2012年10月23日

阿修羅のごとく 向田邦子


阿修羅(あしゅら)のごとく 向田邦子 文春文庫

 興福寺宝物館に所蔵されている阿修羅像が好きで年に何回か奈良市を訪ねます。見学者が多いので、その陰に隠れながらそっと手を合わせて無病息災を祈念します。もともとは悪い仏さまのようですが、わたしはその表情が好きです。苦悶(くもん)の表情は自分の代わりに苦痛をこうむってくれていると考えます。表情はこの物語の内容どおりのものです。
 竹沢家の物語です。当主は竹沢恒太郎(70歳)、その妻ふじ、こどもたちは4人姉妹で、三田村綱子(45歳、寡婦かふ夫死亡)、里美巻子(41歳、夫、息子17歳、娘15歳)、滝子(30才、独身)、咲子(25歳、未婚)です。現在は少子高齢社会なのですが、思うに昔はひとりの女性が出産するこども数が多すぎた。今は反動で少なくなってしまったということでした。
 物語ではいわゆる「道徳」がありません。人間が快適に生活するためのきめごとからはずれた行動がそこここに散らばっています。だから親族一同を巻き込んだ騒動が勃発(ぼっぱつ)します。思い起こせば、親族間の付き合いが濃厚だった過去においては、どこの家でもみられた傾向でした。揉め事に巻き込まれることを嫌う世代や人が増加したことから親戚づきあいとか近所づきあいが必要最低限にと変化してきました。そんな濃厚な人付き合いも、こどもにとってはしあわせなものでした。にぎやかで、遊んでくれたりお小遣いをくれたりする親族が身近にいました。
 男女交際の形態も物語の内容とは変化を遂げています。昔は我慢してでも男女関係を継続しようとしましたが、現代はあっさりと別離します。機械的な感じもします。だからこそ、この物語の中には生きている人間が存在しています。浮気が修羅場を招く。阿修羅の登場です。
 昭和の時代には「許しあう文化」がありました。ひどいことをした親族、友人をたいていは、しょうがないと受け入れていました。そこには、お互いさまとか明日は我が身という戒(いまし)めもありました。現代は、相手の存在を無視する対応に変化してきています。
 物語の中では、人の死が自然です。お葬式の形態が変わって、たとえばこどもたちが遺体を見ることが少なくなりました。この物語では、人はかくのごとく生きてそのように死んでいくということが語られています。そこに笑いがからんでくることが作品の特徴です。登場人物たちは人生を楽しんでいますが、恒太郎の妻ふじさんはかわいそうです。がまんばかりして死んでいく人生は嫌です。ひとりひとりのそれぞれのしあわせとか、人が老いていく順送りとかについて考えさせられた作品でした。


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