2021年07月19日

ヒュースケン日本日記 1855-61 青木枝朗・訳

ヒュースケン日本日記 1855-61 青木枝朗(あおき・しろう)・訳 岩波文庫

 タウンゼント・ハリス:1804年-1878年(1868年が明治元年) 73歳没 アメリカ合衆国外交官 初代駐日領事(伊豆下田玉泉寺(ぎょくせんじ)におかれたアメリカ総領事館) 1856年8月、51歳の時に来日(ペリーの2回目の来航が1854年 日米和親条約締結)1858年日米修好通商条約を締結し1859年から下田の領事館を閉鎖して、江戸の元麻布善福寺にアメリカ合衆国公使館を置いて移り住んだ。1862年に帰国した。このころ本土アメリカ合衆国では、1861年-1865年奴隷制度に関連して南北戦争が行われていた。いま放映されている大河ドラマの主役である渋沢栄一氏が、1927年に玉泉寺内のタウンゼント・ハリス氏のための記念碑建立(こんりゅう。建設)に協力されています。

 ヘンリー・ヒュースケン:1832年-1861年 オランダ人 タウンゼント・ハリス氏配下のオランダ語通訳兼書記官 英語をオランダ語に訳して、日本人とはオランダ語で意思疎通をはかった。1856年24歳のときに来日し、1861年1月14日、自身が29歳のときにアメリカ合衆国公使館となっていた善福寺への帰路、薩摩藩士たちに殺害された。

 訳者の「まえがき」があります。1988年12月の記述です。この本は、1964年の英語版を和訳してあるそうです。
 ヒュースケン氏はオランダ人ですが、日記は、フランス語で書かれているそうです。自身のフランス語能力を低下させないためにフランス語で書いていたそうです。ヒュースケン氏は、オランダ語と英語とフランス語ができたそうですが、わたしが思うに、日本に滞在していたわけでありますから、たぶん日本語も多少は習得したのではなかろうか。脳みそが語学習得に適したものだったに違いない。
 日記は、1861年1月8日で終わっており、同月15日にヒュースケン氏は暗殺されています。

 読み始めて数ページで思い浮かんだのは、高野悦子さん(たかの・えつこさん)の日記作品「二十歳の原点(にじゅっさいのげんてん)」でした。高校生のころに読みました。高野悦子さんは、夢を抱いて、栃木県のご実家から京都の大学へ進学されましたが、おりしも学生運動まっさかりのころで、生活や人間関係がうまくいかず、京都市内の鉄道に身を投げて自殺されています。まだ二十歳と半年ぐらいでした。高野悦子さんの日記には、思春期、青年期(こどもとおとなの境界線の時期)に思い悩み、行き詰まっておられた文章がありました。
 このヒュースケンの日記では、彼は、23歳のときにニューヨークの港を出て、大西洋を渡り、ポルトガルの島、アフリカ南部ケープタウンを回りこみ、喜望峰から太平洋に出て、アジアの海を経由して日本へ来ています。大航海です。(スエズ運河工事期間1859年-1869年 ヒュースケン氏の移動は1855年です)
 日記の文章は美しい自然の風景に感謝しながら幸福感に包まれています。されど、その5年後ぐらいに彼は、尊王攘夷(そんのうじょうい。天皇を敬い、外国人を追い払う)思想をもった武士に江戸で刺殺されています。高野悦子さん同様、両者の悲劇に共通する青年期の悲しみがあります。

 日記に「神さま」の存在が出てくるのは、キリスト教の背景と、この時代に精神的に頼るものとして「神」があり、信仰があったのでしょう。
 ヒュースケン氏が航海中に「幽霊船(ゆうれいせん)」に出会った話が出てきます。こどものころに漫画動画で何度か観たことがあります。
 アフリカ大陸の北西にポルトガル領マディラ諸島の港に着くと乞食が集まってくる話も出ます。情を出してひとりに恵むと無数の乞食たちが群がってきます。なんとなく、野生動物へ餌やりをする人を思い浮かべてしまいました。

 マディラ諸島で、乗馬を楽しみます。
 ギャロップ:馬の四本の足が地面から離れる。馬にとっての最速の走りかた。

 物事を的確にとらえた文脈に感じた部分として『生涯を幽囚(ゆうしゅう。閉じ込められること)と定められた修道女たち……』
 
 ナポレオンがとらわれて流されたセントヘレナ島に立ち寄りたいけれど、その思いがかなわなかったことが書いてあります。ヒュースケン氏は、相当、ナポレオンのことが好きです。
 ナポレオン:1769年-1821年 フランス革命期(身分制、領主制の廃止。資本主義の推進。平等、自由、私的所有、人民主権。1789年-1795年)の軍人・皇帝。セントヘレナ島にいたのは、1814年からで、1821年に同島で死去した。51歳没

 プディング:プリンのような食べ物

 『人間が将来を知ることができないのはしあわせなことだ……』という文脈があります。1855年の日記です。このとき彼は自分が1861年に江戸で外国人を嫌う武士に刺殺されるとは予想もしていなかったでしょう。当時の江戸は、外国人にとっては、危険な場所であったという文章を読んだことがあります。

 アフリカ大陸南端の喜望峰が見えて、ケープタウンに立ち寄ります。イギリスが管理している土地です。
 テーブルマウンテンとケープタウンの絵が出てきます。テーブルマウンテンからテーブルクロスという雲がたれさがってきたら天候が急変して風が強くなるそうです。
 オランダ人の農園があります。オランダは日本とも深いつながりがあることを最近になって知りました。オランダ人には親日家が多い。
 この当時の世界では、オランダ語がいたるところで使用されていたそうです。
 
 (この当時の状況で、世界的に観て)『知られざる国、日本……』という記述があります。

 モーリシャス島:マダガスカル島の東に位置する諸島に立ち寄ります。いつだったか、タンカー座礁事故で重油が海に流れ出して問題になったニュースを思い出しました。

 セイロン島(スリランカ)に寄港します。

 ヴァスコ・ダ・ガマ:1469年ごろ-1524年。55歳ぐらい没。ポルトガルの航海探検家

 日記は、1855年10月5日から始まっていますが、1856年3月21日の日記で、ようやく、雇い主のタウンゼント・ハリス氏に面会しています。場所は、マレーシアのペナン島です。マラッカ海峡が銀色の湖のように見えるそうです。
 文章には、地球の美しくて豊かな自然の記事が多く書かれています。それから、いろいろな国のいろいろな民族が出てきます。地球はだれか特定の人のものではなくて、みんなのものです。
 1856年4月4日にシンガポールに到着しました。同月14日にシャム(タイ)に着きバンコックの王様を訪問しています。果物の王様といわれているドリアンを食べています。文章では『それはまさに大蒜(にんにく)と砂糖の腐敗したような味で、もはや生涯に二度とこの悪臭の塊り(かたまり)で唇をけがそうとは思わない……』と続きます。

 マスケット銃:アメリカ南北戦争で使用された。先込め式銃(銃身の先端から弾(たま)を入れる)

 タイ国における民衆は奴隷が多い。奴隷のうちでも最下層が「女」とされています。父親は娘を売ることができる。兄弟は姉妹を売ることができる。夫は妻に飽きたら妻を売ることができると書いてあります。すごい世界ですが、実際にこの世にあったのです。人身売買が公に認められています。2021年の今から156年前のことです。そういえば、以前観た旅の映像で、タイでは女性が働く。男性は働かないという語りを聴いた覚えがあります。ヒュースケンさんが女性差別について関係者に怒りをぶつけると『土地の習慣なので』という言葉が返ってきただけです。

 タイムトラベルを体験しているような読書になってきました。文章が上手です。写真はありませんが、どうもヒュースケン氏自身が描いた風景画が乗せてあります。それで、十分雰囲気が伝わってきます。
 あわせて、外交官のハリス氏も日記をつけています。思うに、紀元前の古代から、記録が好きで、メモ魔で、いつ、どこで、だれが、なにをどうしてどうなったということを文章で残すことが好きだった人はたくさんいたと思います。会社でも、役付きの人たちなどは、人にはあまり見せませんが、毎日の記録を残している人が多いです。そうやっていても、かけひきのために、知っていても知らぬふりをする人もままおられます。

 1856年6月12日に、今話題になっている香港に到着しました。今から156年前の香港の風景は、今とはかなり違っています。
 アヘン戦争(1840年-1842年 清国対イギリス 清国の敗戦)があったのですが、ヒュースケン氏は、清国はアヘンを国民に吸わせてはいけなかったと指摘しています。ヒュースケン氏はオランダ人であり、アメリカ国籍をもっている人なので、香港を支配しているイギリスには距離を置いておられます。イギリスの植民地政策とか軍事力には恐れをもつようにその力を認めています。

 パゴダ:仏塔

 ヒュースケン氏の母親との別れの記述があります。『私に生を与えてくれた女性を、これが最後と抱きしめた…… 一介の冒険者として「新世界」へ旅立った……』
 中国の風景や中国人の辮髪(べんぱつ。髪を一本にまとめて、後ろにたらしている男性)や細い目の顔立ちという姿を見て、『私は月から落ちた男のようなものだ』

 ヒュースケン氏は軍艦に乗って移動しています。
 香港のあと、広東省(かんとんしょう)のまち、マカオに立ち寄っています。中国人のこどもたちから『洋鬼』と呼ばれて泥団子をぶつけられてもいます。それでもヒュースケン氏は街歩きを楽しんでおられます。
 広東省の水上生活者は、水の上で生れ、育ち、結婚し、死ねばおそらく水葬されるのであろうと記述されています。
 
 中国人のジャンク:中国の木造帆船。台風で壊滅的な被害を受けたと記述があります。

 1856年8月21日、ついにヒュースケン氏は伊豆下田湾に到着しました。アメリカ合衆国ニューヨークを出港したのは、1855年10月25日のことでした。10か月ぐらいがかかっています。この当時に生きていた人たちの時間感覚というのは、今の人たちとはずいぶん異なっているのでしょう。あんがいのんびりしていて、豊かな時間の経過を楽しんでいたような気がします。やりたいことを十分にやれる時間があった。移動してしまえば、次にやることは移動に時間がかかっても同じです。

 江戸の地震のあとのようすが書いてあります。人々は淡々と片付け等の後処理をしているそうです。1855年11月に安政江戸地震が発生しています。日本では、そのあたりの数年間で比較的大きな地震が連発しています。
 タウンゼント・ハリス氏が伊豆下田に米国総領事として着任したのが、1856年8月21日で、同月23日に青森八戸(はちのへ)沖で、巨大地震が発生しています。
 それから、165年が経過しています。エネルギーが蓄積されて、近いうちに南海トラフとかの太平洋を震源とする巨大な地震が発生するとか、富士山が噴火(前回は1707年。2021年から314年前)するとか、スーパーモンスター台風が来襲するとか、そんな不安を自分は感じています。

 ヒュースケン氏は、江戸幕府の幹部武士の態度を見て『外国人を迎えることに嫌悪を感じている。200年から300年にわたってき守ってきた孤立主義(鎖国)を固守するつもりでいるらしい……』と評価していますが、日本を文明がかなり遅れている社会と思っていることがわかります。
 武士たちは、外国人の安全を守るということを口実にして、外国人たちにぴったりとくっついて、スパイ活動をしようとします。ハリス氏を始めヒュースケン氏もそのことに猛烈に抗議します。

 日本の港には次から次へと外国船が来ます。アメリカ合衆国、イギリス、ロシア、日本はもう開国するしかありません。
 外国を追い払え、江戸幕府を継続するとして、たくさんの武士たちが闘って亡くなっていきました。世界の状況を把握できなくて、島国育ちの意識を変えることができなかった。長期間の鎖国の罪があります。

 日本人支配階級の質素さに驚いておられます。よその国だと、王宮を築いて、ぜいたくざんまいの権力者が普通なのでしょう。

 外国人の自分たちを見ると、日本人たちは逃げていく。牛馬や犬まで興奮すると嘆いておられます。

 「為替(かわせ)」の話が出てきます。ドルと日本の銀との交換率の交渉です。1858年日米修好通商条約締結につながっていく交渉が延々と続く1857年の出来事です。江戸幕府側はのらりくらりで膠着状態です。(こうちゃくじょうたい。なかなか前に進まない)
 ハリス氏が将軍に会って、直接アメリカ合衆国大統領からの手紙を渡したいと申し出ますが、幕府側はかたくなに直接の手渡しは許されないと拒否します。どうもよその国のようすでは、直接手渡しがあたりまえのようです。日本は不思議な国だと思っている米国側の心理です。

 乗馬に使用する「馬」のことが、現代の「自家用車」のような扱いで記述があります。ヒュースケン氏は、自分はニューヨークでは貧民だったけれど、ここでは自分の馬を買うことができたとたいへん喜んでおられます。

 『日本人は、何事も規則に従って一定の時に行うらしい。朝昼晩、三度の食事はすべて同時刻に食べる。一年に四回、同じ日に衣替えをする……』なるほどという記述が続きます。

 日本にはまだ「鉄道」がない。同様に「馬車」もない。平安時代には「牛車」はあったような気がしますが、ヒュースケンさんに言われてみれば江戸時代に「馬車」というのは聞いたことがありません。
 江戸の徳川幕府十三代将軍徳川家定に会いに行くことになるのですが、不思議に、海路ではありません。わたしは船で伊豆下田から江戸へ行くのだと思っていました。えらい、むずかしいルートをとっています。幕府のいやがらせでしょうか。下田から伊豆半島の東側を通って熱海方面へ行くのかと思っていたら、反対側、湯ヶ島から修善寺、三島から箱根の関所、箱根の峠を越えて小田原というルートです。かなり苦労されていますが、富士山の美しさが素晴らしいと感激されています。スイスの氷河やヒマラヤの山脈よりもいいと絶賛されています。富士山に向かって脱帽して『すばらしい富士ヤマ』と叫んだそうです。もはや、富士山は神です。時は1857年10月出発の頃です。将軍との面会は12月7日でした。
 自分は、修善寺のお寺も三島大社の神社も行ったことがあります。ヒュースケンさんも訪れています。ヒュースケンさんは源頼朝のことも知っています。日本語学習も熱心で親近感が湧きました。
 三島大社の池には、大きな金魚がいるというのは錦鯉のことでしょう。
 
 ケンペル:ドイツ人医師。日本訪問時のことを『日本誌』として遺した。1651年-1716年 65歳没 日本訪問は、1690年長崎出島に医師として着任。二回江戸参府。五代将軍徳川綱吉と謁見(えっけん。身分の高い人に会う)1692年に離日しています。
 
 流れとして、
 1854年:日米和親条約締結(鎖国廃止。下田、函館の開港。座礁、難破のときの協力関係)第十三代将軍徳川家定。徳川家定の奥さんが篤姫
 1856年:アメリカ合衆国領事タウンゼント・ハリス氏が伊豆下田に来て着任。通訳がオランダ人のヒュースケン氏。
 1857年12月7日タウンゼント・ハリス氏とヒュースケン氏を江戸城内に引き入れて、33歳の十三代将軍徳川家定が引見。徳川家定は、1858年8月14日34歳で病死
 1858年:日米修好通商条約締結(治外法権を認める。関税自主権なし。修好:国と国が親しくなる)
 同年、安政の大獄の発生。幕府による一橋派、尊王攘夷派(天皇を敬い、外国を追い払う)吉田松陰など100名が罪に問われた。

 タウンゼント・ハリス氏の一行(いっこう いっしょに将軍徳川家茂に会いに行くメンバー)は、今、本のなかでは、箱根の関所から山を下りて、藤沢市あたりを歩いています。ヒュースケン氏は馬に乗っています。道の両側で、庶民が土下座をして頭をさげているのでたいへん驚かれています。そして、そのことを悲しんでおられます。そのようなことをさせる徳川幕府の権力の強さにもびっくりされています。
 そして、ただいま、本のなかでは、神奈川県川崎市を通過中です。1857年11月28日土曜日です。

 207ページに1874年当時の江戸日本橋の絵があります。今とはずいぶん違います。

 リアルにそうだろうなという記述に納得させられます。江戸城内での十三代将軍徳川家定とタウンゼント・ハリス、ヒュースケンとの謁見に至るまでのシーンです。『彼らはなんでも両手で頭の高さに差し上げて運ぶ』『合衆国の旗を前に立てたハリス氏』『(江戸城内は)絵のような眺め(ながめ)』『きわめて深い静粛(せいしゅく)』『(シャムの宮廷は、金や宝石で飾り立てていたが、江戸城内は)しかし、江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳を備えた延臣(ていしん。役人)たちの態度……そういったものは、インド諸国のすべてのダイヤモンドよりもはるかに眩い(まばゆい)光を放っていた(はなっていた)』
 ハリス氏の日記にもあったと思いますが、ヒュースケン氏の日記にも、もしかしたら自分たち米国人は、日本国の良き文明を滅ぼそうとしているのではないかという不安に襲われています。そんな文脈の日記が遺されています。ハリス氏には、当時の日本を世界中で一番幸福な国に思えると感想がありました。ヒュースケン氏も、『この国の人々の質撲(しつぼく。素直で飾り気がない)な習俗(しゅうぞく。習慣、風俗)とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい(たのしい)笑い声を聞き……』と記されています。このページの文章を読んでいると日本人として日本人であることの誇りを感じます。

 シーボルト:1796年-1866年 70歳没 ドイツの医師、博物学者 長崎出島のオランダ商館の医師 1823年-1830年帰国。1859年再来日、1862年帰国

 1637年に起きた島原の乱の記事が出てきます。1638年キリスト教禁止の勅令(宣教師、信者を告発した者に賞金を与え、カトリック教を広めた者は投獄する……)

 この当時、地震がよく起きているようで、地震の記事があります。『だしぬけに、家がひどく揺れはじめた……』

 東京にある湯島聖堂の記事があります。行ったことがあるので、イメージできました。

 日米修好通商条約締結までの交渉はなかなか困難を伴い時間がかかっています。対立があります。
 長崎から三里のところに石炭の鉱脈が見つかったとか、長崎平戸港のこととか、越後新潟の港の開港とか、京都は一里四方しかなく、僧侶のものであり、大名はそこでは権力がない。大坂(大阪)の開港は許可できないとか。なかなかたいへんです。江戸幕府側はかたくなに排他的です。そして、日本という国は、日本の精神的元首、神の子、帝国の古くからの独裁者について、よくご存じでと幕府側の話が続きます。幕府は、外国を受け入れることで、内乱が起きることを予想しており、民衆の蜂起(ほうき。暴動、反乱)を恐れています。
 条約をつくる交渉は、法律をつくるような感じで、何度も繰り返されています。
 ハリス氏はアメリカ合衆国大統領の意思を伝えます。条約を拒否すれば、日本はヨーロッパの国々から危険にさらされるだろう。日本は外国に利権を与えなければ、戦争と征服で脅迫されるだろう。外国から攻撃されることを選ぶのか、国民の反乱を選ぶのか、二者択一です。
 ハリス氏は「貿易」の利益について江戸幕府の役人に話します。貿易は一個人や一国家のためにあるのではないというような趣旨です。貿易は全体の利益につながる。貿易をなおざりにするとスペインやポルトガルのように国家が衰退する。スペインのポルトガルも昔は世界最強の国だった。
 江戸幕府側は、古くからの「掟(おきて)」を守らなければ、自分たち江戸幕府は滅びるというような受け答えをします。

 条約交渉時や付き合いで登場する幕府側役人として「森山」「信濃(しなの。しなのの殿様)」「肥後守(ひごのかみ)」「堀田備中守(ほったびちゅうのかみ)」「小栗豊後守(おぐりぶんごのかみ)」

 ほかに、ドンケル・クルチウス:オランダの外交官

 大名たちの考えはかたよっています。「大名は、金銭や税金、関税に関心がない。貿易のことが何もわからない」大名側の言い分として「命は惜しくはない。それが問題ではない。われわれは父祖の掟(おきて)に忠実でありたいのだ」と変化を嫌っています。

 当時の日本は旧正月です。1858年2月14日が安政5年1月1日です。

 アメリカ側からみた考えとして、当時の日本人庶民は、天皇の制度とか武士の制度とかを理解できていないという趣旨の記述があります。
 日本人庶民は、幕府・大名という管理する側から指示されたとおりに暮らしている。
 皇帝制度(天皇制)の天皇は、支配の実権を握っているわけでもなく、武士が日本人の精神的支えである天皇の存在を利用しているというような解釈があります。
 いっぽう江戸幕府上層部役人から、天皇から条約締結の許しが出れば「この国の大名の叛逆的(はんぎゃくてき。権力にさからう)な、頑迷(かたくなで考えに柔軟性がない)な心情を変えさせるであろう」という意見があります。
 日記に江戸幕府の苦しみがにじみでています。
 なかなか複雑です。話がかみ合っていないまま騒乱へと突入していきます。安政の大獄、桜田門外の変(井伊直弼暗殺)、戊辰戦争、西南戦争…… 幕府が恐れていたとおり、外国に門戸を開くと内乱が起きて、幕府は滅びます。わかっていてもどうすることもできないのが時代の変化です。

 江戸時代の幕府による武家制度は、なんとなく世界に今もある独裁国家のようです。それでも安心して毎日が遅れればいいという考えもあります。

 病名はよくわかりませんが、領事のタウンゼント・ハリス氏が重篤な病気になります。治癒はしますが、これまた理由はわかりませんが、1859年7月4日になにかがあって、通訳職員のヒュースケンと仲が悪くなります。いったんは、ヒュースケンが通訳を辞めているようですが復職しています。
 1860年3月24日には、開国に譲歩した(やむなく相手の意向に従った)井伊直弼大老(いいなおすけたいろう)が暗殺されています。
 その間にふたりに何があったのかはわからないそうですが、ヒュースケン氏側としては、どうも給料が上がらないのが不満のように本には書いてあります。ヒュースケン氏は1858年6月8日でいったん日記を書くこともやめて、1861年1月1日に日記が再開しています。同じ日記帳の続きですから、別の日記帳に記事が書かれたということはないと翻訳者の文章に書いてあります。
 日記は再開されましたが、同月3日、同月7日と8日に記事があって、彼は同月15日に薩摩藩士たちに刺殺されています。まるで遺書か遺言書のような終わり方ですが、本人に自分が殺される予感があったのかどうかは日記を読んでもわかりません。
 その当時、江戸は、外国人にとって非常に危険な場所になっていたそうです。通訳職員のヒュースケン氏を殺害されて激怒したタウンゼント・ハリス氏が幕府に大きな補償を求めて認められています。当時米国大統領だった奴隷解放運動に取り組んだエブラハム・リンカーン大統領も書簡(しょかん。外交文書)でからんで、米国政府から強い要求が幕府側へあったようです。(そのリンカーン大統領も米国で暗殺されています)
 日本の反政府側武士たちは、かたくなにがんこで、変化を嫌い、血の気が多く(興奮しやすくすぐ激高する)、自分で自分の首を絞めながら消えていったのか。感情的になると幸せは遠のいていきます。ローニン(浪人、多くの下級武士の窮乏化とあります)が要因のひとつとあります。
 
 縫航(ほうこう。タッキング):帆船が、風や潮にさからって、ジグザグを描きながら風上へ進むこと。
 
 金竜山浅草寺:ハリス氏とヒュースケン氏は、浅草観音を訪れています。

 1858年7月29日江戸湾上の合衆国軍艦パウハタン号上で、日米修好通商条約が調印された。
 この部分を読んで、第二次世界大戦終戦時の1945年9月2日、東京湾に停泊する米国戦艦ミズーリー上で日本への他国からの降伏要求であるポツダム宣言の降伏文書に調印したことを思い出しました。似たような事例で人を変えながら歴史が繰り返されます。

 江戸幕府の秩序が崩れていきます。米国以外の国からの要求も次々と続きます。米国を優先とする米国との約束を守れません。

 貴翰落手(きかんらくしゅ):きかんは、相手を敬っての相手からの手紙をいう。落手は、手紙を受け取ったということ。1859年7月8日の日付があるヒュースケンからハリスへの手紙。

 読み終えてみて、ヒュースケン氏はタレントのパックンみたいな人というイメージをもちました。
 息子さんを遠い国日本で亡くされたオランダのアムステルダムに住むおかあさんのお手紙も載っています。タウンゼント・ハリス氏にあてたもので、息子を讃える(たたえる)心づかいに感謝の気持ちを表しておられます。

 死の悲劇的なアイロニー:社会貢献のために尽くした人たちが反対勢力の一部の人間による暴力によって命を落とさなければならないという皮肉な世界

 今年読んで良かった一冊でした。

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