2019年06月12日

もぐらはすごい アヤ井アキコ

もぐらはすごい アヤ井アキコ 2019課題図書 アリス館

 もぐらを研究するための図鑑みたいな絵本だろうか。
 日常生活のなかで、じかにおとなのもぐらを見たことはありませんが、体長3cm程度の無毛のあかちゃんは小学校低学年のときに道ばたで拾ったことがあります。もう、死んでいました。
 マンガ本と映画で「ヒミズ」という作品を観たことがあります。モグラという意味です。親から虐待を受けている子どもが反抗する意思の強い映画でした。この「もぐらはすごい」という本の後半でも「ヒミズ」という名前が登場します。勝手に「がんばれもぐら」とか「もぐらでもがんばれ」、「もぐらでもがんばれる」とひとりでもりあがっています。ただ、がんばっても、もぐらはもぐらでしかいられないので、おいらは、もぐらとして生きるのだと、最後は、開き直ってみるのです。
 もぐらには目がないと聞いたことがあります。この本の中では、目はあってもほとんど見えず、明暗程度はわかるようですが、目の代わりに、ふれて判断する触角が発達しているそうです。ふれれば、ふれたものがなにかがわかる。感受性が鋭い。

 タイトルにしたがって、もぐらのすごいところを列挙します。
1 両前足の土を掘る力がとても強い。ふつうのこどもにたとえると、体重100kgをこえるおすもうさんを4人ももちあげることができるそうです。
2 まっくらな土の中をスムーズに移動できる。見えない危険を察知できるほど触角が発達している。はなの先にセンサーとなる「アイマー器官」があるそうです。
3 穴掘りに適した体格をしている。まっすぐ進むために流線型です。新幹線みたい。
4 もぐらはおおぐいと紹介されています。小学1年生体重20キロの子だと、一日10キロ食べることになります。とても、食べきれない量です。
5 土の下、もぐらの家は、アリの巣のようです。眠るところベッドルーム、用を足すところであるトイレのレストルーム、食料を備蓄するルームもあります。人間でももぐらでも貯蓄は大切です。
6 行動範囲が広い。見えない地中で、もぐらの穴が、網の目のように広がっています。あちこちのおうちへ「こんにちは」と顔を出せそうです。
7 もぐらにも親子があります。子は、夏になる前に巣立ちをして、自分のすみかとなる穴を探しに行きます。地上には、もぐらをたべようとする動物がいっぱいいるのでこわい。からす、たぬき、いぬ、ふくろう、いたち、敵だらけです。
8 もぐらは泳ぐことがとくいです。ちょっと意外。あんがい、動物の中で一番泳ぎがへたなのは人間かもしれません。

 柔らかい土は掘り進めやすいけれど、硬い土はそうはいかない気がします。やはり、かちんかちんの土は避けるのだろうと思いますが、本にはそのことは書いてありません。
 
 本を読んでいる途中で、昔、「あんぱんまんともぐりん」というVHSテープで見たアニメを思い出しました。地面の中をドリルで進むかっこいい乗り物で、ばいきんまんがあやつっていました。VHSテープとデッキは今も家に残っていて年に数回見ることがあります。

 もぐらは1日3回のサイクルで、食べる・眠るを繰り返すそうです。8時間勤務ですね。8×3で24時間1日です。眠って身体を休めることは大事です。たべてばかりいたら体をこわします。

 もぐらのうんちから生えるナエノスギタケというきのこがあるそうです。そのきのこの根っこが、地中深くもぐらのトイレまで続いています。びっくりしました。
 
 本の後半は、「モグラ博士の標本室」です。もぐらが大好きな先生が解説してくれます。
 もぐらは謎が多い動物。まず、アイマー器官という名称の触角。次に、前足を動かす肩の骨がつながっている。だから、てこの原理で強く大きな掘る力を出せる。硬い土でも掘ることができるそうです。
 
 寒い北海道にはいないそうです。なお、自分で調べたら、もぐらの寿命は5年ぐらいだそうです。人間だったら、小学校に入る前に天国へいってしまいます。もぐらは身近とはいえませんが、地球上にはたくさんの生き物がそれぞれの生活を送っていることがわかります。地球は人間だけのものではないのです。  

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2019年06月11日

赤い蝋燭と人魚(あかいろうそくとにんぎょ) 小川未明

赤い蝋燭と人魚(あかいろうそくとにんぎょ) 小川未明・作 いわさきちひろ・画 童心社


 1921年、大正10年の作品です。人魚が人間に復讐します。恩をあだで返された(恩に感謝されず、逆に害を加えられる)ことに対する復讐と信頼関係の裏切りに対する復讐です。
 出だしがいい。「人魚は、南の海にばかりすんでいるのでない」から始まります。人魚と聞いてイメージするのは、アンデルセン童話の人魚姫です。(1837年発表。江戸時代後期)たしかにアンデルセンの人魚は南の海にすんでいるではありません。北の方、北欧の海にすんでいます。この物語「赤いろうそく…」では、日本海に面した新潟県がモデルとなっているそうです。
 人魚の母親が考える人間は、「かわいそうなものや頼りないものはけっしていじめない」。誤解があります。人間は自身を守るために、耐えきれなくなって、最後に最愛の人を捨てる面ももっています。そんなことは知らず、人魚姫は人間をいいほうに誤解して、産んだばかり娘を、ろうそく屋を営む人間の老夫婦に託します。(どうして、若い夫婦ではないのだろう。そこが民話です。)
 場所の状況は、岬の突端の小高い山にお宮があるという日本各地で見られるような風景です。捨て子として、人魚の女児あかちゃんが、お宮の階段下に置き去りにされます。
 老夫婦は、人魚の子を人間のこどもではないけれど育てていくことにしました。
 下半身は魚ですが、顔立ちは美しい。彼女が赤い絵の具で書いたろうそくは、厄除けになります。災難を避けることができます。それは、人魚の母親の人間に対する恩返しでしょう。
 小さな点だったきっかけが、だんだん広い世界に広がっていきます。
 老夫婦はお金がほしくて良心を失い、人魚の娘を見世物小屋の経営者に売ってしまいます。人身売買です。怒った人魚の実母は、こらしめのために人間たちに「嵐」という罰を与えるのです。船は荒海で難破します。
 子ども向けの童話ですが、「復讐」という素材にしにくい素材を上手に作品化してあります。善意を裏切ると仕返しが待ち受けているのです。
 
 巻末の解説で、小川未明さんの次女で、岡上鈴江(おかのえすずえ)さんという方が文章を寄せておられるのですが、その内容が味わい深い。英語で「亡くなる」ことをパス・アゥエイというのですが、巻末の解説を書かれた当時、ご友人らがパス・アゥエイされています。(1975年頃)そして、ご本人は、2011年に97歳でパス・アゥエイされています。人は死んでも作品は残るということを記されています。作者はいなくなっても本は残る。「芸術不老」という言葉で文章を結んでおられます。
 この作品の場合、「復讐」とか、「仕返し」とか、永い時を経ても変わることのない悪ある心理を作品にこめてあることがわかります。信頼を裏切られると「憎しみ」が生まれます。だから、信頼を裏切ってはいけないという作者のメッセージが代々伝えられています。  

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2019年06月10日

ラブ・ユー・フォーエバー ロバート・マンチ

ラブ・ユー・フォーエバー ロバート・マンチ 岩崎書店

 1997年発行、これまでに55刷されているロングセラー絵本です。最初に全体のページをめくりました。加藤登紀子さんとか杉田二郎さんの、もう昔の歌ですが、フィリピンのフレディ・アギーラという人の「アナク(わが子、日本語タイトルは息子)」という歌のイメージが湧きました。親不孝者の息子を慕う母親の歌でした。
 おかあさんが、あかちゃんを胸の上に抱いてあおむけになっている絵がなんども出てきます。
 母親はこどもをだっこして、この子はわたしのこども。ずっとわたしのこどもと周囲にメッセージを送ります。
 2歳のあかちゃのようすが絵になっています。絵のとおりです。動き回って、親の言うことなんかきいてくれません。トイレットペーパーはのばしほうだい、雑誌や本は散らかりほうだい。鏡台は横に倒れ、テーブルの上には、からだごとのっかります。植木鉢もひっくりかえっています。
 母親の息子に対する独占欲は強い。ちょっと読んでいて引く部分があります。
 9歳の息子はさらに悪くなります。母親は途方にくれます。
 忍耐です。子育てはつらいです。
 ティーンエージャーになった少年は、クレイジーです。へんな服を着て、へんな友だちとつるんで遊びます。でも、絵はおもしろい。絵による表現がうまい。赤いサングラスをかけて、舌を出して、トランペットやドラム、エレキギターをかきならしています。
 それでも、母親にとっては、こどもはこどもです。だんだん、母親もこどもも歳をとっていきます。
 少年はおとなの男子になって家を出て行きました。
 忙しいけれど、母親の押しつけの愛情があります。子離れができない女性です。
 おかあさんはとしをとって、歌も歌えなくなって、元気がなくなりました。
 おかあさんがいなくなって、そのかわりなのか、息子は自分の子ども、女の子を胸に抱いています。
 伝承です。途中経過はいろいろあっても最後はここにたどり着く。
 命は永遠に続いていく。
 アリスン・マギーの「ちいさなあなたへ」とか、エイミー・クラウス・ローゼンタールの「おかあさんはね」と同じジャンルの親を讃える親向けの絵本です。  

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2019年06月08日

北の国からDVD 1981年10月‐82年3月

北の国から DVD 1981年10月~1982年3月(昭和56年-昭和57年)

 国民的なドラマです。「男はつらいよ フーテンの寅さん」満男役吉岡秀隆さんの子ども時代です。なつかしい。久しぶりで優しいバックミュージックを聴きました。ドラマに感動して北海道の富良野へは2回行きました。今の60歳以上ぐらいの人たちにとっては、思い出深いドラマでしょう。心を支えられた人たちも多かったでしょう。

第1巻 第1回・第2回
 もう40年ぐらい前のドラマなのですが、劇中分校の先生の原田美枝子さんが、「今と昔では大人も子どもも変わった。東京の子どもは苦手です」というようなことをセリフで言われます。今の時代にも通用するセリフです。
 「東野・岡村の旅猿」で、布部駅に田中邦衛・純・蛍が着くシーンの再現をやっていたのを思い出しました。
 手作り感が満載のドラマです。
 自分が小学校低学年の頃は、日本の田舎では、電気はあっても、水道やガスがないところはわりとあった記憶です。水は山に汲みに行っていたし、火は、薪や豆炭・石炭類で、釜戸や七輪でした。だから、ドラマの内容がすんなり気持ちに入ってきます。

第2巻 第3回・第4回
 この時代に生きていた人たち、もうこの世からいなくなった人たちの体験がドラマの中にあります。セリフが素直です。真剣な物語です。かつ、まじめな物語です。
 東京から逃げ出したい竹下景子さんと東京に帰りたい吉岡秀隆さんの対比があります。
 生きている(生活している)ってどうしてこんなに悲しいのだろう。
 夫婦、親子、きょうだいが離ればなれになることはつらい。
 大滝秀治さんの言葉が身に沁みます。「おまえら、負けて逃げるんだ」思うに、世の中というものは、今逃げなくても、いつかはもういなくていいよと告げられるときが必ずきます。
 宮本信子さんが弁護士役で出てくるのですが、今並行して「あまちゃん」を観ており、同劇中の天野夏おばあちゃんと同一人物とは思えないほどの雰囲気です。
 蛍ちゃんがかわいくてけなげです。守ってあげたい。蛍は、母親の浮気現場を父親と一緒に観てしまった。だから、父親の黒板五郎役田中邦衛さんを強くかばいます。純(吉岡秀隆)はそのことを知らないから母親のところへ帰りたい。(だけど、そこには母親の浮気相手の男がいる)
 手紙の時代です。母から子へのせつない手紙の一方的な差し出しがあります。
 田中邦衛さんは、武骨な父親です。名演技が光ります。

第3巻 第5回・第6回
 純の言葉として、「算数よりも(おふろのたきつけにするたきぎに)火をつけるほうがむずかしい」から始まります。電気もガスも水道もありません。
 笠松のおじいさん(正吉君のおじいさん)が登場します。開墾をした古老です。彼にも言い分があります。
 人間の言動の矛盾がいっぱいこめられたドラマです。人は弱い。
 ときおり純君が語る「恵子ちゃん…」が効果的です。
 マフラーを編む竹下景子さんは微妙な存在です。北村草太も学校の先生も含めて、ひとりひとりに欠点があってからみあいます。ちいさな子ども二人には、竹下景子さんが東京へ戻ったあとも「がんばれ、がんばれ」と声をかけたくなります。

第4巻 第7回・第8回
 子どもたちがおとなに隠れて、東京に住む母親いしだあゆみさんに電話をかけます。ダイヤル式の黒電話です。もう40年近く前のドラマです。メールとかラインとかスマホとか、電話や通信手段は急速に変化しました。その後に生まれた世代には理解しがたいシーンでしょう。
 人間の心には黒いものがある。いろんなことがうまくいかないドラマです。本来支え合うべき家族同士が、いびつな形で、夫婦、親子、きょうだい関係を築こうとします。こどもふたりが両親の離婚に耐えています。
 クリスマスプレゼントのスキー板が素敵でした。
 田中邦衛さんが若い。
 カラオケがなかった時代の宴会です。
 いしだあゆみさんと吉岡秀隆さんの電話の演技が泣かせます。
 吉岡秀隆さんは、都会の少年としての演技が優れています。
 水道がない家に山から水が引かれます。開通時は、見ている方も興奮して感動します。ドラマの中の設定ですが、実際に現物を見たことがあります。水道を引かない生活を送っている人が今も実際にいます。
 ひとときも気持ちが休まる瞬間がない筋立てで、ジェットコースターに乗っているようです。シーンに出てくる年賀状も数が減りました。正月の風情も薄らぎました。されど、男女関係のもつれは今も昔も変わりはありません。
 無音に近いような無言劇が効果的でした。

第5巻 第9回・第10回
 母親のいしだあゆみさんが東京から北海道の純と蛍に会いに来ますが、父親の田中邦衛さんは会わせません。勝手な父親像です。なんとでもなるのにがんこです。不倫をしたいしださんを許せません。
 仏教における業(ごう)の世界です。理性でコントロールできません。
 草太がいい感じでからんできます。正吉の母親の言葉「人にはそれぞれ自分の理屈にならない気持ちがあるんだ」が五郎をかばいます。
 旭川空港から羽田空港に東亜国内航空のプロペラ機で帰るいしだあゆみさんがいます。時代を感じさせます。
 ああ、ここに、親子がいる。
純と蛍は父親をかばいます。
 第10回では、老いた馬が竹下景子さんと純を救います。北海道の冬は吹雪で過酷です。孤独な老人の大友柳太朗さんが優しい。蛍とのお手玉のシーンが良かった。

第6巻 第11回・第12回
 命の恩人だから10万円払え。同居の叔母と父ができている。なんでもつまびらかにするドラマです。野生のキタキツネに餌付けをすることの是非を考える。男と女の気持ちのすれ違い。
 加害者が被害者になり、被害者が加害者になる。人間には二面性がある。
 蟹江敬三さんは、警察官役で、きのう観たあまちゃんでは、遠洋漁業の漁師役で、その間に長い歳月が流れていて、風貌も変わっていて、やはり、北の国からの頃は若い。
 竹下さん、田中さん、吉岡さん、中嶋さん、みなさん芸達者で、観ていて楽しい。
 黒板純は、意地の悪い男の子です。
 心に残ったセリフとして、「お金を使わずにそのことをやってきた人にとって、そのことにお金を使うのはばからしい」、「生き物に名前を付けると手放す時に心が痛む」
 正吉のおじいさん役である大友柳太郎さんは哲学者です。ドラマにおいても現実においても、亡くなったのは残念です。

第7巻 第13回・第14回
 いしだあゆみママが病気です。亡くなることがわかっているので、複雑な心境で観ています。自身の病気治療よりも病院を紹介してくれた人物に気をつかいます。昔はそういうことがよくありました。
 大人の世界があって、子どもの世界があります。その間を音楽がつないでいます。
 東京は坂が多い。
 気持ちを言葉で上手に表現してあります。
 松山千春さんの歌が流れている。

第8巻 第15回・第16回
 40年ぐらい前の映像に、当時の北海道の自然風景があります。現在放映されているNHK朝ドラ「なつぞら」と雰囲気が重なる部分もあります。子役さんたちの演技時間が長いので、児童文学を読んでいるような感じもします。男子が性に目覚めるあたりがおもしろおかしい。
 内容は、暗く、厳しい。昔は温情がありましたが、今は、アルコールに溺れて不祥事を起こすと糾弾されます。馬を売って、正吉君の祖父は、自らの命も失いました。きついものがあります。人間は、世話になったものを裏切るという残酷な面をもっています。
 なにもかもがうまくいかず、雨は降り続く。中島みゆきさんの歌の詞が紹介されます。
 こういう手づくりのお葬式は少なくなりました。
 第16回では、盛りだくさんの出来事が続きます。新居である丸太小屋の設計も始まります。離婚した妻の容体は悪化します。
 人は、ドラマを見ながら、登場人物のうちの誰かに自分を重ねていると思うのです。

第9巻 第17回・第18回
 父親から、両親の離婚が正式に決まったことを聞かされる。親に、どっちについていくかをたずねられる。通っている分校が廃校になって、本校へ転校する。ついていった父親に女ができる。小学生の兄と妹にとっては、あんまりにもひどいしうちではありますが、ありえることです。
 先生役の原田美枝子さんが母親役のいしだあゆみさんに語った言葉が良かった。「(こどもたちふたりは、北海道の冬を越して暮らして)最高の体験をなさっています」、「なにより、お父さんの育て方が素敵です」、「ふたりとも本当によく耐えました。(この半年間は)つらかったと思います」
 蛍の演技がすばらしい。蛍は母親が浮気しているシーンを見てしまったからお父さんをかばいます。(親ってばかだなあと思います)
 なにげない日々の暮らしのなかに「しあわせ」があることがわかります。草太兄ちゃんが、蛍に優しい。
 心の支えにならないきれいごとだけの小説では、人が生きていくのには無意味なのです。
 空知川のいかだ下りです。このドラマから40年近くが経つのに、いまだに、「北方領土を返せ」の旗をいかだに立てようという話が出ます。
 男と女のマッチングがうまくいかない。
 UFO(ユーフォー)を見たという話は、これはこれでいい。物語はこれでいい。

第10巻 第19回・第20回
 ボクシングのトレーナー役をするガッツ石松さんが若い。
 純はほんとうにおしゃべりな男で、いらぬことをしゃべってしまうわけで、それだからドラマがおもしろくころがるわけで、純の自分に対する情けない思い、くやしい思いが視聴者に強く伝わってきます。
 1981年夏、もう40年ぐらい前のことです。
 こごみさん。いたなあ。
 こどもがよいのくちに各家を周りながら、「ろうそくだせだせよ ださないとかっちゃくぞ」とかけ声を出しています。「かっちゃくぞ:ひっかく。北海道の方言」
 失敗した純に、再挑戦の機会を与えるも中途半端な結果しか出せない純がいます。音楽が優しい。
 よしもとつららの源氏名が「雪子」で、ドラマのつくりかたがうまい。

第11巻 第21回 第22回
 テレビ放映から40年ぐらいがたった今、登場人物として出た人のうち亡くなられた俳優さんもいるし、年をとられた俳優さんもいます。
 もう、今となっては、遠い昔のことです。濃厚な人づきあい。アルコール、タバコ、演歌、フォークソング、ニューミュージック。いい時期、いい時代だった頃のことを過去としてふりかえってドラマを見ています。
 ボクシングトレーナーガッツ石松さんの言葉には重みがあります。「負けたみじめさに耐えきって生きる」
 トルコ嬢になったつららさんとその原因のきっかけになった雪子さんの会話を聞きながら考えます。人生って何だろうと。善とか悪とかじゃなくて、しあわせの基準って何だろうと。深く考えます。最大の原因は、男の心変わりです。
 22回では、冒頭の映像に葉っぱの上にでんでんむしがいます。先日読んだ新美南吉さんの童話「でんでんむし」を思い出します。でんでんむしは、その背負った殻の中に、悲しみがいっぱい詰まっているのです。
 描かれている子どもたちの世界が楽しい。
 新築中の丸太小屋は立派です。(確か、さきざき、純の失火で、燃えてしまうのでした)
 別れた妻の妹と別れた夫とこどもたちが同居して暮らすというのは、今考えるとありえない設定です。でも、小説・ドラマの世界では制限なしです。なんだかんだで、子どもたちがかわいそうです。
 黒板五郎は、あれこれ文句を言うけれど、妻が浮気をしなければならないほど、妻を孤独に追い込んだのはあなたです。そして、その妻は、病気で短い人生を終えました。

第12巻 第23回 最終回
 純と蛍にとっては大きなショックです。両親離婚後病死した母親の葬儀に母親が以前から付き合っている男の小学生の男の子ふたりが来て、男が「じゃあ、おまえたち、おかあさんにお別れを言いなさい」とうながします。
 黒板五郎が、北海道から、飛行機ではなく、電車で東京まで来たのは、お金がないから。
 40年ぐらい前、飛行機には簡単に乗れるような雰囲気ではありませんでした。
 ドラマのなかで、アパートでお葬式をするように、葬祭場での葬式もあまりありませんでした。
 純と蛍の運動靴のエピソードは胸にぐっとくるのですが、「もったいない」の精神は、いまでは、「ごみ屋敷」につながる要素になってしまいました。
 昔は、人間関係に義理立てして、特定の病院を信じてよそにはかからない傾向もありましたが、いまでは、複数の病院を受診するように変わりました。
 手書きの手紙は少なくなり、メールとか電話、テレビ電話もできるようになりました。
 世の中の考え方が、180度変わった感じがします。それなりに住みやすくはなっています。
 大滝秀治さんのひとことひとことが胸にしみます。厳しくとも優しい。
 「(北海道の農民は自然災害に無力で)あきらめることに慣れている」、「神さまは、つらくあたってくることもある」
  草太が雪子に言います。「(別れたつららとつきあった期間の)2年8か月間、おいらはもうあんたには会わない」2年8か月後というのは昭和59年4月であり、草太は32歳、雪子は29歳になります。時が経つのは早いもので、昭和を過ぎて、平成になり、平成も終わり、令和の時代になりました。2年8か月はあっという間です。このとき、このドラマのシリーズ化の構想はあったのだろうかと思いました。もう、これで、最終回です。
 もう1回、最初からビデオを観てもいいなあという気持ちになりました。
 あー、最後に、蛍が餌付けをしていろいろトラブルがあって姿を消したキタキツネが戻ってくるんだ。
 思いどおりにいかない暮らしの中で、ほんの少しだけ、幸せを感じるひとときがあります。
 純の言葉、「この1年で(自分たちは)強くなったんだ」
 亡くなったお母さん、いしだあゆみさんの書きかけの手紙が伏線となって、ラストシーンにつながります。北海道の大空に浮かぶ雲の情景です。  

2019年06月07日

東京都葛飾区の亀有を訪問しました。

東京都葛飾区の亀有を訪問しました。

 最初に、駅前のアニメ像の前で記念撮影をして、そのあと、像に向かって左手にある複合施設リリオ館7階にある子どもさんのための図書館「絵と言葉のライブラリーミッカ」に、未就学児の孫たちと立ち寄りました。(おとなだけでは入れません)昼食は、図書館のお隣にあるレストラン「クリマ」でとりました。
 そのあと、「ゆうろーど」を散策してから、アリオ亀有の3階でゲームをして遊びました。店舗の駐輪場にたくさんの自転車がとめてあったのでびっくりしました。30年ぐらい前に放置自転車の路上撤去回収後の集積場を見たことがありますが、そのときよりもはるかに多い台数の自転車が店舗敷地内に停めてありました。このあたりの人たちの足はおもに自転車なのでしょう。東京は、人も物も総量がすさまじく多く、空気まで薄くなっているような感じがして、呼吸が苦しく思えるときがあります。東京の人たちは忍耐力がすごいなあと頭が下がります。
 訪問の最後に、亀有香取神社で、いいことがありますようにとお参りをして、帰路に着きました。











「絵と言葉のライブラリーミッカ」のライブラリー部分です。棚にはこれまでに読んだことがある絵本もあるし、読んだことのない絵本もたくさんありました。




ミッカのシアター部分です。観客席です。観客席の向かいに舞台部分があります。絵本の読み聞かせとか、落語家さんの小話、落語ほかのイベントが開催されています。




ご当地なので、こち亀のマンガ本もあります。




ゆうろーどで見ました。太いまゆ毛に笑いました。両津勘吉ふうのぞうさんです。











神社には、亀のつくりものがあちこちにありました。







ゆびの先にはなにがあるのだろう。  

Posted by 熊太郎 at 05:57Comments(0)TrackBack(0)東京

2019年06月06日

どうぞのいす 香山美子

どうぞのいす 香山美子(こうやま・よしこ)作 柿本幸造・絵

 1981年発行、2019年3月で129刷のロングセラー絵本です。
 タイトルから察すると、たとえば、幼児同士が、おもちゃのとりあいというトラブルを回避するために相手にゆずる「どーぞ」を想像するのですが、この絵本の内容はそれとは異なります。
 「どうぞのいす」の始まりです。
 うさぎさんが大工仕事で、お手製のちいさな木製椅子をつくります。
 のこぎりで、ぎこぎこ、かなづちで、くぎうち、とんとんです。
 よいしょっと。できあがり。
 丘の上にいすをおいて、そのよこに「どうぞのいす」と書いた看板を立てました。
 すずめたちが、ちゅんちゅんとさえずりながら、看板をながめています。
 どんぐりをたくさん背負ったろばさんが登場しました。
 ろばさんは、うさぎがつくったいすにすわるのかと思いきやすわりません。
 いすのうえにはどんぐりをのせて、ろばさんは、そばの木によりかかって眠ってしまいました。ねんねー
 ろばさんは、どんぐりひろいで、つかれてしまったのでしょう。
 「つい おひるね」してしまいましたとありますが、「つい」ではなくても疲れたらおひるねしてね。
 とおりかかったくまさんが、いすのうえにおいてあったどんぐりを食べてしまいました。だって、「どうぞ」の看板があるからです。
 かごからもらったら、おかえしになにかをかごに入れなければなりません。日本人の慣例です。もらったら、お返しをします。
 どんぐりのかわりに、「びんいりはちみつ」 オッケーです。
 パンをかかえたきつねさん登場
 パンにはちみつをつけて食べましょう。
 でも、きつねさんは、はちみつだけをなめなめしました。
 すずめが、からになったはちみつびんをなめています。はちみつのかわりがパンです。
 日本人らしい作品です。日本人は、自分はどう思うかの前に、ほかの人はどう思うかを考えます。
 最後にどうなったかは、ここには書きません。
 おとなしいお話でした。
 どんぐりは、なにかに変化しました。眠りから目を覚ましたろばさんは、ものすごくは、びっくりしていません。
 最後のページ、一日が終わる夕映えです。平和です。めでたし、めでたし。  

Posted by 熊太郎 at 09:51Comments(0)TrackBack(0)読書感想文