2012年06月09日
八日目の蝉(せみ) 角田光代
八日目の蝉(せみ) 角田光代 中央公論新社
この作家さんの文章は苦手なのですが、「二十四の瞳」壺井榮著を再読し感動したわたしは、その月に物語の舞台となった小豆島まで行き、その過程のなかで、本作品の舞台に小豆島があることを知り、読んでみることにしました。
単行本のうしろのほうをめくると小豆島で見学した「岬の分教場」の保存会の文字があり安心して読み始めました。
野々宮貴和子さん(30才独身、不倫中)が、不倫相手男性夫婦のあかちゃん(生後6か月女児)を男性夫婦の自宅から連れ去って、その子を育てていく筋書きとなっています。以前同作者の「キッドナップ(誘拐のこと)・ツアー」を読んだことがあります。父親が実の娘を誘拐するものでした。同じく「誘拐」を扱った作品ですが両者の中身は異なります。
作者の体全体からほとばしるようにあふれてくるエネルギーで文章が書かれています。その全力感がわたしは苦手です。120%の力量で文章が続きます。わたしは、読み疲れます。本作品はそれに加えて暗い。野々宮貴和子さんは、怖い犯罪者です。彼女もその周囲にいる人たちも嘘つきばかりです。この素材は重い。最後まで読み終えることができるだろうかと不安になりました。
犯人の野々宮貴和子さんはどうなってもいいが、彼女が薫ちゃんと名づけたあかちゃんが心配だ。作者はこのあとどう展開させていくのか。どうしたら野々宮貴和子さんのような人間ができあがるのか。彼女は友人をだましても何の負い目ももっていない。彼女にはもう両親はいない。家族に恵まれない人に良心はないのか、いや、しかしと、自分のなかにある偏見と戦っている。
舞台は小豆島に移る前に、東京から名古屋に移りました。公園というのは鶴舞公園のことでしょう。そばに名古屋大学付属病院があります。その後、舞台は奈良県生駒市、続いて香川県小豆島と移っていきます。それは、ロード・ストーリーと呼ばれる記述手法で、「海辺のカフカ」村上春樹著で、四国の図書館で暮らすカフカ君と別の筋立てで四国へ向かうナカタさんの姿を思い起こさせてくれます。
野々宮さんの人格設定にアンバランス感があります。幼稚でいいかげんな行動がある面と知的レベルの高い話し方が混在しており、現実には、そのような人間はいません。また、薫ちゃんは5歳までの記憶力が良すぎます。通常5歳ぐらいからの記憶が人には残っていると思います。されどそこは小説と割り切ることにしました。作者は野々宮さんにたくさんの嘘を喋らせます。オウム真理教とか、その他の宗教団体の共同生活が基礎にあります。読みながら作者の生い立ちを考えてしまいました。母子ふたりの生活は、月日が経つほど、年数が経つほど、不幸という固まりが少しずつ、しかし巨大にふくらんでいきます。恐ろしい。野々宮さんは不倫相手のこどもを誠実に育てていくけれど、それはありえないことです。
あの人に出会わなければ、わたしはこんなに不幸にならなかったということはあります。読み手はだんだんつらくなってくる。登場人物のひとりひとりが秘密をもっています。方言を否定されることは、人間の個性を否定することだと思います。そして、否定された人間は、否定した人間を深く憎み仕返しを企てます。
残りあと100ページぐらい。母子ふたりは最後に瀬戸内海で、入水自殺でもするのではなかろうかという予想が浮かぶ。
第2章に移ると記述方法が、がらりと変わる。何が起こったのだろう。読み手のわたしは、どうしたらいいのだという気持ちになりました。犯人、野々宮さんは幸(さち)薄い人です。生まれる場所や親を選択できないものだろうかとか、壊れた家族関係の発端をつくった不倫相手秋山丈博氏34歳に神の罰が下ったとか、男性とほとんど接触することなく大学生になる女性は今も確かに存在するとか、みんなと一緒の行動をすることが日本人の特性とか、親が離婚すれば、子も離婚する。離婚は親から子へ連鎖するとか、さまざまなことがらが頭の中を巡りました。
作者は何かの事件を取材したのだろうか。奈良県生駒ケーブル駅にはわたしも行ったことがあります。この本に登場するいくつかの舞台に行ったことがあるので、読みながら現地の風景が目に浮かび、物語なのに実体験のような気がしてきて、話に引き込まれていきます
325ページ、いく人かの人間には、死んでも行きたくない場所があります。しかし憎しみが愛情に変わるときがあります。それを運命とか宿命というのでしょう。
329ページ、「ゆたか」豊かという言葉に慰められた。ゆたかな記憶。かつて親子として暮らした犯人野々宮貴和子さんと娘薫さん(野々宮さんが付けた名前)。岡山港から小豆島へ。この部分は、全体を読み終えたあと、再び読み直しました。瀬戸内海の風景記述は秀逸です。そのままの様子が現実です。わたしがフェリーからながめた瀬戸内海は、ものを映さない鏡でした。
ラストに近づくにつれて、心が痛くなり、感涙(かんるい)で目がにじみました。「回帰」でしょうか。生後6ヶ月で誘拐された薫こと秋山恵理菜さんは、誘拐犯人が付けた名前である宮田薫に戻った。読み終えて出たわたしの言葉は、「よかった」というものでした。
八日目の蝉(せみ)とは、蝉は長い年数を地中で過ごすが、地上に出ると7日目に死んでしまう。しかし、なかには8日目以降も生き延びる蝉もいる。本来なら死んでいたはずなのに、そのあとも生きていることは、幸か不幸かという問いに答えることが本書の主題です。偶然ですが、薫さんが誘拐された直後、薫さんの自宅で火災が発生しています。本来、薫さんは生後6か月で焼死していた人間です。それが誘拐されたことによって、8日目以降を生き延びることになった蝉にたとえてあるのです。
不倫で周囲のひとたちに迷惑をかけた男に神が火災でこどもを失うという罰を与えようとしたところ、不倫相手の女が誘拐という手段でこどもを救った。神は怒って、誘拐した女と誘拐されたこどもに罰を与えた。人間が人間に罰を与える必要はない。神が与える。だから犯罪を起こしてはいけないし、起こす必要もない、というところまで読み込みました。
この作家さんの文章は苦手なのですが、「二十四の瞳」壺井榮著を再読し感動したわたしは、その月に物語の舞台となった小豆島まで行き、その過程のなかで、本作品の舞台に小豆島があることを知り、読んでみることにしました。
単行本のうしろのほうをめくると小豆島で見学した「岬の分教場」の保存会の文字があり安心して読み始めました。
野々宮貴和子さん(30才独身、不倫中)が、不倫相手男性夫婦のあかちゃん(生後6か月女児)を男性夫婦の自宅から連れ去って、その子を育てていく筋書きとなっています。以前同作者の「キッドナップ(誘拐のこと)・ツアー」を読んだことがあります。父親が実の娘を誘拐するものでした。同じく「誘拐」を扱った作品ですが両者の中身は異なります。
作者の体全体からほとばしるようにあふれてくるエネルギーで文章が書かれています。その全力感がわたしは苦手です。120%の力量で文章が続きます。わたしは、読み疲れます。本作品はそれに加えて暗い。野々宮貴和子さんは、怖い犯罪者です。彼女もその周囲にいる人たちも嘘つきばかりです。この素材は重い。最後まで読み終えることができるだろうかと不安になりました。
犯人の野々宮貴和子さんはどうなってもいいが、彼女が薫ちゃんと名づけたあかちゃんが心配だ。作者はこのあとどう展開させていくのか。どうしたら野々宮貴和子さんのような人間ができあがるのか。彼女は友人をだましても何の負い目ももっていない。彼女にはもう両親はいない。家族に恵まれない人に良心はないのか、いや、しかしと、自分のなかにある偏見と戦っている。
舞台は小豆島に移る前に、東京から名古屋に移りました。公園というのは鶴舞公園のことでしょう。そばに名古屋大学付属病院があります。その後、舞台は奈良県生駒市、続いて香川県小豆島と移っていきます。それは、ロード・ストーリーと呼ばれる記述手法で、「海辺のカフカ」村上春樹著で、四国の図書館で暮らすカフカ君と別の筋立てで四国へ向かうナカタさんの姿を思い起こさせてくれます。
野々宮さんの人格設定にアンバランス感があります。幼稚でいいかげんな行動がある面と知的レベルの高い話し方が混在しており、現実には、そのような人間はいません。また、薫ちゃんは5歳までの記憶力が良すぎます。通常5歳ぐらいからの記憶が人には残っていると思います。されどそこは小説と割り切ることにしました。作者は野々宮さんにたくさんの嘘を喋らせます。オウム真理教とか、その他の宗教団体の共同生活が基礎にあります。読みながら作者の生い立ちを考えてしまいました。母子ふたりの生活は、月日が経つほど、年数が経つほど、不幸という固まりが少しずつ、しかし巨大にふくらんでいきます。恐ろしい。野々宮さんは不倫相手のこどもを誠実に育てていくけれど、それはありえないことです。
あの人に出会わなければ、わたしはこんなに不幸にならなかったということはあります。読み手はだんだんつらくなってくる。登場人物のひとりひとりが秘密をもっています。方言を否定されることは、人間の個性を否定することだと思います。そして、否定された人間は、否定した人間を深く憎み仕返しを企てます。
残りあと100ページぐらい。母子ふたりは最後に瀬戸内海で、入水自殺でもするのではなかろうかという予想が浮かぶ。
第2章に移ると記述方法が、がらりと変わる。何が起こったのだろう。読み手のわたしは、どうしたらいいのだという気持ちになりました。犯人、野々宮さんは幸(さち)薄い人です。生まれる場所や親を選択できないものだろうかとか、壊れた家族関係の発端をつくった不倫相手秋山丈博氏34歳に神の罰が下ったとか、男性とほとんど接触することなく大学生になる女性は今も確かに存在するとか、みんなと一緒の行動をすることが日本人の特性とか、親が離婚すれば、子も離婚する。離婚は親から子へ連鎖するとか、さまざまなことがらが頭の中を巡りました。
作者は何かの事件を取材したのだろうか。奈良県生駒ケーブル駅にはわたしも行ったことがあります。この本に登場するいくつかの舞台に行ったことがあるので、読みながら現地の風景が目に浮かび、物語なのに実体験のような気がしてきて、話に引き込まれていきます
325ページ、いく人かの人間には、死んでも行きたくない場所があります。しかし憎しみが愛情に変わるときがあります。それを運命とか宿命というのでしょう。
329ページ、「ゆたか」豊かという言葉に慰められた。ゆたかな記憶。かつて親子として暮らした犯人野々宮貴和子さんと娘薫さん(野々宮さんが付けた名前)。岡山港から小豆島へ。この部分は、全体を読み終えたあと、再び読み直しました。瀬戸内海の風景記述は秀逸です。そのままの様子が現実です。わたしがフェリーからながめた瀬戸内海は、ものを映さない鏡でした。
ラストに近づくにつれて、心が痛くなり、感涙(かんるい)で目がにじみました。「回帰」でしょうか。生後6ヶ月で誘拐された薫こと秋山恵理菜さんは、誘拐犯人が付けた名前である宮田薫に戻った。読み終えて出たわたしの言葉は、「よかった」というものでした。
八日目の蝉(せみ)とは、蝉は長い年数を地中で過ごすが、地上に出ると7日目に死んでしまう。しかし、なかには8日目以降も生き延びる蝉もいる。本来なら死んでいたはずなのに、そのあとも生きていることは、幸か不幸かという問いに答えることが本書の主題です。偶然ですが、薫さんが誘拐された直後、薫さんの自宅で火災が発生しています。本来、薫さんは生後6か月で焼死していた人間です。それが誘拐されたことによって、8日目以降を生き延びることになった蝉にたとえてあるのです。
不倫で周囲のひとたちに迷惑をかけた男に神が火災でこどもを失うという罰を与えようとしたところ、不倫相手の女が誘拐という手段でこどもを救った。神は怒って、誘拐した女と誘拐されたこどもに罰を与えた。人間が人間に罰を与える必要はない。神が与える。だから犯罪を起こしてはいけないし、起こす必要もない、というところまで読み込みました。
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