2019年12月02日
きみはいい子 邦画DVD
きみはいい子 邦画DVD 2015年公開
小説は読んだことがあります。母親が幼児を集合住宅の密室で虐待する内容でした。
映像は、終始暗い雰囲気ですすんでいきます。観ているほうの気持ちも沈みます。
家庭環境に恵まれない子どもばかりです。こどものために歯を食いしばって戦ってくれるおとながいない。児童相談所も頼りない。学校も事なかれ主義の人ばかり。こどもが逃げ込む場所がいります。
そのうち、子どもは闘うことを覚えます。そして、親はこどもに負けるときがきます。子どもは学校を卒業すると家を合法的に出て行きます。
荒れた教室の映像を観ていると、とりあえず、(子どもたちが)生きていればいいという気持ちになります。
後半に近づくに従って、じーんと感動の波が近づいてきます。
映画を観たなーという気分に浸れました。今年観て良かった1本です。
ちっちゃな子どもが、「がんばって」とおとなの背中をとんとんしてくれる。
母親の役目は、子どもに優しくすること。優しくすれば、子どもも優しい子になれる。
クライマックスのシーン、宿題として、家族に抱きしめられてくることの報告会が良かった。ハグの体験を、ひとりひとりから聞く。小学4年生の設定でした。
近所のおばあさんの言葉が尊い。自分にはこどもができなかった。こどもを預かると、「すぐに迎えに来ますから」と言われる。すぐに来なくていいのに。
こどもの頃に虐待を受けていた母親が、同じようにこどものときに虐待を受けていて、いまは自分の娘を虐待している別の母親の虐待行為を止めます。ふたりとも、こどものときは、虐待の被害者です。虐待することを止められて、ほっと安心した母親が言います。「こんなに(人から)ほめられたのは初めて。どこにいっても謝ってばかりだった」
暗くなっていた気持ちに勇気を与えてくれる映画でした。
映像で、大きな窓から見える山の斜面に並ぶ家々の風景が温かい。「きみはいい子」というタイトルは、こどものときに虐待を受けて、気持ちがゆがんで、自分が産んだこどもに虐待行為をするようになった母親に送る励ましのメッセージなのです。きみはいい子だから、もうわが子を虐待するのはやめようねという優しいメッセージなのです。
読書感想文 2013年2月23日 きみはいい子 中脇初枝 ポプラ社
本屋大賞候補作10作品目の読書です。
読み始めはなんとも暗い気持ちになりました。「きみはいい子」-「ぼくは悪い子」-だからママはぼくを叩く。児童虐待が素材のお話でした。頼るべき親から暴力をふるわれるかよわき女児・男児の暮らしぶりです。自分も親から虐待されていたから自分も自分の子どもを虐待するというあきらめを肯定する心の弱い親たちには、怒りをとおりこして、どうしてという疑問にかられ、だからといって、どうもしてあげられない無力感にさいなまれました。
舞台は横浜の近くの最近宅地造成が進められた「烏ヶ谷(うがや)」、新興住宅地という設定です。冒頭付近ではそこに住む人たちを「寄せ集めの住人たち」と称しています。街に歴史がありません。人につながりがありません。これからです。これからですが、先行きは明るくありません。5編の短編に関連性があります。
「サンタさんの来ない家」悲しくなってくる物語です。教師になりたての男性岡野匡(ただし)が気の毒です。親も親なら子どもも子どもです。現実と重なる部分もあり残念な気持ちになります。いじめを始めとした昔からある学校での陰湿な事例・事情の数々です。「学校」という、人生の一時的な通過点の場所であることが救いです。学校に通っているときは学校生活がすべてでした。卒業して学校から徐々に遠ざかり社会人の生活を送っていった当時をふりかえると、「学校」は、狭苦しい一時的な滞在地であったことに気づきます。
岡野先生に対しては、試行錯誤を繰り返して自らの教育スタイルを構築していく。読んでいると、ときには信仰の力も必要だと感じました。
「べっぴんさん」団地の砂場にデビューするママと幼子(おさなご)たちのやりとりです。ママ同志は、砂場では仲良しごっこを演じる。遊びが終わって、自宅のドアを開けて室内に入ると、ママは幼児に、叩く蹴るの暴力を行使する。人間心理の表と裏が描写されています。
ママたちが「おしゃれ」に憩いを求めるのは、男性にはあまりない発想でした。それで、楽しんでなごめるのならいい。親から虐待されたから自分も虐待するようになったという連鎖の肯定には賛同、そして共感いたしかねます。乳幼児は欲望の固まりであり、自らで自制する能力をもちません。書中にあるほど、人前で気を使う必要はありません。こどもをちやほやする必要もありません。こどもはこどもです。
読んでいると最終的には夫である男が悪いのだろうなあ。前の短編もこれもオチがオチになっていないので、救われない暗い気持ちにひたりました。
「うそつき」土地家屋調査士の父親の語りです。物語に登場する相談相手は隣家と境界線でもめています。
「こんにちは、さようなら」唄を読んでいるようです。この地でながらく暮らす80代ひとり暮らし女性と家の前を通学するこどもとのやりとりです。女性は認知症のなりかかり。子どもは障害をもつ子です。歳(とし)をとることは忘れていくこと。苦しかったことや悲しかったことも忘れて、今はしあわせ。
「うばすてやま」ポプラ社らしい本です。これまでに読んだ同社の本と傾向が似ています。人間心理の裏面とか、暗い部分に光をあてようとする姿勢がうかがえます。幼い頃、母に虐待されたのに、認知症になった母の介護をしなければならなくなった。受容が表現されています。そこまで、耐えなければならないとは思えません。そこまで譲歩するのは、人として苦しい。マゾヒズムです。(肉体的・精神的苦痛が快感)
最後まで読み終えて、再び1ページに戻って、人物相関図をつくり始めました。
神奈川県烏ヶ谷(うがや)は新興住宅地で、各地からの転入者で町が形成され始めました。当然リーダーはいません。だれもが社長気分です。最初は互いに気を使いますが、そのうち本性が表れます。住民に上下関係はありません。対立しても調整役はいません。声の大きな人間、力の強い人間の意見が通っていきます。その陰で、弱者は泣きます。こんな町、出て行こうと決心します。
やんちゃなこどもたちは片方の親がいなかったり、継母、内夫であったりします。かれらは、家で疎外(そがい、放置)されて、学校で弱者を標的にしていじめぬきます。教師や住民は、自分たちの対応のほうが悪いと考えて相手の言い分を通す方向で対応します。どう感想を表現していいのか迷うのですが、これは、作者からの問題提起ととらえます。
平易な文章で書かれ短時間で読み終えることができる本です。しかし、奥行きは深い。読了後も数日間、内容について考えにふけっています。結局、自分のことは自分でやる。親を頼らない。きちんと育ててくれない親は捨てる。あきらめて、自分は自分で自分が望む家族をつくる。生きづらい時代です。こどもも親も冷めている。ほかの人の心を傷つけている人は、その人自身もほかの人から傷つけられている。
小説は読んだことがあります。母親が幼児を集合住宅の密室で虐待する内容でした。
映像は、終始暗い雰囲気ですすんでいきます。観ているほうの気持ちも沈みます。
家庭環境に恵まれない子どもばかりです。こどものために歯を食いしばって戦ってくれるおとながいない。児童相談所も頼りない。学校も事なかれ主義の人ばかり。こどもが逃げ込む場所がいります。
そのうち、子どもは闘うことを覚えます。そして、親はこどもに負けるときがきます。子どもは学校を卒業すると家を合法的に出て行きます。
荒れた教室の映像を観ていると、とりあえず、(子どもたちが)生きていればいいという気持ちになります。
後半に近づくに従って、じーんと感動の波が近づいてきます。
映画を観たなーという気分に浸れました。今年観て良かった1本です。
ちっちゃな子どもが、「がんばって」とおとなの背中をとんとんしてくれる。
母親の役目は、子どもに優しくすること。優しくすれば、子どもも優しい子になれる。
クライマックスのシーン、宿題として、家族に抱きしめられてくることの報告会が良かった。ハグの体験を、ひとりひとりから聞く。小学4年生の設定でした。
近所のおばあさんの言葉が尊い。自分にはこどもができなかった。こどもを預かると、「すぐに迎えに来ますから」と言われる。すぐに来なくていいのに。
こどもの頃に虐待を受けていた母親が、同じようにこどものときに虐待を受けていて、いまは自分の娘を虐待している別の母親の虐待行為を止めます。ふたりとも、こどものときは、虐待の被害者です。虐待することを止められて、ほっと安心した母親が言います。「こんなに(人から)ほめられたのは初めて。どこにいっても謝ってばかりだった」
暗くなっていた気持ちに勇気を与えてくれる映画でした。
映像で、大きな窓から見える山の斜面に並ぶ家々の風景が温かい。「きみはいい子」というタイトルは、こどものときに虐待を受けて、気持ちがゆがんで、自分が産んだこどもに虐待行為をするようになった母親に送る励ましのメッセージなのです。きみはいい子だから、もうわが子を虐待するのはやめようねという優しいメッセージなのです。
読書感想文 2013年2月23日 きみはいい子 中脇初枝 ポプラ社
本屋大賞候補作10作品目の読書です。
読み始めはなんとも暗い気持ちになりました。「きみはいい子」-「ぼくは悪い子」-だからママはぼくを叩く。児童虐待が素材のお話でした。頼るべき親から暴力をふるわれるかよわき女児・男児の暮らしぶりです。自分も親から虐待されていたから自分も自分の子どもを虐待するというあきらめを肯定する心の弱い親たちには、怒りをとおりこして、どうしてという疑問にかられ、だからといって、どうもしてあげられない無力感にさいなまれました。
舞台は横浜の近くの最近宅地造成が進められた「烏ヶ谷(うがや)」、新興住宅地という設定です。冒頭付近ではそこに住む人たちを「寄せ集めの住人たち」と称しています。街に歴史がありません。人につながりがありません。これからです。これからですが、先行きは明るくありません。5編の短編に関連性があります。
「サンタさんの来ない家」悲しくなってくる物語です。教師になりたての男性岡野匡(ただし)が気の毒です。親も親なら子どもも子どもです。現実と重なる部分もあり残念な気持ちになります。いじめを始めとした昔からある学校での陰湿な事例・事情の数々です。「学校」という、人生の一時的な通過点の場所であることが救いです。学校に通っているときは学校生活がすべてでした。卒業して学校から徐々に遠ざかり社会人の生活を送っていった当時をふりかえると、「学校」は、狭苦しい一時的な滞在地であったことに気づきます。
岡野先生に対しては、試行錯誤を繰り返して自らの教育スタイルを構築していく。読んでいると、ときには信仰の力も必要だと感じました。
「べっぴんさん」団地の砂場にデビューするママと幼子(おさなご)たちのやりとりです。ママ同志は、砂場では仲良しごっこを演じる。遊びが終わって、自宅のドアを開けて室内に入ると、ママは幼児に、叩く蹴るの暴力を行使する。人間心理の表と裏が描写されています。
ママたちが「おしゃれ」に憩いを求めるのは、男性にはあまりない発想でした。それで、楽しんでなごめるのならいい。親から虐待されたから自分も虐待するようになったという連鎖の肯定には賛同、そして共感いたしかねます。乳幼児は欲望の固まりであり、自らで自制する能力をもちません。書中にあるほど、人前で気を使う必要はありません。こどもをちやほやする必要もありません。こどもはこどもです。
読んでいると最終的には夫である男が悪いのだろうなあ。前の短編もこれもオチがオチになっていないので、救われない暗い気持ちにひたりました。
「うそつき」土地家屋調査士の父親の語りです。物語に登場する相談相手は隣家と境界線でもめています。
「こんにちは、さようなら」唄を読んでいるようです。この地でながらく暮らす80代ひとり暮らし女性と家の前を通学するこどもとのやりとりです。女性は認知症のなりかかり。子どもは障害をもつ子です。歳(とし)をとることは忘れていくこと。苦しかったことや悲しかったことも忘れて、今はしあわせ。
「うばすてやま」ポプラ社らしい本です。これまでに読んだ同社の本と傾向が似ています。人間心理の裏面とか、暗い部分に光をあてようとする姿勢がうかがえます。幼い頃、母に虐待されたのに、認知症になった母の介護をしなければならなくなった。受容が表現されています。そこまで、耐えなければならないとは思えません。そこまで譲歩するのは、人として苦しい。マゾヒズムです。(肉体的・精神的苦痛が快感)
最後まで読み終えて、再び1ページに戻って、人物相関図をつくり始めました。
神奈川県烏ヶ谷(うがや)は新興住宅地で、各地からの転入者で町が形成され始めました。当然リーダーはいません。だれもが社長気分です。最初は互いに気を使いますが、そのうち本性が表れます。住民に上下関係はありません。対立しても調整役はいません。声の大きな人間、力の強い人間の意見が通っていきます。その陰で、弱者は泣きます。こんな町、出て行こうと決心します。
やんちゃなこどもたちは片方の親がいなかったり、継母、内夫であったりします。かれらは、家で疎外(そがい、放置)されて、学校で弱者を標的にしていじめぬきます。教師や住民は、自分たちの対応のほうが悪いと考えて相手の言い分を通す方向で対応します。どう感想を表現していいのか迷うのですが、これは、作者からの問題提起ととらえます。
平易な文章で書かれ短時間で読み終えることができる本です。しかし、奥行きは深い。読了後も数日間、内容について考えにふけっています。結局、自分のことは自分でやる。親を頼らない。きちんと育ててくれない親は捨てる。あきらめて、自分は自分で自分が望む家族をつくる。生きづらい時代です。こどもも親も冷めている。ほかの人の心を傷つけている人は、その人自身もほかの人から傷つけられている。
この記事へのトラックバックURL
http://kumataro.mediacat-blog.jp/t137143
※このエントリーではブログ管理者の設定により、ブログ管理者に承認されるまでコメントは反映されません