2023年10月31日

ローカル路線バス乗り継ぎ対決旅 鬼ごっこ9 埼玉

ローカル路線バス乗り継ぎ対決旅 寺島進電撃参戦&秋の名所名物祭り! 鬼ごっこ9 in 埼玉

 これまで両者の対戦成績は、4勝対4勝です。

 太川陽介チーム:副島淳 須田亜香里
 松本利夫チーム:寺島進 Reina(レイナ(MAX))

 2か所ぐらいとても面白いシーンがありました。
 ひとつは、鬼担当の松本利夫チームがタクシーで追いかけて、歩いていた逃げ子の太川陽介チームに追いついたシーン。
 もうひとつは、逃げ子担当の松本利夫チームが、ギョーザライスを食べている食堂に、鬼担当の太川陽介チームが無意識に入ろうとして、ぎりぎりで、入らなかったシーン。ともにスリルがあってドキドキしました。

 コミュニティバスを利用するシーンが多い。
 バスの利用者が減りました。
 バスの運転手も減りました。
 バスの運行本数も減りました。最後のららぽーと行きは、一日1本しかありませんでした。たしか、12時35分発の1本のみでした。よく、バス路線として成立しているものです。そのうちなくなってしまうのではないか。
 全国的な傾向だと思います。バス運行の衰退をとめられそうにありません。
 鉄道が廃線になり、バス路線が廃線になり、これから日本人社会はどう変化していくのだろう。人口減少とともに経済活動は衰えて貧富の格差が広がりそうです。

 忍城(おしじょう)が出てきます。名作『のぼうの城 和田竜 小学館』は読みました。その後製作された邦画も映画館で観ました。
 「のぼう」とは、「でくのぼう」の「のぼう」であり、「でくのぼう」とは、城主成田長親(なりた・ながちか)氏を指します。城の名前が「忍城(おしじょう)」、現在の埼玉県行田市(ぎょうだし)所在地となっています。
 忍城の記述の前に備中高松城(現在の岡山県が所在地)の水攻めの様子が描かれています。豊臣秀吉の豪快な水攻めに感動した石田三成は、「忍城(おしじょう)」を水攻めにしますが、大失態を演じてしまいます。なにゆえそうなったかの経過が歴史事実を基に創作されています。

 城主のタイプが、小説では、ぼーっとした大男でしたが、映画では、細い人でした。(野村萬斎さん(のむらまんさいさん))
 映画は、2時間半ぐらいの長時間でした。お尻は痛くなりましたが退屈はしませんでした。評判の良い映画です。小説の内容とは少し違うような気がするのですが、長編を2時間枠に入れて映画化するためには、ポイントを絞って表現することになります。
 本作品の場合、「人心をつかむ」、庶民にやさしい君主になることです。小説よりも映画のほうが、主人公像に愛着が湧きました。

 城主成田長親(なりた・ながちか)役をつとめる野村萬斎さんは熱演です。能楽師の演ずる世界を堪能しました。顔を白塗りして踊る姿は、志村けんさんのようでした。面白く楽しく人をひきつける性格がよく伝わってきました。400年前の風景映像もきれいでした。

 今回のバス旅で、太川陽介さんはこれまでとは違う対応をとられました。メンバーのふたりに頼るようになりました。以前は、自分の思いどおりにやりとおす人でした。がんこでした。
 されど、最近は、加齢に伴うチョンボが散見されるようになりました。目が見えていない。物忘れをするなどです。体力も落ちてきているのでしょう。人はだれしもそうなります。
 老いを受け入れられたのでしょう。それでも、勝負には勝ちました。支えてくれた副島淳さんも須田亜香里さんも素敵で優秀な人材でした。

 むかし、太川陽介さんとえびすよしかずさんは、路線バス乗り継ぎ人情旅でがんばっておられました。えびすよしかずさんは、認知症になってしまいましたが、今は、週刊誌でコラム(ちょっとした囲み記事)を書いておられるので楽しみに読んでいます。編集者の助けもあるのでしょう。
 先日はマネージャーに連れられて、東京平和島でボートレースをしたけれど、自分が平和島にいるということが、はっきりと理解することができないということが書いてありました。

 若い頃にリーダーシップを発揮して、組織やグループをまとめて、生き生きとしていた人が、超高齢者になって、認知症で家に引きこもりになってしまっているという事実も現実にはあります。
 気をつけていても認知症になってしまう。なんともしようがありません。昔は認知症になる前に寿命が尽きて(つきて)あの世へ旅立っていました。いまは、長命になったぶんだけ、認知症の発症が目立つようになりました。脳みそが退化していくのです。なかなか防げません。個人差があるのが不思議なところです。超高齢者でも頭がはっきりしている人はいます。脳みそが病気にかかっていないのでしょう。

 バスの中での女子高生と寺島進さんとのやりとりが良かった。寺島進さんのファンである女子高生です。ほほえましい。感激で涙を流している女子高生を観ていて思い出した昔のバス旅の名シーンがあります。
 『太川陽介&蛭子能収(えびす・よしかず)の旅バラ 新潟県高田城から福井県東尋坊(とうじんぼう)北陸4県(新潟-富山-石川-福井) ローカル路線バス乗継の旅 ゲスト:遼河はるひ(りょうが・はるひ。元タカラジェンヌ) 2019年10月放送分』
 宝塚歌劇団ファンの女子高生が、通学途中の朝のバス車内で、偶然タカラジェンヌの遼河はるひさんと前後ろ(まえうしろ)の席になって(女子高生が前)、女子高生が感激のあまり涙していたのに自分もつられてもらい泣きをしてしまいました。
 女子高生は、自分はタカラジェンヌになりたかったけれど、宝塚音楽学校の受験をあきらめましたというような話をされていた記憶です。
 タカラジェンヌ:宝塚歌劇団の団員の愛称
 遼河はるひさんが、バスの中で、女子高生にした話が良かった。「(自分は)人生のすべてで使う根性をそこで(宝塚歌劇団で)使い切った」。
 高校の前のバス停で、バスから降りた女子高生が、感激のあまり、そばにいた女子高生の友人に抱きついて大声をあげて泣き崩れていました。
 なんというか、つらいことがいろいろあっても、生きてて良かったなと思う偶然の瞬間があります。あきらめていた夢がかなったり、美しい景色を観たり、おいしいものを口にしたときなどです。
 極端な話になると、自殺を思いとどまった人が、その後、自分はやっぱり生きていて良かったなと思うことが必ずあると信じています。たしかそんなことを、邦画『男はつらいよ』のなかで、寅さん役の渥美清さんが甥っ子役の吉岡秀隆さんに話していました。
 映画もドラマも、いつまでも心に残る名シーンがいくつもあります。

 こちらの番組では、埼玉県川越で地元のウナギ料理が紹介されたのですが、ウナギの産地は、愛知県西三河であり、なんというか、あまり、境界にこだわる必要もないのではないかと思ったのです。日本人は、区域にこだわって対抗意識をむきだしにする性質がありますが、閉鎖的な思考からは、もう脱却したほうがいい時代になっていると思います。スポーツの世界では、外国人の顔をした日本人がいっぱいです。
 川越では、太い麺の焼きそば、卵焼き、カレーが同じ皿に盛られた『ごちゃき』がおいしそうでした。
 
 寺島進さんの乱暴な物言いがおもしろくて楽しい。
 以前刑事ドラマ『相棒』で、かっこいい寺島進さんのお姿を拝見したことを思い出しました。
 『相棒 シーズン13 2014年(平成26年)10月から2015年(平成27年)3月』
 「第十話 ストレイシープ <スペシャル>」
 クリスマスの時期のスペシャル二時間版でした。
 ストレイシープ:新約聖書に出てくる羊が迷ったお話だそうです。100匹のうち1匹いなくなって探しますかというおたずねで、なにを言いたいかというと、人間にもいなくなっても探してもらえない不幸な存在としての人物がいるということのようです。ときに、宗教的な雰囲気に包まれることが相棒の特色です。いなくなっても気づかれない存在です。人として、それは、とても寂しい。犯人が杉下右京に投げかけた言葉です。『あなたには、探してくれる人がいるのですね』杉下右京さんには相棒の甲斐享くんがいます。
 スナイパー(狙撃手)の寺島進さんが痛快でした。かっこいいーー 異次元のスーパーマンです。

 こちらのバス旅の番組では今回も鬼ごっこの醍醐味を楽しみました。醍醐味:だいごみ。大きな楽しさ。
 みなさん、お疲れさまでした。
 寺島進さんの言葉が良かった。『最後は、太陽が笑った。(太川陽介さんのこと)』
 克服と達成感があります。

(答え合わせの動画を観ました。映像の中では、松本利夫さんが同席です)
 バスの選択肢は多いが、バスの本数は少ない。(そのとおりでした)
 移動の途中で、松本利夫さんは、「勝った!」と思ったそうです。(結果は負けでした。太川陽介さんはすごいのです)
 
 タクシーの利用のしかたについてのアドバイスには、『なるほど』の連発です。
 鬼ごっこをしていることを、常に強く意識して行動することがだいじなのです。
 自分に有利なことは、相手にとっては不利なのです。

 あせるときこそ、ゆっくりと。(急がば回れ)
 松本さんは、その言葉が胸に響くそうです。

 松本さん:反省だらけだそうです。

 なかなか良かった。いい検証でした。  

2023年10月30日

つきのぼうや イブ・スパング・オルセン 

つきのぼうや イブ・スパング・オルセン やまのうち・きよこ訳 福音館書店

 読み終えました。まず、絵本のサイズが変わっています。縦が、34cmで、横が、12.7cm。細長い本です。この細長さを利用して、空の月から下にある地面、そして、海底までを絵で表現してあります。1975年(昭和50年)初版の絵本です。

 さて、もう一回、読みましょう。
 絵の天上にある黄色いお月さまです。顔があります。おじさんの顔です。
 おじさんの月の顔が、地球上にある地面のみずたまりに反射して映っています。顔は、ピースマークのようです。

 おじさん月の子分のような少年が登場します。『つきのぼうや』です。
 おじさん月『ちょいと ひとっぱしり したへ おりてって、あの つきをつれてきてくれないか。ともだちに なりたいのだ』(あのつきとは、地面のみずたまりに映っているおじさんの顔です)

 なかなか書けない文章です。
(つきのぼうやが)『とちゅうで うっかり ほしを けとばすと ほしは ながれぼしに なりました』
 
 へぇーー つきのぼうやが持っているカゴが三日月の形をしています。
 発想がいい。

 つきのぼうやは、時間をかけながら、宇宙から、地球の地上へと降りていきます。
 降りながらいろいろな生き物たちと出会います。
 展開がおもしろい。
 繰り広げられる出来事に動きがあります。
 ふーん。なかなかいい。高いところから低いところへの移動です。
 風が吹いています。動きがあります。
 凧(たこ)が揚がっている(あがっている)空です。
 高いところから低いところへ、縦長絵本の形が十分に活用されています。効果的です。
 ハロウィンみたいな(カボチャの顔をした)風船が浮かんでいます。
 なかなかいい。親戚に絵本が好きな5歳の女の子がいるので、こんど会った時にプレゼントしよう。
 
 なかなか地面に到着しない『つきのぼうや』です。
 地面を通り越して、『みずのなかへ とびこみました。』(水の中では、いろんな魚たちが、つきのぼうやに寄ってきます)

 つきのぼうやは、つきを手に入れました。(それは、手鏡です)
 つきのぼうやは、手鏡をカゴに入れて、今度は、空に昇っていきます。

 宇宙にいるつきのおじさんは、つきのぼうやが地上から持ってきてくれた手鏡に自分の顔を映して、鏡に映った自分をともだちだと思っています。
 幸せは遠くにあるのではなく、手元にあるのです。児童文学『青い鳥』を思い出しました。

 最後のページの絵がなかなかいい。
 つきのおじさんの顔、そして、地球の地上にいる人たちの月に照らされた影がいい感じをかもしだしています。  

Posted by 熊太郎 at 06:53Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2023年10月27日

敗北からの芸人論 平成ノブシコブシ 徳井健太

敗北からの芸人論 平成ノブシコブシ 徳井健太 新潮社

 著者は、こどものころ、母親が統合失調症で、母親のめんどうをみるヤングケアラーをしていたという記事をどこかで読みました。
 この本は、そんなご本人の自伝だろうと思って買いました。違っていました。(でも53ページには、ご本人のさきほどの件に関するコメントがあります)

 以前東野幸治さんの『この素晴らしき世界 東野幸治 新潮文庫』を読みました。令和2年(2020年)の単行本を令和4年(2022年)に文庫化してありました。週刊新潮に連載された記事のまとめです。徳井健太さんは、その東野幸治さんの週刊誌でのコラム欄筆記の担当を引き継がれたと、この本の冒頭付近で書いておられます。

 平成ノブシコブシの吉村崇さん(よしむらたかしさん)は、東野幸治&岡村隆史の旅番組『旅猿』でお見かけしました。『長崎県で何も決めない旅』のときに吉村崇さんの言葉が記憶に残っています。
 到着した翌日の朝食は長崎県の職員さんに勧められた食堂で食べました。三人は、朝食に貝汁定食を堪能されました。(たんのう:十分に楽しみ満足した)それは、おでんで、厚揚げ、牛すじもありました。貝汁は映像を観る限り、一般の家庭でつくる形態のもので、九州地方にあっては、ふだんの生活で食べる食べ物に見えました。
 吉村崇さん『(自分は)なんで東京になんか住んでいるのだろう。こんなおいしいものが地方にはいっぱいある』おいしい食べ物を食べて、美しい景色に包まれて暮らしを送る。
 働いて、ある程度お金が貯まったら地方で暮らすのも人生を楽しむ手法です。三人は『100点の朝』と満足されました。

 徳井健太さんは、以前、ケーブルテレビで放映されるマージャンの番組でよくお見かけしました。また、太川陽介さんとのバス旅番組でも見た記憶があります。路線バスで鬼ごっこ群馬県編だったと思います。最後に太川チームがタクシーで大逆転をした痛快な回でした。

 この本は、お笑いの人の人物伝です。
 文字を拾いながら感想を付記していきます。

『東野幸治』
 別名を『ホワイトデビル』というそうです。知りませんでした。

『吉村崇』
 お笑いコンビは、『兄弟』のようなものと表現してあります。けして、仲良しとは限らない。仲が悪くても離れられない関係だそうです。

 平成ノブシコブシとして、信頼関係があるコンビの意識をもてるまでに15年がかかっています。
 吉村崇さんの徳井健太さんに対する生々しい言葉のナイフがあります。
 『あーあ、俺が二人いたら良かったのにな』
 さらに、
 『お前の大喜利を面白いと思っている奴なんて、一人もいねーからな』
 殺してやりたいと思ったそうです。(気持はわかります。でも、殺しちゃダメです)

 テレビ画面の映像などではわからなかった現場のようすが表現してあります。
 
 文章書きについて考えました。
 文章を書くことはとてもむずかしい。
 徳井健太さんが、こちらの文章を書いて、おそらく編集者の手が入っているのでしょうが、徳井健太さんの文章を書く能力は高い。凄み(すごみ。迫力)があります。本音を出して書いてある文章です。

『千鳥』
 この本は、お笑い芸人のテキスト本です。分析してあります。研究書です。
 ノブさんがけっこう苦労されています。大吾さんはだれからも愛される個性なのでだいじょうぶなのです。

『小籔千豊(こやぶかずとよ)』
 この方も番組『旅猿』で京都・大阪を巡っておられました。
 そのときの旅のテーマです。
①クレープを焼きたい。
②『フォートナイト』を旅猿のふたりに体験してほしい(わたしには何のことかわかりませんでした。調べたら暴力を素材にしたオンラインゲームでした)
③大阪に行きたい。NGK(なんばグランド花月)に行きたい。新喜劇座長を勇退する川畑泰史さんにお疲れさまでしたのあいさつをしたい。
④京都の一流料亭の味を楽しむ。(番組取材申し込みを断られないだろうとの読みがあります)

 この本では神社でのおさいせんの意味から始まっています。小籔さんは、おさいせんは、神社の維持費にあてられるから支払うべきだという理屈があって払っているそうです。

 寿司は、基本的に(寿司職人に)おまかせで注文する。寿司職人に、あれこれ個別に注文することは失礼だ。
 旅猿の番組も含めてですが、小籔さんは、むずかしい部分もある人だと感じます。

『渡辺直美』
 この部分を読み終えて軽いショックがありました。
 渡辺直美さんは、母親が台湾人で、渡辺直美さんが小さいときに母親は日本人父と離婚した。渡辺直美さんは台湾で生まれて、その後日本に来た。母子で極貧生活を味わった。渡辺直美さんは、母親が台湾の言葉で話すので、日本語を話せなかった。渡辺直美さんは、中卒アルバイトで芸人を目指した。渡辺直美さんにとって日本語は、日常生活で話す言葉ではないようです。

 徳井健太さんは、芸人には絶望を体験した人がままいると前置きしたあとで、自分の母親は精神病で自殺したというようなことをこの本で書いています。
(この部分を読んでいて思い出した言葉があります。もう35年以上前のこと、わたしが30代だったときに、年配の男性と話をして今も記憶に残っている男性の言葉があります。もう彼はこの世にはいない年齢です。年配の男性がこう言いました。『精神病の親とは(母親)、きっぱりと縁を切ることが、こどもの幸せにつながる』厳しいお言葉だと感じました。そのときは、情が(じょうが)ないと反発する気持ちが自分にはありました。小さなこどもは、そんな親でも慕うのです。
 歳をとった今はそうは思いません。精神を病んだ親の言動は異常です。場合によっては親子心中(しんじゅう。こどもが親に殺されて、親は自殺する)の危険もあります。
 そこまでいかなくても、こどもの心が壊れます。徳井健太さんも犯罪者といわれてもしかたがないくらい自分は荒れていたと記述されています)

 別の記事で、小学生の時に壮絶ないじめにあっていた人が、今は有名なお笑い芸人になっているという文章を読んだことがあります。人間は、絶望を体験すると、『死』を思い、なんとかして、苦痛を超越(ちょうえつ)すると『笑い』が生まれます。
 どうしようもない状況に置かれると、もう笑うしかないと思うことがままあります。

 渡辺直美さんは、日本語が十分にできないまま、お芝居のセリフを丸暗記するやりかたで自分の演技を演じきった。劇は、又吉直樹脚本作品『咆号(ほうごう)』:法名、戒名のこと。世界の終末がテーマの話だった。
 渡辺直美さんは、負けず嫌いだそうです。
 (東京オリンピックのときに、太った女性である渡辺直美さんのダンス姿が、ブタにたとえてあって、女性差別、女性蔑視(べっし。見くだし)にあたると指摘された演出があったのですが、渡辺直美さん自身は、「なんとも思っていません」というコメントだった記憶です)そのわけが、この本のこの部分を読んで理解できました。彼女はお笑いを求めるハングリー(貪欲(どんよく))なアーチスト(芸術家)です。グレート(偉大)です。

 まだページはたくさん残っていますが、今年読んで良かった一冊です。
 一項目ずつ、噛みしめながら読む文章です。

『コウテイ』
 わたしは知らない人たちです。
 著者の徳井健太さんも会ったことはないそうです。
 下田くん164cm、九条くん184cmです。
 今年1月に解散されています。この本は、2022年の発行ですから、原稿執筆時はコンビとして存在していたのでしょう。
 ふたりの身長差があるので、高低→コウテイだそうです。(ネット情報として。後付け理由として、自分たちが売れるという肯定、お笑い界の皇帝)
 下田くん(「しもた」と読むそうです)と霜降り明星の粗品くん(はじめて聞いたとき、人の名前とは思えませんでした)は絆(きずな)がとても強いというようなことが書いてあります。
 昭和時代の本格派漫才とあります。

『加藤浩次』
 この方については、語録が紹介されています。
 『比較論じゃ、人は幸せになれないんだよ』(ごもっともです)
 著者の徳井健太さんの文章に関して言えば、独特な表現があります。『傾いてなんぼ(かぶいてなんぼ)』勝手なふるまい。奇妙な身なりという意味らしい。マンガ本から文章づくりを学ばれているのだろうか。
 文章に登場してくる人物各自が個性的です。

 芸人が、場によってキャラ(個性)を変えることについて。加藤浩次さんの言葉として『全部自分だろ』(ずばんと真相を突いています)

 熊太郎じいさんは働いていた時、仕事中心の生活で、現役最後の20年間ぐらいはテレビをほとんど見る時間がありませんでした。加藤浩次さんをテレビで観たのは、岡村隆史さんたちとの番組『めちゃイケ』で、暴走族の姿で、数台のバイクにまたがって円陣をつくって回って、ブンブンブブブといっていたのをまだちいさなこどもたちと観ていた記憶が残っています。まさか、あの人が朝の番組の司会をやれるとは思えませんでした。

 加藤浩次さんの言葉『4勝6敗を目指しているんだけど、どうしても3勝7敗になっちゃうんだよなー』(実は全勝しているともいえる)
 『ナンバーワンを目指したことない奴が、オンリーワンになれるわけないだろ』(ごもっともです)
 
『EXIT』
 りんたろー(介護の仕事をしている)と兼近大樹(かねちか・だいき。金髪。ベビーシッターのアルバイトをしているそうです)
 高齢者相手の仕事は未来に明るさがない。子ども相手の仕事は未来に明るいものがある。
 
 こどもを虐待する親は、いつの時代でも一定数いる。こどもがかわいそうだが、こどもを愛せない親自身も悩んでいる。そんな話が出ています。(こどもを愛せない性質をもった人は親にはならないほうがいい)
 日本文学で、名作がありました。映画にもなっています。『きみはいい子 中脇初枝 ポプラ社』 「いい子」というのは、こどものことではなくて、自分のこどもを虐待する母親のことを表わしています。どうしてもがまんができなくてこどもに暴力をふるう親の姿がありました。こどもの育て方がわからない親です。

 誰かや組織を攻撃するのが、「日本社会」と読めます。原因をつくっているのはテレビとSNSとも解釈できます。
 『ミスの少ない人間を求めているのが日本』とあります。
 書かれている文章は、心の叫びです。
 
『霜降り明星』
 粗品(そしな):背が高い。独特のツッコミをする。細い体。ギャンブル狂
 せいや:背が低い。小柄でぽっちゃりしている。
 
 せいやさんが、折り紙ができないことが書いてあります。こどもがつくる簡単な飛行機も折れない。それは、『障害』があるからではないか。いや、『個性』だとなります。

 人から愛されて育ってきた人は、人を愛することができる。そうでない人は、人を愛せないとあります。一理あります。(いちりあります。ひとつの道理があります)

 芸人同士は、仲がいいわけでもないと話があります。そして仲が悪いわけでもない。
 テレビに映っているときは、わきあいあいとしているけれど、カメラが回っていないときはそうでもない。お互いに強い干渉はしあわないそうです。
 あわせて、テレビ局内の仕事は制限が多くて、もうけが少ない。ユーチューブで活動した方が、他者からの制限もなく、自分のやりたいことがやれるし儲かるというようなことも書いてあります。

 地上波のテレビ番組というのは、動画配信サービスに居場所を奪われて、だんだん衰退していくのでしょう。テレビ番組としては、自然災害とか事件を報道するためのリアルタイムを伝えるニュースや天気予報関係が残るような気がします。
 
『ハライチ』
 岩井勇気さんと澤部佑さんです。岩井さんの本は読んだことがあります。『僕の人生には事件が起きない 岩井勇気 新潮社』
 岩井勇気さんについては、テレビ番組「鶴瓶の巷の噺(つるべのちまたのはなし)」でゲストに出た時の澤部佑さんの婚姻届け届け出話で爆笑しました。
 岩井勇気さんが、突然澤部佑さんに役所に来るように呼び出されて行ったら、澤部佑さんとこれから奥さんになるという女性が役所にいて、ふたりが出す婚姻届の証人欄に署名を求められたというような経過話でした。
 それまで、岩井勇気さんは、澤部佑さんに付き合っている女性がいるということを知らず、澤部佑さんをこれまで、女性体験がまったくない男だと信じ込んでいたそうです。
 奥さんになる女性は、そのとき妊娠されていました。

 ふたりの見た目と中身は印象とは反対です。そんなことがこちらの徳井健太さんの本には書いてあります。澤部佑さんはけっこうむずかしい面があります。
 徳井健太さんも岩井勇気さんもコンビの『じゃないほうの芸人』としての立ち位置で、共通の不満があったので仲良しだそうです。相方の澤部佑さんや吉村崇さんのほうが売れていた。

 甲本ヒロト:ミュージシャン。言葉として、『今の世の中は、正解を求めすぎる』

 コロナ禍でのことがいろいろ書いてあります。
 当時、あの行き過ぎたような制限はなんだったのだろうかとか、みんなにあれもこれもやるなと指示しておいて、無理やりに開催したオリンピックはなんだったのだろうかという思いが、わたしには残っています。オリンピックについては、あげくの果てに、贈収賄の汚職事件発生です。
 そのころ、自分たち夫婦は、高齢の親族をふたり亡くして、入院見舞いとか、介護とか、二か月連続のお葬式をしたりして、生活行動に制限があるなかで、大変だったという思い出があります。
 ブラックマネーも含めて、お金もうけ目当てのオリンピックなんか、もうやらなくてもいいと、政治や行政に対してうらめしく思っています。

 本に書かれている文章は、つくり手側のテレビ局職員の話などについて書いてあります。
 なんというか、『仕事』です。働く人間は、生きていくために、なんとしても、生活費を稼がねばなりません。

『ニューヨーク』
 M1グランプリの番組で観たことがありますが、自分はあまり存じ上げません。
 
 記述には、ケンコバさんが出てきます。

(つづく)

 ページが進むにつれて、内容が薄くなってきている気がします。ネタがなくなってきたのだろうか。
 最初の頃にあった凄み(すごみ)が消えかかっています。(ぞっとするほどの強い衝撃)。文章が平面的な説明になりました。
 M1グランプリについて書いてあります。『10年やってだめだったら諦めた(あきらめた)ほうがいい』という島田紳助さんの言葉が紹介されています。まあ、相撲でも将棋でも囲碁でもそうでしょう。勝負の世界の頂点付近でやっていこうとしたら努力だけでは無理です。ずばぬけた才能がいります。1億2300万人の中のひとりという才能です。ただ、一芸に秀でた人は(ひいでたひとは)、一芸以外のことはできなかったりもします。周囲にいる人間の補佐(サポート)が必要です。

『シソンヌ』
 コンビの名前は聞いたことはありますが、よくは存じ上げません。
 マージャンの話が出ます。わたしもマージャン愛好家なので興味はあります。じろうさんという方のマージャンを打つ姿勢(心持ち)がとてもいいそうです。マナーがいいそうです。勝っていばらず、負けてくさらずです。見習いたい。マージャンは、脳みそを働かせる楽しいゲームです。打ち手の人柄が出ます。負けるときは、潔く(いさぎよく)負けて、やられましたーーと、笑顔でいられる人でいたい。

 下北沢にある『本多劇場(ほんだげきじょう)』のことが出てきました。今年の夏、観劇に行きました。記述に親しみを感じます。

 博多大丸さんの言葉があります。『売れるか売れないかはわからないけれど、売れるまでは死ぬほどの努力を続けなきゃ売れるなんてことは絶対にあり得ない』(ごもっともです)

『5GAP』
 わたしの知らないお笑いコンビ名です。クボケンとトモのコンビだそうです。

 『売れる』って何だろうと考えさせられます。
 以前、テレビで芸人さんが、とても売れている芸人さんのことを語っていました。仕事や仕事がらみの付き合いをしているときは、売れている本人は、にぎやかな雰囲気の中にいるけれど、家に帰れば、家族がだれもおらず、ひとりぼっちの生活をしている。そんな有名芸人を見て、『売れるってなんだろう』とふと思うことがあるそうです。

 記述に、志村けんさんのお名前が出てきました。志村けんさんも天国の人になられてしまいました。

 『笑っていいとも』を始めとして、昔の番組の話が出ます。昔はめちゃくちゃだった。本番中にタバコを吸う人がいた。(まあ、どこでも喫煙可能な世の中でした。電車の中、電車のホームでも喫煙は許されていました。パワハラ、セクハラなど、不合理・不条理・理不尽がどこの組織でもあからさまに横行していました。ゆえに問題視されなかったということはあります。なんだか変だけれど、みんながいっしょの行為をしていたのです。権力者はやりたいほうだいでしたが、したたかに権力者に圧力をかけて利を得る人もいました。昔の人は、人間力が強かった)

 テレビが言っていることをぜんぶ信じちゃいけないというメッセージがあります。テレビの映像はつくりものです。情報が加工されて出てきます。意図があって、放映されています。そういうことでしょう。

 赤塚不二夫さんとタモリさんの関係が書いてあります。
 『これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝 文春文庫』はいい本でした。戦時中のことの記述は壮絶です。平和な現在をのんきに過ごしている今の日本人にとっては、記述内容は身が引き締まる思いがします。生きるか死ぬか、殺されるか、殺すかの世界です。法令は命を守ってくれないこともあります。

『スリムクラブ』
 沖縄の人たちです。戦地となった沖縄です。戦争のことが書いてあります。
 『なんくるないさ』 戦争で、殺し合いがあった。絶望と怒りがある。生きることへの喜びがある。内間さんのお母さんは内間さんに『生きていればそれでいい……』と語っています。

 内間さんは、スピリチュアルにははまらないほうがいい。もっと自信をもって、強い気持ちで前向きにやっていってほしい。

『ジャルジャル』『ダイアン』『ジャングルポケット』『かまいたち』『オズワルド』
 200ページ前後から、批評の質が落ちてきたように感じます。前半にあった尖った(とがった)記述が姿を消して、平凡な説明に近づいています。
 過去にこういうことがあったという思い出のトーク(語り)です。
 なんだろう。どこでもそうですが、箱の中の世界です。限られた空間の中の話です。書いてあることは、たとえば、興味のない人から見れば、「そうですか」という反応の薄い内容です。
 後半部は、M1とかキングオブコントとか、選抜大会のことを軸にして、芸人にエール(応援)を送っている本です。

『おわりに』
 この部分で、著者の尖った(とがった)部分が復活します。
 『30歳になったら死ぬ』と書いた高校の卒業文集を、北海道の地元から上京する前に焼き捨てたそうです。
 
 芸人の世界の厳しさが書いてあります。
 『売れる』ということは、必ず誰かの屍(しかばね)の上に存在する。(優勝者の笑顔の影には、たくさんの敗者の泣き顔があるのです。企業なら、幹部ポストにいる人間は、たくさんの競争相手を振り落としてきたのです)
 こちらの本には、『大好きな先輩やめてった。才能ある後輩やめてった。仲が良かった同期もやめてった』とあります。
 締め(しめ)は、現実の自分の立ち位置を知り、謙虚になるというメッセージで終わっています。  

Posted by 熊太郎 at 06:16Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2023年10月26日

おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん

おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん 長谷川義史(はせがわ・よしふみ) BL出版

 最初にページを最後までゆっくりめくってみる。
 かなりおもしろい。
 今度親戚のちびっこたちに会ったらプレゼントする候補の一冊にします。

 筆致が太い絵です。ぬくもりがあります。
 2000年(平成12年)の作品です。

 表紙をめくると古い物の絵がたくさんです。
 アメリカンクラッカー(わたしが小学生の時にはやりました)、しちりん(わたしが小中学生の時に家で使っていました)、殺虫剤の噴霧器(ふんむき。取っ手を押して薬剤を噴射します。おもちゃにして遊んでいました)、ボンネットバス(ふつうに乗っていました。路線バスです。車内に切符売りのお姉さんがいました)、白黒テレビ(見てました)、オート三輪(走っていました)、ミシン(踏み台に座って、わっかをハンドル代わりにして遊んでいました)、裏表紙のほうも同様です。つるべ式の井戸(こどものころ、家には水道がありませんでした)、洗濯板(せんたくいた。川で洗濯をしていました)、きねとうす(正月前にもちつきをしていました)。いろいろなつかしい。伝承があります。発展もあります。

 歴史がテーマの絵本です。
 今があるのは、昔があったからです。
 親族をさかのぼる。昔、『ルーツ(根っこ)』というドラマ番組がありました。

 ぼく:5歳。幼稚園のたんぽぽ組です。
 ぼくのおとうさん:38歳。渓流釣りが趣味です。『ぼく』は、おとうさんが33歳のときに生まれています。
 おじいちゃん:72歳。おひげが白い。息子は、おじいちゃんが34歳のときに生まれています。ぼくのおとうさんもおじいちゃんも晩婚だったのだろうか。
 おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん:もう亡くなっています。絵には『変体仮名(へんたいがな)』が使われています。わたしが社会人になったとき、変体仮名はまだ使用されていました。飲食店の店名などに使われます。漢字をくずして、ひらがなとして使用したのが変体仮名です。
 カストリ:戦後出回った密造焼酎(みつぞうしょうちゅう)

 おじいさんのおじいさんのおじいさん…… と、どんどんさかのぼっていきます。『チャップリンの黄金狂時代』(1925年(大正14年)アメリカ映画)の絵があります。
 時代はさかのぼっていきます。『パーマネントの始まり』(1923年(大正12年)、明治時代の絵があります。1907年から日本における自動車が始まっています。(明治40年)。絵本の絵ではまだ人力車が人を運ぶ手段です。

 絵は江戸時代になりました。おじいちゃんの頭には、ちょんまげがあります。
 次のページから『ひい、ひい、ひい、ひい……』と、ひいが連続します。ひいおじいちゃんのことです。すさまじい量です。ざーっと数えたら133人ぐらいのさかのぼりです。読み聞かせをするときに困り果てるぶんしょうです。(いらぬことですが、宗教団体が、あなたの先祖があなたに悪さをしている。わたしたちの団体にお金を寄付して先祖供養をしなさいというフレーズを思い出しました)
 ひぇーー。『ひい(おじいさん)』の細かい文字がページにびっしり書いてあります。絵本の読み聞かせではとうてい読めません。なんとか、ごまかさなければ、読み手が倒れてしまいます。(でも、おもしろい)
 
 時代はついに原始時代になってしまいました。
 人々の食料として『マンモス』の絵があります。マンモスは、400万年前から1万年前ぐらいに地球上で生息していました。時代はさらにさかのぼり、人間は猿の姿になってしまいました。人類は500万年前のアフリカで、猿人(えんじん。アウストラロピテクス)から始まり、原人、旧人(ネアンデルタール人)、新人(クロマニヨン人など)と進化しました。

 最後のほうにあるページです。奥行きのある絵です。奥のほうが古い時代という表現がしてあります。いい感じです。自転車のタイヤのようでもある。
 なかなか良かった。  

Posted by 熊太郎 at 06:42Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2023年10月25日

オアシス 韓国映画 2002年

オアシス 韓国映画 2002年 Hulu(フールー)

 電子書籍の週刊誌で、いい映画だと紹介されていたので観てみました。
 なかなか良かった。

 若い脳性まひの障害者女性と刑務所を出所して来た前科三犯(さんぱん)の若者との恋愛話でした。
 標準からはずれたふたりです。いろいろもめます。

 オアシスというのは、障害者女性の部屋にかかっているタペストリー(布絵)のタイトルです。
 インドの景色です。ゾウがいて、インド人の少年がいて、頭にかごをのせたインド人若い女性が描かれています。
 オアシスですから、砂漠の水場でしょう。ほっと一息できる場所という意味合いをもった映画なのでしょう。

 韓国の風景は日本に似ています。とくに地下鉄であろうプラットホームの風景は、名古屋の鶴舞線とか名城線、桜通線(さくらどおりせん)のホームに似ていました。

 ロケ地は、貧しい公営集合住宅のような光景ですが、日本にも似た景色があります。

 刑務所から出てきたばかりで、バスから降りてきた主人公若者男性の姿からは、高倉健さんの『幸せの黄色いハンカチ』のシーンが思い出されました。
 二十年前ぐらいの撮影ロケです。最近は、コインを入れる公衆電話は日本も韓国も減ったことでしょう。
 
 男は、刑務所から出所してきてさっそく弟に迷惑をかけます。東野圭吾作品『手紙』が思い出されます。
 こちらの映画では、元服役囚の親族がたくさん出てきます。
 弟『オレの人生をじゃましないでくれ』
 別の家族の女性『あなたがいないときは安心して暮らせたわ』
 
 28歳である主人公若者男性の言動を観ていると、生まれたところからやりなおしたほうがいいとすら思えます。かなりひどい。まずは絵本の読み聞かせからスタートです。読み書きができてから計算と、人間形成の順番があります。
 主人公には、母がいて、兄がいて、兄嫁がいて、弟がいます。
 主人公は、家族から拒否されます。
 兄の言葉『おまえも大人になれ! 好き勝手に生きてはだめだ。(自分の)行動に責任をもって、社会に適応しろ』(観ていて同感です)
 主人公は、人の話をききません。自分の言いたいことだけ言います。こどもです。いつも体を揺らして、貧乏ゆすりをしているろくでなしです。

 いっぽう脳性麻痺障害者女性も親族から疎外(そがい。のけもの)にされています。ひとりだけ老朽化した集合住宅の部屋をあてがわれて生活しています。
 実は不正があります。障害者福祉の施策を悪用して、親族はきれいで立派な障害者のための住宅で暮らしています。
 役所の人が来て、現場確認の調査があるときだけ、障害者の女性をボロ家から立派な障害者向けの家に連れてきます。
 女性は脳性麻痺の障害者で言葉をうまく発音できません。顔はゆがんでいます。手も曲がっています。
 いつもいるボロい部屋では、お隣の夫婦が障害者の身内からお金(月2万円ぐらい)をもらって、食事を障害者に与えています。
 この件だけではなく、ほかにも不正があります。後半に、どんでん返しです。信頼関係が崩れます。いい人だと思っていた人は、本当は、悪人なのです。実は、主人公の若者男性は善人なのです。

 脳性麻痺の障害者を演じる女優さんは熱演です。ほんとうは、美人ですが、みにくくなるように終始、顔をゆがめています。
 刑務所出所の男性は、だらしない役ですが、男優さんはいい役をもらいました。女優さんは障害者の役を演じているのですが、男優さんも障害者に見えます。男優さんの役も知的にボーダーラインではなかろうか。(たとえば知能指数が、100が普通なら80ぐらいとか)

 女優さんの演技を観ていて思い出した本があります。見た目は障害者でも脳内は健常者なのです。
 『跳びはねる思考 東田直樹 イースト・プレス』常識の枠を破って、世界観が広がる本です。会話ができない自閉症である著者が自らは意識をもっていることを証明しています。その知能レベルは高い。22歳同年齢の健常者以上です。奇跡を感じます。驚きました。
 
 もうひとつイタリア映画『道 フェデリコ・フェリーニ作品』も思い出しました。
 第二次世界大戦で敗戦国となったイタリア国は戦争を仕掛けた侵略国でもあります。当時のイタリア国民の立場になってみないと惨めな気持は理解できません。どん底の貧困暮らしがあります。知的障害があるジェルソミーナを旅芸人の親方であるザンパノに1万リラで売った母親は、ママという悪魔です。

 社会から捨てられたふたりです。ふたりは、男と女です。恋愛感情はあります。
 じょうずにつくってあります。話も映像もじょうずにつくってあります。
 (映画は、加工されているということを暗示しているシーンがあります。映像とストーリーと俳優の技量で観ている人の感情を揺り動かす)
 
 障害者女性と付き合いたい動機:女性に気があって、付き合いたいと思った。(好きだと思ったから)

 こんなふうでも(ふたりとも)、生きていかなければならない。
 (貧困の中に真実があるという背景だろうか)
 喜劇的な部分もあります。
 
 障害者女性は、電話はできる。
 『聞きたいことがあって電話しました』
 女性を『姫』と呼び、男性を『将軍』と呼び合う。
 今の障害の状態でも、あなたを気に入ったという若者の返答です。『(あなたは)可愛い(かわいい)』

 アメリカ映画『カッコーの巣の上で』
 精神病院入院病棟が扱われています。みんなで魚釣りに行くあたりが心温まる喜劇で笑えました。こちらの『オアシス』では、若者が障害者女性を車いすに乗せて食事に出かけます。行った先で、まあ、周囲から拒否されます。
 偽善者の健常者がいっぱいいます。
 フランス映画も思い出しました。『最強のふたり』パラグライダー事故で首から下の神経を失った車椅子の大富豪フィリップと親族関係に恵まれず貧民街で育った黒人男性ドリスとの心あたたまる喜劇でした。

 こちらの『オアシス』を観終わって、2時間ぐらいがたって、ようやく、若者のラストシーンあたりの異常な行動の理由がわかりました。(彼女の住居の横にある木に登って、のこぎりで枝を1本ずつ切り落としていくのです。木の下には警察や近所の人たちが集まっています)
 障害者の彼女が、木の枝の影が、部屋の中の壁で揺れて、怖がっていたのです。(こわがっていたのです)
 『(オアシスの絵にかぶさる)木の枝の影が怖い(こわい)』影について、さらに深い意味があるのかもしれません。

 映画は、1時間12分を経過したあたりから不思議な映像が出始めます。不思議ですが、『楽しい』。
 若者は、気持ちが、『純』です。どんな状態・状況にあっても、人生を楽しもうという前向きな意欲が表現されています。
 妄想・幻想の世界ではあります。
 マニュアル化された標準の世界ではなくて、自分の脳みその中にある素直な感情を優先させて生きていることを楽しむ。

 宗教でいうところの『ムチの時間』のようなシーンが出てきます。韓国の人は宗教にしばられた生活をみな送っているのだろうか。牧師も何度か出てきました。
 韓国では、標準ではないものを除外したいという意識が人にあるのだろうか。いろいろ考えさせられます。

 うわべだけが整った親族の誕生日会です。母親の誕生日を祝います。
 善人の顔をしている人たちは不正をしている。若者は考えが足りないところを利用されて、善人の顔をしている人が行う不正のために利用されている。
 
 不思議な展開です。自由自在です。

 内容は暗くとも、人生を楽しむという前向きな映画でした。  

2023年10月24日

神様 川上弘美

神様 川上弘美 中公文庫

 短編9本です。
 最初の作品『神様』を読み終えて変な感じです。
 登場人物が人間ではないのです。
 『くま』と書いてあります。最初男性かと思ったら、最後まで『くま(熊)』なのです。なんだろう。
 そのような表現を使った目的をさぐるための読書です。あとの作品も同様のパターンでしょう。
 単行本は、1998年(平成10年)の発行です。

『神様』
 高層集合住宅の305号室に引っ越してきたのが『くま』です。最初は人間の男性と思われましたが、その後の記述を見ると動物の熊なのです。熊ですが、人間のようにしゃべります。
 語り手は、305号室からみっつ隣の部屋といいますから、302号室か308号室の女性らしき人物がくまとお近づきになり、ふたりで近所の川辺を散歩します。

 鴫(しぎ):野鳥。渡り鳥

 くま:雄(オス)の成熟したくまで、からだがとても大きい。引っ越してきて、ご近所あいさつで、お蕎麦(そば)とはがきを10枚ずつ配った。

 詩的です。くまは、人間ではない。熊でしょう。(もう一歩踏み込んで、神様の化身です)

 偶然ですが、この本を読む前に読み終えた本が、『クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 聞き書き・片山龍峯(かたやま・たつみね) 筑摩書房』でした。北海道居住のクマ撃ち猟師の人からのインタビュー内容をまとめた本でした。こちらの短編小説で「くま」が登場して、読書の縁を感じました。

 邪気(じゃき):素直。悪気がない。

 なんとも不思議な小説です。
 『くま』は、神様なのです。
 さきほど書いた『クマにあったらどうするか アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 聞き書き・片山龍峯(かたやま・たつみね) 筑摩書房』では、クマは神様で、『アイヌ人にとって、ヒグマはキムンカムイ(山の神)として敬う(うやまう)存在である。』と書いてありました。

『夏休み』
 梨の木のあるところに、白い毛が生えているかたまりの生き物が三匹いるという話です。
 夏休みのアルバイトで、女子が原田さんという人の梨園(なしえん)で、梨の実をもぎとる作業をしています。
 三体の生き物はいてもいいのです。いるのがあたりまえのように農園経営者の原田さんが言います。
 そのうちの二体は良く動き、残る一体は、ひっこみじあんなのです。
 (なんのこっちゃいな?)
 三体の生き物の好物は梨の果実です。原田さんは、売り物にならない地面に落ちて傷んだ(いたんだ)梨を三匹の白い生き物たちに食べさせます。
 アルバイト女子は、元気がない一体の生き物に気持ちをそそぐのです。弱きものの味方という気分です。
 瘤:こぶ
 三体はやがて瘤になりました。梨の木の白い瘤(こぶ)になったそうです。(木の盛り上がった部分)
 そして、アルバイト女子は、その瘤に吸い込まれそうになったのです。

 民話『かぐや姫』のようでもある。あるいは、自殺企図者の心理のようでもある。

『花野』
 花野とは。はなの。花が咲き乱れている野原のこと。

 かるかや:刈萱。山野に自生するイネ科の植物

 5年前に交通事故で死んだ叔父が花野に立っていた。(もしかして、叔父を見ている人も死んでいるのか?)
 叔父のひとり娘が、華子です。35歳です。
 叔父の妻が、万里子です。
 ネコのクロは15歳で死んだ。

 係累:けいるい。親、妻子など。めんどうをみなければならない家族

 叔父はときおりこの世によみがえるらしい。
 結婚していない語り手のことを心配しています。(叔父の娘の華子も未婚です)
 叔父は、人生に秩序がないと嘆いています。
 叔父は、生き還りたい(いきかえりたい)。

 相撲観戦と政治に関心がある叔父です。
 現生に出てくるときのシーンの(場所)は、いつも花野です。
 
 2年ぶりに花野での再会があります。
 深紅(しんく)の彼岸花が咲いています。(ヒガンバナ)
 今回が最後だそうです。
 ふたりの最後の午餐(ごさん)です。(昼ごはん)。あわび、海鼠(ナマコ)、葛切り(くずきり)、ざくろ、そら豆。
 
 う~む。信仰小説のようです。
 わたしは、錯覚だと思う。

『河童玉』
 尻子玉:しりこだま。かっぱが好んで引き抜くとされた肛門のところにある玉

 河童(かっぱ)の話でしたが、作者のいいたいことがわかりませんでした。自分の読解力がないとも思えないのですが、しかたがありません。
 
 語り手と失恋の病があるウテナという女性がお寺さんに精進料理を食べに行ったら、お酒に酔ってうとうとしてしまった。そこへ、お庭の池から河童が出てきて、自分の相談にのってほしいと乞われ(こわれ)、ふたりはカッパの世界へ招待された。
 河童がいうには、最近、300年間付き合っている恋人かっぱとうまくエッチができないから、なにかアドバイスをしてくれとのこと。どうも男河童が不能になっているらしい。そんな流れでした。『天然の力』がうまく働かないと表現があります。
 愛恋の相談:あいれんの相談。愛して恋こがれることの相談
 閨(ねや):寝室での夫婦仲のこと。
 胡瓜:キュウリ
 
 ウテナの河童に対するアドバイスは、『ダメなときはダメ』というものでした。『あきらめなさい』です。
 
 河童の恋人女性いわく:河童玉をためしたがだめだった。
 河童玉:河童界に伝わる聖石(せいせき。ひじりいし)。直径三尺(約90cmから100cm)の丸い石。石の上に座ると病が治る。
 ウテナと語り手も河童石に座ってみました。
 河童の元気は回復しませんでしたが、ウテナの失恋の病は治ったそうな。

『クリスマス』
 ふーむ。「アラジンと魔法のランプ」みたいなお話です。
 前作河童の話で出てきたウテナが、語り手であるたぶん女性に日曜青空市で買った壺を預けたのです。その壺をこすると女性が出てくるのです。
 螺鈿:らでん。貝の内側を加工して、その貝を漆器の内側に貼り付けたもの。

 ウテナにしても、語り手にしても、幽霊か妖精のようです。
 
 ベンケイソウ:赤やピンクの花を咲かせる草
 布巾:ふきん

 『ご主人さまあ』と言いながら、壺から若い小柄な女性が出てくる。名前を『コスミスミコ』という。
 なんだか、こども向けマンガの「すみっコぐらし」みたいです。

 季節は12月、冷蔵庫から食材がなくなります。(食材を盗んだ犯人は、コスミスミコです)
 コスミスミコは、『はいい』と答えます。なんだか、お笑いタレントのやす子さんみたいです。
 コスミスミコは美形です。ゆえに男が寄ってきます。
 でも、コスミスミコは、痴情のもつれで命を落としたらしい。

 なんだかんだとありまして、語り手とコスミスミコでクリスマスイブの夜に繰り出すのです。深酒をして、ぐでんぐでんに酔っ払います。

 シェア:料理を複数で分ける。分配する。

  なんというか、失恋した若い女性の妄想だと受け取りました。

『星の光は昔の光』
 えび男:首がえびのように曲がっている。うなじが、細くて白い。高校生ぐらいに思えます。400mトラックを走っているときに、『ぼくだけが動いていない』という感覚をもっている。えび男は、304号室に住んでいる。語り手の隣の隣の部屋である。
 この短編集の最初に出てきたくまは、305号室に住んでいる。父母と3人で住んでいる。
 えび男は、曇りの日に饒舌(じょうぜつ。おしゃべり)になる。えび男は内向的な性格である。えびは、ハンバーグが好きだ。

 『ニンゲンフシン』という言葉が何度か出てきます。えび男の母親は、ニンゲンフシンだそうです。
 
 えび男がつくった『箱庭』がある。牛三頭、子豚一匹がいる。すすきの穂と椿の枝がある。

 (この本は、文学作品として評価が高い作品群です。されどわたしは、ここまで読んできて、理解ができないので、ほかの方の書評を拾ってみました。得体のしれない生き物たちは、『感情』なのだそうです。そうか、そう考えるとわかるような気がします)

 リゲル:オリオン座にある星

 星の光は昔の光:文章中に明記はありませんが、昔、科学雑誌で、星の光は、かなり時間をかけた光年を隔てて地球に届くので、地球に届いたときの星の光は、ずいぶん昔の光であるという解説を読んだことを思い出しました。

 『むかしのひかりいまいずこ』は、滝廉太郎の『荒城の月』からきているのでしょう。

『春立つ』
 立春でしょう。2月の初めです。2月4日が多い。
 『猫屋』という居酒屋がある。猫が6匹いる。店主の女性の名前は、『カナエ』という。カナエは客に、日本酒よりも焼酎(しょうちゅう)を勧めてくる。
 
 ヤツガシラ:里芋の一種

 カナエはどこかわからないけれど、斜面をどんどん落ちて行って、落ちた先で男と暮らす。男はそのうちいなくなる。
 現れては、いなくなるものを表現してある作品群です。

 狎れた鬼:なれたおに。親しくなりすぎて礼儀を失する。
 琴線(きんせん):人の心の奥に秘められた真情(しんじょう。偽らない心(いつわらないこころ))
 
 雪が降る地方から、雪が降らない地方へ引っ越してきて、再び雪の降る地方へ引っ越していく。

 ここまで読んできて思ったことです。
 『継続できないもの』のはかなさ、ひ弱さが表現してあります。(わたしにとっては、望まない生き方です。継続こそが自分の信条に従った生き方です)

『離さない』
 人魚の話です。
 出てくるものが、『感情』という考察があったのですが、すべてがそうとも思えません。『夢』ともいえます。『空想遊び』の文章作品群ではなかろうか。

 エノモトという人が、南方の海で人間の体の三分の一ぐらいの体格の人魚をつかまえてきて、自宅の浴槽で生かしています。エサは鯵(あじ)です。
 エノモトの部屋番が、402号ですから、真下に住むという語り手の部屋番は第一話の話から考えて、302号でしょう。
 人魚ではありませんが、わたしが若かった頃、公営集合住宅の浴槽で、太刀魚(たちうお。ひらべったくて細長い)を泳がせていた中国人の年配女性がいました。びっくりしました。中国人女性自身が食べたり、訪ねてきた人にプレゼントしたりするのです。公営住宅のお風呂が生け簀(いけす)になっていました。(外国の人は浴槽に入浴せずシャワーですます習慣があるようです)
 この短編を読んでいて思い出しました。
 
 なんというか、エノモトも、語り手も、人魚にとりつかれてしまうのです。人魚のそばから離れることが困難になります。
 ふたりとも気が狂いそうになります。
 桜の花びらが飛び交い(かい)ます。
 
 奇怪な(きっかい)小説です。
 読み手のわたしにとっては、具体性がありません。

『草上の昼食(そうじょうのちゅうしょく)』
 そんなタイトルのヨーロッパ絵画があったような気がします。
 マネの絵画です。すっぱだかの女の人が、ピクニックの林の中でこっちを向いているのです。ランチタイムです。男の人たちは服を着ています。

 さて、こちらの短編です。
 のんびりした雰囲気があります。
 最初のお話で登場した、『くま』が故郷に帰るそうです。
 しおどきだそうです。
 
 語り手と、得体のしれない生き物は一体という形で表現してあるとして、次の段階を理解するためには、再読するのがいいのでしょう。(当分その気にはなれそうもありませんが……)

 くまと語り手のお別れです。
 『熊の神様』とあります。どうして、そこだけ漢字の熊なのだろう。なにか意味があるはずです。
 熊の神さまは熊に似たもの。人の神様は人に似たもの。(わかったような、わからぬような)
 
(あとがきから)
作品『神様』は、作者が子育て中に2時間で書き上げた作品だそうです。1998年(平成10年)の日付になっています。

(絵本作家佐野洋子さんの解説から)
 夢の中のものに関する記述で、夢の中だから肉体がないとあります。
 佐野洋子さんもお亡くなりになってしまいました。(2010年(平成22年)72歳没)
 形あるものはやがて消えていき、形なきものになるのです。この短編集と重なる感情情景があります。  

Posted by 熊太郎 at 06:36Comments(0)TrackBack(0)読書感想文