2012年06月14日
森に眠る魚 角田光代
森に眠る魚 角田光代 双葉社
幼稚園とか小学校受験を巡る主婦たちの葛藤です。通勤をしていると、まだ体の小さい男の子や女の子たちが、黒や赤のランドセルをしょって、午前7時過ぎぐらいに通勤・通学電車に乗り込んできます。男の子はひよわっぽく見え、雨降りの日にはかわいそうにとながめてしまいます。対して女子はたくましい。女子がお姉さんがわりになって小柄な男子を引っ張っていきます。対して、昼間の電車で見る彼らは元気いっぱいです。にぎやかにおしゃべりをしています。彼らは私立の学校に行くものとして生まれたこどもたちであろうと考えます。頭脳明晰で行動はすばやい。将来のエリートなのでしょう。だからといって、自分のこどもを私立小学校・中学校に行かせようと思ったことはありません。それぞれ別の生き方をしていく人間なのです。
この本では、当然私立幼稚園・私立小学校・私立中学に行くとして生まれてきたわけではないこどもたちの母親たちが、表面上はママ友、裏ではライバル視というゆがんだ心理状態のなかで、混乱の渦潮へと巻き込まれて沈んでいきます。狭くて苦しい世界です。不倫相手の姿はあっても夫の姿はありません。家庭やこどもが、経済的・学力的に合否のボーダーラインのすぐ上や下にいるときは無理しないほうがいい。3歳から5歳ぐらいのこどもは元気であればいいのです。
だれがだれを殺すのか、あるいはだれがだれのこどもを殺すのか。ラスト付近は不気味です。森に眠る魚とは、魚は水の中にいるべきなのです。それが森にあがってきたらそこにあるのは「死」です。この物語では、死ぬ一歩手前で、魚は眠っているのです。
登場人物は、繁田繭子(娘は怜奈)、久野容子(息子は一俊)、高原千花(息子は雄太)、小林瞳(息子は光太郎)、江田かおり(娘は衿香)です。こどもがちいさいうちは仲良しでも、だんだんそれぞれに格差が生じてきます。時は、1996年8月から2000年3月までの物語です。母親たちは不安を解消するために仲良しごっこを始めます。依存心が強く自立できていない女性もいます。同じマンションだから、近所に住んでいるから、同じ幼稚園だからといって親友になれるわけではありません。読み手は、それぞれの個性を読み取りながら、こういうおかあさんって実在すると考えます。人が集まればそのうちのだれかがいじめや仲間はずれの対象になります。仕事でもないのに毎日顔を合わせていると、だれかや、なにかを批判する話題しか出てこなくなります。そして、彼女たちの考えには、自分自身がこどもを預けて働くという選択肢はありません。それぞれがそれぞれに「負担」をかけることばかりです。欲望には限界がありません。出口のない問答が続いて、頭がおかしくなって、孤独が襲ってきます。どこへ逃げたって一緒という声が聞こえてきます。作者によるたたみかける仔細(しさい)な考えの押し出し文章は強烈で、天性の文才を感じます。作者が真剣に文章を書いていることが伝わってきます。
自分のことは自分でする。自分を利用しようとする人間とはきっぱりと関係を絶つ。身の程(ほど)を知る。欲望の限界線を越えない。周囲の言葉に振り回されない。難解な面もあり読んでいて苦しかった。この作品が「八日目の蝉(せみ)」とか「誕生日はジミー・ページ」(同作者著)と関連があることがわかります。
幼稚園とか小学校受験を巡る主婦たちの葛藤です。通勤をしていると、まだ体の小さい男の子や女の子たちが、黒や赤のランドセルをしょって、午前7時過ぎぐらいに通勤・通学電車に乗り込んできます。男の子はひよわっぽく見え、雨降りの日にはかわいそうにとながめてしまいます。対して女子はたくましい。女子がお姉さんがわりになって小柄な男子を引っ張っていきます。対して、昼間の電車で見る彼らは元気いっぱいです。にぎやかにおしゃべりをしています。彼らは私立の学校に行くものとして生まれたこどもたちであろうと考えます。頭脳明晰で行動はすばやい。将来のエリートなのでしょう。だからといって、自分のこどもを私立小学校・中学校に行かせようと思ったことはありません。それぞれ別の生き方をしていく人間なのです。
この本では、当然私立幼稚園・私立小学校・私立中学に行くとして生まれてきたわけではないこどもたちの母親たちが、表面上はママ友、裏ではライバル視というゆがんだ心理状態のなかで、混乱の渦潮へと巻き込まれて沈んでいきます。狭くて苦しい世界です。不倫相手の姿はあっても夫の姿はありません。家庭やこどもが、経済的・学力的に合否のボーダーラインのすぐ上や下にいるときは無理しないほうがいい。3歳から5歳ぐらいのこどもは元気であればいいのです。
だれがだれを殺すのか、あるいはだれがだれのこどもを殺すのか。ラスト付近は不気味です。森に眠る魚とは、魚は水の中にいるべきなのです。それが森にあがってきたらそこにあるのは「死」です。この物語では、死ぬ一歩手前で、魚は眠っているのです。
登場人物は、繁田繭子(娘は怜奈)、久野容子(息子は一俊)、高原千花(息子は雄太)、小林瞳(息子は光太郎)、江田かおり(娘は衿香)です。こどもがちいさいうちは仲良しでも、だんだんそれぞれに格差が生じてきます。時は、1996年8月から2000年3月までの物語です。母親たちは不安を解消するために仲良しごっこを始めます。依存心が強く自立できていない女性もいます。同じマンションだから、近所に住んでいるから、同じ幼稚園だからといって親友になれるわけではありません。読み手は、それぞれの個性を読み取りながら、こういうおかあさんって実在すると考えます。人が集まればそのうちのだれかがいじめや仲間はずれの対象になります。仕事でもないのに毎日顔を合わせていると、だれかや、なにかを批判する話題しか出てこなくなります。そして、彼女たちの考えには、自分自身がこどもを預けて働くという選択肢はありません。それぞれがそれぞれに「負担」をかけることばかりです。欲望には限界がありません。出口のない問答が続いて、頭がおかしくなって、孤独が襲ってきます。どこへ逃げたって一緒という声が聞こえてきます。作者によるたたみかける仔細(しさい)な考えの押し出し文章は強烈で、天性の文才を感じます。作者が真剣に文章を書いていることが伝わってきます。
自分のことは自分でする。自分を利用しようとする人間とはきっぱりと関係を絶つ。身の程(ほど)を知る。欲望の限界線を越えない。周囲の言葉に振り回されない。難解な面もあり読んでいて苦しかった。この作品が「八日目の蝉(せみ)」とか「誕生日はジミー・ページ」(同作者著)と関連があることがわかります。
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