギは、アンドロイドでもある。ウサギは、かわいらしくて、弱くて、男に従順な女性のことでしょう。
タヌキ:伊藤沙莉さんが演じる「かのう(加納だろうか。苗字みょうじ)」のこと。自分で自分はタヌキと強調します。けしてウサギではない。かのうはデリバリーヘルスを派遣する事務所で事務職をしています。最初は、派遣される女性の職だったが無理だったという設定です。されど、タヌキは、本当はウサギになりたい。純愛の対象とされるウサギになりたい。
舞台劇を観ているようでした。
素材は風俗ですが、ほかの業種でも設定できる男女差別の実態です。
物語は、東京を舞台にした東京の映画です。
ラストはどうしたのだろう。処理のしかたがわからなかったのだろうか。だんだん不明朗になっていきました。音楽と映像を流してあるだけに見えました。
まだ若いのに人生が終わっている。
まだこれからなのに、人生が終わっている。
タイトルのない人生になっている。
ユーモア、喜劇でもあります。
デリバリー嬢の配送もピザの配達も同じようなもの。
お金が欲しい。(されど、お金だけの世界は、『虚無(きょむ。むなしい)』につながっている)
底辺を見る。この業界の女も男も人間のクズだと読み取れる内容です。救いがない。夢もない。
犯罪行為みたいな映像がいろいろ出てきます。暴力もあります。
きれいごとなんかクソくらえの本音(ほんね)の世界を表現してありました。
女性は強い。人間として強い。開き直った女性はなお強い。
ガラの悪い女子たちですが、お金のために本音で生活を営んでいます。
言葉づかいとして、次のとおりです。
マジカ、チガクナイ?(違うんじゃない?)、ブチギレル、ツーカ(というか)、ムリダワ、ワカロウヨ、メンドクセー、ブッチャケ、マジデキモイ、(会話が「マジカ」ばっかりです)
女同士うちわの世界を描いてある映画です。
給料は、給料袋に入れて現金払いです。(口座振り込みではない)
女子の言葉として:男にはわからないよ。女のことなんて。
時間が進むにつれて、精神状態がおかしい人ばかりになります。全員が、『社会不適合者』というセリフが出てきます。
この映画もタバコ映画です。喫煙シーンがあいかわらず多い日本映画です。
なんとか、登場人物女子の名前を拾いました。①リユ ②マヒル ③キョウコ ④あつこ ⑤ちか ⑥かな ⑦シホ
あつこ役の人は演技がじょうずです。
ホームレスのアルミ缶集めの映像がときおり流れるのですが、貧困を表現してあるのだろうか。女性差別を扱う内容で、ピンときませんでした。この仕事をしている女性たちはお金持ちなのです。
彼女たちは、お金はあるけれど、なりたいものにはなれなかった女の人です。
男はバカか:複数の若い女たちに制服着せてダンスさせて歌わせて、喜んでいる男たちがいる。
社会は、エロとカネ、男と女でできている。(それが、すべてとは思えませんが……)
エロ・カネ社会をつくる権力者への女性の反乱があります。
記憶に残った若い男性の言葉の趣旨として、『恋愛ができる男は、わざわざお金を払ってまで女性と関係をもとうとは思わない』『お金のやりとりがからんだ男女関係には、愛情はない。奉仕はある』
かのうさん(伊藤沙莉さん)もつらい体験をします。
かのうさんは、自分が好きな男性から、自分が女性として認められていないことを知ります。その男性から見たかのうさんは、なんでも話ができる友だち(男でも女でもいい)のような存在と判断されていたことがわかります。加納さんは泣きます。大泣きします。
男と女の関係は複雑です。
自分を励ます言葉が、『これがわたしです!』。人から文句を言われて困ったときは、『これがわたしです!』と言って、その場を切り抜けるという手法はあります。
熊太郎が、ゆきづまっている女子たちにかけたいアドバイスとして、『みんな若い。先は長い。とりあえず、きょうと、あしたのことだけを考えて生きましょう。あとは、その繰り返しです』
賛否両論この映画への評価はさまざまでしょう。それはさておき、また、伊藤沙莉さんが出演されているほかの映画作品も観てみます。
伊藤沙莉(いとう・さいり)さんという女優さんを知らなくて、お兄さんのお笑いコンビオズワルドの伊藤俊介さんは知っていて、今年の9月に放送されたサンドイッチマンの毎週月曜日にあるテレビ番組『帰れマンデー見つけ隊!!』で、伊藤沙莉さんを見て、この人は、女優として魅力がある人だと感じて、作品をいくつかピックアップしてみて、とりあえずこちらの『タイトル拒絶』という映画作品を最初に観てみました。
前知識として、ネットで、伊藤沙莉さんの貧困母子家庭のころの話を読んで好感をもちました。狭い部屋で、一族みんなで固まって寝ていたとのこと。あとは、ハスキーボイスがいい。人間の強さが伝わってきます。
さて、映画のほうです。
タイトルが不思議でした。
結論としては、『わたしの(これまでの)人生は、タイトルを付けるほどの価値があるものではない!』という主張です。そして、これから先の人生もぱっとしないという意味なのです。やけくそなのです。ほっといてくれ!といいつつ、どうにかしてくれ!なのです。
基本的には、女性蔑視(じょせいべっし。男が女を馬鹿にする社会のありよう)に対する女性側の強くて厳しい抗議があります。男のバカヤローー なのです。
伊藤沙莉さんの演技は素晴らしい。
冒頭からしばらく続くひとり芝居には、迫力があります。熱演でした。体当たりです。伊藤沙莉さんでなければできないであろう適役でした。すごいパワーです。
ウサギ:男はウサギに集まる。されど、ウサギは、アンドロイドでもある。ウサギは、かわいらしくて、弱くて、男に従順な女性のことでしょう。
タヌキ:伊藤沙莉さんが演じる「かのう(加納だろうか。苗字みょうじ)」のこと。自分で自分はタヌキと強調します。けしてウサギではない。かのうはデリバリーヘルスを派遣する事務所で事務職をしています。最初は、派遣される女性の職だったが無理だったという設定です。されど、タヌキは、本当はウサギになりたい。純愛の対象とされるウサギになりたい。
舞台劇を観ているようでした。
素材は風俗ですが、ほかの業種でも設定できる男女差別の実態です。
物語は、東京を舞台にした東京の映画です。
ラストはどうしたのだろう。処理のしかたがわからなかったのだろうか。だんだん不明朗になっていきました。音楽と映像を流してあるだけに見えました。
まだ若いのに人生が終わっている。
まだこれからなのに、人生が終わっている。
タイトルのない人生になっている。
ユーモア、喜劇でもあります。
デリバリー嬢の配送もピザの配達も同じようなもの。
お金が欲しい。(されど、お金だけの世界は、『虚無(きょむ。むなしい)』につながっている)
底辺を見る。この業界の女も男も人間のクズだと読み取れる内容です。救いがない。夢もない。
犯罪行為みたいな映像がいろいろ出てきます。暴力もあります。
きれいごとなんかクソくらえの本音(ほんね)の世界を表現してありました。
女性は強い。人間として強い。開き直った女性はなお強い。
ガラの悪い女子たちですが、お金のために本音で生活を営んでいます。
言葉づかいとして、次のとおりです。
マジカ、チガクナイ?(違うんじゃない?)、ブチギレル、ツーカ(というか)、ムリダワ、ワカロウヨ、メンドクセー、ブッチャケ、マジデキモイ、(会話が「マジカ」ばっかりです)
女同士うちわの世界を描いてある映画です。
給料は、給料袋に入れて現金払いです。(口座振り込みではない)
女子の言葉として:男にはわからないよ。女のことなんて。
時間が進むにつれて、精神状態がおかしい人ばかりになります。全員が、『社会不適合者』というセリフが出てきます。
この映画もタバコ映画です。喫煙シーンがあいかわらず多い日本映画です。
なんとか、登場人物女子の名前を拾いました。①リユ ②マヒル ③キョウコ ④あつこ ⑤ちか ⑥かな ⑦シホ
あつこ役の人は演技がじょうずです。
ホームレスのアルミ缶集めの映像がときおり流れるのですが、貧困を表現してあるのだろうか。女性差別を扱う内容で、ピンときませんでした。この仕事をしている女性たちはお金持ちなのです。
彼女たちは、お金はあるけれど、なりたいものにはなれなかった女の人です。
男はバカか:複数の若い女たちに制服着せてダンスさせて歌わせて、喜んでいる男たちがいる。
社会は、エロとカネ、男と女でできている。(それが、すべてとは思えませんが……)
エロ・カネ社会をつくる権力者への女性の反乱があります。
記憶に残った若い男性の言葉の趣旨として、『恋愛ができる男は、わざわざお金を払ってまで女性と関係をもとうとは思わない』『お金のやりとりがからんだ男女関係には、愛情はない。奉仕はある』
かのうさん(伊藤沙莉さん)もつらい体験をします。
かのうさんは、自分が好きな男性から、自分が女性として認められていないことを知ります。その男性から見たかのうさんは、なんでも話ができる友だち(男でも女でもいい)のような存在と判断されていたことがわかります。加納さんは泣きます。大泣きします。
男と女の関係は複雑です。
自分を励ます言葉が、『これがわたしです!』。人から文句を言われて困ったときは、『これがわたしです!』と言って、その場を切り抜けるという手法はあります。
熊太郎が、ゆきづまっている女子たちにかけたいアドバイスとして、『みんな若い。先は長い。とりあえず、きょうと、あしたのことだけを考えて生きましょう。あとは、その繰り返しです』
賛否両論この映画への評価はさまざまでしょう。それはさておき、また、伊藤沙莉さんが出演されているほかの映画作品も観てみます。
2023年12月12日
喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二
喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社
松本隆:作詞家。ミュージシャン。グループ活動として、ロックバンド『はっぴいえんど』。作詞作品として、アグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』、チューリップの『夏色の思い出』、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』、そのほか、ヒット曲多数。細野晴臣、大瀧詠一ほかと交流がある。
山下賢二:この本をざーっと一回読んで、最後の紹介文でわかったのですが、以前読んだことがある絵本『やましたくんはしゃべらない』の登場人物であるやましたくんでした。びっくりしました。
『やましたくんはしゃべらない 山下賢二・作 中田いくみ・絵 岩崎書店』そのときの感想メモの一部です。
この絵本では、小学生時代に学校ではしゃべらなかったという作者ご本人のことを絵本にされているそうです。絵本では、やましたくんについて、1年生から始まって、6年生になったころのことが書いてありました。
つまり、6年間しゃべらなかったというような下地があります。(されど、小学校の卒業証書授与式のときにだれにも聞こえないぐらいの声で、名前を呼ばれての返事の発声はしたらしい)
小学校を卒業して中学生になったらしゃべるようにしたそうな。しゃべらないと、おとなになったら困ります。仕事をしなければなりません。作者であるご本人は、その後、人前でもしゃべるようになられたようです。しゃべらなかった理由もありました。ネットで読みました。ここには書きません。まあ、ミステリーを含んだ推理小説のような要素もある絵本です。
(1回目の本読み)
ざーっと1枚ずつページを最後までゆっくりめくってみました。
山下賢二さんが、喫茶店で、松本隆さんから聞いたことを文章にしてある本でした。
文章は短文です。さらりと読み終える文章です。エッセイ集です。(随筆集)
最初に、松本隆さんの言葉として、銀行員になれたけれど、作詞家になったとあります。そういえば、シンガーソングライターの小椋佳さん(おぐらけいさん。男性)も、もとは銀行員でした。
エッセイのタイトルは、『〇〇について』という、「ついて」のタイトルが多い。
(2回目の本読み)
ちょっとへんですが、最初に、本の最後のほう107ページにある『本物の「君」 山下賢二』から読み始めました。
『君(きみ)』という言葉の音に強い興味が示されています。『東京の音』がするそうです。ちなみに山下賢二さんは京都の人です。
クレジット:作品にかかわる人の名前。作詞で松本隆さんの名前が表記されていた。
おふたりは、かなり親密な関係を築かれています。おふたりは、年齢的には父親と息子です。父親が松本隆さんです。
では最初に戻って読み始めます。
『カフェ火裏漣花にて(カフェかりれんげにて) 京都市中京区』
iPhoneで写真を撮って、それをもとにして歌詞をつくるというようなことが書いてあります。
自然淘汰(しぜんとうた。ふるいにかけられて落ちていく)の話があります。
映画の話、オーラを放つ映画監督の話、オーラのある芸能人の話があります。オーラ:人が発する強い雰囲気。まわりにいる人たちを魅了(みりょう)する。魅力がある。人を引きつける。
思うままに語り続ける文章です。
若い時、人から認められたかった。
人がつくったものの物まねじゃないものをつくって、人から認められたかった。
松本隆さんについて、病弱だった妹さんとの思い出が書いてあります。
病気の妹さんは、まわりが止めるのもきかず、無理をされて、成人後、若くして亡くなっています。心臓が悪かったそうです。妹さんは、弱音をはかない人だった。
だれにも家族がいます。
しんみりきました。
家族がいて、『詞(し)』が生まれる。
『ジャズスポット ヤマトヤにて 京都市左京区』
抽象的なお話です。
歌詞をつくる経過です。
物語をつくるのです。
『詩人』は、古代ギリシアの時代から、この地球上に存在している。
答えがない世界の答えを出し続けようとしている。『霊』『死後の話』『愛』など、答えが出ないわからない問いかけに対して、詩人は答えようとし続ける。永遠に。
嘘が嫌いだそうです。
嘘はばれる。嘘を続けるためにまた嘘をつく。キリがない。(終わりがない)
なによりもだいじなものは、『時間』。私立学校だったので大学受験がなかった。エスカレーター式(中学から大学まで内部進学できる)だった。受験勉強をしなくてよかったので、自分が自由に使える『時間』があった。時間を有効に使う。時間をムダにしない。
松本隆さんの脳内世界にあることを他人である山下賢二さんが、聞き取りをして、記録として文章に落としてあります。
ソクラテスの言葉を遺した(のこした)ソクラテス(紀元前のギリシャの哲学者)の弟子たち(クセノポンとプラトン)のようです。
『お金じゃない』
人から喜ばれるいい詞をつくって、後世に遺したい。(のこしたい)(人から評価されたい(ほめられたい)この世のこの時代に自分が生きていたという証拠を遺したいというお気持ちだろうか)
有名になりたい=健全な上昇志向と考えるとのこと。否定しない。有名になりたいという欲は、あったほうがいい。そのために筋は通したほうがいい。なんでもやっていいわけではない。守るべき正義は守る。
ストリーミング:動画配信サービス。音楽配信サービス。レコード会社もテレビ局もいらない。創作する場所は、東京じゃなくてもいい。
人の真似はしない。
現代の対立は、金持ちVS貧困だそうです。(日本ではこれからも金銭的な格差社会は広がっていくと思われます。どこに価値を求めるかという考え方もあります)
孤独に慣れる。孤独を恐れない。(おそれない)
シンプル(単純素朴(そぼく))です。
『イノダコーヒ本店旧館にて 京都市中京区』
味わい深い言葉や文章がたくさん書いてあります。
作詞家の脳内にあることを表現してある文章です。
今年読んで良かった本です。
歌詞をつくるマニュアルです。(手引き)
おおざっぱにテーマを考える。
季節を考える。
5W1H(いつどこで……)を考える。
人称代名詞(主語。にんしょうだいめいし。ぼくとかわたしとか)は使わない。
基本は、「肯定文」、たまに、「否定文」
パクリ(人まね)の話です。
1970年代(昭和45年)は、パクリ全盛だった。パクリについてうるさくない世の中だった。
まねをしながら上達してオリジナルをつくれるようになるという経過はある。
歌詞をつくるときに必要なものは、第一に『知識』、第二に『技術』、第三に『思い』。『思い』がないといいものは完成しない。
得るものがある本です。
詐欺師のようでもある。本人も永遠に気づけないように、じょうずに人心を操作して利益を得る。洗脳をするように他人の心の中に感動を生んで意識を操作する。(警戒心が強い人はかかりません。素直に相手の言うことをきく、人柄がいいとされる人は危ない(あぶない))
ファズ:音響機器の言葉。割れた音色、雑音。効果音
松本隆さんが売れていた時の生活リズムはメチャクチャです。
録音が午前4時くらいに終わる。自分で車を運転して帰宅して、自宅車庫のシャッターを開けるボタンを押して、シャッターがあがる1分間を待てない。エンジンを切って、そのまま運転席で熟睡に落ちる。朝6時半に自宅車庫前に停まっている車の中で目が覚める。
歌い手の選び方です。
写真は参考にならない。みんな可愛い。差異がわからない。
声質で選ぶ。歌のうまいへたは、売れる売れないに関係ない。
民衆は、おもしろい声を望んでいる。
舌足らずなところが良かった歌手がいる。一見、欠点に見えても、そこが魅力だったりもする。合わせて、楽器が弾けることも魅力になる。
歌謡曲を売る世界は異常な世界だった。売れる売れないの数字の世界だった。
脳みそが疲れ果てて、80年代末に休業して5年間休んだ。
いい歌は、数字では表せない。
その時、いい数字が出なくても、永く歌い継がれる歌がいい歌ということもあると受けとりました。
シニカル:皮肉な態度。冷笑。人を小ばかにする
無意味な精神論。退屈な理屈。今を見て、今の体制を維持したいがんこ者たちがいる。松本さんは、そんな周囲を突き放します。先を見る。ずーっと先の未来を見て、今とは違うやり方を選択する。
『かもがわカフェにて』 京都市上京区
マイナスとマイナスをかけて、プラスになるような歌詞をつくる。
松本さんは、『(自分が自由に使える)時間』の多さにこだわります。
学校がエスカレーター式だったから、受験勉強をすることに時間を奪われなくて済んだから良かった。
東京都港区青山に生まれて育ったから、地方から出てきて、東京のファッション(文化ともいえる)になじむ、あるいは追いつくための時間を費やさなくて済んだから良かったと考えます。
人が与えられた時間には限度があるから、時間の有効活用を考えます。(読み手の自分としてはそうかなあと思いつつ、なにかで名を成すとしたらそうかもしれないと思える。されど、なにかひとつのことで名を成す(大成功して有名になる)ことにこだわらなければ、たくさんの体験をして思い出多い人生を送るほうがいい思いをできると自分は考えました)
アドバンテージ:有利な点。松本さんは、わたしから見れば、不思議な考え方をする方です。
考える力を鍛える。鍛えるためには、学校教育の時代にできるだけたくさんのことを暗記する。成人するころから、暗記したことを駆使して考える。考える力を鍛え上げる。(付け加えると、その後に人生において、一時期、十年間ぐらいは、死に物狂いで働く。二十四時間365日気が狂うぐらいに働く。そのあと、休む。心身を休めて、新しい知識と体験をする。次の段階の人生を楽しむ)そんなふうに読み取れました。92ページに、『ボクは80年代、人の100倍働いたから、今は遊んでる……』とあります。
ロックにおけるメンフィス:アメリカ合衆国テネシー州メンフィス。ロック発祥の地。エルビスプレスリー。この部分を調べているとき、『天使にラブ・ソングを』のことがネットの説明に書いてあり、先日東京でミュージカルを観たばかりなので、親近感と縁を感じました。ロックンロールの基礎にキリスト教会の讃美歌(ゴスペル)があるそうです。
はっぴいえんど:日本のロックバンド。活動期間は、1969年(昭和44年)-1972年(昭和47年)、1973年(昭和48年)、1985年(昭和60年)、2021年(令和3年)。日本語ロックの創設グループ。代表曲『風をあつめて』
松本隆
細野晴臣
大瀧詠一
鈴木茂
モビー・グレープ:1960年代後半に活躍したアメリカ合衆国のロックバンド
グレイトフル・デッド:アメリカ合衆国のロックバンド
フィル・スペクター:アメリカ合衆国の音楽プロデューサー
ロネッツ:ニューヨーク出身の女性三人組の音楽グループ
バッファロー・スプリングフィールド:アメリカ合衆国のロックバンド
ゆでめん:はっぴいえんどのレコードアルバム。1970年発売(昭和45年)初めての日本語ロック
YMO:イエロー・マジック・オーケストラ。1978年結成(昭和53年)細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一
GSブーム:グループ・サウンズブーム。1967年(昭和42年)-1969年(昭和44年)
友情について書いてあります。
東京では、友情ができにくい。(東京は人生の一時的な時を過ごすところ)仕事仲間はいるけれど、会社つながりの人間関係になる。
東京は人づきあいをするのには、大きすぎる。東京では、ライバルや商売敵はいる。(友情は薄い)
京都や神戸は街の大きさがちょうどいい。会いたいときに簡単に会える。(東京は会えない)ローカルな感じがいい。(納得します)
ローカル:地方、いなか
本文を読み終えました。
続けて、聴き手・書き手の山下賢二さんの文章をもう一度読みます。
『京都の街は、30分もあれば車で端から端まで行けてしまう……』と話が続きます。
料理人船越雅代さんの食事会で、この本のおふたりは出会ったとのことです。
親子ほどの年齢が離れたおふたりですが、和歌山県新宮市へのふたりでの旅行内容には驚かされました。悪天候の中、現地のお祭りに参加されています。
ためになるいい本でした。
松本隆:作詞家。ミュージシャン。グループ活動として、ロックバンド『はっぴいえんど』。作詞作品として、アグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』、チューリップの『夏色の思い出』、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』、そのほか、ヒット曲多数。細野晴臣、大瀧詠一ほかと交流がある。
山下賢二:この本をざーっと一回読んで、最後の紹介文でわかったのですが、以前読んだことがある絵本『やましたくんはしゃべらない』の登場人物であるやましたくんでした。びっくりしました。
『やましたくんはしゃべらない 山下賢二・作 中田いくみ・絵 岩崎書店』そのときの感想メモの一部です。
この絵本では、小学生時代に学校ではしゃべらなかったという作者ご本人のことを絵本にされているそうです。絵本では、やましたくんについて、1年生から始まって、6年生になったころのことが書いてありました。
つまり、6年間しゃべらなかったというような下地があります。(されど、小学校の卒業証書授与式のときにだれにも聞こえないぐらいの声で、名前を呼ばれての返事の発声はしたらしい)
小学校を卒業して中学生になったらしゃべるようにしたそうな。しゃべらないと、おとなになったら困ります。仕事をしなければなりません。作者であるご本人は、その後、人前でもしゃべるようになられたようです。しゃべらなかった理由もありました。ネットで読みました。ここには書きません。まあ、ミステリーを含んだ推理小説のような要素もある絵本です。
(1回目の本読み)
ざーっと1枚ずつページを最後までゆっくりめくってみました。
山下賢二さんが、喫茶店で、松本隆さんから聞いたことを文章にしてある本でした。
文章は短文です。さらりと読み終える文章です。エッセイ集です。(随筆集)
最初に、松本隆さんの言葉として、銀行員になれたけれど、作詞家になったとあります。そういえば、シンガーソングライターの小椋佳さん(おぐらけいさん。男性)も、もとは銀行員でした。
エッセイのタイトルは、『〇〇について』という、「ついて」のタイトルが多い。
(2回目の本読み)
ちょっとへんですが、最初に、本の最後のほう107ページにある『本物の「君」 山下賢二』から読み始めました。
『君(きみ)』という言葉の音に強い興味が示されています。『東京の音』がするそうです。ちなみに山下賢二さんは京都の人です。
クレジット:作品にかかわる人の名前。作詞で松本隆さんの名前が表記されていた。
おふたりは、かなり親密な関係を築かれています。おふたりは、年齢的には父親と息子です。父親が松本隆さんです。
では最初に戻って読み始めます。
『カフェ火裏漣花にて(カフェかりれんげにて) 京都市中京区』
iPhoneで写真を撮って、それをもとにして歌詞をつくるというようなことが書いてあります。
自然淘汰(しぜんとうた。ふるいにかけられて落ちていく)の話があります。
映画の話、オーラを放つ映画監督の話、オーラのある芸能人の話があります。オーラ:人が発する強い雰囲気。まわりにいる人たちを魅了(みりょう)する。魅力がある。人を引きつける。
思うままに語り続ける文章です。
若い時、人から認められたかった。
人がつくったものの物まねじゃないものをつくって、人から認められたかった。
松本隆さんについて、病弱だった妹さんとの思い出が書いてあります。
病気の妹さんは、まわりが止めるのもきかず、無理をされて、成人後、若くして亡くなっています。心臓が悪かったそうです。妹さんは、弱音をはかない人だった。
だれにも家族がいます。
しんみりきました。
家族がいて、『詞(し)』が生まれる。
『ジャズスポット ヤマトヤにて 京都市左京区』
抽象的なお話です。
歌詞をつくる経過です。
物語をつくるのです。
『詩人』は、古代ギリシアの時代から、この地球上に存在している。
答えがない世界の答えを出し続けようとしている。『霊』『死後の話』『愛』など、答えが出ないわからない問いかけに対して、詩人は答えようとし続ける。永遠に。
嘘が嫌いだそうです。
嘘はばれる。嘘を続けるためにまた嘘をつく。キリがない。(終わりがない)
なによりもだいじなものは、『時間』。私立学校だったので大学受験がなかった。エスカレーター式(中学から大学まで内部進学できる)だった。受験勉強をしなくてよかったので、自分が自由に使える『時間』があった。時間を有効に使う。時間をムダにしない。
松本隆さんの脳内世界にあることを他人である山下賢二さんが、聞き取りをして、記録として文章に落としてあります。
ソクラテスの言葉を遺した(のこした)ソクラテス(紀元前のギリシャの哲学者)の弟子たち(クセノポンとプラトン)のようです。
『お金じゃない』
人から喜ばれるいい詞をつくって、後世に遺したい。(のこしたい)(人から評価されたい(ほめられたい)この世のこの時代に自分が生きていたという証拠を遺したいというお気持ちだろうか)
有名になりたい=健全な上昇志向と考えるとのこと。否定しない。有名になりたいという欲は、あったほうがいい。そのために筋は通したほうがいい。なんでもやっていいわけではない。守るべき正義は守る。
ストリーミング:動画配信サービス。音楽配信サービス。レコード会社もテレビ局もいらない。創作する場所は、東京じゃなくてもいい。
人の真似はしない。
現代の対立は、金持ちVS貧困だそうです。(日本ではこれからも金銭的な格差社会は広がっていくと思われます。どこに価値を求めるかという考え方もあります)
孤独に慣れる。孤独を恐れない。(おそれない)
シンプル(単純素朴(そぼく))です。
『イノダコーヒ本店旧館にて 京都市中京区』
味わい深い言葉や文章がたくさん書いてあります。
作詞家の脳内にあることを表現してある文章です。
今年読んで良かった本です。
歌詞をつくるマニュアルです。(手引き)
おおざっぱにテーマを考える。
季節を考える。
5W1H(いつどこで……)を考える。
人称代名詞(主語。にんしょうだいめいし。ぼくとかわたしとか)は使わない。
基本は、「肯定文」、たまに、「否定文」
パクリ(人まね)の話です。
1970年代(昭和45年)は、パクリ全盛だった。パクリについてうるさくない世の中だった。
まねをしながら上達してオリジナルをつくれるようになるという経過はある。
歌詞をつくるときに必要なものは、第一に『知識』、第二に『技術』、第三に『思い』。『思い』がないといいものは完成しない。
得るものがある本です。
詐欺師のようでもある。本人も永遠に気づけないように、じょうずに人心を操作して利益を得る。洗脳をするように他人の心の中に感動を生んで意識を操作する。(警戒心が強い人はかかりません。素直に相手の言うことをきく、人柄がいいとされる人は危ない(あぶない))
ファズ:音響機器の言葉。割れた音色、雑音。効果音
松本隆さんが売れていた時の生活リズムはメチャクチャです。
録音が午前4時くらいに終わる。自分で車を運転して帰宅して、自宅車庫のシャッターを開けるボタンを押して、シャッターがあがる1分間を待てない。エンジンを切って、そのまま運転席で熟睡に落ちる。朝6時半に自宅車庫前に停まっている車の中で目が覚める。
歌い手の選び方です。
写真は参考にならない。みんな可愛い。差異がわからない。
声質で選ぶ。歌のうまいへたは、売れる売れないに関係ない。
民衆は、おもしろい声を望んでいる。
舌足らずなところが良かった歌手がいる。一見、欠点に見えても、そこが魅力だったりもする。合わせて、楽器が弾けることも魅力になる。
歌謡曲を売る世界は異常な世界だった。売れる売れないの数字の世界だった。
脳みそが疲れ果てて、80年代末に休業して5年間休んだ。
いい歌は、数字では表せない。
その時、いい数字が出なくても、永く歌い継がれる歌がいい歌ということもあると受けとりました。
シニカル:皮肉な態度。冷笑。人を小ばかにする
無意味な精神論。退屈な理屈。今を見て、今の体制を維持したいがんこ者たちがいる。松本さんは、そんな周囲を突き放します。先を見る。ずーっと先の未来を見て、今とは違うやり方を選択する。
『かもがわカフェにて』 京都市上京区
マイナスとマイナスをかけて、プラスになるような歌詞をつくる。
松本さんは、『(自分が自由に使える)時間』の多さにこだわります。
学校がエスカレーター式だったから、受験勉強をすることに時間を奪われなくて済んだから良かった。
東京都港区青山に生まれて育ったから、地方から出てきて、東京のファッション(文化ともいえる)になじむ、あるいは追いつくための時間を費やさなくて済んだから良かったと考えます。
人が与えられた時間には限度があるから、時間の有効活用を考えます。(読み手の自分としてはそうかなあと思いつつ、なにかで名を成すとしたらそうかもしれないと思える。されど、なにかひとつのことで名を成す(大成功して有名になる)ことにこだわらなければ、たくさんの体験をして思い出多い人生を送るほうがいい思いをできると自分は考えました)
アドバンテージ:有利な点。松本さんは、わたしから見れば、不思議な考え方をする方です。
考える力を鍛える。鍛えるためには、学校教育の時代にできるだけたくさんのことを暗記する。成人するころから、暗記したことを駆使して考える。考える力を鍛え上げる。(付け加えると、その後に人生において、一時期、十年間ぐらいは、死に物狂いで働く。二十四時間365日気が狂うぐらいに働く。そのあと、休む。心身を休めて、新しい知識と体験をする。次の段階の人生を楽しむ)そんなふうに読み取れました。92ページに、『ボクは80年代、人の100倍働いたから、今は遊んでる……』とあります。
ロックにおけるメンフィス:アメリカ合衆国テネシー州メンフィス。ロック発祥の地。エルビスプレスリー。この部分を調べているとき、『天使にラブ・ソングを』のことがネットの説明に書いてあり、先日東京でミュージカルを観たばかりなので、親近感と縁を感じました。ロックンロールの基礎にキリスト教会の讃美歌(ゴスペル)があるそうです。
はっぴいえんど:日本のロックバンド。活動期間は、1969年(昭和44年)-1972年(昭和47年)、1973年(昭和48年)、1985年(昭和60年)、2021年(令和3年)。日本語ロックの創設グループ。代表曲『風をあつめて』
松本隆
細野晴臣
大瀧詠一
鈴木茂
モビー・グレープ:1960年代後半に活躍したアメリカ合衆国のロックバンド
グレイトフル・デッド:アメリカ合衆国のロックバンド
フィル・スペクター:アメリカ合衆国の音楽プロデューサー
ロネッツ:ニューヨーク出身の女性三人組の音楽グループ
バッファロー・スプリングフィールド:アメリカ合衆国のロックバンド
ゆでめん:はっぴいえんどのレコードアルバム。1970年発売(昭和45年)初めての日本語ロック
YMO:イエロー・マジック・オーケストラ。1978年結成(昭和53年)細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一
GSブーム:グループ・サウンズブーム。1967年(昭和42年)-1969年(昭和44年)
友情について書いてあります。
東京では、友情ができにくい。(東京は人生の一時的な時を過ごすところ)仕事仲間はいるけれど、会社つながりの人間関係になる。
東京は人づきあいをするのには、大きすぎる。東京では、ライバルや商売敵はいる。(友情は薄い)
京都や神戸は街の大きさがちょうどいい。会いたいときに簡単に会える。(東京は会えない)ローカルな感じがいい。(納得します)
ローカル:地方、いなか
本文を読み終えました。
続けて、聴き手・書き手の山下賢二さんの文章をもう一度読みます。
『京都の街は、30分もあれば車で端から端まで行けてしまう……』と話が続きます。
料理人船越雅代さんの食事会で、この本のおふたりは出会ったとのことです。
親子ほどの年齢が離れたおふたりですが、和歌山県新宮市へのふたりでの旅行内容には驚かされました。悪天候の中、現地のお祭りに参加されています。
ためになるいい本でした。