2024年05月01日
おじいちゃんがおばけになったわけ 絵本
おじいちゃんがおばけになったわけ キム・フォップス・オーカソン文 エヴァ・リリクソン・絵 菱木晃子・訳 あすなろ書房
先日読んだ本を思い出します。
『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
小学一年生の男児が、ゆうれいを見てみたいと言ったら、祖父と祖母が、自分が死んだら、ゆうれいになって出てきてあげると言ったそうです。小学生のぼくは、それが、楽しみですと言っています。(笑いました。おじいちゃんとおばあちゃんのゆうれいならこわくありません。おこづかいをくれるかもしれません)
さて、こちらの絵本です。
デンマークの作家さんの本です。スウェーデン生まれの絵描きさんです。
熊太郎もおじいさんなので、最初の絵は、おんなじだという気持ちになります。
男の子とおじいさんが並んで座っています。
熊太郎じいさんは今でも覚えています。
最初の孫の男の子がまだ2歳ぐらいのころ、うれしそうにそわそわと熊太郎じいさんのお隣に座っていたことを、なかなかいい感じだったと覚えています。血がつながっているから、なんとなく気持ちがわかりあえるのです。三月末に最終回を迎えた金曜夜のドラマ、『不適切にもほどがある!』の祖父と孫娘の関係にも似たものがあります。
エリック:男の子。6歳ぐらいに見えます。
エリックは、おじいちゃんが好きだったけれど、おじいちゃんは、道で倒れて死んでしまったそうです。
エリックは、悲しくて、いっぱい泣いたそうです。(ありがとね)
おじいさんのお葬式です。
うちの孫たちは、ひいおじいさんと、ひいおばあさんのお葬式に来てくれました。
仏教系の幼稚園に通っていたので、経典(きょうてん)を開きながら、お坊さんと一緒に、じょうずにお経(きょう)さんをあげてくれました。(ありがとね)
むずかしい事情が発生しました。
亡くなったじいじは、この世に心残りがあって、天国にも行けないし、土にもなれないそうです。
そうです。ゆうれいになって、空気中を、ただよっているのです。
じいじは、どういうわけか、背広でネクタイ姿です。(仕事人間なのか)
挿絵の(さしえの)絵は、洋画みたいです。
『この世にわすれものがあると、人はおばけになるよ』
人生というよりも、人の歴史です。
おじいさんは、なにかが心残りで、成仏(じょうぶつ。仏さまになる。悟りを開いて(さとりを開いて)仏さまになる)できないのでしょう。
こどもさんの絵を見ていて、自分にもこれぐらいの年齢の時があったことを覚えています。
小学校低学年のときは、まだ体もそれほど大きくありませんが、自分がそのくらいの年齢のときは、もうおとなの気分でした。
絵本の中では、おじいさんから孫にいろいろなことについてお話があります。
(なんとなく、癌で余命を告知された人が、遺る(のこる)人に伝言をしているようでもあります)
伝え終われば、きちんと、『さよなら』のあいさつをして、さよならをする。
冷静に考えて、死んだ人にはもう感情はありません。
この世に遺された人(のこされた人)が、ふんぎり(思い切った決心とか割り切りの気持ち)がつかないから、こういった作品群がこの世にあるのです。
別のこととして、孫が祖父母になつくためには、祖父母にはそれなりの努力が必要です。
祖父母というだけでは、孫は祖父母になついてはくれません。おもちゃを買ってあげたり、おいしいものを食べさせてあげたり、おこずかいをあげねばなりません。からだを動かして、いっしょに遊ぶことも必要です。
なにをやるにしても、ぼーっとしているだけでは、なにもできあがりません。
祖父母からの願いとしては、こどもや孫というものは、ただ、生きていてくれれば、それでいい。わたしはそう思っています。
(その後)
類似の作品をひとつ思い出しました。
『青空のむこう アレックス・シアラー 金原瑞人(かねはら・みずひと)・訳 求龍堂(きゅうりゅうどう)』
死んでしまった少年の話です。イギリスの小説家の児童文学作品です。
ハリー・デクランド:交通事故死した少年。サッカーが好き。10歳から12歳ぐらいに見える。死ぬ前に姉のエギーとけんかをしていたことを、死んでから後悔している。とても後悔している。捨てゼリフを姉にぶつけて家を出て、そのあと交通事故にあって死んでしまった。自転車に乗っていて、10トントラックにひかれた。
『…… お姉ちゃんなんか大嫌い! …… 帰ってくるもんか。もう二度と会いたくない』、姉のエギーが、『じゃあ帰ってこないで』と言い返したのが、この世の姉との会話の最後だった。(つらい話です。現実でも起きることです。家から出かける時は、ケンカしないほうがいい。本当に、それが最後になることがありえます)
先日読んだ本を思い出します。
『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
小学一年生の男児が、ゆうれいを見てみたいと言ったら、祖父と祖母が、自分が死んだら、ゆうれいになって出てきてあげると言ったそうです。小学生のぼくは、それが、楽しみですと言っています。(笑いました。おじいちゃんとおばあちゃんのゆうれいならこわくありません。おこづかいをくれるかもしれません)
さて、こちらの絵本です。
デンマークの作家さんの本です。スウェーデン生まれの絵描きさんです。
熊太郎もおじいさんなので、最初の絵は、おんなじだという気持ちになります。
男の子とおじいさんが並んで座っています。
熊太郎じいさんは今でも覚えています。
最初の孫の男の子がまだ2歳ぐらいのころ、うれしそうにそわそわと熊太郎じいさんのお隣に座っていたことを、なかなかいい感じだったと覚えています。血がつながっているから、なんとなく気持ちがわかりあえるのです。三月末に最終回を迎えた金曜夜のドラマ、『不適切にもほどがある!』の祖父と孫娘の関係にも似たものがあります。
エリック:男の子。6歳ぐらいに見えます。
エリックは、おじいちゃんが好きだったけれど、おじいちゃんは、道で倒れて死んでしまったそうです。
エリックは、悲しくて、いっぱい泣いたそうです。(ありがとね)
おじいさんのお葬式です。
うちの孫たちは、ひいおじいさんと、ひいおばあさんのお葬式に来てくれました。
仏教系の幼稚園に通っていたので、経典(きょうてん)を開きながら、お坊さんと一緒に、じょうずにお経(きょう)さんをあげてくれました。(ありがとね)
むずかしい事情が発生しました。
亡くなったじいじは、この世に心残りがあって、天国にも行けないし、土にもなれないそうです。
そうです。ゆうれいになって、空気中を、ただよっているのです。
じいじは、どういうわけか、背広でネクタイ姿です。(仕事人間なのか)
挿絵の(さしえの)絵は、洋画みたいです。
『この世にわすれものがあると、人はおばけになるよ』
人生というよりも、人の歴史です。
おじいさんは、なにかが心残りで、成仏(じょうぶつ。仏さまになる。悟りを開いて(さとりを開いて)仏さまになる)できないのでしょう。
こどもさんの絵を見ていて、自分にもこれぐらいの年齢の時があったことを覚えています。
小学校低学年のときは、まだ体もそれほど大きくありませんが、自分がそのくらいの年齢のときは、もうおとなの気分でした。
絵本の中では、おじいさんから孫にいろいろなことについてお話があります。
(なんとなく、癌で余命を告知された人が、遺る(のこる)人に伝言をしているようでもあります)
伝え終われば、きちんと、『さよなら』のあいさつをして、さよならをする。
冷静に考えて、死んだ人にはもう感情はありません。
この世に遺された人(のこされた人)が、ふんぎり(思い切った決心とか割り切りの気持ち)がつかないから、こういった作品群がこの世にあるのです。
別のこととして、孫が祖父母になつくためには、祖父母にはそれなりの努力が必要です。
祖父母というだけでは、孫は祖父母になついてはくれません。おもちゃを買ってあげたり、おいしいものを食べさせてあげたり、おこずかいをあげねばなりません。からだを動かして、いっしょに遊ぶことも必要です。
なにをやるにしても、ぼーっとしているだけでは、なにもできあがりません。
祖父母からの願いとしては、こどもや孫というものは、ただ、生きていてくれれば、それでいい。わたしはそう思っています。
(その後)
類似の作品をひとつ思い出しました。
『青空のむこう アレックス・シアラー 金原瑞人(かねはら・みずひと)・訳 求龍堂(きゅうりゅうどう)』
死んでしまった少年の話です。イギリスの小説家の児童文学作品です。
ハリー・デクランド:交通事故死した少年。サッカーが好き。10歳から12歳ぐらいに見える。死ぬ前に姉のエギーとけんかをしていたことを、死んでから後悔している。とても後悔している。捨てゼリフを姉にぶつけて家を出て、そのあと交通事故にあって死んでしまった。自転車に乗っていて、10トントラックにひかれた。
『…… お姉ちゃんなんか大嫌い! …… 帰ってくるもんか。もう二度と会いたくない』、姉のエギーが、『じゃあ帰ってこないで』と言い返したのが、この世の姉との会話の最後だった。(つらい話です。現実でも起きることです。家から出かける時は、ケンカしないほうがいい。本当に、それが最後になることがありえます)
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