2012年07月08日
怪物はささやく パトリック・ネス
怪物はささやく パトリック・ネス あすなろ書房
文章で書きつづってあるけれど映像の世界です。梅雨時の深夜午前3時頃、屋根を叩く雨音に目が覚めて眠れなくなり、この本を読み続けました。真っ暗な闇、風雨の音、物語のシーンと重なり臨場感が増しました。
主人公コナー・オマリーは書中で13才とありますが、読んでいる途中では小学校5年生ぐらいの男子であり、家庭内暴力を振るう時期では14才中学2年生ぐらいに思えました。家族や友人間、先生たちとのやりとりの矛盾(むじゅん、くいちがい)に心がさいなまれる頃です。
コナーの両親は6年前に離婚しています。そして今、同居している母親は末期癌で死につつあります。コナーとおかあさん、そしてかれらと別居のおばあさんはイギリスで生活しています。コナーの父親は再婚してアメリカで暮らしています。コナーにとって異母妹である実父の娘もいます。コナーは学校でいじめに遭っています。もうそれだけで、コナーが夢も希望ももてない環境に置かれていることがわかります。
コナーの心理状態は精神病の症状のようです。幻覚が見えます。幻聴も聞こえます。家の外にある「イチイの木」がしゃべったり歩いたりするのです。そして、イチイの木は怪物です。イチイの木がどんな木か知らなかったので調べてみました。別名「アララギ」、なんだか聞いたことがあります。常緑針葉樹、高さ20mぐらい。
コナーは常に恐怖感を抱いている。強迫神経症だろうか。いじめっこたちのハリー、アントン、サリーに立ち向かうことができない。幼なじみのリリー・アンドルーズの手助けも拒否してしまう。殴られるがままです。情けない。勝とうが負けようが向かっていくべきです。
コナーと母方おばあさんとの対立があります。祖母は神経質で厳しい。祖母の娘はコナーの母親であるというのに、ふたりの仲は最悪です。おばあさんは孫よりも骨とう品である財産が大切です。おとなはいつでもお金と財産が最優先です。コナーは自分の朝食は自分でつくる。読んでいて、母親が病気とわかる前は児童虐待のうちのネグレクト(育児放棄)かと思いましたが違っていました。母親は自宅療養中で動けないのです。しかたがありません。食事は自分でつくりましょう。
一番罪深いのは「父親」でしょう。息子も妻も捨てて、父は家を出て行ったのです。さらに、新しい妻を迎え娘も生まれたのです。この物語のなかでは、イチイの木がコナーに、この世は、あるいは、人間は、汚いということを執拗(しつよう、しつこく)に説(と)きます。そして、負けるな!と檄(げき、奮起をうながす)を飛ばすのです。
イチイの木はコナーに物語を語り始めます。三つの物語があると言い始まります。四つめの物語はコナーがつくるのです。寿命の長いイチイの木がこれまでに見てきた歴史を語り始めます。第一話では、うそつき王子の話が登場します。王子は国を守るために自分の恋人である農民の娘の命を犠牲にします。平和な国を建国するためには代償が必要だったと強調します。これに対してコナーは理不尽だと抗議します。イチイの木は、人間に善玉も悪玉もいない。ひとりの人間に善と悪は共存しているとささやきます。第ニ話では、150年前工業が盛んになって人間たちは自然破壊を始めた。黒ずくめの服を着たアポセカリー(薬剤師の意味)がいた。アポセカリーは教会の司祭と対立した。司祭はアポセカリーが行う迷信や魔術を否定した。アポセカリーは生活に窮して司祭に何度も頼みごとをしたが司祭はきいてくれなかった。ところが立場が逆転して、司祭はふたりの病気の娘のために、最後の望みとして、自分の信念を捨ててアポセカリーに頭をさげて頼みごとをした。アポセカリーはその申し出を断った。イチイの木は、信念はなにがあっても捨ててはいけないと言う。「司祭(の考え方)」が科学優先、自然破壊の象徴として書かれています。イチイの木がたたきつぶした司祭の家は、今時もめている原子力発電所に思えました。第三話は、だれからも見えない男の話。透明人間ではない。見えるのに存在を無視されている。いない者として扱われている。コナーのことです。第二話の段階からコナーは精神が切れてしまった。自身をとりまく生活状況に順応できなくなった。彼は存在を示すために暴力を振るい始めます。コナーをそのような状況に導いているのは怪物です。怪物は自分の心のなかに宿る「暴力」、「凶暴」、「悪」です。捕まったコナーを迎えに来る家族はいません。母親は入院中、祖母はその付き添い中、父親はアメリカです。
第四の物語はコナーがつくります。怪物はお母さんをこの世から奪っていこうとします。対してコナーはそうはさせまいとします。コナーはがんばりました。でもお母さんを助けることはできませんでした。第四の物語には続きがあります。「限界」、人間のやることには「限界」がある。忍耐にも限界がある。怪物はコナーに真実(本音ほんね)を話すことを求めてくるし、行動することを求めてくる。
「12:07」。この時刻が何度も登場します。未来予知時刻です。この時刻にコナーはお母さんとサヨナラするのです。
「いい子でいなさい」。おとなはこどもにそう言う。こどもはおとなのごきげんをとるためにいい子でいられる期間もある。こどもはだんだん体が大きくなって、頭も働いて、こりゃなんかおかしいと気づく。自分は親を喜ばせるロボットじゃないと自我が芽生えてくる。イチイの木は言う。おとなを喜ばせようとする嘘を言うな。自分を守ろうとする嘘を言うな。本当の気持ちを吐け。
人間がもつ「悪」をさらけだす試みが小説です。
(再読 怪物はささやく)
最初に読んでから2か月が経過しました。
コナーがつくる四番目の物語について、読み込み不足があると感じていました。
183ページの「第四の物語」から再読しました。
母親は白血病なのであろう。そして、いかように対処しても命は助からない。
コナーの手は、かろうじて、崖から落ちそうになった母さんの手をつかまえた。
コナーは自らその手を離したのか。
あるいは、母さんが自らその手を離して奈落(ならく)へと転落していったのか。
親の立場でいうなら、わたしなら、自ら手を離す。
それが親の子に対する愛情であり、子にあとをたくす気持ちでもある。
遅かれ早かれ、親は子どもよりも先に死んでゆくものです。
子は親を助けられなかったからといって悔(く)いることはない。
コナーにとっては、母さんが負担になっていた。
おばあさんにとっても病気の娘が負担になっていた。
コナーとおばあさんは仲直りをした。
読んでいて、つらくなった。
3人は死ぬときになって、ようやくひとつの家族になった。
文章で書きつづってあるけれど映像の世界です。梅雨時の深夜午前3時頃、屋根を叩く雨音に目が覚めて眠れなくなり、この本を読み続けました。真っ暗な闇、風雨の音、物語のシーンと重なり臨場感が増しました。
主人公コナー・オマリーは書中で13才とありますが、読んでいる途中では小学校5年生ぐらいの男子であり、家庭内暴力を振るう時期では14才中学2年生ぐらいに思えました。家族や友人間、先生たちとのやりとりの矛盾(むじゅん、くいちがい)に心がさいなまれる頃です。
コナーの両親は6年前に離婚しています。そして今、同居している母親は末期癌で死につつあります。コナーとおかあさん、そしてかれらと別居のおばあさんはイギリスで生活しています。コナーの父親は再婚してアメリカで暮らしています。コナーにとって異母妹である実父の娘もいます。コナーは学校でいじめに遭っています。もうそれだけで、コナーが夢も希望ももてない環境に置かれていることがわかります。
コナーの心理状態は精神病の症状のようです。幻覚が見えます。幻聴も聞こえます。家の外にある「イチイの木」がしゃべったり歩いたりするのです。そして、イチイの木は怪物です。イチイの木がどんな木か知らなかったので調べてみました。別名「アララギ」、なんだか聞いたことがあります。常緑針葉樹、高さ20mぐらい。
コナーは常に恐怖感を抱いている。強迫神経症だろうか。いじめっこたちのハリー、アントン、サリーに立ち向かうことができない。幼なじみのリリー・アンドルーズの手助けも拒否してしまう。殴られるがままです。情けない。勝とうが負けようが向かっていくべきです。
コナーと母方おばあさんとの対立があります。祖母は神経質で厳しい。祖母の娘はコナーの母親であるというのに、ふたりの仲は最悪です。おばあさんは孫よりも骨とう品である財産が大切です。おとなはいつでもお金と財産が最優先です。コナーは自分の朝食は自分でつくる。読んでいて、母親が病気とわかる前は児童虐待のうちのネグレクト(育児放棄)かと思いましたが違っていました。母親は自宅療養中で動けないのです。しかたがありません。食事は自分でつくりましょう。
一番罪深いのは「父親」でしょう。息子も妻も捨てて、父は家を出て行ったのです。さらに、新しい妻を迎え娘も生まれたのです。この物語のなかでは、イチイの木がコナーに、この世は、あるいは、人間は、汚いということを執拗(しつよう、しつこく)に説(と)きます。そして、負けるな!と檄(げき、奮起をうながす)を飛ばすのです。
イチイの木はコナーに物語を語り始めます。三つの物語があると言い始まります。四つめの物語はコナーがつくるのです。寿命の長いイチイの木がこれまでに見てきた歴史を語り始めます。第一話では、うそつき王子の話が登場します。王子は国を守るために自分の恋人である農民の娘の命を犠牲にします。平和な国を建国するためには代償が必要だったと強調します。これに対してコナーは理不尽だと抗議します。イチイの木は、人間に善玉も悪玉もいない。ひとりの人間に善と悪は共存しているとささやきます。第ニ話では、150年前工業が盛んになって人間たちは自然破壊を始めた。黒ずくめの服を着たアポセカリー(薬剤師の意味)がいた。アポセカリーは教会の司祭と対立した。司祭はアポセカリーが行う迷信や魔術を否定した。アポセカリーは生活に窮して司祭に何度も頼みごとをしたが司祭はきいてくれなかった。ところが立場が逆転して、司祭はふたりの病気の娘のために、最後の望みとして、自分の信念を捨ててアポセカリーに頭をさげて頼みごとをした。アポセカリーはその申し出を断った。イチイの木は、信念はなにがあっても捨ててはいけないと言う。「司祭(の考え方)」が科学優先、自然破壊の象徴として書かれています。イチイの木がたたきつぶした司祭の家は、今時もめている原子力発電所に思えました。第三話は、だれからも見えない男の話。透明人間ではない。見えるのに存在を無視されている。いない者として扱われている。コナーのことです。第二話の段階からコナーは精神が切れてしまった。自身をとりまく生活状況に順応できなくなった。彼は存在を示すために暴力を振るい始めます。コナーをそのような状況に導いているのは怪物です。怪物は自分の心のなかに宿る「暴力」、「凶暴」、「悪」です。捕まったコナーを迎えに来る家族はいません。母親は入院中、祖母はその付き添い中、父親はアメリカです。
第四の物語はコナーがつくります。怪物はお母さんをこの世から奪っていこうとします。対してコナーはそうはさせまいとします。コナーはがんばりました。でもお母さんを助けることはできませんでした。第四の物語には続きがあります。「限界」、人間のやることには「限界」がある。忍耐にも限界がある。怪物はコナーに真実(本音ほんね)を話すことを求めてくるし、行動することを求めてくる。
「12:07」。この時刻が何度も登場します。未来予知時刻です。この時刻にコナーはお母さんとサヨナラするのです。
「いい子でいなさい」。おとなはこどもにそう言う。こどもはおとなのごきげんをとるためにいい子でいられる期間もある。こどもはだんだん体が大きくなって、頭も働いて、こりゃなんかおかしいと気づく。自分は親を喜ばせるロボットじゃないと自我が芽生えてくる。イチイの木は言う。おとなを喜ばせようとする嘘を言うな。自分を守ろうとする嘘を言うな。本当の気持ちを吐け。
人間がもつ「悪」をさらけだす試みが小説です。
(再読 怪物はささやく)
最初に読んでから2か月が経過しました。
コナーがつくる四番目の物語について、読み込み不足があると感じていました。
183ページの「第四の物語」から再読しました。
母親は白血病なのであろう。そして、いかように対処しても命は助からない。
コナーの手は、かろうじて、崖から落ちそうになった母さんの手をつかまえた。
コナーは自らその手を離したのか。
あるいは、母さんが自らその手を離して奈落(ならく)へと転落していったのか。
親の立場でいうなら、わたしなら、自ら手を離す。
それが親の子に対する愛情であり、子にあとをたくす気持ちでもある。
遅かれ早かれ、親は子どもよりも先に死んでゆくものです。
子は親を助けられなかったからといって悔(く)いることはない。
コナーにとっては、母さんが負担になっていた。
おばあさんにとっても病気の娘が負担になっていた。
コナーとおばあさんは仲直りをした。
読んでいて、つらくなった。
3人は死ぬときになって、ようやくひとつの家族になった。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t80762
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません