2021年04月03日
52ヘルツのクジラたち 町田そのこ
52ヘルツのクジラたち 町田そのこ 中央公論新社
この本を読みたいと思った動機です。八年ぐらい前に読んだ窪美澄(くぼ・みすみ)著「晴天の迷いクジラ」が名作でした。映像化されるといいのになと思っていますがかなっていません。自殺したい三人が海岸に打ち上げられて死にそうになっているクジラを車に乗って見に行く話でした。
ふたつの本のタイトルが似ていたので読むことにしました。類似作品でもかまいません。クジラへのこだわりはどこからくるのだろう。
「1 最果ての街に雨」
章なのか、短編の区切りなのか、分割して話が並んでいます。八個のちいさな固まりがあります。(あとで、つながりがあることがわかりました)
二十代後半の女性である三島貴瑚(みしま・きこ。愛称としてキナコ)は、東京のマンションを引き払って大分県にある海岸沿いの街へ引っ越してきました。
彼女のまわりには、大工の村中、村中の弟子のケンタ、地元のおばあさんなどがいます。そして、児童虐待にあっているらしきこどもさんが登場します。
大分県の海岸沿いの街と東京の賃貸マンションが建っているところの風景が頭に浮かびます。過去に見たことあるような景色です。
世代の差なのか、文章はマンガチックに感じます。展開が絵になって目の前で動きます。
三島貴瑚のふだんは、わびしくさみしい。わけありです。度を超して激しい内容になりそうです。
「2 夜空に溶ける声」
児童虐待の話、親子関係・親族関係の破たんの話です。そこにクジラの声がからんできます。
ぐっときた言葉として「わたしはもう、誰かに助けられたくない」
うーんなんだろうこの感覚。虐待する親は毎日何を楽しみに暮らしているのだろう。
きょうだい間差別もあります。
一人称の語りで進行が続きます。ときに祈る声に、ときに叫び声に聞こえます。
まだこの時点で「秘密」が複数あります。秘密がわかることが、これから読むことの楽しみです。
クジラの声が表現するものが、人間の「孤独」です。
世代によって「お妾さん(おめかけさん)」に対するイメージが異なるかもしれません。なんというか半世紀以上昔の時代は、実態として一夫多妻制のような生活習慣が残っていたという記憶です。二号さんとかいって軽蔑されるというよりも、そういう立場で社会的に認められていたポジションだったというこどものころの記憶があります。だから、そういう事例が多かった。よくあることだったということです。(その後、今は、シュリーマンの日本に関わる旅行記を読んでいるのですが、江戸時代末期で、日本では正妻がいて、妾は何人もってもかまわないという一夫多妻制になっていると書いてあります。現代の感覚とはかなり異なります。さらに貧しい親がこどもを売ることもあるが、だれもそれを悪いこととは思っておらず、売られた先で読み書きや計算、礼儀作法を学んで、期限がくると親元に帰ることもできた。優れた社会的システムがあるというようなシュリーマンの観察、分析、考察があります)
この物語のほうは、読んでいるとだんだん悲しい気持ちになってきます。
「ドアの向こうの世界」
うーむ。設定に無理があるような。
実母の再婚による義理の父親と義理の娘の関係において、お互いに扶養の義務はないと思われます。血縁関係のない主人公が病気になった義父の介護をすることは、現実的ではありません。
主人公には、被害妄想の心理があります。読んでいてちょっと距離を置きたくなりました。主人公は心の病(やまい)です。
鍵を握る男性が現れました。岡田安吾さん。アンパンマンに似ているから安吾(あんご。パンの中身のあんこのつもり)さんなのでしょう。
親子とは思えない実母と主人公女子の親子関係があります。
攻撃したあと慰めるという典型的なDV、虐待パターンがあります。
「再会と懺悔(ざんげ。神仏の前で罪を告白する)」
筆談があります。家庭環境に恵まれないこどもさんがいます。こどもさんの実母にはずいぶん棘(とげ)があります。だれかのせいにして自分の正当性を主張する人です。
福岡県北九州市は行ったことがあるので読んでいてその風景をイメージできます。
うーむ。なんだろう。読んでいて、登場人物たちの気持ちの緩さ(ゆるさ)を感じます。弱い。行動力にいまいち勢いがない。
こどもを金づる(労苦を体験せず楽にお金を手に入れる)にする親がいます。役所からもらう手当が目的です。暗くて悲惨なお話です。
なにかしらうわべだけのことで話が進んでいるような気がする142ページ付近に今はいます。
MP3プレーヤー:小型携帯型のデジタル音楽再生機器
「償えない過ち(あやまち)」
若くて未熟な甘えがあります。
若い女子が読む本です。
主人公女子は、まわりに苦しみを与える人間に見えます。
社長の息子からの申し出は、プロポーズではなく、体だけが目的の愛人契約の申し込みだと思う。
いい人なんていない。みんな自分が良ければそれでいいと思っている。人間のもつ「悪」をあぶりだすのが、小説の一面です。
人間は不完全で、不完全な人間がいっぱいいるけれど、すり寄ったり、離れたりしながら折り合いをつけて生きていかなければならない。そうしないと自死が近づいてきます。
この世は誤解と詐欺(さぎ)で成り立っています。
たぶん社長夫婦はお互いにダブル不倫をしているのでしょう。お金の使い道がないのでしょう。
古代ローマ帝国の支配者と奴隷の関係を思い出しました。
社長の息子は、物事を考える基準の置き場所が庶民とは異なります。
睦言(むつごと):男女の寝室での語らい
「届かぬ声の行方(ゆくえ)」
人の名前を呼ぶときに「52」と呼ぶのはどうかと抵抗感を感じます。無機質な感じがします。生きているということが感じられない。命が感じられないということです。(読み終えてわかるのですが、ラストへの伏線でした)
読んでいる途中で、<そういう方向性の小説だったのかと立ち止まりました。そうとは、途中、わかりませんでした>
夢の中の出来事のようです。
「わたしを殺したかったのはわたし」(最近見たEテレのテレビ番組で、池田晶子さんの本『14歳からの哲学』に関する解説がありいろいろ考えました。心には形がないのです。自分の思う空間の中に自分が造る自分だけの気持ちがあるのです。だからめげなくていい。自分で自分を励まして、自信をもって、わたしは今のままのこれでいいと思って生きていけばいいのです)あわせて付記すると、黒柳徹子さんが番組『徹子の部屋』で「わたしは、反省はしません」とおしゃっていたことも思い出しました。
「最果てでの出会い」
会話で物語を引っぱって行くパターンです。
良かった表現として「あれは琴美によく似た生き物だったに違いない」
物語のなかにある提案は、片方が成人しているとはいえ、ふたりとも心はこどもであり、他人同士でのふたりが暮らすのは無理です。「暮らし」というものは、きついものです。
法令の根拠の下(もと)にいないと守られないのが「暮らし」です。
なにかしら、肌にザワリと怖くなってくるものがあります。
諫めて(いさめて):若い方が目上の人に忠告する。
誑かす(たぶらかす):だます。まどわす。
張り子の虎:虎のおもちゃ。意味としては、見かけだけで強くない人とか首を振る癖のある人とか。
憐憫(れんびん):あわれむ。かわいそうと思う。
尚のこと(なおのこと):いっそう(強調)
魂の番:守ってくれる人。作品「精霊の守り人(もりびと)」を思い出しました。
「52ヘルツのクジラたち」
やはり生活を法令の形式におさめます。形だけではなく中身も、ともなっていなければなりません。
だんだん登場人物が増えてきました。
読み終えてみて、ちょっと異世界の話かと思いましたが、いまの中学生から二十代の若い女性たちの心の内には、こういった情景世界が広がっているのだろうと考えました。
子ども食堂:地域住民や自治体が運営している。子どもたちに無料または低価格で食事を提供している。
ダマスク柄:植物、くだもの、花柄などの連続模様
この本を読みたいと思った動機です。八年ぐらい前に読んだ窪美澄(くぼ・みすみ)著「晴天の迷いクジラ」が名作でした。映像化されるといいのになと思っていますがかなっていません。自殺したい三人が海岸に打ち上げられて死にそうになっているクジラを車に乗って見に行く話でした。
ふたつの本のタイトルが似ていたので読むことにしました。類似作品でもかまいません。クジラへのこだわりはどこからくるのだろう。
「1 最果ての街に雨」
章なのか、短編の区切りなのか、分割して話が並んでいます。八個のちいさな固まりがあります。(あとで、つながりがあることがわかりました)
二十代後半の女性である三島貴瑚(みしま・きこ。愛称としてキナコ)は、東京のマンションを引き払って大分県にある海岸沿いの街へ引っ越してきました。
彼女のまわりには、大工の村中、村中の弟子のケンタ、地元のおばあさんなどがいます。そして、児童虐待にあっているらしきこどもさんが登場します。
大分県の海岸沿いの街と東京の賃貸マンションが建っているところの風景が頭に浮かびます。過去に見たことあるような景色です。
世代の差なのか、文章はマンガチックに感じます。展開が絵になって目の前で動きます。
三島貴瑚のふだんは、わびしくさみしい。わけありです。度を超して激しい内容になりそうです。
「2 夜空に溶ける声」
児童虐待の話、親子関係・親族関係の破たんの話です。そこにクジラの声がからんできます。
ぐっときた言葉として「わたしはもう、誰かに助けられたくない」
うーんなんだろうこの感覚。虐待する親は毎日何を楽しみに暮らしているのだろう。
きょうだい間差別もあります。
一人称の語りで進行が続きます。ときに祈る声に、ときに叫び声に聞こえます。
まだこの時点で「秘密」が複数あります。秘密がわかることが、これから読むことの楽しみです。
クジラの声が表現するものが、人間の「孤独」です。
世代によって「お妾さん(おめかけさん)」に対するイメージが異なるかもしれません。なんというか半世紀以上昔の時代は、実態として一夫多妻制のような生活習慣が残っていたという記憶です。二号さんとかいって軽蔑されるというよりも、そういう立場で社会的に認められていたポジションだったというこどものころの記憶があります。だから、そういう事例が多かった。よくあることだったということです。(その後、今は、シュリーマンの日本に関わる旅行記を読んでいるのですが、江戸時代末期で、日本では正妻がいて、妾は何人もってもかまわないという一夫多妻制になっていると書いてあります。現代の感覚とはかなり異なります。さらに貧しい親がこどもを売ることもあるが、だれもそれを悪いこととは思っておらず、売られた先で読み書きや計算、礼儀作法を学んで、期限がくると親元に帰ることもできた。優れた社会的システムがあるというようなシュリーマンの観察、分析、考察があります)
この物語のほうは、読んでいるとだんだん悲しい気持ちになってきます。
「ドアの向こうの世界」
うーむ。設定に無理があるような。
実母の再婚による義理の父親と義理の娘の関係において、お互いに扶養の義務はないと思われます。血縁関係のない主人公が病気になった義父の介護をすることは、現実的ではありません。
主人公には、被害妄想の心理があります。読んでいてちょっと距離を置きたくなりました。主人公は心の病(やまい)です。
鍵を握る男性が現れました。岡田安吾さん。アンパンマンに似ているから安吾(あんご。パンの中身のあんこのつもり)さんなのでしょう。
親子とは思えない実母と主人公女子の親子関係があります。
攻撃したあと慰めるという典型的なDV、虐待パターンがあります。
「再会と懺悔(ざんげ。神仏の前で罪を告白する)」
筆談があります。家庭環境に恵まれないこどもさんがいます。こどもさんの実母にはずいぶん棘(とげ)があります。だれかのせいにして自分の正当性を主張する人です。
福岡県北九州市は行ったことがあるので読んでいてその風景をイメージできます。
うーむ。なんだろう。読んでいて、登場人物たちの気持ちの緩さ(ゆるさ)を感じます。弱い。行動力にいまいち勢いがない。
こどもを金づる(労苦を体験せず楽にお金を手に入れる)にする親がいます。役所からもらう手当が目的です。暗くて悲惨なお話です。
なにかしらうわべだけのことで話が進んでいるような気がする142ページ付近に今はいます。
MP3プレーヤー:小型携帯型のデジタル音楽再生機器
「償えない過ち(あやまち)」
若くて未熟な甘えがあります。
若い女子が読む本です。
主人公女子は、まわりに苦しみを与える人間に見えます。
社長の息子からの申し出は、プロポーズではなく、体だけが目的の愛人契約の申し込みだと思う。
いい人なんていない。みんな自分が良ければそれでいいと思っている。人間のもつ「悪」をあぶりだすのが、小説の一面です。
人間は不完全で、不完全な人間がいっぱいいるけれど、すり寄ったり、離れたりしながら折り合いをつけて生きていかなければならない。そうしないと自死が近づいてきます。
この世は誤解と詐欺(さぎ)で成り立っています。
たぶん社長夫婦はお互いにダブル不倫をしているのでしょう。お金の使い道がないのでしょう。
古代ローマ帝国の支配者と奴隷の関係を思い出しました。
社長の息子は、物事を考える基準の置き場所が庶民とは異なります。
睦言(むつごと):男女の寝室での語らい
「届かぬ声の行方(ゆくえ)」
人の名前を呼ぶときに「52」と呼ぶのはどうかと抵抗感を感じます。無機質な感じがします。生きているということが感じられない。命が感じられないということです。(読み終えてわかるのですが、ラストへの伏線でした)
読んでいる途中で、<そういう方向性の小説だったのかと立ち止まりました。そうとは、途中、わかりませんでした>
夢の中の出来事のようです。
「わたしを殺したかったのはわたし」(最近見たEテレのテレビ番組で、池田晶子さんの本『14歳からの哲学』に関する解説がありいろいろ考えました。心には形がないのです。自分の思う空間の中に自分が造る自分だけの気持ちがあるのです。だからめげなくていい。自分で自分を励まして、自信をもって、わたしは今のままのこれでいいと思って生きていけばいいのです)あわせて付記すると、黒柳徹子さんが番組『徹子の部屋』で「わたしは、反省はしません」とおしゃっていたことも思い出しました。
「最果てでの出会い」
会話で物語を引っぱって行くパターンです。
良かった表現として「あれは琴美によく似た生き物だったに違いない」
物語のなかにある提案は、片方が成人しているとはいえ、ふたりとも心はこどもであり、他人同士でのふたりが暮らすのは無理です。「暮らし」というものは、きついものです。
法令の根拠の下(もと)にいないと守られないのが「暮らし」です。
なにかしら、肌にザワリと怖くなってくるものがあります。
諫めて(いさめて):若い方が目上の人に忠告する。
誑かす(たぶらかす):だます。まどわす。
張り子の虎:虎のおもちゃ。意味としては、見かけだけで強くない人とか首を振る癖のある人とか。
憐憫(れんびん):あわれむ。かわいそうと思う。
尚のこと(なおのこと):いっそう(強調)
魂の番:守ってくれる人。作品「精霊の守り人(もりびと)」を思い出しました。
「52ヘルツのクジラたち」
やはり生活を法令の形式におさめます。形だけではなく中身も、ともなっていなければなりません。
だんだん登場人物が増えてきました。
読み終えてみて、ちょっと異世界の話かと思いましたが、いまの中学生から二十代の若い女性たちの心の内には、こういった情景世界が広がっているのだろうと考えました。
子ども食堂:地域住民や自治体が運営している。子どもたちに無料または低価格で食事を提供している。
ダマスク柄:植物、くだもの、花柄などの連続模様
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t143092
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません