2012年10月04日

夜のピクニック 映画

夜のピクニック 映画 ケーブルTV録画

 異母きょうだい(同級生)がその秘密を隠しながら高校の歩行祭に参加する。ふたりは高校3年生で、男子が本妻の子ニシワキトオル、女子が愛人の子コウダタカコとなっている。男子は自分の運命を呪い、女子は男子に申し訳ないと詫びる心をもっている。互いを意識しあうふたりに会話はない。
 単純に歩く。80kmを一昼夜かけて歩く。その営みの中で、組合せを変えながら高校生たちが今の自分の本音を相手に語りかける。素朴な映画です。ニューヨークに転校した女子高生の弟が伏線になります。彼女は弟に姿を変えて、同級生たちと一緒に歩いて、弟ジュンヤの口を借りて、自分の意見を友人たちにぶつけているのです。
 互いの気持ちのすれ違いは、後半に向かうにつれて解決に導かれます。さわやかな青春映画でした。
 もう高年者となった自分の目から見ての感想です。社会に出てみると、異父きょうだいとか異母きょうだいとかは珍しいものではありませんでした。互いに仲が悪いのだろうと邪推をしていました。同じ父母から生まれたきょうだいよりも結束が強い印象をもっています。考えてみれば、そのポジションは自らが選択したものではありません。責任は親にあるわけで、本人は被害者です。他の一面としては、どんな相手か会ってみたいという興味は強い。
 もうひとつは「学校」についてです。社会に出て、何年・何十年が日々経過してゆきます。「学校」は着実に遠い存在になってゆきます。今思うに、学校で何があったかは、社会に出てからはなんの関係もありません。だから学校での出来事を苦にすることはないのです。
 劇中突然アニメになったり、アニメ「ムーミン」のスナフキンみたいなのが登場したりします。違和感がありますがそれはそれでかまいません。上手に仕上げられた映画でした。

小説を読んだ感想も追記しておきます。

夜のピクニック 恩田陸 新潮文庫

 高校生が読む本かなと感じながら読み始めた。(実際は、おとなになって、若い頃をふりかえる物語でした。)遠くからながめる視線になる。構成はどうなっているのかとか。推理小説だろうか。
 登場人物が増えてきたので、文庫本の隣に手帳をのせて人物相関図を書いた。揺れる電車の上でアメーバーのような図を書いてみる。登場人物である後藤梨香は作者自身だろうか。何を書くにしても、作者の体験が内容につながっていく。48ページを過ぎたあたりから話が動き出す。話は重くなる。異母きょうだい、異父きょうだいについても作者に経験があるのだろうか。やはり推理小説のようだ。殺人事件が近づいてきた。(読み終えて、結局殺人事件はなかった。)
(読みかけ感想文なので、つづく)
 学生時代をふりかえっての郷愁だろうか。
 思い起こせば、学校にいる間は平等だった。
 卒業後それぞれの進路は千差万別に別れていく。
 結婚する者、しない者。こどもができる者、できない者。出世する者、しない者。貧富の差は広がり、病死する者、事故死する者。違いが広がっていく。
 話がなかなか動かないので斜め読みを始める。
 貴子と融(とおる)の恋愛関係には無理がある。人間のドロドロとしたものが出てくる。生まれながらに負ってきた不幸。誰しも他人に知られたくない秘密がある。
 何でもないことが過ぎてみればとても大事だったと思うという歌のフレーズがよみがえってきた。貴子の主観による文章、続いて融(とおる)の主観による記述がなめらかだ。心がつながりあう楽しさがある。この本を読んでよかったという気持ちが湧いてきた。ラスト近くの記述には涙がにじんでくる。
 「博士の愛した数式」に似た良質な感動がある。それぞれ本屋大賞受賞作でもある。


再読の感想も付記しておきます。

夜のピクニック(再読) 恩田陸 新潮文庫

 本を読んで、映画を観て、もう一度本を読んでみました。その間(かん)はたぶん3年以上の期間があります。「ひきずる」ということについて感想をもちました。この物語では、言いたくても言えないこと、聞きたくても聞けないことが言えて聞けて解決に向かっています。たいていは、そのまま、悪い印象のまま、卒業し何十年もの時が流れてゆきます。40年ぐらい経って、なにかのはずみに再会する、あるいは再会しそうになることが現実にあります。かなり苦しい状況に位置することになります。大昔のことだからではすまされません。わびて済むものでもなく、責任にさいなまれます。
 小説を読むのは二度目ですし、録画した映画は夕食時の家族おしゃべりタイムのBGMでしたので、何度も巻き戻して観ました。ほぼ原作に忠実な映画だったので、文章を読みながら映画の映像が重なります。映画の舞台は茨城県でした。映画の冒頭で舞台は千葉県だと思いましたが少し違っていました。
 秘め事に関して言えば、十代の頃の秘密は、実はだれもが知っていたということに二十代になって気づきます。この世はオープンです。自分だけが知っていることは少ない。
 映画と小説では、最後の一部分が異なります。映画ではタカコがもう一度いつか一緒に歩きたいと言いますが、小説では、わたしのうちに来てと、とおるを誘いとおるは受諾します。
 言うまでもなく、「とおる」と「しのぶ」の男同士の友情が描かれています。人生は長いけれど親友はなかなかできません。利害関係のない学生時代が希少なチャンスの時期のひとつです。
 勘違いしていました。中絶した女子高生の父親はしのぶだと思っていました。小説では明確に否定されています。

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