2013年02月23日
きみはいい子 中脇初枝
きみはいい子 中脇初枝 ポプラ社
本屋大賞候補作10作品目の読書です。
読み始めはなんとも暗い気持ちになりました。「きみはいい子」-「ぼくは悪い子」-だからママはぼくを叩く。児童虐待が素材のお話でした。頼るべき親から暴力をふるわれるかよわき女児・男児の暮らしぶりです。自分も親から虐待されていたから自分も自分の子どもを虐待するというあきらめを肯定する心の弱い親たちには、怒りをとおりこして、どうしてという疑問にかられ、だからといって、どうもしてあげられない無力感にさいなまれました。
舞台は横浜の近くの最近宅地造成が進められた「烏ヶ谷(うがや)」、新興住宅地という設定です。冒頭付近ではそこに住む人たちを「寄せ集めの住人たち」と称しています。街に歴史がありません。人につながりがありません。これからです。これからですが、先行きは明るくありません。5編の短編に関連性があります。
「サンタさんの来ない家」悲しくなってくる物語です。教師になりたての男性岡野匡(ただし)が気の毒です。親も親なら子どもも子どもです。現実と重なる部分もあり残念な気持ちになります。いじめを始めとした昔からある学校での陰湿な事例・事情の数々です。「学校」という、人生の一時的な通過点の場所であることが救いです。学校に通っているときは学校生活がすべてでした。卒業して学校から徐々に遠ざかり社会人の生活を送っていった当時をふりかえると、「学校」は、狭苦しい一時的な滞在地であったことに気づきます。
岡野先生に対しては、試行錯誤を繰り返して自らの教育スタイルを構築していく。読んでいると、ときには信仰の力も必要だと感じました。
親に対しては、子どもが嫌いなら子どもをつくらない。嫌いなのにできてしまったのなら、女性なら主婦をやめて子どもは託児所や親に預けて働く。自分が育てることができないのなら、保育園や学童保育所などの保育士や指導員に育ててもらう。社会全体で子どものめんどうをみる。わりきって、親子ともに心身が傷つくことを回避する。
「べっぴんさん」団地の砂場にデビューするママと幼子(おさなご)たちのやりとりです。ママ同志は、砂場では仲良しごっこを演じる。遊びが終わって、自宅のドアを開けて室内に入ると、ママは幼児に、叩く蹴るの暴力を行使する。人間心理の表と裏が描写されています。
ママたちが「おしゃれ」に憩いを求めるのは、男性にはあまりない発想でした。それで、楽しんでなごめるのならいい。親から虐待されたから自分も虐待するようになったという連鎖の肯定には賛同、そして共感いたしかねます。乳幼児は欲望の固まりであり、自らで自制する能力をもちません。書中にあるほど、人前で気を使う必要はありません。こどもをちやほやする必要もありません。こどもはこどもです。
読んでいると最終的には夫である男が悪いのだろうなあ。前の短編もこれもオチがオチになっていないので、救われない暗い気持ちにひたりました。
「うそつき」土地家屋調査士の父親の語りです。建蔽率(けんぺいりつ)とか容積率とか、自分自身、自分の家を建てて数年が経過した今思うと、なにもぎりぎりいっぱいに建てることはなかったな。暮らしもそうかもしれない。物語に登場する相談相手は隣家と境界線でもめています。
「こんにちは、さようなら」唄を読んでいるようです。この地でながらく暮らす80代ひとり暮らし女性と家の前を通学するこどもとのやりとりです。女性は認知症のなりかかり。子どもは障害をもつ子です。歳(とし)をとることは忘れていくこと。苦しかったことや悲しかったことも忘れて、今はしあわせ。自分自身、同じ実感があります。
「うばすてやま」ポプラ社らしい本です。これまでに読んだ同社の本と傾向が似ています。人間心理の裏面とか、暗い部分に光をあてようとする姿勢がうかがえます。幼い頃、母に虐待されたのに、認知症になった母の介護をしなければならなくなった。受容が表現されています。そこまで、耐えなければならないとは思えません。そこまで譲歩するのは、人として苦しい。マゾヒズムです。(肉体的・精神的苦痛が快感)
最後まで読み終えて、再び1ページに戻って、人物相関図をつくり始めました。
神奈川県烏ヶ谷(うがや)は新興住宅地で、各地からの転入者で町が形成され始めました。当然リーダーはいません。だれもが社長気分です。最初は互いに気を使いますが、そのうち本性が表れます。住民に上下関係はありません。対立しても調整役はいません。声の大きな人間、力の強い人間の意見が通っていきます。その陰で、弱者は泣きます。こんな町、出て行こうと決心します。
やんちゃなこどもたちは片方の親がいなかったり、継母、内夫であったりします。かれらは、家で疎外(そがい、放置)されて、学校で弱者を標的にしていじめぬきます。教師や住民は、自分たちの対応のほうが悪いと考えて相手の言い分を通す方向で対応します。どう感想を表現していいのか迷うのですが、これは、作者からの問題提起ととらえます。時代は変わったと、残念と、これからこの国は衰退へ向かうとあきらめるしかありません。
平易な文章で書かれ短時間で読み終えることができる本です。しかし、奥行きは深い。読了後も数日間、内容について考えにふけっています。結局、自分のことは自分でやる。親を頼らない。きちんと育ててくれない親は捨てる。あきらめて、自分は自分で自分が望む家族をつくる。生きづらい時代です。こどもも親も冷めている。ほかの人の心を傷つけている人は、その人自身もほかの人から傷つけられている。
本屋大賞候補作10作品目の読書です。
読み始めはなんとも暗い気持ちになりました。「きみはいい子」-「ぼくは悪い子」-だからママはぼくを叩く。児童虐待が素材のお話でした。頼るべき親から暴力をふるわれるかよわき女児・男児の暮らしぶりです。自分も親から虐待されていたから自分も自分の子どもを虐待するというあきらめを肯定する心の弱い親たちには、怒りをとおりこして、どうしてという疑問にかられ、だからといって、どうもしてあげられない無力感にさいなまれました。
舞台は横浜の近くの最近宅地造成が進められた「烏ヶ谷(うがや)」、新興住宅地という設定です。冒頭付近ではそこに住む人たちを「寄せ集めの住人たち」と称しています。街に歴史がありません。人につながりがありません。これからです。これからですが、先行きは明るくありません。5編の短編に関連性があります。
「サンタさんの来ない家」悲しくなってくる物語です。教師になりたての男性岡野匡(ただし)が気の毒です。親も親なら子どもも子どもです。現実と重なる部分もあり残念な気持ちになります。いじめを始めとした昔からある学校での陰湿な事例・事情の数々です。「学校」という、人生の一時的な通過点の場所であることが救いです。学校に通っているときは学校生活がすべてでした。卒業して学校から徐々に遠ざかり社会人の生活を送っていった当時をふりかえると、「学校」は、狭苦しい一時的な滞在地であったことに気づきます。
岡野先生に対しては、試行錯誤を繰り返して自らの教育スタイルを構築していく。読んでいると、ときには信仰の力も必要だと感じました。
親に対しては、子どもが嫌いなら子どもをつくらない。嫌いなのにできてしまったのなら、女性なら主婦をやめて子どもは託児所や親に預けて働く。自分が育てることができないのなら、保育園や学童保育所などの保育士や指導員に育ててもらう。社会全体で子どものめんどうをみる。わりきって、親子ともに心身が傷つくことを回避する。
「べっぴんさん」団地の砂場にデビューするママと幼子(おさなご)たちのやりとりです。ママ同志は、砂場では仲良しごっこを演じる。遊びが終わって、自宅のドアを開けて室内に入ると、ママは幼児に、叩く蹴るの暴力を行使する。人間心理の表と裏が描写されています。
ママたちが「おしゃれ」に憩いを求めるのは、男性にはあまりない発想でした。それで、楽しんでなごめるのならいい。親から虐待されたから自分も虐待するようになったという連鎖の肯定には賛同、そして共感いたしかねます。乳幼児は欲望の固まりであり、自らで自制する能力をもちません。書中にあるほど、人前で気を使う必要はありません。こどもをちやほやする必要もありません。こどもはこどもです。
読んでいると最終的には夫である男が悪いのだろうなあ。前の短編もこれもオチがオチになっていないので、救われない暗い気持ちにひたりました。
「うそつき」土地家屋調査士の父親の語りです。建蔽率(けんぺいりつ)とか容積率とか、自分自身、自分の家を建てて数年が経過した今思うと、なにもぎりぎりいっぱいに建てることはなかったな。暮らしもそうかもしれない。物語に登場する相談相手は隣家と境界線でもめています。
「こんにちは、さようなら」唄を読んでいるようです。この地でながらく暮らす80代ひとり暮らし女性と家の前を通学するこどもとのやりとりです。女性は認知症のなりかかり。子どもは障害をもつ子です。歳(とし)をとることは忘れていくこと。苦しかったことや悲しかったことも忘れて、今はしあわせ。自分自身、同じ実感があります。
「うばすてやま」ポプラ社らしい本です。これまでに読んだ同社の本と傾向が似ています。人間心理の裏面とか、暗い部分に光をあてようとする姿勢がうかがえます。幼い頃、母に虐待されたのに、認知症になった母の介護をしなければならなくなった。受容が表現されています。そこまで、耐えなければならないとは思えません。そこまで譲歩するのは、人として苦しい。マゾヒズムです。(肉体的・精神的苦痛が快感)
最後まで読み終えて、再び1ページに戻って、人物相関図をつくり始めました。
神奈川県烏ヶ谷(うがや)は新興住宅地で、各地からの転入者で町が形成され始めました。当然リーダーはいません。だれもが社長気分です。最初は互いに気を使いますが、そのうち本性が表れます。住民に上下関係はありません。対立しても調整役はいません。声の大きな人間、力の強い人間の意見が通っていきます。その陰で、弱者は泣きます。こんな町、出て行こうと決心します。
やんちゃなこどもたちは片方の親がいなかったり、継母、内夫であったりします。かれらは、家で疎外(そがい、放置)されて、学校で弱者を標的にしていじめぬきます。教師や住民は、自分たちの対応のほうが悪いと考えて相手の言い分を通す方向で対応します。どう感想を表現していいのか迷うのですが、これは、作者からの問題提起ととらえます。時代は変わったと、残念と、これからこの国は衰退へ向かうとあきらめるしかありません。
平易な文章で書かれ短時間で読み終えることができる本です。しかし、奥行きは深い。読了後も数日間、内容について考えにふけっています。結局、自分のことは自分でやる。親を頼らない。きちんと育ててくれない親は捨てる。あきらめて、自分は自分で自分が望む家族をつくる。生きづらい時代です。こどもも親も冷めている。ほかの人の心を傷つけている人は、その人自身もほかの人から傷つけられている。
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