2011年09月01日

太閤記 古田足日

太閤記 古田足日(ふるたたるひ) 童心社

 豊臣秀吉の伝記になります。これまでなにかしら抵抗感があって読むのをためらっていました。英雄に対する疑心暗鬼(なんでもないことが疑わしい)です。彼の人生の後半、朝鮮出兵あたりの侵略行為は狂人です。彼の人生の前半、情に厚い武将とは正反対です。長期間権力を手にすると、だれしもが独裁者に育ってゆく。ところが、この本はなかなか面白い内容でした。作者自身が創作した小学生向きの文学作品です。秀吉は、織田信長の皆殺し戦法で死骸に埋まった町を目にして悲しみ、できるだけ死者が出ない戦法へと作戦を転換させます。それが、兵糧(ひょうろう)攻め(城を囲んで食料が尽きるのを待つ)、であったり、水攻め(城を堤(つつみ、土手)で囲んで、そこへ川から大量の水を流し込む。)であったりして、相手を降参させる。城主に腹を切らせて、民(たみ、百姓ほか)の命は助ける。味方を新たな城主にして民の生活保障をするというものです。
 読み手である自分の思い違いも多々ありました。今でいうところの名古屋市中村区で生まれて、直接織田信長の家来になったと思っていました。物語は静岡県から始まります。秀吉14才ぐらいで、針売りをしています。馬で通りかかった松下加兵衛に仕(つか)えます。中村区については、中村という名称の村だと解釈しました。中だから、上村とか下村というのも400年ぐらい前はあったでしょう。この小説は百姓家に生まれてさるのすけと呼ばれた少年の出世物語です。思うに原書は、豊臣秀吉自身が当時のライター(作品を書く人)に指示して書かせたものでしょう。本当のこともあるし、嘘もある。おおげさな表現もあるのでしょう。しかし、大筋は事実に沿っているのでしょう。秀吉6歳のときに父親は死去しています。姉がひとりいて「とも」という名前です。さるのすけは、再婚した母親の夫から嫌われて、お寺の小僧見習いに出されます。8才の頃の秀吉はお寺の如来像(にょらい)をこん棒でたたくやんちゃ坊主です。(お願いしても願いをかなえてくれなかったのでたたいた。)お寺を追い出されたあと、もめん織物商店の奉公に出ましたがここも追い出されます。魚商店、炭商店の奉公も追い出されます。大工に鍛冶屋(かじや)に左官(さかん、コンクリートを塗る)どれも続かず14歳になったさるのすけは武士を目指します。さるのすけは長続きしなかったとはいえ、商人、職人としての豊富な経験を積んでいます。義父の知り合いがいる織田家を避けて、東の静岡県今川家への仕官を決めたのです。松下加兵衛宅で「ぞうりとり」から「小納戸役(こなんどやく、会計担当者)」になったあと、周囲の人間にねたまれて帰郷しています。その後、野武士の蜂須賀小六と知り合っています。さるのすけは織田信長を研究しました。信長の舞「敦盛(あつもり)」人間五十年…(50年間をせいいっぱい生きる)に惹かれました。さるのすけは狩りに出てきた信長に直談判(じかだんぱん)して「うまや番」になります。やせ細った馬を立派な体格に育てると今度は信長の「ぞうりとり」になります。そこで有名なあたたかいぞうりの話が登場します。(冬寒い頃、ぞうりをふところに入れて温(あたた)めてあった。)「たきぎ奉行」に昇進して、さらに「普請奉行(工事の監督)」となり、1560年の桶狭間の合戦を迎えます。今から450年前です。今川義元は信長軍に討ち取られます。さるのすけも泥んこになって斬り合いに参加したとなっています。
 秀吉が行ったことで「墨股城(すのまた)、一夜城」という有名なお話がありますが、わたしは最初から秀吉が挑んだと思っていました。まず、佐久間信盛が失敗し、続けて柴田勝家が失敗しています。3番手が秀吉で大成功を納めています。
 章「ふくろのアズキ」では、朝倉攻めの敗戦処理においてしんがりをつとめる勇気を示しました。強運です。人心をつかむことに秀でた人物です。また、難しい戦に勝つ能力をもった人でもありました。相手をだますことに長(た)けています。買収もします。よくいえばきちんとごほうびを出します。お風呂で裸で、呼び寄せた部下に指示を出すざっくばらんさもあります。敵の侍には厳しい。戦に負ければ死んでもらいます。(切腹)百姓、商人には優しい、あるいは狡猾(こうかつ、ずるい)のでしょう。カネや物を飴とムチの飴として利用します。戦の戦法について知恵が働きます。ブレイン(脳、頭脳集団)が周囲にいたのでしょう。彼ひとりの能力では思いつきません。竹中半兵衛が軍師で参加しています。心のもち方の教育は織田信長から受けたのでしょう。彼ひとりの才能では無理です。本能寺の変では、織田信長方兵士100人、明智光秀方兵士1万3000人で、信長は敗れています。秀吉は4万人の兵士で明智を破ります。今も昔も数の力は強い。未来も同様です。勝利するために大事なのは、働いてくれる人の気持ちがカネのためではなく、その人(トップ)のために戦うという意識です。出世してゆく秀吉のそばには19歳の青年がいます。のちの徳川家康です。だれかに教わらないと目的はかないません。
 10年ぐらい前に訪れた中村公園にあった群像です。まんなかが秀吉、周囲で遊ぶこどもたちもこの地で生まれた有名な武将たちですが名前はもう覚えていません。





ここまで書いてふと思ったのです。豊臣秀吉はしあわせだったのだろうか。
映画「市民ケーン」では、大富豪になったケーンが、幼少時、父母と離れ離れになりました。
ケーンは死ぬときに、父母と一緒に暮らしたかったと、かなわなかった願いを思い起こすのです。


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