2021年03月11日

ともだちは海のにおい 工藤直子 長新太・絵

ともだちは海のにおい 工藤直子 長新太・絵 理論社

 1984年(昭和59年)の作品です。
 章ごとに最初に詩があって、つぎに散文が続きます。詩集のようでもあります。
 人情を感じる詩です。(人情:人のなさけ。人への思いやり)

 散文を読んでいるときに思い出したのは、若い時に体験したサイパン島からグァム島への夜間飛行です。両島の距離が近いので暗い夜の低空飛行でした。海面のさざなみがジェット機の窓から見えました。夜空には、たくさんの星が出ていました。

 海にて、いるかとくじらの出会いがあります。
 「海の地図」という詩を読んでいるときには、江戸時代後半の人物伊能忠敬(いのうただたか)を思い出しました。たしかご本人は73歳で亡くなって三年後の1821年に日本地図が完成でした。明治時代は1868年からです。

 本のお話しのほうは、空想物語です。歌を聴いているようでもあります。
 いるかの家で、いるかはトレーニングに精を出します。
 くじらは本読みが好きで、ときどき小説を書きます。
 くじらは『かなり』本を読みます。いるかは『かなり』訓練を積んでいます。
 いるかは、くじらの口の中にある書斎を見に行きます。
 友情というよりも愛情、友だちというよりも恋人、児童文学というよりも大人向けな感じです。ふたりは、優しい祖父母と孫の関係のようでもある。
 
 海の状態を、とくに海面を、ていねいに観察してある印象です。
 魅力的な文節として「くじらは陸を泳ぎたいと思った」
 これに対しているかが「泳ぐんじゃなくて、あるくんだ」
 くじらはフランスパリ旅行へ出かけました。
 フランス語の単語がいっぱい出てきます。サバ?(元気?とか大丈夫?とか)ムッシュ(男性への敬称)トレビアン(すばらしい)メルシー(ありがとう)ボンジュール(こんにちは)マダム(女性への敬称)
 くじらは、体は大きいけれど女子に思えます。いるかは逆にからだは小さいけれど、男子に思えます。
 文脈が優しい。悪い人は出てこない。(169ページと170ページに、「わるもの」は書けないんだという作者の本音が書いてあります)

 245ページのうちの87ページまで読んできて、ちょっと飽きてきましたが、続けて読んでみます。

 チャコールグレー:黒に近い灰色

 くじらといるか以外に、いかとか、ちょうちょう、ウミガメ、カモメ、が出てきます。
 本の中では、くじらはくじら、いるかはいるかと表現されますが、個体の名前があったほうがいいような。くじらのくーさんとか、いるかのいっちゃんとか。そのほうが、愛情が湧きます。
 
 情景描写の文章が優れています。言葉が輝いています。
 文章にリズム感があります。
 「いいよ。ほいさ」「いくぞ。せえの」「いいよ。ほいさ」
 
 くじらといるかには、親も兄弟姉妹も、もちろんおじいちゃんもおばあちゃんもいません。
 設定では、くじらもいるかも男子ですが、読み手のわたしにはそうは思えません。くじらは女子で、いるかは男子に思えます。
 このあと、それぞれが、お嫁さんを探そうという話になるのですが、三角関係のきざしがあり、読んでいるとなにかしら危機が迫っているような感じがするのです。
 こども向けのお話ですが、ビールを飲みたい話がたびたびでてきて、こどもはアルコールを飲めないのに不思議です。

 海が身近にあって、海が好きな人の本です。

 よかったセリフなどとして、
 「あしたいるところにはな、こほん、あしたつけばいいのじゃよ。」(ウミガメのセリフです。上品な笑いが楽しい)
 「ぼく、泳いだんだ。ながれ星みたいに」
 「彼らは「本という海」のなかで泳いでいるのですが……」

 調べた言葉などとして、
 (サーフィンの)キックターン:うしろ足でボードを押し出す。
 同じく、ノーズライディング:サーフボードの先端に両足で立つ
 ピコット編み:かぎ針編みの基本的な編み方

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