2022年06月28日

江戸時代の瀬戸内海交通 倉知克直

江戸時代の瀬戸内海交通 倉知克直(くらち・かつなお) 吉川弘文館

 昔、四国香川県の高松港から小豆島(しょうどじま)にある土庄港(とのしょうこう)をフェリーで往復したことがあります。小豆島では一泊しました。
 フェリーの甲板から瀬戸内海をながめながら思ったことです。
 瀬戸内海は、海というよりも湖のようだ。以前何度か観たことがある栃木県日光市の山奥にある中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)の湖面に似ている。
 瀬戸内海は、静かで、穏やかな(おだやかな)海面でした。

 その後、安芸の宮島(広島県)を数回訪れ、あわせて、広島県尾道市などを自家用車で巡って旅をしたときになどに瀬戸内海を見ました。

 歴史の本や小説を読むと、昔は、船が、現在の車の役割を果たしていたのだと理解できます。
 海上交通を利用して移動することが移動しやすい手段だったのです。

 そんなもろもろのことを考えていたころにこの本と出会いました。
 読む意欲が生まれたので、読んでみます。

(つづく)

 船と言えば、今年思いだすのは、知床半島遊覧船沈没事故です。
 映像では邦画「男はつらいよ フーテンの寅さん」の知床旅情とか、東野&岡村の旅猿ロケのシーンを思い出します。それほど、危険な海域とは思えませんでした。
 信頼を裏切られた感じがあります。事業主の脳みその中には、金のためという意識しかありません。この事故は、全国の同業者へのイメージダウンにもつながりました。

 まず、1回目の本読みです。ゆっくり全ページをめくります。
 この本では最初に書いてある文章が気に入りました。
 『瀬戸内海は古くからヒトやモノが行き交い、知識と文化が交流する場であった……(さらに東南アジアの世界とも直接結びつきがあったと記述は続きます)』

 豊臣秀吉、徳川家康の国内統一後、日本列島を江戸と大阪を結んで船で回る東廻り航路(ひがしまわりこうろ。1670年整備)、西廻り航路(1672年整備)ができた。
 
 先日千鳥の「相席食堂」という番組でダンサーの菅原小春さんという女性が旅をした『牛窓』という地名が本に出てきます。(岡山県瀬戸内市牛窓町うしまど)菅原小春さんはなんだか激しい人でした。びっくりして笑いました。

 38ページあたりをながめていて、自分が生まれて初めての記憶が『海』から始まっていることを思い出しました。
 たぶんまだ4歳半ぐらいでした。海のそばにある家で暮らしていました。

 48ページあたりには、海運事業にからむお金の話が書いてあります。
 日本郵船のような株式を思い出します。

 52ページに『湊(みなと。港)』をもたない藩の船と蔵本とあります。
港は、現在の鉄道駅のようなものだろうとイメージが湧きました。
 海難事故は、交通事故のようなものでしょう。
 海難事故に関して考えたのことは、お金もうけも命がけです。
 
 村上水軍とか九鬼水軍(くきすいぐん)、壇ノ浦の源平合戦などが思い浮かびます。
 
 ページをめくっていると、海難事故の歴史書を見ているようでもあります。
 ジョン万次郎とか音吉を思い出します。

 ジョン万次郎:1827年(江戸時代)-1898年(明治31年)71歳没。高知県出身。英語通訳として江戸幕府で働く。14歳のときに漁師仕事で漂流、ハワイを経由して、アメリカ合衆国に渡り、その後24歳ぐらいで帰国。アメリカ合衆国の捕鯨船の船長に養子のようにして育ててもらった。1860年に咸臨丸(かんりんまる)に乗船して、勝海舟の補佐を務める。坂本龍馬に米国のことを教えた。

 音吉(おときち):1819年(江戸時代)-1867年(1868年が明治元年)49歳没。初めてイギリスに帰化した日本人。現在の愛知県知多郡美浜町生まれ。1832年13歳ぐらいのころに14か月間太平洋を東に漂流。アメリカ合衆国のインディアンもしくは、イヌイットに救助される。その後、イギリス船に奴隷として売り飛ばされてイギリスに移り住んだ。1837年に日本に帰国をしようとしたが、三浦半島付近で乗船していた船が、江戸幕府の砲撃を受けた。その後いろいろあって、帰国をあきらめて、シンガポールで亡くなっている。福沢諭吉と面識あり。

 自分なりに思うことは、江戸幕府は、漂流者を、外国の文化をもちこむ危険な人物としており、基本的に漂流者の帰国を拒んでいます。
 人を人とも思わない。人よりも組織(江戸幕府)の維持優先です。
 たぶんほかにもいたであろうと思われる漂流者たちも家族に再会したかったことでしょう。

 191ページに米の輸送とあります。
 米どころ北陸のお米を、船を使って、全国に運ばねばなりません。
 あわせて、全国各地の名産品、文化とか技術とか情報とかも流通させます。
 塩、海産物、材木、石材、農作物、手工業製品などと書かれています。

 あとがきには、筆者は、海が好きで、岡山県に41年間住んでいると書いてあります。
 
 (つづく)

 さて、2回目の本読みをします。
 
 船は、帆船です(はんせん)。風の力によって進みます。いまどきのエコロジー(環境に優しいエネルギーです)
 木綿帆(もめんでつくられたほ)と筵帆(むしろでつくられたほ)があります。
 北前船(きたまえせん。日本海海運)は、北海道から肥料となるニシンを運んでいたそうです。

 海難事故の数は14年間に600件近いとあります。年間43件ぐらいです。天候が良くない時が多かったのでしょう。
 
 いま、61ページまで読んだところですが、おもに、岡山県の歴史です。
 戦国時代のことが書いてあります。
 やはり、戦争は、まちを衰退させます。
 朝鮮半島との交流が盛んだったことがわかります。1624年(関ケ原の合戦が1600年)に朝鮮からの使節団を各藩の接待で受け入れています。使節団は何度も日本を訪れています。遣唐使とか遣隋使方式の反対の立場で日本が外国を受け入れていたようです。
 先日動画配信サービスで邦画「関ケ原」を観たのですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵とか、毛利家のこととか、ほかのことと重なる記事があります。
 熊本県・長崎県の天草の乱(あまくさのらん1637年)があります。島原城は見学したことがありませんが、天草の富岡城は見学したことがあります。ぼんやりグーグルマップを見ていたのですが、天草四郎時貞が島原へ行くために乗船した地という場所があり、自分は中学生のときにその場所に立っていたことがあるということに、半世紀以上たった今ごろになって気がつきました。オレンジ色の夕日が美しいところでした。
 江戸幕府は、キリスト教を布教しようとするポルトガルと国交を断絶して、キリスト教の布教はしないオランダと交易を続けます。
 
 当時の港のつくりについて、細かな情報があります。
 読んでいて、ああ、こういう世界があるのかという発見があります。

 加子とか、水主(かこ):水夫のこと、船員

 船の売買が幕府に管理されています。
 なんとなく、役人と商人との間で、賄賂のやりとりがありそうです。(わいろ:不正行為の代償として金銭等のやりとりをする)
 
 池田恒興(いけだ・つねおき):織田家重鎮。1536年-1584年。49歳没。犬山城主、大垣城主など。

 津山藩:岡山県津山市。

 宇喜田秀家(うきたひでいえ):1572年-1655年。安土桃山時代の武将。
 
 海難事故の記述が続きます。
 木造船です。
 板子一枚下は地獄ともいいます。(いたこいちまいしたはじごく。海の事故は怖い。危険です。その分、給与は良かったのでしょう。たぶん)
 気象予想が大事です。
 台風が海難の一番の原因でしょう。夏から秋が危ない。
 幕府や藩の役割は、船の安全運航推進です。

 助け舟を出すとあります。
 救助を頼まれたら助けるのです。
 法令が必要です。
 
 克明な遭難の記録が残っているようです。
 米の運搬船が主な輸送船です。船が大型になるほど操作がむずかしい。
 ニシンというのは、食べ物として使うのではなく、肥料として使うことは初めて知りました。北海道小樽の鰊御殿(にしんごてん)もそのような目的で鰊を捕っていたのでしょう。良質な肥料になったそうです。

 自分には地名と位置を考える地理がぼんやりとしかわからないので、ぼんやりとした読書を続けています。
 けっこう海難事故が多い。
 四国にある金比羅(こんぴら)参りの船の事故も多かったそうです。
 以前読んだ本を思い出しました。犬が飼い主の主人の代わりに、江戸から四国にあるこんぴらさんまで、お参りをしに行くのです。『こんぴら狗(こんぴらいぬ) 今井恭子(いまい・きょうこ) くもん出版』歴史上の事実です。

 118ページに、当時の船の事故は、現代の交通事故と同様と書いてあります。
 命が、灯(ともしび)のようにはかなく消えていきます。

(つづく)

 海難事故の話が終わって、物流のお話になりました。

 江戸時代のこととしての説明に興味が湧きます。
 人や物の移動には、陸上と海上があった。徒歩、馬、船です。
 船は大量のものを運ぶことができたが危険があった。
 船は物を運ぶ。陸上は人が移動するという区分けができた。
 人のための街道宿場があって、船のための船宿があります。
 船で運ぶもので多いのは、お米です。
 米が税金代わりということもあって(年貢米)、税の果たす役割が大きいことに気づきます。現代も同じです。会費を集めて会員のために使います。
 船だと『損害保険』の考えが発想できます。
 163ページに『分散』という取扱いが出てきます。船主と荷主が共同で海難事故による損害を補填(ほてん)する制度です。
 債務者の資産を債権者で分割する。分散=破産だそうです。
 荷物の損失は荷主が、船の損失は船主が負う。
 きっと、事故が無ければ、莫大な資金を売ることができる海運事業だったと思います。もうかっているときにもうけをしっかりためておいて、万が一の事故が起きたときのために準備していたことでしょう。

 国旗「日の丸」の起源になるお話が出てきます。船に『官幟(よみはたぶん「かんし」ではなかろうか。幕府の幟(のぼり)』が日の丸のデザインだったそうです。以前、東野&岡村の旅猿で、薩摩藩が日の丸の旗を付けた船、たしか昇平丸という名称の船で江戸に行ったことが日本の国旗制定のきっかけと紹介されていました。(記録を見つけました:1855年島津藩の昇平丸という船が江戸の品川に入港した時に、日の丸を掲げて入港したそうです。(明治維新が、1868年)
 この官幟が立っている船は、入港税という税が免除されたそうです。

 船の積み荷に鯨油があります。江戸時代から世界的に捕鯨があったことがわかります。
 米国の捕鯨船に助けられたのがジョン万次郎でした。

 島や湊(みなと。港)の話とお金の話が続きます。

(つづく)

 おおまかにですが、全体を読み終わりました。
 文章を読みながら、いろいろ想像したり、空想したりしました。
 ひとつは、船の設計図のイメージが脳裏にありました。
 きっと職人さん気質の強い当時の人が、きちんとていねいに設計図の線を引いたことでしょう。西暦1600年代のことです。
 全体的に海難事故のお話とか記録が多かったのですが、海が荒れる日ばかりではなかったと思います。すがすがしい青空が広がって、海は穏やかにきらきらと輝く、夜は満点の星空とか月光か、静岡当たりでは雪をかぶる富士山が見えたとか、風光明媚(ふうこうめいび。自然の眺めや景色が清らかで美しい)な日本の海岸線の景色を当時の船員は満喫できたことと想像します。

 87ページにある図9には能登半島のさきっぽに『狼煙(のろし)』という地名があります。たしか、以前太川陽介&えびすよしかずローカル路線バス乗り継ぎの旅で、ゴールまで、最後に乗った路線バスの行き先が『狼煙(のろし)行き』でした。(記録にありました:太川&えびすのローカル路線バス乗り継ぎの旅 第14弾 名古屋から能登半島最北端の岬 2013年4月放送分 ゲストはその後芸能界を引退された森下千里さんでした。路線バスのチャレンジは、無事成功されています)
 この部分を書いたあと、最近ですが、現地で大きな地震が起こりました。びっくりしました。死傷者がなくて良かった。

 1600年代の船は、今でいうところの飛行機のような気がするのです。
 風にのってしまえば、歩くよりも早い。
 列車のようでもあります。
 大量の食糧を輸送することができます。
 運搬する品物として、米、塩、大豆、小豆、畳表、松葉、薪(まき)、干し鰯(いわし)、紙、車、小間物、海産物、材木、石材などと紹介があります。

 地名としては、岡山県の『牛窓(うしまど)』が何度も登場しました。
 対象期間は、1673年~1688年が中心でした。
 現代においても船舶の安全運航を祈願いたします。
 1682年:井原西鶴 好色一代男
 1683年:八百屋お七の放火
 1685年:お犬様五代将軍徳川綱吉。生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)
 1685年:バッハ誕生
 1687年:ニュートンが万有引力を発見
 そのような時代背景がありました。

この記事へのトラックバックURL

http://kumataro.mediacat-blog.jp/t148202
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません
上の画像に書かれている文字を入力して下さい