2022年05月30日

江戸のジャーナリスト 葛飾北斎 千野境子

江戸のジャーナリスト 葛飾北斎(かつしか・ほくさい) 千野境子(ちの・けいこ) 国土社

 ジャーナリスト:社会問題について分析・研究・調査をして、なんらかのメッセージを発表する人。新聞・雑誌記者、編集者、放送記者、解説者など。

 葛飾北斎(かつしか・ほくさい):浮世絵師。1760年-1849年。88歳没。(本書の冒頭では「九十歳」と記されています。太陰暦とか太陽暦の違いがあるのでしょう。あるいは数え年の関係かもしれません。生まれた時に1歳からスタートして、元旦のたびに1歳プラスしていく)
 ペリーの来航1853年。明治維新1868年。1760年~1840年イギリスの産業革命。
 1774年杉田玄白の「解体新書」。1821年ナポレオン51歳没。
 1812年がナポレオンのロシア遠征。1789年ワシントン氏がアメリカ大統領就任。
 東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく、浮世絵師。1763年-1820年)
 ベートーベン1827年56歳没。1782年-1788年天明の大飢饉。
 1787年-1793年寛政の改革。老中松平定信。1783年浅間山噴火。
 1798年本居宣長(もとおり・のりなが)「古事記伝」。1802年十返舎一九(じっぺんしゃいっく)「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」
 1807年イギリスがインド帝国をつくる。1808年間宮林蔵が樺太探検で間宮海峡を発見する。
 1849年ショパン39歳没。1821年伊能忠敬(いのう・ただたか)の日本地図完成(本人は1818年没)。1837年大塩平八郎の乱。
 1840年アヘン戦争(清国対イギリス)。1842年南京条約(なんきんじょうやく)香港島をイギリスに割譲(かつじょう)。
 1842年滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」
 1830年-1843年天保の改革。老中水野忠邦。1828年シーボルト事件(帰国時に日本地図を国外に持ち出そうとした。たぶん軍事的秘密に該当する禁止行為でしょう)

 葛飾北斎『富嶽三十六景(ふがくひゃっけい。富士山の絵が36枚)』1831年-1834年。
 歌川広重(うたがわ・ひろしげ)『東海道五十三次(とうかいどう53つぎ。次は宿場のことでしょう。浮世絵木版画』1833年。

 1835年福沢諭吉誕生。1901年(明治34年)66歳没 学問のすすめ 慶応大学設立
 1838年大隈重信誕生。1922年(大正11年)83歳没 早稲田大学設立
 
 ポールセザンヌ 1839年-1906年 67歳没 フランスの画家
 ルノアール 1841年-1919年 78歳没 フランスの画家
 ゴッホ 1853年-1890年 37歳没 オランダの画家
 マネ:1832年-1883年 51歳没 フランスの画家
 モネ:1840年-1926年 86歳没 フランスの画家
 シスレー:1839年-1899年 59歳没 フランス生まれのイギリス人画家
 ピサロ:1830年-1903年 73歳没 フランスの画家
 ドガ:1834年-1917年 83歳没 フランスの画家
 葛飾北斎の影響を受けたという印象派の画家たちは、当時まだ三十代ぐらいだったそうです。フランスの画家たちが、日本の浮世絵師葛飾北斎の絵を真似たのです。
 フランスやオランダのどの画家の絵も美しい。
 当時の美術界は印象派を受け入れなかったそうです。
 当時は、写真のような写実的な絵が好まれたのかと考えました。
 行政が文化を圧迫する。
 法律と芸術は対立の構図になることもあるのでしょう。

 アール・ヌーボー:19世紀末から20世紀初頭、ヨーロッパで開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」

 ゴッホに妹さんがいたことは初めて知りました。

 歌川広重:1797年-1858年 61歳ころ没 浮世絵『東海道五十三次』
 喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ):1753年-1806年 53歳ころ没 浮世絵美人画

 シーボルト:1796年-1866年 70歳没 ドイツの医師、博物学者 長崎出島のオランダ商館の医師 1823年-1830年日本に滞在。(本人が27歳から34歳ぐらい)1859年再来日(本人が63歳ぐらい)、1862年帰国(66歳ぐらい)
 10年ぐらいに前に読んだ本があります。『江戸参府紀行 ジーボルト 東洋文庫87 平凡社』

 1840年 遠山の金さんが江戸町奉行になる。

 以上は、時代背景がわかりやすくなるように、熊太郎作成の歴史ノート(鉛筆等の手書きで何十枚も書きためているノート)から拾ってみました。
 この本の最後にも参考年表がついていました。

 読み手の年齢によって感じ方が違ってくると思いますが、現在60代の自分からみると、葛飾北斎没後170年以上と本には書いてありますが、自分には100年ぐらい前のことのように思えます。自分が小学生のころに明治100年という祝い事があった記憶です。(明治100年は1968年(昭和43年)です)
 
 大英博物館:イギリスロンドンにあります。いつか訪れてみたい。

 葛飾北斎という人は、ヨーロッパの画家に斬新な画風で大きなショックと影響を与えたすごい人です。世界規模の有名な日本人です。肉筆画の天才芸術家です。ときに気が狂っているのではないかと思われるほど創作に打ち込んでいたに違いありません。(14ページに「画狂人(がきょうじん)」とあります。奇人、変人、謎の人でもあります)

 この本では、ジャーナリストという扱いをされているようです。
 どういうことだろう。
 葛飾北斎の伝記(人生の記録)が始まるようです。
 読みながら、感想を書き足していきます。

 長野県の小布施(おぶせ)というところに葛飾北斎の美術館があるそうです。
 自分は、先日、長野市にある善光寺にお参りに行ってきました。
 小布施は、長野駅前にあった長野電鉄に乗って30分ほどで行けるそうです。
 『北斎館』という美術館があるそうです。ずいぶんむかしに、愛知県から新潟県にバス旅行をしたおりに、小布施あたりでなにかを見学した覚えがありますがもうおぼろげな記憶です。思い出せません。
 1842年葛飾北斎は83歳のときに小布施を訪れた。1844年85歳のときに『龍図』『鳳凰図』、そして、86歳で(数え年)『男浪図』『女浪図』を制作した。
 80代に芸術の集大成のような結集があります。すごい。
 
 本の内容は細かい話が続きます。
 
 読んでいて、気に入った文節などです。
 『……葛飾北斎という絵師の、冷めた(さめた)眼差し(まなざし)……』

 葛飾北斎は、人間を観察して絵にする。
 人間の多様性(個性)を否定しないと読み取れます。
 そのあたりが本のタイトル「ジャーナリスト」につながるのでしょう。人を分析して、なんらかのメッセージを発する。
 ものの見方として『鳥瞰図(ちょうかんず。空を飛ぶ鳥の目で見えた光景を図にする)』
 もうひとつが『虫の目』で、細かいところをしっかり見る。

 滝沢馬琴(たきざわ・ばきん):1767年-1848年。81歳没。読み本(よみほん)作者。『曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)』

 経歴を拾って整理します。
 1760年9月23日 現在の東京都墨田区亀沢で出生。
 幼名は『時太郎』だった。6歳から絵を描くことに気持ちを集中させる資質、気質あり。
 1778年。浮世絵師として一歩を踏み出す。数え年19歳で、人気浮世絵師の勝川春章(かちがわしゅんしょう)に弟子入りをする。歌舞伎役者の似顔絵、美人画、相撲絵、挿絵(さしえ)など。勝川春朗と名のる。三十代なかばまで続く。そのころ、娘阿栄(おえい。雅号は『応為(おうい)』誕生。
 1794年か1795年、数えで35歳のときに、二代目俵屋宗理(たわらや・そうり)となる。光琳画法(こうりんがほう)の師匠であった。
 私淑(ししゅく):師と仰ぐ人を慕いひそかに真似をして学ぶ。
 地本問屋(じほんどんや):江戸で出版された本の問屋(とんや)

 喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ):1753年-1806年。浮世絵師。53歳ころ没。美人画
 蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう):1750年-1797年。江戸時代の版元(はんもと。出版をする人)
 
 1798年。俵屋宗理の名を門人(もんじん。同じ師匠の弟子。門下生(もんかせい))に譲った。(ゆずった)
 次の雅号(がごう。本名ではない上品で美しく品格があるような呼び名)が『北斎辰政(ほくさい・ときまさ)』
 1806年。雅号を『葛飾北斎』とする。47歳。

 源為朝(みなもとのためとも):源頼朝(みなもとのよりとも)、源義経(みなもと・よしつね)のおじさん。

 化政文化(かせいぶんか):江戸時代後期の文化。浮世絵、滑稽本(こっけいぼん。おもしろおかしい本)、川柳(せんりゅう。ユーモア短歌)、歌舞伎(かぶき)。町人文化。

 1811年。52歳のころ、親友滝沢馬琴と仕事のやり方で話が合わず絶交する。
 1812年。『北斎漫画(ほくさいまんが。絵本のようなもの)』の製作が名古屋でスタート。大きな達磨(だるま)を書いた話が書いてあります。たぶん、名古屋市中区にある本願寺名古屋別院というお寺さんでのことだと思います。

 72歳で『富嶽三十六景』を作成した。
 75歳で『富嶽百景』を作成した。
 なんというか、老齢、高齢になって、ふつうは、技量や能力が衰えると思うのですが、葛飾北斎は逆に傑出した作品を生み出しています。天才です。
 70代からが人生の本番です。勇気をもらいました。

 江戸時代以降の人々の識字率(読み書き)の高さに関する記述が、自分には意外でした。
 自分がこどものころには、読み書きができないお年寄りをときおり見かけました。
 バスターミナルで迷っている人がいたら、字が読めない人かもしれないから、声をかけて案内してあげなさいと中学校の先生に言われたことがあります。

 本は、おとなには、読みやすい文章です。
 中学生には、歴史とか絵画の下地がないとわからないかもしれません。
 
 葛飾北斎は、2回結婚して、2回死別しています。2回目の死別が69歳の時でした。(1828年)
 それぞれ1男2女。
 1回目の結婚:長男富之助。早世したもよう。長女は子どもを遺して死去した。その孫が問題児で北斎を悩ませた。次女は夭折(ようせつ。若いうちに死去)
 2回目の結婚:次男(長男)養子に出す。三女(長女)お栄(おえい)雅号が『応為(おうい)』の天才肌の絵師(小説がドラマか映画で見た記憶があります)四女は早世したらしい。
 家がごみ屋敷なのは、葛飾北斎に発達障害の部分があったのかもしれません。自分の興味があることは、何時間でもやる。興味が無いことはいっさいやらないという気質です。
 
 江戸時代の平均寿命が三十歳前後だそうです。幼児の死亡率が高かった。

 葛飾北斎は生涯で引っ越しをした回数が93回だそうです。
 自分も引っ越しが多かったのですが、これまでに18回ぐらいです。
 葛飾北斎と自分は似たところがあるのかもしれません。
 葛飾北斎は、お酒はたしなまないが、ごく親しい人とはのむ。
 以前読んだ脳科学の本に書いてあってことを思い出しました。天才はとにかく大量の製作物を長時間かけて多数つくる。大量につくった作品の中に光る一作がある。

 江戸時代の『宵越しの金はもたない(よいごしのかねはもたない。お金はその日のうちに使い切る』の意味がわかりまし。江戸時代に銀行はない。家に大金をおいておくのはぶっそうだった。火事も多かったから紙幣は燃えるとパーになった。タンス預金はアウト。
 
 幣衣(へいい):痛んで破れた衣類。

 飯島虚心(いいじま・きょしん):明治時代の浮世絵研究者。美術史家。1841年-1901年(明治34年)享年61歳没。(きょうねん。天からさずかった命。数え年)

 90年の生涯で生み出した作品が3万点以上だそうです。
 漫画家の手塚治虫さんと葛飾北斎さんが重なるのです。
 ふたりとも仕事人間です。
 絵を描くことに集中した人生でした。

 参勤交代制度のメリットが書いてあります。
 人間の血管のように、体全体に血液(国全体の情報)が循環するのです。国外の情報(オランダを通じて)も行き交います。
 葛飾北斎の絵が行き着く先には、ヨーロッパがあります。日本文化がフランスまで到達して交流が始まります。葛飾北斎がフランスの絵画界に良い影響を与えます。葛飾北斎が外交官のように思えます。ゆえにこの本のタイトル江戸のジャーナリストということになるのでしょう。絵を使っての日本の情報発信者兼外国の情報仕入れ者です。国際交流の架け橋のような存在です。
 以前読んだ『キャパとゲルダ マーク・アロンソン&マリナ・ブドーズ・著 原田勝・訳 あすなろ書房』に出ていた戦争報道写真家のロバート・キャパとゲルダ・タロー(女性)の姿と葛飾北斎のイメージが重なります。
 葛飾北斎は情報発信の鬼です。今だったらSNS(ソーシャルメディア・ネットワーク・システム)を自由自在に使いこなして、情報発信をすることでしょう。
 葛飾北斎は、朝鮮半島からの交流使節団とも関わりをもっています。(朝鮮半島との交流は、古代、卑弥呼のっ時代とか大和朝廷の時代から付き合いがあったと思うのです)
 琉球との関わりも出てきます。(沖縄県)
 江戸時代に江戸に住んでいた人たちは胸がワクワクするようなことが次々とあったに違いありません。
 葛飾北斎が、学者さんのように思えてきました。あくなき探求心があるのです。(飽きることがない。いつまでも)好奇心が強い。前向きで、とりあえず、やってみる。新し物好きです。エッチング(銅版画)への挑戦があります。自分は中学生のとき、冬になるとエッチングで枯れ木をほって版画にしていました。
 カピタン:オランダの東インド会社が日本に商館の長。最高責任者。

 狂歌本(きょうかぼん):社会風刺(ふうし。遠回しな批判)、こっけい(笑い)、皮肉(非難)を集めた江戸時代の本。

 葛飾北斎の『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』:1804年-1818年
 東海道五十三次という作品は、歌川広重だけのものだと思っていました。(歌川広重は、葛飾北斎より30歳以上年下)
 旅行ガイドブックという位置づけの本で、複数の人たちが浮世絵を書いているそうです。

 「マンガ」の力は大きい。
 こどもさんにマンガを禁じる親ごさんがいますが、禁止しないほうがいい。
 まんがに心を支えられるということは現実にあります。

 平和な世の中です。
 平和な時代に、文化が盛んになります。
 名古屋と葛飾北斎の関わりが出てきます。
 製造業の街である愛知県を始めとした中部地区です。文化・芸能は東京や大阪にかないません。
 葛飾北斎の話で名古屋が出てくるのは意外でした。

 1779年のこととして、ロシアとの接触があります。
 ロシアが北海道はロシアのものだと主張する意識がかいま見える歴史上の出来事です。
 イギリスも北海道に姿を現します。
 熊太郎専用の歴史ノートを見ると、1843年から1852年に、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ合衆国が来航して江戸幕府に開国、通商を求めています。ペリーの来航が1853年です。

 オランダのライデンという地名が出ます。
 アムステルダムの南西にあって、日本の博物館があるそうです。日本博物館シーボルトハウスとありました。
(ふと、日本はいつから「日本」になったのだろうかという疑問が生じました。調べたら西暦700年前後からだそうです。中国から見て、太陽が昇るところ(東側)だから日本なのだろうかと考えました)
 
 『画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)』葛飾北斎自身がそう名のったそうです。すごい表現です。

 版画から肉筆画へと変わっていったそうです。
 『西瓜と包丁(すいかとほうちょう)』美しい絵です。
 『椿と鮭の切り身』身近にあるものをなにげなく描写する。

 ピカソ:1881年-1973年 91歳没
 ピカソと葛飾北斎の絵画制作にかける情熱は似ていた。

 芸術家にはスポンサー(資金等の援助者)が必要です。
 芸術家は、収入面で不安定な職業です。
 芸術家本人はお金に無頓着です。(むとんちゃく。関心がない。執着しない)
 145ページにある葛飾北斎のスポンサー(支援者)だった長野県小布施(おぶせ)の大金持ちだった高井鴻山(たかい・こうざん 1806年-1883年)の漢詩が心にしみました。
 漢詩では、葛飾北斎という人物は、うちに半年ほど滞在した。別れも告げずに立ち去った。くるときもふらりとやってきた。立ち去るときもなにも言い残していかなかった。自分の思うままに八十余年生きてきた人だ。貧乏とか富とか(とみ)名声とか、本人は気に留めていない。お金があろうがなかろうが、世間に媚びない(こびない。ごまをすらない。気に入られるようにごきげんをとらない)。ただひたすら絵を描くことが己の使命と思っている。そのようなことが書いてあるそうです。そうなりたいものです。

 落款(らっかん):署名。印影。

 ロシア人の関わり
 セルゲイ・キターエフ:1864年-1927年 美術収集家
 ベアタ・ヴォロノワ:1926年―2017年 学芸員
 なになに人だからこういうふうだという先入観や決めつけはやめなければなりません。
 ひとりひとりが個性をもった個人で、地球人です。

 とにかく大量に作品をつくる。
 長時間創作に打ち込む
 さすれば、いい作品ができる。たぶん駄作もたくさん生まれる。

 歴史の記録書を読むようでした。
 人心というのは時代背景に押されて変化していく。
 江戸時代の優秀な浮世絵は、明治維新後の外国文化こそ良きものという風潮に押されて衰退化していきます。
 されど、本物は時代を越えて復活します。

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