2022年04月26日
ヒカルの碁 第1巻から第23巻
ヒカルの碁 原作・ほったゆみ 漫画・小畑健 監修・梅澤由香里二段 ジャンプコミックス第1巻から第23巻
第1巻から
幼稚園と小学校低学年の孫たちが囲碁将棋とかチェスに夢中です。
ヒカルの碁という言葉がかれらの口から出てくるようになりました。
自分は自分のこどもたちが二十年ぐらい前にテレビで見ていたのを横目でちらりと見たぐらいの知識しかありません。
第1巻の発行日が、1999年5月5日(平成11年)です。自分は仕事に没頭していました。
2020年に第36刷まで増刷されています。
記憶にあるのは、平安時代の貴族の職員みたいな『サイ』という囲碁うちの名人が、幽霊みたいになって現代に現れて、主人公の少年進藤ヒカルという子といっしょに囲碁を打つというものです。
進藤ヒカルのライバルの男の子の名前は思い出せません。親父さんが立派なプロの囲碁棋士でした。
自分は囲碁も将棋もよくは知りません。駒の置き方、石の置き方、動きぐらいしか知りません。
最初は孫たちに勝てていましたが、孫たちが囲碁将棋を習いに行きはじめてからまったく勝てなくなりました。勝てませんが、むしろ喜ばれています。そりゃあ勝ちたいでしょうから。
せめて、このマンガの内容についてのディスカッションぐらいはできるじいちゃんでいたい。
進藤ヒカル:小学六年生の主人公として始まります。第2巻を読んでいるところでは、囲碁はどしろうとですが、藤原佐為が言うには、進藤ヒカルには囲碁のものすごい才能があるのです。
進藤ヒカルのじいちゃん:囲碁ができる。自分は囲碁が強いと自慢する。孫の進藤ヒカルと囲碁で勝負して負けてしまい、約束したとおり、よつ足つきの立派な五万円の囲碁盤を買ってあげました。いさぎよい、いいじいちゃんです。(じいちゃんの目には見えない藤原佐為(ふじわらのさい)が進藤ヒカルのうしろで、碁石を置くところを指示しました)
藤原佐為(ふじわらのさい):わたしは平安時代(794年-1185年/1192年ころ。約390年間)の人間だと思っていましたが違いました。江戸時代後期の人でした。平安の都(京都)で、天皇に囲碁を教えていたそうです。勝負ではめられて、負けて、自死したそうです。この世に思いが残って成仏できないのです。(自分の思いがかなうまで天国にいけない)思いとは、神の一手(いって)を打つことです。
天保の改革:1841年-1843年。天保の大飢饉が1833年-1839年です。1837年大塩平八郎の乱。老中水野忠邦。財政引き締め。物価抑制。江戸に来た農民の一部を農村に帰した(かえした)。藤原佐為が生きていた時代だそうです。マンガの中では、藤原佐為は、140年前の棋士の霊魂(れいこん。魂(たましい))です。
アメリカ合衆国のペリーが神奈川県の浦賀に来たのが、1853年。鎖国をしていた江戸幕府に開国の要求がありました。
明治維新が、1868年です。
藤原佐為は、クソまじめそうですが、そうでもありません。コミカル(笑いを誘う)でかわいいときもあります。彼は囲碁を打つことが大好きです。ときに、少女のようにもなります。セリフの語尾にハートマーク♡がついたりもします。
藤崎あかり:1986年生まれ。進藤ヒカルの同級生女子。小学六年生。ドラえもんの「のび太」にとっての源静香ちゃんのポジション。
加賀鉄男:中学三年生。囲碁をあきらめた将棋棋士。
筒井公宏(つつい・きみひろ):中学校の三年生で囲碁部長。まじめそうなメガネ君。囲碁部を立ち上げてくれた。マンガ『スラムダンク』におけるメガネ先輩(小暮公延(こぐれ・きみのぶ))のようなポジション。
金子正子:進藤ヒカルの中学同級生。バレーボール部員だが、囲碁部の活動にも参加する。肝っ玉かあさんの雰囲気で、おとなと賭け碁をしていたやんちゃな三谷祐輝とやりあうところがおもしろい。男子に、負けていません。
本因坊秀策(ほんいんぼう・しゅうさく):江戸時代の囲碁棋士。囲碁の歴史上一番強いとされる棋士。
塔矢アキラ(とうや・あきら):進藤ヒカルの同級生。プロ棋士塔矢の息子。彼の言動を読んでいて、性格とか心もちは、自分と共通すると感じました。
塔矢名人:塔矢アキラのおとうさん。プロ棋士。囲碁の名人。厳格な性格の人に見えます。
「シチョウ」という戦法を思い出しました。
先日孫との対局でまんまと自分がはまりました。孫たちは爆笑していました。それは、それでいいのです。わざと負けて喜ばれていましたが、どうにもこうにも勝てなくなりました。喜んでもらえばいい。
ダメ人間だった主人公が、実は隠れた才能をもつ人間であることがわかって、本人の努力と周囲の助けで立派な人間に成長していくという成長物語です。
漫画のストーリーをつくるときの効果的なパターンのひとつです。
すぐに思いつく別のマンガとしてバスケットボール素材にした『スラムダンク』の桜木花道があります。
読者は、読んでいる自分も才能があるごとく、主人公の行動に引き付けられていって、まるで、自分が主人公であるように思い込んで、感動する気持ちが自分の胸に満ちるのです。
まあ、囲碁も将棋もゴルフも、なんでも賭け事にできます。
三谷祐輝(みたにゆうき):碁会所で賭け碁をしていた中学三年生。囲碁部に入る。
インターネットの囲碁のサイトで、世界中の囲碁好きの人と囲碁を打つ。
そういうシーンをテレビマンガでちらりと見た記憶がよみがえりました。
亡霊のサイのいうとおりに進藤ヒカルがネットで囲碁をするのです。当然強い。向かうところ、敵なしです。
押したり引いたりの展開がいい。
じょうずにつくってある原作です。マンガの絵も見やすい。
藤原佐為をバックにして、進藤ヒカルがカリスマ化していきます。(カリスマ:神格化。生き神さま。超人的な囲碁で勝つ力をもつ人)
ライバルが、塔矢アキラで、進藤ヒカルを輝かせてくれます。太陽と月の関係が必要ですが、今はまだ塔矢アキラが太陽の立場です。本当の太陽は、進藤ヒカルです。
昔読んだ『ガラスの仮面』での、北島マヤと姫川亜弓の関係です。昔、北島マヤと女優の大竹しのぶさんがかぶる印象が自分にはありました。
和谷義高(わや・よしたか):囲碁を打つ中学生。院生。プロ棋士試験の受験生。院生:プロ囲碁棋士養成所。青少年少女が属する。
第5巻の最初のほうに出てきたアップルのデスクトップパソコンの形状がなつかしい。iMacアイマックというファッション性が高いスタイルで、ブルーの色が輝いていました。ほかにもガラスのような感じで半透明のカラーがありました。1998年ころでした。
ああ、そのころ、ヒカルの碁を楽しんだ世代は、いまは、三十代ぐらいのママやパパになっているのでしょう。
中学生のクラブ活動っていいなあ。
家にいても楽しいことなんて、なんにもなかった。
今思い出すと、朝練(あされん)というのがあって、たとえば、吹奏楽部でも、始業前に校舎の敷地で、楽器の演奏をしている女子生徒がたくさんいました。
当然、野球部を始めとした運動部員も、朝早く登校して、授業が始まる前から体を動かしていました。
だから、強かったということはあります。練習量の多さが勝利につながります。
第5巻で、なんとなくただよっているのですが、藤原佐為は、江戸時代の人間ではあるけれど、どうも、やはり、平安時代からこの世にいたようです。
140年前の江戸時代は、のちに本因坊秀策となる虎次郎の先生であり、その1000年前には、平安時代の京都で囲碁を打っていたようです。
進藤ヒカルのやんちゃなところがおもしろい。
フク:院生。ふっくらしている。おだやかで、のんびりタイプ。
勝負の世界は厳しい。
越智(おち):院生。小学6年生。
伊角慎一郎(いすみ・しんいちろう):院生。18歳。院生の上限年齢。プロ試験は30歳まで受験可能とまんがのセリフにあります。
藤原佐為は、本能寺の変のときも存在していたそうです。(その後、この部分は、しゃれであることがわかりました。その場の雰囲気を盛り上げるためのショートコントみたいなもの)
1582年6月1日とあります。織田信長さんが、明智光秀さんにやられています。
このマンガでの本能寺での信長の囲碁シーンは、ちょっとうさんくさい。(かなり疑わしい。信用できない。油断しちゃだめ)
尾方九段(おがたくだん):プロ棋士。進藤ヒカルに目をかけてくれている(気にしてくれている。才能を認めている。関心をもってくれている)
白川七段:プロ棋士
夏目:進藤ヒカルの中学同級生。囲碁部員。
津田久美子:進藤ヒカルの中学同級生。囲碁部員。
漫画ですから、理論よりも気持ちが大事な世界です。いやいや、現実社会でも『気持ち』は大事です。信頼関係を裏切らない相手なら気持ちが通じると嬉しくなれます。
小池:中学1年生男子。進藤ヒカルの学年より一年下。囲碁部員
バレーボール部員で囲碁部を助けてくれる金子正子さんが優しい。こういう人の存在が大切です。
真柴(ましば):いやみなプロ棋士男性。最年長院生の伊角をからかう。
第7巻まで読みました。
化け物のような強大な力を秘めている(ひめている)進藤ヒカルに、読者はあこがれます。
自分が、まるで、進藤ヒカルになれたような気持ちになって、まっすぐ立てます。
門脇:大学生のときに囲碁でいい成績だったが、就職した。しかし、再び囲碁界に復帰をしようとしている。
久しぶりに藤原佐為が(門脇と)囲碁を打ったのですかっとしました。
邦画『椿三十郎(主演 三船敏郎)』がらみのような、ひげもじゃの椿さんが出てきます。
第9巻まできて、なんだかつまらなくなってきたのは、なぜだろうか。
進藤ヒカルが強くなりすぎてしまいました。
バスケットマンガ『スラムダンク』も、桜木花道(さくらぎ・はなみち)がへたくそだったころが、一番笑えておもしろかった。
ここ最近の進藤ヒカルは、いつも強い。
持碁(じご):引き分け。こちらのマンガでは、わざと持碁になるように打ちます。
囲碁界の組織とか労働条件とかのような話も出ます。
資金力があるようには思えません。
ボランティア的なサポートで成り立っているような気がします。
韓国人の棋士が出てきました。
藤原佐為(ふじわらのさい)が打つ碁を見てみたい。(第10巻まできました)
越智君と塔矢アキラがからんできて、緊張感が増します。
プロになるための試験の合格争いです。
「第87局 この黒は誰?」が良かった。この黒は、藤原佐為です。
越智19勝1敗 和谷(わや)18勝2敗 進藤ヒカル17勝3敗 伊角(いすみ)17勝3敗
どうなるのだろう。
少し前に読んだ巻では、初期の頃の携帯電話の絵がありました。
折り畳み式のガラケーが出るもっとずいぶん前です。
小さくて軽くて薄くて、液晶画面は白黒でした。
第11巻では、ぶあつくて重たいデスクトップパソコンの絵を見ました。
ふたをあけて、分解して、ショップで買ってきた部品と交換したりして、たいへん長い時間を費やしたことを思い出しました。
仕事が休みの平日に自主的に自費でタイピングのしかたを習いにもいきました。
あの時期があったから、その後の時代の変化になんとかついていけました。
そんなことを思い出しながら、このマンガを読んでいます。
進藤ヒカルが、囲碁が上達するにつれて、囲碁を教える立場である藤原佐為(ふじわらのさい)と進藤ヒカルとのお別れが近づいているようです。
藤原佐為(ふじわらのさい)がマンガからいなくなるとさみしくなります。
出会いがあれば、別れがあるのが、この世のありようです。永久に同じ状態を保つことは無理なことです。
師弟関係を思い出します。
自分の親や祖父母世代は、たいていは、義務教育の中学を卒業すると、家を出て働いて、住み込みだったり、独身寮だったりで、仕事場では、先生役の人がついて、仕事を教えてもらって、同じ仕事を何十年間も続けて生計を維持していくというパターンで、歳をとっていきました。
師弟で、じゅんぐりに、収入を得るためのポスト(立場)をつないでいきました。
いろいろと便利になって、形はずいぶん変わりましたが、今も、たいていの基本は、そのパターンだと思います。
この囲碁マンガでは、師弟関係のことがけっこう強めに書いてあります。
囲碁界に学歴はいりません。囲碁を打つための実力はいります。師匠もいります。同時期に落語家さんの立川談春さんが書いたエッセイ集「赤めだか」を読んでいたのですが、囲碁界と落語会も似通った部分がありそうです。赤めだか:いくら餌をあげても成長しない金魚。いくらけいこを積んでも上達できない落語家にたとえてあります。
桑原本因坊:おじいちゃんです。
タバコの喫煙シーンが多いのが気になります。
喫煙がいやいやながらも許容されていた二十年以上前の絵です。
藤原佐為(ふじわらのさい)に囲碁を打たせてやりたい。
されど、進藤ヒカルの腕が上達してしまったので、藤原佐為(ふじわらのさい)が囲碁を打つ機会がないし、読者も見ることができません。いらいらがつのります。
ふと、気づきました。進藤ヒカルとの別れのあと、藤原佐為(ふじわらのさい)は、また、現世に復活して、だれかにとりつけばいい。50ページなかばすぎ出てきます。
そう思いながら読んでいると、そのような解釈をするシーンが出てきました。
藤原佐為(ふじわらのさい)は、神の一手を極めるために、塔矢アキラのお父上であら塔矢行洋名人と囲碁を打ちたい。
藤原佐為(ふじわらのさい)と塔矢行洋名人との対戦が上手に組まれています。ネットも活用してあります。よく、考えられた手法です。
93ページは、白熱の一戦です。迫力があります。これを待っていました。
第12巻の142ページにある『御器曽(ごきそ)』は、地名の『御器所(ごきそ)』が由来のような気がします。
熱田神宮におさめる土器(どき。うつわ)をつくっていたところの地名が『御器所(ごきそ)』でした。
第12巻を読み終えました。おもしろかった。
(つづく)
第14巻まできました。
わかる人だけにはわかる『藤原佐為(ふじわらのさい)VS塔矢行洋名人』の囲碁戦です。
なかなか見ごたえがあります。
ところが、上には上がいました。
藤原佐為(ふじわらのさい)よりも、塔矢行洋名人よりも、進藤ヒカルが有能なのです。
塔矢行洋名人がプロ棋士を引退するという大きな出来事が起こりました。
引退しても囲碁は打てるという言葉に救われます。
藤原佐為(ふじわらのさい)が現世からいなくなっても、彼はまたどこかでだれかに出会う可能性があります。
そういった、そのあたりの考え方(思考)へのもっていきかたがいい。
「生きていればいい」のです。「生きていること」が大事なのです。
『時間』に対する考察が深まります。
第15巻まできました。
今ごろになって、ふと思う。
塔矢アキラは、なぜおかっぱ頭なのだろうか。
特徴を出して個性を強調するためなのでしょう。
たぶん塔矢アキラも進藤ヒカルも今は中学3年生ぐらいでしょう。
老齢者の自分が思うに、自分が中学生だった頃は、男子中学生は全員が強制的に丸坊主でした。長髪頭の男子中学生はほとんど見かけない日本社会でした。
進藤ヒカルの囲碁の実力が高くなってきたので、進藤ヒカルと藤原佐為(ふじわらのさい)の別れが近づいてきました。
ふたりの会話がかみ合わなくなってきました。
読んでいて、藤原佐為(ふじわらのさい)が消えてほしくないので、進藤ヒカルの藤原佐為(ふじわらのさい)に対する反抗的な態度が、歯がゆく思えます。(思うようにならずもどかしい)
藤原佐為(ふじわらのさい)がこの世から消えてしまいました。
さみしくなりました。
藤原佐為(ふじわらのさい)が、いなくなりました。
もういちど、藤原佐為(ふじわらのさい)に会いたいなあ。
進藤ヒカルは、藤原佐為(ふじわらのさい)に会うために、本因坊秀策の生まれ故郷である広島県因島(いんのしま)へ行きます。
その後、本因坊秀策のお墓があるという東京の巣鴨へもいきます。
因島は行ったことはありませんが、近くの尾道には行ったことがあります。また、巣鴨の商店街にも行ったことがあるので、そのときのことを思い出しながら本を読みました。
進藤ヒカルは、藤原佐為(ふじわらのさい)に対する自分の冷たい態度を強く反省します。
もう囲碁はやめると心を決めてしまいました。
しばらくは、心の放浪が続きそうです。
進藤ヒカルには、自分を責めないでとアドバイスを送りたい。藤原佐為(ふじわらのさい)は、なにも後悔はしていないと思います。
北京の中国棋院で囲碁修行をする伊角慎一郎(いすみ・しんいちろう)です。
進藤ヒカルとの対戦で反則負けをした過去があります。プロ試験で落選しました。
北京は行ったことがあるので、これもまた、思い出しながら読みました。
飛行機で行けば近い距離なのに、政治的には日本とは遠い距離があります。
藤原佐為(ふじわらのさい)に会えない進藤ヒカルは、囲碁を打つことをやめてしまいました。
囲碁を打たない進藤ヒカルには魅力はありません。
進藤ヒカルを囲碁界に復帰させるためには、まわりの人たちの力がいります。
三谷祐輝くん、椿さん、河合さん(碁会所の常連客)などが、イライラします。
体が覚えています。
心でイヤだと思っていても、体が自然と向かっていくということはあります。
そして、伊角慎一郎さんが登場します。進藤ヒカルに反則負けをした人です。正直に自分が反則をしたことを申告した誠実な人です。
ここは、この物語のキモ(重要なポイント)です。
伊角慎一郎さんの名言があります。『プロ試験は目標だけれどゴールじゃない』
進藤ヒカルが囲碁から遠ざかっていたブランク(空白期間)は、実力が落ちる原因です。毎日やらなければ、力は低下します。
ようやく、進藤ヒカルが復活しました。
藤原佐為(ふじわらのさい)は、進藤ヒカルの体の中にいることが、進藤ヒカルに自覚できたのです。
桑原本因坊は、心がでかい人です。
藤原佐為(ふじわらのさい)と進藤ヒカルの囲碁打ち技術が重なる進藤ヒカルは、塔矢アキラからみれば、二重人格です。
塔矢アキラが知らないことを、読者は知っています。
進藤ヒカルにとっての藤原佐為(ふじわらのさい)は、のび太にとってのドラえもんのようなものなのだなあ。
第18巻 番外編 この巻の内容は異質でした。藤原佐為(ふじわらのさい)が姿を消したので、物語の節目にしたのでしょう。
ひと息ついて、塔矢アキラの昔話。小学生のころの塔矢アキラのことでした。
あとは、まあ、囲碁、将棋、麻雀とギャンブル(賭け事)扱いですな。まあ、いいけど。
タバコの煙むんむん、薄暗いところで、おじさんたちがお札をつまんで金のやりとりをしています。劇画のようです。小学生の読者には読ませづらいけれど、こういう世界もあるということを表してもいい。きれいごとばかりを教えていたらこどもの心は壊れてしまいます。
倉田厚プロに似ている知り合いがいます。太っていて、ギャンブルに強くて、絵がよく似ています。
競馬も出てきました。
第19巻まできました。
『神の一手(いって)』の定義がわかりませんが、言葉はかっこいい。人間にはなかなか気づけない逆転の一手なのでしょう。実力による階級社会があります。
お話は、囲碁の戦い、物語はこれから、日本、中国、韓国の棋士たちの戦いの世界へと続いていくようです。
対立していた進藤ヒカルと塔矢アキラは仲間の関係に変化します。
もうふたりの緊張感のある関係は終わりました。
進藤ヒカルと藤原佐為(ふじわらのさい)の幻想的な関係もなくなってしまいました。
もう、読むのはやめようかという気持ちになります。
進藤ヒカルと塔矢アキラは、囲碁キチガイのようになります。
働く人にみられる仕事キチガイみたいな人間像です。
勝ったり負けたりが『勝負』ですが、進藤ヒカルも塔矢アキラも全戦全勝のような勢いになります。それはそれで、スカッともしますが、退屈でつまらないことでもあります。
押したり引いたりがないと、感動が生まれません。
学歴の話が出ます。高校へは行かない進藤ヒカルと塔矢アキラです。
学歴は、資格です。資格が必要な職業に就くつもりの人が進学すればいいのです。
第20巻の71ページ『第160局 一瞬の気後れ』の部分は、カラーページが続きます。
とてもきれいです。見やすい。カラーになったので、びっくりしました。
緒方先生はタバコばっかり吸っています。
進藤ヒカルの中学校卒業式風景が出てきてました。
藤原佐為(ふじわらのさい)がいなくなって、おもしろみが薄れてきたので、第23巻まで流し読みをしようかと思っていた矢先に、強く気持ちを引っぱられる部分にぶち当たりました。
第165局『2手目天元』の部分です。
囲碁のことはわかりませんが、迫力があります。
相手が初手で(しょてで。初めて打つ位置)、「5の五」という点に黒石を打ちました。異例なことだそうです。これに対して、進藤ヒカルが、囲碁盤のどまんなかの点(天元(てんげん))に打ち返しました。これからさき、どうなるのだろう。
第20巻を読みながら感じたことです。
登場人物のキャラクターを大切にされていることが伝わってきました。
越智康介(おち・こうすけ)くんのところでそう思いました。
第21巻です。
読み手が興奮するようにじょうずに話を組み上げてあります。
ストーリー作成のうえで、討論・議論があったのでしょう。
スーパーマンみたいな棋士がいっぱいいます。
日本、中国、韓国の年齢的には中学・高校生たちのチーム対抗戦です。
台湾チームはいないのか。
54ページに別の枠で台湾の話が出てきました。
塔矢行洋名人が、藤原佐為(ふじわらのさい)と対面しているようなシーンがありますが、深くは触れられていません。
韓国チームの選手が、本因坊秀策をみくだすような発言をしますが、その部分の表現はちょっとまずいんじゃなかろうか。韓国の人が見たら、腹を立てるような気がします。(次の第22巻で、ややこしい表現で打ち消してありますが、言い訳のしかたが、失敗しているのではなかろうか)
(つづく)
最終巻(第23巻)まで読み終わりました。
何か力が抜けたような終わり方になってしまいました。
もっとも、藤原佐為(ふじわらのさい)がいなくなった時点で、自分の気持ちの中では、物語は終わってしまいました。
第1巻から
幼稚園と小学校低学年の孫たちが囲碁将棋とかチェスに夢中です。
ヒカルの碁という言葉がかれらの口から出てくるようになりました。
自分は自分のこどもたちが二十年ぐらい前にテレビで見ていたのを横目でちらりと見たぐらいの知識しかありません。
第1巻の発行日が、1999年5月5日(平成11年)です。自分は仕事に没頭していました。
2020年に第36刷まで増刷されています。
記憶にあるのは、平安時代の貴族の職員みたいな『サイ』という囲碁うちの名人が、幽霊みたいになって現代に現れて、主人公の少年進藤ヒカルという子といっしょに囲碁を打つというものです。
進藤ヒカルのライバルの男の子の名前は思い出せません。親父さんが立派なプロの囲碁棋士でした。
自分は囲碁も将棋もよくは知りません。駒の置き方、石の置き方、動きぐらいしか知りません。
最初は孫たちに勝てていましたが、孫たちが囲碁将棋を習いに行きはじめてからまったく勝てなくなりました。勝てませんが、むしろ喜ばれています。そりゃあ勝ちたいでしょうから。
せめて、このマンガの内容についてのディスカッションぐらいはできるじいちゃんでいたい。
進藤ヒカル:小学六年生の主人公として始まります。第2巻を読んでいるところでは、囲碁はどしろうとですが、藤原佐為が言うには、進藤ヒカルには囲碁のものすごい才能があるのです。
進藤ヒカルのじいちゃん:囲碁ができる。自分は囲碁が強いと自慢する。孫の進藤ヒカルと囲碁で勝負して負けてしまい、約束したとおり、よつ足つきの立派な五万円の囲碁盤を買ってあげました。いさぎよい、いいじいちゃんです。(じいちゃんの目には見えない藤原佐為(ふじわらのさい)が進藤ヒカルのうしろで、碁石を置くところを指示しました)
藤原佐為(ふじわらのさい):わたしは平安時代(794年-1185年/1192年ころ。約390年間)の人間だと思っていましたが違いました。江戸時代後期の人でした。平安の都(京都)で、天皇に囲碁を教えていたそうです。勝負ではめられて、負けて、自死したそうです。この世に思いが残って成仏できないのです。(自分の思いがかなうまで天国にいけない)思いとは、神の一手(いって)を打つことです。
天保の改革:1841年-1843年。天保の大飢饉が1833年-1839年です。1837年大塩平八郎の乱。老中水野忠邦。財政引き締め。物価抑制。江戸に来た農民の一部を農村に帰した(かえした)。藤原佐為が生きていた時代だそうです。マンガの中では、藤原佐為は、140年前の棋士の霊魂(れいこん。魂(たましい))です。
アメリカ合衆国のペリーが神奈川県の浦賀に来たのが、1853年。鎖国をしていた江戸幕府に開国の要求がありました。
明治維新が、1868年です。
藤原佐為は、クソまじめそうですが、そうでもありません。コミカル(笑いを誘う)でかわいいときもあります。彼は囲碁を打つことが大好きです。ときに、少女のようにもなります。セリフの語尾にハートマーク♡がついたりもします。
藤崎あかり:1986年生まれ。進藤ヒカルの同級生女子。小学六年生。ドラえもんの「のび太」にとっての源静香ちゃんのポジション。
加賀鉄男:中学三年生。囲碁をあきらめた将棋棋士。
筒井公宏(つつい・きみひろ):中学校の三年生で囲碁部長。まじめそうなメガネ君。囲碁部を立ち上げてくれた。マンガ『スラムダンク』におけるメガネ先輩(小暮公延(こぐれ・きみのぶ))のようなポジション。
金子正子:進藤ヒカルの中学同級生。バレーボール部員だが、囲碁部の活動にも参加する。肝っ玉かあさんの雰囲気で、おとなと賭け碁をしていたやんちゃな三谷祐輝とやりあうところがおもしろい。男子に、負けていません。
本因坊秀策(ほんいんぼう・しゅうさく):江戸時代の囲碁棋士。囲碁の歴史上一番強いとされる棋士。
塔矢アキラ(とうや・あきら):進藤ヒカルの同級生。プロ棋士塔矢の息子。彼の言動を読んでいて、性格とか心もちは、自分と共通すると感じました。
塔矢名人:塔矢アキラのおとうさん。プロ棋士。囲碁の名人。厳格な性格の人に見えます。
「シチョウ」という戦法を思い出しました。
先日孫との対局でまんまと自分がはまりました。孫たちは爆笑していました。それは、それでいいのです。わざと負けて喜ばれていましたが、どうにもこうにも勝てなくなりました。喜んでもらえばいい。
ダメ人間だった主人公が、実は隠れた才能をもつ人間であることがわかって、本人の努力と周囲の助けで立派な人間に成長していくという成長物語です。
漫画のストーリーをつくるときの効果的なパターンのひとつです。
すぐに思いつく別のマンガとしてバスケットボール素材にした『スラムダンク』の桜木花道があります。
読者は、読んでいる自分も才能があるごとく、主人公の行動に引き付けられていって、まるで、自分が主人公であるように思い込んで、感動する気持ちが自分の胸に満ちるのです。
まあ、囲碁も将棋もゴルフも、なんでも賭け事にできます。
三谷祐輝(みたにゆうき):碁会所で賭け碁をしていた中学三年生。囲碁部に入る。
インターネットの囲碁のサイトで、世界中の囲碁好きの人と囲碁を打つ。
そういうシーンをテレビマンガでちらりと見た記憶がよみがえりました。
亡霊のサイのいうとおりに進藤ヒカルがネットで囲碁をするのです。当然強い。向かうところ、敵なしです。
押したり引いたりの展開がいい。
じょうずにつくってある原作です。マンガの絵も見やすい。
藤原佐為をバックにして、進藤ヒカルがカリスマ化していきます。(カリスマ:神格化。生き神さま。超人的な囲碁で勝つ力をもつ人)
ライバルが、塔矢アキラで、進藤ヒカルを輝かせてくれます。太陽と月の関係が必要ですが、今はまだ塔矢アキラが太陽の立場です。本当の太陽は、進藤ヒカルです。
昔読んだ『ガラスの仮面』での、北島マヤと姫川亜弓の関係です。昔、北島マヤと女優の大竹しのぶさんがかぶる印象が自分にはありました。
和谷義高(わや・よしたか):囲碁を打つ中学生。院生。プロ棋士試験の受験生。院生:プロ囲碁棋士養成所。青少年少女が属する。
第5巻の最初のほうに出てきたアップルのデスクトップパソコンの形状がなつかしい。iMacアイマックというファッション性が高いスタイルで、ブルーの色が輝いていました。ほかにもガラスのような感じで半透明のカラーがありました。1998年ころでした。
ああ、そのころ、ヒカルの碁を楽しんだ世代は、いまは、三十代ぐらいのママやパパになっているのでしょう。
中学生のクラブ活動っていいなあ。
家にいても楽しいことなんて、なんにもなかった。
今思い出すと、朝練(あされん)というのがあって、たとえば、吹奏楽部でも、始業前に校舎の敷地で、楽器の演奏をしている女子生徒がたくさんいました。
当然、野球部を始めとした運動部員も、朝早く登校して、授業が始まる前から体を動かしていました。
だから、強かったということはあります。練習量の多さが勝利につながります。
第5巻で、なんとなくただよっているのですが、藤原佐為は、江戸時代の人間ではあるけれど、どうも、やはり、平安時代からこの世にいたようです。
140年前の江戸時代は、のちに本因坊秀策となる虎次郎の先生であり、その1000年前には、平安時代の京都で囲碁を打っていたようです。
進藤ヒカルのやんちゃなところがおもしろい。
フク:院生。ふっくらしている。おだやかで、のんびりタイプ。
勝負の世界は厳しい。
越智(おち):院生。小学6年生。
伊角慎一郎(いすみ・しんいちろう):院生。18歳。院生の上限年齢。プロ試験は30歳まで受験可能とまんがのセリフにあります。
藤原佐為は、本能寺の変のときも存在していたそうです。(その後、この部分は、しゃれであることがわかりました。その場の雰囲気を盛り上げるためのショートコントみたいなもの)
1582年6月1日とあります。織田信長さんが、明智光秀さんにやられています。
このマンガでの本能寺での信長の囲碁シーンは、ちょっとうさんくさい。(かなり疑わしい。信用できない。油断しちゃだめ)
尾方九段(おがたくだん):プロ棋士。進藤ヒカルに目をかけてくれている(気にしてくれている。才能を認めている。関心をもってくれている)
白川七段:プロ棋士
夏目:進藤ヒカルの中学同級生。囲碁部員。
津田久美子:進藤ヒカルの中学同級生。囲碁部員。
漫画ですから、理論よりも気持ちが大事な世界です。いやいや、現実社会でも『気持ち』は大事です。信頼関係を裏切らない相手なら気持ちが通じると嬉しくなれます。
小池:中学1年生男子。進藤ヒカルの学年より一年下。囲碁部員
バレーボール部員で囲碁部を助けてくれる金子正子さんが優しい。こういう人の存在が大切です。
真柴(ましば):いやみなプロ棋士男性。最年長院生の伊角をからかう。
第7巻まで読みました。
化け物のような強大な力を秘めている(ひめている)進藤ヒカルに、読者はあこがれます。
自分が、まるで、進藤ヒカルになれたような気持ちになって、まっすぐ立てます。
門脇:大学生のときに囲碁でいい成績だったが、就職した。しかし、再び囲碁界に復帰をしようとしている。
久しぶりに藤原佐為が(門脇と)囲碁を打ったのですかっとしました。
邦画『椿三十郎(主演 三船敏郎)』がらみのような、ひげもじゃの椿さんが出てきます。
第9巻まできて、なんだかつまらなくなってきたのは、なぜだろうか。
進藤ヒカルが強くなりすぎてしまいました。
バスケットマンガ『スラムダンク』も、桜木花道(さくらぎ・はなみち)がへたくそだったころが、一番笑えておもしろかった。
ここ最近の進藤ヒカルは、いつも強い。
持碁(じご):引き分け。こちらのマンガでは、わざと持碁になるように打ちます。
囲碁界の組織とか労働条件とかのような話も出ます。
資金力があるようには思えません。
ボランティア的なサポートで成り立っているような気がします。
韓国人の棋士が出てきました。
藤原佐為(ふじわらのさい)が打つ碁を見てみたい。(第10巻まできました)
越智君と塔矢アキラがからんできて、緊張感が増します。
プロになるための試験の合格争いです。
「第87局 この黒は誰?」が良かった。この黒は、藤原佐為です。
越智19勝1敗 和谷(わや)18勝2敗 進藤ヒカル17勝3敗 伊角(いすみ)17勝3敗
どうなるのだろう。
少し前に読んだ巻では、初期の頃の携帯電話の絵がありました。
折り畳み式のガラケーが出るもっとずいぶん前です。
小さくて軽くて薄くて、液晶画面は白黒でした。
第11巻では、ぶあつくて重たいデスクトップパソコンの絵を見ました。
ふたをあけて、分解して、ショップで買ってきた部品と交換したりして、たいへん長い時間を費やしたことを思い出しました。
仕事が休みの平日に自主的に自費でタイピングのしかたを習いにもいきました。
あの時期があったから、その後の時代の変化になんとかついていけました。
そんなことを思い出しながら、このマンガを読んでいます。
進藤ヒカルが、囲碁が上達するにつれて、囲碁を教える立場である藤原佐為(ふじわらのさい)と進藤ヒカルとのお別れが近づいているようです。
藤原佐為(ふじわらのさい)がマンガからいなくなるとさみしくなります。
出会いがあれば、別れがあるのが、この世のありようです。永久に同じ状態を保つことは無理なことです。
師弟関係を思い出します。
自分の親や祖父母世代は、たいていは、義務教育の中学を卒業すると、家を出て働いて、住み込みだったり、独身寮だったりで、仕事場では、先生役の人がついて、仕事を教えてもらって、同じ仕事を何十年間も続けて生計を維持していくというパターンで、歳をとっていきました。
師弟で、じゅんぐりに、収入を得るためのポスト(立場)をつないでいきました。
いろいろと便利になって、形はずいぶん変わりましたが、今も、たいていの基本は、そのパターンだと思います。
この囲碁マンガでは、師弟関係のことがけっこう強めに書いてあります。
囲碁界に学歴はいりません。囲碁を打つための実力はいります。師匠もいります。同時期に落語家さんの立川談春さんが書いたエッセイ集「赤めだか」を読んでいたのですが、囲碁界と落語会も似通った部分がありそうです。赤めだか:いくら餌をあげても成長しない金魚。いくらけいこを積んでも上達できない落語家にたとえてあります。
桑原本因坊:おじいちゃんです。
タバコの喫煙シーンが多いのが気になります。
喫煙がいやいやながらも許容されていた二十年以上前の絵です。
藤原佐為(ふじわらのさい)に囲碁を打たせてやりたい。
されど、進藤ヒカルの腕が上達してしまったので、藤原佐為(ふじわらのさい)が囲碁を打つ機会がないし、読者も見ることができません。いらいらがつのります。
ふと、気づきました。進藤ヒカルとの別れのあと、藤原佐為(ふじわらのさい)は、また、現世に復活して、だれかにとりつけばいい。50ページなかばすぎ出てきます。
そう思いながら読んでいると、そのような解釈をするシーンが出てきました。
藤原佐為(ふじわらのさい)は、神の一手を極めるために、塔矢アキラのお父上であら塔矢行洋名人と囲碁を打ちたい。
藤原佐為(ふじわらのさい)と塔矢行洋名人との対戦が上手に組まれています。ネットも活用してあります。よく、考えられた手法です。
93ページは、白熱の一戦です。迫力があります。これを待っていました。
第12巻の142ページにある『御器曽(ごきそ)』は、地名の『御器所(ごきそ)』が由来のような気がします。
熱田神宮におさめる土器(どき。うつわ)をつくっていたところの地名が『御器所(ごきそ)』でした。
第12巻を読み終えました。おもしろかった。
(つづく)
第14巻まできました。
わかる人だけにはわかる『藤原佐為(ふじわらのさい)VS塔矢行洋名人』の囲碁戦です。
なかなか見ごたえがあります。
ところが、上には上がいました。
藤原佐為(ふじわらのさい)よりも、塔矢行洋名人よりも、進藤ヒカルが有能なのです。
塔矢行洋名人がプロ棋士を引退するという大きな出来事が起こりました。
引退しても囲碁は打てるという言葉に救われます。
藤原佐為(ふじわらのさい)が現世からいなくなっても、彼はまたどこかでだれかに出会う可能性があります。
そういった、そのあたりの考え方(思考)へのもっていきかたがいい。
「生きていればいい」のです。「生きていること」が大事なのです。
『時間』に対する考察が深まります。
第15巻まできました。
今ごろになって、ふと思う。
塔矢アキラは、なぜおかっぱ頭なのだろうか。
特徴を出して個性を強調するためなのでしょう。
たぶん塔矢アキラも進藤ヒカルも今は中学3年生ぐらいでしょう。
老齢者の自分が思うに、自分が中学生だった頃は、男子中学生は全員が強制的に丸坊主でした。長髪頭の男子中学生はほとんど見かけない日本社会でした。
進藤ヒカルの囲碁の実力が高くなってきたので、進藤ヒカルと藤原佐為(ふじわらのさい)の別れが近づいてきました。
ふたりの会話がかみ合わなくなってきました。
読んでいて、藤原佐為(ふじわらのさい)が消えてほしくないので、進藤ヒカルの藤原佐為(ふじわらのさい)に対する反抗的な態度が、歯がゆく思えます。(思うようにならずもどかしい)
藤原佐為(ふじわらのさい)がこの世から消えてしまいました。
さみしくなりました。
藤原佐為(ふじわらのさい)が、いなくなりました。
もういちど、藤原佐為(ふじわらのさい)に会いたいなあ。
進藤ヒカルは、藤原佐為(ふじわらのさい)に会うために、本因坊秀策の生まれ故郷である広島県因島(いんのしま)へ行きます。
その後、本因坊秀策のお墓があるという東京の巣鴨へもいきます。
因島は行ったことはありませんが、近くの尾道には行ったことがあります。また、巣鴨の商店街にも行ったことがあるので、そのときのことを思い出しながら本を読みました。
進藤ヒカルは、藤原佐為(ふじわらのさい)に対する自分の冷たい態度を強く反省します。
もう囲碁はやめると心を決めてしまいました。
しばらくは、心の放浪が続きそうです。
進藤ヒカルには、自分を責めないでとアドバイスを送りたい。藤原佐為(ふじわらのさい)は、なにも後悔はしていないと思います。
北京の中国棋院で囲碁修行をする伊角慎一郎(いすみ・しんいちろう)です。
進藤ヒカルとの対戦で反則負けをした過去があります。プロ試験で落選しました。
北京は行ったことがあるので、これもまた、思い出しながら読みました。
飛行機で行けば近い距離なのに、政治的には日本とは遠い距離があります。
藤原佐為(ふじわらのさい)に会えない進藤ヒカルは、囲碁を打つことをやめてしまいました。
囲碁を打たない進藤ヒカルには魅力はありません。
進藤ヒカルを囲碁界に復帰させるためには、まわりの人たちの力がいります。
三谷祐輝くん、椿さん、河合さん(碁会所の常連客)などが、イライラします。
体が覚えています。
心でイヤだと思っていても、体が自然と向かっていくということはあります。
そして、伊角慎一郎さんが登場します。進藤ヒカルに反則負けをした人です。正直に自分が反則をしたことを申告した誠実な人です。
ここは、この物語のキモ(重要なポイント)です。
伊角慎一郎さんの名言があります。『プロ試験は目標だけれどゴールじゃない』
進藤ヒカルが囲碁から遠ざかっていたブランク(空白期間)は、実力が落ちる原因です。毎日やらなければ、力は低下します。
ようやく、進藤ヒカルが復活しました。
藤原佐為(ふじわらのさい)は、進藤ヒカルの体の中にいることが、進藤ヒカルに自覚できたのです。
桑原本因坊は、心がでかい人です。
藤原佐為(ふじわらのさい)と進藤ヒカルの囲碁打ち技術が重なる進藤ヒカルは、塔矢アキラからみれば、二重人格です。
塔矢アキラが知らないことを、読者は知っています。
進藤ヒカルにとっての藤原佐為(ふじわらのさい)は、のび太にとってのドラえもんのようなものなのだなあ。
第18巻 番外編 この巻の内容は異質でした。藤原佐為(ふじわらのさい)が姿を消したので、物語の節目にしたのでしょう。
ひと息ついて、塔矢アキラの昔話。小学生のころの塔矢アキラのことでした。
あとは、まあ、囲碁、将棋、麻雀とギャンブル(賭け事)扱いですな。まあ、いいけど。
タバコの煙むんむん、薄暗いところで、おじさんたちがお札をつまんで金のやりとりをしています。劇画のようです。小学生の読者には読ませづらいけれど、こういう世界もあるということを表してもいい。きれいごとばかりを教えていたらこどもの心は壊れてしまいます。
倉田厚プロに似ている知り合いがいます。太っていて、ギャンブルに強くて、絵がよく似ています。
競馬も出てきました。
第19巻まできました。
『神の一手(いって)』の定義がわかりませんが、言葉はかっこいい。人間にはなかなか気づけない逆転の一手なのでしょう。実力による階級社会があります。
お話は、囲碁の戦い、物語はこれから、日本、中国、韓国の棋士たちの戦いの世界へと続いていくようです。
対立していた進藤ヒカルと塔矢アキラは仲間の関係に変化します。
もうふたりの緊張感のある関係は終わりました。
進藤ヒカルと藤原佐為(ふじわらのさい)の幻想的な関係もなくなってしまいました。
もう、読むのはやめようかという気持ちになります。
進藤ヒカルと塔矢アキラは、囲碁キチガイのようになります。
働く人にみられる仕事キチガイみたいな人間像です。
勝ったり負けたりが『勝負』ですが、進藤ヒカルも塔矢アキラも全戦全勝のような勢いになります。それはそれで、スカッともしますが、退屈でつまらないことでもあります。
押したり引いたりがないと、感動が生まれません。
学歴の話が出ます。高校へは行かない進藤ヒカルと塔矢アキラです。
学歴は、資格です。資格が必要な職業に就くつもりの人が進学すればいいのです。
第20巻の71ページ『第160局 一瞬の気後れ』の部分は、カラーページが続きます。
とてもきれいです。見やすい。カラーになったので、びっくりしました。
緒方先生はタバコばっかり吸っています。
進藤ヒカルの中学校卒業式風景が出てきてました。
藤原佐為(ふじわらのさい)がいなくなって、おもしろみが薄れてきたので、第23巻まで流し読みをしようかと思っていた矢先に、強く気持ちを引っぱられる部分にぶち当たりました。
第165局『2手目天元』の部分です。
囲碁のことはわかりませんが、迫力があります。
相手が初手で(しょてで。初めて打つ位置)、「5の五」という点に黒石を打ちました。異例なことだそうです。これに対して、進藤ヒカルが、囲碁盤のどまんなかの点(天元(てんげん))に打ち返しました。これからさき、どうなるのだろう。
第20巻を読みながら感じたことです。
登場人物のキャラクターを大切にされていることが伝わってきました。
越智康介(おち・こうすけ)くんのところでそう思いました。
第21巻です。
読み手が興奮するようにじょうずに話を組み上げてあります。
ストーリー作成のうえで、討論・議論があったのでしょう。
スーパーマンみたいな棋士がいっぱいいます。
日本、中国、韓国の年齢的には中学・高校生たちのチーム対抗戦です。
台湾チームはいないのか。
54ページに別の枠で台湾の話が出てきました。
塔矢行洋名人が、藤原佐為(ふじわらのさい)と対面しているようなシーンがありますが、深くは触れられていません。
韓国チームの選手が、本因坊秀策をみくだすような発言をしますが、その部分の表現はちょっとまずいんじゃなかろうか。韓国の人が見たら、腹を立てるような気がします。(次の第22巻で、ややこしい表現で打ち消してありますが、言い訳のしかたが、失敗しているのではなかろうか)
(つづく)
最終巻(第23巻)まで読み終わりました。
何か力が抜けたような終わり方になってしまいました。
もっとも、藤原佐為(ふじわらのさい)がいなくなった時点で、自分の気持ちの中では、物語は終わってしまいました。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t147489
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません