2021年05月24日

逆ソクラテス 伊坂幸太郎

逆ソクラテス 伊坂幸太郎 集英社

 ソクラテス:アテネ出身の古代ギリシャの哲学者。紀元前469年頃-紀元前399年。71歳。服毒自殺による死刑。名言を多数残しています。「無知の知」「生きるために食べよ。食べるために生きるな」「 本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれる」「一番大切なことは、単に生きることではなく善く(よく)生きることである」「悪法もまた法なり」
 本人の著書は残っていませんが、弟子のプラトンがソクラテスの言葉を残しています。

 この本では、5本の短編が掲載されています。互いに関連づけてあるのでしょう。前知識はなにもなく読み始めてみます。

「逆ソクラテス」
 この部分を読み終えてみて、心にしみじみと迫ってくるものがありました。いい作品です。今年読んで良かった一本でした。
 中身が一定の水準を超えており、安心して楽しむことができます。
 加賀という男性の人物が小学生時代にあったことを振り返る回想録となっています。主人公は転校が多い転校生で安斎(あんざい)という男子です。安斎の言動に着目する短編です。自分も転校が多かったので、彼と意識が重なる部分がありました。
 プロ野球のテレビ観戦シーンから始まって、プロ野球選手の野球教室でまとめます。
 登場人物たちは小学六年生のこどもたちです。男子が、安斎(あんざい)、加賀(この物語の語り手)、草壁、あこがれのマドンナ的女子が佐久間、ほかに父親が新聞社勤めの土田がいます。
 ターゲットは担任教師の久留米です。教師は神さまでも聖人君子(せいじんくんし。優れた人格の人)でもありません。教師によるえこひいきと差別があります。
 こどもたちが教師をずるがしこく試します。安斎の目的は、こどもをばかにするなというものです。彼は、非力なこどもに圧力をかけてくるおとなに向かっていきます。おとなを信じていません。

 だれかがだれかを見下す社会が学校の中にあります。安斎はそれがいやだと主張します。
 <ピンクは女だ>と言う教師の久留米です。
 安斎の言葉の一部として「自分がどう思うかよりも、みんながどう思うかを気にしちゃう……」そして彼の決めゼリフとして「ぼくはそうは思わない」があります。彼が言う危険な思想が「先入観」です。
 登場人物たちは小学生たちばかりですが、哲学的な(人の生き方を探く考える)内容です。
 
 短編の終わり近くで、結末はどうもっていくのだろうと思いました。一般的な「思い出話」です。だれかが未来で英雄になったとは思えません。
 安斎くんは、人の心を試して、何をしたかったのだろう。
 この短編には書いてありませんが、わたしは安斎くんが、おとなになって、物書きになったと思いたい。
 
「スロウではない」
 前作との関連はなさそうです。共通する体験として「転校」はあります。この本の柱となる素材は「転校」だろうか。
 前作に引き続き小学生時代の思い出話です。おとなになった登場人物が、昔の出来事を思い出しながら、当時の担任教師と語り合います。
 新たな登場人物として、司(つかさ)がいて、彼の友だちの悠太がいます。ふたりで、洋画「ゴッドファーザー」ごっこをします。
 ドン・コルネオーネ:イタリア系マフィア「コルネオーネファミリー」における長。

 小学五年生のこどもたちです。
 リレー競争があります。
 対立やいさかいがあります。

 担任が磯憲(いそけん)、学級委員が近藤修、転入生が高城かれん(たかぎ・かれん)、渋谷亜矢(しぶたに・あや)、村田花(むらた・はな)、ほかに佐藤君と加藤さんが、登場するメンバーです。

 世代の差でわかないのですが、「ドラゴンボールに出てくるピッコロのマント」というのは、「巨人の星に出てくる星飛雄馬(ほしひゅうま)の大リーグボール養成ギプス」のような位置づけのものなのでしょう。

 笑って納得したのは「小学生の時は、スポーツのできる子が人気者で、中学は、面白い子、かっこいい子、高校では、おしゃれな子、大人になったら、お金をもっているやつ」

 社会人になってしまうと、学校でなにがあったかは、なんの参考にもなりません。学校はだれもが強制的に集められた特殊な世界です。
 卒業後に生きる社会では、個人は自分と趣味趣向が共通する集団の中に入っていきます。

 小学校に「いじめ」があります。

 頭脳戦です。上には上がいます。

 群を抜いている発想があります。

 「いじめの加害者が幸せな人生を送るなんて納得できない」という怒りがあります。

 胸にグサっと刺さった言葉として「敵を憎むな」

 「友情」と「愛情」で締めてあります。良かった。今年読んで良かった一冊です。

「非オプティマス」
 オプティマス:ラテン語で「最良」という意味。
 この作品では、洋画がからめてあります。わたしは観たことがない洋画です。サイバトロン星から来た宇宙人の話だそうです。
 司令官オプティマスプライムは、普段はトレーラーの形をしているが、いざというときは変形する。「トランスフォーマー」車が変形してロボットになる。タイトルのオプティマスは映画にもひっかけてあります。

 これまでに「逆ソクラテス」と「スロウではない」を読んできて、「人間って何だろう」とか「幸福って何だろう」という意識が芽生えました。幸福な状態ってどんな状態なのだろう。
 本のタイトルどおり、哲学者の気分になってきました。
 「無知の知」から、愚かであった。あるいは、愚かである。自分が知らないということを自覚できていない。だれが…… 第一話の「逆ソクラテス」の場合は、小学校担任教師の久留米が、第二話の「スロウではない」では、小学生男子だった「司(つかさ)」が。

 中編のショートショート(胸がすくような短いお話)のようでもあります。

 小学五年生の担任の久保先生は、先生になりたてです。すらりとした体格、長い首、そして、うつ病ぽい。
 先生にからんでくるのが、騎士人(ないとという意地悪な男子)、主人公の将太、転校してきた安井福生(やすい・ふくお。安そうな服を毎日着ているから、安い服男とからかわれる。細く小柄な体格。母子家庭)、潤(父子家庭。体が大きくて運動ができる)

 少年たちの言動には、あちこちに飛ぶ空想があっておもしろい。豊かです。外見と中身が異なります。人間が強い。とくに安井福生くんが。
 登場してくる人物の個性が魅力的です。

 胸に響く言葉として「人間が完璧じゃないってことも知ってるだろ……」「政治家が失脚するときは……(スキャンダル(不祥事、不正、情事、恥、不名誉、みっともないこと))相手に勝つために相手の弱みを握る。それがオプティマス(最良の手段)ということ」 「体罰には効果の限界があるという表現、あわせて、暴力の限界」「優しいというより無関心」「厳しいだけでは人は育たないというような趣旨」「死ななくてもいい人が偶然の交通事故で亡くなるという人間の運命めいた暗示」「最愛の人を亡くして、ようやく慣れるということ」「私は別に、牧師じゃないので……」
 情景描写の文章と人物の言動表現の対比がすばらしい。聖書のような神の教えがあります。<答えのはっきりしないことに対する最善の策を考える><人は、ほかの人との関係で生きている>
 「評判(信用とも読み替えてもいいと思いました)」「迷惑をかける人間は仲間からはずされる」「迷惑をかける人間に対しては『可哀想に』と思えばいい(ここが無知の知につながっていくのでしょう。同情されることはけっこうつらい)」

 こじれた国同士の外交交渉を見るようです。

 二話で出てきた「敵を憎むな」という言葉が頭の中で反響します。
 いい話でした。表現力がすごい。

「アンスポーツマンライク」
 否定形のタイトルが続きます。「逆ソクラテス」「スロウではない」「非オプティマス」そして今回が「アンスポーツマンライク」これに続く最後の作品が「逆ワシントン」です。反対側からの視点でものを見て分析して考えるのでしょうか。まだよくわかりません。

 バスケットボールの話です。第二話の小学生ミニバスケットボールで出ていた磯憲先生が月日を経て登場します。そして、さらに月日が流れていきます。時が瞬間時間移動で進みます。この作家さんの特徴です。

 小学6年生のときのメンバーです。
 駿介(しゅんすけ。高校でバスケ部をやめてバスケを素材にしたユーチューバーになる)
 歩(あゆむ。主人公。名前は歩だが、肝心な時に一歩を踏み出せない。公務員になる)
 匠(たくみ。小柄。その後、身長は伸びて、大学は医学部)
 三津桜(みつお。いつもにこにこ丸顔。母が喫茶店を経営している)
 剛央(たけお。小学生の頃は背が高かったがその後伸びず。成長してバスケットを小学生たちに教えている)

 暴言を伴うパワハラ的なスパルタ方式によるバスケットプレイ教育への批判があります。「あ、それ効果ないです」という三津桜(みつお)の母の声です。
 暴言・暴力を振るう指導者は、人がやりたくないポストだからそのポストに就けるということもあります。周囲は冷めた目でその人を見ます。
 名言の提示があります。「バスケットの試合での残り1分は『永遠』ということ」

 「ギャンブルはするな」の解説も光っています。「うまくいけば最高だが、駄目だった時は最悪の展開」とあります。ギャンブルです。「一か八か(いちかばちか)」とあります。
 言葉の特性をとらえてバスケットの指導をします。「派手なプレイよりも、地道な動きを真面目に繰り返すほうがよっぽど強いんだ」とあります。

 弾いた:はじいた。
 ルーズボール:こぼれ球(だま)
 マークマン:特定の相手の攻撃を妨げる役割の担当者(バスケットボール)
 ボールマン:攻撃側のボールを持っている選手
 ダブルチーム:ボールマンを守備側のふたりの選手ではさむ。
 アンスポーツマンライクファウル:重い反則。スポーツマンらしくない不正
 バスカン:バスケットカウント。3ポイントあるいは4ポイントをいっきにとれるチャンスのとき。
 
 鍵を握るらしき言葉として『型に嵌(は)めようとする指導者』
 具体的な理由の提示がなく、恐怖だけを与えられると、与えられたほうは、恐怖を与えた相手の顔色をうかがうようになる。
 記述にも少しありますが、昔は家庭環境の悪い家のこどもが素行(そこう。言動。態度)が悪くなると噂されましたが、最近は、いいところのこどもさんが凶悪事件を起こすようになりました。人間教育はむずかしい。
 第二話で話のあったゴッドファーザーに出てくるコルネオーネ(ギャングのボス)のことが登場しました。
 これから先、この話はどうなるのだろう。どう決着をつけるのだろう。

 哲学的な作品群です。
 ただ、理屈が通じない人間の脳もあります。(読み終えてわかったのですが、人をあくまでも信じて善人としてとらえる作品です。そこがどうかと感じました)

「逆ワシントン」
 つぎたしながら読書メモを書いています。
 いま、この本全体を読み終えたところです。
 失速したような終わり方をしてしまいました。
 この「逆ワシントン」では、前話に登場していた駿介(バスケット部員だった。バスケを素材にしたユーチューバーからバスケットボールプロチームへ入った)ともうひとりが、時間を経過して出てきます。もうひとりがだれなのかがわかりにくいのですが、わたしは、最初、三津桜(みつお。いつもにこにこ丸顔。ふわふわのお菓子みたい。アプリケーションソフトウェア製作会社(ゲーム、表計算、動画など)を友人と立ち上げる)だと思いました。(その後、ネットを見て、三津桜ではないことがわかりました。なるほどと納得しました。ここにはだれとは書きません)

 こちらの逆ワシントンという話で出てくる小学三年生です。
 倫彦(としひこ):野球少年
 謙介(けんすけ):主人公。「僕」で表記される彼が物語を引っぱります。
 京樹(きょうじゅ。謙介が付けたニックネームは教授。クレーンゲームの研究発表をした)
 靖(やすし):母親が離婚して再婚した。母親の連れ子。若い義父に虐待されているかもしれないという疑いあり。

 学校は物語が生まれる宝庫です。
 こどもは親に復讐することがあります。うらみを胸に抱いて仕返しのチャンスがきたら実行されます。

 読んでいて、十年以上前にケーブルテレビの映像で楽しんでいたアメリカ合衆国の「アメリカン・アイドル」という番組を思い出しました。歌手になりたい人のオーディション番組なのですが、たまに、こんな人がこんな美声をもっていたのかと驚かされることがありました。人は見た目では才能はわからないのです。
 この本では、逆転人生を表現しようとしています。
 ただ、一発屋(一時的に活躍)を讃えるのではなく、真面目に哲学をしています。最終的なメッセージとして『真面目で約束を守る人間が勝つ』『地味でいい』『ちゃんと謝る』があります。
 ちゃんと謝るが、アメリカ初代大統領ワシントンの少年期の話につながります。斧の切れ味を試したくなったワシントンが、庭の桜の木を切ってしまったことを父親に話して謝ります。正直は大事というお話です。
 この短編では、「嘘をつくこと」にかかわる考察もあります。
 
 心に響く文節として「人間って、実は(じつは)、誰かが困っているのを見て、楽しいと思っちゃうところがある」

 最近のニュースと重なる部分として、こどものころにいじめられていた人はいじめられていたことを一生忘れない。だから、何年もたってから、有名人になったいじめっこがいたら、仕返しとして、その人の過去を暴露して、世間の評価を下げるという罰を与える。
 人をいじめるときには覚悟がいることをこどもに教えたほうがいい。仕返しされる危険が長く続きます。ただ、いじめる人の性格は生まれもったもので、そのときどきによって強弱はあっても消えることはないような気がします。
 
 あいまいなものに、なんとか決着をつけようとしたのですが、決着がつくわけもなく、本作品が、最終的に失速した原因と感じました。
 チャンスの提供がありますが、この世には、温情が通じない人がいます。

 虐待していると思われる相手に対して、はっきりと、あなたは虐待をしているんじゃないですかと聞けるのは、小学生だからできる特権でしょう。
 おとななら、専用ダイヤルとかで専門機関へ連絡して、だけど、電話をしながら、どこまでしっかりやってもらえるのだろうかと不安はもつのでしょう。
 
 「運動能力」に関する考察もあります。人それぞれできることできないことがあります。運動以外のことも含めて、自分ができることは人もできると思うのは勘違いです。
 
 見た目では、虐待をしていそうな人がしていなくて、虐待をしていなさそうな人がしているということもあります。

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