2020年12月07日

びりっかすの神さま 岡田淳

びりっかすの神さま 岡田淳 偕成社文庫

 本のカバーに「路傍の石幼年文学賞(ろぼうのいし)受賞作品」とあるのを見て、そういえば、中学生の時に「路傍の石」を読んでいたことがあると思い浮かべました。もう内容は忘れましたが、少年の成長物語だった記憶です。
 この本は、さきに巻末のほうを見ると、1988年の作品を文庫化してあるとあります。
 小学生向けの本です。

 木下始(きのしたはじめ):転校生。4年1組に転入しました。
 市田先生:担任の先生
 森みゆき:テストの点数が、10点満点で、1点でした。

 木下始は、転校後の教室で、透明なへんなものを見ます。
 体長20センチぐらいで、背中に天使の羽をつけたサラリーマン風の男性が空中を飛んでいます。

 どこかで聞いたような話です。木下始の身の上話です。
 7月のはじめごろ、突然お父さんが病気で亡くなりました。
 母子家庭の暮らしが始まります。似たような体験が本を読み始めた自分にもあります。
 物語のなかで、母親が始に語ります。
 「お父さんはおまえにがんばれという言葉を残して死んでいったけれど、負けず嫌いのお父さんは人に勝つためにがんばって、結局体を壊して死んでしまった。それって、ほんとうにいいことだったのか。わたしはあなたにがんばってほしくない」(1955年ぐらいから20年間ぐらい続いた高度経済成長期の労働を思い出しますが、現在もなお過労死する人はなくなりません)
 印象深い文章として『「だれもいない砂漠を、いっしょうけんめいに、ひとりで走っているお父さんのすがたがうかんだ。お父さんは、走って、走って、とつぜんつんのめってたおれた」おとうさんのことをかわいそうだと思った。』

 そして、お話は、そういうことに反発して、おもしろそうな雰囲気になってきました。

(つづく)

 授業は、算数→図書→体育→理科と続いていきます。
 びりっかすの神さまという存在が木下始以外にも見え始めます。これまでいつもびりだった森みゆきにも見えます。神さまを含めた三人が心の中の言葉で会話ができるようになりました。
 木村始は、神さまにさわれるようになりました。

 びりっかすの神さまは、テストの最低点をとったこどものところに現れます。
 それは、びりっかすの神さま自身の意思ではなく、だれかにそうさせられているようです。
 びりっかすの神さまの姿は、やつれて、元気のないおじさんに見えます。とても神さまには見えません。背中に羽があって飛んでいるから神さまと思えます。(過労死防止の神さまだろうか)

 「遅い」ことは、わるいことだろうか。じっくりやるとどうしても遅くなります。だから早めに始めるということはあります。時間をかけるとたいてい、いいものができあがります。

 癒しの(いやし)の文学です。
 「お母さんは、ぼくにがんばってほしくないっていっているんだ(お父さんは人に負けないようにがんばりすぎて病気で突然亡くなったから)」
 「人に勝つためにだけがんばるのはおかしい」
 
 やりかたは間違っているけれど、心に優しい部分もあります。(カンニング)

 今年読んで良かった一冊です。

 誤解を解くためには、正直に、率直に、会話をすることが大事です。

 ひとりだけでがんばらない。みんなで協力して目標を達成する。そのときには、役割分担をするということもあるのでしょう。

 展開はおもしろい。最初は、0点がびりっかすの点数でしたが、最後は満点がびりっかすの点数になります。
 途中、びりっかすの神さまは何者?という疑問が生まれてきますが、さいごあたりになんとなくの答があります。
 だれかをいじめのターゲットにして、いじめでストレス解消をしてはいけません。不幸が訪れるからです。
 先生が困ってしまいます。先生とこどもの相性が合わないと、こどもも先生もたいへんでしょう。

 良かったフレーズとして、
 一番になるよりも、ともだちができるほうがいい。

 転校してきた子には優しくしてほしい。

 ふりかえってみれば、昔は、生徒たちのテストの成績を成績順で廊下に掲示していた中学校もありました。当時はそれがふつうの感覚でした。競争です。

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