2013年01月02日
蜘蛛の糸・杜子春 芥川龍之介
蜘蛛の糸・杜子春 芥川龍之介 新潮文庫
10編の短編です。まず、蜘蛛の糸から、
「蜘蛛の糸(くものいと)」小学生のときに読みました。わずか6ページの物語です。覚えていること、記憶にあることは、地獄にいる男が天国につながるクモの糸をのぼっていくが、あとからあとから他の人がのぼってくるので、その重みで糸が切れたということでしたが、今回読み直してみると誤解がありました。クモの糸は人の重みで切れたのではなく、あとからくるひとたちを落とそうとしたカンダタという名前の男の無慈悲な気持ちで切れたのでした。他の者も救おうとすると共倒れになるという解釈ではなく、自己優先を戒める道徳でした。ここからがむずかしい。カンダタは、殺人・放火をおかした罪人です。そんな人間にも再起の道を開かなければならないのか。改心が可能なのか。この物語では、改心はできなかったとなっています。お釈迦さまが天国からクモの糸をたらした理由は、カンダタが過去に踏みつぶそうと思ったクモを踏まずに思いとどまったことにあります。常人だったら、最初から踏みつぶそうとは思いません。クモの糸をのぼるカンダタからは、「ジャックと豆の木」のジャックを思い出しました。もしかしたら本作品と何か関連があるかもしれません。罪人に改心を期待しない。見捨てる。「教育」という援助はない。ジャン・バル・ジャン「レ・ミゼラブル(ああ、無情)」も思い出しました。
「杜子春(とししゅん)」西暦600年代ぐらい。中国が「唐」という国家だった頃、唐の都、洛陽(らくよう)の西にある門が舞台です。世間の人たちは、同じ人物でも、大金持ちならお世辞を言い、一文無しなら、口もきかない。責任と負担は他者に押し付けて、楽をしていい給料をもらって、できるだけたくさん休みをとりたい。人間の本心は今も昔も変わりがありません。人間は薄情です。人間界に愛想が尽きた杜子春は、仙人になることを希望します。仙人の鉄冠子(てつかんし)は、杜子春に非情です。杜子春に試練を与えます。峨眉山(がびざん)からは、四国にある眉山を思い出しました。杜子春はそこの一枚岩の上で修業します。何があっても口をきいてはいけない。意志を貫く。最後の選択枝は、馬の姿に変えられた亡くなった両親でした。親というものは、子の犠牲になることをいとわない。(否定しない)。これもまた小学生の頃に読んだことがある物語ですが、子である杜子春の心理よりも彼の親の心理がわかる年齢になりました。
「犬と笛」奈良県にある葛城山が舞台で、わたしは頂上に上ったことがあります。身近に感じました。飛鳥時代ぐらいの時代設定です。映画を観ているようでした。杜子春同様の特徴として「繰り返し表現」があります。髪長彦(かみながひこ)という女性のような木こりの若者が登場します。犬に乗って空を飛ぶ姿は、洋画「ネバーエンディングストーリー」を観るようでした。これもまた何か関連があるのかもしれません。
「蜜柑(みかん)」神奈川県横須賀発の列車に乗る。車両内には作者と小娘のふたりしかいない。随筆のようです。瞬間に空間を見い出して事象と推察を文章化し、「暗」を「明」へと変化させる技巧がほどこされています。
「魔術」インド人、マティラム・ミスラに魔術を見せてもらいます。魔術は自分の欲との闘いです。
「アグニの神」これもまた魔術師が登場します。なぜ、魔術にこだわったのだろう。大正10年の作品です。舞台は中国の上海(シャンハイ)。インド人のおばあさんは占い師です。日米戦争はいつ起こるのか。戦争を金儲けの手段にしようとする人間がいます。恵蓮(エレン)という捕らわれの身の少女の体にアグニの神が憑依(ひょうい、のりうつる)するのです。他の作品もそうですが、どうも仏典が作品製作の原点にあるようです。
「トロッコ」小学校国語の教材として習った記憶があります。小田原-熱海、8才の少年良平の冒険です。今の出来事としてではなく、26才になった妻子もちの良平の思い出として構成されています。8才の彼と26歳の彼をつなぐのは、トロッコの線路と暗い帰り道です。
「仙人」本書中、魔術同様、よく出てくるのが仙人です。仙人になりたくて大阪のお店で奉公人になった権助(ごんすけ)のお話です。不可能を可能にするこれもまた映画のようなお話でした。
「猿蟹合戦」童話さるかに合戦の後日談として作品化されていますが、これは、読む価値がありません。天才と呼ばれる人たちの作品は、小説にしても絵画にしても音楽にしても、ずばぬけた作品がある反面、どうしようもない駄作も多いと妙に納得しました。
「白」白と呼ばれていた犬が、当該犬の心理行為によって「黒」に色が変わる物語です。詩的です。犬は犬であって、人間ではないはずなのに、犬は人間なのです。白が黒になるということは、富豪が貧民になることであり、信頼が裏切りになることです。差別とか憎しみすら感じられます。功徳〔くどく、善(よ)い行い〕を重ねることによって白になれるという教訓めいた内容です。
10編の短編です。まず、蜘蛛の糸から、
「蜘蛛の糸(くものいと)」小学生のときに読みました。わずか6ページの物語です。覚えていること、記憶にあることは、地獄にいる男が天国につながるクモの糸をのぼっていくが、あとからあとから他の人がのぼってくるので、その重みで糸が切れたということでしたが、今回読み直してみると誤解がありました。クモの糸は人の重みで切れたのではなく、あとからくるひとたちを落とそうとしたカンダタという名前の男の無慈悲な気持ちで切れたのでした。他の者も救おうとすると共倒れになるという解釈ではなく、自己優先を戒める道徳でした。ここからがむずかしい。カンダタは、殺人・放火をおかした罪人です。そんな人間にも再起の道を開かなければならないのか。改心が可能なのか。この物語では、改心はできなかったとなっています。お釈迦さまが天国からクモの糸をたらした理由は、カンダタが過去に踏みつぶそうと思ったクモを踏まずに思いとどまったことにあります。常人だったら、最初から踏みつぶそうとは思いません。クモの糸をのぼるカンダタからは、「ジャックと豆の木」のジャックを思い出しました。もしかしたら本作品と何か関連があるかもしれません。罪人に改心を期待しない。見捨てる。「教育」という援助はない。ジャン・バル・ジャン「レ・ミゼラブル(ああ、無情)」も思い出しました。
「杜子春(とししゅん)」西暦600年代ぐらい。中国が「唐」という国家だった頃、唐の都、洛陽(らくよう)の西にある門が舞台です。世間の人たちは、同じ人物でも、大金持ちならお世辞を言い、一文無しなら、口もきかない。責任と負担は他者に押し付けて、楽をしていい給料をもらって、できるだけたくさん休みをとりたい。人間の本心は今も昔も変わりがありません。人間は薄情です。人間界に愛想が尽きた杜子春は、仙人になることを希望します。仙人の鉄冠子(てつかんし)は、杜子春に非情です。杜子春に試練を与えます。峨眉山(がびざん)からは、四国にある眉山を思い出しました。杜子春はそこの一枚岩の上で修業します。何があっても口をきいてはいけない。意志を貫く。最後の選択枝は、馬の姿に変えられた亡くなった両親でした。親というものは、子の犠牲になることをいとわない。(否定しない)。これもまた小学生の頃に読んだことがある物語ですが、子である杜子春の心理よりも彼の親の心理がわかる年齢になりました。
「犬と笛」奈良県にある葛城山が舞台で、わたしは頂上に上ったことがあります。身近に感じました。飛鳥時代ぐらいの時代設定です。映画を観ているようでした。杜子春同様の特徴として「繰り返し表現」があります。髪長彦(かみながひこ)という女性のような木こりの若者が登場します。犬に乗って空を飛ぶ姿は、洋画「ネバーエンディングストーリー」を観るようでした。これもまた何か関連があるのかもしれません。
「蜜柑(みかん)」神奈川県横須賀発の列車に乗る。車両内には作者と小娘のふたりしかいない。随筆のようです。瞬間に空間を見い出して事象と推察を文章化し、「暗」を「明」へと変化させる技巧がほどこされています。
「魔術」インド人、マティラム・ミスラに魔術を見せてもらいます。魔術は自分の欲との闘いです。
「アグニの神」これもまた魔術師が登場します。なぜ、魔術にこだわったのだろう。大正10年の作品です。舞台は中国の上海(シャンハイ)。インド人のおばあさんは占い師です。日米戦争はいつ起こるのか。戦争を金儲けの手段にしようとする人間がいます。恵蓮(エレン)という捕らわれの身の少女の体にアグニの神が憑依(ひょうい、のりうつる)するのです。他の作品もそうですが、どうも仏典が作品製作の原点にあるようです。
「トロッコ」小学校国語の教材として習った記憶があります。小田原-熱海、8才の少年良平の冒険です。今の出来事としてではなく、26才になった妻子もちの良平の思い出として構成されています。8才の彼と26歳の彼をつなぐのは、トロッコの線路と暗い帰り道です。
「仙人」本書中、魔術同様、よく出てくるのが仙人です。仙人になりたくて大阪のお店で奉公人になった権助(ごんすけ)のお話です。不可能を可能にするこれもまた映画のようなお話でした。
「猿蟹合戦」童話さるかに合戦の後日談として作品化されていますが、これは、読む価値がありません。天才と呼ばれる人たちの作品は、小説にしても絵画にしても音楽にしても、ずばぬけた作品がある反面、どうしようもない駄作も多いと妙に納得しました。
「白」白と呼ばれていた犬が、当該犬の心理行為によって「黒」に色が変わる物語です。詩的です。犬は犬であって、人間ではないはずなのに、犬は人間なのです。白が黒になるということは、富豪が貧民になることであり、信頼が裏切りになることです。差別とか憎しみすら感じられます。功徳〔くどく、善(よ)い行い〕を重ねることによって白になれるという教訓めいた内容です。
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