2023年12月28日
続 窓ぎわのトットちゃん 黒柳徹子
続 窓ぎわのトットちゃん 黒柳徹子 講談社
最初の本、『窓ぎわのトットちゃん』は昔読んだことがあります。
それから、ご本人の講演を聴いたことがあります。場所は静岡県内でした。もう、35年ぐらい前のことです。テーマは忘れましたが、90分間、おそらくご本人の頭の中にひらめくままに、機関銃のようにおしゃべりをされて、聴いていて圧倒された覚えがあります。
ユニセフの活動についてのお話があった記憶です。ユニセフ:国連児童基金。黒柳徹子さんは、ユニセフの国際親善大使です。
テレビ番組『徹子の部屋』は、毎日楽しみに観ています。いろんな人がいるなあとゲストに興味があります。最近は、親の介護の話が多い。お笑い芸人さんが出ると、黒柳徹子さんは、芸をやらせてすべらせて、神妙な雰囲気になるという特徴があります。
テレビ番組アメトークで、そんな話題でトークショーがあったことを思い出します。黒柳徹子さんは、忖度(そんたく。相手に会わせて面白くなくても笑う)ということをされません。「それのどこがおもしろいの?」という質問が出たりもします。そこがおもしろい。
以前フワちゃんが出たときに、(乱暴な言葉づかいをする)フワちゃんが黒柳徹子さんの家に遊びに行きたいと言ったら、黒柳さんが即答で、『来ないで!』と言ったときがあって笑いました。
さて、読み始めます。最初は、『寒いし、眠いし、おなかがすいた』です。物語が始まるころのトットちゃんは、小学校低学年ぐらいです。
わたしの親の世代の方です。1933年(昭和8年)生まれ。90歳。わたしの実母も同じぐらいの生まれです。先日九州の実家まで行って会ってきました。ふたりを比較すると、黒柳徹子さんはかなりお元気です。びっくりします。私の実母は、耳は遠くなり、腰は曲がって圧迫骨折をしており、入院の空きベッド待ちでした。ただ、口は達者で元気です。(その後入院しました。ほっとしました)
23ページまで読んで、いろいろと驚かされました。
まだ、戦前のことですが、黒柳徹子さんは、欧米風の暮らしを送られていた上流階級のお嬢さまです。貧民の庶民とは違います。
第二次世界大戦が、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)ですから、そのころ、黒柳徹子さんは、8歳から12歳です。
ペットはシェパード犬の『ロッキー』です。軍用犬で使うため、軍隊に連れていかれたらしい。突然いなくなったそうです。
トットちゃんのいわれ(由来):『徹子(てつこ)』をてつこと発音できず、自分自身で、『トット』と自分のことを言っていたから。
本の文章はしっかりしています。文章量もボリュームがあります。ここ数年で書かれた文章ではありません。前作から42年経過する中で書かれた文章です。
全体のつくりは、エッセイ(随筆)です。主に、思い出話です。
食事は、バナナ(わたしがこどものころの昭和30年代から40年代は、バナナは高価なくだものでした)
黒柳徹子さん宅の朝食は、パンとコーヒー(庶民は、ごはんにみそ汁、つけもの、卵料理でした)
パンは、パン屋さんが、毎朝ご自宅に配達してくれたそうです。
黒柳徹子さんの夕食は牛肉。(庶民は鶏肉(とりにく)しか食べられなかった。あとは魚ばかりです)
寝るのはベッド(庶民は、ふとん)
庭付きの洋風一戸建て住まい(庶民は長屋)
遊んだのは、勝海舟の別荘だった空き家のお屋敷だったそうです。(西郷隆盛も来たことがあるそうです。先日鹿児島市を訪問した時に、バスの窓から西郷隆盛さんの大きな銅像を観ました)
アイスクリームを食べて、銀座を散策する。三越デパートでおもちゃを買ってもらう。
猩紅熱(しょうこうねつ):感染症。発熱。喉痛、舌が赤くはれる。全身に赤い発疹(ほっしん)が出る。
徹子さんの父:ヴァイオリン奏者。昭和19年秋の終わりに、今の中国華北地方へ出征した。敗戦でシベリアの捕虜収容所に抑留された。(よくりゅう:強制的にその場におかれた)。昭和24年に帰国した。軍歌は演奏しない主義をもっていた。
徹子さんの母:エッセイスト黒柳朝(くろやなぎ・ちょう)。
徹子さん:長女。1933年生まれ。
弟:明兒(めいじ)さん。1944年(昭和19年)5月に敗血症で死去。はいけつしょう:細菌感染
下の弟:紀明さん。1940年生まれ。
妹:眞理(まり)さん。1944年生まれ。
品川とか、忠犬ハチ公像がある渋谷とか、自分も行ったことがある場所が本に出てくるので身近に感じられます。
1941年(昭和16年)当時、徹子さんは8歳ぐらいです。
青森で、電車の中で、りんごがらみで、地元のおじさんと仲良くなります。(それが縁で、その後、青森に疎開することになります。沼畑さんです)
本をツケ(後払い)で買う。
戦争は悪化しています。食べ物がほとんどありません。
出征兵士を日の丸の旗を振りながら、『バンザーイ』と見送るときに、スルメの足がもらえたそうです。(初耳です)
徹子さんは、スルメの足ほしさに、学校の授業中でも出征兵士を見送りに行かれたそうです。(学校を抜けだしても何も言われなかった。そういう時代だったそうです)
のちに、するめ欲しさの行為を後悔されています。でも、まだ8歳ぐらいです。
家族をつなぐものとして音楽があります。
防空壕(ぼうくうごう)の話があります。
わたしも小学校低学年のときに、家の近くの里山の斜面に掘ってあった防空壕で近所のこどもたちと遊びました。防空壕の中はとても広かった記憶です。防空壕はその後封鎖されてしまいました。安全対策のためでしょう。
昭和20年(1945年)3月10日東京大空襲。約10万5400人が亡くなる。現在のパレスチナガザ地区の惨状が目に浮かびます。
63ページに、『パンダ』のことが出てきます。アメリカ帰りの伯父さんからもらった白黒のクマのぬいぐるみを防空壕へ連れていかれています。
『トット疎開する(そかい。米軍の空襲から逃げるためにいなかへ避難する)』
なかなか苦労されています。たいへんな思いをされています。
東京上野駅から、青森の今でいう八戸市あたりまで、おそらく蒸気機関車で移動したであろう昭和20年のことですが、お母さんと弟、妹さんは列車に乗れましたが、黒柳さんは上野駅に置き去りになっています。黒柳さんは当時11歳ぐらいだと思いますが、夜の8時に出発する次の列車で、ひとりで青森をめざしておられます。ものすごい乗客の数です。でも、まわりにいる人たちが優しい。みんな苦労しています。戦争なんかしちゃいけないのです。
上野-福島-仙台-盛岡-尻内(八戸)のルートです。長い。時間がかかります。お母さんが書いてくれたルートのメモを手に握って移動です。
黒柳さんは、やむなく、列車の窓からおしっこをされています。ただ、負けていません。明るい。
列車が空襲で狙われるかもしれないので、灯火管制で、列車の中は真っ暗でした。
人は苦労をしながら気持ちが強くなっていくことがわかります。めそめそしていてもしょうがないのです。
黒柳さんが愛着をもっておられるパンダとの縁が書いてあります。アメリカへ行ったことがある叔父さんからのおみやげで熊のような動物のぬいぐるみをもらったそうです。そのときは、パンダということがわからなかったそうです。疎開するときにリュックに入っていた。心の支えだった。話し相手だったのでしょう。絵本『こんとあき 林明子 福音館書店』を思い出しました。
ちゃんとしたお米のおにぎりがありがたい。
現在90歳ぐらいをすぎた人たちの世代のご苦労がわかります。
宗教の話が出ます。キリスト教です。
青森県内にキリストのお墓があるらしい。昔、テレビで見たことがあります。まあ、本物ではないでしょう。なんだか、九州長崎、熊本の隠れキリシタンみたいな話です。
北千束(きたせんぞく:地名を読めませんでした。東京都大田区、黒柳さんの家があったところです。
疎開先は親族宅ではなく、たまたま旅先で知り合ったりんご農家のおじさんの家です。他人さまに家や仕事の世話をお願いします。夫が中国の戦地へ行って、母子家庭状態でこども3人連れて、徹子さんのおかあさんはころがりこみます。すごいなあ。たくましい。働いて、食べ物商売まで始めます。
リンゴ泥棒を見張る八畳の小屋での生活です。電気も水道もありません。もちろんテレビもありません。(テレビ放送開始は1953年(昭和28年)です)石油ランプと水は隣の製材所からもらいます。川がそばにあるので、川で洗濯できます)
家庭菜園をつくって、自分たちで自分たちが食べる野菜をつくります。
徹子さんが11歳か12歳ぐらい、弟の紀明さんが5歳、眞理(まり)さんが1歳ぐらいです。
青森県の方言の話がおもしろかった。
『おつるひとがしんでから乗ってけれ』路線バスのバスガール(車掌でしょう。切符を売る人がわたしがこどもの頃にもバスに乗っていました)の言葉です。死んでからのってくれと聞こえます。
正解は、『降りる人が済んでから乗ってください』です。
徹子さんは、ジョジョッコの絵を描く。
ジョジョッコ:青森の方言で、『人形』
北海道の滝川で暮らしていた母方の祖母については考えさせられました。亡くなった母方の祖父は開業医だったそうです。
祖母の気位が(きぐらい)が高いのです。祖母の実家の教えが、『ごはんを自分で炊かなくては(たかなくては)ならない家には、お嫁に出さない』嫁いだ家はお医者さんで、裕福な暮らしで、暇さえあれば聖書を読んでいた。看護師やお手伝いさんが、炊事や洗濯をやっていたそうです。(凡人には考えられない生活です。されど、考えてみると、例えばプロのピアニストだと一日中ピアノを弾(ひ)いているわけで、衣食住にかかわる生活の活動は、他人にやってもらっているのだろうと。芸術家のパトロン(出資者。援助者)みたいな存在があるのです)そういう暮らし方をする人もいます)
黒柳ファミリーが、青森大空襲を運よく避けられた話が出ます。
明石家さんまさんの話を思い出しました。1985年(昭和60年)夏、御巣鷹山(おすたかやま)に墜落した日航ジャンボ機に搭乗予定だったさんまさんは、たまたま仕事が早く終わって、1本前の飛行機に乗って命拾いをしたそうです。生き抜くためには、『運』がいります。『生きてるだけで丸儲け(まるもうけ)』が明石家さんまさんの座右の銘です。(ざゆうのめい:自分を励ますため、日ごろから心にとめている言葉)娘さんのお名前、『いまる IMALU (生きてるだけで・丸儲け)』につながっているそうです。お母さんの大竹しのぶさんの解釈が、『今を生きる』だそうです。
黒柳徹子さんのほうは、なにせ、母親のがんばりがすごい! とにかく働きます。
8月15日、終戦の日が訪れました。
徹子さんは、旗の台(はたのだい)というところにある『香蘭女学校(こうらんじょがっこう)』に進学します。私立の中学・高校なのでしょう。キリスト教のミッションスクールですが、校舎は、仏教のお寺さんの敷地にあるお寺の建物です。空襲で学校が焼け落ちたからです。
『咲くはわが身のつとめなり(自分を咲かせる。昔は『結婚』することが女性のつとめだった)』
小学生の時の恋心と失恋のことが書いてあります。あこがれの相手はだいぶ年上の男性で教会関係者です。
サツマイモの茶巾絞り(ちゃきんしぼり):布で絞った和菓子
逆に中学生のときに知らない男子からラブレターをもらったことが書いてあります。手紙の出だしにあった『ふかしたてのサツマイモのようなあなたへ』という文章に怒って手紙を即破いたそうです。戦後の食糧難だったことを考えると悪気はなかったものとあとで気づいたとのこと。
蝋石(ろうせき):そういうものがあったことを思い出しました。こどもの遊びで、地面に絵や文字を描いていました。
『やさしい人間になるには教養を身に着けなくてはならないし、そのためには本を読むことが大事だと考えるようになった。』
16歳のときに占い師に手相を見てもらった。
見料(けんりょう):手相などをみてもらうときの料金
天眼鏡(てんがんきょう):やや大型の凸レンズ(とつれんず)
占い師による占いの結果です。『結婚は遅いです。とても遅いです』『お金には困りません』『あなたの名前は、津々浦々(つつうらうら)に広まります』(よくあたっています)
チャプレン先生:牧師の先生。チャペル(教会)を守る人
太鼓橋(たいこばし):丸くそったアーチ橋
先日観ていた『徹子の部屋』で、昔の映像ですが、ゲストのこどもさんに、こどものころ将来何になりたかったか?と聞かれた徹子さんです。『スパイ』という答えに、こどもさんはとまどって、苦笑いをしていました。(にがわらい:どう反応していいのかわからない)
こちらの本では、『小さい頃は、スパイとチンドン屋さんと駅で切符を売る人になりたかった』と書いてあります。
私立の女子中学生のときに、洋画『トスカ』を観て、オペラ歌手を目指すことにして、東洋音楽学校に入学されています。
学校に対するお金の寄付の話やら、徹子さんのお父さんがヴァイオリン演奏者で超有名人だったことがわかる話やらが書いてあります。
番組『徹子の部屋』のオープニング曲には、もともと歌詞があって、『コロラチューラ』という言葉が使用されていたと書いてあります。コロラチューラというのは、オペラでの歌い方だそうです。
お父さんがシベリアから復員してきます。昭和24年の年末です。5年ぶりの再会です。
弟紀明さんは9歳、妹眞理さんは5歳、徹子さんは、16歳ぐらいでしょう。
お父さんは、東京交響楽団にコンサートマスターとして迎えられ、ヴァイオリニストとして復帰されました。コンサートマスター:まとめ役
徹子さんは、人形劇『雪の女王』を観て、結婚を意識して、こどもさんむけに人形劇をやりたいと思うようになります。お母さんに新聞の求人欄でも見なさいと言われて観たのが、NHK専属俳優募集の記事で、それがきっかけになって、試験に合格して、NHKの劇団員になられています。
まだ、テレビ放送は始まっていません。テレビ放送は、1953年(昭和28年)から始まります。当時のNHKは、日比谷公園にある日比谷公会堂の近くにあったようです。
まあ、どたばたです。ぎりぎりに申し込んで、試験会場を間違えて、試験に遅刻して、それでも合格されています。才能ある人は、どういう状況に合っても世に出てきます。
徹子さんは、試験会場で試験官に、筆記試験の答えを教えていただけませんか?と声をかけています。(ちょっと考えられません)試験官の返事は、『いやです』でした。
徹子さんは当時、『若干名(じゃっかんめい。数人)』を、『わかぼしめい』と読んでおられます。
ここまで読んできて、今は、180ページにいます。
(全体を読み終えました。253ページまでありました)
第二次世界大戦に重点を置いた内容でした。
もうすぐ、戦争を知らない世代の時代が日本に訪れます。
戦争の怖さを知らないから、戦争をしてもいいという意見が前面に出てきそうな気配があります。
相手が攻めてくるから対抗する。たくさんの人が死にます。
戦争をしなくてもいいように、共存できる知恵を絞る。『平和』をめざす姿勢をもたないと、戦火は再び開かれます。
徹子さんは、この本で、戦争反対を強く訴えられています。
この本は、終戦後の昭和時代を表した歴史書のようでもありました。
『トット、女優になる』
徹子さんが、HNK専属東京放送劇団第五期生採用試験に合格したのが、昭和28年2月です。
2月1日からNHKのテレビ放送が始まっています。徹子さんは、養成期間を経て、昭和29年4月に正式採用されています。合格者は17人でした。
東京の地名がたくさん出てきます。
昨年、今年と、都内を散策したので、地理がだいたいわかります。記述内容が身近に感じられて心地よい。
なつかしい俳優さんたちのお名前が出てきますが、もうみなさん、天国へ旅立たれています。
同じ時代を生きてきた人が読んだら胸にじんとくるものがあります。
黒柳徹子さんが最終選考で残った理由は、個性的であったこと、それから、養成期間中、無遅刻無欠勤であったことと読み取れる部分があります。無遅刻無欠勤が、長年続くテレビ番組『徹子の部屋』につながっているのでしょう。『継続』があたりまえのこととして身についている人については、『継続』が苦痛にはなりません。
昭和29年ラジオドラマ『君の名は』に、通行人のがやがやの声として参加されています。いろいろうまくいかなかったことが書いてあります。
現在NHK朝ドラの素材になっておられる笠置シヅ子さんとの仕事も書いてあります。徹子さんの演技を否定する人もいます。でも、応援する人たちもたくさんいます。
ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』三匹の白い子ザルのお話に参加されます。
ほめ上手な先生がおられます。
叱ってつぶすのではなく、ほめて伸ばす。
いろんな人がいます。多少のことでめげないほうがいい。チャンスが逃げていきます。
結婚に関してです。お見合いを3回されています。脳外科医の方と結婚を考えられています。見合いではなく、恋愛をして結婚したいという理由で、結局断られています。
『紅白歌合戦』の司会者でドタバタしたことが書いてあります。
昭和33年第9回紅白歌合戦です。
徹子さんは25歳です。白組の司会者は、高橋圭三さんです。
場所は、『新宿コマ劇場』です。今はもうありません。熊太郎は若い頃にその劇場を見たことがあります。中に入ったことはありません。
徹子さんの紅白歌合戦にこめる気持ちが強い。
昭和40年代というのは、『命』よりも『仕事』を優先する時代だったというような表現があります。同感です。徹子さんは体を壊します。当時、『ストレス』とういう言葉は聞かなかった覚えです。『モーレツ』という言葉はよく聞きました。
『ブーフーウー』三匹の子ブタの兄弟のお話です。なつかしい。
渥美清さんが出てきます。
1996年に亡くなられて、もう27年がたちますが、BS放送では毎週土曜日に『男はつらいよ』が放送されています。(これを書いている)昨夜見ました。マドンナは栗原小巻さんで、タコ社長の娘が美保純さんでした。
向田邦子さんのお名前も出てきます。
先日、鹿児島市を訪れたおりに、城山展望台付近で、向田邦子さんが通っていた小学校のこどもさんたちが、かけっこをしていました。
徹子さんは向田さんのアパートに入りびたっていたそうです。
帝国劇場の劇に出演された。
今年帝国劇場でミュージカルを観たので身近に感じられました。
日本の歴史、東京の地理書を読むようです。
人間は、外見で、人間を判断するというようなことが書かれています。
変装のように俳優として化粧した徹子さんに気付かず、冷たい対応をする人たちがいます。
昭和46年10月、アメリカ合衆国ニューヨークへ女優としての演技を学ぶために留学されています。
あとがきにはやはり、戦争のことが書いてあります。戦争体験者の生々しい声があります。
全体を読み終えて、この本は、まだ続きがあると確信しました。
原稿はすでに手元にあられることでしょう。
徹子さんは職業柄きちょうめんな方だと思うのです。記録はしっかりとってあると思います。
もっともっと長生きしてください。
最初の本、『窓ぎわのトットちゃん』は昔読んだことがあります。
それから、ご本人の講演を聴いたことがあります。場所は静岡県内でした。もう、35年ぐらい前のことです。テーマは忘れましたが、90分間、おそらくご本人の頭の中にひらめくままに、機関銃のようにおしゃべりをされて、聴いていて圧倒された覚えがあります。
ユニセフの活動についてのお話があった記憶です。ユニセフ:国連児童基金。黒柳徹子さんは、ユニセフの国際親善大使です。
テレビ番組『徹子の部屋』は、毎日楽しみに観ています。いろんな人がいるなあとゲストに興味があります。最近は、親の介護の話が多い。お笑い芸人さんが出ると、黒柳徹子さんは、芸をやらせてすべらせて、神妙な雰囲気になるという特徴があります。
テレビ番組アメトークで、そんな話題でトークショーがあったことを思い出します。黒柳徹子さんは、忖度(そんたく。相手に会わせて面白くなくても笑う)ということをされません。「それのどこがおもしろいの?」という質問が出たりもします。そこがおもしろい。
以前フワちゃんが出たときに、(乱暴な言葉づかいをする)フワちゃんが黒柳徹子さんの家に遊びに行きたいと言ったら、黒柳さんが即答で、『来ないで!』と言ったときがあって笑いました。
さて、読み始めます。最初は、『寒いし、眠いし、おなかがすいた』です。物語が始まるころのトットちゃんは、小学校低学年ぐらいです。
わたしの親の世代の方です。1933年(昭和8年)生まれ。90歳。わたしの実母も同じぐらいの生まれです。先日九州の実家まで行って会ってきました。ふたりを比較すると、黒柳徹子さんはかなりお元気です。びっくりします。私の実母は、耳は遠くなり、腰は曲がって圧迫骨折をしており、入院の空きベッド待ちでした。ただ、口は達者で元気です。(その後入院しました。ほっとしました)
23ページまで読んで、いろいろと驚かされました。
まだ、戦前のことですが、黒柳徹子さんは、欧米風の暮らしを送られていた上流階級のお嬢さまです。貧民の庶民とは違います。
第二次世界大戦が、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)ですから、そのころ、黒柳徹子さんは、8歳から12歳です。
ペットはシェパード犬の『ロッキー』です。軍用犬で使うため、軍隊に連れていかれたらしい。突然いなくなったそうです。
トットちゃんのいわれ(由来):『徹子(てつこ)』をてつこと発音できず、自分自身で、『トット』と自分のことを言っていたから。
本の文章はしっかりしています。文章量もボリュームがあります。ここ数年で書かれた文章ではありません。前作から42年経過する中で書かれた文章です。
全体のつくりは、エッセイ(随筆)です。主に、思い出話です。
食事は、バナナ(わたしがこどものころの昭和30年代から40年代は、バナナは高価なくだものでした)
黒柳徹子さん宅の朝食は、パンとコーヒー(庶民は、ごはんにみそ汁、つけもの、卵料理でした)
パンは、パン屋さんが、毎朝ご自宅に配達してくれたそうです。
黒柳徹子さんの夕食は牛肉。(庶民は鶏肉(とりにく)しか食べられなかった。あとは魚ばかりです)
寝るのはベッド(庶民は、ふとん)
庭付きの洋風一戸建て住まい(庶民は長屋)
遊んだのは、勝海舟の別荘だった空き家のお屋敷だったそうです。(西郷隆盛も来たことがあるそうです。先日鹿児島市を訪問した時に、バスの窓から西郷隆盛さんの大きな銅像を観ました)
アイスクリームを食べて、銀座を散策する。三越デパートでおもちゃを買ってもらう。
猩紅熱(しょうこうねつ):感染症。発熱。喉痛、舌が赤くはれる。全身に赤い発疹(ほっしん)が出る。
徹子さんの父:ヴァイオリン奏者。昭和19年秋の終わりに、今の中国華北地方へ出征した。敗戦でシベリアの捕虜収容所に抑留された。(よくりゅう:強制的にその場におかれた)。昭和24年に帰国した。軍歌は演奏しない主義をもっていた。
徹子さんの母:エッセイスト黒柳朝(くろやなぎ・ちょう)。
徹子さん:長女。1933年生まれ。
弟:明兒(めいじ)さん。1944年(昭和19年)5月に敗血症で死去。はいけつしょう:細菌感染
下の弟:紀明さん。1940年生まれ。
妹:眞理(まり)さん。1944年生まれ。
品川とか、忠犬ハチ公像がある渋谷とか、自分も行ったことがある場所が本に出てくるので身近に感じられます。
1941年(昭和16年)当時、徹子さんは8歳ぐらいです。
青森で、電車の中で、りんごがらみで、地元のおじさんと仲良くなります。(それが縁で、その後、青森に疎開することになります。沼畑さんです)
本をツケ(後払い)で買う。
戦争は悪化しています。食べ物がほとんどありません。
出征兵士を日の丸の旗を振りながら、『バンザーイ』と見送るときに、スルメの足がもらえたそうです。(初耳です)
徹子さんは、スルメの足ほしさに、学校の授業中でも出征兵士を見送りに行かれたそうです。(学校を抜けだしても何も言われなかった。そういう時代だったそうです)
のちに、するめ欲しさの行為を後悔されています。でも、まだ8歳ぐらいです。
家族をつなぐものとして音楽があります。
防空壕(ぼうくうごう)の話があります。
わたしも小学校低学年のときに、家の近くの里山の斜面に掘ってあった防空壕で近所のこどもたちと遊びました。防空壕の中はとても広かった記憶です。防空壕はその後封鎖されてしまいました。安全対策のためでしょう。
昭和20年(1945年)3月10日東京大空襲。約10万5400人が亡くなる。現在のパレスチナガザ地区の惨状が目に浮かびます。
63ページに、『パンダ』のことが出てきます。アメリカ帰りの伯父さんからもらった白黒のクマのぬいぐるみを防空壕へ連れていかれています。
『トット疎開する(そかい。米軍の空襲から逃げるためにいなかへ避難する)』
なかなか苦労されています。たいへんな思いをされています。
東京上野駅から、青森の今でいう八戸市あたりまで、おそらく蒸気機関車で移動したであろう昭和20年のことですが、お母さんと弟、妹さんは列車に乗れましたが、黒柳さんは上野駅に置き去りになっています。黒柳さんは当時11歳ぐらいだと思いますが、夜の8時に出発する次の列車で、ひとりで青森をめざしておられます。ものすごい乗客の数です。でも、まわりにいる人たちが優しい。みんな苦労しています。戦争なんかしちゃいけないのです。
上野-福島-仙台-盛岡-尻内(八戸)のルートです。長い。時間がかかります。お母さんが書いてくれたルートのメモを手に握って移動です。
黒柳さんは、やむなく、列車の窓からおしっこをされています。ただ、負けていません。明るい。
列車が空襲で狙われるかもしれないので、灯火管制で、列車の中は真っ暗でした。
人は苦労をしながら気持ちが強くなっていくことがわかります。めそめそしていてもしょうがないのです。
黒柳さんが愛着をもっておられるパンダとの縁が書いてあります。アメリカへ行ったことがある叔父さんからのおみやげで熊のような動物のぬいぐるみをもらったそうです。そのときは、パンダということがわからなかったそうです。疎開するときにリュックに入っていた。心の支えだった。話し相手だったのでしょう。絵本『こんとあき 林明子 福音館書店』を思い出しました。
ちゃんとしたお米のおにぎりがありがたい。
現在90歳ぐらいをすぎた人たちの世代のご苦労がわかります。
宗教の話が出ます。キリスト教です。
青森県内にキリストのお墓があるらしい。昔、テレビで見たことがあります。まあ、本物ではないでしょう。なんだか、九州長崎、熊本の隠れキリシタンみたいな話です。
北千束(きたせんぞく:地名を読めませんでした。東京都大田区、黒柳さんの家があったところです。
疎開先は親族宅ではなく、たまたま旅先で知り合ったりんご農家のおじさんの家です。他人さまに家や仕事の世話をお願いします。夫が中国の戦地へ行って、母子家庭状態でこども3人連れて、徹子さんのおかあさんはころがりこみます。すごいなあ。たくましい。働いて、食べ物商売まで始めます。
リンゴ泥棒を見張る八畳の小屋での生活です。電気も水道もありません。もちろんテレビもありません。(テレビ放送開始は1953年(昭和28年)です)石油ランプと水は隣の製材所からもらいます。川がそばにあるので、川で洗濯できます)
家庭菜園をつくって、自分たちで自分たちが食べる野菜をつくります。
徹子さんが11歳か12歳ぐらい、弟の紀明さんが5歳、眞理(まり)さんが1歳ぐらいです。
青森県の方言の話がおもしろかった。
『おつるひとがしんでから乗ってけれ』路線バスのバスガール(車掌でしょう。切符を売る人がわたしがこどもの頃にもバスに乗っていました)の言葉です。死んでからのってくれと聞こえます。
正解は、『降りる人が済んでから乗ってください』です。
徹子さんは、ジョジョッコの絵を描く。
ジョジョッコ:青森の方言で、『人形』
北海道の滝川で暮らしていた母方の祖母については考えさせられました。亡くなった母方の祖父は開業医だったそうです。
祖母の気位が(きぐらい)が高いのです。祖母の実家の教えが、『ごはんを自分で炊かなくては(たかなくては)ならない家には、お嫁に出さない』嫁いだ家はお医者さんで、裕福な暮らしで、暇さえあれば聖書を読んでいた。看護師やお手伝いさんが、炊事や洗濯をやっていたそうです。(凡人には考えられない生活です。されど、考えてみると、例えばプロのピアニストだと一日中ピアノを弾(ひ)いているわけで、衣食住にかかわる生活の活動は、他人にやってもらっているのだろうと。芸術家のパトロン(出資者。援助者)みたいな存在があるのです)そういう暮らし方をする人もいます)
黒柳ファミリーが、青森大空襲を運よく避けられた話が出ます。
明石家さんまさんの話を思い出しました。1985年(昭和60年)夏、御巣鷹山(おすたかやま)に墜落した日航ジャンボ機に搭乗予定だったさんまさんは、たまたま仕事が早く終わって、1本前の飛行機に乗って命拾いをしたそうです。生き抜くためには、『運』がいります。『生きてるだけで丸儲け(まるもうけ)』が明石家さんまさんの座右の銘です。(ざゆうのめい:自分を励ますため、日ごろから心にとめている言葉)娘さんのお名前、『いまる IMALU (生きてるだけで・丸儲け)』につながっているそうです。お母さんの大竹しのぶさんの解釈が、『今を生きる』だそうです。
黒柳徹子さんのほうは、なにせ、母親のがんばりがすごい! とにかく働きます。
8月15日、終戦の日が訪れました。
徹子さんは、旗の台(はたのだい)というところにある『香蘭女学校(こうらんじょがっこう)』に進学します。私立の中学・高校なのでしょう。キリスト教のミッションスクールですが、校舎は、仏教のお寺さんの敷地にあるお寺の建物です。空襲で学校が焼け落ちたからです。
『咲くはわが身のつとめなり(自分を咲かせる。昔は『結婚』することが女性のつとめだった)』
小学生の時の恋心と失恋のことが書いてあります。あこがれの相手はだいぶ年上の男性で教会関係者です。
サツマイモの茶巾絞り(ちゃきんしぼり):布で絞った和菓子
逆に中学生のときに知らない男子からラブレターをもらったことが書いてあります。手紙の出だしにあった『ふかしたてのサツマイモのようなあなたへ』という文章に怒って手紙を即破いたそうです。戦後の食糧難だったことを考えると悪気はなかったものとあとで気づいたとのこと。
蝋石(ろうせき):そういうものがあったことを思い出しました。こどもの遊びで、地面に絵や文字を描いていました。
『やさしい人間になるには教養を身に着けなくてはならないし、そのためには本を読むことが大事だと考えるようになった。』
16歳のときに占い師に手相を見てもらった。
見料(けんりょう):手相などをみてもらうときの料金
天眼鏡(てんがんきょう):やや大型の凸レンズ(とつれんず)
占い師による占いの結果です。『結婚は遅いです。とても遅いです』『お金には困りません』『あなたの名前は、津々浦々(つつうらうら)に広まります』(よくあたっています)
チャプレン先生:牧師の先生。チャペル(教会)を守る人
太鼓橋(たいこばし):丸くそったアーチ橋
先日観ていた『徹子の部屋』で、昔の映像ですが、ゲストのこどもさんに、こどものころ将来何になりたかったか?と聞かれた徹子さんです。『スパイ』という答えに、こどもさんはとまどって、苦笑いをしていました。(にがわらい:どう反応していいのかわからない)
こちらの本では、『小さい頃は、スパイとチンドン屋さんと駅で切符を売る人になりたかった』と書いてあります。
私立の女子中学生のときに、洋画『トスカ』を観て、オペラ歌手を目指すことにして、東洋音楽学校に入学されています。
学校に対するお金の寄付の話やら、徹子さんのお父さんがヴァイオリン演奏者で超有名人だったことがわかる話やらが書いてあります。
番組『徹子の部屋』のオープニング曲には、もともと歌詞があって、『コロラチューラ』という言葉が使用されていたと書いてあります。コロラチューラというのは、オペラでの歌い方だそうです。
お父さんがシベリアから復員してきます。昭和24年の年末です。5年ぶりの再会です。
弟紀明さんは9歳、妹眞理さんは5歳、徹子さんは、16歳ぐらいでしょう。
お父さんは、東京交響楽団にコンサートマスターとして迎えられ、ヴァイオリニストとして復帰されました。コンサートマスター:まとめ役
徹子さんは、人形劇『雪の女王』を観て、結婚を意識して、こどもさんむけに人形劇をやりたいと思うようになります。お母さんに新聞の求人欄でも見なさいと言われて観たのが、NHK専属俳優募集の記事で、それがきっかけになって、試験に合格して、NHKの劇団員になられています。
まだ、テレビ放送は始まっていません。テレビ放送は、1953年(昭和28年)から始まります。当時のNHKは、日比谷公園にある日比谷公会堂の近くにあったようです。
まあ、どたばたです。ぎりぎりに申し込んで、試験会場を間違えて、試験に遅刻して、それでも合格されています。才能ある人は、どういう状況に合っても世に出てきます。
徹子さんは、試験会場で試験官に、筆記試験の答えを教えていただけませんか?と声をかけています。(ちょっと考えられません)試験官の返事は、『いやです』でした。
徹子さんは当時、『若干名(じゃっかんめい。数人)』を、『わかぼしめい』と読んでおられます。
ここまで読んできて、今は、180ページにいます。
(全体を読み終えました。253ページまでありました)
第二次世界大戦に重点を置いた内容でした。
もうすぐ、戦争を知らない世代の時代が日本に訪れます。
戦争の怖さを知らないから、戦争をしてもいいという意見が前面に出てきそうな気配があります。
相手が攻めてくるから対抗する。たくさんの人が死にます。
戦争をしなくてもいいように、共存できる知恵を絞る。『平和』をめざす姿勢をもたないと、戦火は再び開かれます。
徹子さんは、この本で、戦争反対を強く訴えられています。
この本は、終戦後の昭和時代を表した歴史書のようでもありました。
『トット、女優になる』
徹子さんが、HNK専属東京放送劇団第五期生採用試験に合格したのが、昭和28年2月です。
2月1日からNHKのテレビ放送が始まっています。徹子さんは、養成期間を経て、昭和29年4月に正式採用されています。合格者は17人でした。
東京の地名がたくさん出てきます。
昨年、今年と、都内を散策したので、地理がだいたいわかります。記述内容が身近に感じられて心地よい。
なつかしい俳優さんたちのお名前が出てきますが、もうみなさん、天国へ旅立たれています。
同じ時代を生きてきた人が読んだら胸にじんとくるものがあります。
黒柳徹子さんが最終選考で残った理由は、個性的であったこと、それから、養成期間中、無遅刻無欠勤であったことと読み取れる部分があります。無遅刻無欠勤が、長年続くテレビ番組『徹子の部屋』につながっているのでしょう。『継続』があたりまえのこととして身についている人については、『継続』が苦痛にはなりません。
昭和29年ラジオドラマ『君の名は』に、通行人のがやがやの声として参加されています。いろいろうまくいかなかったことが書いてあります。
現在NHK朝ドラの素材になっておられる笠置シヅ子さんとの仕事も書いてあります。徹子さんの演技を否定する人もいます。でも、応援する人たちもたくさんいます。
ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』三匹の白い子ザルのお話に参加されます。
ほめ上手な先生がおられます。
叱ってつぶすのではなく、ほめて伸ばす。
いろんな人がいます。多少のことでめげないほうがいい。チャンスが逃げていきます。
結婚に関してです。お見合いを3回されています。脳外科医の方と結婚を考えられています。見合いではなく、恋愛をして結婚したいという理由で、結局断られています。
『紅白歌合戦』の司会者でドタバタしたことが書いてあります。
昭和33年第9回紅白歌合戦です。
徹子さんは25歳です。白組の司会者は、高橋圭三さんです。
場所は、『新宿コマ劇場』です。今はもうありません。熊太郎は若い頃にその劇場を見たことがあります。中に入ったことはありません。
徹子さんの紅白歌合戦にこめる気持ちが強い。
昭和40年代というのは、『命』よりも『仕事』を優先する時代だったというような表現があります。同感です。徹子さんは体を壊します。当時、『ストレス』とういう言葉は聞かなかった覚えです。『モーレツ』という言葉はよく聞きました。
『ブーフーウー』三匹の子ブタの兄弟のお話です。なつかしい。
渥美清さんが出てきます。
1996年に亡くなられて、もう27年がたちますが、BS放送では毎週土曜日に『男はつらいよ』が放送されています。(これを書いている)昨夜見ました。マドンナは栗原小巻さんで、タコ社長の娘が美保純さんでした。
向田邦子さんのお名前も出てきます。
先日、鹿児島市を訪れたおりに、城山展望台付近で、向田邦子さんが通っていた小学校のこどもさんたちが、かけっこをしていました。
徹子さんは向田さんのアパートに入りびたっていたそうです。
帝国劇場の劇に出演された。
今年帝国劇場でミュージカルを観たので身近に感じられました。
日本の歴史、東京の地理書を読むようです。
人間は、外見で、人間を判断するというようなことが書かれています。
変装のように俳優として化粧した徹子さんに気付かず、冷たい対応をする人たちがいます。
昭和46年10月、アメリカ合衆国ニューヨークへ女優としての演技を学ぶために留学されています。
あとがきにはやはり、戦争のことが書いてあります。戦争体験者の生々しい声があります。
全体を読み終えて、この本は、まだ続きがあると確信しました。
原稿はすでに手元にあられることでしょう。
徹子さんは職業柄きちょうめんな方だと思うのです。記録はしっかりとってあると思います。
もっともっと長生きしてください。
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