2023年01月20日
ぼくんちのおべんとう 志茂田景樹
ぼくんちのおべんとう 志茂田景樹(しもだ・かげき)・作 平田景(ひらた・けい)・絵 新日本出版社
志茂田景樹さんは昔テレビで何度か見かけましたが最近はお見かけしません。82歳になられています。
絵本を読み終えて、ご自身の体験がベースにあるのだろうと推察しました。
じぶんでおべんとうをつくるという内容の絵本だろうか。
そこから読み始めました。(あたりでした)
タクマが主人公です。
カナエが同級生です。
小学一年生ぐらいに見えます。
遠足みたいな授業で、お昼ごはんです。
自分が小学一年生のときの山登りを思い出しました。
おべんとうは、ほかのこどもたちもみんな『おにぎり』でした。
つくる母親によって、大きさが違ったり、形が違ったりしていたことを覚えています。
ともだちと、おにぎりを交換したりして楽しみました。
絵本は、色がきれいです。
タクマがなげきます。
おべんとうは、しょうがやき弁当で、おかずは、白ごはんのうえにぶた肉のしょうがやきが、のっけてあるだけです。(おかあさんの手ぬきみたいなことが書いてあります。毎回、しょうがやきべんとうだそうです)
家に帰ると母と息子しかいません。母子家庭だろうか。
母親は、自宅で出版の仕事をしているそうです。編集者だろうか。
タクマは、母親に弁当のおかずについて文句を言いますが、現実社会では文句はなかなか言えません。だまってがまんします。息子は母親に気を使うのです。
読んでいる自分は思うのです。
(弁当のおかずに文句(もんく)があったら、自分でつくれ。親を頼るな。こどもだからやらなくていいなんて甘えるなと。)
なんとなく、こどものしつけのための教育図書を読んでいるようです。
祖父母が登場します。
夏休みを祖父母宅で過ごします。でもたった一週間です。(絵本では「一週間も」というような表現で書いてありますが、わたしに言わせれば、たった一週間です。もっといていいよ)
この部分を読んでいて思ったことです。
社会に出て気づいたのですが、祖父母と交流が深い孫というのは、長男とか長女のこどもで、きょうだいの下のほうにいくにつれて、祖父母と孫の交流が薄くなっていくのです。お墓参りに行くのは、長男・長女、次男、次女ぐらいのこどものこども(孫)です。きょうだいの下のほうのこどもと孫は祖父母との交流が薄く、祖父母のお墓参りの体験がなかったりもします。
こちらの絵本のほうは、タクマが祖父母に会うのは、1年ぶりぐらいだそうです。お母さんは、長女ではないのでしょう。
自分は、こどものころ、実父母の両親よりも、父方、母方、両方の祖父母宅に預けられて世話になることが多かったので、お年寄りとの交流が濃厚でした。
今は、自分が祖父母にしてもらったように、自分の孫たちとも接しています。だから孫たちはわたしによくなついてくれています。
タクマはおばあちゃんからおべんとうのつくりかたを習います。
タクマは、いっしょけんめいおべんとうづくりをします。
あたたかい心がこもっている絵本です。
料理というのは、つくる時間が長くて、食べる時間は短い。
母親だから調理が好き、女性だから料理がじょうずということはありません。
母親でも女性でも料理がにがてな人はいます。その代わり、ほかのことがじょうずだったりもします。
最後の絵は、おべんとうを学童保育所で食べている絵でしょう。
もう三十年ぐらい前、うちのこどもたちも学童保育所に預けて自分たち夫婦は、共働きをしていました。
絵を見ながら、うちもこんな時代があったとしみじみしました。
この本は、2022年(令和4年)、去年出たばかりの絵本です。
(おまけ:もう20年以上前につくったおべんとうにまつわる思い出話の文章データがあったので、この絵本の内容に合わせて載せてみます)
『弁当のおかず』
わたしは、小学三年生でした。
学校でお弁当を食べていると、ひとりの男の子がわたしのお弁当を指さして「おかずが、豆しか入っとらーん」と、ばかにしました。
そのとき、わたしはなんのことかわかりませんでした。
すると、まわりにいたこどもたちが、わたしを取り囲んで、わたしのお弁当をながめました。
男の子はさかんに、おそまつなおかずだとはやしたてました。
まわりにいたこどもたちはうつむいて、何も言いませんでした。
みんなだって、同じようなおかずじゃない。
わたしはこの時、生まれて初めて、自分がまずしいということを知りました。
ショックだったのは、わたしをばかにした男の子は、勉強がよくできる子で、勉強ができる子=(イコール)心のやさしい子というわたしがもっていたイメージが、音をたててくずれたことでした。
そんなことがあってから、わたしは、お弁当を食べる時、弁当のふたで、おかずをかくして食べるクセができました。
高校生になって、お弁当を食べている時に友人が、
「どうして、そんなへんなかっこうで食べるんだ?」と聞くので、わけを話しました。
友人は、
「母親がつくってくれたものだ。どうどうと食べればいい」と言ってくれました。
しかし、そのとなりにいた別の友人は、
「シャケが1匹入っているだけじゃないか。そんなもの、おかずじゃない」と言いました。
その後、長い時が流れて、わたしのお弁当についてはげましてくれた友人は、結婚して、しっかり商売をやって家族と生活しています。
反対に、わたしのお弁当をばかにした友人は、社会人になったわたしからお金を借りて、結局1円も返してくれず、今では、行方不明になってしまいました。
そまつなおかずのお弁当をどう評価するかで、その人の未来が見えてくるのかもしれません。
志茂田景樹さんは昔テレビで何度か見かけましたが最近はお見かけしません。82歳になられています。
絵本を読み終えて、ご自身の体験がベースにあるのだろうと推察しました。
じぶんでおべんとうをつくるという内容の絵本だろうか。
そこから読み始めました。(あたりでした)
タクマが主人公です。
カナエが同級生です。
小学一年生ぐらいに見えます。
遠足みたいな授業で、お昼ごはんです。
自分が小学一年生のときの山登りを思い出しました。
おべんとうは、ほかのこどもたちもみんな『おにぎり』でした。
つくる母親によって、大きさが違ったり、形が違ったりしていたことを覚えています。
ともだちと、おにぎりを交換したりして楽しみました。
絵本は、色がきれいです。
タクマがなげきます。
おべんとうは、しょうがやき弁当で、おかずは、白ごはんのうえにぶた肉のしょうがやきが、のっけてあるだけです。(おかあさんの手ぬきみたいなことが書いてあります。毎回、しょうがやきべんとうだそうです)
家に帰ると母と息子しかいません。母子家庭だろうか。
母親は、自宅で出版の仕事をしているそうです。編集者だろうか。
タクマは、母親に弁当のおかずについて文句を言いますが、現実社会では文句はなかなか言えません。だまってがまんします。息子は母親に気を使うのです。
読んでいる自分は思うのです。
(弁当のおかずに文句(もんく)があったら、自分でつくれ。親を頼るな。こどもだからやらなくていいなんて甘えるなと。)
なんとなく、こどものしつけのための教育図書を読んでいるようです。
祖父母が登場します。
夏休みを祖父母宅で過ごします。でもたった一週間です。(絵本では「一週間も」というような表現で書いてありますが、わたしに言わせれば、たった一週間です。もっといていいよ)
この部分を読んでいて思ったことです。
社会に出て気づいたのですが、祖父母と交流が深い孫というのは、長男とか長女のこどもで、きょうだいの下のほうにいくにつれて、祖父母と孫の交流が薄くなっていくのです。お墓参りに行くのは、長男・長女、次男、次女ぐらいのこどものこども(孫)です。きょうだいの下のほうのこどもと孫は祖父母との交流が薄く、祖父母のお墓参りの体験がなかったりもします。
こちらの絵本のほうは、タクマが祖父母に会うのは、1年ぶりぐらいだそうです。お母さんは、長女ではないのでしょう。
自分は、こどものころ、実父母の両親よりも、父方、母方、両方の祖父母宅に預けられて世話になることが多かったので、お年寄りとの交流が濃厚でした。
今は、自分が祖父母にしてもらったように、自分の孫たちとも接しています。だから孫たちはわたしによくなついてくれています。
タクマはおばあちゃんからおべんとうのつくりかたを習います。
タクマは、いっしょけんめいおべんとうづくりをします。
あたたかい心がこもっている絵本です。
料理というのは、つくる時間が長くて、食べる時間は短い。
母親だから調理が好き、女性だから料理がじょうずということはありません。
母親でも女性でも料理がにがてな人はいます。その代わり、ほかのことがじょうずだったりもします。
最後の絵は、おべんとうを学童保育所で食べている絵でしょう。
もう三十年ぐらい前、うちのこどもたちも学童保育所に預けて自分たち夫婦は、共働きをしていました。
絵を見ながら、うちもこんな時代があったとしみじみしました。
この本は、2022年(令和4年)、去年出たばかりの絵本です。
(おまけ:もう20年以上前につくったおべんとうにまつわる思い出話の文章データがあったので、この絵本の内容に合わせて載せてみます)
『弁当のおかず』
わたしは、小学三年生でした。
学校でお弁当を食べていると、ひとりの男の子がわたしのお弁当を指さして「おかずが、豆しか入っとらーん」と、ばかにしました。
そのとき、わたしはなんのことかわかりませんでした。
すると、まわりにいたこどもたちが、わたしを取り囲んで、わたしのお弁当をながめました。
男の子はさかんに、おそまつなおかずだとはやしたてました。
まわりにいたこどもたちはうつむいて、何も言いませんでした。
みんなだって、同じようなおかずじゃない。
わたしはこの時、生まれて初めて、自分がまずしいということを知りました。
ショックだったのは、わたしをばかにした男の子は、勉強がよくできる子で、勉強ができる子=(イコール)心のやさしい子というわたしがもっていたイメージが、音をたててくずれたことでした。
そんなことがあってから、わたしは、お弁当を食べる時、弁当のふたで、おかずをかくして食べるクセができました。
高校生になって、お弁当を食べている時に友人が、
「どうして、そんなへんなかっこうで食べるんだ?」と聞くので、わけを話しました。
友人は、
「母親がつくってくれたものだ。どうどうと食べればいい」と言ってくれました。
しかし、そのとなりにいた別の友人は、
「シャケが1匹入っているだけじゃないか。そんなもの、おかずじゃない」と言いました。
その後、長い時が流れて、わたしのお弁当についてはげましてくれた友人は、結婚して、しっかり商売をやって家族と生活しています。
反対に、わたしのお弁当をばかにした友人は、社会人になったわたしからお金を借りて、結局1円も返してくれず、今では、行方不明になってしまいました。
そまつなおかずのお弁当をどう評価するかで、その人の未来が見えてくるのかもしれません。
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