2022年11月19日
がん患者の語りを聴くということ L・ゴールディ/J・デマレ
がん患者の語りを聴くということ 病棟での心理療法の実践から L・ゴールディ/J・デマレ編 平井正三/鈴木誠 監訳 誠信書房
ネットの『これから出る本』をチェックしていて興味をもったので読み始めます。
わたしは五十代になったとき、これからは、いつあなたはがんですと言われてもおかしくない年齢になったと思いました。
わたしは幸い(さいわい)に六十代になった今もがんですとは言われていませんが油断はしていません。どこか体の調子が悪い時は、がんかもしれないと発想します。
現実には、毎年、知り合いのだれかかれかが、あなたはがんですと言われて治療に入っています。
症状が軽い人もいますし、そうでない人もいます。
命がかかった病気ですから気を使います。
本の中身はもしかしたら、医療関係者向けの専門書なのかもしれません。
(1回目の本読み)
わたしは、実用書は、最初に1ページずつ、ゆっくりめくって最後のページまで到達します。
2004年(日本だと平成16年)にローレンス・ゴールディという人がこの本の『はじめに』の文章を書かれています。イギリスの精神科医です。
第一章から第八章まであります。
けっこう文章量があります。
医師と患者の会話の話ではないのだろうか。
医師が患者の悩みを聴くということだろうか。
病気は万人にふりかかります。
医師自身ががんになることもあります。
『王立国民耳鼻咽喉科病院』という文字があります。
そうか、王様がいる国なんだ。大英帝国です。
(2回目の本読み)
医師たちがとまどっています。
がんという病気の検査・診断・今後の見込みは判断できますが、患者との会話のやりとりがうまくいかないことがあります。
がんの宣告をしたら、まだ癌で死ぬ時期ではないのに、心臓発作で亡くなってしまった例が挙げてあります。『やれることは、もうなにもありません』という言葉を告げたあとしばらくの出来事でした。因果関係は不明です。
立派な業績を残した軍人でも癌の宣告を受けた後は動揺して別人になってしまうようです。
うつ病みたいになってしまいます。
医師も人間です。悩んでいます。
著者は、精神科医の立場で文章をつないでいきます。
読んでいて思ったことです。
自分にも何度かの入院体験があります。
本には、患者が『お荷物(負担になる存在)』のような記述があります。
自分は入院で、病院に収容されて『情けない』という気持ちが湧きました。また、自分は『ごみ』のような存在ではないかとがっかりしました。そして強く『ここにいちゃいけない』と思いました。
本にありますが、病院は多忙です。
患者には、おいてきぼりにされていく空虚な心理があります。
チャプレン(病院付きの牧師)と、病棟看護師長が、まずはがん患者の話し相手になるそうです。
この本の目的が示されています。
『がん患者の治療とケアに心理療法を導入して……』残された日を有意義に過ごしてもらうのです。(最後は亡くなるのです)
がんの告知を受けた後に始まる『がん患者の世界』がある。
この本の読者としての対象者です。緩和ケアに従事する心理職。本件に関心のある医療従事者。内容は指示ではなく、考えるきっかけにしてほしいというものです。
目次で目に着いたことです。
『がんという「砲撃ショック(シェルショック)』(がんの告知は、砲弾を浴びるようなものなのでしょう)
『がんと心理療法の試み』
『良い死』(本を読み終えたとき「良い死」の意味はわかりませんでした。「死」に良いも悪いもないのではないかと思うのです。イギリスの感覚かもしれません)
(つづく)
がん患者は、健康な世界から追い出されて、薬漬けにされるというような記述があります。
そのとおりなのでしょう。身体的にも精神的にも苦しい世界です。
がん患者の心理療法にふれた実践例はこれまでほとんどなかったそうです。
著者はこのあと第一次世界大戦で最前線にいた兵士の心理とがん患者の心理が似ていると分析しています。
死ぬかもしれないという戦地の戦士、そして、がんの診断の告知は本人にとって『破局』の面があると記述されており、読んでいて納得できます。
大きな病院は『死』が日常的にある場所です。『死』に慣れがあります。
医師は、死を迎えるがん患者との語らいのしかたがわからないということもあると書いてあります。
読んでいると、なにやら答えのない設問をなんとか解こうとしている(とこうとしている)ような雰囲気もあります。
がんが見つかって、正常な個人が異常な世界に連れていかれる。
臨床(りんしょう):患者と接して診察・治療をする。
フロイト:オーストリアの精神科医。1856年-1939年。83歳没。人間の心の『無意識』を発見した。(先日読んだ別の本にもこのドクターの名前が書かれてありました。『説教したがる男たち レベッカ・ソルニット ハーン小路恭子・訳 左右社』)
がんで身体をやられるよりも精神をやられてしまう。
戦地で起こる『砲撃ショック』という言葉で表現されています。
いろいろな形態のがんが出てきます。地位が高い人でも(大学の学長、年配の医師)でもがんになります。
声をなくす。(喉(のど)の部分のがん)
乳がん。
大腸がん。
白血病。
直ったと思っても再発があります。
ひとり暮らしでがんになったらつらそうです。
励まされても『死刑宣告』を受けたと落ち込んでいる患者さんがいます。
混乱が発生します。
家に帰りたいと願っても医師の指示で帰れず病院で無念の死を迎える患者がいます。
書くことで救われることはあります。(あとに残る人たちに向けての手紙を書く。鹿児島県の知覧(ちらん)で読んだ第二次世界大戦後中の特攻隊員の手紙を思い出しました)
話すことで楽になれるということもあります。
がん患者は人生とか命について『考える人』になる。
39ページまで読んで、再び、なにかしら、答えのない問題を解こうとする(とこうとする)取り組みに思えてきました。
(つづく)
がんはうつらないのに(伝染)うつるかのように思われる。
がん患者は、退院すると、人に避けられる。
社会的スティグマ:差別・偏見の対象。
歳をとってからがんになるのと、まだ若いのにがんになるのとでは、本人の意識に大きな違いがあるようです。
がんの宣告は、死の宣告として受けとめられる。
うつになる。
ケアしなければならない。(手当て。世話、配慮、気配り)
医師は診断・治療はできるけれど、患者の心のケアまではできない。
医師は、患者の家族としてではなく、医師として患者と接している。
医師の本音が書いてあります。患者とは距離をおきたい。その場を離れたい。
心理療法士の登場です。
心理療法士:臨床心理士。
ただ、読んでいて、心理療法士という職に好感はもてません。お金をもらって、人の、どちらかといえば人に言いたくないような話を聞いてくる人です。立場の強い者として、立場の弱い患者の話を聞いているというような上下関係が見えます。患者としては、見下されたくない。憐れみはいらない。(あわれみ:同情。かわいそうと思うこと)
心理療法士についての条件が列挙されます。守秘義務、恒常性、面接予約を守る、初回面接…… と続きます。
いろいろな患者がいます。
20歳の学生。脳腫瘍があります。本人は医学生でした。自殺の可能性ありです。
読んでいて、人間の命のはかなさを感じました。
五十代になるとわかるのですが、高校の同窓会の話などがくると、中学・高校の同級生とか、先輩、後輩のうちの何人かがすでに亡くなっていることを知ります。病気や事故、自然災害や事件、この世は危険がいっぱいです。生き続けていくためには『生命運』が必要だと歳をとると感じます。
学校で、今教室にいる全員が、長寿で90歳ぐらいまで生きられるわけではないのです。
外陰がん(がいいんがん):そんなところにまでがんができるのか。初めて知りました。女性の患者です。がんが再発しています。海外旅行が趣味です。亡くなっています。
乳がんの若い女性患者です。
なんだろう。読んでいて、生きているのに、死んでいるような状態です。なにをしても意味がないとあります。それは、患者の夫の気持ちです。
67ページまで読んできて感じたことです。自分だったらどうするだろう。
がんの宣告を受けて余命を言われたら『しゃーない』と思うしかない。
しょうがないのです。自分でどうすることもできません。
あきらめます。
では、次にどう考えるだろう。ふたつあります。
①残された時間で、自分がやりたいことに優先順位を付けて実行する。(そういう映画が、洋画でも邦画でもありました)
②いつもどおりの暮らしを送って静かにフェードアウトしていく。(消えていく)
ここまで考えて思いついたことがあります。
『人生は「時間」だ』
けして『お金』ではありません。
自分に与えられた時間を自分が管理・運用していく。
がんの告知を受ける前に、自分がやりたいことをやり続けていく。
そんなことを、今の時点で考えました。
さらに考えたこととして、来年の今ごろも自分が生きているという保障はどこにもない。
だから、人生に悔いのないように、やりたいことをやりたいときにやれる範囲内でやりとげていく。
それは、自分だけではなくて、自分のこどもも同じです。
こどもが行きたいという学校に進学させて、働きたいという仕事をさせて、結婚したいという相手と結婚させて、常にこどもの応援をしていく。
親として、こどもの進路をふさぐようなことはしない。
それでもうまくいかなかったのなら自分の『運命』としてあきらめる。
(つづく)
127ページまで読みました。
苦悩や苦痛から救われるために『文学』や『音楽』や『絵画芸術』がある。
娯楽がある。『お笑い』『映画』『映像文化』『ダンス』
いろいろな『表現』がある。
現場では現実回避の雰囲気がある。
がん患者との長い会話、親密な会話、厄介な質問に距離を置きたいという医療事務関係者の本音(ほんね)があります。
向こう側(患者側)の人とこちら側の人(がん患者ではない)という区分けがあります。
がん患者との会話は気をつかいます。
『ありがとう』と言わない、言ってくれないがん患者がいます。
(感謝がない患者)世話をするほうも人間です。困ります。
小学生ぐらいのこどもがいる母親のがん患者がいます。
母親には回復の見込みがありません。
がん患者と共感ができない医師は現実にいます。
がん患者は腹をたててもどうすることもできません。
他人同士という関係の場合、相手を心底から思うことはむずかしい。
医療関係者の大切な姿勢として『聴くこと』とあります。
家族や友人も同様でしょう。
次にがんの部位と会話の対応などについて記述があります。
脳にできるがん。本人に症状の認識ができないそうです。脳腫瘍の患者は、身体的には健康そうに見える。
のどのがん。声の機能が失われる。筆談はできても複数の人との同時会話ができなくなる。一対一の会話はできても複数との会話はできなくなる。
舌がん(ぜつがん)。話す仕事ができなくなる。
血液とリンパ系のがん。こどもの白血病について書いてあります。こども本人がというよりも、こどもの病気のことで、両親がけんかをする。父親が母親に暴力をふるう。こどもは両親の和解に心を注ぐ。
血液やリンパ系のがんは若い人によく起こるそうです。オリンピックの女子水泳選手のことが思い出されました。
生殖器、尿、排せつ系のがん。去勢がらみもあります。夫婦は赤ちゃんがほしい。
子宮頸がん(しきゅうけいがん)の事例です。がん患者の母親が息子を虐待しています。父親はいませんが、母親と関係がある同居人の男がいます。息子からみれば、頭がおかしくなりそうな状況です。
乳がんの事例です。がん患者は主治医に看護師の悪口を言います。悪いことはすべて看護師のせいにします。でも最後は心優しい人になります。もう自分は死ぬと、死ぬことを受け入れたからです。看護師に謝罪して亡くなりました。
がん患者の家庭では、家庭内暴力が発生したり、宗教のことで対立したりとか、つらいものがあります。
生きることがつらくなってくるような環境におかれている人たちがいることがわかります。
自分も入院体験があるのですが、ベッドでずーっとあおむけに寝ているわけです。
もう忘れかけているのですが、安静を保つためのしばりとして、最初は、第一段階として、ベッドから降りてはいけない。次に第二段階として、病室を出てはいけない。第三段階が、病棟のフロアーから上下階に移動してはいけない。脳神経外科で手術を受けた時は、そんな段階がありました。
この本では、がん患者のそんな退屈な一日が心に与える影響が書いてあります。痛みやつらさのことで心がいっぱいになるのです。
思い出してみると、自分の時は、ベッドから降りてはいけない時は、背中のあちこちが痛くなるので、15分おきぐらいに右肩を上げたり、腰を上げたりと、体の一部分を持ち上げる。そんなことを楽しみにして一日を過ごしながら天井を見上げていました。
同一フロアー内の移動が可能になったときは、1時間半おきに、散歩と称して、廊下を一周、ゆっくり回って、途中、食堂のような面談スペースで休憩をして時間を経過させていました。
自由を制限されているわけで、ある意味収監されているような感じがあります。
書いてある身体感覚のことは、病気を体験したことがない人にはわからないと思います。
相手の立場にたって面談することはむずかしい。
耳鳴りのことが書いてあります。
わたしも耳鳴りに悩まされました。
耳鼻科ほかを受診して検査を繰り返してもいずこでも異常なしと言われ悩みました。
なんだか詐病(さびょう。仮病)扱いされたこともあります。
そのとき思ったのは、医療機関というのは、おとなしくて、すんなり医療費を支払ってくれる患者はウェルカムで、うっとおしい受診者は突き放すとか、関知しないという姿勢なのだなということでした。とかくこの世は金もうけ優先という現実があります。おとなしくて金払のいい、おいしい患者を求めておられることもなきにしもあらずです。
最終的には、脳内の毛細血管から少しずつ血液が脳内にしみ出していたことが耳鳴りの原因だとわかりました。頭蓋骨に穴をあけて、たまっていた血液を抜いてもらって耳鳴りがなくなりました。
赤ちゃんの心のもちようは母親の心のもちようと同じになるそうです。
ピンチでも母親がゆったりしていれば、赤ちゃんも落ち着いている。
ピンチで母親が取り乱すと、赤ちゃんも不安で泣く。
ごもっともです。
『がん恐怖』があるそうです。治療はうまくいっているのに、ご本人はイライラしている。
実例紹介は、ひとつひとつがドラマのようです。
医師は誤解しているとあります。
医師は、人から、自分は情け深いいい人間だと思われていると思い込んでいる。
(事実はそうではない。むしろ反対に見られている)
入院病棟は、夜は、戦時中の野戦病院のようになることもあります。
入院患者たちは寝ていません。眠れないのです。ときには叫んだり、徘徊(はいかい。廊下をうろつく)したりもします。怖いです。(こわいです)
乳がん患者さんは、夫との関係で悩むこともあるようです。
たいへんです。
がん患者さんが、覚悟を決める(死ぬということで)ときがあります。
がん患者は家に帰りたい。
家で死を迎えたい。
されど、ある人は、家での暮らしに満足したあと、病院に再入院して亡くなっています。
家にいた時に、ご家族としっかり会話をされて、意思疎通をして、思い残すことがない気持ちになられたのでしょう。病院に戻られて亡くなっています。
在宅治療は家族に負担と迷惑をかけるから、もういい。もう十分親族と話ができたからもういい。そう思われたのだろうか。たぶんそう思われたのでしょう。
がん患者は、自分が死んだあと、残される家族のために何をしたらいいのかを考えて、在宅中にご家族とよく話し合いをされたのでしょう。
ご自宅で、ご親族に生活の引継ぎをされたのでしょう。
病院で、薬漬けになる前に、お身内に伝えておきたいことがあったのでしょう。
課題が提示されています。
『看護師や医師には権力が与えられており……』
医療スタッフは勘違いをすることがある。患者とその家族は、医療スタッフに気を使っている。医療スタッフはそのことに気づいてほしいというメッセージがあります。
がん患者は、弱い立場にあります。病院で世話になる家族も同様です。
医療スタッフは、感情がにぶくなる危険性があると注意喚起を促されています。(うながされています)
セッション:自分は素人なので、よくわからないのですが、ひとつの治療期間のことをいうようです。
家族がいない人の苦悩があります。
人生の終わりにあたって、相談相手となる家族がいない。
医療スタッフは、相談相手になる余裕はありません。
親族はいるけれど、いろいろあって、付き合いが途切れていて交流がない。
どうしたらいいのだろう。
同じがんで入院している人たちと会話をして心を休めることができればいいのにと思いますが、うまくいくときといかないときがありそうです。
視野を広げれば、がん以外の病気でもありそうなお話です。
読み終えました。
複数の人たちが翻訳をして、固めてある本でした。
旅をするように、本を読む時間帯でした。
今年読んで良かった一冊です。
印象に残った文節の要点として『死とは、心臓が止まり、脳が死ぬときです。』(それまで、せいいっぱい生きたい)『がんは、死と同等視されるため……死の宣告以外のなにものではないと感じさせる…… 『断頭台への招待』……』(なにくそ、負けてたまるか!と思いたい)
ネットの『これから出る本』をチェックしていて興味をもったので読み始めます。
わたしは五十代になったとき、これからは、いつあなたはがんですと言われてもおかしくない年齢になったと思いました。
わたしは幸い(さいわい)に六十代になった今もがんですとは言われていませんが油断はしていません。どこか体の調子が悪い時は、がんかもしれないと発想します。
現実には、毎年、知り合いのだれかかれかが、あなたはがんですと言われて治療に入っています。
症状が軽い人もいますし、そうでない人もいます。
命がかかった病気ですから気を使います。
本の中身はもしかしたら、医療関係者向けの専門書なのかもしれません。
(1回目の本読み)
わたしは、実用書は、最初に1ページずつ、ゆっくりめくって最後のページまで到達します。
2004年(日本だと平成16年)にローレンス・ゴールディという人がこの本の『はじめに』の文章を書かれています。イギリスの精神科医です。
第一章から第八章まであります。
けっこう文章量があります。
医師と患者の会話の話ではないのだろうか。
医師が患者の悩みを聴くということだろうか。
病気は万人にふりかかります。
医師自身ががんになることもあります。
『王立国民耳鼻咽喉科病院』という文字があります。
そうか、王様がいる国なんだ。大英帝国です。
(2回目の本読み)
医師たちがとまどっています。
がんという病気の検査・診断・今後の見込みは判断できますが、患者との会話のやりとりがうまくいかないことがあります。
がんの宣告をしたら、まだ癌で死ぬ時期ではないのに、心臓発作で亡くなってしまった例が挙げてあります。『やれることは、もうなにもありません』という言葉を告げたあとしばらくの出来事でした。因果関係は不明です。
立派な業績を残した軍人でも癌の宣告を受けた後は動揺して別人になってしまうようです。
うつ病みたいになってしまいます。
医師も人間です。悩んでいます。
著者は、精神科医の立場で文章をつないでいきます。
読んでいて思ったことです。
自分にも何度かの入院体験があります。
本には、患者が『お荷物(負担になる存在)』のような記述があります。
自分は入院で、病院に収容されて『情けない』という気持ちが湧きました。また、自分は『ごみ』のような存在ではないかとがっかりしました。そして強く『ここにいちゃいけない』と思いました。
本にありますが、病院は多忙です。
患者には、おいてきぼりにされていく空虚な心理があります。
チャプレン(病院付きの牧師)と、病棟看護師長が、まずはがん患者の話し相手になるそうです。
この本の目的が示されています。
『がん患者の治療とケアに心理療法を導入して……』残された日を有意義に過ごしてもらうのです。(最後は亡くなるのです)
がんの告知を受けた後に始まる『がん患者の世界』がある。
この本の読者としての対象者です。緩和ケアに従事する心理職。本件に関心のある医療従事者。内容は指示ではなく、考えるきっかけにしてほしいというものです。
目次で目に着いたことです。
『がんという「砲撃ショック(シェルショック)』(がんの告知は、砲弾を浴びるようなものなのでしょう)
『がんと心理療法の試み』
『良い死』(本を読み終えたとき「良い死」の意味はわかりませんでした。「死」に良いも悪いもないのではないかと思うのです。イギリスの感覚かもしれません)
(つづく)
がん患者は、健康な世界から追い出されて、薬漬けにされるというような記述があります。
そのとおりなのでしょう。身体的にも精神的にも苦しい世界です。
がん患者の心理療法にふれた実践例はこれまでほとんどなかったそうです。
著者はこのあと第一次世界大戦で最前線にいた兵士の心理とがん患者の心理が似ていると分析しています。
死ぬかもしれないという戦地の戦士、そして、がんの診断の告知は本人にとって『破局』の面があると記述されており、読んでいて納得できます。
大きな病院は『死』が日常的にある場所です。『死』に慣れがあります。
医師は、死を迎えるがん患者との語らいのしかたがわからないということもあると書いてあります。
読んでいると、なにやら答えのない設問をなんとか解こうとしている(とこうとしている)ような雰囲気もあります。
がんが見つかって、正常な個人が異常な世界に連れていかれる。
臨床(りんしょう):患者と接して診察・治療をする。
フロイト:オーストリアの精神科医。1856年-1939年。83歳没。人間の心の『無意識』を発見した。(先日読んだ別の本にもこのドクターの名前が書かれてありました。『説教したがる男たち レベッカ・ソルニット ハーン小路恭子・訳 左右社』)
がんで身体をやられるよりも精神をやられてしまう。
戦地で起こる『砲撃ショック』という言葉で表現されています。
いろいろな形態のがんが出てきます。地位が高い人でも(大学の学長、年配の医師)でもがんになります。
声をなくす。(喉(のど)の部分のがん)
乳がん。
大腸がん。
白血病。
直ったと思っても再発があります。
ひとり暮らしでがんになったらつらそうです。
励まされても『死刑宣告』を受けたと落ち込んでいる患者さんがいます。
混乱が発生します。
家に帰りたいと願っても医師の指示で帰れず病院で無念の死を迎える患者がいます。
書くことで救われることはあります。(あとに残る人たちに向けての手紙を書く。鹿児島県の知覧(ちらん)で読んだ第二次世界大戦後中の特攻隊員の手紙を思い出しました)
話すことで楽になれるということもあります。
がん患者は人生とか命について『考える人』になる。
39ページまで読んで、再び、なにかしら、答えのない問題を解こうとする(とこうとする)取り組みに思えてきました。
(つづく)
がんはうつらないのに(伝染)うつるかのように思われる。
がん患者は、退院すると、人に避けられる。
社会的スティグマ:差別・偏見の対象。
歳をとってからがんになるのと、まだ若いのにがんになるのとでは、本人の意識に大きな違いがあるようです。
がんの宣告は、死の宣告として受けとめられる。
うつになる。
ケアしなければならない。(手当て。世話、配慮、気配り)
医師は診断・治療はできるけれど、患者の心のケアまではできない。
医師は、患者の家族としてではなく、医師として患者と接している。
医師の本音が書いてあります。患者とは距離をおきたい。その場を離れたい。
心理療法士の登場です。
心理療法士:臨床心理士。
ただ、読んでいて、心理療法士という職に好感はもてません。お金をもらって、人の、どちらかといえば人に言いたくないような話を聞いてくる人です。立場の強い者として、立場の弱い患者の話を聞いているというような上下関係が見えます。患者としては、見下されたくない。憐れみはいらない。(あわれみ:同情。かわいそうと思うこと)
心理療法士についての条件が列挙されます。守秘義務、恒常性、面接予約を守る、初回面接…… と続きます。
いろいろな患者がいます。
20歳の学生。脳腫瘍があります。本人は医学生でした。自殺の可能性ありです。
読んでいて、人間の命のはかなさを感じました。
五十代になるとわかるのですが、高校の同窓会の話などがくると、中学・高校の同級生とか、先輩、後輩のうちの何人かがすでに亡くなっていることを知ります。病気や事故、自然災害や事件、この世は危険がいっぱいです。生き続けていくためには『生命運』が必要だと歳をとると感じます。
学校で、今教室にいる全員が、長寿で90歳ぐらいまで生きられるわけではないのです。
外陰がん(がいいんがん):そんなところにまでがんができるのか。初めて知りました。女性の患者です。がんが再発しています。海外旅行が趣味です。亡くなっています。
乳がんの若い女性患者です。
なんだろう。読んでいて、生きているのに、死んでいるような状態です。なにをしても意味がないとあります。それは、患者の夫の気持ちです。
67ページまで読んできて感じたことです。自分だったらどうするだろう。
がんの宣告を受けて余命を言われたら『しゃーない』と思うしかない。
しょうがないのです。自分でどうすることもできません。
あきらめます。
では、次にどう考えるだろう。ふたつあります。
①残された時間で、自分がやりたいことに優先順位を付けて実行する。(そういう映画が、洋画でも邦画でもありました)
②いつもどおりの暮らしを送って静かにフェードアウトしていく。(消えていく)
ここまで考えて思いついたことがあります。
『人生は「時間」だ』
けして『お金』ではありません。
自分に与えられた時間を自分が管理・運用していく。
がんの告知を受ける前に、自分がやりたいことをやり続けていく。
そんなことを、今の時点で考えました。
さらに考えたこととして、来年の今ごろも自分が生きているという保障はどこにもない。
だから、人生に悔いのないように、やりたいことをやりたいときにやれる範囲内でやりとげていく。
それは、自分だけではなくて、自分のこどもも同じです。
こどもが行きたいという学校に進学させて、働きたいという仕事をさせて、結婚したいという相手と結婚させて、常にこどもの応援をしていく。
親として、こどもの進路をふさぐようなことはしない。
それでもうまくいかなかったのなら自分の『運命』としてあきらめる。
(つづく)
127ページまで読みました。
苦悩や苦痛から救われるために『文学』や『音楽』や『絵画芸術』がある。
娯楽がある。『お笑い』『映画』『映像文化』『ダンス』
いろいろな『表現』がある。
現場では現実回避の雰囲気がある。
がん患者との長い会話、親密な会話、厄介な質問に距離を置きたいという医療事務関係者の本音(ほんね)があります。
向こう側(患者側)の人とこちら側の人(がん患者ではない)という区分けがあります。
がん患者との会話は気をつかいます。
『ありがとう』と言わない、言ってくれないがん患者がいます。
(感謝がない患者)世話をするほうも人間です。困ります。
小学生ぐらいのこどもがいる母親のがん患者がいます。
母親には回復の見込みがありません。
がん患者と共感ができない医師は現実にいます。
がん患者は腹をたててもどうすることもできません。
他人同士という関係の場合、相手を心底から思うことはむずかしい。
医療関係者の大切な姿勢として『聴くこと』とあります。
家族や友人も同様でしょう。
次にがんの部位と会話の対応などについて記述があります。
脳にできるがん。本人に症状の認識ができないそうです。脳腫瘍の患者は、身体的には健康そうに見える。
のどのがん。声の機能が失われる。筆談はできても複数の人との同時会話ができなくなる。一対一の会話はできても複数との会話はできなくなる。
舌がん(ぜつがん)。話す仕事ができなくなる。
血液とリンパ系のがん。こどもの白血病について書いてあります。こども本人がというよりも、こどもの病気のことで、両親がけんかをする。父親が母親に暴力をふるう。こどもは両親の和解に心を注ぐ。
血液やリンパ系のがんは若い人によく起こるそうです。オリンピックの女子水泳選手のことが思い出されました。
生殖器、尿、排せつ系のがん。去勢がらみもあります。夫婦は赤ちゃんがほしい。
子宮頸がん(しきゅうけいがん)の事例です。がん患者の母親が息子を虐待しています。父親はいませんが、母親と関係がある同居人の男がいます。息子からみれば、頭がおかしくなりそうな状況です。
乳がんの事例です。がん患者は主治医に看護師の悪口を言います。悪いことはすべて看護師のせいにします。でも最後は心優しい人になります。もう自分は死ぬと、死ぬことを受け入れたからです。看護師に謝罪して亡くなりました。
がん患者の家庭では、家庭内暴力が発生したり、宗教のことで対立したりとか、つらいものがあります。
生きることがつらくなってくるような環境におかれている人たちがいることがわかります。
自分も入院体験があるのですが、ベッドでずーっとあおむけに寝ているわけです。
もう忘れかけているのですが、安静を保つためのしばりとして、最初は、第一段階として、ベッドから降りてはいけない。次に第二段階として、病室を出てはいけない。第三段階が、病棟のフロアーから上下階に移動してはいけない。脳神経外科で手術を受けた時は、そんな段階がありました。
この本では、がん患者のそんな退屈な一日が心に与える影響が書いてあります。痛みやつらさのことで心がいっぱいになるのです。
思い出してみると、自分の時は、ベッドから降りてはいけない時は、背中のあちこちが痛くなるので、15分おきぐらいに右肩を上げたり、腰を上げたりと、体の一部分を持ち上げる。そんなことを楽しみにして一日を過ごしながら天井を見上げていました。
同一フロアー内の移動が可能になったときは、1時間半おきに、散歩と称して、廊下を一周、ゆっくり回って、途中、食堂のような面談スペースで休憩をして時間を経過させていました。
自由を制限されているわけで、ある意味収監されているような感じがあります。
書いてある身体感覚のことは、病気を体験したことがない人にはわからないと思います。
相手の立場にたって面談することはむずかしい。
耳鳴りのことが書いてあります。
わたしも耳鳴りに悩まされました。
耳鼻科ほかを受診して検査を繰り返してもいずこでも異常なしと言われ悩みました。
なんだか詐病(さびょう。仮病)扱いされたこともあります。
そのとき思ったのは、医療機関というのは、おとなしくて、すんなり医療費を支払ってくれる患者はウェルカムで、うっとおしい受診者は突き放すとか、関知しないという姿勢なのだなということでした。とかくこの世は金もうけ優先という現実があります。おとなしくて金払のいい、おいしい患者を求めておられることもなきにしもあらずです。
最終的には、脳内の毛細血管から少しずつ血液が脳内にしみ出していたことが耳鳴りの原因だとわかりました。頭蓋骨に穴をあけて、たまっていた血液を抜いてもらって耳鳴りがなくなりました。
赤ちゃんの心のもちようは母親の心のもちようと同じになるそうです。
ピンチでも母親がゆったりしていれば、赤ちゃんも落ち着いている。
ピンチで母親が取り乱すと、赤ちゃんも不安で泣く。
ごもっともです。
『がん恐怖』があるそうです。治療はうまくいっているのに、ご本人はイライラしている。
実例紹介は、ひとつひとつがドラマのようです。
医師は誤解しているとあります。
医師は、人から、自分は情け深いいい人間だと思われていると思い込んでいる。
(事実はそうではない。むしろ反対に見られている)
入院病棟は、夜は、戦時中の野戦病院のようになることもあります。
入院患者たちは寝ていません。眠れないのです。ときには叫んだり、徘徊(はいかい。廊下をうろつく)したりもします。怖いです。(こわいです)
乳がん患者さんは、夫との関係で悩むこともあるようです。
たいへんです。
がん患者さんが、覚悟を決める(死ぬということで)ときがあります。
がん患者は家に帰りたい。
家で死を迎えたい。
されど、ある人は、家での暮らしに満足したあと、病院に再入院して亡くなっています。
家にいた時に、ご家族としっかり会話をされて、意思疎通をして、思い残すことがない気持ちになられたのでしょう。病院に戻られて亡くなっています。
在宅治療は家族に負担と迷惑をかけるから、もういい。もう十分親族と話ができたからもういい。そう思われたのだろうか。たぶんそう思われたのでしょう。
がん患者は、自分が死んだあと、残される家族のために何をしたらいいのかを考えて、在宅中にご家族とよく話し合いをされたのでしょう。
ご自宅で、ご親族に生活の引継ぎをされたのでしょう。
病院で、薬漬けになる前に、お身内に伝えておきたいことがあったのでしょう。
課題が提示されています。
『看護師や医師には権力が与えられており……』
医療スタッフは勘違いをすることがある。患者とその家族は、医療スタッフに気を使っている。医療スタッフはそのことに気づいてほしいというメッセージがあります。
がん患者は、弱い立場にあります。病院で世話になる家族も同様です。
医療スタッフは、感情がにぶくなる危険性があると注意喚起を促されています。(うながされています)
セッション:自分は素人なので、よくわからないのですが、ひとつの治療期間のことをいうようです。
家族がいない人の苦悩があります。
人生の終わりにあたって、相談相手となる家族がいない。
医療スタッフは、相談相手になる余裕はありません。
親族はいるけれど、いろいろあって、付き合いが途切れていて交流がない。
どうしたらいいのだろう。
同じがんで入院している人たちと会話をして心を休めることができればいいのにと思いますが、うまくいくときといかないときがありそうです。
視野を広げれば、がん以外の病気でもありそうなお話です。
読み終えました。
複数の人たちが翻訳をして、固めてある本でした。
旅をするように、本を読む時間帯でした。
今年読んで良かった一冊です。
印象に残った文節の要点として『死とは、心臓が止まり、脳が死ぬときです。』(それまで、せいいっぱい生きたい)『がんは、死と同等視されるため……死の宣告以外のなにものではないと感じさせる…… 『断頭台への招待』……』(なにくそ、負けてたまるか!と思いたい)
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