2012年06月16日

江戸参府紀行 ジーボルト

江戸参府紀行 ジーボルト 東洋文庫87 平凡社

 学校で習ったときは、シーボルトでした。彼はドイツ人医師で、今から200年ぐらい前の日本に滞在しています。この本は1826年2月15日から同年7月7日までの旅程です。(1868年が明治維新です。)長崎県の出島を出て、江戸まで行き出島へ戻っています。彼は出島を「監獄」と称しています。経路は現在の長崎-佐賀-福岡-海路で兵庫県まで、そして陸路で大阪-京都-三重-愛知-静岡-神奈川-江戸となっています。彼は27歳から6年間日本に滞在しています。彼は、国外持ち出し禁止の地図、書物などをオランダへ送ろうとしたことが発見されて国外追放されていますが、徳川幕府の衰退によって、再度日本を訪れています。日本には日本人妻がいて、子もふたりもうけています。帰国後ヨーロッパ人と結婚してまた子をもうけています。彼はドイツ人ですが、オランダ人と偽って入国しています。入国時、ドイツ人の彼よりも日本人の通訳のほうが、オランダ語が堪能だったとの記事には日本人の能力の高さに感心しました。ドイツのミュンヘンで亡くなった最期の言葉は「美しい平和の国へゆく」でした。その国が日本であることを信じたい。
 もっと早く、若いうちに読んでおきたい1冊でした。彼の表向きの行為は、医術の伝授でありますが、知識欲は、地理に始まって、動植物、気候・気温、言語、食物、郵便、旅館、造船、風俗、習慣、温泉、地質と多岐に渡ります。将来ヨーロッパ人が日本を植民地化するための調査です。勤勉な日本人、優秀な日本人たちですが、皇室崇拝は日本人の弱点とか、庶民の人の良さは利用できるととれる考察ももちあわせています。作者は、日本人よりも日本をよく知る外国人です。
 当時の日本では、ツルを食べる食文化があった。下級武士は貧しかった。女郎は尊敬されていた。(平家の血を引き継いでいたと思われていた。)士農工商以下の差別の記述では、新オランダ人(オーストラリアのアボリジニ)の記述まで登場します。絶滅したトキが飛び交い、最近見かけなくなったヒバリの記述があります。彼の記述には故国を思う望郷の念はいっさいありません。日本人の教養を讃える反面、たくさんの乞食がいる。ことに江戸は貧富の差が激しいとあり、現代の格差社会の比ではなかったようです。大名は贅沢・浪費をしている。市中では梅毒をはじめとした病気が蔓延している。江戸では、連帯責任を伴う強固な町内会組織と充実した火消し(消防)組織が社会の秩序を形成している。放火が多い。罪人は、討ち首のうえ3日間首をさらされる。日本全土は、6月から8月のあいだ、肥料代わりの糞尿の匂いで包まれる。大阪は金貸しを中心とした経済が盛んで、文化も発達している。彼は医師として、外科から眼科、ついには精神科までの助言を日本人に与えています。弟子の数も多く、彼らがさまざまな面でシーボルトを支えました。医術は弟子から弟子へと伝承されていったようです。
 写真がわりに画家にスケッチをさせています。瀬戸内海、京都、静岡、富士山の絶景、美しい港湾風景が続きますが、しっかり、港の海の深さも計測して、ヨーロッパの船が入港できるかどうかを調べています。アイヌ語とか蝦夷(えぞ・北海道)、樺太のことまで調べあげています。江戸幕府が、大阪城の石垣を埋め立ててあることにも気づいています。おそるべし関心の強さです。スパイ行為をしつつも日本に愛着が強かったと思いたい。
 この彼の日誌から感じたことは、民族は自分の民族のことしか考えないというものでした。江戸幕府は日本を守るためにさまざまな制限を外国人に強いてくるのです。そのことが技術や文化の発展をはばみます。されど、最終的に江戸幕府は負けてしまいます。変化の波に勝ち続ける権力はないのです。とどまり続けるのではなく、時代の流れとともにゆっくりと変化を続けていかなければ、民族は、他の民族に侵略されるのです。

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