2023年12月14日
歌うように、伝えたい 人生を中断した私の再生と希望 塩見三省
歌うように、伝えたい 人生を中断した私の再生と希望 塩見三省(しおみ・さんせい) 角川春樹事務所
今年4月以降、NHKBSの再放送で、『あまちゃん』を見ていました。塩見三省さんは、岩手県三陸を舞台にして、小田勉さん(べんさん)を演じておられました。琥珀(こはく)をいつも大事そうに磨いておられました。
熊太郎『塩見三省さんは病気になって亡くなったねーー』
熊太郎の妻『そうだね。お気の毒だったねぇ』
調べたら塩見三省さんはご存命でした。失礼しました。
申し訳ないというお詫びの気持ちもこめて、塩見三省さんのエッセイ集を読み始めます。
2014年(平成26年)3月19日、病院に救急搬送されています。脳内出血です。左半身まひで、手足に障害が残っておられます。ご本人が66歳のときです。現在75歳であられます。この本は、ご本人が73歳のときに書かれていて、7年間マヒした左足をひきずって生きてきたと記されています。
明日は我が身かもしれません。身につまされます。
自分の体験だと、だいたい48歳ぐらいから体が壊れ始めます。元に戻りません。目が見にくくなります。体の関節が傷んで(いたんで)、わたしの場合、右肩が抜けたような状態が10年ぐらい前からずーっと続いています。頚椎症(けいついしょう)の後遺症みたいなものだと思います。いちおう整形外科は受診しました。
歯や皮膚も傷みます。(いたみます)。耳も聞こえにくくなります。
脳みそは理解力が落ちます。相手が何かを話していることはわかるのですが、何を話しているのかがわからないことがあります。
下半身に神経痛のような痛みが走ります。今年初夏に坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)を患いました。(わずらいました)
全体的に右半身が悪くなっています。まだ使える左半身に頼りながら生活しています。指の先には湿り気がなくなり、本や新聞のページをめくることができません。
先日は、分別ごみをごみ集積場に出しに行ったとき、いっぱい落ちていたどんぐりを左足で踏んで、すってんころりとあおむけに転倒して、地面にお尻の左側を強く打ち付け、細い溝のコンクリート部分に右足のむこうずねをあてて、打撲(だぼく)とすりきずで、右足のすねに血がいっぱい出てしまいました。
歳をとるところびやすくなります。もう若い頃のように、無理がききません。自分の足元に何があるかよく注意して歩かねばと思い知らされました。
老齢者に、がんばれとか、あきらめるなとかいう言葉は禁句です。がんばったら死んじゃいます。
世の中では、高齢者の雇用延長とかの政策の話がありますが、どうしてそんな発想ができるのか不思議です。同世代ですでに病気で亡くなった人が何人もいます。
日本人全員が90歳ぐらいまで生きられるわけでないのです。東京国会議事堂付近で働いている人たちは、なにか、思い違いをされているのではなかろうか。73歳ぐらいで亡くなる方もけっこうおられます。余生を楽しめずに死んだら無念です。
余談が長くなってしまいました。
塩見三省さんは、脳内出血によって、自分の人生は中断せざるを得なくなったと記されています。
ただ、これで人生をすべてあきらめるわけにはいかない。
健康を失うことで、今まで見えていなかったことが見えるようになったということはあります。
やすらかに人生を終えたいのであれば、アルコールの大量飲酒はやめるべきだし、ニコチンもだめです。薬物依存もペケです。増えた体重はなかなか減ってはくれません。暴飲暴食はやめたほうがいい。体の健康も大事だし、心の健康も大事です。
塩見三省さんは、ドラマの共演者だった手術体験がある星野源さんに勧められて(2012年くも膜下出血(平成24年))、文章を書き始めたそうです。
書くことで、生きる希望が湧いてきたそうです。
iPad(アイパッド)で書くそうです。右手の人差し指一本で、一文字(ひともじ)ずつ打つそうです。脳みそは半分しか活動していないと書いてあります。書くことで、それまで白黒だった世界が、色彩のある世界に変わったそうです。
『第1章 私の病との闘い 「人生が中断する」ということ、立ち直るということ』
かなり重いお話を、力強く書かれています。
脳内出血後、左半身が動きません。感覚がないのに、痛みがあります。痛みは脳で感じているらしい。塩見三省さんの右脳で出血がありました。
世間から見捨てられたように、病院のベッドで、『「一匹の虫」となって横たわり……』とあります。
熊太郎も別の病気ですが似たような入院体験があります。自分が入院数日後に思ったのは、『ここにいちゃいけない』ということでした。なんというか、自分が人間のゴミに思えました。語弊(ごへい)があるのかもしれませんが、(ごへい:誤解を招きやすい言い方)、病院は人間として使えない状態になった人を収容するところだと感じました。だからがんばって、退院して社会復帰せねばならぬと思いつつも思うように体が動いてくれないのです。
あわせて、医療関係者もいい人ばかりではありません。へんな人やいやな感じがする人もいます。なんだか、弱者という患者の立場でいると、医療関係者が横柄(おうへい)で威張っているように見えたこともありました。弱い者いじめです。(叱られるかもしれませんが本音(ほんね)です)
塩見三省さんは、病院側と対立されています。病後の生活のしかたについてです。
これまでなじみ親しんできた和風の生活を、バリアフリーに近い洋風の生活に変えることが嫌です。
生まれて初めて長期入院されたそうです。珍しいと思いますがそういう人って多いのかなあ。
人間は一生のうち必ず一度は入院を体験すると思います。熊太郎は内臓が壊れて、二十代のころに長期入院の体験があります。
救急搬送され、治療後のご本人のショックは大きい。
鏡で自分の姿を見て、『誰なんだ、この男は……。』と思われたそうです。
感覚のない左手を右手でよいしょと持ち上げて体にのせる。
リアルなマヒのようすや、リハビリのようすが書いてあります。鬼気迫ります。(ききせまります:おそろしい。身の毛もよだつ(毛がさか立つ))
ほかの患者さんのことも少し書いてあります。
交通信号の色はわかるけれど、『赤』で止まり、『青』で進むということがわからない。
テレビの世界をあきらめる。(役者の出演者として)
激しくて強い記述内容です。ぐっと胸をつかまれた気持ちになります。周囲の人たちも含めた闘病記です。
孤立していきます。
車の運転をやめて車を処分する。
相撲(すもう)のテレビ中継が、心のなぐさめになる。
杖(つえ)をついて歩く。転倒して迷惑をかけて心ない言葉を浴びせられたことがあるそうです。女性誌や週刊誌の記者に隠し撮りをされて心外な記事を書かれたこともあるそうです。(しんがい:不本意。残念)(開きなおって、こそこそ隠し撮りなんかしないで、堂々とわたしを撮りなさい。インタビューに応じましょうという姿勢を見せてもいいのではないかと熊太郎は思いました)
不様:ぶざま。みっともない。醜態(しゅうたい)
力がこもった文章が続きます。
徐々にテレビに復帰されていきます。朝の番組とかドラマとか。映画とか。
負けじ魂(だましい)があります。人に恵まれています。
『第2章 病と共に生きるとは 記憶 私の走馬灯(そうまとう)』
生まれてからの思い出の記(き)です。
本をまだ最後まで読んではいませんが、今年読んで良かった一冊です。
京都府綾部市がふるさと。
1965年頃(昭和40年頃)のことが書いてあります。
まだ十代です。
1966年(昭和41年)で京都の同志社大学生。18歳です。
当時は学生運動で、大学は全国的に荒れていました。
熊太郎が中学の修学旅行で歩いた京都嵐山や嵯峨野などの風景が書いてあります。あのころ、今ほど観光地化されていなかったような覚えです。歴史を学ぶ土地でした。
東京に来てからのことが書いてあります。熊太郎が今年訪れた吉祥寺(きちじょうじ)とか三鷹のことが書いてあって親近感をもちました。
有名な人たちのお名前がたくさん出てきます。演劇人の人たちです。塩見三省さんは、まだ二十代です。
1985年(昭和60年)にお母上が死去されています。
1971年(昭和46年)にイギリスロンドンからシベリア鉄道を使って、日本の横浜まで帰国されています。すごいなあ。途中、原野のなかにあるシベリアの駅で置き去りになりそうになっておられます。置き去りにされていたら、死んでいたかもしれません。そのときご本人はまだ23歳です。命をつなぐためには、『運(うん)』がいります。
『第3章 あの人たちを想う いつまでも忘れないということ』
すでに亡くなられている方たちとの思い出話です。そして、いずれは、ご自身もそちらの世界へいくのだという流れのお話です。
もうずいぶん前の話もあります。この20年間ぐらいでおおぜいの芸能界の人たちが亡くなりました。自分も今年4年ぶりに開催された職場の同窓会で、この4年間に20人ぐらいの先輩たちが亡くなったことを知りました。
岸田今日子:2006年(平成18年)76歳没
文章が固いかなと感じます。リズムにのれない部分がある文章です。
役者さんのためか、セリフが入る文章で、脚本のような雰囲気の部分もあります。
つかこうへい:2010年(平成22年)62歳没
読んでいると、演劇人の人たちは、いい意味で、『演劇バカ』です。熱中しています。
だれのためにやるのか。自分たちのためにやる。表現する。自分たちの主張を表現する。
生涯現役で演技を続ける。
サラリーマンのように、9時から5時まで働く仕事ではない。いいかえれば、人生のすべての時間が役者という仕事の時間でもある。定年退職はない。
モドリ:悪人と思っていたが、実は善人だったという役柄
戯曲『熱海殺人事件』に関連した話として、宮崎勉の連続殺人事件:1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に起きた、4人の幼女・女児殺害事件。2008年死刑執行。45歳没
1980年代から90年代、2000年を過ぎても、ご本人は、がんがん働いておられます。
脳内出血を起こしたのは、働きすぎたからだろうか。
中村伸郎(なかむら・のぶお):1991年(平成3年)82歳没
別役実(べつやく・みのる):2020年(令和2年)82歳没
長岡輝子:2010年(平成22年)102歳没
ときおりページのあちこちに宮沢賢治の名前が出てきます。演劇人は、宮沢賢治作品から、いろいろ影響を受けているそうです。そういえば、この本の前に読んだ本『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』のページにも宮沢賢治さんの名前があった記憶です。
植木等:2007年(平成19年)80歳没
K君:演出家
自分が長生きしても、友だちがみんな先に逝ってしまって(いってしまって、亡くなって)、さみしいということはあります。
自分の体験だと、訃報(ふほう。死の知らせ)というものは、集団で発生します。同じ時代を生きた仲間が同じような時期に命尽きます。義父母の訃報を連絡したら、義父母の友人たちも最近亡くなったばかりだったというような体験があります。
大杉漣(おおすぎ・れん):塩見三省さんは、大杉さんを大杉さんの本名の『孝』で呼んでおられます。2018年(平成30年)66歳没
『第4章 この人たちと生きる 生きることへの支えとして』
第4章は、存命の方たちとの交流です。
岸部一徳さん:日本橋の三越の前で待ち合わせをされたそうです。熊太郎は今年10月に日本橋三越前を歩いたので親近感が湧きました。
長嶋茂雄さん:リハビリをする病院が同じだったそうです。お言葉が力強い。『シオミさん、どーってことないよ』と言わんばかりのポジティブシンキングだったそうです。
三池崇史さん:映画監督の方です。
岩井俊二さん:同じく映画監督さんです。
ドンゴロスの背景:南京袋模様(もよう)の背景ということだろうか。
182ページまで読んできて、奥さんのことが出てこないことが不思議です。
たとえば、医療保険とか、介護保険とか、身体障害者制度の利用とか、衣食住の生活を送るうえで、避けて通れない手続きがあります。ご本人が自力でできることではありませんから、奥さんがたくさんの事務をなさっていたのでしょう。(本の後半247ページ「後書きとして…」で、ようやく奥さんへの感謝の言葉が出てきました)
細かく言うと、入院されていましたから、高額療養費の還付手続きとか、バリアフリーの部屋にするための介護保険を使った住宅改修とか、補装具や日常生活用具や手当を求める身体障害者手帳の申請とか、障害年金の手続きもあったかもしれません。医療・介護・年金制度に関する手続きが、いろいろあります。きっと奥さんがてんてこまいで手続きをされたのでしょう。ゆえに、ご本人は、もっと奥さんにお礼を言われたほうがいいと思います。最大の恩人は奥さんです。奥さんの貢献度は高い。
本全体を読み終えて感じたことです。
ご本人も含めて、まわりにいる方々も、演劇人の人たちは、少年、少女なのです。
十代の意識のまま、舞台や映画やドラマづくりにすべての力を注いでいる人たちです。
ゆえに、実社会での日常生活のにおいがしません。
特殊な世界です。そういう箱の中で人生を送られている。
虚構をつくる世界です。
演技で観ている人たちの心理を操作して感動してもらいます。
人に喜んでもらって収入を得ます。
マヒして動かなくなった左手の上に子役さんの小さな手が重なるシーンを撮影して映画ができあがる。祖父と孫の役柄です。動かない左手が感動を生む素材になります。
萩原健一(はぎわら・けんいち):2019年(平成31年)68歳没
ドライ、ランスルー:ドライは、カメラなしの最初から最後までのリハーサル。ランスルーは、本番どおりの通し稽古(けいこ)。最終確認。
『第5章 夕暮れ時が一番好きだ 気持ちが良いのは少し寂しいくらいの時でもある』
病牀六尺(びょうしょうろくしゃく):正岡子規(まさおか・しき)の随筆集。病床にある著者の所感(しょかん。感想)1902年(明治35年)発表
役者の卵が障害者の役を演じるために障害者の動きを病院へ見学に来る。障害者にとっては、うれしいことではありません。
役者であるご本人に怒りが生まれています。
路線バスに乗ることが好き。奥さんと乗る。高い席から景色を見渡すのが好き。
東京ビッグサイトまで、行って帰っての半日バス旅が楽しみ。
元気なころは、海外旅行にも行かれて、バイクにも乗られて、そんな思い出話があります。
東京の街は、1980年代から(昭和55年)ずいぶん変化した。都市化が進んだ。思うに地方都市でもその頃は原野が広がる景色がありました。今はビルばかりです。
ふたつのことを同時にできなくなった。
歩きながら話すことができない。
読んでいると車いすの障害者になられた詩画作家星野富弘さんの本に書いてあったご本人の語りに似ていると感じます。『克服』があります。
『第6章 静寂と修羅(しゅら) 北野武監督 生き残るということ』
映画監督北野武さんに敬意を表されています。尊敬の気持ちがとても強い。
作品『アウトレイジ ビヨンド』等への出演があります。
左半身不随後も映画出演のために目標をつくって努力する姿があります。リハビリです。
原稿を書き終えたらしき日付は、『2021年5月』(令和3年)となっています。
この本をつくるきっかけとなった小説家髙田郁(たかだ・かおる)さんの解説が最後にあります。
ご自身の作品『銀二貫』のテレビドラマ化で、塩見三省さんに出演してもらったそうです。
2014年2月3日、まだ、塩見三省さんがご病気になる前にお母さんといっしょに面談されたそうです。翌月である3月19日に、塩見三省さんは脳出血で倒れられています。
日記を書くことで慰められる。
先日読んだ『さみしい夜にはペンを持て 古賀史健(こが・ふみたけ) 絵・ならの ポプラ社』を思い出しました。ペンを持って日記を書くのです。学校に行きたくない中学生男子が、日記に救われます。
いい文章です。
『本は寡黙(かもく。言葉数が少ない)で、そして雄弁です。手に取って開かない限り、語りかけてはこない……』
(追記 2023年12月18日月曜日夜のこと)
たまたまテレビ番組表を見ていたら、塩見三省さんがゲストで登場している番組を放映していたので見ました。
NHKEテレの番組で、『ハートネットTV 私のリカバリー』というテーマでした。
放送を見ながら、自分がその時座っていた椅子の後ろにある本棚にこちらの本があり、本の40ページあたりに書いてある女子大生の入院患者さんと彼女のお母さんの話題がテレビで紹介されていました。縁を感じました。
今年4月以降、NHKBSの再放送で、『あまちゃん』を見ていました。塩見三省さんは、岩手県三陸を舞台にして、小田勉さん(べんさん)を演じておられました。琥珀(こはく)をいつも大事そうに磨いておられました。
熊太郎『塩見三省さんは病気になって亡くなったねーー』
熊太郎の妻『そうだね。お気の毒だったねぇ』
調べたら塩見三省さんはご存命でした。失礼しました。
申し訳ないというお詫びの気持ちもこめて、塩見三省さんのエッセイ集を読み始めます。
2014年(平成26年)3月19日、病院に救急搬送されています。脳内出血です。左半身まひで、手足に障害が残っておられます。ご本人が66歳のときです。現在75歳であられます。この本は、ご本人が73歳のときに書かれていて、7年間マヒした左足をひきずって生きてきたと記されています。
明日は我が身かもしれません。身につまされます。
自分の体験だと、だいたい48歳ぐらいから体が壊れ始めます。元に戻りません。目が見にくくなります。体の関節が傷んで(いたんで)、わたしの場合、右肩が抜けたような状態が10年ぐらい前からずーっと続いています。頚椎症(けいついしょう)の後遺症みたいなものだと思います。いちおう整形外科は受診しました。
歯や皮膚も傷みます。(いたみます)。耳も聞こえにくくなります。
脳みそは理解力が落ちます。相手が何かを話していることはわかるのですが、何を話しているのかがわからないことがあります。
下半身に神経痛のような痛みが走ります。今年初夏に坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)を患いました。(わずらいました)
全体的に右半身が悪くなっています。まだ使える左半身に頼りながら生活しています。指の先には湿り気がなくなり、本や新聞のページをめくることができません。
先日は、分別ごみをごみ集積場に出しに行ったとき、いっぱい落ちていたどんぐりを左足で踏んで、すってんころりとあおむけに転倒して、地面にお尻の左側を強く打ち付け、細い溝のコンクリート部分に右足のむこうずねをあてて、打撲(だぼく)とすりきずで、右足のすねに血がいっぱい出てしまいました。
歳をとるところびやすくなります。もう若い頃のように、無理がききません。自分の足元に何があるかよく注意して歩かねばと思い知らされました。
老齢者に、がんばれとか、あきらめるなとかいう言葉は禁句です。がんばったら死んじゃいます。
世の中では、高齢者の雇用延長とかの政策の話がありますが、どうしてそんな発想ができるのか不思議です。同世代ですでに病気で亡くなった人が何人もいます。
日本人全員が90歳ぐらいまで生きられるわけでないのです。東京国会議事堂付近で働いている人たちは、なにか、思い違いをされているのではなかろうか。73歳ぐらいで亡くなる方もけっこうおられます。余生を楽しめずに死んだら無念です。
余談が長くなってしまいました。
塩見三省さんは、脳内出血によって、自分の人生は中断せざるを得なくなったと記されています。
ただ、これで人生をすべてあきらめるわけにはいかない。
健康を失うことで、今まで見えていなかったことが見えるようになったということはあります。
やすらかに人生を終えたいのであれば、アルコールの大量飲酒はやめるべきだし、ニコチンもだめです。薬物依存もペケです。増えた体重はなかなか減ってはくれません。暴飲暴食はやめたほうがいい。体の健康も大事だし、心の健康も大事です。
塩見三省さんは、ドラマの共演者だった手術体験がある星野源さんに勧められて(2012年くも膜下出血(平成24年))、文章を書き始めたそうです。
書くことで、生きる希望が湧いてきたそうです。
iPad(アイパッド)で書くそうです。右手の人差し指一本で、一文字(ひともじ)ずつ打つそうです。脳みそは半分しか活動していないと書いてあります。書くことで、それまで白黒だった世界が、色彩のある世界に変わったそうです。
『第1章 私の病との闘い 「人生が中断する」ということ、立ち直るということ』
かなり重いお話を、力強く書かれています。
脳内出血後、左半身が動きません。感覚がないのに、痛みがあります。痛みは脳で感じているらしい。塩見三省さんの右脳で出血がありました。
世間から見捨てられたように、病院のベッドで、『「一匹の虫」となって横たわり……』とあります。
熊太郎も別の病気ですが似たような入院体験があります。自分が入院数日後に思ったのは、『ここにいちゃいけない』ということでした。なんというか、自分が人間のゴミに思えました。語弊(ごへい)があるのかもしれませんが、(ごへい:誤解を招きやすい言い方)、病院は人間として使えない状態になった人を収容するところだと感じました。だからがんばって、退院して社会復帰せねばならぬと思いつつも思うように体が動いてくれないのです。
あわせて、医療関係者もいい人ばかりではありません。へんな人やいやな感じがする人もいます。なんだか、弱者という患者の立場でいると、医療関係者が横柄(おうへい)で威張っているように見えたこともありました。弱い者いじめです。(叱られるかもしれませんが本音(ほんね)です)
塩見三省さんは、病院側と対立されています。病後の生活のしかたについてです。
これまでなじみ親しんできた和風の生活を、バリアフリーに近い洋風の生活に変えることが嫌です。
生まれて初めて長期入院されたそうです。珍しいと思いますがそういう人って多いのかなあ。
人間は一生のうち必ず一度は入院を体験すると思います。熊太郎は内臓が壊れて、二十代のころに長期入院の体験があります。
救急搬送され、治療後のご本人のショックは大きい。
鏡で自分の姿を見て、『誰なんだ、この男は……。』と思われたそうです。
感覚のない左手を右手でよいしょと持ち上げて体にのせる。
リアルなマヒのようすや、リハビリのようすが書いてあります。鬼気迫ります。(ききせまります:おそろしい。身の毛もよだつ(毛がさか立つ))
ほかの患者さんのことも少し書いてあります。
交通信号の色はわかるけれど、『赤』で止まり、『青』で進むということがわからない。
テレビの世界をあきらめる。(役者の出演者として)
激しくて強い記述内容です。ぐっと胸をつかまれた気持ちになります。周囲の人たちも含めた闘病記です。
孤立していきます。
車の運転をやめて車を処分する。
相撲(すもう)のテレビ中継が、心のなぐさめになる。
杖(つえ)をついて歩く。転倒して迷惑をかけて心ない言葉を浴びせられたことがあるそうです。女性誌や週刊誌の記者に隠し撮りをされて心外な記事を書かれたこともあるそうです。(しんがい:不本意。残念)(開きなおって、こそこそ隠し撮りなんかしないで、堂々とわたしを撮りなさい。インタビューに応じましょうという姿勢を見せてもいいのではないかと熊太郎は思いました)
不様:ぶざま。みっともない。醜態(しゅうたい)
力がこもった文章が続きます。
徐々にテレビに復帰されていきます。朝の番組とかドラマとか。映画とか。
負けじ魂(だましい)があります。人に恵まれています。
『第2章 病と共に生きるとは 記憶 私の走馬灯(そうまとう)』
生まれてからの思い出の記(き)です。
本をまだ最後まで読んではいませんが、今年読んで良かった一冊です。
京都府綾部市がふるさと。
1965年頃(昭和40年頃)のことが書いてあります。
まだ十代です。
1966年(昭和41年)で京都の同志社大学生。18歳です。
当時は学生運動で、大学は全国的に荒れていました。
熊太郎が中学の修学旅行で歩いた京都嵐山や嵯峨野などの風景が書いてあります。あのころ、今ほど観光地化されていなかったような覚えです。歴史を学ぶ土地でした。
東京に来てからのことが書いてあります。熊太郎が今年訪れた吉祥寺(きちじょうじ)とか三鷹のことが書いてあって親近感をもちました。
有名な人たちのお名前がたくさん出てきます。演劇人の人たちです。塩見三省さんは、まだ二十代です。
1985年(昭和60年)にお母上が死去されています。
1971年(昭和46年)にイギリスロンドンからシベリア鉄道を使って、日本の横浜まで帰国されています。すごいなあ。途中、原野のなかにあるシベリアの駅で置き去りになりそうになっておられます。置き去りにされていたら、死んでいたかもしれません。そのときご本人はまだ23歳です。命をつなぐためには、『運(うん)』がいります。
『第3章 あの人たちを想う いつまでも忘れないということ』
すでに亡くなられている方たちとの思い出話です。そして、いずれは、ご自身もそちらの世界へいくのだという流れのお話です。
もうずいぶん前の話もあります。この20年間ぐらいでおおぜいの芸能界の人たちが亡くなりました。自分も今年4年ぶりに開催された職場の同窓会で、この4年間に20人ぐらいの先輩たちが亡くなったことを知りました。
岸田今日子:2006年(平成18年)76歳没
文章が固いかなと感じます。リズムにのれない部分がある文章です。
役者さんのためか、セリフが入る文章で、脚本のような雰囲気の部分もあります。
つかこうへい:2010年(平成22年)62歳没
読んでいると、演劇人の人たちは、いい意味で、『演劇バカ』です。熱中しています。
だれのためにやるのか。自分たちのためにやる。表現する。自分たちの主張を表現する。
生涯現役で演技を続ける。
サラリーマンのように、9時から5時まで働く仕事ではない。いいかえれば、人生のすべての時間が役者という仕事の時間でもある。定年退職はない。
モドリ:悪人と思っていたが、実は善人だったという役柄
戯曲『熱海殺人事件』に関連した話として、宮崎勉の連続殺人事件:1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に起きた、4人の幼女・女児殺害事件。2008年死刑執行。45歳没
1980年代から90年代、2000年を過ぎても、ご本人は、がんがん働いておられます。
脳内出血を起こしたのは、働きすぎたからだろうか。
中村伸郎(なかむら・のぶお):1991年(平成3年)82歳没
別役実(べつやく・みのる):2020年(令和2年)82歳没
長岡輝子:2010年(平成22年)102歳没
ときおりページのあちこちに宮沢賢治の名前が出てきます。演劇人は、宮沢賢治作品から、いろいろ影響を受けているそうです。そういえば、この本の前に読んだ本『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』のページにも宮沢賢治さんの名前があった記憶です。
植木等:2007年(平成19年)80歳没
K君:演出家
自分が長生きしても、友だちがみんな先に逝ってしまって(いってしまって、亡くなって)、さみしいということはあります。
自分の体験だと、訃報(ふほう。死の知らせ)というものは、集団で発生します。同じ時代を生きた仲間が同じような時期に命尽きます。義父母の訃報を連絡したら、義父母の友人たちも最近亡くなったばかりだったというような体験があります。
大杉漣(おおすぎ・れん):塩見三省さんは、大杉さんを大杉さんの本名の『孝』で呼んでおられます。2018年(平成30年)66歳没
『第4章 この人たちと生きる 生きることへの支えとして』
第4章は、存命の方たちとの交流です。
岸部一徳さん:日本橋の三越の前で待ち合わせをされたそうです。熊太郎は今年10月に日本橋三越前を歩いたので親近感が湧きました。
長嶋茂雄さん:リハビリをする病院が同じだったそうです。お言葉が力強い。『シオミさん、どーってことないよ』と言わんばかりのポジティブシンキングだったそうです。
三池崇史さん:映画監督の方です。
岩井俊二さん:同じく映画監督さんです。
ドンゴロスの背景:南京袋模様(もよう)の背景ということだろうか。
182ページまで読んできて、奥さんのことが出てこないことが不思議です。
たとえば、医療保険とか、介護保険とか、身体障害者制度の利用とか、衣食住の生活を送るうえで、避けて通れない手続きがあります。ご本人が自力でできることではありませんから、奥さんがたくさんの事務をなさっていたのでしょう。(本の後半247ページ「後書きとして…」で、ようやく奥さんへの感謝の言葉が出てきました)
細かく言うと、入院されていましたから、高額療養費の還付手続きとか、バリアフリーの部屋にするための介護保険を使った住宅改修とか、補装具や日常生活用具や手当を求める身体障害者手帳の申請とか、障害年金の手続きもあったかもしれません。医療・介護・年金制度に関する手続きが、いろいろあります。きっと奥さんがてんてこまいで手続きをされたのでしょう。ゆえに、ご本人は、もっと奥さんにお礼を言われたほうがいいと思います。最大の恩人は奥さんです。奥さんの貢献度は高い。
本全体を読み終えて感じたことです。
ご本人も含めて、まわりにいる方々も、演劇人の人たちは、少年、少女なのです。
十代の意識のまま、舞台や映画やドラマづくりにすべての力を注いでいる人たちです。
ゆえに、実社会での日常生活のにおいがしません。
特殊な世界です。そういう箱の中で人生を送られている。
虚構をつくる世界です。
演技で観ている人たちの心理を操作して感動してもらいます。
人に喜んでもらって収入を得ます。
マヒして動かなくなった左手の上に子役さんの小さな手が重なるシーンを撮影して映画ができあがる。祖父と孫の役柄です。動かない左手が感動を生む素材になります。
萩原健一(はぎわら・けんいち):2019年(平成31年)68歳没
ドライ、ランスルー:ドライは、カメラなしの最初から最後までのリハーサル。ランスルーは、本番どおりの通し稽古(けいこ)。最終確認。
『第5章 夕暮れ時が一番好きだ 気持ちが良いのは少し寂しいくらいの時でもある』
病牀六尺(びょうしょうろくしゃく):正岡子規(まさおか・しき)の随筆集。病床にある著者の所感(しょかん。感想)1902年(明治35年)発表
役者の卵が障害者の役を演じるために障害者の動きを病院へ見学に来る。障害者にとっては、うれしいことではありません。
役者であるご本人に怒りが生まれています。
路線バスに乗ることが好き。奥さんと乗る。高い席から景色を見渡すのが好き。
東京ビッグサイトまで、行って帰っての半日バス旅が楽しみ。
元気なころは、海外旅行にも行かれて、バイクにも乗られて、そんな思い出話があります。
東京の街は、1980年代から(昭和55年)ずいぶん変化した。都市化が進んだ。思うに地方都市でもその頃は原野が広がる景色がありました。今はビルばかりです。
ふたつのことを同時にできなくなった。
歩きながら話すことができない。
読んでいると車いすの障害者になられた詩画作家星野富弘さんの本に書いてあったご本人の語りに似ていると感じます。『克服』があります。
『第6章 静寂と修羅(しゅら) 北野武監督 生き残るということ』
映画監督北野武さんに敬意を表されています。尊敬の気持ちがとても強い。
作品『アウトレイジ ビヨンド』等への出演があります。
左半身不随後も映画出演のために目標をつくって努力する姿があります。リハビリです。
原稿を書き終えたらしき日付は、『2021年5月』(令和3年)となっています。
この本をつくるきっかけとなった小説家髙田郁(たかだ・かおる)さんの解説が最後にあります。
ご自身の作品『銀二貫』のテレビドラマ化で、塩見三省さんに出演してもらったそうです。
2014年2月3日、まだ、塩見三省さんがご病気になる前にお母さんといっしょに面談されたそうです。翌月である3月19日に、塩見三省さんは脳出血で倒れられています。
日記を書くことで慰められる。
先日読んだ『さみしい夜にはペンを持て 古賀史健(こが・ふみたけ) 絵・ならの ポプラ社』を思い出しました。ペンを持って日記を書くのです。学校に行きたくない中学生男子が、日記に救われます。
いい文章です。
『本は寡黙(かもく。言葉数が少ない)で、そして雄弁です。手に取って開かない限り、語りかけてはこない……』
(追記 2023年12月18日月曜日夜のこと)
たまたまテレビ番組表を見ていたら、塩見三省さんがゲストで登場している番組を放映していたので見ました。
NHKEテレの番組で、『ハートネットTV 私のリカバリー』というテーマでした。
放送を見ながら、自分がその時座っていた椅子の後ろにある本棚にこちらの本があり、本の40ページあたりに書いてある女子大生の入院患者さんと彼女のお母さんの話題がテレビで紹介されていました。縁を感じました。
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