2019年05月17日

アンネ・フランク 加藤純子

アンネ・フランク 加藤純子 ポプラ社

 この本では、ふたつのことがひとつになっています。
 右開きにすると「アンネ・フランク」の日記です。
 左開きにすると「アンネ・フランクのものしりガイド」です。ものしりガイドから読みました。
 アンネ・フランク、ドイツフランクフルト生まれ、オランダアムステルダム育ち、ユダヤ人、1929年生まれ(昭和4年)今生きていたら90歳ぐらい、ドイツのユダヤ人強制収容所において、15歳と9か月で、発疹チフス(ほっしんちふす。細菌感染症。発熱、頭痛、悪寒、筋肉痛、かゆみ、水ほう)のために亡くなっています。
 80年ぐらい前の出来事です。第二次世界大戦がありました。ドイツ軍はユダヤ人を敵視して、収容所に集めてガス室に閉じ込めて大量に虐殺しました。大がかりないじめや虐待のようです。
 ユダヤ人が差別される理由は、宗教をからめて、歴史的な背景があるということですが、日本人の私にはよくわかりません。イエス・キリストを裏切ったのがユダヤ教の関係する人間なのかなと思っています。それにしても、現代人とは関係のないことだとは思うのですが、そこのところが日本人には理解しにくい。本人の個性とか素行が原因で差別されるのではなく、「ユダヤ人」だから差別される。ひどい話で理屈に合いません。
 アンネ・フランクは13歳から2年間日記を書きました。15歳で死んでしまってかわいそうです。殺されたのです。戦争反対、差別禁止と言いたくなります。
 隠れ家は、会社兼住宅、レンガ造り。家族や関係者とともに8人で隠れていました。隠れることに協力してくれたユダヤ人以外の人たちがいました。オランダで、当時隠れていた人たちは2万5000人ぐらいで、9000人ぐらいは捕まって収容所へ送られたそうです。たいへん多い数です。
 アンネ・フランクは将来、作家・ジャーナリストになりたかったそうです。夢の実現は絶たれてしまいました。そのなかで、「アンネの日記」が出版され語り継がれるようになったのは、生き残った彼女のお父さんの執念だと思います。アンネは、日記以外にも童話をつくっていたそうです。お父さんは1980年に91歳で亡くなっているそうです。早くに亡くなった人の分も長生きして悲惨な大量虐殺反対のための伝承に努められたのでしょう。
 彼女が残した言葉で印象に残ったのは、「人と話したい」です。人間が生きていくために必要なものは、水と空気、そして、コミュニケーションと習ったことがあります。
 杉浦千畝(すぎうら・ちうね)さんもオスカー・シンドラーも考えてみれば、当時のルール違反です。されど、ルールって、なんのためにあるのだろうと考えさせられます。その時の権力者を守るために権力者がつくったもの。ルールは、みんなの幸せのためであってほしい。
 オランダまでは、なかなか行けないので、ネット上で、アンネ・フランクハウスのたくさんの写真を見ました。大きな本箱の向こうに隠し部屋がありました。部屋は今もきれいに保存されています。

 次に右見開きの物語を読み始めました。アンネの日記というわけではなく、アンネ自身の生い立ちをたどりながら日記の記録を少し記載して、収容所でペスト菌に感染して亡くなるまでのことについて書いてあります。
 せっかく生まれてきたのに、なんのために生きているんだろう。アンネは人格者というわけではありません。がんこなところもあるようです。日本でいうところの普通の中学生女子です。いいところ、そうでないところ、だれしもそうですが、二面性があります。
 父がいて、母がいて、3歳年上の姉がいます。ドイツフランクフルトの人口54万人のうちの3万人がユダヤ教を信仰するユダヤ人です。
 ユダヤ人攻撃にあって、ドイツからオランダに移動します。オランダときいても詳しくありません。鎖国のときの貿易相手国、ハウステンボスとか、親日家が多いとか、スピードスケートが強い、チューリップ、水車小屋ぐらいしか思い浮かびません。農業国のイメージがあります。人口1648万人。
 ユダヤ人と知らないからみんなが仲良くしてくれる。ユダヤ人として生まれる。ユダ人として生きる。ユダヤ人の人は、人生で必ずその重要な課題にぶちあたるのでしょう。
 「ダビデの黄色い星」、日本は「日の丸」
 シシー・ファン・マルクスフェイトが書いた物語『ヨープ・テル・ヘール』に出てくる女の子キティにあてて日記を書く。『キティさま』の出だしは、ドラマ北の国からの小学生男子黒板純くんの『拝啓、恵子ちゃん』のフレーズを思い出します。2年2か月間の日記です。1942年6月12日-1944年8月1日。
 早く戦争が終われば良かったのに。間に合いませんでした。残念です。
 かくまってくれた協力者、たくさんいます。アンネフランクファミリー関係者だけではありません。隠すのも命がけです。人間ってすごいという迫力を感じます。
 ペットと別れ、友だちと別れ、母親と別れ、父親と別れる。
 隠れ家は粗末な屋根裏と思っていましたが、構造は豪華です。そして、みなさん、お金持ちです。
 隠れ家という狭い空間のなかの人間同士の衝突があります。やむを得ません。それも、もう、みんな死んでしまいました。
 かくまった人たちも、そのときの「ルールは守らない」人たちでした。守らないルール、守れないルールってなんだろう。ルールの意味がない。
 日記を書く。文字を書くことで、気持ちが救われるということはあります。折れそうな心が折れずにすむこともあります。
 かくれていた期間は2年1か月。見つかってしまうまでに、2年1か月。気のゆるみをともなった慣れはやはり禁物です。隠れ家への扉への施錠をしない習慣がついていました。ドイツ軍に見つかってしまいました。
 オランダ国内の収容所から、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所へ、そこで、母を亡くし、アンネと姉は、ドイツ・ベルゲンベルゼン収容所へ移送されました。

 調べた言葉などとして、「マロニエの木:セイヨウトチノキ。白や赤い花の固まり」

 自分なりに考えたこととして、「標準化されない違うこと」を差別しない。  

Posted by 熊太郎 at 06:05Comments(0)TrackBack(0)読書感想文