2021年11月10日
ドラエもん 第1巻から第5巻 藤子・F・不二雄
ドラエもん 第1巻から第5巻 藤子・F・不二雄 てんとう虫コミックス 小学館
孫のうちのひとりが、ひらがなを読める年齢になりました。
最近は、ポケモンの四コマ漫画を読んで笑っています。
クリスマスプレゼントにしようと、この5冊を駅ビルの中にある書店で購入しました。
まずは、自分が読んでみます。
1974年(昭和49年)初版の本です。当時の自分は、ドラえもんを読むような年齢を過ぎていたので、この本を読むのは初めてです。テレビ漫画はちらりと見たことはありますが詳しくは知りません。
書店の棚に同作者の作品『パーマン』(1967年昭和42年発表)があってなつかしかった。テレビマンガを熱心に見ていました。マントをつけて空中を飛んでというスーパーマンの模倣(もほう。真似まね)ですが、チンパンジーのパーマン2号が出てきてという展開で楽しみました。
藤子・F・不二雄:二名の合体ペンネーム。藤本弘さん(1996年。62歳病死。児童・少年向け漫画志向。ギャグが好み)と安孫子元雄さん(あびこ・もとお)87歳。(青年・大人向け漫画志向。ブラックユーモアが得意)1987年(昭和62年)にコンビを円満解消。
セワシくん:のび太の孫の孫。セワシくんからみてのび太は、おじいさんのおじいさん。
セワシくんが、頼りないのび太のために、未来からドラえもんを派遣したというきっかけで始まりました。
おもしろいです。
1974年ののび太には、未来があります。
2021年になった今、歳をとった自分にはもう未来はありません。のび太の未来は、わたしにとっては過去です。だからといって、特段、悔いはありません。先日、義父の葬儀で焼香のときに手を合わせる孫たちの後姿を見て、この世に子と孫を残せて良かったとしみじみしました。
未来がわかるマンガです。
ふと同作者の『オバケのQ太郎』を思い出しました。小さいころ、熱心にテレビマンガを見ていました。横山光輝作品『鉄人28号』も思い出しました。大好きでした。物忘れが多くなった最近ですが、消えていた記憶が戻って来て嬉しい。
自分の記憶にある最初に読んだマンガは、少年が100万円を貯めるというものでした。最初は10円ぐらいから始まって、『わらしべ長者』のようにだんだんお金が増えていくのでした。
自分が幼児の頃は、まだ、50銭という単位が通用していて(50銭硬貨は使用できなかった)、駄菓子屋に1円を持って行くと、50銭の小さな菓子が2個買えました。
本の絵が優しい。
戦国時代の合戦の絵には勢いがあります。
『タケコプター』『とうめいマント』『スーパーてぶくろ』『アンキパン』
昔は未来への夢がありました。
生活が不便だった時のほうが、未来への夢がありました。
のび太のパパとママの結婚を決めた日のマンガがいい。
昭和34年11月3日に公園で決まったそうです。1959年のことです。
そして、12回目の結婚記念日を迎えるそうです。
すったもんだがありますが、『どっちでもいいじゃない』『いまぼくたちはしあわせなんだから、それでじゅうぶんさ』というご夫婦の会話にいやされます。縁があった男女が人生の最後まで寄り添いあうということは、なかなかむずかしいときもあるからです。
アラジンと魔法のランプのようなシーンもあります。『発想』は世界中で『共有』したほうがいい。模倣から新しい発想が生まれます。
のび太は小学三年生だろうか。(あとで、小学四年生10歳と判明します。昭和39年8月7日生まれだそうです)
『アンキパン』を食べたら暗記できるけれど、うんこをしたら記憶が消えてしまうというオチに笑いました。
こどもさん向けのマンガでは、妖怪、幽霊、恐竜が出てくることが定番です。
どうしてなのかは、わかりません。
自然との『共存』というメッセージもあります。
ふたりは、のび太が生まれた日にタイムトラベルをします。
あかちゃんが生まれて喜ぶ両親の姿があります。
のび太は親の喜びようを知ります。
のび太は、勉強をがんばろうと思います。
しずかちゃんが可愛くて優しい。
男性から見ると母親のような存在にも見えて、母性を慕う男性の心理があります。
4巻では、「スケスケ望遠鏡」という道具で、ちらりとしずかちゃんの入浴シーンが出るのも少年のすけべ心を充足させてくれます。
自分の未来を知りたいけれど、知ったら、これからのことがつまらなくなってしまいます。
タブー(禁止)を設けない発想です。
『定期預金を預けると十年で倍の金額になる』
確かにそういう時代がありました。
中学生の時に親から教わりました。
今は、何十万円も預けても数円しか利子がつかない時代になりました。
なつかしい。
マンガでは、新札、旧札の話も出ます。このマンガが描かれて以降、長い間に新しい紙幣や硬貨がたくさんできました。
第二次世界大戦のこと、学童疎開のことがマンガの素材として出てきます。今ではそういう傾向はなくなりました。
半世紀たつと人間が入れ替わります。新しい人間は過去の苦しみを体験したことがないので、戦争の怖さを知りません。
勉強よりもお金よりも、まず生きていなければなりません。
マンガの世界の中では、ドラえもんがのび太に優しい。ふたりの友情があります。
『のろいのカメラ』には、ブラックユーモアがあります。のび太をいじめるとドラえもんから怒られます。
4巻の53ページにある海底の断面図は勉強になります。
二十年前の空き地の絵があります。
同じ地域に何十年間も住んでいると、昔の風景を記憶しているので、時代の変化がわかります。半世紀ぐらい前、原野だったところが、今は、ビルや家屋の密集地帯で、道路が縦横に伸びています。
人間生活の発展とともに、動植物の自然は消えていきました。先日NHKで地球温暖化が危険だという特集番組を見ました。60年前の不便だった生活に戻れば自然破壊はストップすると思ったのです。
『月ぷ(げっぷ。毎月返済のローン)』という言葉は死語になってしまいました。
自分が幼児だった頃、家にあったテレビがなくなったので、どうしてかと父親に聞いたら「月ぷが払えなかったので、電気屋が来て、テレビをもっていかれた」と情けない答えが返ってきたことを、半世紀以上たった今も覚えています。
『世界沈没』という言葉が出てきます。小松左京作品『日本沈没』は1973年(昭和48年)ですから、関連があるかもしれません。
ノアの方舟(はこぶね)のような展開のストーリーでした。自分は長い間勘違いをしていたのですが、方舟(はこぶね)というのは、箱舟で、箱の中に生き物たちがいて、どこか目的地へ向かっていくわけではなくて、そこに浮いてただよっているだけということを、洋画を見て理解しました。
いつもラーメンを食べている「小池さん」というキャラクターが出てきます。オバケのQ太郎に出てくる人だと思っていました。ドラえもんにも登場されています。
『ヤカンレコーダー』では、中学生のときに電気店で母親にテープレコーダーを買ってもらったシーンが脳裏によみがえりました。とても欲しかった。英会話の勉強をするからと母親を説得した覚えがあります。当時はやっていた流行歌とかフォークソングばかりを録音して楽しんでいました。
もう今では、古いタイプのテープレコーダーも見かけなくなりました。そういえば、ワープロも見なくなりました。あんなに毎日のように使ったフロッピーディスクも記憶から消えていました。
のび太が幼稚園のときに亡くなったおばあちゃんのお話にはほろりときました。
あのころはまだ長生きのお年寄りが少なかった。
今では、ひ孫を見ることができるようになりました。
「宿題」のことが出てきます。
どういうわけか、のび太の宿題をドラえもんが一生懸命やります。ドラえもんが勉強ができるというわけではなく、ドラえもんも四苦八苦しながら宿題問題を解いています。ドラえもんは疲れ果てています。
宿題を教えるという作業はとてもむずかしい。教わる方はちゃんと聞いていないし、聞いても理解できていないことのほうが多い。教えるほうは腹が立ってきます。解けないないなら解けないで、やったけれど、解けませんでしたではいけないのだろうか。
「貧しさ」と「優しさ」が同居しています。当時は貧しい家が多かった。現代の貧困とはようすが異なりますが、みんな同程度に貧乏でした。
クリスマスパーティのお話です。道具は『重力ペンキ』です。あばら谷(あばらや)くんの家でクリスマスパーティをすることになりましたが、家が狭くて人が入りきりません。無重力にして、壁や天井でも過ごせるようにして楽しみました。
ドラミちゃんがかわいい。
『ゾウとおじさん』は、戦争のお話です。
動物園のゾウが毒殺されそうです。
戦後全国各地から生き残っていたゾウを見るためにこどもたちを乗せた列車がやってきたという東山動物園が関係するゾウ列車のお話を思い出しました。
(その後、気づいたこと)
タイトル表記「ドラえもん」は「ドラエもん」だと、これまで長い間勘違いしていたことに気づきました。
ショックでした。
上記の文章のタイトルは、自分で意識して、「ドラエ」とカタカナで打ち、「もん」をつけ足しました。
文章中の「ドラえもん」は自動変換を利用したので間違っていません。
ドラえもんが好きな、ドラ焼きの「どら」と、主に江戸時代の武士が使用した「(右)衛門」が合体しているのでしょう。
間違って思い込んで、間違いに気づけずに歳をとっているということがあるのでしょう。
加齢によって、これまで見えていたものが見えなくなってきています。
先日は、古くなって買い替えた新しい家庭用電話機の子機にある「保留」ボタンが見つからなくておろおろしました。以前の子機は、左下端に「保留」ボタンがありました。新しい子機には、右上端に「保留」ボタンがありました。
目の前にあるのに見えないということが多くなってきました。視力で見えるとか見えないということもあるのですが、加えて、脳の理解力、認識力が少しずつ低下しているようです。老いていくことを実感しています。
孫のうちのひとりが、ひらがなを読める年齢になりました。
最近は、ポケモンの四コマ漫画を読んで笑っています。
クリスマスプレゼントにしようと、この5冊を駅ビルの中にある書店で購入しました。
まずは、自分が読んでみます。
1974年(昭和49年)初版の本です。当時の自分は、ドラえもんを読むような年齢を過ぎていたので、この本を読むのは初めてです。テレビ漫画はちらりと見たことはありますが詳しくは知りません。
書店の棚に同作者の作品『パーマン』(1967年昭和42年発表)があってなつかしかった。テレビマンガを熱心に見ていました。マントをつけて空中を飛んでというスーパーマンの模倣(もほう。真似まね)ですが、チンパンジーのパーマン2号が出てきてという展開で楽しみました。
藤子・F・不二雄:二名の合体ペンネーム。藤本弘さん(1996年。62歳病死。児童・少年向け漫画志向。ギャグが好み)と安孫子元雄さん(あびこ・もとお)87歳。(青年・大人向け漫画志向。ブラックユーモアが得意)1987年(昭和62年)にコンビを円満解消。
セワシくん:のび太の孫の孫。セワシくんからみてのび太は、おじいさんのおじいさん。
セワシくんが、頼りないのび太のために、未来からドラえもんを派遣したというきっかけで始まりました。
おもしろいです。
1974年ののび太には、未来があります。
2021年になった今、歳をとった自分にはもう未来はありません。のび太の未来は、わたしにとっては過去です。だからといって、特段、悔いはありません。先日、義父の葬儀で焼香のときに手を合わせる孫たちの後姿を見て、この世に子と孫を残せて良かったとしみじみしました。
未来がわかるマンガです。
ふと同作者の『オバケのQ太郎』を思い出しました。小さいころ、熱心にテレビマンガを見ていました。横山光輝作品『鉄人28号』も思い出しました。大好きでした。物忘れが多くなった最近ですが、消えていた記憶が戻って来て嬉しい。
自分の記憶にある最初に読んだマンガは、少年が100万円を貯めるというものでした。最初は10円ぐらいから始まって、『わらしべ長者』のようにだんだんお金が増えていくのでした。
自分が幼児の頃は、まだ、50銭という単位が通用していて(50銭硬貨は使用できなかった)、駄菓子屋に1円を持って行くと、50銭の小さな菓子が2個買えました。
本の絵が優しい。
戦国時代の合戦の絵には勢いがあります。
『タケコプター』『とうめいマント』『スーパーてぶくろ』『アンキパン』
昔は未来への夢がありました。
生活が不便だった時のほうが、未来への夢がありました。
のび太のパパとママの結婚を決めた日のマンガがいい。
昭和34年11月3日に公園で決まったそうです。1959年のことです。
そして、12回目の結婚記念日を迎えるそうです。
すったもんだがありますが、『どっちでもいいじゃない』『いまぼくたちはしあわせなんだから、それでじゅうぶんさ』というご夫婦の会話にいやされます。縁があった男女が人生の最後まで寄り添いあうということは、なかなかむずかしいときもあるからです。
アラジンと魔法のランプのようなシーンもあります。『発想』は世界中で『共有』したほうがいい。模倣から新しい発想が生まれます。
のび太は小学三年生だろうか。(あとで、小学四年生10歳と判明します。昭和39年8月7日生まれだそうです)
『アンキパン』を食べたら暗記できるけれど、うんこをしたら記憶が消えてしまうというオチに笑いました。
こどもさん向けのマンガでは、妖怪、幽霊、恐竜が出てくることが定番です。
どうしてなのかは、わかりません。
自然との『共存』というメッセージもあります。
ふたりは、のび太が生まれた日にタイムトラベルをします。
あかちゃんが生まれて喜ぶ両親の姿があります。
のび太は親の喜びようを知ります。
のび太は、勉強をがんばろうと思います。
しずかちゃんが可愛くて優しい。
男性から見ると母親のような存在にも見えて、母性を慕う男性の心理があります。
4巻では、「スケスケ望遠鏡」という道具で、ちらりとしずかちゃんの入浴シーンが出るのも少年のすけべ心を充足させてくれます。
自分の未来を知りたいけれど、知ったら、これからのことがつまらなくなってしまいます。
タブー(禁止)を設けない発想です。
『定期預金を預けると十年で倍の金額になる』
確かにそういう時代がありました。
中学生の時に親から教わりました。
今は、何十万円も預けても数円しか利子がつかない時代になりました。
なつかしい。
マンガでは、新札、旧札の話も出ます。このマンガが描かれて以降、長い間に新しい紙幣や硬貨がたくさんできました。
第二次世界大戦のこと、学童疎開のことがマンガの素材として出てきます。今ではそういう傾向はなくなりました。
半世紀たつと人間が入れ替わります。新しい人間は過去の苦しみを体験したことがないので、戦争の怖さを知りません。
勉強よりもお金よりも、まず生きていなければなりません。
マンガの世界の中では、ドラえもんがのび太に優しい。ふたりの友情があります。
『のろいのカメラ』には、ブラックユーモアがあります。のび太をいじめるとドラえもんから怒られます。
4巻の53ページにある海底の断面図は勉強になります。
二十年前の空き地の絵があります。
同じ地域に何十年間も住んでいると、昔の風景を記憶しているので、時代の変化がわかります。半世紀ぐらい前、原野だったところが、今は、ビルや家屋の密集地帯で、道路が縦横に伸びています。
人間生活の発展とともに、動植物の自然は消えていきました。先日NHKで地球温暖化が危険だという特集番組を見ました。60年前の不便だった生活に戻れば自然破壊はストップすると思ったのです。
『月ぷ(げっぷ。毎月返済のローン)』という言葉は死語になってしまいました。
自分が幼児だった頃、家にあったテレビがなくなったので、どうしてかと父親に聞いたら「月ぷが払えなかったので、電気屋が来て、テレビをもっていかれた」と情けない答えが返ってきたことを、半世紀以上たった今も覚えています。
『世界沈没』という言葉が出てきます。小松左京作品『日本沈没』は1973年(昭和48年)ですから、関連があるかもしれません。
ノアの方舟(はこぶね)のような展開のストーリーでした。自分は長い間勘違いをしていたのですが、方舟(はこぶね)というのは、箱舟で、箱の中に生き物たちがいて、どこか目的地へ向かっていくわけではなくて、そこに浮いてただよっているだけということを、洋画を見て理解しました。
いつもラーメンを食べている「小池さん」というキャラクターが出てきます。オバケのQ太郎に出てくる人だと思っていました。ドラえもんにも登場されています。
『ヤカンレコーダー』では、中学生のときに電気店で母親にテープレコーダーを買ってもらったシーンが脳裏によみがえりました。とても欲しかった。英会話の勉強をするからと母親を説得した覚えがあります。当時はやっていた流行歌とかフォークソングばかりを録音して楽しんでいました。
もう今では、古いタイプのテープレコーダーも見かけなくなりました。そういえば、ワープロも見なくなりました。あんなに毎日のように使ったフロッピーディスクも記憶から消えていました。
のび太が幼稚園のときに亡くなったおばあちゃんのお話にはほろりときました。
あのころはまだ長生きのお年寄りが少なかった。
今では、ひ孫を見ることができるようになりました。
「宿題」のことが出てきます。
どういうわけか、のび太の宿題をドラえもんが一生懸命やります。ドラえもんが勉強ができるというわけではなく、ドラえもんも四苦八苦しながら宿題問題を解いています。ドラえもんは疲れ果てています。
宿題を教えるという作業はとてもむずかしい。教わる方はちゃんと聞いていないし、聞いても理解できていないことのほうが多い。教えるほうは腹が立ってきます。解けないないなら解けないで、やったけれど、解けませんでしたではいけないのだろうか。
「貧しさ」と「優しさ」が同居しています。当時は貧しい家が多かった。現代の貧困とはようすが異なりますが、みんな同程度に貧乏でした。
クリスマスパーティのお話です。道具は『重力ペンキ』です。あばら谷(あばらや)くんの家でクリスマスパーティをすることになりましたが、家が狭くて人が入りきりません。無重力にして、壁や天井でも過ごせるようにして楽しみました。
ドラミちゃんがかわいい。
『ゾウとおじさん』は、戦争のお話です。
動物園のゾウが毒殺されそうです。
戦後全国各地から生き残っていたゾウを見るためにこどもたちを乗せた列車がやってきたという東山動物園が関係するゾウ列車のお話を思い出しました。
(その後、気づいたこと)
タイトル表記「ドラえもん」は「ドラエもん」だと、これまで長い間勘違いしていたことに気づきました。
ショックでした。
上記の文章のタイトルは、自分で意識して、「ドラエ」とカタカナで打ち、「もん」をつけ足しました。
文章中の「ドラえもん」は自動変換を利用したので間違っていません。
ドラえもんが好きな、ドラ焼きの「どら」と、主に江戸時代の武士が使用した「(右)衛門」が合体しているのでしょう。
間違って思い込んで、間違いに気づけずに歳をとっているということがあるのでしょう。
加齢によって、これまで見えていたものが見えなくなってきています。
先日は、古くなって買い替えた新しい家庭用電話機の子機にある「保留」ボタンが見つからなくておろおろしました。以前の子機は、左下端に「保留」ボタンがありました。新しい子機には、右上端に「保留」ボタンがありました。
目の前にあるのに見えないということが多くなってきました。視力で見えるとか見えないということもあるのですが、加えて、脳の理解力、認識力が少しずつ低下しているようです。老いていくことを実感しています。
2021年11月09日
劇場版 進撃の巨人 アニメ映画2014年公開
劇場版 進撃の巨人 アニメ映画2014年公開 「紅蓮の弓矢(ぐれんのゆみや)」 fuluフールー動画配信サービス
もうずいぶん前ですが、この話のことをプロ野球の巨人軍がらみの物語だと勘違いしていました。
NHK番組ブラタモリの大分県日田市編で、作者が同市出身で、土地を囲む山々が「壁」で、壁の向こうに巨人の姿が現れるというような説明を聞きました。
映画を観るのは初めてです。内容は知りません。
今の時代にある日本と巨人(中国)のような設定に思えてしまいます。
あるいは、巨人は「大規模な自然災害」であったりもします。
巨人が生身の人間であることがこれまでにはない異色な創作物です。巨人は、すっぱだかでゆっくり歩く。男性ばかりで女性の姿はないようです。ふつうのおじさんやおにいさんの顔に見えます。巨人と顔が似ている人がいそうです。腰から上が大きくて、腰から下が小さい。口から光線を吐くのはゴジラみたい。数的にはうじゃうじゃいるわけではない。巨人はしゃべらないからロボットとか怪獣的存在です。巨人に意思を感じられません。
発想の秘訣として、今あるものを「否定」するのではなく、今、どこにもないものを新たに想像して創り出すことが『創造』です。
まあ、人を食うわけですから、グロテスクであります。(異様なようす。怪奇的)
野蛮(やばん。粗野、粗暴)でもあります。
一寸法師(3.03cm)が、大きな鬼と闘っているようでもあります。
アニメのいちパターンです。AがいてBがいる。Aが正義で、悪のBと戦って勝利を手にする。人を食べるのは、鬼滅の刃の鬼と同じです。味わいをだすためにCをからませる。この作品ではC的な存在はなかったようです。『共存』という言葉はありません。お互いを徹底的に叩いて相手を消滅させるのです。
昔、プロ野球選手だった新庄選手のグッズを思い出しました。彼の口の中に彼の顔があって、ロシア人形マトリョーシカのような形態になっていて、さいごの顔がしゃべるように動くというものでした。
同選手は、今度監督になられるそうで楽しみです。
集客力をもつ人物です。
話の展開は理屈が多いです。攻撃に移るまでの前置きが長い。
説明の時間帯が長くなると退屈になります。
三国志みたい。フランス革命みたいでもあります。『ヒカルの碁』の雰囲気もあります。
いきなり戦いが始まったりもします。
長いお話の概要版なのでしょう。
BGM(バックグラウンドミュージック)に助けられています。
観ている人の感情の動きを音楽で操作します。
自分の命と引き換えにみんなを助けるという行動の美化には抵抗感をもちます。
生きて帰還することが戦争の目標です。
ちょっと自分には、合わない作品でした。
もうずいぶん前ですが、この話のことをプロ野球の巨人軍がらみの物語だと勘違いしていました。
NHK番組ブラタモリの大分県日田市編で、作者が同市出身で、土地を囲む山々が「壁」で、壁の向こうに巨人の姿が現れるというような説明を聞きました。
映画を観るのは初めてです。内容は知りません。
今の時代にある日本と巨人(中国)のような設定に思えてしまいます。
あるいは、巨人は「大規模な自然災害」であったりもします。
巨人が生身の人間であることがこれまでにはない異色な創作物です。巨人は、すっぱだかでゆっくり歩く。男性ばかりで女性の姿はないようです。ふつうのおじさんやおにいさんの顔に見えます。巨人と顔が似ている人がいそうです。腰から上が大きくて、腰から下が小さい。口から光線を吐くのはゴジラみたい。数的にはうじゃうじゃいるわけではない。巨人はしゃべらないからロボットとか怪獣的存在です。巨人に意思を感じられません。
発想の秘訣として、今あるものを「否定」するのではなく、今、どこにもないものを新たに想像して創り出すことが『創造』です。
まあ、人を食うわけですから、グロテスクであります。(異様なようす。怪奇的)
野蛮(やばん。粗野、粗暴)でもあります。
一寸法師(3.03cm)が、大きな鬼と闘っているようでもあります。
アニメのいちパターンです。AがいてBがいる。Aが正義で、悪のBと戦って勝利を手にする。人を食べるのは、鬼滅の刃の鬼と同じです。味わいをだすためにCをからませる。この作品ではC的な存在はなかったようです。『共存』という言葉はありません。お互いを徹底的に叩いて相手を消滅させるのです。
昔、プロ野球選手だった新庄選手のグッズを思い出しました。彼の口の中に彼の顔があって、ロシア人形マトリョーシカのような形態になっていて、さいごの顔がしゃべるように動くというものでした。
同選手は、今度監督になられるそうで楽しみです。
集客力をもつ人物です。
話の展開は理屈が多いです。攻撃に移るまでの前置きが長い。
説明の時間帯が長くなると退屈になります。
三国志みたい。フランス革命みたいでもあります。『ヒカルの碁』の雰囲気もあります。
いきなり戦いが始まったりもします。
長いお話の概要版なのでしょう。
BGM(バックグラウンドミュージック)に助けられています。
観ている人の感情の動きを音楽で操作します。
自分の命と引き換えにみんなを助けるという行動の美化には抵抗感をもちます。
生きて帰還することが戦争の目標です。
ちょっと自分には、合わない作品でした。
2021年11月08日
こちらあみ子 今村夏子
こちらあみ子 今村夏子 ちくま文庫
別の本でこの本が紹介されていたので興味をもち取り寄せて読み始めました。
「あみ子」変わった名前です。どういう意味なのだろう?
本のカバーには、次のとおりあります。
あみ子:風変りな女の子
優しい父
一緒に登下校してくれる兄(その後、兄は不良になる。こーちゃん。孝太)
母親は妊娠中で、書道教室の先生をしている。(さゆりさん。その後やる気がなくなる)
(あみ子さんが所属するのは田中家です)
あみ子のあこがれる男子同級生が、のり君(鷲尾佳範)です。
短編3本です。
「こちらあみ子」
途中まで読みました。あみ子という女性の小学生時代のふりかえりです。
あみ子さんは、いま、17歳か18歳ぐらいに思えます。
あみ子さんは、知的障害があるのだろうか。
大きくなったあみ子さんのそばに、さきちゃんという小学生がいます。
いまは、あみ子さんは祖母と暮らしている。どうも、あみ子さんが15歳のときに、あみ子さんが祖母宅へ引越してきたらしい。
心に響いた文節などとして『あみ子の馬鹿(あみ子の父親の車に付けられた傷)』『赤い部屋(母親が書道教室をしている赤いじゅうたんが敷かれた部屋』『「こめ」書道の練習文字(「こ」の下の棒から墨がたれて、よだれのように見える)』
あみ子さんの小学一年生から五年生ぐらいまできました。
二十四枚撮りの使い捨てカメラ:なつかしい。写ルンです(うつるんです商標名。1986年昭和61年発売開始)
(つづく)
『あみ子さんはおねえちゃんになるのよ』
(その後:母は流産したのか)
あみ子さんも、孝太さんも、お父さんも優しい(母は無理して自分を納得させようとして忍耐して心が折れました。心が壊れました)
死産して『弟のお墓』
死産は、母の人格を変えることもあるようです。母はうつ病になったようです。『母が寝てばかりいるのはこころの病気のせいなのだと……』波が広がるように母親の周囲にいる人の性格も変化していきます。
あみ子は小学五年生になります。
気持ちを上手に表現してある文章です。
文学を愛する人は、うわべだけを重視する人たちとは違う世界にいます。
『境遇(きょうぐう。家庭環境、経済状況、親族・人間関係)』があります。『不幸』に対峙(たいじ。向かい合った)したときの『不幸』との向き合い方について、読みながら、いろいろと考えます。
兄は十二歳でたばこを吸い始めます。加えて、暴力的になります。
今年読んで良かった一本です。
壮絶です。
あみ子は、中学生になりました。
悲しみがただよっています。どうすることもできない哀しみです。(哀れ(あわれ)さを伴った悲しみ)
あみ子に幻聴が聞こえ始めます。霊がいるのです。
心の具合が悪い人は、お風呂に入らない人が多い。
あみ子は、自分がいじめにあっていることを実感できていません。
「文字書き」が、美しいとか汚いとかいう話があって、こだわりがあります。
徐々に家族関係の秘密が表面に出てきます。
あごの左下の大きなほくろという記事に心臓がどきっとしました。(身内にそういう女性がいました。今は医者で切除してもらって、ほくろはなくなりました)
そうか、そういう展開なのか(ここには書けません)
同作者の作品『星の子』が頭に浮かびました。
『離婚だ。(でも離婚はありません)』
重厚です。(内容がぶ厚くてどっしりとしている)
渾身の一作です。(こんしん。全神経を注ぎ込んだ)
『中学を出たら引越す』
110ページでタイトル『こちらあみ子』の意味が判明します。ちょっとした感動があります。
標準ではないことで、いつも、はばちょ(仲間はずれ)にされてきた。
『共存』ではなく、『排除』された。
すごい。凄みがありました。(すごみ。ぞっとする迫力)
「ピクニック」
『ローラーガーデン』という男性接客向けのアルコール提供店舗があって、若い女性たちが、ビキニ水着を着て、ローラースケートにのって飲食物を運んでくれるのです。
ローラースケートにはのれないけれど、アルバイトで接客をする七瀬さん37歳ぐらい女性が主人公です。
彼女の彼氏が、お笑いタレントの春げんき(はる・げんき)という男性という設定で、お話が始まります。ルミさんほかの女性たちが、七瀬さんをとりまきます。
七瀬さんが十二歳ぐらいだったころの出来事として、春げんきさんが、川に大事な自分の靴を落としたことが縁で、十四年後に付き合いが始まったという七瀬さんと春げんきさんの恋話です。
文章にリズム感があります。読みやすい。
春げんきさんが持っていて川に落としたという携帯電話は、スマホではなくガラケイなのだろう。
鋤(すき):川をさらうために七瀬さんが購入した農具
虫刺されの跡とされるものは、副乳だった。(自分も昔皮膚科で複数の細かなものをとってもらったことがあります。なんとかという液体で焼いてもらいました)
お店に若い新人女子が登場します:『その言い方には明らかに悪意がこめられていた』『放っておくのが一番だと思います』憎たらしい新人ですが、真実を知る人でした。
読み手は、何が本当のことなのかわからなくなって混乱します。人間社会は、誤解と錯覚で成り立っています。
176ページまできて、仕掛けがわかりました。『虚言』があります。作者は、話をどう落とすのだろう。悲しみ、いたわり、優しさがあります。
みんなは、事実を知っていて、遊んでいたのでしょう。
人間の残酷な一面を表現した秀作でした。
「チズさん」
難解です。ショートショートのようでもあります。(短い作品。ユーモア、サスペンス、読後感がすーっとくるもの)
思うに、登場する「わたし」は、ネコではなかろうか。あるいは幽霊、亡霊です。
チズさんという認知症らしきひとり暮らしのおばあさんがいます。東海林チズ(しょうじ・ちず)というお名前で米寿ですから八十八歳です。
思い出話ですから、チズさんはもう亡くなっています。
チズさんには、千葉に住むみきおさんというお孫さんがいます。チズさんは、近所で遊ぶ子どもさんを見ると、だれかれとなく、みきおさんと呼びかけます。チズさんは、ぼけているのです。
昔自分が入院していたころ、同じ大部屋に入っていた高齢の男性が娘の顔を見たいとせつなく訴えました。娘が見舞いに来ると「違う!」と言い出しました。男性が会いたかったのは、幼児期の娘さんであり、大人になった娘さんは男性の思う娘さんとは別人でした。
孤独死の確認のようなぞっとする場面が出てきます。
新聞ではたまに報道がありますが、現実にはこの国では、日常茶飯事の出来事です。
チズさんには、親類筋をたらいまわしにされた形跡があります。
『おらおらでひとりいぐも』という作品を思い出しました。同系列の作品でしょう。若竹千佐子作品で2017年芥川賞受賞作です。なおこちらの作品は2014年の文庫にあるものです。
自分が自分を自分と理解できなくなったとき、もうこの世に自分はいない気がします。
別の本でこの本が紹介されていたので興味をもち取り寄せて読み始めました。
「あみ子」変わった名前です。どういう意味なのだろう?
本のカバーには、次のとおりあります。
あみ子:風変りな女の子
優しい父
一緒に登下校してくれる兄(その後、兄は不良になる。こーちゃん。孝太)
母親は妊娠中で、書道教室の先生をしている。(さゆりさん。その後やる気がなくなる)
(あみ子さんが所属するのは田中家です)
あみ子のあこがれる男子同級生が、のり君(鷲尾佳範)です。
短編3本です。
「こちらあみ子」
途中まで読みました。あみ子という女性の小学生時代のふりかえりです。
あみ子さんは、いま、17歳か18歳ぐらいに思えます。
あみ子さんは、知的障害があるのだろうか。
大きくなったあみ子さんのそばに、さきちゃんという小学生がいます。
いまは、あみ子さんは祖母と暮らしている。どうも、あみ子さんが15歳のときに、あみ子さんが祖母宅へ引越してきたらしい。
心に響いた文節などとして『あみ子の馬鹿(あみ子の父親の車に付けられた傷)』『赤い部屋(母親が書道教室をしている赤いじゅうたんが敷かれた部屋』『「こめ」書道の練習文字(「こ」の下の棒から墨がたれて、よだれのように見える)』
あみ子さんの小学一年生から五年生ぐらいまできました。
二十四枚撮りの使い捨てカメラ:なつかしい。写ルンです(うつるんです商標名。1986年昭和61年発売開始)
(つづく)
『あみ子さんはおねえちゃんになるのよ』
(その後:母は流産したのか)
あみ子さんも、孝太さんも、お父さんも優しい(母は無理して自分を納得させようとして忍耐して心が折れました。心が壊れました)
死産して『弟のお墓』
死産は、母の人格を変えることもあるようです。母はうつ病になったようです。『母が寝てばかりいるのはこころの病気のせいなのだと……』波が広がるように母親の周囲にいる人の性格も変化していきます。
あみ子は小学五年生になります。
気持ちを上手に表現してある文章です。
文学を愛する人は、うわべだけを重視する人たちとは違う世界にいます。
『境遇(きょうぐう。家庭環境、経済状況、親族・人間関係)』があります。『不幸』に対峙(たいじ。向かい合った)したときの『不幸』との向き合い方について、読みながら、いろいろと考えます。
兄は十二歳でたばこを吸い始めます。加えて、暴力的になります。
今年読んで良かった一本です。
壮絶です。
あみ子は、中学生になりました。
悲しみがただよっています。どうすることもできない哀しみです。(哀れ(あわれ)さを伴った悲しみ)
あみ子に幻聴が聞こえ始めます。霊がいるのです。
心の具合が悪い人は、お風呂に入らない人が多い。
あみ子は、自分がいじめにあっていることを実感できていません。
「文字書き」が、美しいとか汚いとかいう話があって、こだわりがあります。
徐々に家族関係の秘密が表面に出てきます。
あごの左下の大きなほくろという記事に心臓がどきっとしました。(身内にそういう女性がいました。今は医者で切除してもらって、ほくろはなくなりました)
そうか、そういう展開なのか(ここには書けません)
同作者の作品『星の子』が頭に浮かびました。
『離婚だ。(でも離婚はありません)』
重厚です。(内容がぶ厚くてどっしりとしている)
渾身の一作です。(こんしん。全神経を注ぎ込んだ)
『中学を出たら引越す』
110ページでタイトル『こちらあみ子』の意味が判明します。ちょっとした感動があります。
標準ではないことで、いつも、はばちょ(仲間はずれ)にされてきた。
『共存』ではなく、『排除』された。
すごい。凄みがありました。(すごみ。ぞっとする迫力)
「ピクニック」
『ローラーガーデン』という男性接客向けのアルコール提供店舗があって、若い女性たちが、ビキニ水着を着て、ローラースケートにのって飲食物を運んでくれるのです。
ローラースケートにはのれないけれど、アルバイトで接客をする七瀬さん37歳ぐらい女性が主人公です。
彼女の彼氏が、お笑いタレントの春げんき(はる・げんき)という男性という設定で、お話が始まります。ルミさんほかの女性たちが、七瀬さんをとりまきます。
七瀬さんが十二歳ぐらいだったころの出来事として、春げんきさんが、川に大事な自分の靴を落としたことが縁で、十四年後に付き合いが始まったという七瀬さんと春げんきさんの恋話です。
文章にリズム感があります。読みやすい。
春げんきさんが持っていて川に落としたという携帯電話は、スマホではなくガラケイなのだろう。
鋤(すき):川をさらうために七瀬さんが購入した農具
虫刺されの跡とされるものは、副乳だった。(自分も昔皮膚科で複数の細かなものをとってもらったことがあります。なんとかという液体で焼いてもらいました)
お店に若い新人女子が登場します:『その言い方には明らかに悪意がこめられていた』『放っておくのが一番だと思います』憎たらしい新人ですが、真実を知る人でした。
読み手は、何が本当のことなのかわからなくなって混乱します。人間社会は、誤解と錯覚で成り立っています。
176ページまできて、仕掛けがわかりました。『虚言』があります。作者は、話をどう落とすのだろう。悲しみ、いたわり、優しさがあります。
みんなは、事実を知っていて、遊んでいたのでしょう。
人間の残酷な一面を表現した秀作でした。
「チズさん」
難解です。ショートショートのようでもあります。(短い作品。ユーモア、サスペンス、読後感がすーっとくるもの)
思うに、登場する「わたし」は、ネコではなかろうか。あるいは幽霊、亡霊です。
チズさんという認知症らしきひとり暮らしのおばあさんがいます。東海林チズ(しょうじ・ちず)というお名前で米寿ですから八十八歳です。
思い出話ですから、チズさんはもう亡くなっています。
チズさんには、千葉に住むみきおさんというお孫さんがいます。チズさんは、近所で遊ぶ子どもさんを見ると、だれかれとなく、みきおさんと呼びかけます。チズさんは、ぼけているのです。
昔自分が入院していたころ、同じ大部屋に入っていた高齢の男性が娘の顔を見たいとせつなく訴えました。娘が見舞いに来ると「違う!」と言い出しました。男性が会いたかったのは、幼児期の娘さんであり、大人になった娘さんは男性の思う娘さんとは別人でした。
孤独死の確認のようなぞっとする場面が出てきます。
新聞ではたまに報道がありますが、現実にはこの国では、日常茶飯事の出来事です。
チズさんには、親類筋をたらいまわしにされた形跡があります。
『おらおらでひとりいぐも』という作品を思い出しました。同系列の作品でしょう。若竹千佐子作品で2017年芥川賞受賞作です。なおこちらの作品は2014年の文庫にあるものです。
自分が自分を自分と理解できなくなったとき、もうこの世に自分はいない気がします。
2021年11月05日
非正規介護職員ヨボヨボ日記 真山剛
非正規介護職員ヨボヨボ日記 真山剛(まやま・ごう) 三五館シンシャ フォレスト出版
『介護職は最後の手段』から始まります。
勤め先が見つからないと選択する職という意味です。
赤木春恵:『ペコロスの母に会いに行く』で認知症の老婆を演じる。2018年、94歳没。本は読んだことがあります。
(2014年11月の読書メモの一部から)
ペコロスの母に会いに行く 岡野雄一 西日本新聞社
「ペコロスの母に会いに行く」は、ペンネームがペコロス(外国語で小さいたまねぎ、意味を転じてはげ頭)の息子である60歳過ぎの漫画家岡野雄一さんが、認知症グループホームに入所している90歳過ぎの母親みつえさんに会いに行くことです。内容は漫画とエッセイです。
本の内容は、笑えます。前半は、おもしろ過ぎて、笑い転げました。そして、「平和」です。過去はいろいろあったけれど、今は、時が止まったような、陽だまりにいるような暮らしなのです。ぼけてしまった母親の言動と、はげを売りにする著者のキャラクターを中心にして、時々、著者の弟さんとか、著者の息子さん(みつえさんからみると孫)がからんできます。後半はマザコンぽくなるのですが、被爆地長崎市らしく、反戦の誓いが強く伝わってきました。
こちらの本の第一章「さっさとやれよ」には、どきっとさせられます。以前、介護施設で事件があったニュースを思い出します。職員が入所者に暴行を加えるというもので、複数のニュースを見聞きしました。加害者のうちの何人かは、若い世代の男性職員でした。
大変な仕事です。お金のためと割り切らないとできない部分もあります。
自分が若い頃は、お酒飲みで暴れて大声を出すおじさんたちは、年老いて、内臓を壊して、糞尿まみれで死んでいくことがありました。おじさんたちは、反省しておとなしくなるのだと思っていましたが、この本を読むとどうもそうでもありません。開き直って、介護をする人に対して攻撃的になっています。威張って死に向かっていくのです。
「オムツ」は、オムツとは言わずに「パンツ」というそうです。介護される人の尊厳(そんげん。プライド。自信。自慢)を傷つけてはいけないのです。
死に方の勉強をするような意味をもった本です。
やわらかい便ではなく、固い便が出るような食生活、日常生活を送らねばと思いつきました。
介護するご家族の不思議な関係が書いてあります。
昔は、疑似家族のようなものが多かった。血縁はないけれど、家族なのです。
義務教育を終えて、住み込みや寮生活で働いて仕事を覚えて、仕事の関係で毎日顔を合わせる共同生活者同士で、家族のように暮らしました。
「利用者は神さま、職員は奴隷」というのは、けっこうつらい。
「お局さま(おつぼねさま)」:性別に限らず、小さな村社会があって、村長がいて、その村だけで通じる掟(おきて)があって、村長(ボス)の指示に従いながら仕事を進めていくということはよくあったパターンです。最近は、だんだん減ってきている印象がある仕事のしかたです。加えて、女性を敵に回したら仕事が回って行かないということはあります。
事例として、(仕事や仕事以外でも)完璧を求められる。期限があるのに、その期限以前の異なる期限を設定してその期限を守らせる。正規のルール以上の縛り(しばり)を強要する。できないと烈火のごとく怒る。病的です。きちょうめんで神経質な人が仕切り屋になると、ついていくほうはたいへんです。人間関係もうまくいかなくなります。本人は、自分は必要とされていると自信をもっていますが、自分が人から嫌われているとは思っていません。
本に書いてありますが、「嘘をつく」ことが日常になる女性がいます。三十代のころにそういう女性に出会ったことがあってびっくりしました。口から出てくる言葉のすべてが噓なのです。トラブル発生の原因になります。
33ページ付近にある施設内の認知症になっている入所者同士のやりとりは、まるでお笑いのコントシーンを観るようでもあります。
介護保険制度で助かっている人は多いと感じます。健康保険、年金保険、介護保険などの公的保険に加入しておくことは安心・安全の基本です。
昔は、嫁いだお嫁さんが年老いた義父母の介護を長期間して、献身的に尽くしてふたりを見送ったあと、血縁関係がない嫁には相続権がなくてという悲しい話をよく聞きました。
ひとつひとつのエピソードが重たい。
読み手である自分は、老いた親を施設に入れたくない、自分自身は施設には入りたくないというように、気持ちが滅入ってきます(めいってきます)。短いエッセイを読み終えるたびにふーっとため息をつきます。
在宅介護で、介護ヘルパーさんに来てもらって、買い物や掃除をお願いしながら、できることなら在宅で逝きたい。(いきたい。天国へ召されたい)
過去の栄光は、老後に認知症になれば、消えます。
まるで、別人に人が変わります。
肩書きは参考になりません。元教師、元警察官、くわえて、公務員や銀行員もあやうい。
利用者に、嚙みつかれたり、便を投げつけられたり、自傷行為があったりとあります。
昔映画で観た「恍惚の人(こうこつのひと)」「楢山節考(ならやまぶしこう)」「そこのみにて光輝く」を思い出します。
ハインリッヒの法則:働いていた頃に研修で習いました。1つの重大事故の背後に29の軽微な事故があり、その背後に300のミスがある。なにごとにも前兆があります。
ここに限らずですが、利用者は「商品」です。
バイタル:体温、血圧、脈拍、心拍数、呼吸数、生命サイン(兆候)
モンスター的な利用者の身内がいます。おいしいところだけをつまみぐいしにくるような人です。
たまに、ヒステリック(かんしゃくもちの怒りんぼ)な女の人を見かけます。なにがそんなに怒れるのだろうかと不思議なことがあります。自分はもうリタイアして無責任でいられる傍観者の立場なので、脳の病気なのだろうと思ってやり過ごします。
意地悪な人は、何十年経っても意地悪です。直りません。
エロじいさんもいれば、エロばあさんもいます。
老人ホームは、楽園でも天国のようなところでもありません。
みっともない姿をさらして生きるよりも、ずばっと死にたいという希望もあります。されど、死に方はなかなか選べません。
自己主張が強くて、自分を曲げない人が亡くなると、ほっとする風景があります。
杖代わりに軽自動車を運転する高齢者がいます。
先日車を運転していたら、工事中の二車線道路を高齢者二人が乗った軽自動車が少し前からこちらに逆走してきたのでびっくりしました。交通量が少ない道だったので、高齢者が運転する軽自動車はUターンできました。
100歳以上のお年寄りは8万人超えで、9割が女性。平均寿命が、女性が87.5歳、男性が81.4歳とあります。読みながら、自分の余命を計算したりします。
自慢話。ありがちです。『他人の自慢話ほど退屈でつまらないものはない』そのとおりです。でも、仕事ですから聞かねばなりません。相当疲れそうです。
著者はご苦労されています。
この本の印税収入で豊かになってください。
(つづく)
「トイレ掃除をすると運勢が上向く」という小さなコメントがあります。
この本が売れたのが、良い「運」です。
お金だけもらってサービスを提供しない老人ホームもあるようです。
やはり、老人ホームは楽園ではありません。
日野原重明さん:2017年に105歳で死没。医師。二冊本を読んだことがあります。
(感想メモの一部です)
生きていくあなたへ -105歳どうしても遺したかった言葉- 日野原重明 幻冬舎
短時間で読み終えることができる本です。
これまで、興味が湧かなかったので、今回読んで初めて判明した事柄がいくつかありました。
若いときに大病をした。(結核らしい)
よど号ハイジャック事件の時、人質だった。
地下鉄サリン事件の時、多数の犠牲者が運び込まれた病院で働いていた。そして、病院建設のときに広い廊下をつくったときに批判されたが、広い廊下が治療場所として活用できた。
戦時体験をもとにして、広い廊下をつくった。
「生活習慣病」という言葉をつくった。
父親は牧師
十歳のきみへ 日野原重明 冨山房インターナショナル
10歳のこどもさんに向けて書いてあります。10歳のこどもには難しいのではないかと読み始めましたが、読み進むにつれて大丈夫だという考えに変わりました。
寿命は与えられた「時間」という器で、自分がその器を埋めていくという理屈はわかりやすいものです。
95歳という年齢がすごすぎて何も反論できません。よく読めば、普通の人権感覚をもっておられる方です。人間が生き続けていくためには、挫折の時期が必要とかピンチのときこそチャンスというのは、年齢を重ねてふりかることによって誰しもが気づかされることです。
作者のメッセージは、失意にある10歳のこどもたちへの励ましです。作者自身もまた、周囲の人たちによって支えられてきた人です。残念ながら、こどもたちが、「うれしい、ほこらしい、きはずかしい」という感情をもつ回数が少なくなってきています。生活環境が昔とは一変しました。
認知症入所者がいる施設勤務を辞めていく人が多い。
入所者から意地悪をされる。職員から意地悪をされる。
心が折れる。
好々爺(こうこうや):優しくて気のいい高齢者男性
入所者の立場に立ってみると、移動の自由を制限されるのはけっこうきつい。(施設内の移動は自由だが、施設及び施設内の敷地から出ることはできない)
豪華客船内にいるようなものとあります。
『自分の生活してきた家で最期を迎えたい』
むずかしいけれど、できないことはありません。自宅で亡くなる方もいます。
ぴんしゃんころりでこの世にお別れしたい。(寝付かずにコロリと死ぬ)
利用者が、自分が所有するモノやカネがなくなったと介護職員を責めます。
認知症の人の言動からは、人格のバランスが失われていることがわかります。
しばらくすると本人は、自分がした発言を忘れます。
人間が柔らかくこわれています。
利用者は、奇妙な話ばかりをしますが、利用者はだれかに自分の話を聞いて欲しいということは伝わってきます。
「幻視(げんし。ないものが見える)」の話が出ます。自分も以前脳の病気をやった時に、手術後、たくさんの幻視をはっきりと見ました。体験があるので、読んでいて臨場感があります。(その場に自分がいるような雰囲気)
利用者から、寿司を食べたいと言われても生ものの寿司を提供できない。
何を目標にして、人生の最後を迎えるのか。
つまらない毎日であっても生き続けたほうがいいのか。
面会に来てくれる親族や友人もいない。
したいことをして、食べたいものを食べて、ぴんしゃんころりと逝くのがいいのか。
人それぞれですが、読んでいて、いろいろ考えさせられます。
上品そうな利用者の部屋がひどく散らかっていたという部分では、外ではきれいなかっこうをしていても、家はごみ屋敷という人を思い出します。
「新型コロナ」の話も出てくるので、リアルタイムのレポートです。
いろんな制限ができました。
他人の不幸がうれしい利用者も出てきます。いろいろです。
日本映画「楢山節考(ならやまぶしこう)」では、年寄りを山に捨てに行くのですが、現代では、年寄りを施設に置き去りにする人もいるようです。お金を払えばいいのだろうと言って入れて、その後、面会もなく、お金の支払いもなくという話にはあきれました。利用者によほど迷惑をかけられたのでしょうか。
この仕事を続けていくためには、手を抜く部分も必要だとわかります。「あきらめること」が必要だと悟りました。
結局、人はみんな、いつかは死んでしまうのです。祈るしかありません。
「他人の糞尿処理をやりたい人などいるはずがない」とあります。共感しました。共働きで子育てをしていたころ、昔は布おむつが一般的で、こどもたちのうんこ付き布おむつを何度も洗いました。自分のこどものうんこなら洗えるけれど、他人のこどものうんこ付き布おむつは洗えないと思いました。
「そのときどきを私は必死に生きて来たからだ」にも共感します。いつだって、一生懸命でした。
『介護職は最後の手段』から始まります。
勤め先が見つからないと選択する職という意味です。
赤木春恵:『ペコロスの母に会いに行く』で認知症の老婆を演じる。2018年、94歳没。本は読んだことがあります。
(2014年11月の読書メモの一部から)
ペコロスの母に会いに行く 岡野雄一 西日本新聞社
「ペコロスの母に会いに行く」は、ペンネームがペコロス(外国語で小さいたまねぎ、意味を転じてはげ頭)の息子である60歳過ぎの漫画家岡野雄一さんが、認知症グループホームに入所している90歳過ぎの母親みつえさんに会いに行くことです。内容は漫画とエッセイです。
本の内容は、笑えます。前半は、おもしろ過ぎて、笑い転げました。そして、「平和」です。過去はいろいろあったけれど、今は、時が止まったような、陽だまりにいるような暮らしなのです。ぼけてしまった母親の言動と、はげを売りにする著者のキャラクターを中心にして、時々、著者の弟さんとか、著者の息子さん(みつえさんからみると孫)がからんできます。後半はマザコンぽくなるのですが、被爆地長崎市らしく、反戦の誓いが強く伝わってきました。
こちらの本の第一章「さっさとやれよ」には、どきっとさせられます。以前、介護施設で事件があったニュースを思い出します。職員が入所者に暴行を加えるというもので、複数のニュースを見聞きしました。加害者のうちの何人かは、若い世代の男性職員でした。
大変な仕事です。お金のためと割り切らないとできない部分もあります。
自分が若い頃は、お酒飲みで暴れて大声を出すおじさんたちは、年老いて、内臓を壊して、糞尿まみれで死んでいくことがありました。おじさんたちは、反省しておとなしくなるのだと思っていましたが、この本を読むとどうもそうでもありません。開き直って、介護をする人に対して攻撃的になっています。威張って死に向かっていくのです。
「オムツ」は、オムツとは言わずに「パンツ」というそうです。介護される人の尊厳(そんげん。プライド。自信。自慢)を傷つけてはいけないのです。
死に方の勉強をするような意味をもった本です。
やわらかい便ではなく、固い便が出るような食生活、日常生活を送らねばと思いつきました。
介護するご家族の不思議な関係が書いてあります。
昔は、疑似家族のようなものが多かった。血縁はないけれど、家族なのです。
義務教育を終えて、住み込みや寮生活で働いて仕事を覚えて、仕事の関係で毎日顔を合わせる共同生活者同士で、家族のように暮らしました。
「利用者は神さま、職員は奴隷」というのは、けっこうつらい。
「お局さま(おつぼねさま)」:性別に限らず、小さな村社会があって、村長がいて、その村だけで通じる掟(おきて)があって、村長(ボス)の指示に従いながら仕事を進めていくということはよくあったパターンです。最近は、だんだん減ってきている印象がある仕事のしかたです。加えて、女性を敵に回したら仕事が回って行かないということはあります。
事例として、(仕事や仕事以外でも)完璧を求められる。期限があるのに、その期限以前の異なる期限を設定してその期限を守らせる。正規のルール以上の縛り(しばり)を強要する。できないと烈火のごとく怒る。病的です。きちょうめんで神経質な人が仕切り屋になると、ついていくほうはたいへんです。人間関係もうまくいかなくなります。本人は、自分は必要とされていると自信をもっていますが、自分が人から嫌われているとは思っていません。
本に書いてありますが、「嘘をつく」ことが日常になる女性がいます。三十代のころにそういう女性に出会ったことがあってびっくりしました。口から出てくる言葉のすべてが噓なのです。トラブル発生の原因になります。
33ページ付近にある施設内の認知症になっている入所者同士のやりとりは、まるでお笑いのコントシーンを観るようでもあります。
介護保険制度で助かっている人は多いと感じます。健康保険、年金保険、介護保険などの公的保険に加入しておくことは安心・安全の基本です。
昔は、嫁いだお嫁さんが年老いた義父母の介護を長期間して、献身的に尽くしてふたりを見送ったあと、血縁関係がない嫁には相続権がなくてという悲しい話をよく聞きました。
ひとつひとつのエピソードが重たい。
読み手である自分は、老いた親を施設に入れたくない、自分自身は施設には入りたくないというように、気持ちが滅入ってきます(めいってきます)。短いエッセイを読み終えるたびにふーっとため息をつきます。
在宅介護で、介護ヘルパーさんに来てもらって、買い物や掃除をお願いしながら、できることなら在宅で逝きたい。(いきたい。天国へ召されたい)
過去の栄光は、老後に認知症になれば、消えます。
まるで、別人に人が変わります。
肩書きは参考になりません。元教師、元警察官、くわえて、公務員や銀行員もあやうい。
利用者に、嚙みつかれたり、便を投げつけられたり、自傷行為があったりとあります。
昔映画で観た「恍惚の人(こうこつのひと)」「楢山節考(ならやまぶしこう)」「そこのみにて光輝く」を思い出します。
ハインリッヒの法則:働いていた頃に研修で習いました。1つの重大事故の背後に29の軽微な事故があり、その背後に300のミスがある。なにごとにも前兆があります。
ここに限らずですが、利用者は「商品」です。
バイタル:体温、血圧、脈拍、心拍数、呼吸数、生命サイン(兆候)
モンスター的な利用者の身内がいます。おいしいところだけをつまみぐいしにくるような人です。
たまに、ヒステリック(かんしゃくもちの怒りんぼ)な女の人を見かけます。なにがそんなに怒れるのだろうかと不思議なことがあります。自分はもうリタイアして無責任でいられる傍観者の立場なので、脳の病気なのだろうと思ってやり過ごします。
意地悪な人は、何十年経っても意地悪です。直りません。
エロじいさんもいれば、エロばあさんもいます。
老人ホームは、楽園でも天国のようなところでもありません。
みっともない姿をさらして生きるよりも、ずばっと死にたいという希望もあります。されど、死に方はなかなか選べません。
自己主張が強くて、自分を曲げない人が亡くなると、ほっとする風景があります。
杖代わりに軽自動車を運転する高齢者がいます。
先日車を運転していたら、工事中の二車線道路を高齢者二人が乗った軽自動車が少し前からこちらに逆走してきたのでびっくりしました。交通量が少ない道だったので、高齢者が運転する軽自動車はUターンできました。
100歳以上のお年寄りは8万人超えで、9割が女性。平均寿命が、女性が87.5歳、男性が81.4歳とあります。読みながら、自分の余命を計算したりします。
自慢話。ありがちです。『他人の自慢話ほど退屈でつまらないものはない』そのとおりです。でも、仕事ですから聞かねばなりません。相当疲れそうです。
著者はご苦労されています。
この本の印税収入で豊かになってください。
(つづく)
「トイレ掃除をすると運勢が上向く」という小さなコメントがあります。
この本が売れたのが、良い「運」です。
お金だけもらってサービスを提供しない老人ホームもあるようです。
やはり、老人ホームは楽園ではありません。
日野原重明さん:2017年に105歳で死没。医師。二冊本を読んだことがあります。
(感想メモの一部です)
生きていくあなたへ -105歳どうしても遺したかった言葉- 日野原重明 幻冬舎
短時間で読み終えることができる本です。
これまで、興味が湧かなかったので、今回読んで初めて判明した事柄がいくつかありました。
若いときに大病をした。(結核らしい)
よど号ハイジャック事件の時、人質だった。
地下鉄サリン事件の時、多数の犠牲者が運び込まれた病院で働いていた。そして、病院建設のときに広い廊下をつくったときに批判されたが、広い廊下が治療場所として活用できた。
戦時体験をもとにして、広い廊下をつくった。
「生活習慣病」という言葉をつくった。
父親は牧師
十歳のきみへ 日野原重明 冨山房インターナショナル
10歳のこどもさんに向けて書いてあります。10歳のこどもには難しいのではないかと読み始めましたが、読み進むにつれて大丈夫だという考えに変わりました。
寿命は与えられた「時間」という器で、自分がその器を埋めていくという理屈はわかりやすいものです。
95歳という年齢がすごすぎて何も反論できません。よく読めば、普通の人権感覚をもっておられる方です。人間が生き続けていくためには、挫折の時期が必要とかピンチのときこそチャンスというのは、年齢を重ねてふりかることによって誰しもが気づかされることです。
作者のメッセージは、失意にある10歳のこどもたちへの励ましです。作者自身もまた、周囲の人たちによって支えられてきた人です。残念ながら、こどもたちが、「うれしい、ほこらしい、きはずかしい」という感情をもつ回数が少なくなってきています。生活環境が昔とは一変しました。
認知症入所者がいる施設勤務を辞めていく人が多い。
入所者から意地悪をされる。職員から意地悪をされる。
心が折れる。
好々爺(こうこうや):優しくて気のいい高齢者男性
入所者の立場に立ってみると、移動の自由を制限されるのはけっこうきつい。(施設内の移動は自由だが、施設及び施設内の敷地から出ることはできない)
豪華客船内にいるようなものとあります。
『自分の生活してきた家で最期を迎えたい』
むずかしいけれど、できないことはありません。自宅で亡くなる方もいます。
ぴんしゃんころりでこの世にお別れしたい。(寝付かずにコロリと死ぬ)
利用者が、自分が所有するモノやカネがなくなったと介護職員を責めます。
認知症の人の言動からは、人格のバランスが失われていることがわかります。
しばらくすると本人は、自分がした発言を忘れます。
人間が柔らかくこわれています。
利用者は、奇妙な話ばかりをしますが、利用者はだれかに自分の話を聞いて欲しいということは伝わってきます。
「幻視(げんし。ないものが見える)」の話が出ます。自分も以前脳の病気をやった時に、手術後、たくさんの幻視をはっきりと見ました。体験があるので、読んでいて臨場感があります。(その場に自分がいるような雰囲気)
利用者から、寿司を食べたいと言われても生ものの寿司を提供できない。
何を目標にして、人生の最後を迎えるのか。
つまらない毎日であっても生き続けたほうがいいのか。
面会に来てくれる親族や友人もいない。
したいことをして、食べたいものを食べて、ぴんしゃんころりと逝くのがいいのか。
人それぞれですが、読んでいて、いろいろ考えさせられます。
上品そうな利用者の部屋がひどく散らかっていたという部分では、外ではきれいなかっこうをしていても、家はごみ屋敷という人を思い出します。
「新型コロナ」の話も出てくるので、リアルタイムのレポートです。
いろんな制限ができました。
他人の不幸がうれしい利用者も出てきます。いろいろです。
日本映画「楢山節考(ならやまぶしこう)」では、年寄りを山に捨てに行くのですが、現代では、年寄りを施設に置き去りにする人もいるようです。お金を払えばいいのだろうと言って入れて、その後、面会もなく、お金の支払いもなくという話にはあきれました。利用者によほど迷惑をかけられたのでしょうか。
この仕事を続けていくためには、手を抜く部分も必要だとわかります。「あきらめること」が必要だと悟りました。
結局、人はみんな、いつかは死んでしまうのです。祈るしかありません。
「他人の糞尿処理をやりたい人などいるはずがない」とあります。共感しました。共働きで子育てをしていたころ、昔は布おむつが一般的で、こどもたちのうんこ付き布おむつを何度も洗いました。自分のこどものうんこなら洗えるけれど、他人のこどものうんこ付き布おむつは洗えないと思いました。
「そのときどきを私は必死に生きて来たからだ」にも共感します。いつだって、一生懸命でした。
2021年11月04日
ケアマネージャーはらはら日記 岸山真理子
ケアマネージャーはらはら日記 岸山真理子 三五館シンシャ フォレスト出版
たしか、ケアマネとは、介護保険法に基づいて、介護のプランをつくる職でした。
「介護支援専門員」実務経験が必要な資格取得が必要です。社会福祉士も含めて、試験はかなりむずかしいという印象の記憶があります。
まえがきを読みました。介護保険のスタートが2000年4月で、当時はまだ合格しやすかったそうです。
守秘義務があるので、こういうパターンで書くのはなかなかむずかしい。
ご本人に障害らしきものがあることが意外です。注意欠如・多動症(ADHD)とあります。「発達障害」といわれるものなのでしょう。波乱万丈な人生を送って来られました。
すごいなあと感心します。同じような脳の状態をもつ人にとっては、希望の光が見えます。
記事内容は、人間ドラマの連続です。
小説家の文章ではないので深い情緒(じょうちょ。感情の呼び起こし)はありません。
まずは貧困、ごみ屋敷です。
それから、認知症、家族不和、アルコール依存、どれも簡単には解決できることではなく、困難事例が続きます。「地域包括センターの仕事は、『なんでも屋』」とあります。
人間を整理整とんするような感じがあります。
とにかく忙しい。要望に応えようとすると、仕事は尽きません。
二十世紀の後半から「高齢化社会の到来」がいわれていました。
これから、30年間から40年間ぐらい続くという、自分なりの予想です。
高齢者への対応が、産業構造の多くの部分を占めます。
そのあとの世界のことも考えておかねばならないのが次世代の人たちの意識です。
高齢者サービス産業の規模がしぼむからです。
現代は「少子高齢化社会」です。
福祉介護職に携わる人たちの低い給料制度があります。
世のため人のために働きながら給料をもらうことが労働の喜びということはあります。
ただ、リタイアして、終わってみると、お金のためだけだったとしんみりします。
市役所にいいように使われるのが「地域包括支援センター事業」と読み取れます。
業務委託で、委託料という金銭をもらっているからです。
指示するのが役所です。
指示だけして自分は動かないという立場の役所の職員は、かなりうらまれそうな制度です。
アルコール依存症の話があります。
アルコールを大量に飲むのは、自殺するようなものですと何かで読んだことがあります。
昔は、アルコールに強い人をほめるならわしがありました。大きな誤解がありました。
家族から見捨てられた対象者がいます。
「死んだら連絡してください」あるいは「死んでも連絡しないでください」
よほど迷惑をかけたのでしょう。
仕返し、復讐があります。
されど、対象者を世話する職員は困り果てます。
自分のしたいほうだい、やりたいほうだいすることは、危険があります。自分がなにをやっても許されると誤解している人はいます。気がついたときには、時すでに遅しということはあります。
病院に入院すると病人になってしまう。
洋画「カッコーの巣の上で」は観たことがあります。
精神病院の話で、精神病のふりをして入院した主人公が、精神病の患者として完成してしまいます。
怖い映画でした。
著者はおやごさんから映画鑑賞の楽しみを教えてもらっています。映画や絵本教育は大事です。まんがも有益です。著者は読書好きだそうです。
文字を書く人は、文字を読むことも好みます。
仕事のトラブルがあります。
割り当てられた仕事ができないともめます。
採用されないのは、その仕事をする力が不足しているということがあります。
三人いると、一人がいじめられる対象になりがちです。
以前、ベテランの年齢なのに、頼みごとをしようとしたら、「(自分は)いつまでたっても新人です(だからできません)」と言われたことがあります。あぜんとしました。
いろいろあります。
パワハラもあります。その人にいてほしくないのです。育てる時期が過ぎています。
いじめられる人間は、いじめた人間を一生うらみ続けます。
自分の居場所探しが職場探しだったりもします。
長い人生のうちの三年間ぐらいは、死に物狂いで働く時期がいります。
最後まで読んで、幸せってなんだろうと考えます。
健康であって、安心してくらせる場所にいて、明日がくることを楽しみにできること。
孫やひ孫が生まれると祖父母や曾祖父母が亡くなる。
順繰りです。(じゅんぐり)
真剣に生きている人たちのルポルタージュ(現場からの報告文学)でした。
(その後)
先日「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」佐藤愛子著とこの本を読んでいたころに、身内で高齢の親族の不幸が連続してありました。
それぞれの本の中に書いてあることと、現実のことで重なる部分もあって、しみじみしました。
たしか、ケアマネとは、介護保険法に基づいて、介護のプランをつくる職でした。
「介護支援専門員」実務経験が必要な資格取得が必要です。社会福祉士も含めて、試験はかなりむずかしいという印象の記憶があります。
まえがきを読みました。介護保険のスタートが2000年4月で、当時はまだ合格しやすかったそうです。
守秘義務があるので、こういうパターンで書くのはなかなかむずかしい。
ご本人に障害らしきものがあることが意外です。注意欠如・多動症(ADHD)とあります。「発達障害」といわれるものなのでしょう。波乱万丈な人生を送って来られました。
すごいなあと感心します。同じような脳の状態をもつ人にとっては、希望の光が見えます。
記事内容は、人間ドラマの連続です。
小説家の文章ではないので深い情緒(じょうちょ。感情の呼び起こし)はありません。
まずは貧困、ごみ屋敷です。
それから、認知症、家族不和、アルコール依存、どれも簡単には解決できることではなく、困難事例が続きます。「地域包括センターの仕事は、『なんでも屋』」とあります。
人間を整理整とんするような感じがあります。
とにかく忙しい。要望に応えようとすると、仕事は尽きません。
二十世紀の後半から「高齢化社会の到来」がいわれていました。
これから、30年間から40年間ぐらい続くという、自分なりの予想です。
高齢者への対応が、産業構造の多くの部分を占めます。
そのあとの世界のことも考えておかねばならないのが次世代の人たちの意識です。
高齢者サービス産業の規模がしぼむからです。
現代は「少子高齢化社会」です。
福祉介護職に携わる人たちの低い給料制度があります。
世のため人のために働きながら給料をもらうことが労働の喜びということはあります。
ただ、リタイアして、終わってみると、お金のためだけだったとしんみりします。
市役所にいいように使われるのが「地域包括支援センター事業」と読み取れます。
業務委託で、委託料という金銭をもらっているからです。
指示するのが役所です。
指示だけして自分は動かないという立場の役所の職員は、かなりうらまれそうな制度です。
アルコール依存症の話があります。
アルコールを大量に飲むのは、自殺するようなものですと何かで読んだことがあります。
昔は、アルコールに強い人をほめるならわしがありました。大きな誤解がありました。
家族から見捨てられた対象者がいます。
「死んだら連絡してください」あるいは「死んでも連絡しないでください」
よほど迷惑をかけたのでしょう。
仕返し、復讐があります。
されど、対象者を世話する職員は困り果てます。
自分のしたいほうだい、やりたいほうだいすることは、危険があります。自分がなにをやっても許されると誤解している人はいます。気がついたときには、時すでに遅しということはあります。
病院に入院すると病人になってしまう。
洋画「カッコーの巣の上で」は観たことがあります。
精神病院の話で、精神病のふりをして入院した主人公が、精神病の患者として完成してしまいます。
怖い映画でした。
著者はおやごさんから映画鑑賞の楽しみを教えてもらっています。映画や絵本教育は大事です。まんがも有益です。著者は読書好きだそうです。
文字を書く人は、文字を読むことも好みます。
仕事のトラブルがあります。
割り当てられた仕事ができないともめます。
採用されないのは、その仕事をする力が不足しているということがあります。
三人いると、一人がいじめられる対象になりがちです。
以前、ベテランの年齢なのに、頼みごとをしようとしたら、「(自分は)いつまでたっても新人です(だからできません)」と言われたことがあります。あぜんとしました。
いろいろあります。
パワハラもあります。その人にいてほしくないのです。育てる時期が過ぎています。
いじめられる人間は、いじめた人間を一生うらみ続けます。
自分の居場所探しが職場探しだったりもします。
長い人生のうちの三年間ぐらいは、死に物狂いで働く時期がいります。
最後まで読んで、幸せってなんだろうと考えます。
健康であって、安心してくらせる場所にいて、明日がくることを楽しみにできること。
孫やひ孫が生まれると祖父母や曾祖父母が亡くなる。
順繰りです。(じゅんぐり)
真剣に生きている人たちのルポルタージュ(現場からの報告文学)でした。
(その後)
先日「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」佐藤愛子著とこの本を読んでいたころに、身内で高齢の親族の不幸が連続してありました。
それぞれの本の中に書いてあることと、現実のことで重なる部分もあって、しみじみしました。
2021年11月02日
九十八歳。戦いやまず日は暮れず 佐藤愛子
九十八歳。戦いやまず日は暮れず 佐藤愛子 小学館
同作者の「戦いすんで日が暮れて」を読んだのは、自分が二十代の頃でした。1969年の直木賞作品です。たしか、実体験をもとにして書かれた借金の返済に追いまくられるお話だったという記憶です。
もうずいぶん永い時が流れました。
健康で長生きされている人は、人生の勝利者です。
エッセイ集です。
人が亡くなるときのひとつのパターンがあります。
ものが見えづらくなる。音や声が聞こえづらくなる。歯がぐらぐらになる。
歩行が不自由になって、ペンギンみたいにしか歩けなくなります。スポーツマンだった人もゆっくりとしか歩けなくなります。歩く距離は伸びません。とても時間がかかります。腰が曲がって、つえが必要になったりもします。
自力で食べられなくなります。体に管(くだ)が付けられて、人工的に栄養を補給します。
呼吸が困難になってきて、自力で呼吸ができなくなります。呼吸を機器に頼ります。
意識がなくなります。
本能で、体力がある限り生き続けます。
施設や病院にはなるべく入らずに、ぴんしゃんころりが、たいていの人たちの理想です。
最後は、静かな毎日を淡々と送りたい。日常生活を送りながら、フェードアウトしたい。(ゆっくりと消えていく)
長生きしたくて長生きしているわけではない著者です。
「天中殺(てんちゅうさつ)」のお話が当たっています。迷信とは思いますが、ふりかえってみるとついていなかった一年が十年に一回ぐらいあります。
気楽に読める本です。
読みやすい文章です。
文字の大きさが大きくて読みやすい。
明朝体も読みやすい字体です。
前半には、2017年、2018年のころのことが書いてあります。平成時代が終わる頃です。大正、昭和、平成、令和とよっつの元号を生き続けている著者です。1923年生まれです。大正12年です。
令和時代の今、昭和10年当時のご本人の思い出話を読んでいます。すごいなあ。当時の学校の先生の教訓話が、江戸時代中期1703年にあった忠臣蔵(ちゅうしんぐら。赤穂浪士の吉良邸討ち入り)です。
印象的だった文節です。「野人を標榜している私(田舎者、粗野な人)(標榜は、ひょうぼうと読んで、掲げて示す)」「ロボット風の無表情美女(最近多い)」「それにしても、なかなか死なない人だねえ」「男が威張っていた時代」「見切る(見限る。見捨てる)」「味覚がないのに熱意十分な夫へ渡す弁当」「戦争は長かった」「この国は平和がつづき、飽食の国になったのだ」「二十五のときから売れても売れなくても平気で書き続けてきた」
著者が転倒したシーンの記述には臨場感があります。(読者がその場にいる感じ)
助けを呼んで、来てくれる人がいるうち(家)はいい。
ひとり暮らしや複数で暮らしていてもひとりのような生活の人もいます。
病院嫌いな著者です。
本書で紹介されている洋画「小さな恋のメロディ」は、中学生の頃、映画館で放映されていました。人気作品でした。
体罰慣れしている昔のこどものことが書いてあります。体罰は否定しますが、昔はひどかった。先生に叩かれ、親に叩かれ、先輩に叩かれ、兄弟に叩かれ、それでも生き抜いてくることができたのは、立ち向かう気持ちが強かったことと、時代背景だったのでしょう。怒られ慣れの体質になりました。
彼我の攻防戦(ひがのこうぼうせん):あなたとわたしの戦い。
児童虐待をする人間のことを「ヘンタイ」とする。
経験則(経験で得られたもの)として、ヘンタイは直らない。
北海道に別荘を求めてつくったお話がおもしろい。
1975年ころのことですから、昭和50年ころです。
自分が30歳ぐらいだったころに60歳ぐらいだった人たちはもうみなさんお亡くなりになりましたが、みんながいなくなって、あのときのどたばた騒ぎはいったいなんだったのだろうかと思い出すことがあります。けんかしてもしょうがないのです。みんな最後は、あの世いきなのです。
牧羊子(まきようこ):詩人。小説家開高健の妻。2000年没
キャプション:説明文
中盤からコロナ禍のお話が出てきます。おもしろいです。
(首相は)「なぜ、あのように小さなマスクをつけるのか?」
「三密」という言葉も最近は耳にすることが減りました。密集、密接、密閉
(第二次世界大戦が始まる前のこととして)「いい時代だった。みんな暢気(のんき)だった。カラオケなんてものはなかった。みんな勝手に歌っていた」
武運長久(ぶうんちょうきゅう):戦いでの幸運が長く続くこと。
薯のツル(いものつる):こどものころ、よく食べました。
摸糊(もこ):ぼんやりしている。はっきりしない。
カルマ:宿命
寂寥(せきりょう):ものさびしい。ひっそりしている。
励まされます。
さらに長生きしてください。
おもしろかったです。
(追記)
以前、黒柳徹子さんが長生きの秘訣を問われて「反省しないこと」とおっしゃっていたことを思い出しました。賛成です。過去を変えることはできません。あれはあれで良かったと思うしか手段がないのです。
同作者の「戦いすんで日が暮れて」を読んだのは、自分が二十代の頃でした。1969年の直木賞作品です。たしか、実体験をもとにして書かれた借金の返済に追いまくられるお話だったという記憶です。
もうずいぶん永い時が流れました。
健康で長生きされている人は、人生の勝利者です。
エッセイ集です。
人が亡くなるときのひとつのパターンがあります。
ものが見えづらくなる。音や声が聞こえづらくなる。歯がぐらぐらになる。
歩行が不自由になって、ペンギンみたいにしか歩けなくなります。スポーツマンだった人もゆっくりとしか歩けなくなります。歩く距離は伸びません。とても時間がかかります。腰が曲がって、つえが必要になったりもします。
自力で食べられなくなります。体に管(くだ)が付けられて、人工的に栄養を補給します。
呼吸が困難になってきて、自力で呼吸ができなくなります。呼吸を機器に頼ります。
意識がなくなります。
本能で、体力がある限り生き続けます。
施設や病院にはなるべく入らずに、ぴんしゃんころりが、たいていの人たちの理想です。
最後は、静かな毎日を淡々と送りたい。日常生活を送りながら、フェードアウトしたい。(ゆっくりと消えていく)
長生きしたくて長生きしているわけではない著者です。
「天中殺(てんちゅうさつ)」のお話が当たっています。迷信とは思いますが、ふりかえってみるとついていなかった一年が十年に一回ぐらいあります。
気楽に読める本です。
読みやすい文章です。
文字の大きさが大きくて読みやすい。
明朝体も読みやすい字体です。
前半には、2017年、2018年のころのことが書いてあります。平成時代が終わる頃です。大正、昭和、平成、令和とよっつの元号を生き続けている著者です。1923年生まれです。大正12年です。
令和時代の今、昭和10年当時のご本人の思い出話を読んでいます。すごいなあ。当時の学校の先生の教訓話が、江戸時代中期1703年にあった忠臣蔵(ちゅうしんぐら。赤穂浪士の吉良邸討ち入り)です。
印象的だった文節です。「野人を標榜している私(田舎者、粗野な人)(標榜は、ひょうぼうと読んで、掲げて示す)」「ロボット風の無表情美女(最近多い)」「それにしても、なかなか死なない人だねえ」「男が威張っていた時代」「見切る(見限る。見捨てる)」「味覚がないのに熱意十分な夫へ渡す弁当」「戦争は長かった」「この国は平和がつづき、飽食の国になったのだ」「二十五のときから売れても売れなくても平気で書き続けてきた」
著者が転倒したシーンの記述には臨場感があります。(読者がその場にいる感じ)
助けを呼んで、来てくれる人がいるうち(家)はいい。
ひとり暮らしや複数で暮らしていてもひとりのような生活の人もいます。
病院嫌いな著者です。
本書で紹介されている洋画「小さな恋のメロディ」は、中学生の頃、映画館で放映されていました。人気作品でした。
体罰慣れしている昔のこどものことが書いてあります。体罰は否定しますが、昔はひどかった。先生に叩かれ、親に叩かれ、先輩に叩かれ、兄弟に叩かれ、それでも生き抜いてくることができたのは、立ち向かう気持ちが強かったことと、時代背景だったのでしょう。怒られ慣れの体質になりました。
彼我の攻防戦(ひがのこうぼうせん):あなたとわたしの戦い。
児童虐待をする人間のことを「ヘンタイ」とする。
経験則(経験で得られたもの)として、ヘンタイは直らない。
北海道に別荘を求めてつくったお話がおもしろい。
1975年ころのことですから、昭和50年ころです。
自分が30歳ぐらいだったころに60歳ぐらいだった人たちはもうみなさんお亡くなりになりましたが、みんながいなくなって、あのときのどたばた騒ぎはいったいなんだったのだろうかと思い出すことがあります。けんかしてもしょうがないのです。みんな最後は、あの世いきなのです。
牧羊子(まきようこ):詩人。小説家開高健の妻。2000年没
キャプション:説明文
中盤からコロナ禍のお話が出てきます。おもしろいです。
(首相は)「なぜ、あのように小さなマスクをつけるのか?」
「三密」という言葉も最近は耳にすることが減りました。密集、密接、密閉
(第二次世界大戦が始まる前のこととして)「いい時代だった。みんな暢気(のんき)だった。カラオケなんてものはなかった。みんな勝手に歌っていた」
武運長久(ぶうんちょうきゅう):戦いでの幸運が長く続くこと。
薯のツル(いものつる):こどものころ、よく食べました。
摸糊(もこ):ぼんやりしている。はっきりしない。
カルマ:宿命
寂寥(せきりょう):ものさびしい。ひっそりしている。
励まされます。
さらに長生きしてください。
おもしろかったです。
(追記)
以前、黒柳徹子さんが長生きの秘訣を問われて「反省しないこと」とおっしゃっていたことを思い出しました。賛成です。過去を変えることはできません。あれはあれで良かったと思うしか手段がないのです。