2021年06月11日

はじめて読む科学者伝記 牧野富太郎 日本植物学の父

はじめて読む科学者伝記 牧野富太郎 日本植物学の父 文・清水洋美 絵・里見和彦 汐文社(ちょうぶんしゃ)

 以前テレビ番組「出没!アド街ック天国」『大泉学園』でこの方のことが紹介されていました。出演者の方が熱っぽく、牧野富太郎さんの偉大さについて語っておられたことが印象的でした。

 本のカバーには、優しそうな笑顔のおじいさんが描かれています。こんなふうになって老後を送りたい。

 41ページまで読んだところです。読みながら感想をつぎたしていきます。
 かなり大量な量の情報が、本に落とし込んであります。中身の濃さが伝わってきます。
 いわゆる「オタク(ひとつのことに集中する)」の人の伝記という位置づけで読んでいる気分です。動物が好きという人はよく聞きますが、植物がものすごく好きという人は、自分の人生では一人しか知りません。製薬会社で働いていたことがある人でした。植物と薬は関係があるのでしょう。

 さて、本のカバーをめくると、ご本人の白黒写真が出てきました。昆虫採集のようなかっこうをされていますが、昆虫採集ではなくて、植物採集のお姿です。肩から採集した植物を入れる鞄のような箱をぶらさげておられます。

 絵を描く才能あり。小学校を二年で中退したけれど、東京大学に出入りしていた。いったいどういう人だろう。
 研究のためにどしどしお金を使い、地元の名家として裕福だった実家の店(酒蔵と小間物屋「見附の岸屋(みつけのきしや)をつぶしてしまったあと、妻と六人のこどもたちは、借金取りに追われる貧乏暮らしをしたとあります。そこだけ読むとなんとひどい人だろうということになります。でも、偉人なのです。九十四年間の人生をまっとうされています。(ご長寿にあやかりたい(自分も同じようになりたい。うらやましい))

 竹蔵:実家のお店の番頭さん
 成太郎(せいたろう):牧野富太郎さんの小さい頃のお名前
 浪子(なみこ)さん:牧野富太郎さんの祖母(江戸時代の生れ)おばあさんがすばらしい。牧野富太郎さんがねだった高価な『重訂本草綱目啓蒙(じゅうていほんぞうこうもくけいもう)小野蘭山(おのらんざん)著』という本を孫である牧野富太郎さんに買い与えておられます。
 自分の体験として、二十年ぐらい前、電気屋さんで、たぶん孫であろう女子高生がおばあさんにノートパソコンを買ってほしいとねだっていたシーンを思い出しました。おばあさんはパソコンの値段を見て自分でアルバイトをして買ってくれと返答していました。予想以上に高価だったのでおばあさんはたじろいだのでしょうが、おばあさんはたぶんノートパソコンを買うぐらいの貯金はもっていただろうし、そのとき、おばあさんは、もっともっとたくさん貯金をもっていたと思います。たくさんお金があってもほいほいとお金を使えない世代です。もったいない精神が強い世代なので、しかたがないのでしょうが、買ってあげられるものなら買ってあげたほうが、お孫さんのためになるのにと残念な思いをしたことを思い出しました。もし買ってあげていれば、きっとお孫さんはおばあさんに一生感謝してくれたと思います。死んでから相続でお金を渡すよりも生きているうちに渡したほうがいい。へんなことを思い出してしまいました。
 もうひとつは「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子作品では、長女に孫の教育資金をねだられたおばあさんがそのお願いを断ります。ところが、おばあさんは、長男のなりすましでオレオレ詐欺の電話がかかってくると大金をオレオレ詐欺に渡してしまいます。たしか250万円ぐらいでした。長女は、本物の娘には頼んでもお金の援助をしてくれないくせに、他人のオレオレ詐欺には大金を渡すのかと激しく怒ります。あわせて、お金を、長女には出さないのに長男には出すのかと怒ります。いろいろあります。それもまた年寄りの生き方でもあります。

 たくさんの植物の本が次々と出てきます。

 牧野富太郎さんの略歴
 1862年(江戸時代 文久ぶんきゅう2年)土佐(のちの四国高知県)の佐川村(高知市の西。現在は佐川町)で誕生。1868年が明治元年。
 坂本龍馬:1836年(天保6年)-1867年(慶応3年)。1868年が明治元年。土佐藩士。幕末から明治にかけての国づくりに貢献した。
 自分が明治時代のことを頭のなかで思い描くときは、夏目漱石さんの年齢が、明治の年数と一致するので参考にしてイメージをつくっています。
 六歳までに両親と祖父を病気で亡くされています。少年牧野富太郎さんのお顔は、バッタに似ていたそうです。「西洋のハタットウ(バッタ)」と呼ばれていたそうです。
 十歳になる頃から「寺子屋」で文字を習う。その後「名教館(めいこうかん)」という塾で学ぶ。本から知識を得ておられます。
 堀見:牧野富太郎さんの親友
 十七歳:高知市内の「五松学舎(ごしょうがくしゃ)」で学ぶ。
 永沼小一郎:高知の中学の先生。牧野富太郎の恩師。このころの中学は、12歳から5年制です。その上に補習科1年制がありました。
 ラテン語:イタリア半島の古代ラテン人が使っていた言葉で、ヨーロッパ、アフリカ大陸北部地域に広まった。
 明治14年(1881年):19歳になった牧野富太郎さんは、高知から蒸気船で神戸へ行き(当時は海上交通が発達していたのでしょう)、神戸から蒸気機関車で京都まで行き(明治十年(1877年)に神戸-京都開通)東京をめざしたのです。
 京都から三重県四日市までは歩いて行き、四日市から神奈川県横浜までは蒸気船に乗り、横浜から東京新橋までが蒸気機関車でした。
 牧野富太郎さんは商家のあととりお坊ちゃまだったので、付き添いとして、番頭の竹蔵の息子熊吉と会計係としてもうひとりが付いたそうです。19歳の息子への体験投資です。海外研修旅行のようなものですな。
 帰路は、横浜から東海道を、植物を集めながら京都まで歩いています。無限の資料となる草木が生えていたことでしょう。
 明治時代に歩けたということは、現代でも歩いて行けるということです。以前、原付バイクで、何日もかけて東海道を往復をしたという女性がいたという話を聞いたことがあります。そういえば、充電バイクの旅の旅で、出川哲朗さんがかなりの距離を充電バイクで移動されています。

 シーボルト:1796年(寛政8年)-1866年(慶応2年) 70歳没 ドイツの医師、博物学者 1823年(文政6年)に来日1828年(文政11年)に帰国。1859年(安政6年)再来日。1862年(文久2年)帰国
 マキシモヴィッチ:1827年(文政10年)-1891年(明治24年) 63歳没 ロシアの植物学者 1860年来日。1864年離日。長崎でシーボルトと会う。
 1881年(明治14年)に東京上野で、第二回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)開催。入場者数約100万人
 岩崎弥太郎(いわさき・やたろう):1835年(天保5年)-1885年(明治18年) 50歳没 高知県出身 三菱財閥の創業者

 いごっそう(土佐の人の気質):大胆不敵で豪快で、……まっしぐらに進む。やりたことをやり、やりたくないことはやらない。(なんだかわがまま勝手に思えます。やりたいことをやりたいようにやれたら人生に苦労はありません)
 
 牧野富太郎さんが二十歳のときにつくった自分への15の約束があります。読み手として簡略に書くと①忍耐 ②精密 ③草木の博覧(観察) ④書籍の博覧(読書) ⑤「植物学」を中心においた周辺学問の学び行為 ⑥洋書から学ぶ ⑦画図を描く ⑧師に教えを乞う ⑨ケチであってはいけない ⑩足を運ぶことをいやがってはいけない(「めんどくさい」という言葉は禁句。手間をおしんではいけない) ⑪植物園をつくる ⑫仲間をもつ ⑬人の声に耳を貸す ⑭書に書いてあることをうのみにしない ⑮生き物を創造したという者の存在を信じてはいけない(科学的であれ)

 大きなお店の後継ぎとして生まれてきたのですが、高知県から東京へ出て植物の研究をしたい牧野富太郎です。後継ぎの苦悩があります。
 祖母はここでも牧野富太郎さんのよき理解者でした。明治十七年(1884年)二十二歳の牧野富太郎さんを東京へ見送っています。
 
 東京大学の学生でもない牧野富太郎さんが、先生の好意で、植物学研究所のメンバーに加えてもらっています。不思議でした。明治時代という自由を尊重する変化の時期だったからできたのだろうかと推測しました。「植物学研究所」には、いつも草木の標本の束(たば)が積み上げられていたそうです。光景が目に浮かびます。教室の別名が「青長屋」だったそうです。(ただやはり、部外者ゆえにトラブルとなって、75ページで、牧野富太郎さんは植物学研究所への出入りを止められています。組織にはルールと秩序があります。部外者は好まれません。失望した牧野富太郎さんは知り合いのロシア人植物学者マキシモヴィッチさんを頼ってロシアへ渡ろうとしますがご本人が病死されてそれもかないません。そのときに関係した東京にあるニコライ堂というロシア正教会を自分も観光で訪ねたことがあるので牧野富太郎さんの存在を身近に感じられました)

 この物語は、学者さんのお話です。

 牧野富太郎さんが二十五歳のときに、彼の世話をしてくれた祖母が亡くなっています。

 もともと名前がない植物に名前を付けて、整理整とんの記録を付けていく。なんでもそうだったのでしょう。昔、南米ブラジルに移住した日本人は、移住先の滝に名前がなかったので、自分で太郎滝というような名前を付けたと本で読んだことがあります。
 北海道開拓民もそうなのでしょう。昔はそういった何もないところに何かをつくっていく楽しみがあったと考えるのです。牧野富太郎さんの目標は植物図鑑をつくることだったと思います。

 本の出版の話が出てきます。

 結婚話が出てきます。牧野富太郎さんはお酒が飲めない体質で、お菓子が好きだったそうです。お菓子屋の娘さん「壽衛(すえ)さん」と結婚されています。牧野富太郎さんが「明治二十一年(1888年)二十六歳でした。

 根岸:東京都台東区鶯谷(うぐいすだに)駅あたり。上野の北

 江戸川の土手で植物に関する新しい発見があります。遠くまで行かなくて、案外身近なところに大きな発見があるものです。

 72ページと73ページにある見開きの図は、緻密(ちみつ)で丁寧(ていねい)です。愛情がこもっています。

 人脈が必要です。

 植物研究しかできなかった人ということはあります。一芸に秀でる(ひいでる)人は、一芸はできるけれど、そのほかのことはできないということもあります。まずもって、学者生活はできるけれど、利潤を追求するための企業戦士であるサラリーマンには向かない性格・性質というのはあります。
 家業を継ぐのはむずかしい。
 やはり跡取りとしての役割を果たすことができず、自営の事業を閉じておられます。
 頼る基本は血縁・地縁です。
 借金をする人は多い。そして、返済をしない人もある程度おられます。それも世の中であります。もう返済してもらわなくてもいいとあきらめる人もいます。世の中いろいろです。
 なんというか激しい人生です。借金があるのに、子どもを十三人もつくって、そのうち病気で七人が亡くなり、六人が残り、奥さんも亡くなっています。四十八歳のときに大学助手は解雇されています。こどもが多いということは成長したこどもが稼いでくれるということですが育てる手間ひまがかかります。明治・大正の時代ですから、いまよりも男尊女卑の傾向が強かったと思います。奥さんはご苦労されました。奥さんの決断と決定があって、牧野富太郎さんは奥さんに支えられました。700坪(約2310㎡)の土地を東京武蔵野の大泉村で手に入れておられます。牧野富太郎さん64歳、奥さんの壽衛(すえさん)52歳だったそうです。そこが、この文章の冒頭に書いたアド街ック天国の番組につながりました。奥さんはそれから2年後の昭和3年に54歳ぐらいで亡くなっています。
 牧野富太郎さんについて、自分はこの本を読んでいて、はた(一歩距離をおいて)で見ていてつき合うのには楽しくていい人ですが、一緒に仕事をしたいというタイプではありません。かなり負担をかけられそうです。
 敵が半分、味方が半分、それでよしという生き方があります。そんな生き方をされた人です。

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 いい文章があります。趣旨として、草木は美しい。花も美しい。美しいものを見れば、心がゆたかになる。

 明治42年(1909年)47歳 植物採集会を開催。横浜、東京が舞台です。

 植物に関して博学な方ですが、その活動から、地理にも相当詳しかったと思われます。

 読んでいると魚類学者、タレント、イラストレーターの「さかなクン」を思い出します。牧野富太郎さんとタイプが似ています。

 「出版」へのこだわりがあります。本をつくることの意義として、広く知識を広めること。成果を次世代のために財産として遺す(のこす)ことがあります。
 大正五年(1916年)54歳 「植物研究雑誌」が誕生
 大正十二年(1923年)関東大震災 61歳

  135ページの写真にある牧野富太郎のうしろにはものすごい数の植物標本が積み上げられています。驚きました。やはり何事も観るものを圧倒させる物量の迫力が説得力として力を発揮します。

 昭和14年(1939年) 77歳で東京大学の講師を退官。日本が第二次世界大戦に参戦するのが昭和16年(1941年)です。79歳の牧野富太郎さんは中国大陸満州へサクラの調査へ行かれています。すごい。常人にはできません。
 
 医師が「ご臨終です(ごりんじゅうです。お亡くなりになりました)」と告げたあとに、牧野富太郎さんは息を吹き返しています。なんだかすごい87歳です。スーパーマンです。
 生命の限界がわからないと言われていましたが、94歳のときにお亡くなりになりました。昭和32年(1957年)でした。
 
 高知県出身の方ですが、たまたまテレビ番組の「出川哲朗の充電バイクの旅」を見ていたら坂本龍馬の話とバイク旅のようすが放映されました。
 牧野富太郎さんも高知県出身の方なので興味をもって番組を観ることができました。本には、大河ドラマの主人公渋沢栄一さんとは考え方が合わなかったという岩崎弥太郎さんのご親族のことも出ています。岩崎弥太郎さんの弟さん弥之助さんが牧野富太郎さんを金銭面で援助されています。岩崎弥太郎さんは、三菱財閥の創始者ですが、この時代の若い人たちというのは新しい日本のために生き生きとしながら輝いていたことが伝わってきます。
 
 18ページの花の部分名称を記した絵を見て、自分が小学生のときに理科で習ったことを思い出しました。23ページにある「界-門-網-目-科-属-種」もたぶん高校生のときの学科「生物」で習ったような気がします。

 バイカオウレン:春を知らせる白い花

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