2023年07月10日
中村哲物語 松島恵利子
中村哲物語(なかむらてつものがたり) 大地をうるおし平和につくした医師 松島恵利子 汐文社(ちょうぶんしゃ)
アフガニスタンの人のために働いていたのに、アフガニスタンの人に殺されてしまった日本人医師の方です。世界事情は複雑です。悪の根源は『貧困』でしょう。貧困から脱出するために『教育』が必要です。
わたしはこの方をほとんど存じ上げません。これから読んでみます。自分と同郷の福岡県出身者であることはニュースで知っています。福岡県出身の有名人は多い。文化や芸術創造、スポーツ活動のエネルギーが強い地域だと住んでいたころは感じました。ドラマチックに生きる。ゆえに、うまくいかなくなることもたまにある。理屈よりも気持ちで生きる土地柄です。
写真で見る限り、華(はな。はなやか、あでやか、オーラ(引き寄せる力))のあるような方には見えません。年配の小柄そうなおとなしい、口数が少なそうな、引っ込み思案(じあん。おどおど、そわそわ)そうなおじいさんです。優しそうな表情です。
中村哲:1946年。福岡県生まれ。2019年73歳没
ペシャワール会:1983年(昭和58年結成)医療活動を行う非政府組織
まず1ページずつゆっくりめくりながら最後までいってみます。
巻頭にある何枚かの風景写真をながめながら思うことです。
『水』と『緑』がある風景は大事(だいじ)です。
命が生まれ、育まれます(はぐくまれます)。
生き物を育てていくためには、優しい心もちが必要です。
中村哲さんグループの努力で、砂漠が緑の大地に変化しました。
(砂漠のようなところにも『水』があるのかと、不思議です)
目次です。
第一章 昆虫博士に憧れた(あこがれた)少年
第二章 動き出した運命の歯車
第三章 ハンセン病と闘う日々(名作邦画『砂の器(うつわ)』を思い出しました。誤った差別があります)
第四章 ある患者との出会い
第五章 アフガニスタンに診療所をつくる
第六章 乾ききった大地 水を求めて
第七章 アフガニスタンへの攻撃
第八章 緑の大地計画
第九章 よみがえる大地
中村哲さんの伝記です。(伝記:個人の生涯の業績記録)
ご親族に有名な作家がおられるそうです。
明記はしてありませんが、『火野葦平(ひの・あしへい)さん1907年(明治40年)-1960年(昭和35年)52歳没』でしょう。作品として『麦と兵隊』、『花と竜』が思い浮かびます。兵隊小説で、兵隊であることを勧める内容だったので、終戦後世間から責められています。(このあと、2回目の本読みで、32ページに「火野葦平」さんのお名前を見つけました。自死されています)
139ページ『乾燥に強い農作物の研究』とあります。なるほど、大自然に限界はない。自然の力はすごい。
174ページ、巻末付近になりますが、お仲間の寄せ書きがあります。
『ありのままの中村哲』 -中村哲物語・刊行によせて-
自分たちの世代は、医師であったシュバイツァーと野口英世の影響を受けた。
中村哲さんは『調和』を求めていたそうです。自然、宗教、文化、貧しさとの調和だそうです。
(バランスがだいじなのです。てんびん座生まれのわたしにはわかります。どっちか片方だけというのは無理なのです。お互いによく話し合って、妥協点(許しあえる状態)を探すのです)
中村哲さんは、寡黙(かもく。くちかずが少ない)な人だったそうです。
半面、人からは慕われ、ユーモアもあった。
みんなからは『てっちゃんと呼ばれていたそうです。(出川哲郎さんみたいです)』
本には、ウクライナのことが書いてあります。
戦争の戦地では無法地帯になります。残虐行為が起きる場所です。それが、戦争です。
中村哲さんの意志として『戦わない』という姿勢があるそうです。できるだけ死者を減らす。
以前読んだ本『塞王の楯(さいおうのたて) 今村翔吾(いまむらしょうご) 集英社』では、大津城の城主である京極高次(きょうごく・たかつぐ)が戦(いくさ)をしていて、『……儂(わし)はもう誰も死んでほしくない』と言葉を発します。なかなかそういうリーダーはいません。勝つにしても負けるにしても、全軍の何パーセントかが死んでしまうのはしかたがないと考えるリーダーばかりです。
中村哲さんは、自分は死んでしまうかも(殺されてしまうかも)しれないけれどかまわないという覚悟をもって自分の人生における夢をかなえた人だと思いながら二回目の本読みに入ります。
(2回目の本読み)
巻頭の写真に、『用水路を引く前の砂漠化したスランプール地区(2005年5月)』とその同じ場所の2009年5月の写真があります。
4年がんばれば、土地が緑になる。水が引けて、作物を育てることができる。4年間コツコツと作業を続けていく。なんだか、感動しました。
人間だって、4年間コツコツと勉強や練習をしていけば、今はできないことでも4年後には、だれでもある程度のレベルまでは到達できる証拠です。説得力がある写真です。
中村哲さんのお言葉です。
『どの場所、どの時代でも、一番大切なのは命です』
(死んだら終わりです。人生でとりかえしがつかないことは、自殺と殺人です)
中村哲さんは、35年間、パキスタンやアフガニスタンで医療に従事して、人の命を救ってきたそうです。
医療だけではなく、井戸を掘り、水路をつくり、地元の人たちに『水』を届けた。
人は水がなければ生きていけないと書いてあります。先日読んだ本『ライスボールとみそ蔵と 横田明子・作 塚越文雄・絵 絵本塾出版』には、人が生きていくためには『塩』が必要ですとありました。血液や消化液、リンパ液などの体液の中に塩の成分がとけこんでいるそうです。
『日本ではどこにいても蛇口をひねるだけで、簡単に清潔な水が手に入ります』
意外に思われるかもしれませんが、わたしがこどものころには、家に水道がありませんでした。1965年(昭和40年)ころのことです。
地面を深く掘った井戸を利用していました。桶(おけ)で汲み上げた(くみあげた)水を使用していました。
地域によっては、手押し式ポンプが多用されていました。取っ手を持って何回も上下させると管から(くだから)水がほとばしるように出てきました。
それから、山へ行くと清水(しみず)が湧いている(わいている)ところがあって、山でくんだみずを自宅の台所にあるコンクリート製の甕(かめ。箱型の正方体をしている)にためて使っていました。
中村哲さんも同じような時代に日本でこども時代を過ごされているので、井戸使用の体験はあられたと思います。
アフガニスタンでは、薬よりも先に、『水』が必要だった。
アフガニスタン:日本から西に6000kmぐらいの位置にある国。海に面していない内陸国。(海を見たことがない人が多そうです)。国土の四分の三が山になっている。標高が高い。4月-11月が乾季、12月-3月が雨季。人口がだいたい3890万人(日本はだいたい1億2570万人です)。20以上の民族がいるそうです。ゆえに、イスラム教をつうじてつながりあっている。
アフガニスタン人が願うことです。
『一日3回食事ができること』(ということは、一日三回食べることができないということか)
『家族といっしょに暮らすこと』(ということは、家族といっしょに暮らせないということか)
中村哲さんのグループは、11の診療所をつくり、無料で診療を行った。(寄付とか補助が原資だったのでしょう。たぶん)
2000年から2006年にかけて、1600ぐらいの井戸を掘った。(すごい)
2003年から7年かけて、約25kmの用水路をつくった。
中村哲さんは不幸な亡くなり方をされましたが、中村哲さんの意思と事業を引き継ぐ人たちがいます。
20ページから中村哲さんの生い立ち話が始まりました。
1946年(昭和21)年は、第二次世界大戦終戦の翌年です。
まだテレビはありませんでした。(昭和28年放送開始)ラジオはありました。
中村哲さんは、虫取りが好きだったそうです。
このときの発見として、『人は見ようとするものしか見えない』
英語の授業で、『Look(ルック。注視)』と『See(シー。見る)』の違いを学んだ時を思い出ました。Lookは、脳みそを使って、一生懸命観るのです。
思うに、このころの人たちは本をよく読んだと思います。娯楽は、映画ぐらいでしょう。
この本にある『ファーブル昆虫記』とか『シートン動物記』を読んだ少年は多い。
北九州の若松港が出てきます。
『若戸大橋(わかとおおはし)』という赤い橋を何度か見たことがあります。そのあたりを若松港というのでしょう。
中村哲少年の祖父母の家があったそうです。
この時代のこどもは兄弟姉妹が多いので、順番が下のほうになると親に育てられたというよりも祖父母や年上の兄、姉、親の姉妹(おばさん)に育てられたという人も多い。自分もそんな感じでした。親族づきあい、人付き合いが濃厚でした。
北九州の工場地帯では、筑豊(ちくほう)の炭鉱もからんだ事業が主だったので、まあ、荒っぽい気性(きしょう。性質)がありました。外国人労働者も多かった。
本では、中村哲さんの祖母の教えがあります。
『…… 職業で人を差別してはいけない。どんなちいさなものの命も大切にしなくてはいけない』
中村哲さんは、目が見えない人との出会いを通じて、人と人が『信頼しあうことの重要さ』を学ばれています。
学歴のことが書いてあります。
昔は、大学はなかなか行けませんでした。
高校も行けませんでした。
九州だと、中学を卒業すると、集団就職の列車に乗せられて、大都市へ労働力として送られました。『金の卵』という言葉がありました。中学を卒業したこどものことです。みんなつらい思いをしました。都会でうまくいかなくて、その後帰郷した人もけっこういると思います。
九州大学医学部を出て、佐賀県で精神科医になる。
精神科なら、ひまそうだから、昆虫採集に行ける。(なんと安易な(あんい。軽はずみ))
もうひとつの理由は、ご自身が赤面症ではずかしがりや。人と気楽にお話しできない。同じ悩みをかかえる人の手助けをしたい。(こちらの動機は正しい。精神科医に関して言えば、どちらが患者かわからないというような事例もありそうです)
精神科の患者の話は長いです。聴くのも体力と根気(こんき。忍耐。気力)がいります。
延命治療のことが書いてあります。
退院して家庭に戻ることができない状態でも生かすのです。
わたしはやめてくれと家族には言ってあり、エンディングノートにも書きました。
1978年に仕事を頼まれる。
パキスタンとアフガニスタンの境界あたりの区域にある山(7690m)に上る登山隊に同行する医師となる。ヒンドゥークシュ山脈というそうです。
中村哲さんが医療行為を提供する相手は登山隊に属するメンバーなのですが、現地で暮らす人たちから、その人たちの助けも求められます。
現地には医師も薬も存在しません。そして、治療費もありません。
1984年(昭和59年)5月、日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンにあるペシャワール・ミッション病院へ医師として派遣される。アフガニスタンとの国境近くにあるまちにある病院だそうです。
その年に中村哲さんを応援する会『ペシャワール会』が結成されて活動がスタートしました。
その後会員は1万6000人にもふくれあがったそうです。
ハンセン病(日本では昔らい病と呼んでいた。ひどい差別があった):らい菌による感染症。皮膚、末梢神経を壊す。感染力は弱い。パキスタン内の患者は2万人以上。専門医師は3人しかいないそうです。ゆえに中村哲さんは、ハンセン病治療担当の意思になることを希望します。
ルース・ファル医師:ドイツ人女性医師。パキスタンで、ハンセン病の治療に20年間従事する。
何もないところで、病気が良くなった患者たちが、こんどは医療従事者になっていきます。感動的です。
足底潰瘍(そくていかいよう):足の裏が切れてばい菌が入って荒れる。ひどい履物(はきもの)が原因だから、中村哲さんは、ちゃんとした履物をつくるために『サンダル工房』をつくる。健康には清潔な環境が必要です。
『治療よりも予防を考える』(なるほど)
手先の器用な患者たちが、サンダルづくりの作業に従事してくれるようになる。(やはり、人にやってもらうのを待っているのではなく、自分たちのことは自分たちでやるんだという意識がだいじです)
そのことが、自分たちで自分たちのための『水路』をつくることにつながっていきます。
ハンセン病にかかった女性三人家族との出来事が書いてあります。
老いたおかあさんと娘さんふたりです。三人ともがハンセン病です。
皮膚が死んでいます。
難民について書いてあります。
戦争が起きると、そこに住んでいた人たちは、国境を越えてその場を逃げ出します。
たとえば、もし北朝鮮が戦場になれば、同国の人たちは、陸続きの中国とか、ロシアへ移動する人もいるでしょうが、日本海を船で渡って日本列島の日本海側に流れ着く人たちもいるでしょう。混乱します。だから戦争はしちゃいけないんです。
病気の三人家族は、中村哲さんが働く病院で救われます。そして、病気が良くなった娘さんはそこで労働奉仕します。働きます。元気になったら立場が変わるのです。
アレルギー反応(はんのう):通常は無害な物質に対して体が異常な反応を示すこと。
『無駄口と議論はもうたくさんだ!』
なかみのない会議をくりかえすのは時間と労力のムダです。
ムダな会議は、仕事をしているふりをして、給料をもらっているだけです。
おいしいものを食べる。
甘いものを食べる。
笑顔が生まれる。
おいしいものは、だいじです。
イスラム社会は女性の地位が低いとあります。まるで、日本では女性の地位が高いような表現ですが、日本も含めて、たくさんの国での女性の地位は低いです。
女性差別について書いてある本をこれまでに何冊か読みました。
『マチズモを削り取れ 武田砂鉄 集英社』マチズモとは、マッチョ(筋肉質な男)で、男性優位社会をさします。
『説教したがる男たち レベッカ・ソルニット ハーン小路恭子・訳 左右社』アメリカ合衆国の女性が書いた本でした。
『私たちにはことばが必要だ -フェミニストは黙らない- イ・ミンギョン すんみ・小山内園子 訳 タバブックス』韓国人女性が書いた本でした。
テレビの映像で、中国や北朝鮮の会議のようすを見ると、男ばかりがずらりと並んで座っていて異様です。ロボットみたいに全員で同時に拍手をします。とはいえ、日本の議会も似ています。女性議員の数は少ない。
中村哲さんひとりでなせる偉業ではないので、中村哲さんを支えるまわりの人たちのことが書いてあります。
看護師として、藤田千代子さんの紹介があります。
マザー・テレサ:1910年(日本だと明治43年)-1997年(平成9年)。87歳没。カトリック教会の修道女。インドの貧しい人たちのために貢献した。1979年ノーベル平和賞受賞。
トイレのことが書いてあります。
もう昔のことですが、昔の日本と似ています。
60年ぐらい前、1965年(昭和40年)ころ、わたしがまだこどもだったころ、父方の祖父母宅が農家で、人糞(じんぷん)を肥料で使用していました。まだこどもだったわたしは、肥え桶(こえおけ。うんこ・しっこが入っている桶)を背中にかついだ祖母と畑へ行き、祖母がひしゃくで、畑に人糞をまく姿を見ていました。
日本の近代化は、相当むかしからあったものではありません。日本は短い期間に急速に生活様式が変化しました。
アフガニスタンでの戦争。ソ連がアフガニスタンに攻め込んだ。結局ソ連(15の共和国。ソビエト連邦)は撤退した。
1978年(昭和53年)-1989年(平成元年)200万人が亡くなった。600万人が難民になった。
1991年(平成3年)ソ連は崩壊した。
ハンセン病だけではありません。
腸チフス:感染症。便と尿が感染源。全身性疾患。発熱、下痢、皮膚炎、腸出血など。
マラリア:マラリア原虫が原因。赤血球内に寄生する。貧血、呼吸困難、しばしば死に至る。
結核(けっかく):結核菌に感染。肺炎ほかの症状が出る。
アメーバ赤痢(せきり):赤痢アメーバという原虫が原因。大腸炎。腹痛
現地の人と同化する。(同化:まねをしてとけこむ)
ひげを生やす。(はやす)
つばのない帽子をかぶる。
ここにも日本人気質と共通するアフガニスタン人の生活があります。『もったいない』です。ものを大切にします。捨てません。
写真を観ていて不思議なことがあります。
アフガニスタンの人たちはどうやって生活の糧(かて。食べ物。お金。収入)を手に入れているのだろう。
荒涼とした山岳地帯とか平地の風景写真が多い。
ふつうなら第一次産業(農林水産業)、第二次産業(鉱工業、製造業)、第三次産業(サービス業)に従事して収入を得ます。写真を見ると日本では多いサラリーマンの姿がありません。農業の人はいそうです。(99ページに「国民の8割が農業で食べていけるのも……」という文章がありました)
病院の中庭にある緑の風景写真があります。
先日NHKのテレビ番組『72時間』で、東京のお茶の水にある病院の屋上庭園が紹介されていました。病院ですから、病気についての重たい話もあります。
患者さんたちは緑の植物や植物によって来る昆虫(生きているものたち)に心を許し、気持ちをいやされます。余命宣告を受けた人もいるし、メンタルを病んでいる人もいます。『緑』はだいじです。
アフガニスタンは国土の四分の一が山だそうです。
かなり高い山で、冬は雪が積もる。何万年もかけてつくられた氷河があるそうです。
雪はとけて水になって、川を下って農業用水として利用されます。
(読んでいて、いろいろと昔の日本に似ていると思いました。わたしがこどもだったころの60年ぐらい前の日本です。1965年(昭和40年)ころまでの日本です)
2000年にすさまじい干ばつがあったそうです。(雨が降らない。水不足)
人口の半数以上、約1200万人が干ばつの被害にあい、400万人ぐらいが食べるものが不足して栄養が足らず、100万人ぐらいが食べるものがなくて死んでしまいそう。
おなかがすいて、体力が落ちて病気にかかって死んでしまいます。
医師である中村哲さんは心が苦しかったことでしょう。
『水、水、水』が必要なのです。きれいで清潔な水を飲んで体調を整える。植物も人間も生き物には水が必要なのです。
『井戸を掘る(地下水をくみ上げる)』
ワーカー:労働者のこと。
2000年(平成12年)10月までに:井戸を274か所掘った。
翌年9月までに:660か所掘った。
掘れば、水が出てくるわけです。きっとみんなうれしかったと思います。
108ページにまちへ出稼ぎに行く農民のことが書いてあります。
やはり60年ぐらい前の日本でも、地方の農民は、稲刈りが終わる秋からたんぼでの農作業が始まる春にかけて都会へ出稼ぎに出ていました。わたしの父親もわたしがこどもだったころ、大都市へ働きに行きました。
気候変動のことについて注意書きがしてあります。
地球温暖化の防止です。
もう何年も前から言われ続けていることです。
化石燃料をやめようです。(石炭、石油などです)二酸化炭素が出て、地球をおおってしまって、地球の気温が上昇して、自然が破壊されていきます。
二酸化炭素を出しているのは先進国と呼ばれる国々です。アフガニスタンは先進国ではありません。
このあと、2001年9月11日のアメリカ合衆国同時多発テロ(民間航空機4機がのっとられ爆弾がわりに世界貿易センタービルほかに突っ込んだ。わたしたちの世代はリアルタイムでニュースを観ました。2977人が死亡。2万5000人以上が負傷)をきっかけにして、お金持ちの先進国(アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、インド、ロシアほか。多国籍軍。お金儲けをする国と言いかえてもいい)が貧乏農業国のアフガニスタンに総攻撃をかけます。アフガニスタンに住む農民は、テロの実行者ではありませんでした。
2001年10月13日に中村哲さんは日本の国会で、アフガニスタンの平和維持を訴えておられます。むずかしい問題です。中村哲さんは、アフガニスタンの農民を中心とした庶民の味方です。結局、民主主義は『多数決』で決まります。(自衛隊を海外派遣する法案は国会で成立しました)
中村哲さんは、日本のアフガニスタン戦争参加に反対、干ばつによる飢餓で苦しんでいるアフガニスタンの国民に食糧支援を訴えます。
中村哲さんの国会での訴えです。『…… 一人の父親、母親としての皆さんに訴える。くりかえすが、大干ばつと(だいかんばつと)飢餓対策(きがたいさく)こそが緊急課題である』
この本を読んでいたころ、晩ごはんどきに、家族と邦画『東京タワー』をテレビで観ていました。リリー・フランキーさんの名作小説の映画化です。中村哲さんと出身が同じ県、福岡県内から東京に出てきた産炭地(さんたんち。炭坑地域)の人間の物語です。
お母さん役の樹木希林さん(きききりんさん)が熱演されていますが、お母さんが常に気にしていることは、(息子が)ちゃんとごはんを食べているだろうかということです。
うちの家族から話があったのですが、母親というものは、いつでもこどもの食事のことを考えているそうです。こどもにごはんをたべさせる。それが、母親の一番の役目だそうです。それ以外のことは、あとまわしでいい。母親はこどもに何をつくって食べさせてやろうかといつも考えているそうです。母親の愛情が感じられる言葉でした。中村哲さんは男性ですが、アフガニスタンの人たちのことを母親のように心配されていたのだと受けとめるのです。
この本のはじまりあたりにあった言葉を再掲します。
アフガニスタン人が願うことです。
『一日3回食事ができること』
2002年(平成14年)『緑の大地計画』をつくり始める。
農民が自力で食べていけるようにする。
夢を追う。毎日少しずつ積み重ねていけば、夢はかなう。
中村哲さんは、土木工学の勉強を始めます。
用水路をつくるための勉強です。
日本の川を参考にする。とくに出身地の九州を流れている川をアフガニスタンの川に重ねて参考にして研究してプランをつくる。
最新技術を用いるのではなく、まだ重機(じゅうき。建設作業用大型工作機械)がなかったときの日本での時代に、どうやって、川から水を引いて用水路をつくったかという手法を調べて、アフガニスタンで同じようにやってみる。
なんでも新しければいいというものでもなさそうです。
コンクリートの壁はつくらない。
『蛇かご』という江戸時代からの工法を用いる。鉄線のかごの中に石を詰めて用水路の両側に並べていく。
用水路の両岸に柳を植えて、柳の根っこで岸を強化する。
乾燥に強い農作物を植える。なんでも研究です。サツマイモ、ソルゴー(イネ科の一年草。モロコシ)、お茶、蚊を退治するための除虫菊(じょちゅうぎく)など。
日本三大あばれ川:(関東)利根川、(四国)吉野川、(福岡県)筑後川(ちくごがわ)
斜め堰(筑後川。山田堰(やまだぜき):右岸と左岸を斜めにせき止める。取水しやすくなす。防水の役割も果たす。
中村哲さんが用水を名付けました。『アーベ・マルワリード(真珠の水)』
細かな工夫がたくさんあります。
中村哲さんは、用水を貫通させることをあきらめません。アフガニスタンの人たちの『命』がかかっている事業です。けして、自分のお金もうけができる事業ではなかったと思います。
人生で大事なのは『お金』ではありません。自分が自分のしたいことのために使うことができる『時間の十分な長さ』です。中村哲さんは、自分のために(アフガニスタンの人たちのためですが、一番は自分のためです)自分がもっている時間を用水路づくりにそそぎこんだのです。
たしか、以前読んだ本で、アフリカの地に井戸をつくるお話がありました。水が出ることで、住民の暮らしが良くなったとありました。
記録をさがしました。出てきました。『みずをくむプリンセス スーザン・ヴァーデ・文 ピーター・H・レイノルズ・絵 さくまゆみこ・訳 さ・え・ら書房』
アフリカで水道設備がないので、水がある場所まで水をくみにいく不便さを教えてくれる絵本です。
ジョージ・バディエルさんという女性の体験がもとになってできたお話だそうです。
ジョージ・バディエルさんは、現在は世界で活躍するファッションモデルですが、こどものころは、西アフリカのブルキナファソという国で、水くみの体験をしたことがあるそうです。
ジョージ・バディエルさんは、水くみの作業がたいへんだったので、いまは、「井戸」をつくる運動をしているそうです。
中村哲さんは、現地の人たちから『カカムラ』と呼ばれていた。親しみをもたれていた。
2010年、アーベ・マリワールド用水路(真珠の水)が完成しました。
作物として、小麦、サツマイモ、玉ねぎ、オレンジ、大根、スイカ、米…… たくさんできます。
酪農(らくのう)と養蜂(ようほう)もできるそうです。よかった。
動物や鳥、昆虫もいます。生き物の楽園です。
まるで、地球誕生の歴史のようです。
命は、水から生まれるのです。
モスク:イスラム教の礼拝堂
マドラサ:学校
ガンベリ砂漠の中につくった芝生と緑と花の公園:ドクターサーブ中村メモリアルパーク
自分の意に沿わない(いにそわない:自分のいうことをきかないので気に入らない)相手は殺してしまえばいいという思考をもつ人間がいます。間違っています。生まれるところからやりなおしたほうがいい。まずは、絵本を読むところから始めるのです。それからいろんな本を読むのです。自分の脳みそを自分で育む(はぐくむ)とか、育てる(そだてる)ことがだいじです。
本のなかには、いろんな世界があって、読むことで、自分が体験したことがない世界を体験できるのです。考えるのです。人間は脳みそで考えて行動する動物です。
アフガニスタンの人のために働いていたのに、アフガニスタンの人に殺されてしまった日本人医師の方です。世界事情は複雑です。悪の根源は『貧困』でしょう。貧困から脱出するために『教育』が必要です。
わたしはこの方をほとんど存じ上げません。これから読んでみます。自分と同郷の福岡県出身者であることはニュースで知っています。福岡県出身の有名人は多い。文化や芸術創造、スポーツ活動のエネルギーが強い地域だと住んでいたころは感じました。ドラマチックに生きる。ゆえに、うまくいかなくなることもたまにある。理屈よりも気持ちで生きる土地柄です。
写真で見る限り、華(はな。はなやか、あでやか、オーラ(引き寄せる力))のあるような方には見えません。年配の小柄そうなおとなしい、口数が少なそうな、引っ込み思案(じあん。おどおど、そわそわ)そうなおじいさんです。優しそうな表情です。
中村哲:1946年。福岡県生まれ。2019年73歳没
ペシャワール会:1983年(昭和58年結成)医療活動を行う非政府組織
まず1ページずつゆっくりめくりながら最後までいってみます。
巻頭にある何枚かの風景写真をながめながら思うことです。
『水』と『緑』がある風景は大事(だいじ)です。
命が生まれ、育まれます(はぐくまれます)。
生き物を育てていくためには、優しい心もちが必要です。
中村哲さんグループの努力で、砂漠が緑の大地に変化しました。
(砂漠のようなところにも『水』があるのかと、不思議です)
目次です。
第一章 昆虫博士に憧れた(あこがれた)少年
第二章 動き出した運命の歯車
第三章 ハンセン病と闘う日々(名作邦画『砂の器(うつわ)』を思い出しました。誤った差別があります)
第四章 ある患者との出会い
第五章 アフガニスタンに診療所をつくる
第六章 乾ききった大地 水を求めて
第七章 アフガニスタンへの攻撃
第八章 緑の大地計画
第九章 よみがえる大地
中村哲さんの伝記です。(伝記:個人の生涯の業績記録)
ご親族に有名な作家がおられるそうです。
明記はしてありませんが、『火野葦平(ひの・あしへい)さん1907年(明治40年)-1960年(昭和35年)52歳没』でしょう。作品として『麦と兵隊』、『花と竜』が思い浮かびます。兵隊小説で、兵隊であることを勧める内容だったので、終戦後世間から責められています。(このあと、2回目の本読みで、32ページに「火野葦平」さんのお名前を見つけました。自死されています)
139ページ『乾燥に強い農作物の研究』とあります。なるほど、大自然に限界はない。自然の力はすごい。
174ページ、巻末付近になりますが、お仲間の寄せ書きがあります。
『ありのままの中村哲』 -中村哲物語・刊行によせて-
自分たちの世代は、医師であったシュバイツァーと野口英世の影響を受けた。
中村哲さんは『調和』を求めていたそうです。自然、宗教、文化、貧しさとの調和だそうです。
(バランスがだいじなのです。てんびん座生まれのわたしにはわかります。どっちか片方だけというのは無理なのです。お互いによく話し合って、妥協点(許しあえる状態)を探すのです)
中村哲さんは、寡黙(かもく。くちかずが少ない)な人だったそうです。
半面、人からは慕われ、ユーモアもあった。
みんなからは『てっちゃんと呼ばれていたそうです。(出川哲郎さんみたいです)』
本には、ウクライナのことが書いてあります。
戦争の戦地では無法地帯になります。残虐行為が起きる場所です。それが、戦争です。
中村哲さんの意志として『戦わない』という姿勢があるそうです。できるだけ死者を減らす。
以前読んだ本『塞王の楯(さいおうのたて) 今村翔吾(いまむらしょうご) 集英社』では、大津城の城主である京極高次(きょうごく・たかつぐ)が戦(いくさ)をしていて、『……儂(わし)はもう誰も死んでほしくない』と言葉を発します。なかなかそういうリーダーはいません。勝つにしても負けるにしても、全軍の何パーセントかが死んでしまうのはしかたがないと考えるリーダーばかりです。
中村哲さんは、自分は死んでしまうかも(殺されてしまうかも)しれないけれどかまわないという覚悟をもって自分の人生における夢をかなえた人だと思いながら二回目の本読みに入ります。
(2回目の本読み)
巻頭の写真に、『用水路を引く前の砂漠化したスランプール地区(2005年5月)』とその同じ場所の2009年5月の写真があります。
4年がんばれば、土地が緑になる。水が引けて、作物を育てることができる。4年間コツコツと作業を続けていく。なんだか、感動しました。
人間だって、4年間コツコツと勉強や練習をしていけば、今はできないことでも4年後には、だれでもある程度のレベルまでは到達できる証拠です。説得力がある写真です。
中村哲さんのお言葉です。
『どの場所、どの時代でも、一番大切なのは命です』
(死んだら終わりです。人生でとりかえしがつかないことは、自殺と殺人です)
中村哲さんは、35年間、パキスタンやアフガニスタンで医療に従事して、人の命を救ってきたそうです。
医療だけではなく、井戸を掘り、水路をつくり、地元の人たちに『水』を届けた。
人は水がなければ生きていけないと書いてあります。先日読んだ本『ライスボールとみそ蔵と 横田明子・作 塚越文雄・絵 絵本塾出版』には、人が生きていくためには『塩』が必要ですとありました。血液や消化液、リンパ液などの体液の中に塩の成分がとけこんでいるそうです。
『日本ではどこにいても蛇口をひねるだけで、簡単に清潔な水が手に入ります』
意外に思われるかもしれませんが、わたしがこどものころには、家に水道がありませんでした。1965年(昭和40年)ころのことです。
地面を深く掘った井戸を利用していました。桶(おけ)で汲み上げた(くみあげた)水を使用していました。
地域によっては、手押し式ポンプが多用されていました。取っ手を持って何回も上下させると管から(くだから)水がほとばしるように出てきました。
それから、山へ行くと清水(しみず)が湧いている(わいている)ところがあって、山でくんだみずを自宅の台所にあるコンクリート製の甕(かめ。箱型の正方体をしている)にためて使っていました。
中村哲さんも同じような時代に日本でこども時代を過ごされているので、井戸使用の体験はあられたと思います。
アフガニスタンでは、薬よりも先に、『水』が必要だった。
アフガニスタン:日本から西に6000kmぐらいの位置にある国。海に面していない内陸国。(海を見たことがない人が多そうです)。国土の四分の三が山になっている。標高が高い。4月-11月が乾季、12月-3月が雨季。人口がだいたい3890万人(日本はだいたい1億2570万人です)。20以上の民族がいるそうです。ゆえに、イスラム教をつうじてつながりあっている。
アフガニスタン人が願うことです。
『一日3回食事ができること』(ということは、一日三回食べることができないということか)
『家族といっしょに暮らすこと』(ということは、家族といっしょに暮らせないということか)
中村哲さんのグループは、11の診療所をつくり、無料で診療を行った。(寄付とか補助が原資だったのでしょう。たぶん)
2000年から2006年にかけて、1600ぐらいの井戸を掘った。(すごい)
2003年から7年かけて、約25kmの用水路をつくった。
中村哲さんは不幸な亡くなり方をされましたが、中村哲さんの意思と事業を引き継ぐ人たちがいます。
20ページから中村哲さんの生い立ち話が始まりました。
1946年(昭和21)年は、第二次世界大戦終戦の翌年です。
まだテレビはありませんでした。(昭和28年放送開始)ラジオはありました。
中村哲さんは、虫取りが好きだったそうです。
このときの発見として、『人は見ようとするものしか見えない』
英語の授業で、『Look(ルック。注視)』と『See(シー。見る)』の違いを学んだ時を思い出ました。Lookは、脳みそを使って、一生懸命観るのです。
思うに、このころの人たちは本をよく読んだと思います。娯楽は、映画ぐらいでしょう。
この本にある『ファーブル昆虫記』とか『シートン動物記』を読んだ少年は多い。
北九州の若松港が出てきます。
『若戸大橋(わかとおおはし)』という赤い橋を何度か見たことがあります。そのあたりを若松港というのでしょう。
中村哲少年の祖父母の家があったそうです。
この時代のこどもは兄弟姉妹が多いので、順番が下のほうになると親に育てられたというよりも祖父母や年上の兄、姉、親の姉妹(おばさん)に育てられたという人も多い。自分もそんな感じでした。親族づきあい、人付き合いが濃厚でした。
北九州の工場地帯では、筑豊(ちくほう)の炭鉱もからんだ事業が主だったので、まあ、荒っぽい気性(きしょう。性質)がありました。外国人労働者も多かった。
本では、中村哲さんの祖母の教えがあります。
『…… 職業で人を差別してはいけない。どんなちいさなものの命も大切にしなくてはいけない』
中村哲さんは、目が見えない人との出会いを通じて、人と人が『信頼しあうことの重要さ』を学ばれています。
学歴のことが書いてあります。
昔は、大学はなかなか行けませんでした。
高校も行けませんでした。
九州だと、中学を卒業すると、集団就職の列車に乗せられて、大都市へ労働力として送られました。『金の卵』という言葉がありました。中学を卒業したこどものことです。みんなつらい思いをしました。都会でうまくいかなくて、その後帰郷した人もけっこういると思います。
九州大学医学部を出て、佐賀県で精神科医になる。
精神科なら、ひまそうだから、昆虫採集に行ける。(なんと安易な(あんい。軽はずみ))
もうひとつの理由は、ご自身が赤面症ではずかしがりや。人と気楽にお話しできない。同じ悩みをかかえる人の手助けをしたい。(こちらの動機は正しい。精神科医に関して言えば、どちらが患者かわからないというような事例もありそうです)
精神科の患者の話は長いです。聴くのも体力と根気(こんき。忍耐。気力)がいります。
延命治療のことが書いてあります。
退院して家庭に戻ることができない状態でも生かすのです。
わたしはやめてくれと家族には言ってあり、エンディングノートにも書きました。
1978年に仕事を頼まれる。
パキスタンとアフガニスタンの境界あたりの区域にある山(7690m)に上る登山隊に同行する医師となる。ヒンドゥークシュ山脈というそうです。
中村哲さんが医療行為を提供する相手は登山隊に属するメンバーなのですが、現地で暮らす人たちから、その人たちの助けも求められます。
現地には医師も薬も存在しません。そして、治療費もありません。
1984年(昭和59年)5月、日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンにあるペシャワール・ミッション病院へ医師として派遣される。アフガニスタンとの国境近くにあるまちにある病院だそうです。
その年に中村哲さんを応援する会『ペシャワール会』が結成されて活動がスタートしました。
その後会員は1万6000人にもふくれあがったそうです。
ハンセン病(日本では昔らい病と呼んでいた。ひどい差別があった):らい菌による感染症。皮膚、末梢神経を壊す。感染力は弱い。パキスタン内の患者は2万人以上。専門医師は3人しかいないそうです。ゆえに中村哲さんは、ハンセン病治療担当の意思になることを希望します。
ルース・ファル医師:ドイツ人女性医師。パキスタンで、ハンセン病の治療に20年間従事する。
何もないところで、病気が良くなった患者たちが、こんどは医療従事者になっていきます。感動的です。
足底潰瘍(そくていかいよう):足の裏が切れてばい菌が入って荒れる。ひどい履物(はきもの)が原因だから、中村哲さんは、ちゃんとした履物をつくるために『サンダル工房』をつくる。健康には清潔な環境が必要です。
『治療よりも予防を考える』(なるほど)
手先の器用な患者たちが、サンダルづくりの作業に従事してくれるようになる。(やはり、人にやってもらうのを待っているのではなく、自分たちのことは自分たちでやるんだという意識がだいじです)
そのことが、自分たちで自分たちのための『水路』をつくることにつながっていきます。
ハンセン病にかかった女性三人家族との出来事が書いてあります。
老いたおかあさんと娘さんふたりです。三人ともがハンセン病です。
皮膚が死んでいます。
難民について書いてあります。
戦争が起きると、そこに住んでいた人たちは、国境を越えてその場を逃げ出します。
たとえば、もし北朝鮮が戦場になれば、同国の人たちは、陸続きの中国とか、ロシアへ移動する人もいるでしょうが、日本海を船で渡って日本列島の日本海側に流れ着く人たちもいるでしょう。混乱します。だから戦争はしちゃいけないんです。
病気の三人家族は、中村哲さんが働く病院で救われます。そして、病気が良くなった娘さんはそこで労働奉仕します。働きます。元気になったら立場が変わるのです。
アレルギー反応(はんのう):通常は無害な物質に対して体が異常な反応を示すこと。
『無駄口と議論はもうたくさんだ!』
なかみのない会議をくりかえすのは時間と労力のムダです。
ムダな会議は、仕事をしているふりをして、給料をもらっているだけです。
おいしいものを食べる。
甘いものを食べる。
笑顔が生まれる。
おいしいものは、だいじです。
イスラム社会は女性の地位が低いとあります。まるで、日本では女性の地位が高いような表現ですが、日本も含めて、たくさんの国での女性の地位は低いです。
女性差別について書いてある本をこれまでに何冊か読みました。
『マチズモを削り取れ 武田砂鉄 集英社』マチズモとは、マッチョ(筋肉質な男)で、男性優位社会をさします。
『説教したがる男たち レベッカ・ソルニット ハーン小路恭子・訳 左右社』アメリカ合衆国の女性が書いた本でした。
『私たちにはことばが必要だ -フェミニストは黙らない- イ・ミンギョン すんみ・小山内園子 訳 タバブックス』韓国人女性が書いた本でした。
テレビの映像で、中国や北朝鮮の会議のようすを見ると、男ばかりがずらりと並んで座っていて異様です。ロボットみたいに全員で同時に拍手をします。とはいえ、日本の議会も似ています。女性議員の数は少ない。
中村哲さんひとりでなせる偉業ではないので、中村哲さんを支えるまわりの人たちのことが書いてあります。
看護師として、藤田千代子さんの紹介があります。
マザー・テレサ:1910年(日本だと明治43年)-1997年(平成9年)。87歳没。カトリック教会の修道女。インドの貧しい人たちのために貢献した。1979年ノーベル平和賞受賞。
トイレのことが書いてあります。
もう昔のことですが、昔の日本と似ています。
60年ぐらい前、1965年(昭和40年)ころ、わたしがまだこどもだったころ、父方の祖父母宅が農家で、人糞(じんぷん)を肥料で使用していました。まだこどもだったわたしは、肥え桶(こえおけ。うんこ・しっこが入っている桶)を背中にかついだ祖母と畑へ行き、祖母がひしゃくで、畑に人糞をまく姿を見ていました。
日本の近代化は、相当むかしからあったものではありません。日本は短い期間に急速に生活様式が変化しました。
アフガニスタンでの戦争。ソ連がアフガニスタンに攻め込んだ。結局ソ連(15の共和国。ソビエト連邦)は撤退した。
1978年(昭和53年)-1989年(平成元年)200万人が亡くなった。600万人が難民になった。
1991年(平成3年)ソ連は崩壊した。
ハンセン病だけではありません。
腸チフス:感染症。便と尿が感染源。全身性疾患。発熱、下痢、皮膚炎、腸出血など。
マラリア:マラリア原虫が原因。赤血球内に寄生する。貧血、呼吸困難、しばしば死に至る。
結核(けっかく):結核菌に感染。肺炎ほかの症状が出る。
アメーバ赤痢(せきり):赤痢アメーバという原虫が原因。大腸炎。腹痛
現地の人と同化する。(同化:まねをしてとけこむ)
ひげを生やす。(はやす)
つばのない帽子をかぶる。
ここにも日本人気質と共通するアフガニスタン人の生活があります。『もったいない』です。ものを大切にします。捨てません。
写真を観ていて不思議なことがあります。
アフガニスタンの人たちはどうやって生活の糧(かて。食べ物。お金。収入)を手に入れているのだろう。
荒涼とした山岳地帯とか平地の風景写真が多い。
ふつうなら第一次産業(農林水産業)、第二次産業(鉱工業、製造業)、第三次産業(サービス業)に従事して収入を得ます。写真を見ると日本では多いサラリーマンの姿がありません。農業の人はいそうです。(99ページに「国民の8割が農業で食べていけるのも……」という文章がありました)
病院の中庭にある緑の風景写真があります。
先日NHKのテレビ番組『72時間』で、東京のお茶の水にある病院の屋上庭園が紹介されていました。病院ですから、病気についての重たい話もあります。
患者さんたちは緑の植物や植物によって来る昆虫(生きているものたち)に心を許し、気持ちをいやされます。余命宣告を受けた人もいるし、メンタルを病んでいる人もいます。『緑』はだいじです。
アフガニスタンは国土の四分の一が山だそうです。
かなり高い山で、冬は雪が積もる。何万年もかけてつくられた氷河があるそうです。
雪はとけて水になって、川を下って農業用水として利用されます。
(読んでいて、いろいろと昔の日本に似ていると思いました。わたしがこどもだったころの60年ぐらい前の日本です。1965年(昭和40年)ころまでの日本です)
2000年にすさまじい干ばつがあったそうです。(雨が降らない。水不足)
人口の半数以上、約1200万人が干ばつの被害にあい、400万人ぐらいが食べるものが不足して栄養が足らず、100万人ぐらいが食べるものがなくて死んでしまいそう。
おなかがすいて、体力が落ちて病気にかかって死んでしまいます。
医師である中村哲さんは心が苦しかったことでしょう。
『水、水、水』が必要なのです。きれいで清潔な水を飲んで体調を整える。植物も人間も生き物には水が必要なのです。
『井戸を掘る(地下水をくみ上げる)』
ワーカー:労働者のこと。
2000年(平成12年)10月までに:井戸を274か所掘った。
翌年9月までに:660か所掘った。
掘れば、水が出てくるわけです。きっとみんなうれしかったと思います。
108ページにまちへ出稼ぎに行く農民のことが書いてあります。
やはり60年ぐらい前の日本でも、地方の農民は、稲刈りが終わる秋からたんぼでの農作業が始まる春にかけて都会へ出稼ぎに出ていました。わたしの父親もわたしがこどもだったころ、大都市へ働きに行きました。
気候変動のことについて注意書きがしてあります。
地球温暖化の防止です。
もう何年も前から言われ続けていることです。
化石燃料をやめようです。(石炭、石油などです)二酸化炭素が出て、地球をおおってしまって、地球の気温が上昇して、自然が破壊されていきます。
二酸化炭素を出しているのは先進国と呼ばれる国々です。アフガニスタンは先進国ではありません。
このあと、2001年9月11日のアメリカ合衆国同時多発テロ(民間航空機4機がのっとられ爆弾がわりに世界貿易センタービルほかに突っ込んだ。わたしたちの世代はリアルタイムでニュースを観ました。2977人が死亡。2万5000人以上が負傷)をきっかけにして、お金持ちの先進国(アメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、インド、ロシアほか。多国籍軍。お金儲けをする国と言いかえてもいい)が貧乏農業国のアフガニスタンに総攻撃をかけます。アフガニスタンに住む農民は、テロの実行者ではありませんでした。
2001年10月13日に中村哲さんは日本の国会で、アフガニスタンの平和維持を訴えておられます。むずかしい問題です。中村哲さんは、アフガニスタンの農民を中心とした庶民の味方です。結局、民主主義は『多数決』で決まります。(自衛隊を海外派遣する法案は国会で成立しました)
中村哲さんは、日本のアフガニスタン戦争参加に反対、干ばつによる飢餓で苦しんでいるアフガニスタンの国民に食糧支援を訴えます。
中村哲さんの国会での訴えです。『…… 一人の父親、母親としての皆さんに訴える。くりかえすが、大干ばつと(だいかんばつと)飢餓対策(きがたいさく)こそが緊急課題である』
この本を読んでいたころ、晩ごはんどきに、家族と邦画『東京タワー』をテレビで観ていました。リリー・フランキーさんの名作小説の映画化です。中村哲さんと出身が同じ県、福岡県内から東京に出てきた産炭地(さんたんち。炭坑地域)の人間の物語です。
お母さん役の樹木希林さん(きききりんさん)が熱演されていますが、お母さんが常に気にしていることは、(息子が)ちゃんとごはんを食べているだろうかということです。
うちの家族から話があったのですが、母親というものは、いつでもこどもの食事のことを考えているそうです。こどもにごはんをたべさせる。それが、母親の一番の役目だそうです。それ以外のことは、あとまわしでいい。母親はこどもに何をつくって食べさせてやろうかといつも考えているそうです。母親の愛情が感じられる言葉でした。中村哲さんは男性ですが、アフガニスタンの人たちのことを母親のように心配されていたのだと受けとめるのです。
この本のはじまりあたりにあった言葉を再掲します。
アフガニスタン人が願うことです。
『一日3回食事ができること』
2002年(平成14年)『緑の大地計画』をつくり始める。
農民が自力で食べていけるようにする。
夢を追う。毎日少しずつ積み重ねていけば、夢はかなう。
中村哲さんは、土木工学の勉強を始めます。
用水路をつくるための勉強です。
日本の川を参考にする。とくに出身地の九州を流れている川をアフガニスタンの川に重ねて参考にして研究してプランをつくる。
最新技術を用いるのではなく、まだ重機(じゅうき。建設作業用大型工作機械)がなかったときの日本での時代に、どうやって、川から水を引いて用水路をつくったかという手法を調べて、アフガニスタンで同じようにやってみる。
なんでも新しければいいというものでもなさそうです。
コンクリートの壁はつくらない。
『蛇かご』という江戸時代からの工法を用いる。鉄線のかごの中に石を詰めて用水路の両側に並べていく。
用水路の両岸に柳を植えて、柳の根っこで岸を強化する。
乾燥に強い農作物を植える。なんでも研究です。サツマイモ、ソルゴー(イネ科の一年草。モロコシ)、お茶、蚊を退治するための除虫菊(じょちゅうぎく)など。
日本三大あばれ川:(関東)利根川、(四国)吉野川、(福岡県)筑後川(ちくごがわ)
斜め堰(筑後川。山田堰(やまだぜき):右岸と左岸を斜めにせき止める。取水しやすくなす。防水の役割も果たす。
中村哲さんが用水を名付けました。『アーベ・マルワリード(真珠の水)』
細かな工夫がたくさんあります。
中村哲さんは、用水を貫通させることをあきらめません。アフガニスタンの人たちの『命』がかかっている事業です。けして、自分のお金もうけができる事業ではなかったと思います。
人生で大事なのは『お金』ではありません。自分が自分のしたいことのために使うことができる『時間の十分な長さ』です。中村哲さんは、自分のために(アフガニスタンの人たちのためですが、一番は自分のためです)自分がもっている時間を用水路づくりにそそぎこんだのです。
たしか、以前読んだ本で、アフリカの地に井戸をつくるお話がありました。水が出ることで、住民の暮らしが良くなったとありました。
記録をさがしました。出てきました。『みずをくむプリンセス スーザン・ヴァーデ・文 ピーター・H・レイノルズ・絵 さくまゆみこ・訳 さ・え・ら書房』
アフリカで水道設備がないので、水がある場所まで水をくみにいく不便さを教えてくれる絵本です。
ジョージ・バディエルさんという女性の体験がもとになってできたお話だそうです。
ジョージ・バディエルさんは、現在は世界で活躍するファッションモデルですが、こどものころは、西アフリカのブルキナファソという国で、水くみの体験をしたことがあるそうです。
ジョージ・バディエルさんは、水くみの作業がたいへんだったので、いまは、「井戸」をつくる運動をしているそうです。
中村哲さんは、現地の人たちから『カカムラ』と呼ばれていた。親しみをもたれていた。
2010年、アーベ・マリワールド用水路(真珠の水)が完成しました。
作物として、小麦、サツマイモ、玉ねぎ、オレンジ、大根、スイカ、米…… たくさんできます。
酪農(らくのう)と養蜂(ようほう)もできるそうです。よかった。
動物や鳥、昆虫もいます。生き物の楽園です。
まるで、地球誕生の歴史のようです。
命は、水から生まれるのです。
モスク:イスラム教の礼拝堂
マドラサ:学校
ガンベリ砂漠の中につくった芝生と緑と花の公園:ドクターサーブ中村メモリアルパーク
自分の意に沿わない(いにそわない:自分のいうことをきかないので気に入らない)相手は殺してしまえばいいという思考をもつ人間がいます。間違っています。生まれるところからやりなおしたほうがいい。まずは、絵本を読むところから始めるのです。それからいろんな本を読むのです。自分の脳みそを自分で育む(はぐくむ)とか、育てる(そだてる)ことがだいじです。
本のなかには、いろんな世界があって、読むことで、自分が体験したことがない世界を体験できるのです。考えるのです。人間は脳みそで考えて行動する動物です。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t151946
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません