2020年01月30日
累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ) 山本譲司
累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ) 山本譲司 新潮文庫
累犯:るいはん。何度も罪を犯すこと。
「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治著・新潮新書からこの本にきました。
「安住の地は刑務所だった 下関駅放火事件」
2006年、山口県下関駅放火事件から始まります。そういえば、そういうことがありました。死者はなかったそうです。犯人は74歳150センチ台の背たけの小柄な男性で、刑務所を出所して1週間ぐらい、行くところもなく生活できず再び刑務所に入るために放火しました。本人にとっては、シャバ(刑務所外の世界)よりも刑務所の中のほうが快適だという現実があります。
この本は、作者自身が服役者で、それがきっかけでできあがった本でもあります。元国会議員の方です。
精神障害者、知的障害者、認知症老人、聴覚障害者、視覚障害者、肢体不自由者などの服役者のお話です。刑務所が、福祉施設化している。彼らにとって、一番暮らしやすいところとあります。書中にあるとおり、彼らにとって、社会に居場所がありません。幼児期はひどい虐待を受けて、体中に火傷の跡が残っているそうです。むごい。まだこどもだったので、本人の意思表示ができず、福祉施策につなげるルートがありませんでした。親がおかしい。地域力の低下と言われる最近ですが、昔がずばぬけて良かったわけでもありません。
福祉制度にのっかる前に、犯行が始まって、再犯が繰り返される。本人にとって、刑務所が安住の地になってしまう。
読んでいて安全のためにはいろいろとお金がいると思いました。
「第一章 レッサーパンダ帽の男 浅草・女子短大生刺殺事件」
そういうことがありました。2001年4月、レッサーパンダの帽子を着用した男が、19歳の女子短大生を刺殺しました。
読んでいて、加害者本人は、かぶっていたものが、レッサーパンダだと思わずに犬だと思っていたという文節には、がくぜんとさせられました。つまり、それだけの学力しかない人なのです。そこに至るまでの経過が記されています。何度も警察沙汰になっています。福祉、医療面でのサポートがあれば、防げた殺人事件でした。親もまた知的障害者であることが、親が50代後半になって判明するなど、不幸が幾重にも重なっています。
脳の中に、「反省」という概念(意味とか内容)がないようです。また、動機は理解できない「誤解」です。仲良くなりたかったから相手に刃物を向けた。拒否されて、パニックになって、記憶が喪失された。彼には、普通とは、違う世界が見えていた。
調べた言葉などとして、「愁然:しゅうぜん。うれいに沈む」、「囲繞:いにょう。いじょう。まわりを取り囲む」、「カニューレ:心臓、血管、器官に挿入する管(くだ)」、「塒:ねぐら」、「欣々然:きんきんぜん。ひどくよろこぶ」
この本は、今年読んで良かった1冊です。
「第二章 障害者を食い物にする人々 宇都宮・誤認逮捕事件」
かなりショッキングな内容です。食い物にしているのは、知的障害者に無実の罪をかぶせる警察であり、それを容認する検察庁であり、障害年金や生活保護費を横取りする反社会勢力です。本来手を差し伸べるべき福祉は、量の多さと個々の事例の深刻さで疲弊しているようです。
学力が、3歳児から5歳児ぐらい。迎合的な受け答えしかできない。オウム返しが会話のベース。相手に言われるままに誘導されて調書がつくられて母音を押すのでしょう。怖い。
冤罪(えんざい)、無実の罪で服役している障害者がいる。本人は自分の置かれている立場を理解できていない。刑務所が福祉施設化しています。
読んでいると、人民の人民による人民のための政治が、権力者の権力者による権力者のための法律に思えてきます。結局、そのとき一番の権力をもっている人間が法律を自分の都合のいいように解釈して運用します。弱者はつらい。明確な誤りがあっても、権力者は謝罪してくれません。逆に被害者である相手のせいにします。そこの組織では、そういうことができる人間が、仕事ができる人間だと評価されるのでしょう。異常です。
「第三章 生きがいはセックス 売春する知的障害者たち」
ラベリング:評価を定める。
悲惨で、なにも書けません。本を買って読んでください。
「第四章 ある知的障害者の青春 障害者を利用する偽装結婚の実態」
障害者を利用した偽装結婚グループのなかに元警察職員がいます。
気が重くなる内容でした。
「第五章 多重人格という檻(おり) 性的虐待が生む情緒障害者たち」
フラッパー的:おてんば娘
父親に近親相姦された娘の気が狂います。多重人格者になって、自分の心を守ろうとします。父親を教育しなければなりません。母親は止めてくれません。母親も教育しなければなりません。両親とも安定した職の公務員なのにどうかしています。
この事例のパターンは、事が明るみに出ると、両親は離婚、父親は自殺するという経過に至るようです。父親はどうかしている。脳に傷でもあるのではないか。あるいは、人間として大切な脳の部分が欠落している。
結局、娘は、自分でがんばるしかないのか。
「第六章 閉鎖社会の犯罪 浜松・ろうあ者不倫殺人事件」
同じ聾学校を卒業した障害者集団の仲間内で起った殺人事件です。加害者の男が、不倫をばらすぞと脅してきた不倫相手の女性を殺します。障害者でも犯罪をおかす人はいます。殺人小説を読むような感じですが、事実が元になっています。
咫尺の間(しせきのかん):距離が近い。
放恣:ほうし。きままでだらしがない。
面罵:めんば。面と向かってののしる。
日本式の手話の教科書での手話は、生まれながらの聴覚障害者には通じないというのは新鮮な情報でした。手話は、日本語ではないそうです。「手話語」という外国語のようなものだそうです。
殺さなくてもいい殺人事件でした。
携帯メールの普及が、ろうあ者の生活を良い方向へと一変させたという記事も新鮮でした。
「第七章 ろうあ者暴力団 「仲間」を狙いうちする障害者たち」
世も末。これが実態。障害者に就職先、生きがいを確保しないといけないという気になりました。されど、障害者枠で役所に職を得たけれど、現場では、おいてきぼりにされた、ほおっておかれたという優秀な聴覚障害者の感想があります。
障害児に対する学校教育は、ポーズだけで、学力的には9歳程度までの内容しか教えることができないとあります。聞こえないことによる限界があるようです。
手話による脅迫があります。怖さを実感できないのですが、そうとうしつこい。
敷衍:ふえん。言い換えて詳しく説明する。
聴者:生来の聴覚障害者ではない人のする手話
テレビやステージ横でやっている手話は、生来のろうあ者には通じていないようです。彼らには彼ら仲間同士で通じる手話語があるという記事内容です。耳が聞こえる人の手話と生まれながらに聞こえない人の手話は異なるそうです。よって、裁判の時の手話通訳者の手話も通じていない。世の中は、聞こえる人たちの自己満足で成立しています。
人と人とがわかりあうということは、むずかしいと感じる内容でした。
この事件の犯人は、刑務所を出所したら自分のこどもと遊ぶことを楽しみにしていますが、彼は殺人事件の犯人です。こどもにとっては、刑務所に入った親とは縁を切ることがこどもの幸せです。離婚届が刑務所に送られてきました。
「終章 行きつく先はどこに 福祉・刑務所・裁判所の問題点」
「孤独」があります。心に闇をかかえた人がたくさんいます。個人ではなく、家族単位で闇をかかえています。
著者は、大きなものに挑戦しています。なかなか変えられないものです。
服役者の言葉「ここが一番暮らしやすい」は、塀の外が彼らにとっては刑務所のようなものという表現です。刑務所の外は、自分が差別される地獄です。
文庫版あとがきは、力が入りすぎていて、あまりにも文字数が多かったので読みませんでした。本文で十分趣旨は伝わってきました。
数値的なものは、機械的な感じがして、読んでいても楽しくありませんでした。
本の後半に犯罪を扱った何冊かの本の広告があり、こういう分野があったのかと知りました。
*本の最終近くまで読んできて思ったことがあります。ひとつは、知的障害者や聴覚障害者でなくても、専門用語が飛びかう裁判や警察の取り調べで、自分の意志表現が下手な人間は、無実なのに罪を押し付けられることがあるのではないか。もうひとつは、判断は、裁判所、検察庁、警察署の職員次第になってしまうのではないか。相当強い志をもっていないと、彼らにとっては、毎月給料がもらえれば、それでいいということになり、相手が、有罪だろうが無罪だろうがかまわないというところまで、意識が至ってしまうということです。行政組織が悪い方向で、集団でグル(仲間)になったら、弱者はなかなか勝てません。
今年読んで良かった1冊でした。タイトルの「累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ)」をすんなり読めず、意味もとりにくいことから、別のタイトルにすれば良かったのにという感想をもったことを付け足しておきます。
累犯:るいはん。何度も罪を犯すこと。
「ケーキの切れない非行少年たち」宮口幸治著・新潮新書からこの本にきました。
「安住の地は刑務所だった 下関駅放火事件」
2006年、山口県下関駅放火事件から始まります。そういえば、そういうことがありました。死者はなかったそうです。犯人は74歳150センチ台の背たけの小柄な男性で、刑務所を出所して1週間ぐらい、行くところもなく生活できず再び刑務所に入るために放火しました。本人にとっては、シャバ(刑務所外の世界)よりも刑務所の中のほうが快適だという現実があります。
この本は、作者自身が服役者で、それがきっかけでできあがった本でもあります。元国会議員の方です。
精神障害者、知的障害者、認知症老人、聴覚障害者、視覚障害者、肢体不自由者などの服役者のお話です。刑務所が、福祉施設化している。彼らにとって、一番暮らしやすいところとあります。書中にあるとおり、彼らにとって、社会に居場所がありません。幼児期はひどい虐待を受けて、体中に火傷の跡が残っているそうです。むごい。まだこどもだったので、本人の意思表示ができず、福祉施策につなげるルートがありませんでした。親がおかしい。地域力の低下と言われる最近ですが、昔がずばぬけて良かったわけでもありません。
福祉制度にのっかる前に、犯行が始まって、再犯が繰り返される。本人にとって、刑務所が安住の地になってしまう。
読んでいて安全のためにはいろいろとお金がいると思いました。
「第一章 レッサーパンダ帽の男 浅草・女子短大生刺殺事件」
そういうことがありました。2001年4月、レッサーパンダの帽子を着用した男が、19歳の女子短大生を刺殺しました。
読んでいて、加害者本人は、かぶっていたものが、レッサーパンダだと思わずに犬だと思っていたという文節には、がくぜんとさせられました。つまり、それだけの学力しかない人なのです。そこに至るまでの経過が記されています。何度も警察沙汰になっています。福祉、医療面でのサポートがあれば、防げた殺人事件でした。親もまた知的障害者であることが、親が50代後半になって判明するなど、不幸が幾重にも重なっています。
脳の中に、「反省」という概念(意味とか内容)がないようです。また、動機は理解できない「誤解」です。仲良くなりたかったから相手に刃物を向けた。拒否されて、パニックになって、記憶が喪失された。彼には、普通とは、違う世界が見えていた。
調べた言葉などとして、「愁然:しゅうぜん。うれいに沈む」、「囲繞:いにょう。いじょう。まわりを取り囲む」、「カニューレ:心臓、血管、器官に挿入する管(くだ)」、「塒:ねぐら」、「欣々然:きんきんぜん。ひどくよろこぶ」
この本は、今年読んで良かった1冊です。
「第二章 障害者を食い物にする人々 宇都宮・誤認逮捕事件」
かなりショッキングな内容です。食い物にしているのは、知的障害者に無実の罪をかぶせる警察であり、それを容認する検察庁であり、障害年金や生活保護費を横取りする反社会勢力です。本来手を差し伸べるべき福祉は、量の多さと個々の事例の深刻さで疲弊しているようです。
学力が、3歳児から5歳児ぐらい。迎合的な受け答えしかできない。オウム返しが会話のベース。相手に言われるままに誘導されて調書がつくられて母音を押すのでしょう。怖い。
冤罪(えんざい)、無実の罪で服役している障害者がいる。本人は自分の置かれている立場を理解できていない。刑務所が福祉施設化しています。
読んでいると、人民の人民による人民のための政治が、権力者の権力者による権力者のための法律に思えてきます。結局、そのとき一番の権力をもっている人間が法律を自分の都合のいいように解釈して運用します。弱者はつらい。明確な誤りがあっても、権力者は謝罪してくれません。逆に被害者である相手のせいにします。そこの組織では、そういうことができる人間が、仕事ができる人間だと評価されるのでしょう。異常です。
「第三章 生きがいはセックス 売春する知的障害者たち」
ラベリング:評価を定める。
悲惨で、なにも書けません。本を買って読んでください。
「第四章 ある知的障害者の青春 障害者を利用する偽装結婚の実態」
障害者を利用した偽装結婚グループのなかに元警察職員がいます。
気が重くなる内容でした。
「第五章 多重人格という檻(おり) 性的虐待が生む情緒障害者たち」
フラッパー的:おてんば娘
父親に近親相姦された娘の気が狂います。多重人格者になって、自分の心を守ろうとします。父親を教育しなければなりません。母親は止めてくれません。母親も教育しなければなりません。両親とも安定した職の公務員なのにどうかしています。
この事例のパターンは、事が明るみに出ると、両親は離婚、父親は自殺するという経過に至るようです。父親はどうかしている。脳に傷でもあるのではないか。あるいは、人間として大切な脳の部分が欠落している。
結局、娘は、自分でがんばるしかないのか。
「第六章 閉鎖社会の犯罪 浜松・ろうあ者不倫殺人事件」
同じ聾学校を卒業した障害者集団の仲間内で起った殺人事件です。加害者の男が、不倫をばらすぞと脅してきた不倫相手の女性を殺します。障害者でも犯罪をおかす人はいます。殺人小説を読むような感じですが、事実が元になっています。
咫尺の間(しせきのかん):距離が近い。
放恣:ほうし。きままでだらしがない。
面罵:めんば。面と向かってののしる。
日本式の手話の教科書での手話は、生まれながらの聴覚障害者には通じないというのは新鮮な情報でした。手話は、日本語ではないそうです。「手話語」という外国語のようなものだそうです。
殺さなくてもいい殺人事件でした。
携帯メールの普及が、ろうあ者の生活を良い方向へと一変させたという記事も新鮮でした。
「第七章 ろうあ者暴力団 「仲間」を狙いうちする障害者たち」
世も末。これが実態。障害者に就職先、生きがいを確保しないといけないという気になりました。されど、障害者枠で役所に職を得たけれど、現場では、おいてきぼりにされた、ほおっておかれたという優秀な聴覚障害者の感想があります。
障害児に対する学校教育は、ポーズだけで、学力的には9歳程度までの内容しか教えることができないとあります。聞こえないことによる限界があるようです。
手話による脅迫があります。怖さを実感できないのですが、そうとうしつこい。
敷衍:ふえん。言い換えて詳しく説明する。
聴者:生来の聴覚障害者ではない人のする手話
テレビやステージ横でやっている手話は、生来のろうあ者には通じていないようです。彼らには彼ら仲間同士で通じる手話語があるという記事内容です。耳が聞こえる人の手話と生まれながらに聞こえない人の手話は異なるそうです。よって、裁判の時の手話通訳者の手話も通じていない。世の中は、聞こえる人たちの自己満足で成立しています。
人と人とがわかりあうということは、むずかしいと感じる内容でした。
この事件の犯人は、刑務所を出所したら自分のこどもと遊ぶことを楽しみにしていますが、彼は殺人事件の犯人です。こどもにとっては、刑務所に入った親とは縁を切ることがこどもの幸せです。離婚届が刑務所に送られてきました。
「終章 行きつく先はどこに 福祉・刑務所・裁判所の問題点」
「孤独」があります。心に闇をかかえた人がたくさんいます。個人ではなく、家族単位で闇をかかえています。
著者は、大きなものに挑戦しています。なかなか変えられないものです。
服役者の言葉「ここが一番暮らしやすい」は、塀の外が彼らにとっては刑務所のようなものという表現です。刑務所の外は、自分が差別される地獄です。
文庫版あとがきは、力が入りすぎていて、あまりにも文字数が多かったので読みませんでした。本文で十分趣旨は伝わってきました。
数値的なものは、機械的な感じがして、読んでいても楽しくありませんでした。
本の後半に犯罪を扱った何冊かの本の広告があり、こういう分野があったのかと知りました。
*本の最終近くまで読んできて思ったことがあります。ひとつは、知的障害者や聴覚障害者でなくても、専門用語が飛びかう裁判や警察の取り調べで、自分の意志表現が下手な人間は、無実なのに罪を押し付けられることがあるのではないか。もうひとつは、判断は、裁判所、検察庁、警察署の職員次第になってしまうのではないか。相当強い志をもっていないと、彼らにとっては、毎月給料がもらえれば、それでいいということになり、相手が、有罪だろうが無罪だろうがかまわないというところまで、意識が至ってしまうということです。行政組織が悪い方向で、集団でグル(仲間)になったら、弱者はなかなか勝てません。
今年読んで良かった1冊でした。タイトルの「累犯障害者(るいはんしょうがいしゃ)」をすんなり読めず、意味もとりにくいことから、別のタイトルにすれば良かったのにという感想をもったことを付け足しておきます。
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