2012年05月18日
影法師 百田尚樹 講談社
影法師 百田尚樹 講談社
侍(さむらい)のお話です。いくつかの読めないあるいは意味がとれない単語が出てきます。「捨て扶持(ぶち)」江戸時代の言葉。役に立たないものに与える給料・生活費「儂」わしと読む。自分のこと。「奸物(かんぶつ)」悪知恵のはたらく心のひねくれた人間。この物語では、私利私欲のために家臣や民の幸せや夢となる政策実行を妨害した滝本主税(ちから)筆頭国家老を指します。「上意討ち、じょういうち」主君の命を受けて、罪人を討つ。討ちそこねると死とお家断絶(○○家がなくなる)が待っている。「逐電ちくでん」すばやく逃げて行方をくらます。この物語では、ストーリーの柱となる磯貝彦四郎が逐電します。「御徒組」おかちぐみ。江戸時代にあった城を守るための組織。ある意味、公務員的な侍組織が描かれています。以前読んだ朝日文左衛門(実在)サムライダイアリーで紹介されていた侍の実生活が参考になりました。
主役の茅島藩(かやしまはん)筆頭国家老名倉彰蔵50才の回想から始まります。彼の影法師になるのが磯貝彦四郎です。すでに他界しています。この作家さんの物語作りの手法により、ラストのラストで目頭が熱くなります。文章に記事はありませんが、わたしは、本の記述にあるような解釈はしません。なぜ、彦四郎は彰蔵を守ったのか。記事では、彰蔵が藩にとって必要な人間だったからとあります。違います。彦四郎は彰蔵の妻みねを愛していたからなのです。みねを不幸な境遇にしないために彦四郎は夫である彰蔵を守り通したのです。
身分制度である上士、中士、下士のうち下士である彰蔵の父は7才の彰士の目の前で上士の侍に槍で突き殺されます。父親のこどもを守るという強い意志が、父親の死後も彰蔵を守り続けます。物語の出だしは衝撃的です。彰蔵が上士に放った「それでも武士か!」という言葉は、日本映画「さや侍」での野見勘十郎の娘たえの叫びと重なるのです。侍は強い意志と優しい心をもちながら命を絶っていくものなのです。
だれかのために自分を犠牲にする。そういう人がいないと社会は成り立っていかない。無名で生涯を終えた人たちこそが賞賛されるべきです。世のため人のためといいつつ、結局は自分のために生きている人のほうが多い。書中では、肝心な分岐点で、登場人物たちは無言になります。心ある人たちは、自分の気持ちを声に出さない。沈黙します。
落ちぶれた彦四郎と暮らした下女は保津(ほつ)だろうと予想しましたがはずれました。侍の貧しい暮らしぶりは日本映画「壬生義士伝(みぶぎしでん)」の吉村寛一郎を思い浮かべました。南部藩所属だった彼は貧しさから逃れるため新撰組に参加しました。彼は死に息子も死にました。この物語では舞台が明記されていない、あるいはわたしが地名を知らないためか、おそらく東北地方の日本海側と推察するのです。実話があるのかもしれません。農民を始めとした下層武士の貧困を救うため「米」に着目して干潟を干拓して田に変えていくことが目標となっています。「米」がすべての尺度です。米のために幾度も殺し合いが発生します。殺戮シーン(さつりく)の表現はすごい。刀技は瞬間的ですが迫力があります。
幹部職にある武士が不正を働くことをいさめるのですが、藩主そのものが不正をする場合は救いようがない。最後に、文章は適度な固まりでつないであり読みやすかった。
侍(さむらい)のお話です。いくつかの読めないあるいは意味がとれない単語が出てきます。「捨て扶持(ぶち)」江戸時代の言葉。役に立たないものに与える給料・生活費「儂」わしと読む。自分のこと。「奸物(かんぶつ)」悪知恵のはたらく心のひねくれた人間。この物語では、私利私欲のために家臣や民の幸せや夢となる政策実行を妨害した滝本主税(ちから)筆頭国家老を指します。「上意討ち、じょういうち」主君の命を受けて、罪人を討つ。討ちそこねると死とお家断絶(○○家がなくなる)が待っている。「逐電ちくでん」すばやく逃げて行方をくらます。この物語では、ストーリーの柱となる磯貝彦四郎が逐電します。「御徒組」おかちぐみ。江戸時代にあった城を守るための組織。ある意味、公務員的な侍組織が描かれています。以前読んだ朝日文左衛門(実在)サムライダイアリーで紹介されていた侍の実生活が参考になりました。
主役の茅島藩(かやしまはん)筆頭国家老名倉彰蔵50才の回想から始まります。彼の影法師になるのが磯貝彦四郎です。すでに他界しています。この作家さんの物語作りの手法により、ラストのラストで目頭が熱くなります。文章に記事はありませんが、わたしは、本の記述にあるような解釈はしません。なぜ、彦四郎は彰蔵を守ったのか。記事では、彰蔵が藩にとって必要な人間だったからとあります。違います。彦四郎は彰蔵の妻みねを愛していたからなのです。みねを不幸な境遇にしないために彦四郎は夫である彰蔵を守り通したのです。
身分制度である上士、中士、下士のうち下士である彰蔵の父は7才の彰士の目の前で上士の侍に槍で突き殺されます。父親のこどもを守るという強い意志が、父親の死後も彰蔵を守り続けます。物語の出だしは衝撃的です。彰蔵が上士に放った「それでも武士か!」という言葉は、日本映画「さや侍」での野見勘十郎の娘たえの叫びと重なるのです。侍は強い意志と優しい心をもちながら命を絶っていくものなのです。
だれかのために自分を犠牲にする。そういう人がいないと社会は成り立っていかない。無名で生涯を終えた人たちこそが賞賛されるべきです。世のため人のためといいつつ、結局は自分のために生きている人のほうが多い。書中では、肝心な分岐点で、登場人物たちは無言になります。心ある人たちは、自分の気持ちを声に出さない。沈黙します。
落ちぶれた彦四郎と暮らした下女は保津(ほつ)だろうと予想しましたがはずれました。侍の貧しい暮らしぶりは日本映画「壬生義士伝(みぶぎしでん)」の吉村寛一郎を思い浮かべました。南部藩所属だった彼は貧しさから逃れるため新撰組に参加しました。彼は死に息子も死にました。この物語では舞台が明記されていない、あるいはわたしが地名を知らないためか、おそらく東北地方の日本海側と推察するのです。実話があるのかもしれません。農民を始めとした下層武士の貧困を救うため「米」に着目して干潟を干拓して田に変えていくことが目標となっています。「米」がすべての尺度です。米のために幾度も殺し合いが発生します。殺戮シーン(さつりく)の表現はすごい。刀技は瞬間的ですが迫力があります。
幹部職にある武士が不正を働くことをいさめるのですが、藩主そのものが不正をする場合は救いようがない。最後に、文章は適度な固まりでつないであり読みやすかった。
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Posted by 藍色 at 2012年07月17日 15:45
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